銀色の償い   作:垂江 シン

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ディアドラ視点に戻ります。
第一章の最後のパートです。


第一章 皇妃の苦悩④

 ユリウスの言葉には、悪意がある。

 アルヴィスとの出会いや、シグルドの死の前後のディアドラの行動に関しては、事実誤認とまではいかないものの、相当に露悪的な言い方をしている。

 

 それでもディアドラは、彼の言葉に反論できなかった。罪の意識が、反論する気力を奪っていた。

 彼女が何も言わないのをいいことに、ユリウスがさらに続ける。

 

「あの時、シグルド公子は知らなかったはずです。貴女が記憶を失っていることは……」

 

 その言葉に、ディアドラは、はっと顔を上げた。

 ユリウスの言うとおりだった。シグルドは知らなかったはずなのだ。彼女が記憶を失っているということを。

 

 ならば──シグルドとその仲間たちが、彼女の記憶喪失を知らなかったというのならば、あのときの彼らは、きっとこう考えたに違いない。

 ディアドラが、夫を捨ててアルヴィスの元に走ったのだ、と。ディアドラが、シグルドを裏切ったのだと。

 

 ──シグルド様を裏切った女のくせに。

 

 あの式典で聞いた言葉が耳の奥で蘇り、彼女の胸をえぐる。

 

 憎々しげなのは、当然だ。

 あの地で死んだ者やその遺族からしてみれば、ディアドラは彼らを裏切って殺し、自分だけが幸せを手にした悪辣な女なのである。

 

 そしてシグルドは──彼はあの時、いったいどのような気持ちだったのか。

 妻が自分を裏切ったと知った時。

 妻の愛が、他の男に移ったと感じた時。

 妻が愛しているのは、もう自分ではないのだと痛感させられた時。

 そしてその妻がいま愛している男に、無惨に殺された時──

 彼は、いったい何を思ったのか。

 

 ロプトウスの言う通りだ。

 シグルドの魂は、とても安寧に眠ることなどできないだろう。

 悲しみ、苦しみ、辛い気持ちに引き裂かれるような思いを抱きながら、彼はいまも彼岸を彷徨っていることだろう。

 

「違う……。違うの……」

 ディアドラの口から、嗚咽混じりの言葉が漏れた。

「知らなかったの……知らなかったのです……。ごめんなさい……ごめんなさい、シグルド様……」

 

 涙ながらにシグルドへの謝罪を口にする彼女を、ユリウスは冷たい目で見下ろしてきた。彼女の息子の口調で、母に言う。

 

「知らなかったのなら……記憶がなかったのなら、許されるというのですか、母上? それでシグルド公子の心の痛みは消えるのですか? 妻を奪われ、その妻が自分を殺した怨敵と結婚していることを知らされた、その心の傷が治るのですか?

 それなら、僕もこれからそうしましょう。僕がユリアを殺しても、『ロプトウスに意識を乗っ取られていたから、彼女が妹だとは知らなかった』と、そう言えば、貴女や父上や世の人々は、僕を許しくれるのでしょうね? 知らなかったのならば、何をしても罪を償う必要などないのですね?」

 

「あ、ああ……」

 ディアドラは、何も言い返せなかった。

 もはや、何を悲しめばいいのかも分からなくなっていた。

 シグルドの死か、自分が彼を裏切ってしまったことか、あるいは残酷なことを平然と言い放つ愛息の変わりようにか。

 

 その彼女に、ユリウスが冷たく言い放つ。

「それだけの罪を貴女は犯したのですよ、母上」

 

「……ごめんなさい、ごめんなさい……。ごめんなさい、シグルド様……」

 小さく呟くような声で、ディアドラはただひたすらに謝罪の言葉を繰り返し続ける。

 

 冷酷な息子の宣告を受けるまでもなかった。

 既にディアドラの心は、自身の犯した罪の重さに押しつぶされそうになっている。

 ついに、絞り出すような声でディアドラは言った。

 

