楓さん。
彼女を端的に説明するとなると、そうだね。
この現代において、ドが付くほどの大真面目。
曲がったことは許さず、ただひたすら自身の正義を重んじている人だ。
両親が警察官だとかいう話を、いつだったか小耳に挟んだことがある。
そんな彼女が向かった世界は――
『救助対象、オーリリア。現在その世界では、ある奇妙な現象が蔓延しているようでして』
「ほぉ」
『それは……過度なストレスを受け続け精神のキャパシティがある一線を超えると化け物に変貌してしまう病、らしく?』
なんで疑問形なんだ。
管理局ですら全容を把握できていない、ということだろうか。
「じゃあ、カエデさんはその病の原因を叩くか、あるいは治療しにオーリリアに向かった。……で、ぼくはそのサポート?」
『そうなりますね。終末因子はその病そのもの――詳しく付け加えるのなら、その病によって百年先に生まれる化け物が終末因子となります』
「……百年後? 扉は時間を自由に行き来できるんだよね? 直接それを討伐すればいいんじゃないの?」
『管理局の未来演算機によると、その個体の討伐は不可能に近く、仮に倒せたとしても周囲の被害は甚大。結局そのまま世界が滅んでしまうようです』
「なるほど……、あ――」
そこで、ふと一つの疑問が湧いた。
「カエデさんの祝福ってなんだっけ? たしか――」
『楓さんの祝福は、自身の肉体改変、および他者へのそれです。傷を治したり、あるいは腕を増やしたりできます』
「ふん……」
これは以前リリィルから聞いた話だが、クラスメイト達は自身の祝福に適した世界に送られるらしい。となると……なんだ。カエデさんの祝福を使って、その病を消し去る、とかだろうか。
ぼくが攻略法について頭を悩ませていると、リリィルが何かを思い出したように声を弾ませた。
『ところで同志、デスク三段目の引き出しを開けてください』
「はぁ」
リリィルの指示通り、ぼくはデスクの三段目を開けてみる
すると、そこにはチープなおもちゃの銃が転がっていた。赤と青で塗られた、SF映画で宇宙人が持っていそうなプラスチック製の光線銃だ。
『今回向かう世界は、同志にも危険が及ぶ可能性が非常に高いので、一応それを持っておいた方がよいでしょう。ただ、乱発はできないのでご注意を』
「……これが、武器?」
どこからどう見ても、駄菓子屋の隅に吊るされているおもちゃにしか見えない。
これでいったい何をしろと言うんだ。
『引き金を引くとすごい爆発をします。本当に、ものすごい爆発が起きます』
何それ怖い。
そんな武器が必要な程に、危険な異世界なのだろうか。
「……死なないようにしよう」
危険かどうかは、現地に行けば嫌でも分かることだ。
よし、今回は変なことにならないように頑張るぞー。
◆
扉を抜けると、そこは一面の灰色の町だった。
空気が汚染されているのだろうか。霧よりもなお濃い、ひどく煤けた煙が立ち込めていて、視界が恐ろしく悪い。
「この煙が怪物化の原因?」
『……いえ。私が以前に観測した時には、このようなものは存在しなかったはずなのですが』
「ふん……」
極力、その空気を吸い込まないように袖で口元を覆いながら、ぼくたちはカエデさんを探すことにした。リリィルが言うには、カエデさんがいる座標のすぐ近くに転移したらしいのだけれど……。
「それにしても、人がいないな」
灰色の煙もさることながら、街の雰囲気は明らかに異常だった。
活気がまるでない。まるでゴーストタウンのように、街全体がひっそりと静まり返っている。
開いた窓の隙間から、ぼくたちを怯えたように覗き込んでくる子供の姿もあったが、目が合うとすぐにパッとカーテンを閉められてしまった。
「これは……酷いな……」
これでは埒が明かない。そう思った直後、ようやく人影を発見した。
ちょうど通りに、激しい咳き込みをしている青年が一人、力なく壁に寄りかかっていたのだ。
「申し訳ない。この付近に『カエデ』という名前の女性は?」
青年は一瞬、怪訝そうな目をぼくに向けたが、その名前を聞いた瞬間に納得したように表情を和らげた。
