翌朝。まだ夜も明けきらぬうちに、シグルドは小屋を出た。
すぐには森の出口に向かわず、泉の方へと向かう。
次に、いつこの森に来られるかは分からない。これが、最後になってしまうかも知れない。だから、彼の”亡き妻”との思い出の残る泉を、旅立つ前にもう一度、目に焼き付けておきたかった。
森の木々に囲まれた泉の周囲は、まだ暗かった。顔を出しかけた太陽の光も、木々に遮られて泉の水面には届いていない。
手に持つランタンを精一杯に掲げて、シグルドはじっと泉を見つめた。
この暗い水面は、自身の心の奥底か、あるいはディアドラの涙であろうか。
肉体まで復活した彼は、あるいは力尽くで彼女を取り戻すこともできただろう。
アルヴィスとユリアから、己の妻を奪い返すこともできただろう。
その時、きっとディアドラは抵抗しないに違いない。
でも、彼はそうしなかった。
せっかく蘇らせてくれたクロードには申し訳ないが、彼は、自分が
亡霊として過ごした時間が、あまりにも長すぎた。
いまさら、生前と同じように生きていくことなどできはしない。
死んだはずのシグルドが実は生きていた──などと、今さら声高らかに宣言したところで、世に混乱をもたらすだけであろう。
彼はこれから、正体を隠して日陰で生きていくことになる。
宮殿に戻れば何不自由ない、快適で安全な生活が待っているディアドラを、とても連れてはいけないと思った。
何より、今を生きている一人の少女から母を奪うことなど、シグルドにはとてもできなかった。
一緒にいたのはたった半年程のことだったが、“シグムンド”はユリアの幸せも願っている。
あの少女から何かを奪うことは、避けたいと思う。
シグルドの掲げるランタンの火が、揺らめく水面をわずかに照らした。明かりの届かぬその外側の水は、まるで墨のように黒い。
この黒い水の色が、例えシグルドの心の内を映したものなのだとしても──でもそれは、自分自身で選んだ道なのだ。
(私の妻は、すでに死んでいるのだ……)
あのアグスティ城の郊外で、ロプト教団の者に殺された──
彼がいま守護霊として守っているのは、彼の妻と同じ顔、同じ名前を持った別の女性だ。神竜王ナーガの力を受け継いだこの女性を守ることが、英霊としてのいまの自分の役割なのである。
何度も自分そうに言い聞かせ、シグルドは街道の方へと踵を返した。
その彼を、背後から呼び止める者がいた。
「待って、シグルド様……」
その呼びかけに、シグルドは息が止まりそうになった。
懐かしい声。
かつてこの場所でかけられたのと同じ言葉──
何かに操られているかのように、ゆっくりとシグルドは振り返った。
ディアドラが、そこに立っていた。
登りかけた朝日に照らされた彼女は、出会ったときとあまり変わらぬ姿のように見えた。あれから十年以上も経っているというのに、若さを保った彼女の美しさは変わらない。
以前にも、シグルドはここで同じように彼女に呼び止められた。それが、彼とディアドラを結びつけるきっかけとなった。
もしかしてこれは、自分の記憶を再現した幻なのか。彼の未練が、ディアドラの幻を見せているのか──
呆然と、シグルドは立ち尽くす。
だが、そこに立っているディアドラは、明らかに幻や夢ではなかった。確かに、生身のディアドラだ。彼女の旅装束が──以前にここで出会ったときは異なる服装が、これが夢幻ではないことを明確に告げている。
喉から絞り出すように、シグルドは声を出した。
「皇妃、様……。わざわざ……見送りに来て下さったのですか」
その彼の言葉に、ディアドラが悲しそうに首を振った。
「シグルド様……。もう、私を“皇妃”とは呼ばないで……。そんな、他人行儀な物言いをしないで……」
シグルドの方を真っ直ぐに見つめながら、彼女は続ける。
「私は、あなたの妻なのですから──」
「だが、私の妻は……」
──死んだのだ。
シグルドがそう言い終わる前に、駆け寄ってきたディアドラが抱きついてきた。目に涙を溜めつつ、彼女は言った。
「死んだのは、
濡れた瞳でシグルドを見上げ、彼女は続ける。
「お願いです、シグルド様。私も連れて行って! 私は……あなたと共に、どこまでも参ります! 今度こそ、あなたの傍に居続けます!」
「ディアドラ……」
思わず妻を抱きとめてしまったシグルドは、そう呟いてから唇を強く噛みしめた。
彼女を抱きしめ返したいという欲求を抑え込み、優しく押し返しながら、重い口を開く。
「だが、ユリアが……」
シグルドの手に逆らって彼を強く抱きしめながら、ディアドラが首を振って涙を飛ばした。
