ここのところ、ユリアはずっと考えていた。
何も言わないけれど、母にはかなりの記憶が戻っているのではないか──と。
だからこそ、母はエーディンと出会ったマーファの街の通りを、あんなにも懐かしむように見ていたのではないだろうか。
人
ディアドラが喪章を身につけると言ったのも、きっと変装のためだけではない。
母は──どの程度かは分からないが、シグルドのことも思い出している。彼と過ごした記憶を、彼を愛していたという気持ちを思い出している。
だから母は、最愛の夫を亡くした妻として、十年越しにシグルドを悼み、弔うために、喪章をつけたのではないか。
母は苦しんでいる。悲しんでいる。
だが同時に、記憶を取り戻したディアドラは、どこかシグルドを懐かしんでいるかのようにも見えた。十年ぶりに、シグルドへの愛を取り戻しているように思えた。
父・アルヴィスには申し訳ないが、そのことを少し嬉しく思う自分に、ユリアは気がついていた。
十年という時は、けして短くはない。
もしもディアドラが普通の未亡人であったのならば、時が悲しみを癒し、新たな幸福のため、新たな家族のために前を向いて歩き出すこともできたかもしれない。
だがその時間をも、ディアドラは奪われてしまった。
夫の死を悲しみ、悼む権利すら剥奪された。
なんと残酷なことなのかと思う。
だが、一方でずっと記憶を失っていたからこそ、それが短期間で蘇った今、”ディアドラ”のシグルドへの想いは色褪せることなく、十年前と同じように存在しているのではないか。
皮肉なことに、記憶がなかったからこそ、十年という時間で思い出が劣化するこがなく、新たな愛で上書きされるようなこともなく、彼女のシグルドへの想いは、十年前のまま蘇っている──
そして、母が奪われた時間を──奪われていたシグルドの妻としての心を取り戻したいま、「自分はどうするべきなのだろうか」と、ユリアはずっと考え続けていた。
自分は、シグルドに対して大きな罪を犯した二人の子供だ。許されざる罪の結果、生まれてきた子供だ。
たとえ親の罪は子供にはないと言う人がいても、ユリア自身がそうとは思えない。自分自身の心が、納得できない。
アルヴィスとディアドラの罪の結果生まれた自分は、やはり両親と共にシグルドに償いをしなければならないと思う。
そしてシグルドへの償いは、愛する母の望みでもあるのだ。
母のその望みを、叶えてあげたいと思う。
ここのところのユリアは、ずっと母の行動に注意を払っていた。もしも母が、死んだシグルドの後を追って自身の命も捨てようとしたら、それはなにがなんでも止めなければいけないと思ったからだ。シグルドだって、そんなことは望んでいないだろうと考えるからだ。
だから昨日、母がこっそりと小屋から出て行こうとしていることに気づいたとき、ユリアはレヴィンと共に母の後を
そして、彼女たちは見てしまったのだ。
泉のほとりに座り、包帯を外してディアドラと語り合うシグムンドの顔を。
酷い火傷があるはずなのに、そんなものはかけらも見えない整った彼の顔を。
火傷というのは口実にすぎず、実は顔を隠すために包帯をしていたのだと、このときようやくユリアは気づいた。
同時に、初めて見る顔のはずなのに、それが誰の顔であるのか、不思議とユリアは直感していた。
「シグルドだよ……」
彼女の隣にいたレヴィンが、その直感が正しいことを教えてくれた。
覗き見は申し訳ない気がしたが、二人はそのまま感動の再会をはたした夫婦の姿を見守り続けた。
だが、シグムンドが顔の包帯を巻き直して服を身につけたあたりから、雰囲気がおかしくなった。
木々の間を駆け抜ける風が、母とシグムンドの会話を運んでくれた。
──貴女は、ユリア殿下の元にお帰りなさい。
そのシグムンドの言葉を聞いて、ユリアは胸が張り裂けそうな気持ちになった。
シグルドは、ユリアのために愛しい妻とよりを戻すことを諦めたのだ。
誰よりも憎いはずの男の娘である自分のことを、彼は気にかけてくれたのだ。
半年以上にわたる彼との旅で、シグムンドという男の人柄をユリアはよく理解している。彼が、本心からユリアのことを心配してくれていることもわかっている。
ユリアのほうだって、シグムンドのことを二人目の父のように思ったことが何度もあった。
(それでも……だからといって──!)