「……先生のことか。先生なら、今日もあの奥の建物にいるだろう。もう何日も寝ていないはずだ。頼むから、あまり無茶はさせないでやってくれ」
「……? ……ありがとう」
◆
そして歩くこと数分、意外なほどあっさりと再会は果たされた。
ぼくが件の建物へと向かっている最中、路地の角から歩いてきたカエデさんとバッタリ遭遇したのだ。
「リリィル、貴方なんでこの場所にいるのよ!?」
驚愕した様子でぼくの偽名を呼んだのは、白衣を羽織っている——間違いなくクラスメイトの楓さんだった。
彼女はどうやら、この街で医者まがいの事をやっているらしく、そのまま拠点となっている建物へと招待された。
診察室らしき一室で、彼女はぼくをじっと見据える。
「ふーん……つまり、君は私のお手伝いをしに来てくれたんだ?」
「そういうことになるね。とはいっても……あまり戦闘や専門的な治療には期待しないでほしい」
「相変わらず頼りないわね……。でも、感謝はするわ!」
カタリ、とカップを揺らし紅茶を口に運ぶカエデさん。
ぼくは一先ず、この街に入った瞬間から気になっていた疑問を口にする。
「ところで、外のあの灰色の煙は一体? 前、ぼくが観測した時にはあのような物は見えなかったはずだけど」
実際に観測したのはぼくじゃなく本物のリリィルだが、今はぼくが『女神リリィル』の器を借りているんだ。嘘にはならないだろう。
そう思って何気なく放った言葉だったが、カエデさんはピクリと眉を動かした。
「……ぼく? キャラ変したの?」
「あ、いや……ごめん、気にしないで。それより煙の話を」
「そう? まぁいっか。で、あの煙だけど……詳しくは私も知らないんだよ。いきなり沸いて変わらずそのまま、最初は吸い込んだだけで数多の症状が出ていたのだけれど、私の能力でそれも封じた」
何?煙を封じた?まさか、あの煙は——
「——人間?」
「私の能力が使えるってことはそういうことになるね。付け加えるなら、歪んだ人間」
歪み――過度なストレスを受け続け、精神のキャパシティが決壊した人間が化け物に変貌してしまう病。この世界ではそれを『歪み』と呼ぶのだという。
それにしても……カエデさんの能力は、原型を留めていない人間にすら作用するのか。それなら、この世界を治すことも簡単……とはいかないのだろう、彼女のその疲弊しきった顔を見る限り。
「とりあえず、ぼく——私にできることは無いかな?」
「逆に……何ができるの?」
え、ぼくって何ができるんだろう。
女神様、ぼくって何ができるんでしょう?
『……神の権能により、様々な後方支援が可能です。物資の運搬、人員の捜索・補給、神聖力による一時的な結界の展開など――』
ぼくは頭の中で囁くリリィルの声を、そのまま口にする。
「ふーん……ありがとう。欲しい物は紙に書いておくから」
一先ず、これで今後ぼくのやるべき仕事は明確化された。
ただ……物資の補給や結界の展開は、あくまでただの延命に過ぎない。その場しのぎの停滞だ。
この世界の終末因子――その根本である病そのものを排除しない限り、根本的な解決にはならない。
その旨を伝えてみると、カエデさんはあっさりと首を振って。
「あー……それは私に任せてよ。一応、いい案があるからさ」
「なら、クリアはもう目前?」
「まぁ、そうだね。そうなると思う。今、隔離病棟に『歪んだ人間』を集めさせてもらってるの。それを使って研究をしてるからさ。あとは時間の問題かな」
——人体実験、か。
いや、世界を救うための彼女なりのアプローチだし、部外者のぼくがケチをつけるつもりは無い。ただ、少し……いや、明らかに彼女らしくないな、と思っただけだ。
「ちなみに……その研究はいつ頃終わる見通しか、聞いてもいいかい?」
「もちろんだよ。あと二月か三月ってとこかな」
なるほど、ね。
あと数ヶ月も、この街に付き合わされるのかと思うと早くも眩暈がするが、彼女の計画が順調なら、大人しく言われた通りの物資を運んでサポートに徹するのが最善だろう。
◆
それから、さらに一月が流れた。
ここ一ヶ月の間、ぼくの仕事はリリィルと連携しての物資の運搬や人員の捜索・補給といった作業に終始していた。
