銀色の償い   作:垂江 シン

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第一章 皇妃の苦悩①

「……様に……償いを、しなければ……」

 

 皇妃ディアドラの呟きに、隣で本を読んでいた娘のユリアが「えっ?」と顔を上げた。

 胸が張り裂けそうなほどの悲しみと苦しみ──そして罪責感に、思わず心の中の言葉が声に出てしまったのだろう。ディアドラは慌てて笑みを繕い、娘の頭を撫でた。

 

 彼女の娘・ユリアと、その双子の兄であるユリウスは、今年で十歳になる。

 この十年間──いや、夫であるアルヴィスと出会ってからの十三年間は、本当に幸せな日々だった。

 ディアドラは、過去の記憶を失っている。

 彼女の記憶は十三年前、まだ一貴族であったアルヴィスの居城の近くで倒れていたときから始まる。それ以前の記憶は、まったくない。何故そこに倒れていたのかさえ不明だ。

 だが彼女の、普段はサークレットによって隠されている額には、王家の血を引く者の証である「聖痕」が現れていた。

 後継者を作らぬまま死んだ王子・クルトの忘れ形見と判断された彼女は、王女として──国王のただ一人の孫として、王宮で暮らすことになったのである。

 

 王女として崇拝される生活とはいえ、自分がどこの誰かも分からず──彼女にとっては見知らぬ土地で、見ず知らずの人々に囲まれての暮らしは、不安と戸惑いばかりの辛い毎日だった。

 その彼女の心の救いとなったのが、アルヴィスだ。

 王の許しを得て彼と結婚し、子供が生まれてからは、母としての喜びを日々感じている。かけがえのない恵みを授かり、自分は本当に幸せな女だと思う。

 

 だが、この平和な生活の中で彼女が感じているのは幸福感だけではなかった。

 

 不安と恐怖──。

 

 この二つが、この十三年間、常にディアドラの心を苛んでいる。

 

 子供たちが生まれる前、アルヴィスとの夫婦の営みを行った次の日の朝には、いつも決まって、正体不明の不安がディアドラの胸に訪れ、幾日も彼女の心を責め苛んだ。

 アルヴィスが自分を求めるのは、愛ゆえのことだと分かっている。彼女も夫を愛しているし、だからこそ彼の求めに応じることが、妻としての自分の責務だと思っている。

 だが、彼女はどうしてもその行為に悦びを感じることができなかった。

 

 愛する人と結ばれているはずなのに。

 愛を確かめ合う行為のはずなのに。

 そのとき彼女が感じるのは、違和感と拒否感だ。

 

 自分が求めているものは、これではない。

 こんなことをしてはいけない、とばかりに心の奥底が悲鳴を上げる──。

 

 こんなにも夫に愛されていながら、なぜそのような思いを抱いてしまうのか。彼女は常々、申し訳なく思っている。

 だが、どうしても駄目なのだ。彼女の意に反して、身体が拒絶してしまう。

 

 それでもどうにか無理して夫の愛を受け入れると、その翌朝には正体の分からぬ恐怖が彼女を襲う。

 アルヴィスと抱き合って眠った翌朝に生じる、その恐怖の正体は、今も分からないままだ。ただ、その恐怖は毎月の“女性のもの”が訪れると、どういうわけだか途端に収まった。

 そしてどうやらその恐怖の強さと、月の物までの日数には、どうやら相関があるようだった。

 女性としての身体の状態が、精神に影響を与えているのかもしれない──。

 彼女はそう自分を納得させ、アルヴィスに胸中の不安を話したことはない。

 

 だが、どうやら夫は気づいていたようである。

 子供たちが生まれた頃から、アルヴィスは彼女の身体を求めようとはしなくなった。

 愛が冷めたわけではないと思う。

 むしろ逆だ。

 夫婦の営みをした後の彼女の変化を敏感に感じ取り、少しでもディアドラの心の負担を軽くしようとする、彼の気遣いなのであろう。

 だが、本当にそれだけなのだろうか──。

 

 ──そのような行為をしなくても、私のディアドラに対する愛は変わらない。

 

 と、そうアルヴィスは言ってくれるし、彼女自身もそう思う。

 夫の愛を疑っているわけではない。

 むしろ妻としての責務を果たせない自分に──最愛の夫との愛を確認し合う行為に、違和感と不安を覚えている自分自身に、ディアドラは後ろめたさを感じている。

 

 しかし一方で、夫は彼女に何かを隠しているようにも感じていた。

 アルヴィスは、ディドラの過去について何か重大なことを知りながら、彼女にそれを隠しているのではないか?

