──シグルド様を裏切った女のくせに。
あの言葉を聞いて以来、ディアドラの心は悲しみと罪の意識に沈み、シグルドに対する償いのことばかり考えている。
そしてついに、その想いが口をついて出てしまった。その言葉を、娘に聞かれてしまった。
「お母様……? 償い、とは……?」
ディアドラに頭を撫でられながら、娘・ユリアが問うてきた。
心配をかけぬよう、努めて笑顔を見せながらディアドラは答えた。
「大丈夫……これはお母様の問題だから……。あなたは、何も心配しなくてもいいのよ」
それでもユリアは、心配そうな様子で母の顔を見つめてくる。
彼女は、ここのところのディアドラの様子がおかしいことにとうに気づいていたのだろう。理由は分からないが、母は何か大きな憂いと悲しみに沈んでいる。
その原因の一端をいま、ユリアは母の口から聞いてしまったのだ。大丈夫と言われても、とても納得できるものではない様子だった。
しばしの逡巡を見せた後、ユリアがまたディアドラに聞いてくる。
「お母様は……何か罪を犯されたのですか? その……シグルドという人に……」
子供の耳は、ときに大人が思う以上に鋭いものだ。ディアドラが小さな声で漏らしたその名前も、ユリアにはしっかりと聞き取られていた。
娘の問いかけに、ディアドラの表情が暗く沈む。
だが案ずるような表情で自分を見上げてくる小さな瞳に、変に誤魔化すのは良くないと感じた。ユリアにも理解できる範囲で──子供に話しても差し支えのない範囲で、説明しておくべきではないか。
ユリアの頭を撫でながら、ディアドラは言った。
「わからないのよ……。私には記憶がないから……」
自分に過去の記憶がないということは、既に子供たちには打ち明けている。
「だから、わからないけれど……でも、きっと……」
きっと、大きな罪を犯している。
けして許されがたい罪を──。
「母様が……記憶をなくされる前のこと?」
そのユリアの言葉に、ディアドラはかぶりを振った。
「いいえ……。でも、貴女が生まれるずっと前のことではあるわ……。ずっと、知らなかった。罪を犯したことに気づかなかった……。でも、知ってしまったら……」
気づかぬ振りはできない。犯した罪に向き合い、償わなければならない。
「お母様……」
ディアドラを見上げていたユリアの手が動き、母の指をぎゅっと握った。
「……私も、お手伝いします。私にできることなら、なんでも……。だからお母様、どうかそんなお顔をなさるのはやめて」
「ありがとう……。優しいのね、ユリア」
娘の頭をなでながら、ディアドラは思う。
本当に、聡明で優しい子に育ってくれた。
この子たちこそが、今のディアドラの一番の宝だ。この恵みを授かったことには本当に感謝しているし、彼女たちの存在にディアドラの心は救われている。
ユリアも、その双子の兄であるユリウスも──。
そこでふとディアドラは、ユリウスのことを思い出した。
──図書室に本を探しに行ってきます。
そう言って部屋を出てから、もう随分と時間が経つ。どこかで油を売っているのだろうか。
ユリウスは本を読むのも好きだが、同じくらい美しい花や、その花に集まる虫とか小鳥とかを愛でるのが好きだ。集中力が強いのか、一度植物や虫を観察しはじめると、時間が経つのも忘れて、いつまでも見ていることがある。
もしかしたら図書室に行く途中で、何か興味をそそられるものでも見つけたのかもしれない。
様子を見に行こうか──そう考えたディアドラが立ち上がったときだった。
パタン。
扉が開き、ユリウスが部屋に戻ってきた。
「あら、お帰りなさい。おそかっ……」
遅かったのね──と、そう言いかけたディアドラの言葉が途中で途切れる。
ユリウスの姿を一目見た瞬間、背筋に悪寒が走り、全身の皮膚が粟立った。
本能的にユリアを抱き寄せ、部屋の隅へと後ずさる。
その母の不審な行動を目にしても、張り付いたように不自然な笑みをたたえたまま、ユリウスが言った。
「ただいま戻りました、母上。どうしたのです? そのような怖い顔をして」
「あなたは……誰です? ユリウスでは、ないでしょう?」
ユリウスを──彼の姿をした者を射るような目つきで見ながら、ディドラは問いただす。
一瞬きょとんとした顔を見せたユリウスが、目を伏せてクツクツと笑った。
「……思ったよりも勘がいい。いや、それともナーガの力が警告したのか?」
独り言のように言った後、ディアドラを見返してくる。その顔には、いかにも楽しそうな笑みが浮かんでいた。
「ですが……僕はユリウスですよ、母上」
「嘘を言わないで」ぴしゃりと、ディアドラは返した。「ユリウスの姿はしていても、あなたは別人です。私には、わかります」
ぎゅっと守るようにユリアを抱きしめるディアドラに、ユリウスは手に持った黒い聖書を見せながら言った。
「いいえ……僕はユリウスですよ。ただ……先ほどこの聖書に触れたとき、ロプトウスの意思を得ただけです」