すべては、カエデさんが研究に没頭するための快適な環境作り。ただそれだけのための日々。
この期間で分かったことだが一つ。
カエデさんの研究内容とは、自身の祝福を用いて人間の精神と肉体を強引に保護し、これ以上歪みを発生させないための予防法を探すことらしい。
とにかく上手くいくことを願うばかりだ。
解決が早ければ早いほど、ぼくの現実世界への帰還が早くなるのだから。
「せーっの、引けぇぇぇ!!! 耐えろ!!!」
街では、小さな「問題」が発生していた。
「歪みがそっちに逃げたぞ! 管理区域の方だ! 追え!」
窓の外を見下ろすと、大勢の大人たちが武器や捕獲網を手に、血相を変えて走り回っていた。
そう、新たな『歪み』の発生、あるいは隔離されていた実験体の脱走。
当然、カエデさんが治療法を研究している間にも、この世界の人間が精神のキャパシティを超えて歪むのは止まらない。
そして、ぼくといえば。
「見ているだけ……」
『戦いにいってはいけませんよ? 死にますからね?』
「行かないよ。以前のあれで懲り懲りした」
数日前、依頼された物資を運ぶために少し外を出歩いていた時のことだ。
道端でうずくまっていた、なんの変哲もない、ただの知らないお爺さん。彼が、ぼくの目の前で突然『歪んだ』のだ。
苦しげに喉を掻き毟り、血を吐きながらのたうち回ったかと思えば、その肉体が内側から骨を突き破るようにして異形の怪物へと変貌していく凄惨な光景――。
あやうく死にそうになり、ぼくは心に決めた。絶対に歪みとは関わらないとね。
ぼくの役割はあくまでサポート。
この世界でヒーローになるべきなのは、ぼくではなく、クラスメイトの彼女なのだから。
「だから、ここは大人しくカエデさんが解決してくれるのを待つのが一番……」
「私が何って?」
気が付くと、背後にいつの間にか彼女が立っていた。
「カエデさん、いるならいる返事を」
「今来たばっかりだからね」
少し疲れたようにニコリと微笑んで、彼女はぼくの隣の丸椅子に腰を下ろした。
「研究の進捗は?」
「……ダメ。あまり上手くいってない」
「そ、っか」
ここ最近は、いつもこの具合だ。
ここひと月、彼女の研究には目立った進捗がまるで見られないようだった。
まぁ、それでもあの大真面目で責任感の強いカエデさんのことだ。最終的にはどうにかクリアまで持っていくだろう。
彼女の勤勉さは元の世界でも折り紙付きだったし、ぼくが余計な心配をする必要なんてない。
だから、きっと大丈夫。少し時間がかかっているだけ。
ぼくはそう自分に言い聞かせ、管理局から運んできた新しい物資を彼女に手渡すのだった。
◆
そして、また一月が流れた。
致命的な問題が生じた。
彼女の研究仲間が歪んだのだ。
一番身近にいて、最もその危険性を理解していたはずの人間すら、ストレスに耐えかねて化け物になってしまった。
ボロボロに擦り切れたカエデさんの背中に、ぼくがかけられる言葉は、何処にも無かった。
◆
そんな事件からさらに数カ月。
リリィルが、ある提案を口にした。
『一度、この世界オーリリアの救助を中断します』
「……やはり、そうなるのか」
『ええ。これ以上のリソースの停滞は許されません。別の、より救助難度の低い世界へ人員と資源をつぎ込むべきだと、管理局が最終的な判断を下しました』
気がつけば、この街に来てから一年近くが経っていた。
それだけの時間を費やしたというのに、肝心の研究結果は一向に見えてこない。
その間、ぼくがやれた事といえば、ただの物資の運搬と、街で暴れる歪みの後始末だけ。
何一つ、根本的な解決に繋がっていなかった。
「——」
……ぼくの胸の中には、どうしても拭いきれない大きな疑問が残っていた。
管理局は、すべての世界の「因果」を未来演算機によって計測できると聞いている。
その管理局が事前に計測した結果、この世界にはカエデさんが適任であり、彼女こそがこの世界を救うという確定した未来が出たからこそ、ぼくたちはここに派遣されたはずなのだ。
——ぼくは何か、致命的な事を見落としているのか?
