ナースコールが鳴らない朝は、それだけで少しだけ平和だ。
「申し送り終わりましたー。」
夜勤最後の申し送りを終え、職員用の時計へ目を向ける。
九時三十分。
二十二時から始まった夜勤もようやく終わりだ。
昨日の夜から何をしたか思い返してみる。
巡視。
オムツ交換。
食事介助。
離床介助。
転倒対応。
記録修正。
申し送り。
……うん。
「腰終了。」
ぽつりと呟く。
隣でロッカーを閉めていた佐々木さんが吹き出した。
「黒田くん、それ毎回言ってるよね。」
「いや、毎回終わってますから。」
「じゃあ明日も終了してるね。」
「介護職の腰に明日はありません。」
二人で笑う。
こんな他愛もない会話が、夜勤明けには妙に心地いい。
ロッカーで制服を脱ぎ、私服へ着替える。
湿布を貼ろうか三秒ほど悩んで、やめた。
帰って寝たら治る。
……治らないけど。
ふと、夜中の出来事を思い出す。
安藤さんの離床介助。
体格が大きく、完全介助が必要な利用者だ。
「黒田くん、二名でいこうか。」
佐々木さんに声をかけられ、ベッドサイドへ向かう。
いつも通りの流れ。
声かけ、体位調整、スライディングシート。
頭では分かっているのに、腰が悲鳴を上げる。
その時、ふと頭をよぎった。
――もし、もう一人いたら。
俺のジョブ。
スケルトンマスター。
七年間、一度も使ったことのないアーツ。
もしここに、俺の指示で動く骨の従者がいたら。
「安藤さん、今から起きますねー。」
声をかけながら、ありもしない光景を想像する。
無言で的確にポジションに入るスケルトン。
俺の合図で同時に体を支え、無駄のない動きで車椅子へ移乗する。
力も安定していて、腰への負担も少ない。
……そんな都合のいい存在がいたら。
「黒田くん、いくよ。」
「はい。」
現実に引き戻される。
二人で息を合わせて持ち上げる。
ずしりとした重み。
やっぱり腰にくる。
なんとか無事に移乗を終え、安藤さんを整える。
「ありがとうねぇ。」
穏やかな声に、少しだけ救われる。
「いえ、お疲れ様でした。」
もし本当にスケルトンがいたら。
俺はもっと楽に、もっと安全に介助できるのかもしれない。
そんなことを考えながら、次の業務へ向かった。
「黒田くん、お疲れ。」
「お疲れ様です。」
施設を出る。
朝の日差しが目に染みる。
夜勤明けの朝は嫌いじゃない。
街はこれから一日が始まる時間。
俺だけが一日を終えたような、不思議な感覚になる。
「腹減ったな。」
駅前のコンビニへ寄る。
鮭おにぎり。
唐揚げ棒。
レジの表示は二百九十八円。
「勝った。」
思わず小さくガッツポーズをする。
……何に勝ったんだ、俺。
昔から、自分へのご褒美は三百円までと決めている。
夜勤を頑張った日くらい少し贅沢をしてもいい。
でも三百円は超えない。
なんとなく始めたルールだけど、七年も続けば習慣だ。
近くの公園のベンチへ腰を下ろす。
「いただきます。」
おにぎりを一口。
やっぱりうまい。
夜勤明けの飯は反則だと思う。
スマホを取り出し、ニュースアプリを開く。
芸能。
天気。
スポーツ。
スタンピード情報。
数年前から、この国のニュースには当たり前のようにダンジョン情報が並ぶようになった。
世界中にダンジョンが現れてから、もう何年も経つ。
中学ではダンジョン学が必修になり、ジョブやアーツ、スタンピードへの対処法まで教わる時代だ。
十六歳になるとジョブストーンが反応し、それぞれのジョブを授かる。
昔は漫画やゲームの中だけだった話が、今では社会の常識になっている。
俺も十六歳の時、ジョブを手に入れた。
……まあ、その結果はあまり笑えなかったけど。
探索者掲示板を眺めていると、一つの記事が目に留まる。
『名東区第2ダンジョン、骨系ダンジョンへ変質』
「……骨?」
思わず記事を開く。
名東区第2ダンジョン。
初心者向けとして数年前に発見された小さなダンジョンだ。
出てくるのはスライムやゴブリンばかり。
ドロップ品も安く、最近は探索者もほとんど寄り付かない。
いわゆる過疎ダンジョン。
そのダンジョンが昨夜、内部変質を起こし、骨系モンスターの出現が確認されたらしい。
「へぇ……。」
何気なく呟いた、その瞬間。
高校一年の春が頭をよぎる。
ジョブストーンへ手を伸ばした日のこと。
光った文字は今でも忘れない。
【スケルトンマスター】
教室中が静まり返った。
先生も困った顔をしていた。
「前例がないな……。」
初期アーツは三つ。
スケルトンテイム。
スケルトンストレージ。
スケルトンプロモーション。
どれも説明を読んだ時は格好いいと思った。
でも、日本には骨系ダンジョンがなかった。
使う相手がいない。
七年間。
一度も使う機会がなかった。
そんなジョブだ。
記事をもう一度読む。
施設から歩いて15分。
近い。
いや、近すぎる。
「……寝る前に、ちょっと見てくるか。」
どうせ過疎ダンジョンだ。
危なくなったら帰ればいい。
施設を振り返る。
窓際では職員が昼食介助をしていた。
その中に安藤さんがいる。
体格が大きい。
移乗は二人介助。
トイレも二人介助。
夜勤中だけで何回呼ばれただろう。
別に嫌じゃない。
ただ。
もう一人いたら助かる。
本当に。
「……スケルトンって二人介助できるかな」
ぽつりと呟く。
もちろん返事はない。
でも。
七年間、埃をかぶっていた俺のジョブが、ようやく一回くらい仕事をするかもしれない。
「まあ……期待はしないけど。」
食べ終えたおにぎりの袋を丸めて立ち上がる。
夜勤明け。
本来なら布団へ直行するはずだった俺は、その足で名東区第2ダンジョンへ向かった。