アグストリアからこの精霊の森までの道中で、ディアドラの記憶は徐々に蘇っていた。
突然に記憶の全てが戻ったわけではなく、何かの拍子に──過去に来たことのある場所に至ったときなどに、そこに関する記憶が、断片的に脳裏に浮かぶ。
あの誘拐されたときの記憶のように、戻った際に大きな衝撃を受けた様子を見せなかったから、はた目には分からなかったことだろう。だが、彼女が道中で思い悩む様子を見せたときには、ディアドラは突然に蘇った記憶に思いをはせていたのだ。
思い出の地を、実際の過去の道程とは逆に訪ね歩いたためか、その一つ一つはまるでパズルのピースのようにバラバラだった。だから、ときに混乱することもあった。
それが今日、精霊の森に入ったとき、記憶が完全に回復したのだ。
断片的であった記憶が、生まれ育った地に来たことで──彼女の最も古い記憶の地に来たことで、一本の線のように繋がった。
結果、記憶のピースの欠けていた部分も含めて、彼女は全てを思い出したのである。
特にシグルドと出会ってからのことは、十年以上も昔の記憶であるのに──長く封じられていたせいなのか、色褪せることもなく、まるでつい昨日のことであるかのように、細部に至るまで鮮明に思い出すことができていた。
「シグルド様……、私、わたし……ずっと貴方に謝りたかった。私は、貴方にとても酷いことをしてしまった……。貴方を苦しめてしまった……。
ごめんなさい……本当にごめんなさい、シグルド様……」
堰を切ったように、ディアドラの口から言葉が溢れる。
嬉し涙が、再び憂いの涙に変わる。
「私……永遠に貴方を愛し続けると……そう誓ったのに……。それなのに、私……貴方のことを忘れて……」
「それはきみの罪ではないよ、ディアドラ」
泣き続ける妻の髪を撫でながら、優しい口調でシグルドが言った。
「きみのせいではない……。エーディンも言っていたが、きみも被害者なんだ。全ての罪は、ロプト教団に……マンフロイにある。きみが、自分を責めることはないんだ」
しかしそのシグルドの言葉でも、ディアドラの涙が消えることはない。
理屈ではなく、感情の問題なのだ。
例えどのような優しい言葉をかけられようと、彼女は自分自身が許せない。許すことができない。
かつてディアドラ自身の罪の意識が作りだしたシグルドの亡霊は、
「決して許さない」
と、彼女に言った。あれは、ディアドラが自分自身に対して投げつけた言葉だったのである。
シグルドの死の悲しみは癒えたが、自分が彼にしてしまったことだけは、彼女はどうしても許すことができない。
ただひたすらに謝罪の言葉を呟いて泣き続けるディアドラの顔を見て、シグルドが言った。
「もう、泣かないでくれ、ディアドラ。私は……きみの泣き顔を見たくはないんだ。きみが悲しみ、自分自身を責める姿を見たくはないんだ。
だから──」
──自分はいま、ここにいるのだ。
そう、シグルドは言った。
彼は、あのバーハラの地で死ななかったわけではない。
厳密に言えば、いまのシグルドは死人とも言えるのかも知れないという。
一度死した後に、復活したのだ。
あのとき、バーハラの野でアルヴィスに焼き殺された後、シグルドの魂は、死後の世界へと送られた。
そのときのことを、シグルドは正直に言ってよく覚えてはいないという。
ただ、なんだか暖かいものに包まれて天上に昇っていったような記憶はあったらしい。そこで何か──あるいは誰かと言葉を交わしたような気もするが、何を話したかはわからない。
「死後の世界での出来事は、現世ではうまく思い出すことができないようだね」
ただ、天に昇りかけた自分の魂が、何者かに引っ張られるように、突然に下界へと降りていったときの感覚は、よく覚えているそうだ。
その時に浮かんだ光景も、はっきりと記憶している。
杖を高く掲げあげたクロード神父の姿が、彼の脳裏には見えていたという。
クロードは、死者を蘇らせる力を持つというバルキリーの杖を、シグルドに対して使ってくれたのだ。
「だが、祈りを捧げるクロード神父の体は、足下から徐々に石化していた……」
最初はバルキリーの杖を使った代償かとも思ったが、そうではないようだった。
クロードの行動に懸念を感じた暗黒神官の一人が、彼に石化の魔術を浴びせかけたのだ。
魂はなんとか下界に引き戻されたシグルドだったが、彼の体はアルヴィスによって灰になるまで燃やし尽くされている。戻るべき体が、そこになかった。
本来であれば、そのような場合には体の再生が始まり、そうして復活した肉体に魂が入るのであろう。
だが、そうなる前にクロードのほうが完全に石化してしまった。バルキリーの杖の力は、その効果が完了する前に発動が中断されてしまったのだ。