叫んで飛び出しそうになる気持ちを、ユリアは必死になって押さえ込んだ。
自分が、”シグルド”と”ディアーラ”の幸福な結末の障害になっていることが──罪を償いたいと願う母の望みの妨げになっていることが、たまらなく苦しかった。
同時に、母を失わなくてもすむと安堵している自分にも気づいて、余計に彼女の心はかき乱された。
小屋に戻って夕食をとっている間も、ユリアの心の中では、何か重苦しいモノが、ずっとぐるぐると渦巻いていた。正直、何を食べたのかも覚えてはいない。
──シグルドと母には、幸せになってほしい。
母が、娘を置いてシグルドのもとに行くのを良しとしないのであれば、自分が母たちと共に行ってもいい。
ディアドラとシグムンドと三人ならば、新しい家族になってもいいとさえ、ユリアは考えた。
(でも、そうなってしまったら……お父様は?)
ユリアは、父・アルヴィスのことも愛している。
シグルドにとっては憎き男。そしてエーディン達のようなアルヴィスと敵対した者たちから見れば、なんとも悪辣な暴君なのかもしれないが、それでもユリアにとっては実の父だ。愛する父なのだ。
アルヴィスは、彼女とユリウスには優しかった。良き父親であった。
彼は確かに、いくつもの罪を犯した。シグルドとその仲間たちに、とてもひどいことをした。
そのことを思えば、母が父ではなく、シグルドを選ぶことも仕方のないことだろうと思う。なによりそれが、両親のシグルドに対する償いになるだろう。
でも、自分まで母と一緒にシグルドの所に行ってしまえば、父は独りなってしまう。
ただでさえ愛する息子を──ユリウスを失い、父は傷心していた。娘であるユリアの目から見ても、ひどくやつれ果てていた。
このままさらに妻と娘まで失っては、父はいったいどうなってしまうのか──
であれば、とるべき道は一つしかないのだ。
淋しいけれど、悲しいけれど、でも……死に別れるわけではないのだから。
それにセリスは──ディアドラとシグルドの息子であるユリアの異父兄は、産まれてすぐに母親から引き離され、父親も殺されてしまった。
彼のことを思えば、自分は随分と幸せ者だ。自分はもう充分、母から愛と幸福をもらった。
そう考えれば、どんなに淋しくても我慢できる。辛くても、耐えられる。
罪を清算し、皆が幸せになるためなのだから──
母に抱かれてその温かい胸に顔を埋めながら、ユリアは覚悟を決めていた。
父と、母と、自分と──彼女たち一家全員で、シグルドに対する罪の償いをするのだ。
辛そうに目を伏せる母に、ユリアは顔をくしゃくしゃに歪めながらも、はっきりと言った。
「お母様、シグムンドおじさまと……シグルド様と、一緒に行ってあげて」
「ユリア……」
「レヴィン様が教えてくれました。シグムンドおじさまが、シグルド様なんでしょう? ずっと……お母様のことを守っていらっしゃったのでしょう?」
そのシグルドが、肉体を得て彼女の前に現れたのならば、ディアドラがやるべきことは一つだけだ。
「お母様は仰いました。『シグルド様に償いをしなければ』と。
いまが、その時だと思うのです。シグルド様を幸せにして差し上げることが、そして、お母様自身も幸せになることが──シグルド様に対する、唯一の償いなのではないでしょうか。
そして私も……お母様とシグムンドおじさまには、幸せになってほしい……。
だからお母様。ご自分の心に素直になって! お母様だって、シグルド様と一緒に行きたいのでしょう!」
「ユリア……。でも……」