「ユリアが、言ってくれたのです! あなたと共に行って、と……。自分の心に素直になって、と……」
ボロボロと涙をこぼしながら、ディアドラは話しはじめた。
※
昨日、シグルドのデスマスクを見て立ち尽くすディアドラの前で再び包帯を巻き直したシグムンドは、彼女を先導するように小屋に戻った。
一度も自分の方を振り返らず、口も開かないシグムンドの背中を見ながら、ディアドラもとぼとぼと彼についていった。
小屋に戻ったシグムンドは、そのまま宣言通り部屋にこもってしまった。
夕食ができたと呼びに行ったレヴィンと、部屋で何か話をしていたようだが、結局シグムンドが、ディアドラやユリアの前に姿を見せることはもうなかった。
シグムンドのいない三人での夕食は、まるで通夜のような重苦しい空気が漂っていた。
彼の様子に何か察することでもあったのか、ユリアもどこか沈んだような表情で言葉少なだった。
食事が終わり、母娘の部屋に入ってからも、ユリアは何も言わなかった。
なにやら思い悩んでいる様子の娘を見つつ、ディアドラもまた考えていた。
(あと、五年くらいかしら……)
ユリアは次の誕生日で十一歳になる。五年経てば、十六歳だ。早い者ならそろそろ結婚を考える年頃で、その年齢に達すれば、彼女にはもうさすがに母親は必要ないだろうとディアドラは考える。
平民の子であれば、十歳になれば、親元を離れて奉公に出されることもあるのだ。それが親子の今生の別れとなることだって、稀ではない。
だが、ユリアは箱入り娘だ。皇女としておんば日傘で育てられた彼女には、まださすがに親離れは早いのではないか──
シグルドもそう判断したからこそ、ディアドラを突き放したのだろう。けして自分に付いてこないようにと、釘を刺した。
もしも、ディアドラがあのままシグルドと一緒に旅立っていたら、彼女はその行動を後々悔やむことになっていたかもしれない。娘を捨てて──母としてではなく、一人の女としての愛を優先した自分自身に、罪悪感を抱くだろうことは容易に想像ができる。
そして彼女がそのように心を痛めることを、シグルドは望んでいないのだ。
しかし、一方であのとき──シグルドのデスマスクを見たとき、ディアドラは心に決めていた。
ユリアが独り立ちできる年齢になったら、彼女に別れを告げてシグルドのもとに行こう──と。
そのときまで、シグルドが受肉したままなのかはわからない。もしかしたら、もう天に召されているかもしれない。
もしもそうであれば、そのときは自分で命を絶つか──あるいはシグルドがそれを望まないなら、修道院にでも入って、一人で亡き夫を偲びながら、彼に謝り続けて贖罪の一生を送ろうと、ディアドラはそう心に決めた。
正視に耐えないほどに焼け爛れ、黒焦げの焼死体の顔を見ても彼女は──自身でシグムンドに言った言葉の通り、それが醜いとも悍ましいとも感じなかった。
彼がそのような残酷な姿にされた哀しみはあったが、同時にそれがいまのシグルドの顔なのだと思えば、むしろ愛おしいとさえ思った。
どんな醜悪な焼死体の顔であろうと、相手がシグルドであれば、彼女は口づけすることだってできただろう。
記憶を取り戻したいま、ディアドラが愛しているのは──妻として、女として本当に愛しているのは、シグルドなのだから。
あのとき、彼女はその自分自身の気持ちをはっきりと自覚したのだ。
アルヴィスへの愛が消えたわけではない。
しかし記憶が回復し、シグルドのことを──彼に対する想いが蘇った今ならば、分かることがある。
シグルドへの愛は、アルヴィスに対する愛とは大きく違うのだ。
それは、愛の大小という意味ではない。
その性質が異なるのである。
アルヴィスへの愛は、自分を身体的にも精神的にも守ってくれる者に対する愛だ。
自分を愛してくれたこと。自分を庇護し、安心と、穏やかな暮らしを与えてくれたことに対する感謝の気持ちが昇華したものである。
そういう感謝の気持ちはシグルドに対しても持ってはいるが、アルヴィスの場合とはその発生順序が異なる。
例えシグルドとの出会いが平凡な──ならず者に襲われそうなところを助けられた、といった劇的なものではなかったとしても。精霊の森で再会したときに、例えシグルドが彼女につれない態度を取ったのだとしても。
それでも、彼女はシグルドについて行ったことだろう。その傍にいたいと思っただろう。
シグルドに対する感謝の気持ちは、自分の愛にシグルドが応えてくれた結果、生じたものだ。
