田中の勤務先は、商店街から車で十分ほどの場所にある電子部品メーカーだった。
目暮警部が事情を説明すると、総務課長が応接室へ案内する。
「田中が事件に巻き込まれたと聞いて驚いています」
「今日は午後から外出するとだけ聞いていました」
小五郎は静かに尋ねる。
「外出の理由は聞いていますか」
「詳しくは聞いていません」
「ただ、『少し用事を済ませてきます』と言っていました」
総務課長は少し考え込む。
「そういえば昼休みに一本、電話が掛かってきていました」
「その電話を受けた後、田中は少し急いで席を立った様子でした」
コナンは心の中で頷く。
(その電話で待ち合わせが決まったのか)
小五郎はさらに質問を続ける。
「最近、田中さんに変わった様子はありませんでしたか」
「仕事で悩んでいるとか」
総務課長は首を横に振る。
「仕事はいつも通りでした」
「ですが、一週間ほど前から『昔の知り合いにしつこく連絡されて困っている』と話していました」
目暮警部が身を乗り出す。
「名前は聞いていますか」
「いえ」
「そこまでは」
その時、高木刑事が手帳を開いた。
「警部」
「携帯電話の着信履歴です」
「事件のおよそ二十分前、公衆電話から一本だけ着信があります」
「発信者は分かっていません」
小五郎は静かに頷いた。
「待ち合わせの連絡でしょう」
「公衆電話を使ったのは、自分の足取りを残したくなかったからかもしれません」
コナンも同じことを考えていた。
(やっぱり計画的だ)
(でも、何のために待ち合わせたんだ……)
小五郎は総務課長へ一礼した。
「ご協力ありがとうございました」
応接室を出ると、目暮警部が口を開く。
「毛利君」
「事件の輪郭が少し見えてきたな」
小五郎はゆっくり頷いた。
「ええ」
「ですが、一番大事なことだけが、まだ分かっていません」
「ケースの中に何が入っていたのか」
コナンも静かに頷く。
(そこが分からない限り、この事件は解けない)
電子部品メーカーを後にしようとした、その時だった。
高木刑事の携帯電話が鳴る。
「はい、高木です」
相手の話を聞くうちに、高木刑事の表情が明るくなった。
「本当ですか」
「分かりました」
通話を終えると、目暮警部へ向き直る。
「警部」
「病院からです」
「田中さんの意識が戻りました」
「事情を聞ける状態だそうです」
目暮警部は頷く。
「よし」
「病院へ向かおう」
一行はそのまま病院へ向かった。
病室の前で担当医と合流する。
「命に別状はありません」
「まだ安静は必要ですが、短時間ならお話しいただけます」
「ありがとうございます」
目暮警部が一礼し、病室へ入った。
ベッドの上では、田中がゆっくりと身体を起こしていた。
「田中さん」
「体調はいかがですか」
「……何とか」
まだ顔色は優れないが、受け答えはしっかりしている。
小五郎はベッドのそばへ歩み寄った。
「田中さん」
「今日、あなたと会っていた男性についてお聞きします」
田中は静かに目を閉じ、小さく頷く。
「知り合いです」
「昔の……取引先の人でした」
目暮警部が尋ねる。
「なぜ会うことになったんですか」
田中は少し迷ってから答えた。
「昼頃に電話が掛かってきました」
「『金を返すから会ってほしい』と」
コナンは小さく息をのむ。
(返済の約束だったのか)
田中は続ける。
「借用書を持ってきてくれと言われたので……」
「私は黒いケースに入れて持って行きました」
病室の空気が張り詰める。
小五郎は静かに尋ねた。
「現場で何があったんですか」
田中はゆっくりと記憶をたどるように話し始めた。
「最初は普通に話をしていました」
田中はゆっくりと言葉を選ぶ。
「野口は『今日はちゃんと返す』と言っていました」
「私はケースを取り出し、『現金を確認してから渡す』と伝えました」
目暮警部が静かに聞き入る。
「それで」
「野口は急に態度を変えました」
「『先に借用書を渡せ』と言い出したんです」
コナンは心の中で頷く。
(返済する気はなかったのか)
「もちろん、断りました」