肉体の再生はかなわず、シグルドは、魂だけの状態でこの世に舞い戻ってしまったわけである。
文字通り霊魂と呼べる存在になった彼は、しばらくそのまま戦いの終わったバーハラの野を漂っていたという。
虚しく散っていた仲間たちを──その亡骸を粗雑に扱うバーハラ軍の行為に憤り、自身を慕って集まってくれた仲間たちを死なせてしまった後悔の念に苦しみ、彼らの死を悼んで、そして悲しみにくれた後、最後にシグルドが想ったのは、愛しき妻のことだった。
どうしたことか、このとき彼はすでに、ディアドラが記憶を失っているのだと薄々理解していた。
「たぶん、死んだ直後に──あの暖かいものに包まれている間に、きみのことを考えたのか、誰かに教えてもらったかしたのだろうと、思うんだけどね」
シグルドは、バーハラの野から都の中へと入り、ディアドラの姿を探した。
そして宮殿のとある部屋で、目に涙を浮かべながら眠るディアドラの姿を見つけた瞬間、シグルドの魂は、彼女の額にあるサークレットに引き寄せられたのである。
それは、ディアドラとの結婚に際して、指輪の代わりにシグルドが贈ったものだった。二人の、絆の証である。
まるで失った肉体の代わりであるかのように、シグルドの霊魂はサークレットに宿り、そして定着した。
彼女のサークレットは、ディアドラの額にあるナーガの聖痕に密着している。そこから、神竜王ナーガの力が自分に流れ込んでくるのをシグルドは感じたという。
亡霊とも呼べる存在になった彼は、いわばディアドラの守護霊として復活することになったのだ。
そしてあのとき──ディアドラがロプトウスに乗っ取られたユリウスに殺されそうになったとき、シグルドの魂は彼女を守るため、形を持った英霊として顕現した。
意識を失う間際にディアドラが見た騎士の背中は、ナーガの力を得たシグルドの姿であった。
「……私は、ずっときみの傍にいた。これからも、ずっときみの傍にいる。だから、もう泣かないでくれ、ディアドラ……」
言って、シグルドがディアドラを強く抱きしめた。
ディアドラの涙に濡れる頬が、シグルドの胸に押しつけられる。彼女は、死霊となった夫の大いなる愛を実感していた。
「シグルド様……」
おずおずとディアドラの手が伸ばされ、シグルドの頬に触れた。
懐かしい夫の顔を、そのぬくもりを感じながらディアドラは言った。
「本当に……生き返ったのですね……」
だが、その彼女の言葉を聞いたシグルドの顔に影が差した。
「それは……分からない。本当に生き返ったと言えるのかどうか──
どうして肉体を得たのか、私自身にも分からないんだ」
ロプトウスを一刀のもとに斬り倒したシグルドは、その後またディアドラの額のサークレットに戻るのだと思っていた。
彼は亡霊であり、実体など持たぬ存在のはずなのだから──
ところが、ロプトウスが消えた次の瞬間、
「気づけば、バーハラの野に立っていたんだ……」
彼が死んだ、あの場所である。
近くにユリアが倒れており、レヴィンがその介抱をしていた。
戸惑うシグルドに気づいたレヴィンは、一瞬驚いたような表情をした後、何かを得心したような顔で頷き、彼とユリアを近くの旅籠に案内してくれた。
このときのシグルドは知らなかったが、ディアドラの守護霊として顕現したシグルドがロプトウスを滅ぼしたことで、この世界から暗黒神の力が消滅したのだ。
ディアドラの記憶の想起を阻むマンフロイの術も消えたが、同じように、かつてバルキリーの杖の力を行使する途上でクロードが受けた石化の術も消滅していた。
クロードの石像は、他の多くの光の勇者たちの石像とともに、ロプト教団の地下にある秘密神殿に晒し者のように置かれていた。
ロプトウスが消滅したことで石化が解けた彼らは、互いに助け合って秘密神殿を脱出することになるのだが、このときクロードが石化から復活したことで、中断されていたバルキリーの杖の力が、その発動を再開していたのだ。
灰となって風に飛ばされていたシグルドの肉体が集まり、その再生を開始したのである。
そして肉体の再生が終わった時、シグルドの魂はディアドラのサークレットから自身の肉体へと戻った。
ただ、ナーガの力の片鱗を得た影響なのか、ディアドラの守護霊としての性質はまだ彼には残されていた。離れていても、サークレットを通じてディアドラの様子を知ることができた。
彼女が自死を試みたとき、額のサークレットを通してそれを止めたのはシグルドだ。サークレットに締めつけられるようなひどい頭痛は、シグルドが送った力だったのである。