アルヴィスとは順序が逆であるし、シグルドの場合は、愛と感謝が必ずしも結びつかない。感謝がなくても愛が生じるし、愛とは無関係に感謝が生じる。
アルヴィスに対する愛は、異性に対する愛というよりも、父や兄に対する愛に近いものだった。
あるいはディアドラの本能が──彼女の中に流れる血が、アルヴィスは肉親だと、兄であると知らせていたのかもしれない。
ディアドラの母・シギュンは、不義の果ての子供を故郷に帰って一人で産み、育てた。
父親や兄弟というものを知らずに育ったディアドラは、肉親の男性に対するこの種の愛を知らなかった。だから、二つの愛の違いが分からなかった。アルヴィスに対する愛を、異性に対する愛と錯覚してしまったのである。
彼女がアルヴィスを“愛して”いながら、一方で彼との夫婦の営みに不安感や拒絶感を抱いたのも、そのためだった。
ディアドラの彼に対する愛は、肉親や家族に対する愛であったからだ。男女の愛では、なかったからである。
シグルドのことを思い出し、彼に対する愛を思い出したいま、この二つの愛の違いを、ディアドラは明確に理解した。
シグルドに対して感じる愛と、アルヴィスに感じる愛とは本質的に異なるものだと、分かったのだ。
いまでも彼女は、アルヴィスのことを憎むことができない。
シグルドに対する行為は恨みがましく思うが、罪と感じるその他の所業とともに、それは哀しみへと転化している。
アルヴィスと自分がしてしまったことに心を痛めながら、一方で彼に対する感謝の気持ちは、消えてはいないのだ。いまでもアルヴィスのことは、兄として、家族として愛している。
何より十年以上にわたり、伴侶として、夫婦として過ごしてきた相手だ。
いくら全ての記憶が戻り、シグルドへの愛を思い出したからと言って、長年の夫に対する想いが簡単に変わるようなことはない。
二人の男に対する、二つの愛──
シグルドのことを思い出し始めたときから、彼女は何度もこの二つの愛の板挟みに葛藤した。
哀しいことに、この両者を共存させることはできないのだ。
シグルドへの愛を貫けば、アルヴィスを捨て去ることになる。アルヴィスを“夫”として愛し続ければ、それはシグルドに対する裏切りとなる。
シグルドを夫としながら、妹としてアルヴィスの傍にもいる──それができれば一番良いが、シグルドはともかく、アルヴィスはそのようなことは決して許さないであろう。
どちらかを、選ばなければならない。
そうなれば、選ぶべき答えは、一つしかないのだった。
アルヴィスとの夫婦関係は、重婚だ。シグルドとの愛を清算した上での結婚ではない。彼女とアルヴィスは、シグルドに対して罪を犯している。人として許されぬ過ちも犯している。
もしも二つの愛に優劣がないのならば、その場合は、彼女は犯した罪を贖う方へと進むべきなのだ。
シグルドと共に生き、失われた幸せを彼に取り戻してもらうのである。
まして家族としての愛はともかく、夫として──あるいは恋人として見たときに、アルヴィスとシグルドは同列ではない。
純粋に一人の女として、どちらかを選べと言われたのならば、
彼女が選ぶのは、異性として愛しているのは──
だが、残念ながら今はそれが許されない。
娘が──ユリアがいる。
彼女を捨てて、シグルドと駆け落ちをすることなどはできやしない。
そこは、十四年前とは異なる。
シグルドと共に行きたいという気持ちに従って、全てを捨てて一直線に彼のもとに走って行くことはできないし、そんな感情に突き動かされるようなことは、もうしない。
だけど、ユリアが大人になったときには。
もう、母親は必要ない年齢になったときには──
(……ごめんね、ユリア)
その日が早く来ないかを待ち望む身勝手な自分の心に気がついて、ディアドラは心の中で娘に謝った。
そのユリアも、気づけば彼女の方をじっと見ていた。
二人の目が合い、ユリアがたたっと駆け寄って来たかと思うと、がばっとディアドラに抱きついてきた。
突然のことに戸惑ったが、あと何度この子を抱きしめられるのか──そう思った途端、ディアドラは娘をきつく抱きしめ返していた。
「お母様……」
ディアドラの腕の中で、母の胸に顔を埋めながらユリアが口を開いた。
「私、お母様の娘に産まれて幸せでした」
「ユリア……?」
怪訝な表情のディアドラの目を、顔を上げたユリアが真っ直ぐと見てきた。
少女らしい大きなくりっとした目。
真摯な視線で母を見つめ、はっきりとした口調でユリアが言った。
「お母様、記憶が戻っていらっしゃるのでしょう?」
その言葉に、ディアドラははっと目を見開いた後、つっとユリアからその目を反らした。