「……というわけでカエデさん。ぼくは一度戻ります。ですが、最低限の物資の補給と人員の提供はこれまで通り続けますので、そこはご安心を」
その決定を告げても、カエデさんは驚きもしなかった。
「そう」
こちらを見ようともせず、ただ投げやりな返答が返ってくるだけ。
彼女はただ、文字列をガリガリとノートに書き殴り続けている。部屋を出ようと、ぼくが背を向けたその時だった。
「君は、帰れるんだね」
ポツリと、ひどく掠れた声が聞こえた。
帰れる、というわけでは無い。
確かに彼女の目線から言えば、ぼくはいつでも管理局へと戻れるし、そこが実家のように見えるかもしれない。けれど、ぼくの本当の地元は地球だ。ぼくだって帰れやしない。
だが、そんな反論をするつもりは毛頭なかった。
沈黙を背にして、ぼくが再び扉へ歩き出そうとすると。
「一つ、質問があるんだけどさ」
「……」
「君は一体だれ? あの女神じゃないよね?」
心臓が、ドクリと嫌な音を立てて跳ねた。
予想外すぎる問いに、ぼくは思わず足を止めて唖然とする。
「やっぱり違うんだ。……中身が違う? それとも別の何か?」
悩んだ末に、ぼくは。
「…………前者だよ。クラスメイトに最後まで祝福が宿らなかった奴がいただろう?」
「あぁー。君か……どうなったのかと思ってたけど、ちゃんと就職先を見つけられたんだ。ちなみに、君は生きて帰れるの?」
「あと何十個世界を救えばね」
ぼくの答えに、カエデさんは「うわー……」と低く引き笑いをした。
そして彼女はポツリと「よかった」とこぼし。
「最初に会った日、覚えてる? 紅茶を淹れたでしょ」
そういえば、おもてなしだとか言われて紅茶を一杯出された気がする。
すると、彼女は視線をこちらに向け。
「あれ、本当は毒を入れるつもりだったんだよ」
「……へ?」
「物資の運搬をしてくれるから止めておいたけどさ。本当に良かったよ、女神を殺しても中身が君なら意味が無いもんね」
「急に、何を言って……」
「だって、当たり前でしょ?」
カエデさんはノートからペンを離し、ゆっくりと椅子の背もたれに身を預けた。
「いきなりこんな滅びかけの異世界に連れてこられて……私が今まで死ぬ気でやってきた勉強は全部無意味になって、家族も消えた。ご飯も美味しくなくて娯楽も無くて、寝る時間も無い。そんな中で、無理難題な世界を救えだなんて。元凶を恨んで、殺そうとして当然じゃない」
本気でそんなことをしようとしていたのか?
あの、曲がったことが大嫌いで、規律を何より重んじていたカエデさんが?
前までの、学校にいた頃の彼女なら、このようなことは絶対に――。
――違う。
違うんだ。ぼくの認識が甘すぎたんだ。
そもそも、こんな世界に放り込まれて、たった一人で一年近くも化け物相手に戦わされて、正気でいられるはずが無かったんだ。
「あぁ。でも、最悪だよ。八つ当たりだってことは、自分でもちゃんと理解してるけどさ……」
カエデさんはそう言って、ひどく虚ろな目で視線を落とした。
「せめて……あの女神だけは……道連れにしてやりたかったな……」
それを最後に彼女は何も言わなくなった。
カエデさんの視線は、机の上にある二つのティーカップに注がれていた。
「もう……十分頑張ったよね」
◆
それから、一月が経った頃。
事態が急変する。
——オーリリアが、救助された。
「は? オーリリアが? カエデさんの世界が?」
報告を聞いた瞬間、ぼくは激しい混乱に陥った。
何が起きた?カエデさんは一体何をした?なぜ、どうやって、研究が完全に行き詰まっていたはずの彼女が、たった一月で世界を救い得たんだ?