 その「何か」は、彼女の過去に関するものではないのか──。

 

 ディアドラがそう思うのは、彼女自身が、過去に大きな不安を抱いているからだ。

 夫を含め、彼女の周囲には記憶を失う前のディアドラを知る者は一人もいない。

 

 それは、何故なのか。

 

 記憶を失う前に彼女が暮らしていた場所が、ここからはどこか遠く離れた場所だからだろう。その場所で、今とはまったく異なる人々に囲まれて、彼女は生活していたのだ。

 そんな自分がどうして突然に記憶を失い、そればかりか、いままで生活していたところとは全然違う場所に現れたのか──?

 

 その疑問と、記憶を失う直前に自身の身に起きたことに対する単純な恐怖感。

 

 だが、ディアドラが自身の記憶に関して感じる不安は、それだけではない。

 もっと大きな不安と恐怖を、彼女は抱いている。

 

 記憶を失ってからずっと、彼女にはある確信が存在していた。

 

 ──自分は何か大切なことを、とても大切な人を忘れてしまっている。何があろうと、けして忘れてはいけないものなのに。その大事な記憶を、自分は失っている……。

 

 その正体のわからない確信が、自分はいま、何かとんでもないことをしてしまっているのではないか──と、そういう不安と恐怖に変わり、彼女の心をずっと苦しめている。

 

 さらにアルヴィスと過ごすうちに、その苦悩に別の性質の不安も混じりはじめた。

 

 自身の過去を知ることへの不安である。

 記憶を取り戻したら、もうアルヴィスとは一緒にいられないのではないか──。

 

 もしも自分が本来、別の場所で過ごすべき人間であったとしたら。

 記憶を取り戻したら、彼女はその場所に戻らなければならなくなる。そしてそれは、アルヴィスや子供たちとの別れを意味するのだ。

 

 このディアドラの思いには、何も根拠がないわけではなかった。

 記憶を失った状態での生活が始まってからの当初、彼女は自身の体のあることに悩まされていた。

 母乳が出るのだ。

 

 最初は、何かの間違いかと思った。おかしな病気にでも、かかっているのかとも思った。

 だが、やがて彼女は悟った。

 

 ──自分には、出産経験がある。それも、ごく最近に。

 

 その考えは、ユリウスたちを産んで彼らに母乳を与えるうちに、確信へと変わっていった。

 

 ──自分が赤子に母乳を与えるのは、これが初めてではない。

 

 記憶はなくしても、体は母乳の与え方を──赤子との接し方を覚えていたのだ。過去に出産して育児をした経験がなければ、ありえない感覚だった。

 

 そしてそれこそが、ディアドラが過去を恐れる理由なのである。

 彼女は子供を産み、その子がまだ乳飲み子のうちに引き離され、そして記憶を失ったのだ。

 我が子との別離と、記憶喪失とが関係しているのかは分からない。だが、子供を産んだ以上は、その父となる男性もいるはずである。

 その男性は、いったいどこの誰で、今どうしているのか──。

 

 手がかりが、全くないわけではない。

 ディアドラには、記憶を失ってから今まで毎晩のように必ず見る夢がある。

 

 アルヴィス以外の、別の男性と一緒に過ごしている夢だ。

 相手の顔も名前も分からないが、騎士であろうということはおぼろげに理解できた。

 その夢を見ている最中は、彼女は夫と一緒にいるとき以上の安心感と幸福感に包まれる。永遠にこうしていたい──と、心の底からそう思う。

 

 だが、その幸せな時間は長くは続かない。

 やがてその男性は、暗闇の中へと消えていく。

 最後に少しだけ明るく見えたのは、炎だろうか。

 

 男が完全に消え去ると、ディアドラの胸には耐えがたい悲しみが訪れる。心が壊れてしまいそうな思いに苛まれ──そして彼女は、涙を流しながら目を覚ます。

 

 夢から覚めた直後に感じるのは、大きな悲しみと不安だ。

 その不安の正体はきっと、何物にも代えがたい安心感を失った反動と、幸福の裏返しである絶望と破滅への予感であろう。

 

