久しぶりの日勤。
朝の光が窓から差し込み、廊下の床に長い影を落としている。消毒液の匂いと、どこか懐かしい柔軟剤の香りが混ざり合い、施設特有の空気を作っていた。
仕事を終え、更衣室へ向かおうとした時だった。
「黒田君。」
背後から落ち着いた声が響く。振り返ると、施設長が廊下の端に立っていた。柔らかな照明に照らされ、その表情はいつも通り穏やかだが、どこか含みを感じさせる。
視線が合う。ほんの一瞬、施設長の目が細められた気がした。
「はい。」
「少し時間ある?」
わずかな間。施設長は俺の返答を待つように、静かに立っている。
「ありますけど。」
施設長はゆっくりと歩み寄り、足音を抑えるようにして止まると、軽く頷いた。
「終わったら、少し面談しようか。」
「……面談ですか?」
言葉のあとに、わずかな沈黙が落ちる。
施設長は一拍置いてから、口元だけで微笑んだ。
「悪い話じゃないよ。」
その言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。
◇
施設長室。
木製の扉を開けると、静かな空気が流れ込んできた。壁には資格証や表彰状が整然と並び、窓際には観葉植物が置かれている。外の光が柔らかく差し込み、部屋全体を落ち着いた雰囲気に包んでいた。
椅子へ腰掛けると、施設長は一冊のファイルを机へ置いた。紙の擦れる音がやけに大きく感じる。
その音が止まると、部屋は再び静寂に包まれた。
「最近、夜勤ありがとう。」
施設長は視線をファイルに落としたまま言う。
「いえ。」
短く答えると、施設長はゆっくりと顔を上げた。視線がぶつかる。
すぐに逸らしたくなるのを、なんとか堪える。
施設長はファイルを開く。ページをめくるたびに、記録の数字が淡々と並んでいく。
紙をめくる音だけが、規則正しく響く。
「実は最近、利用者さんの様子が少し変わってきてる。」
その言葉のあと、施設長は一度ページを止めた。
指先で紙の端を軽く押さえたまま、こちらを見ない。
わざと間を作っているようにも感じる。
中には夜間の記録が並んでいた。
転倒件数。
夜間コール。
排泄介助時間。
着替えの介助量。
どれも見慣れた項目だが、その数字が微妙に違っていることに気付く。
「もちろん、全部が黒田君のおかげとは言わない。」
施設長はゆっくりとページをめくる。
「利用者さん本人の頑張りもある。」
視線はまだファイルのまま。
「リハビリや看護師さんたちの力もある。」
そこで一度、言葉が途切れる。
静寂。
時計の秒針が、やけに耳につく。
「でも。」
施設長はゆっくりと顔を上げ、まっすぐ俺を見る。その視線は穏やかだが、逃げ場を与えない強さがあった。
視線を外せない。
「君が夜勤の日は、数字が少し違う。」
言い切ったあと、施設長は何も言わない。
ただ、じっとこちらを見ている。
胸の奥が少しだけざわついた。
やっぱり気付かれていた。
「何か心当たりある?」
問いかけは静かだが、逃げ道を塞ぐような重さがある。
施設長は背もたれに軽く体を預け、腕を組まずに机の上に手を置いたまま、待っている。
急かさない。
だが、逃がさない。
時計の秒針の音がやけに大きく響く。静寂が部屋を満たす。
ここで誤魔化すことも出来る。
でも。
もしこのまま続けて、ご家族から何か言われたら。
施設長は何も知らなかったことになる。
それだけは嫌だった。
「……あります。」
言葉を絞り出すと、施設長の指先がわずかに動いた。
表情が少しだけ引き締まる。
「信じてもらえないかもしれません。」
施設長は何も言わない。ただ、視線だけがこちらに向けられている。
「でも、黙ったまま続ける方が駄目だと思いました。」
俺は足元へ目を向け、小さく呟く。
「癒骨。」
足元の影がゆらりと揺れる。空気がわずかに冷たくなり、静かな気配が広がった。
静かに一体のスケルトンが姿を現した。
「カタ。」
骨が触れ合う乾いた音が、静かな室内に響く。
その瞬間。
施設長の呼吸がわずかに止まったのが分かった。
「……!」
目が見開かれる。だが声は出ない。
椅子から立ち上がることもなく、ただ視線だけがスケルトンへと吸い寄せられている。
「ダンジョンで仲間になったスケルトンです。」
施設長の視線がゆっくりと俺へ戻る。
そしてまたスケルトンへ。
その往復が、数秒続く。
「僧侶のジョブを持っています。」
施設長は言葉を失っている。喉がわずかに動いたが、声にはならない。
俺は続けた。
「この子のレッサーヒールや支援アーツを利用者さんへ使っていました。」
施設長の眉がわずかに寄る。
「もちろん命に関わる怪我ではありません。」
視線が鋭くなる。
「小さな内出血や、歩く力を少し補助する程度です。」
施設長はゆっくりと息を吸い、吐いた。