「金を受け取る前に借用書を渡す理由はありませんから」
田中は小さく息をつく。
「すると、野口がケースを奪おうとしてきました」
「私は離すまいとして……」
そこで言葉が止まる。
「揉み合いになったんですね」
小五郎が静かに尋ねる。
「はい」
「その直後です」
「急に、大きな破裂音が聞こえて……」
「驚いた瞬間、胸に強い衝撃を受けました」
「そこから先は、覚えていません」
病室が静まり返る。
目暮警部が腕を組む。
「返済すると呼び出しておいて、借用書だけ奪おうとしたわけか」
小五郎は静かに頷いた。
「事件の流れは見えましたな」
「ですが、まだ証拠が足りません」
コナンは考え込む。
(ケースは現場のどこかにある)
(見つかれば、野口が借用書を奪おうとした証拠になる)
小五郎は田中へ一礼した。
「ご協力ありがとうございました」
「どうか、今は治療に専念してください」
病室を出ると、目暮警部が口を開いた。
「毛利君」
「現場へ戻るか」
「ええ」
小五郎は静かに頷いた。
「今度はケースを探します」
「事件の決め手は、まだ現場に残っているはずです」
再び商店街へ戻ると、規制線の内側では鑑識による現場検証が続いていた。
目暮警部は鑑識員へ声を掛ける。
「新たに探してほしい物がある」
「黒い小さなケースだ」
「周囲を重点的に調べてくれ」
「分かりました」
鑑識員たちは捜索範囲を広げていく。
一方、小五郎は何も言わず、ゆっくりと現場を歩き始めた。
パン屋の入口。
田中が倒れていた場所。
そして、二人が揉み合っていたと証言された位置。
その三か所を何度も見比べる。
コナンも後ろからその様子を見守っていた。
(おじさんはケースを探してるんじゃない)
(ケースが落ちそうな場所を考えてるんだ)
小五郎は歩道の縁で足を止め、静かにしゃがみ込んだ。
視線の先には、排水溝の金網がある。
「警部」
「この排水溝を確認してもらえますか」
目暮警部はすぐに頷いた。
「高木君」
「蓋を開けてくれ」
「はい」
二人の警察官が金網を持ち上げる。
鑑識員がライトで中を照らすと、奥の隅に黒い物が引っ掛かっていた。
「あっ!」
高木刑事が思わず声を上げる。
「ありました!」
鑑識員が慎重に回収すると、それは目撃証言どおりの黒いケースだった。
コナンは思わず息をのむ。
(やっぱりここに……)
目暮警部は小五郎を見る。
「なぜ排水溝だと思ったんだね」
小五郎は落ち着いた口調で答えた。
「田中さんは今、ケースを持っていない」
「野口はケースを持ち去れなかった」
「それなら、揉み合いの最中に落ちたと考えるのが自然です」
「この商店街の排水溝は、歩道に向かってわずかに傾斜している」
小五郎は金網の縁を指でなぞった。
「小さな物なら、揉み合った拍子に転がってここへ落ちるのは自然です」
目暮警部は感心したように頷く。
「なるほど」
その時、ケースを確認していた鑑識員が顔を上げた。
「毛利さん」
「ケースの中に借用書が入っています」
「それと、表面から複数の指紋も採取できそうです」
小五郎は静かに微笑んだ。
「十分です」
「警部」
「これで野口に、言い逃れはできません」
その日の夕方。
警視庁の取調室。
目暮警部の要請で、野口は任意同行に応じていた。
野口は腕を組み、無表情のまま椅子に腰掛けている。
「何度も言いますが」
「私は田中さんと話をしただけです」
「事件とは関係ありません」
目暮警部は静かに小五郎へ視線を向けた。
小五郎は野口の正面へ腰を下ろす。
「野口さん」
「あなたは田中さんを『金を返す』と言って呼び出しましたね」
「……」
「田中さんは、その言葉を信じて借用書を持ってきた」
「ですが、あなたは返済する気など最初からなかった」
野口は鼻で笑う。
「証拠でもあるんですか」
「あります」
小五郎は机の上へ黒いケースを置いた。
「これは現場の排水溝から見つかりました」
「中には田中さんが持参した借用書が入っていました」
野口の表情がわずかに変わる。
「さらに」