 そして意識が徐々にはっきりしてくるにつれ、彼女の心には、アルヴィスに対する罪悪感が沸き上がってくる。

 愛する夫の隣で寝ているというのに、彼とは違う男の夢を見て、しかも夫といるとき以上の幸福を感じてしまっている。しかも、その喪失に筆舌しがたい悲しみと不安を覚えてしまっている。

 

 ──あの夢の男性は、もしかして……

 

 ──あの方に感じるこの想いは、もしかすると……

 

 そこまで考え、彼女は慌てて自身の心に蓋をする。そこから先を考えるのは、あまりにもアルヴィスに──夫に申し訳ないと思うから。

 

 アルヴィスは、王女ディアドラの伴侶として国王となり、周囲の国を制圧して大陸のほぼ全土の皇帝という最高の地位を得た今も、彼女にとっては良き夫であり、子供たちの良い父親だ。

 彼との間にもうけた双子の兄妹は、とても聡明で優しい子どもに育ってくれた。それは彼女一人の力ではなく、アルヴィスの存在によるところも大きいだろう。

 

 アルヴィスとの愛の結晶である子供たち──。

 

 いまの彼女にとっては、この二人が何よりの宝物だ。

 この喜びと安寧な生活を与えてくれたアルヴィスには、感謝しかない。

 

 この子供たちや夫と離れなければいけないのなら、記憶など戻らないほうが良いのかも知れない──。

 愛する者と離別する不安から、彼女はときにそう考える。

 そしてそれは、夫であるアルヴィスが、常々ディアドラに対して言っていることでもあった。

 

 ──記憶など戻らなくてもいいではないか。過去のことなど知らなくても構わない。私と共に今を幸福にすごし、未来に向けて生きていこうではないか。

 と。

 

 でも、本当にそうなのだろうか?

 

 彼女が失ったものは、本当にアルヴィスと引き換えに捨ててしまってもよいものだろうか──。

 

 そして彼女は、苦悩する。

 

 そんなとき、ある式典で聞いた言葉が、ディアドラの頭から離れなくなってしまった。

 別の重要な会合のあったアルヴィスの代理として、皇妃であるディアドラが出席した式典だった。

 本来は集まった国民の前で挨拶の一つもすべきであったのだけれど、登壇したディアドラは大勢の民衆の姿に圧倒されて、結局一言も喋ることができずに、笑みを浮かべて手を振ることで、その場を誤魔化した。

 それでも、普段は滅多に人前に姿を現さない美しい皇妃の姿に、集まった国民は熱狂し、口々に彼女の美貌を褒めたたえた。

 しばらく彼らに手を振って応え、ようやく近衛に促されて壇から降り始めたとき、その言葉が耳に入った。

 

 ──シグルド様を裏切った女のくせに。

 

 吐き捨てるような、いかにも憎々しげな声だった。

 

 ディアドラは振り返って声の主を探したが、集まった民衆の数はあまりに多く、誰がその言葉を発したかは、わからない。

 近衛や侍女たちは、誰もその言葉に気がついてはいないようだった。

 無理もなかろう。

 広場を埋め尽くすほどたくさんの人々が、口々に何かを喋っている。その中の一人の言葉を聞き取るなど、通常であればとても不可能だ。

 

 なのに、その呟きとも言える小さな声がディドラの耳に入ったのは、「シグルド」という名前に、彼女の脳が反応したからかもしれない。

 

 その男の名前と顔は、ディアドラの記憶に深く焼き付いている。どういうわけか、忘れようとしても忘れられない。

 

 シグルド公子は、まだ軍司令官であった当時のアルヴィスによって討ち取られた、反逆者の首魁である。彼を討ち取ったのは、アルヴィスの輝かしい功績の一つとされている。

 ただアルヴィスが征伐した罪人や反逆者など星の数ほどもいるというのに、何故だかディアドラがシグルドを忘れられないのは、あるいは彼の死の間際に、ディアドラと会って言葉を交わしたからなのかもしれない。

 

 それは、ディアドラがアルヴィスと結婚した直後のことだった。後の世に、「バーハラの悲劇」として知られる戦いでのことである。

 

 実のところシグルドの罪状は全て冤罪であり、彼は最後まで国家の忠実な騎士でありながら、汚名を着せられて悪逆な罪人として処刑されてしまった。

 ただ、ディアドラはその真実を知らない。

 シグルドという男は、ときの王子であるクルトを暗殺したばかりか、国家の転覆を狙って兵を率い、王都を血に染めようとした大罪人と聞かされているし、その夫の言葉を信じ込んでいる。