「償い……ます……。あなたに……シグルド様に……償いを……」

 しかしその言葉も、ユリウスが残酷に突き放す。

「償いとは何ですか、母上? 死んでしまった者に、今さら何をどうやって償うのです? シグルド公子は、もうこの世にはいない。その者に、いったい何をすれば償いになるのですか? 公子を生き返らせることができるのですか? まさか、彼を思って祈り続けるだけ──だなんて仰いますまいな? そんなことが、いったい何の償いになるというのです?」

 

 罪の意識に苦しむ母に、息子として酷薄な言葉を投げかけた後、ユリウスが口調をロプトウスのものに変えた。妙に優しげな、猫なで声で言ってくる。

 

「……だが、確かにお前はまだ償えるぞ、ディアドラ。罪を贖う方法がある。何せ、お前は知らなかったのだ。記憶がなかったのだ。悪いのは、アルヴィスだ」

 

 邪悪な暗黒竜とはいえ、ロプトウスも神の一柱だ。信者に語りかけ、籠絡するときのような優しげな言葉で、巧みに彼はディドラに語りかけてくる。

 

「アルヴィスを恨み、憎み……断罪すればよい。

 何なら、我も手伝おう……。アルヴィスを、これ以上ないほど苦しませてから殺すのだ。夫の仇を取るのだ。それが、お前の償いだ」

 

 ロプトウスの邪悪な誘惑に、しかしディアドラは涙を流しながら首を振って抵抗をする。

 

「そんな……そんなこと……できない。できません……」

「なぜだ? なぜできないのだ? ディアドラ?」

 

 その理由を知っていながら、あえてロプトウスはディアドラに聞いてくる。

 彼女が自身の罪深さを思い知るように。彼女の罪の意識を高めるために、ロプトウスはディアドラに語り続けてくる。

 

「アルヴィスはお前の夫の仇だ。お前の最愛の男に無実の罪を着せ、汚名をかぶせた上で殺した憎むべき男なのだ」

 

 そしてユリウスは、また口調を変える。

 息子として、母に問い続ける。

 

「……その傍にいながら、なぜ貴女は夫の仇を取ろうとはしないのですか? 夫の無念を晴らし、その汚名をそそごうとはしないのですか? 貴女にとって、父上は憎んでも憎み足りない相手でしょうに」

 

 ゆっくりと、ユリウスがディアドラに歩み寄ってくる。

 ディアドラの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

「愛している……愛しているの……。アルヴィス様を……愛しているから……」

「最低の女ですね」

 

 言われるまでもなく、ディアドラはもう自覚している。それこそが、いまの彼女が犯している最大の罪だということを。

 

 彼女は、シグルドの死には直接的にも間接的にも関与はしていない。

 その死の直前に、彼と会ってしまったことも同様だ。

 直接に顔を合わせ、言葉を交わすまでは、彼女は自分がこれから誰と会うのかも知らなかった。結果的にとても残酷な行為をしてしまったわけだが、彼女にはどうすることもできなかったというのもまた、事実だ。

 ユリウスの言うとおり、それらは全てアルヴィスの罪である。

 

 ディアドラに罪があるとすれば、それは無関心だ。

 自身の過去の記憶、アルヴィスの所業──。

 彼女はそれを知ろうとはしなかった。

 知っていれば、アルヴィスを止めようとしただろうに。

 

 では、なぜ彼女はそうしなかったのか?

 

 アルヴィスを、信頼していたからだ。彼を、愛していたからだ。

 そして、それこそが彼女の最大の罪なのだ。

 

 アルヴィスを、愛してしまった──。

 

 シグルドの死は、避けられないことだったのかも知れない。運命だったのかも知れない。

 だがディアドラがアルヴィスを愛さなければ──誰も愛さずに、あの日まで過ごしていれば──。

 シグルドの死に、妻の不貞と、その見せつけという更なる悲劇は加わらなかった。

 そしてその場合、彼女はシグルドが夫であると知った後は、その死に対して悲嘆にくれ、彼の死を悼み、未亡人として死者の冥福を祈ることができたのだ。

 

 しかし現実は違う。

 彼女がアルヴィスを愛してしまったから、知らなかったとは言え──シグルドへの愛に対する裏切りという罪が発生した。そして彼に対するあまりにも非道な行為に繋がった。けして許されぬ行いに──。

 