『……同志、オーリリアに向かう扉の準備は済ませてあります。今すぐにでも』
リリィルの指示に従い、ぼくはすぐさま管理局を後にした。
◆
「……何が起きたんだ、これ」
扉を抜けたぼくは、その光景に言葉を失った。そこは、どこにでもある普通の街だった。
視界を悪くしていたあの灰色の煙は、どこにも蔓延していない。
「……?」
……静かだ。
以前までなら、常にどこかから歪んだ怪物の叫び声や、住人たちの怯える悲鳴が響き渡っていたはずなのに。
今の街は、夜風の音しか聞こえないほどに静まり返っている。
「本当に、救ったんだな」
よかった、と心の中で安堵する。
そうだよな。
管理局のデータは確かに示していた。世界の終末因子が完全に排除された、と。
ぼくの今回の任務は、世界救助の条件を満たして現実世界へ帰還する資格を得たカエデさんを、この世界から連れて帰ること。
「いや、でもなにか……」
静かな世界なのに、ぼくの心拍音だけが耳障りなほどにうるさかった。
「カエデさん」
胸騒ぎを抑えながら、彼女が住んでいた病院へと急ぐ。
終末因子は排除された。世界は救われた。
なのに、この背中にまとわりつくような薄気味悪い恐怖は一体なんだ。
ぼくは全身の血が引いていくような恐ろしさに突き動かされ、ただ、ただ怖くなって。
「カエデさん!!!」
静寂を切り裂くように彼女の名前を叫びながら、診察室の扉を勢いよく開け放った。
「……うるさい。静かにして」
扉の向こうに、彼女がいた。
毛布一つないガランとした空間で、彼女はただ、力なく雑魚寝をしていたのだ。
「よかった。……生きて」
「久しぶり……リリィルじゃないんだよね?」
「うん、ぼくだ。いきなり、終末因子が消えたって聞いて、飛んできたんだけど……」
彼女は睡魔に襲われているのか、虚ろな目でぼくをぼんやりと見据える。
「そう、そっか、よかった」
彼女は力なくそれだけ呟くと、再びゆっくりと目を閉じた。床に顔を伏せ、また眠りにつこうとする。
いや、この状況で二度寝しないで。
「ちょ、ちょっと待って、今二度寝は……せめて状況の説明を。それに、君は元の世界に帰れるんだよ」
「うん、帰るから。帰るから待って……。ただ、少しだけ休憩させて」
休憩、か。
呆れるよりも先に、彼女の横顔が痩せ細っていることに気がついた。
「明日の朝には元の世界に帰るからさ。一日程度……いいよね?」
「……分かった。多分、それくらいなら管理局も待ってくれると思う」
「そっか、ありがと……」
カエデさんは瞳を瞑り、意識を微睡みの底へと沈めながら語り続けた。
「私の研究結果……っていうか、ただの日記だね。それは奥の書斎の机に置いてあるから、適当に回収しといて。多分、これからの君の助けになるからさ」
「ぼくの?」
「君は、この後も他のクラスメイトの世界を救いに行かないといけないんでしょ? ……この世界を私がどうやって救ったのか、その方法が全部書いてあるから。あれは、君に託すよ」
それは、これ以上ないほどありがたい申し出だった。
管理局のデータだけでは分からない、現場の生の攻略法。
「それと、これもあげる」
カエデさんはかすかに目を開けると、自身の耳元に指を差した。
そこには透き通った蒼色のイヤリングがあった。
「取って」
促されるまま、ぼくは膝をつき、無言で彼女の耳元へと指を伸ばした。
そっと触れた彼女の耳たぶは、驚くほど冷え切っていた。
衣服に引っかからないよう慎重にイヤリングを外すと、手のひらの上でその蒼い結晶がかすかな熱を帯びる。
「それは、私の祝福を研究した結果。……能力そのものの固形化の成功例。とはいっても、結局それ一つしか作れなかったんだけどね」
カエデさんは満足そうに、薄く、本当に優しい微笑みを浮かべた。
「それをつけてみて。……つけるとね、心が、すごく楽になるよ」
そもそも、この女神の肉体にピアス穴はあるのだろうか。
そんな疑問が頭をよぎったが、ぼくはそれを口にせず、蒼い結晶を大事に懐へと仕舞い込んだ。