 彼の反逆の意思をいち早く察したアルヴィスは、王都バーハラ郊外にあるバーハラの野でシグルド軍と交戦し、これを撃破した。敵将であるシグルドを一騎討ちの末に討ち取ったのは、アルヴィス自身であった──。

 と、多くの国民が聞かされているのと同様の話しか、ディアドラは聞いていない。

 

 ただディアドラは、このバーハラでの戦いの顛末にかすかな疑念を抱いていた。

 彼女はその場にいたからこそ、巷間で語られる──そしてアルヴィスがまことしやかに話す内容に、違和感を覚えるのだ。

 

 まず、そこで起きていたことは、本当に「(いくさ)」であったのかと思う。

 シグルドとその一党の抵抗、その戦いぶりが激しかったことは事実だろう。戦いの後、彼女自身も治癒(リカバー)の杖を持ってアルヴィスをはじめとする傷ついた将兵の看護を行ったから、いかに彼らが苛烈に戦ったかは実感できる。

 

 でもその戦いは、はたして本当に「戦」だったのか。

 ディアドラは、戦いが始まる前にアルヴィスの部下によって安全な場所に誘導されたから、その顛末を目にしたわけではない。

 だが、音は聞こえていた。

 はじめに兵士たちの鬨の声。そしてメティオの魔道によって降り注ぐ隕石の音。わずかな剣戟と、その後に続く悲鳴や断末魔の声──。

 

 戦争と言うには、あまりにその音がしていた時間が短すぎるように思うのだ。少なくとも、あまり大規模な戦いではなかったように思う。

 そして何よりディアドラは、戦いが始まる前の双方の配置をその目で見ている。

 少数のシグルド軍と、不自然な程にぐるりとそれを取り囲む王国の大軍──。

 

 彼女は軍事に詳しくないが、それでもシグルド軍の配置やその将兵たちが、戦いの準備をしているようにはとても見えなかった。丸腰の者すらいたように思う。

 

 だからディアドラは、彼らはあの場に戦いにではなく、話し合いに来ていたように思うのだ。

 そこを、王国軍が不意に襲いかかった──。

 

 だとすれば彼女が聞いたのは、勇ましい戦の音ではなく、卑怯な騙し討ちからはじまった虐殺と、それに抵抗する者たちの怨嗟の声ではなかっただろうか。

 

 ディアドラが、そのように考える理由はもう一つある。

 

 あの日、シグルドとの一騎討ちで重傷を負ったというアルヴィスをリカバーの杖で治療しながら、彼女は聞いた。シグルドという者は、本当に悪い人だったのか、と。

 

 アルヴィスは、何も答えようとはしなかった。

 

 だがあの時も──そして今でもディアドラは、シグルドという男が、王族殺しと国家反逆を行うような悪人だとは、とても思えないのである。

 

 それはただの印象にすぎない。

 ただ、実際に会って話をした上での印象だ。

 シグルド軍との開戦の直前、敵将であるシグルドに宣戦布告を行ったアルヴィスは、「自分は王女ディアドラの夫である」と名乗った。明確に、自身の妻と宣言した上で。「冥土の土産に王女に合わせる」と、ディアドラをシグルドに対面させた。

 

 そしてこのシグルドとのわずかな邂逅が、ディアドラの心に強く残り、彼女に夫の言葉を疑わせるきっかけとなっていた。

 それほどまでに、シグルドの反応は奇妙であったのだ。

 

 ディアドラの顔を見た彼は、まず驚愕したかのように目を見開いた。そして、その次に彼が浮かべた表情──。

 あれは、歓喜の表情ではなかったか。

 全身を震わせながら感動の吐息を漏らした彼は、明らかにディアドラのことを見知っている様子だった。

 

 彼女に残っている記憶では、シグルドに会うのはその時が初めてのはずである。

 ということは、彼が知っていたディアドラは、記憶を失う前の彼女ということになるのではないか。

 

 ディアドラの心は、大きく揺り動かされた。

 

 ──この人は私を知っている。

 

 自身の過去を知っている者と出会えた喜びだけではない。何かそれ以上のものが、彼女の心の奥底で胎動していた。火中に入れた栗のように震え、破裂する時を待っていた。

 そしてその破裂の後に続く爆発は、けして忌むべきものではないと彼女は直感した。もう少しこの男と話すことができれば、その胎動するものの正体が分かる。歓迎すべき爆発に、身を委ねることができる。

 

