「きみが、あんな搦め手を使うとは思わなかった……」
泉のほとりに座り、シグルドが言った。上半身は裸のままだ。ディアドラが、果汁のついた彼の服を洗っている。
「ごめんなさい、どうしても確かめたくて……」
小さな声で、ディアドラは返した。
彼女が、スリングショットを使ってわざとシグルドの上に木の実を落としたのだと、夫は気づいているようだ。責められているわけではないのだが、なんだか気恥ずかしくなってくる。
──二人の出会いの秘密を知っているシグムンドこそが、シグルドである。
そう考えたディアドラであったが、しかし、死んだはずのシグルドが、どうして生きているのかという大きな疑問がまだ残っていた。
だから、確かめようと思った。他の証拠を、探そうと思った。
そのためには、二人の間のもう一つの秘密──背中の傷を確認することが一番である。その傷は、顔に次ぐシグルド固有の身体的特徴だ。
そこで彼女は、一計を案じてシグムンドに服を脱がせ、背中の傷を露わにする口実を作ったのである。
「……私だって、少しは成長するのですよ? 勢いだけではなくて、頭を使うようになったんです」
少しはにかみばがら、ディアドラは言った。
思えば娘時代の自分は、思い込んだら一直線の性格だった。
シグルドも、ときに周囲から”猪突猛進”と揶揄されていたから、そういう意味では似たもの夫婦であったのだろう。
だが、結果的にはそれが悲劇を生んでしまった。
シグルドの放つ輝きに惹かれ、一直線に彼の元に向かったことは、後悔していない。そこは、勢いに任せて良かったと思っている。
だけど、その後のことは──
あのとき少し立ち止まって、よく考えれば良かった。突っ走るのを止めれば良かった──そう後悔することが、ディアドラには多々ある。
アグストリアの地で、凱旋するシグルド会いたさに、彼女は単身で城を飛び出してしまった。そして、マンフロイに攫われてしまった。
もしもあの時、彼女がお供の者の制止の言葉に耳を傾けていたら──
あるいは記憶を失ってすぐの時、自身の体の変化から、子供と夫のいる可能性をもっと真剣に考えていたら──
アルヴィスからの求婚にすぐには応えず、自身の身元を探ることを優先していたら──
一時の激情に支配されず、本能からの警告に従って、夫婦として身体を求めてくるアルヴィスを拒み続けていれば──
一方で彼女は、決して引いてはいけないところで引いてしまったのだ。
あのバーハラの野で、もっと必死にアルヴィスに訴えかけ、身体を張ってでも、護身用の短剣を抜いてでも、シグルドの殺害を止めていたら──
このときだけは、自身の直感を信じて命をかけるべきだったのに。
彼女の人生は、後悔の連続だ。
運命などではなく、彼女自身の選択の結果だ。自分自身の責任なのだ。
エーディンやシグルドは、彼女自身に罪はないと言う。
だが、ディアドラはそうは思わない。
自分の選択が少し違っていれば、この悲劇は起きなかった。シグルドの身に起きたことへの責任は、やはり彼女自身にあるのだ。
再会したシグルドの放つ輝きによって晴れかけた彼女の心に、再び暗雲が漂う。
後悔することで、同時に彼女は気づいてしまった。
もしも過去に戻ってやり直したら、違う選択をしたら、この悲劇は起きなかった。
でも、その場合には──
彼女が、アルヴィスと結婚しなければ──
シグルドに対する裏切りであり、神の定めた禁忌を踏み越える、あの行為をしなければ──
その場合には、ユリアが生まれてくることはないのだ。
「ユリア……」
小さな彼女の呟きを、シグルドは聞き逃さなかった。
優しさと辛さの入り交じった目で妻を見ながら、彼は再び顔に包帯を巻きつけはじめた。それから立ち上がり、ディアドラが木の枝に干していた服に手を伸ばす。
慌てて、ディアドラは言った。
「まだ、乾いていないわ! 体に悪いです……!」
その言葉を無視して、濡れて肌に張り付く服を着るシグルド。
ディアドラに背中を向けたまま、彼は言った。
「あまり遅くなると、レヴィンとユリア様が心配をします。そろそろ戻りましょう」
シグムンドの口調に戻ってしまったシグルドに、ディアドラは訝しげな視線を向ける。
その彼女の顔を見ぬまま、シグルドが再び口を開いた。
「私には、妻がおりました。誰よりも愛した妻が……。そして、妻も誰よりも私を愛してくれた。
ただ、その妻は……」
唇を噛むように言葉を切った後、前方を見据えて静かに、しかしはっきりと彼は続く言葉を口にした。
「死にました……」
「!」
ディアドラは、息を呑む。
シグルドが続けた。
「アグストリアのアグスティの郊外で、妻は殺されたのです。ロプト教団のマンフロイという男に……。遺体は、結局見つかりませんでしたが……。私の妻は、あのとき死んだのです。そう……思っています」
「シグルド様……」