ディアドラたちが宮殿を出奔した夜、シグムンドが突然に彼女の傍に現れたのも守護霊の力だ。おそらくはワープの杖と同じような力で、いつでもどこからでも、ディアドラの傍であれば彼は行くことができる。
彼女の危機に、駆けつけることができるのだ。
ディアドラの守護霊としての力を保ちつつ、肉体の復活も果たしたシグルドだったが、ただ、しばらくの間は、彼の記憶は少し混乱していたという。
シグルドの肉体は──その記憶を司る脳髄は、十年前のままだ。魂のときに得たディアドラの守護霊としての記憶が定着するまでに、しばらくの時間がかかった。
久しぶりに得た肉体も、シグルドはその動かし方を忘れかけていた。
ユリアと共にレヴィンに保護された彼は、以前と同じように動けるようになるまで──そして一緒にいる少女が誰なのかを理解するまで、半年ほどの時間がかかってしまったのだ。
そしてようやく彼は、包帯で顔を隠し、シグムンドと名乗ってバーハラ宮殿にユリアを連れて行くことになる。
「あのとき見せて下さった包帯の下の火傷は……変装だったのですか……」
ディアドラは言った。
まさかシグルドとしての素顔で、アルヴィスの前に出るわけにも行くまい。包帯で顔を隠す理由が必要なのである。
「まるで本物のような、あの火傷の
「本物だよ……」
少し寂しそうに、シグルドが言った。
肉体を取り戻しはしたが、彼にはディアドラの守護霊としての性質も残されている。守護霊とは、すなわち亡霊の一種である。
彼に限らず、亡霊は二つの姿を取ることができた。
生前の姿と、そしてもう一つ──命を失った瞬間の姿だ。
むしろ、亡霊としての本来の姿は後者なのであろう。ただ、死に様によってはそれでは支障が出るから、霊力を使って生前の姿に擬態するのだ。
その言葉に、ディアドラは息を呑んだ。
あのときはちらりと垣間見えただけだったが、それでも包帯の下の顔は、それは無惨なものだった。あのアルヴィスですら、思わずというように目を反らしていた。
だけどそれが──あの凄惨な顔こそが、シグルドが命を落とした瞬間の姿なのだ。
どれほど熱く、苦しく、激痛であったことだろう。
彼女の夫は、あんな残酷な殺され方をしたのだ。アルヴィスに──彼女の兄であり、いまの夫である男に。
「シグルド様……」
そこまで言って、ディアドラの言葉は途切れる。彼に、何を言えばいいのか分からなかった。
なんと言って、謝ればいいのか。
いや、今さら謝罪の言葉など、何の意味があるのか──
そんなディアドラを、シグルドは哀しそうに見つめていた。失言だったとでも思っているのか。自身の言葉が、彼女を苦しめたことに彼は心を痛めているようだった。
再びディアドラを抱きしめて、シグルドは言った。
「いい……。何も言わなくていいよ、ディアドラ。君の気持ちは伝わっているよ。君が私のことを想ってくれている。それだけで、私は十分なんだ。きみは私を、ちゃんと思いだしてくれたじゃないか……」
シグルドの言葉に、その優しさと愛情に、ディドアラの気持ちが徐々に落ち着いていく。
やがて、涙声で彼女は言った。
「シグルド様……ありがとう……。こんな私を愛してくれて……本当に、ありがとう」
ディアドラの口から出たのは、謝罪ではなく感謝の言葉だった。
あんなにひどいことをしたのに。
あんな残酷な方法で、彼を苦しめたのに……。
それでもシグルドは、まだ彼女を愛してくれている。慈しんでくれている。
彼の輝きに触れ、その傍にいるだけで彼女は幸福だった。
他には、何もいらなかった。
なのに、彼はそれに加えて愛情まで注いでくれた。
そして今も、彼は自分に優しい言葉をかけてくれる。
こんな自分に。
彼を裏切った、こんなひどい女に──
いまだ涙に濡れる目で、それでもできる限りの笑顔をディアドラは作った。
かつてシグルドに向けていたような、日だまりのような笑顔とまではとてもいかなかったが、それでも自分の泣き顔を見たくないと言ったシグルドへの、精一杯の愛情と感謝のしるしだった。
「あなたに、会いたかった……。お話……したかった。記憶が戻りはじめてから、ずっと……苦しかった。あなたとお話ししたいのに、もうあなたはいないから……いないと思っていたから……」
彼女はずっと、シグルドに謝りたいと思っていた。償いの言葉を述べたいと思っていた。
だけど、実は本心は違っていたのだ。
記憶が戻ってからは、そのことに薄々気がついてはいた。でも、その想いはあまりにも身勝手と考えて、これまで彼女は、自分の心に蓋をしていたのだ。
謝罪をしたい──などというのは、ただの口実にすぎなかった。
ディアドラは、ただシグルドに会いたかっただけなのだ。
彼の声を聞きたかっただけなのだ。