 なにより、彼女は初めて会うはずのこの男にどういうわけひどく惹かれていた。

 大罪人のはずの男の魂が、暖かく光り輝いているように感じ、その傍に行きたいと強く感じさせた。

 彼の青い髪が、その澄んだ青い瞳が、なんだかとても懐かしいもののように感じられた。

 

 だから彼女は、アルヴィスに頼んだのだ。

 もう少しこの人と話をさせて欲しい、と。

 

 だがアルヴィスは、その彼女の願いを許してはくれなかった。「この男は危険だ」と言い、近衛に命じて彼女を城壁内へと下がらせた。

 

 ディアドラは抵抗した。

 近衛の手を振り払い、アルヴィスにもう少しだけ話をさせて欲しいと頼みこんだ。シグルドに、自分から近づいていこうともした。

 後にも先にも、彼女が夫の言葉に背き、あれほどまで必死に懇願したことはなかったと思う。

 

 それでもアルヴィスは、彼女とシグルドが話をすることを許してはくれなかった。

 あれほど頑なに、夫が彼女の願いを拒んだのも、あのときが唯一ではないかと思う。

 

 そして、ディアドラの心にシグルドの最後の声が残る。あのとき、彼は確かにこう言った。

 ──きみは! きみは私の……。

 

 私の、何だと言いたかったのだろう──?

 

 その問いを、彼女はこれまでずっと封印してきた。

 考えるのが怖かったから──。

 

 その答えを知ってしまえばもう、自分はアルヴィスの元にはいられないと思ったから──。

 

 だからずっと考えないようにしていた。

 忘れようとしていた。

 

 でも、忘れられなかった。

 

 記憶を失っている彼女が、皮肉にもその時のことだけは、どうしても忘れられない。

 

 ──シグルド様を裏切った女のくせに。

 

 先日聞いた、その言葉が彼女の胸を抉り続ける。

 そう──これはきっと、裏切りなのだろう。

 シグルドは、あのときこう言いたかったのだ。

 

 ──きみは私の「妻」だ、と。

 

 ディアドラに、アルヴィスより前に夫と言うべき男性が──少なくともユリアたちの兄か姉に当たる子供の父親がいるということは、すでに感づいている。

 しかし、まさかその男がシグルドだったとは──。

 

 そして彼を──ディアドラの本当の夫と言うべき人物を殺したのは、いまの彼女の夫であるアルヴィスなのだ。

 

 なんと悲しい運命の悪戯かと思う。

 だが、悲しいだけでは済まされない。

 

 アルヴィスは、シグルドをただ殺しただけではないのだ。

 彼の妻を奪い、死の直前に、そのことを殊更に見せつけた上で殺害している。

 

 いくらシグルドが罪人であったとしても、あまりにも悪辣で、残酷な行いだ。

 

 そしてそれは、ディアドラも同様である。

 

 知らなかったから、記憶がなかったから──では、とても済まされない。

 

 彼女とその夫は、シグルドに対してなんと罪深いことをしてしまったのか。

 

 シグルドは、確かに反逆者であったのかも知れない。王族殺しの大罪人なのかも知れない。

 でも、シグルドがディアドラの夫なのだとすれば、その結婚は強いられたものではなかったはずだ。政略結婚のような、愛のない結婚ではけっしてなかったはずだと、ディアドラは確信している。

 

 なぜなら彼女が毎夜夢に見るあの男性こそ、シグルドなのだろうから。

 

 夢の中で彼と一緒にいる間、ディアドラは何物にも代えがたい至福の時を過ごす。

 それは、強いられた結婚ではあり得ないことだ。

 彼女とシグルドは、愛し合った上で結婚し、子を成したのだ。

 

 シグルドが処刑される寸前、ディアドラの姿を見て浮かべた歓喜の表情──。

 あれは、行方知れずの妻に再会できたことに、そして彼女が無事であったことに対する喜びの表れだ。シグルドが彼女のことを愛していなければ、あのような表情は浮かべなかっただろう。

 

 それなのに彼女は……シグルドの愛する妻は──。

 

 ディアドラとアルヴィスは、人として決してやってはいけないことをシグルドに対してしてしまったのだ。

 彼が罪人であるかどうかなどは、関係ない。

 

 だから彼女は、シグルドに対して──すでにこの世にはいない彼女の夫に対して、償いをしなければいけない。その裏切りと不貞に対する償いを。彼にとって、あまりにも残酷な死に様に対する贖罪を。

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