「それじゃ、伝えたいことは明日ちゃんと伝えるから。……朝まで、静かに寝させてよ」
「せめてベッドか何かで寝たらどうかな? 毛布くらいなら持ってこられるけど——」
「——なに? 一緒に寝たいの? 君、中身は男の子でしょ?まあ、別にいいけどさぁ。ほら、おいでよ」
カエデさんは床に丸まったまま、いたずらが成功した子供のように薄く笑って、自分の隣のスペースをぽんぽんと叩いた。
ぼくは呆れたように、緩く首を振る。
「ごめん。ぼくにそんな度胸は無いし、元の世界で訴えられたくないんだ。……また明日、朝になったら会おう」
「ふふ、そうだよね。そう言うと思ったよ。せっかく女子の体に入ったのに、この一年、私に一度も悪さしなかったもんね」
微睡みの中へ落ちていく彼女の言葉を背中で聞きながら、ぼくは今度こそ、静かに診察室の扉を閉めた。
向かう先は、彼女の書斎。
目的はただ一つ、彼女がこの世界をどうやって救ったのか、その真実を知るため。
ぼくは軋む音を立てる扉を開いた。
埃っぽい部屋の真ん中、ポツンと置かれた机の上に、一冊のノートが残されていた。
ぼくはそれを手に取る。
窓から差し込む青白い光だけを頼りに、一頁、一頁、後半になるにつれて酷く歪んでいく彼女の筆跡を読み進めていった。
そこに書き殴られていた内容は——
——私の力は人体に作用するものだ。
——当初、幾つか案があったが、煙を使用することにした。効率的で、一番苦痛が無いはずだ。
——私は、煙に祝福を用いて————この町以外に————
——成功した。
——あとは——町の———
やはり。
やはり彼女は、世界を救ったのだ。
己の手で。
「……」
ふと、窓の外から淡い陽光が差し込んできた。
一年分の記録を読み込んでいる間に、いつの間にか朝日が昇り始めていたらしい。
そろそろ、かな。ぼくは日記を閉じ、懐にあるおもちゃの銃のグリップを握りしめた。
「——」
扉の外、病院の廊下から、肉肉しい何かが木床を引き裂きながら這いずる音が聞こえてきた。
「——」
ああ、やはりカエデさんは凄かった。
この世界を救えたのだから、ぼくでは、到底できなかったかもしれない。
木を引き裂く嫌な音。水が泡立つような不気味な叫び声。
そして、嗅ぎ間違えるはずのない、あの濃厚な腐敗臭。
それは、この一年間で何度も嗅いできた、あの匂い。
「——っ」
ぼくは、震える手で懐の拳銃を取り出した。
蒼色のイヤリングを握りしめて、おもちゃの拳銃を握りしめて。
銃を、目の前の扉に向けて。
ぼくは————
◆
【報告書】
世界番号:LA-001。世界名:オーリリア。
担当救助員:楓——。担当女神:代理女神リリィル(代行:■■)
終末因子:謎の歪み現象による、百年後に出現する怪物。
備考:カエデによる終末因子の排除。
人類存続率:0%
世界存続率:99.8%
◆
夜明けの事。
ぼくは建物の階段へと駆け上がった。
一段飛ばしに最上階へ、屋上へと飛び出し、手すりにすがりつくようにして街の外の境界線を見据える。
朝日に照らされたその光景を目にした瞬間、ぼくの息が止まった。
——外の世界は、白い煙で満たされていた。
彼女は言った、煙の性質は書き換えられると。
そして、恐らくだが、あの煙は世界中に広がっているのだろう。この世界、この異世界全てに。
「リリィル、これが唯一のルートだったのかい?」
『——わかりません』
「そっか……」
他に、選択肢はあったのだろうか。
もしかしたら、ぼくと彼女が気づけなかっただけで、別のルートがどこかに転がっていた可能性はある。
………………いや、今さらその可能性を考えることは、彼女に対する侮辱なのかもしれない。
「……」
ただ——ただ、一つだけ明確に理解できる事実がある。
「……やっぱり、世界は救われた」
それだけは、誰にも否定できない事実だろう。事実だろう。
腕が骨折したり(主な理由)現実が忙しくなりそうなので更新頻度落ちます。