「ケースからは複数の指紋が検出されています」
「あなたの指紋も、その中に含まれている」
野口は黙り込んだ。
小五郎は落ち着いた口調で続ける。
「返済すると見せかけて田中さんを呼び出し、借用書だけを奪おうとした」
「しかし田中さんが拒否したため揉み合いになった」
「その最中、ケースを落としてしまった為、あなたは借用書を回収できず、事件後に現場へ戻って探していた」
取調室に沈黙が流れる。
やがて野口は深く息を吐いた。
「……その通りです」
高木刑事が身を乗り出す。
「破裂音は何だったんだ」
野口は力なく答えた。
「昔勤めていた工場で、強度試験用の簡易器具を自分で作ったことがあって……」
「その時の試作品が家に残っていたんです」
「脅かすだけなら、それで音を出せば十分だと思ったんです」
目暮警部が険しい表情で言う。
「その音で田中さんを驚かせ、その隙に借用書を奪うつもりだったんだな」
野口は小さく頷いた。
「はい……」
「ですが、驚いた拍子に彼はケースを落としてしまいました」
「探したんですが、人が集まってしまって……」
「だから現場へ戻ったのか」
小五郎が静かに言う。
「ですが、その行動があなた自身を事件へ結び付ける証拠になりました」
野口は観念したようにうつむいた。
目暮警部は立ち上がる。
「野口さん」
「今のお話も含めて、詳しく調書を取らせてもらいます」
野口は抵抗することなく、小さく頷いた。
その様子を見ながら、コナンは小五郎の横顔を見つめていた。
(俺は事件の流れには気付いていた)
(でも、おじさんは最後まで証拠を積み重ねて、誰も反論できない形で真実を証明した)
(これが、本当の探偵なんだ)
取調室を出ると、目暮警部が小五郎へ歩み寄った。
「毛利君」
「今回も助かったよ」
小五郎は軽く頭を下げる。
「いえ」
「現場の証拠と、皆さんの聞き込みがあったからです」
高木刑事は苦笑しながら言った。
「でも、排水溝を調べようなんて、私には思い付きませんでした」
小五郎は静かに笑う。
「現場には答えがあります」
「人の記憶は曖昧でも、証拠は嘘をつきません」
その言葉に、高木刑事は大きく頷いた。
警視庁を出る頃には、空は茜色に染まっていた。
帰り道。
コナンは小五郎の隣を歩いていた。
「おじさん」
「何だ」
「最初からケースが事件の鍵だって思ってたの?」
小五郎は少しだけ考えて答える。
「鍵だと決めつけたわけじゃない」
「ただの元刑事の勘だ」
「元刑事の勘?」
「ああ」
「証人は揉み合いになったことよりも、『黒いケースが落ちた』ことを覚えていた」
「それだけ証人にとって目立つ物だったということだ」
コナンは心の中で頷く。
(証言の"違和感"を拾ったのか)
「それに」
小五郎は続ける。
「事件の後、あの男は現場へ戻っていた」
「人は自分にとって大事な物が残っている場所へ戻る」
「それだけの話だ」
コナンは思わず笑みを浮かべる。
(俺は犯人ばかり見ていた)
(でも、おじさんは犯人が"何を求めて行動したか"を見ていたんだ)
毛利探偵事務所の明かりが見えてくる。
小五郎は階段へ向かいながら振り返った。
「コナン」
「今日はよく現場を見ていたな」
「……え?」
「お前がパン屋の男を気にしていたのは分かっていた」
コナンは少し照れくさそうに笑う。
小五郎は穏やかな表情のまま続けた。
「違和感に気付く目は、探偵にとって大事な才能だ」
「だが、本当に事件を解決するのは才能じゃない」
「一つ一つの証拠を積み重ねて、誰も否定できない真実にたどり着く泥臭さだ」
「それが探偵の仕事だ」
コナンはその言葉を胸の中で繰り返した。
(誰も否定できない真実……)
「うん、わかった!」
コナンは力強く頷く。
小五郎はそれ以上何も言わず、階段を上っていった。
その背中を見つめながら、コナンは静かに微笑む。
(次は、もっとおじさんの力になろう)
そう心に決め、コナンも小五郎の後を追った。
――File.2 商店街の銃声 完
この作品はかっこいいおじさんを書きたいという趣味だけでできています。