「なん……ロプトウス、ですって……?」
ディアドラの目が、驚愕に見開かれた。
暗黒神ロプトウスは、かつてこの大陸を恐怖で支配した邪竜だ。彼の意思と力を得たロプト帝国の治世では、子供を生け贄とするような残虐な儀式が日常的に行われ、人々は虐待と殺戮の恐怖に震えながら生きていたという。
その意識が、愛する息子であるユリウスに乗り移った──。
普通であれば、容易に信じられる話ではなかった。ユリウスが、ふざけているのだとでも思ったかもしれない。
しかしディアドラは、本能的に彼の言うことが真実だと理解していた。あるいはユリウスの言うとおり、彼女の中に流れる神竜王ナーガの力を与えられた聖者ヘイムの血が、その仇敵であるロプトウスの黒い力に反応したのかもしれない。
何より、ユリウスの額には先程まで無かった紋が浮かんでいた。
いかにも禍々しい形の紋。
暗黒神ロプトウスの聖痕だった。
かつてディアドラ自身も、額に浮かぶヘイムの聖痕が、彼女がナーガの力の正当なる後継者であることを示し、王族であることを証明した。
同じようにユリウスの頬に浮かぶ聖痕が、彼がロプトウスの後継者であることを示している。そしてこの暗黒神の場合は、力だけでは無くその意思も継承されるのだ。
暗黒神に、身体を乗っ取られてしまうのである。
「ユリウスは……ユリウスの魂は、どうなったのです……?」
言いつつも、ディアドラの胸には耐えがたい哀しみが生まれていた。
発した問いの答えは、聞くまでもない。
彼女の愛する息子・ユリウスは、あの優しい少年は──もう、この世にいない。
「だから、僕がユリウスですよ、母上」
ディアドラの悲しみを嘲笑うように、ユリウスが言った。
「ただ、ロプトウスの意識と融合しただけです。そして、ロプトウスと化した以上……」
そこでユリウスの口調が突然に変わった。優しげな少年の声に、禍々しさが加わる。
「ディアドラ、ユリア……。ナーガの力を受け継ぐお前たちは、我にとって邪魔者でしかない」
ユリウスが、左手に持った黒い聖書を高く掲げる。
ディアドラの目には、黒い魔力がその本に凝縮していくことが分かる。
やがて黒い竜の形を取った魔力が、ディアドラに向けて発せられた。
ズドォォォォン!
「がはっ!」
苦しげな声が、ディアドラの口から漏れ出た。
咄嗟に背中をユリウスに向け、抱きしめたユリアをかばったまではよかったが、その代わりに凝縮された暗黒の力をまともに受けてしまった。
強烈な衝撃が全身を襲い、ディアドラは跳ね飛ばされる。まず壁に、続いて石の床に、したたかに全身を打ちつけられる。
「うっ……ぐぅっ……」
激痛に顔をしかめる母を冷酷な表情で見下ろしながら、ユリウスが呟いた。
「手加減……しすぎたか……」
本当であれば、この一撃でディアドラの命を奪うつもりであったのだろう。
だが、今後も彼自身が使うことになるだろうこの部屋をあまり壊したくない、という意識が術の威力を弱めてしまったのか。
加えて、ディアドラが命を拾った理由はもう一つある。
ディアドラがまとう純白の法衣のような衣装の背中。ユリウスの術を受けた部分が黒く焼け焦げ、布地の間に織り込まれた紙のようなものが垣間見えている。
その紙は、神竜王ナーガの聖書の一節が書かれた護符だった。
ディアドラは、ただユリアをかばうためだけに背中を向けたわけではない。
マントのように羽織る、この守護の護符の織り込まれた法衣を盾のように使い、ユリウスの術を受け止めたのだ。
忌々しい気持ちで彼女を見ていたユリウスの視線が、ふと床に倒れ伏すユリアの方に向けられた。跳ね飛ばされたディアドラは、途中で彼女の身体を手放してしまっている。
「うっ……お母様……」
やはり全身をしたたかに打ちつけたのだろう。弱々しくつぶやく妹の方を見ながら、ユリウスが再び聖書を持った左手を高く上げた。
「や、やめて……」
ディアドラは呻く。
ユリアは、彼女のような法衣を纏ってはいない。先ほどと同程度の威力の術で、容易に致命傷となってしまうだろう。
全身の激痛に耐えながら、ディアドラは部屋の隅に立てかけてあった一本の杖に手を伸ばした。
(この杖のある方に飛ばされたのは、幸運だったわ……)
彼女は、既に覚悟を決めていた。
ユリウスの──いや、ロプトウスの力はあまりにも強大だ。ディアドラ一人ではとても太刀打ちできない。
このままでは、娘もろとも殺されてしまうだろう。
ならば──。
「ユリア……あなただけは……生きて!」
ディアドラが手にしたのは
有事のときのために、この部屋に備えてあったのだ。
そして、今こそまさにその有事のときである。
ユリウスの生み出した暗黒竜の力が、ユリアに伸びる。
一瞬早く、ディアドラは最後の力を振り絞って転移の杖を発動させた。
杖から発せられた輝きが、暗黒の力よりも先にユリアに届く。
少女の身体が、輝く光と共に消え失せた。