母の言いたいことは、分かっている。母だって、自分がどうしたいのか、何をすべきなのかは分かっているはずだ。
なのにそれができないのは、ユリアがいるからだ。彼女のことを心配してくれているからだ。
だからできる限りに元気に──母を安心させるよう精一杯明るい調子で、ユリアは言った。
「私とお父様のことは心配しないで。私にはお父様が、お父様のそばには私がおります。お母様がいなくても、私たちは大丈夫です」
それでも、ユリアの目には大粒の涙が溜まっていった。止めようとしたけれど、母には見せまいとしたけれども、できなくて、それでも彼女は先を続けた。
「でも、シグムンドおじさまは……シグルド様はお一人なんです。あまりにも……可哀想すぎます。ひどすぎます。だから──」
目に溜まった涙をぐいと手で拭い、ユリアは母の目をまっすぐと見据えた。
「お母様は、シグルド様のそばにいてあげて。そして、そして……」
湧き上がる涙を堪えて、ユリアはできるかぎりの笑顔を作って言った。
「お二人で、幸せになってください」
「ああっ、ユリア……」
娘の言葉に涙しながら、ディアドラがもう一度彼女をきつく抱きしめた。
※
ユリアの言葉を聞いたディアドラには、改めて自覚し直したことがあった。
アルヴィスへの愛は、異性への愛ではなく兄に対する愛──
二つの愛のどちらも選べないのなら、犯した罪を贖える方に進む──
彼女は、そう考え続けていた。
だが、実はそれもやはり、口実にすぎないなのだ。
「シグルドに謝りたい」という望みが、実は「彼にもう一度会いたい」という想いの理由付けであったのと同じだ。
ユリアは、「自分の心に素直になって」と、そう言った。
その言葉を聞いたときに、ディアドラははっとしたのだ。
とどのつまり彼女は、今すぐにでもシグルドと共に行きたいのである。彼の傍に、いたいのである。だが、ユリアとアルヴィスに対する想いが、「娘と今の夫を捨てる」ということへの後ろめたさが、色々と言い訳を作らせていた。
──シグルドのそばにいたい。
単純なその気持ちこそが、彼女の偽りのない本心であり、純粋な望みだ。
もしも彼と一緒に行けば、その後の生涯は、宮殿での満ち足りた生活とは違う、日陰を選びながらの苦しいものになるだろう。
それでも彼女は、愛する男性とともに一生を添い遂げたい。
その気持ちは、十四年前も今も変わっていない。
状況に流されやすく、落ち着いて考えることをせずに思い込んだら一直線──という娘時代を反省したディアドラではあったが、この件に関しては、やはり話が別なのだ。
かつて、精霊の森を出てシグルドと一緒に行くと決めた選択だけは、今も後悔はしていない。
例え何度生まれ変わっても、彼女はシグルドの放つ輝きを探すだろう。そしてその傍に在ろうとするだろう。
記憶を失っていたときでさえ、ディアドラは毎晩シグルドの夢を見ていた。夢の中だけでも、彼の傍にいようとした。あれは、守護霊として宿るシグルドの魂を感じていたためだけではなく、それが彼女自身の願いだったからだ。
シグルドと夫婦として、永遠の恋人として添い遂げる。
運命に翻弄されることなく、彼と共に生き続ける。
それこそが、彼女自身の嘘偽りのない望みなのだ。
「ユリア……ごめんね……。……ありがとう」
涙ながらに娘を抱きしめ、ディアドラは何度もそう呟き続けた。
その夜、二人は何年ぶりかに同じベッドで眠った。
夜物語にこれまでの思い出を語り、これからの互いの幸福を祈りあい、抱き合ったまま、母娘は眠りについた。
アル×ディア派には申し訳ありませんが、ダメ押しです。