その顔を、見つめていたかっただけなのだ。
作り笑いかも知れなかったが、それでも彼女の笑顔を見たシグルドの表情が緩んだ。話題を変えるように、彼は言った。
「でもディアドラ……よく、シグムンドが私なのだと気がついたね……。きみは、どうしてそのことに気づけたんだい?」
ディアドラは、シグルドをじっと見た。
そして、ぽつぽつと説明しはじめた。
バーハラの宮殿にいたときから──まだ記憶が戻らぬうちから、なぜだか“シグムンド”が傍にいると、彼女の心は落ち着いた。
記憶が蘇るにつれて、徐々にその理由が理解できた気がした。
似ているのだ。
顔は包帯で分からなくとも、醸し出す雰囲気が、声が、体つきが──何もかもが、蘇った記憶の中の”あの人”と同じだった。
朧気に戻った記憶の中の光景が、シグルドではなくシグムンドに置き換わっているように思えたことさえあったという。
そして何より、”輝き”が一緒であった。
精霊の森の巫女であったディアドラは、物や人に宿る魂に敏感だ。
シグムンドの魂が放つ輝きが、シグルドが放っていた魂と──かつて彼女が惹きつけられた輝きと、一緒だった。
「それで、もしかしたらと思いました……。でも……」
死んだはずのシグルドが、彼女の前に生きて現れるはずがない。だから、他人の空似であろうと、自分に言い聞かせていた。
だが、今日この精霊の森の泉に来て、他人の空似では説明できない決定的な出来事が起きたのだ。
レヴィンの台詞に、シグムンドが反駁しかけたのである。
あのとき、レヴィンはこう言った。
──精霊の森の泉で、シグルドは初めてディアドラと出会い、そして二人は一目で恋に落ちたのだ、と。
だが、事実は違う。
二人が初めて会ったのは、精霊の森ではない。
マーファ城の、城下町なのである。
昨日、彼女たちが泊まった旅籠。
ちょうどあの部屋から見下ろせた路地で、二人は出会った。旅籠の部屋からその路地を見たとき、ディアドラはその時のことを思い出したのだ。
シグルドの顔を初めて見た、あの時のことを。
街のならず者に絡まれていた彼女を、シグルドが助けてくれた。
初めて会うはずの男であったが、そのときディアドラは、彼こそがエーディンが話してくれたあの騎士なのだと──シグルド公子なのだと、すぐに分かった。
そして一目で、彼が放つ輝きに惹かれた。
彼のことを、忘れられなくなってしまった。
だから、シグルドが精霊の森を通りかかったとき、ディアドラは彼に声をかけたのだ。そして、泉のほとりで二人は愛を語りあった。
レヴィンは、この二人の出会いの経緯を知らない。エーディンですら、知らぬはずである。
シグルドとディアドラは、二人は精霊の森の泉で出会ったのだと、そう周囲に話していたからだ。
最初は、単に詳しい出会いの経緯を説明するのが気恥ずかしくて、断片的にしか話さなかった結果なのだが、「シグルドとディアドラは精霊の森で出会った」という話が仲間たちの間で広まるにつれ、二人はむしろ、あのマーファの街でのことを意図的に隠すようになっていた。
それは、ちょっとした悪戯心だ。
二人しか知らぬ、小さな秘密を共有したかった。
「あのときシグムンド様は、レヴィン様に『それは違う』と言いかけました。だから、確信したのです。やはりこの方は……シグルド様なのだと」
あの場面で、レヴィンの言葉に異を唱えることができるのは、彼女を除けばシグルドだけなのである。
「それに──」
言って、ディアドラははにかんで顔を伏せた。
「以前に、お着替えを見てしまったとき……ちらりと、背中に傷があるように見えたから……」
そのときのことを思い出して、ディアドラは少女のように頬を染めてうつむいてしまった。
そんな愛しい妻を、シグルドはまた力一杯、抱きしめてくれた。
ディアドラを“純粋な被害者”とするか、“可哀想”とするかは意見が分かれるところでしょうが、いずれにしろ、“シグルドとの幸福な再会”こそが、彼女への救済であり贖罪になるでしょう。
幻の第三部は「再会の物語」であったという話もありますが、シグルドとディアドラの「再会」が、第5章でのアレであれば、他キャラの「再会」も推して知るべし、となります。
「再会の物語」というのなら、さらなる“再会”の描写こそが必須と思いますが、そこはまるまるすっ飛ばして十章に繋げましたからね……。あれはセリスの願望が見せた幻とも、離婚後の夫婦が息子との共同面会に赴いた場面のようにも見える描き方でしたし。
でも、もうちょっと上手に書けたんじゃないかなと、自分でも思います。力不足を痛感しています。
もっと上手な人に、できれば公式に書いて欲しかったですねえ……。