ディアドラの表情が歪んだ。
相変わらずその彼女のほうを見ようともせず、シグルドは続ける。
「先ほど、妻の亡霊に会いました……。とても、嬉しかった。懐かしかった……。ずっと、愛しい彼女の傍にいたいと、そう思いました……」
でも──
「皇妃様、貴女は……」
シグルドの口調が、徐々に平板なものになっていく。
「貴女は、ユリア殿下のお母上です……」
”皇帝アルヴィスの妻だ”とは、さすがに言わなかった。言えば、彼はもうディアドラの守護霊ではいられなくなってしまうからだろう。黒い感情に呑み込まれ、悪霊となってしまう可能性すらある。
心の内を押し隠すような平坦な口調で、彼は続けた。
「貴女は、私の妻とよく似ている……。だが、貴女は別人だ……。私の妻ではありません。だから……」
シグルドが、何かを吹っ切るかのように一度言葉を止めた。
わずかな間の後に再び発せられた声は、悲しみと優しさが入り交じったものだった。
「だから……貴女は、ユリア殿下の元にお帰りなさい」
はっきりとそう言い切ったシグルドの苦しみと葛藤を察して、ディアドラの胸が締めつけられるように痛んだ。
もしも彼女がシグルドの妻に戻ってしまえば──アルヴィスはともかく、ユリアはどうなってしまうのか。
彼女は双子の兄だけではなく、母をも失うことになってしまう。
まだ幼い少女のことを想い、シグルドは自分よりもユリアの傍にいるようにと、ディアドラに言ったのだ。
そしてユリアの母に──アルヴィスの妻に戻ることになるディアドラが、罪の意識を感じないよう、「自分の妻と貴女は別人だ」と彼は断じた。
シグルドの妻であった過去などなかったことにしたほうが──忘れたままでいるほうが、彼女にとって幸せなのだと。
その彼の想いに、愛に、ディアドラはシグルドの魂の本質を感じた。
暖かさを通り越した、熱いほどの輝き。
まるで、太陽に近づきすぎてしまったときのように、ディアドラの心は熱く、そして苦しく、まさに焼き殺されてしまうかのような気持ちになった。
アルヴィスが赤き炎なら、シグルドはまさに青き太陽だ。
炎などよりもよほど大きく、熱く、なのに暖かく世界を明るく照らしてくれる。
でも、ディアドラはそんな太陽に近づきすぎてしまった。炎などよりもはるかに大きな熱量が、彼女の胸を焼き焦がした。
「シグル……。シグムンド様……」
ディアドラが、自らの名を言い直した意味を理解したのだろう。
彼は言った。
「明日、発ちます。
昔の仲間が……ティルテュという娘が、苦しんでいます。連れ戻された実家で、ひどい虐待を受けて命も危ないという話です。放ってはおけません。彼女を救いに行きます」
明日の朝、日が出る前に旅立つと彼は言った。そのために、今日はもう休む、と。
「だから……これでお別れです。
バーハラ宮殿までご一緒できずに、申し訳ありません。後のことは、レヴィンに頼んでおきますので……」
そのまま彼女の方を振り返ろうともせず、シグムンドは歩み去ろうとする。
彼の背中に、ディアドラは叫んだ。
「シグムンド様!」
駆け寄り、涙に濡れた瞳ですがりつくように訴える。
「ならばせめて……せめて、最後にお顔を見せて! 貴方の最期のお顔を! どんなに酷い火傷でも、どんなに酷いお姿でも、私は見ておかなければならないと思うから! 見なければ、いけないから!」
夫の、最期の姿を──
歩みを止めたシグムンドは、しばらく逡巡しているようだった。
が、やがて手を顔の方に持っていき、包帯を外しはじめる。
完全に包帯が取り払われた後、また少し逡巡してから、彼はゆっくりと振り返った。
「……っ!」
その顔を見たディアドラは、もう何も言うことができなかった。
元が、誰の顔であったかも分からぬほどに焼け爛れ、ところどころが真っ黒く炭化した焼死体。
精悍なシグルドの顔の面影は、かけらもない。髪は焼け焦げ、唇は焼け落ちて歯が剥き出しになり、鼻からは骨らしき物が覗いている。
事前に覚悟を決めていなければ、とても正視することなどできなかっただろう。
それほどに無残で、残酷な姿だった。
これが、シグルドの死の間際の姿なのだ。彼の死に顔なのだ。
ディアドラの兄に──今の夫に、見せしめのように焼き殺された男の末路だ。
このような
あまりにも酷く、鬼畜のような所業だと思った。
そしてこの顔を見たとき──彼女の心は決まっていた。
次章でいよいよ、ディアドラが選択をします。
作者の望みは言うまでもありませんが、実を言うとどちらの選択をした場合も執筆しました。
公開順序は迷っていますが、まずは作者の望む選択を”正史”として公開し、後からもう一つの選択をした場合の顛末を”if”として公開しようかと思っています(作品目次の最後に表示されるのは正史のほうにしたいので、ifのほうは挿入投稿しようかと考えています)。