 そして彼女は、今も罪を犯し続けている。

 ユリウスの話を聞いても尚、彼女のアルヴィスに対する愛は冷めていない。

 今でも、アルヴィスのことを愛している。

 夫の──最愛であったはずの人の仇であると知っても、ディアドラはアルヴィスを恨むことができない。憎むことができない。

 

 ──シグルド様を裏切った女のくせに……。

 

 その言葉は間違っている。

 そうではないのだ。

 

「裏切った」ではなく、「裏切っている」なのだ。

 

 現在進行形で、彼女はシグルドを裏切り続けているのだ。罪を犯し続けているのだ──。

 

 ディアドラの心に、絶望が広がった。

 限界まで膨らんだ罪責感が彼女の心を押しつぶし、真っ黒に染め上げていく。もはやディアドラは、動くことも言葉を発することもできなくなっていた。

 自分自身の罪深さに耐えかね、ただ目を見開いて小さな呻き声を発することしかできない。涙すら、とうに枯れ果てていた。

 

 ユリウスの両手が、ディアドラの細い首に伸び、十歳とは思えぬ力で締め上げてくる。

 ディアドラは抵抗もせずに、その息子の暴虐を受け入れた。

 

「クククッ……いいぞ。もう用済みのお前は、このままおとなしく運命を受け入れるがいい──」

 ユリウス──いやロプトウスのその言葉を、息のできない苦しみに喘ぎながらディアドラは聞いていた。

「……そうすれば、すぐにシグルドの元に送ってやる」

 

(シグルド様の……ところに……)

 

 苦悶に目を見開くディアドラの脳裏に、あの青い瞳をした騎士の顔が蘇る。

 だが、同時に彼女は思う。

 

(あの方の所に行って……どうなるというのでしょう……)

 

 いまさら彼女がシグルドの元に行ったとして、そこで何ができるのか。

 彼にどのような言葉をかけ、どのように謝罪をすれば良いのか──。

 

 この期に及んでも、彼女はアルヴィスを恨めずにいる。憎めずにいる。自分をシグルドから奪い、それを見せつけた後に彼を焼き殺した、憎んでも憎みきれぬほどの男のはずなのに──。

 

 そんな彼女が何を言っても、きっとシグルドは許してはくれないだろう。こうしている今も、自分は彼を裏切り続けているのだ。

 

 そもそもこんな自分が、シグルドのところになど行けるのだろうか。

 死後の世界というのが本当にあるのかどうかは分からないが、例えあったとしても、シグルドがいるのはおそらく死後の英雄が集うという喜びの地(ヴァルハラ)だろう。

 だが、ディアドラが行くのは地獄の方だ。

 

(それだけの罪を、私は犯してしまった……)

 

 いま死んでも、彼女はシグルドのところには行けない。彼と会うことは、もうできない。

 

 それでもディアドラは、いまやユリウスに殺されることを望んでさえいた。

 愛する息子に殺される運命を、受け入れていた。

 

 地獄に堕ちて、シグルドとはもう二度と会えないというのであれば、それこそが彼女が犯した罪に対する罰だ。

 死後の世界などというものはなくて、このまま死ねば、ただ消えてなくなるだけなのだとしても、それはそれで構わない。

 いや──むしろその方がいいのかも知れない。

 

 そうすれば──このまま消えてなくなれば、楽になれるのだから。

 もう、この心の苦しみに責め苛まれることがなくなるのだから──。

 

 ディアドラの意識が、徐々に薄れていく。

 

(ああ……。これで楽になれる……。ごめんなさい、シグルド様……わたし……)

 

 そこで、彼女の思考は一度途切れた。

 

 その瞬間──

 

 ディアドラの額のサークレットが、眩い光を放った。

 驚愕に目を見開いたユリウスが、彼女の首から手を放す。

 光はまるで質量があるかのように、そのままユリウスの身体を押し流し、ディアドラから引き剥がしていく。

 

 意識を失う最後の瞬間、ディアドラの瞳には、ユリウスと自身との間に立ちはだかる何者かの背中が映っていた。

 顔は見えなかったが、不思議と彼女はそれが誰だか確信していた。

 

(シグルド……様……)

 

 そうして、ディアドラの意識は闇へと沈んでいった。

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