「本当に役に立つか、自分で確かめたくて……。」
言い終えたあと、沈黙が落ちる。
施設長はしばらく黙っていた。窓の外で風が木の葉を揺らす音だけが聞こえる。
視線はスケルトンに向けられたまま。
やがて、ゆっくりと目を閉じる。
数秒。
そして静かに口を開く。
「……誰か他に知ってる?」
声は落ち着いているが、わずかに低い。
「いいえ。」
施設長の視線が再び俺へ戻る。
「施設長だけです。」
その言葉のあと、施設長はじっと俺を見つめた。
何かを測るように。
「そうか。」
施設長は小さく息を吐いた。その吐息には、驚きと安堵が混ざっているように感じた。
背もたれに体を預け、視線を一度天井へ向ける。
そして再び俺を見る。
「まず一つ。」
指を一本立てる。
「君が利用者さんを良くしたいと思ってやったことは分かる。」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜ける。
だが。
「でも。」
施設長は指を下ろし、ゆっくりと前に身を乗り出した。
距離が縮まる。
「このまま続けるわけにはいかない。」
視線が鋭くなる。
「はい。」
自然と背筋が伸びる。
「もし何かあって、ご家族から説明を求められたら。」
施設長は言葉を区切りながら話す。
「私は何も知らなかったでは済まされない。」
一拍。
「君も守れない。」
さらに一拍。
「施設も守れない。」
その言葉は重く、胸に沈み込む。
施設長はしばらく俺を見つめたまま、何も言わない。
沈黙が圧力になる。
「だから。」
ようやく口を開く。
「今度は一緒に正しい形を考えよう。」
声が少し柔らぐ。
「利用者さん、ご家族、記録。」
「全部含めて正式な運用に出来るか考えよう。」
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。」
◇
施設長はコーヒーを一口飲んで話を続ける。湯気がゆらりと立ち上り、ほのかな苦味の香りが漂う。
カップを持つ手は、先ほどよりもわずかに力が抜けているように見えた。
「異能介護加算って知ってる?」
視線をこちらに向ける。
「名前だけなら。」
「二、三年前に始まった制度なんだ。」
施設長はカップを机に置き、指先で縁を軽くなぞる。
「ダンジョンが出来てから、多くの異能力者は探索者になった。」
「でも支援職や回復職は事情が違う。」
言葉の合間に、わずかな間が入る。
「ランクの高い攻撃アーツみたいに目立つ活躍がしにくい。」
「探索へ行っても収入が安定しない人も多い。」
「そのまま探索者を辞めて、普通の会社へ就職する人も少なくない。」
施設長は一度こちらを見て、反応を確かめるように目を細める。
「一方で介護や医療は慢性的な人手不足。」
「だから国は、異能力者がそういう仕事へ就いた時、事業所へ加算を出す制度を作った。」
「それが異能介護加算。」
なるほど。
探索者になれなかった人を救う制度じゃない。
異能力者が社会で力を活かせる場所を増やす制度なんだ。
「でも。」
施設長は苦笑する。カップを机に置く音が静かに響く。
「制度はあっても活かせる人がいなかった。」
肩をすくめるような仕草。
「回復職も支援職も数が少ない。」
「いても探索者を続ける人が多い。」
「介護へ来ても、ダンジョンでしか使えない高ランクアーツじゃ意味がない。」
そこで一度言葉を切り、じっと俺を見る。
「だから取得施設は全国でもほとんど無い。」
わずかな沈黙。
そして。
「でも君は違った。」
はっきりと言い切る。
「ランク1アーツを介護で活かした。」
視線が強くなる。
「これは全国でも珍しい事例になるかもしれない。」
◇
「それと。」
施設長が笑う。先ほどまでの緊張が少しだけ和らぐ。
口元だけでなく、目元もわずかに緩む。
「来月から少し給料が上がる。」
「え?」
思わず顔を上げる。
「本当に少しだけだけどね。」
施設長は肩をすくめる。
「頑張ってくれてるから。」
その言葉に、自然と頭が下がる。
「ありがとうございます。」
給料。
その言葉で真っ先に浮かんだのは。
(ジョブストーン買えるな。)
◇
施設長は椅子から立ち上がる。椅子が床を擦る音が静かに響く。
立ち上がる動作もゆっくりで、どこか余裕を感じさせる。
「黒田君。」
「はい。」
自然と姿勢を正す。
「この件は私も一緒に考える。」
施設長は机の端に手を置き、少しだけ身を乗り出す。
「ただし、今までのやり方を続けるわけにはいかない。」
視線が真っ直ぐに刺さる。
「利用者さんやご家族への説明、同意、記録……全部含めて、正式な形を作ろう。」
「はい。」
短く答えると、施設長は一瞬だけ目を細めた。
納得したように、小さく頷く。
そして苦笑した。
「それと。」
「はい?」
わずかな間。
施設長はわざと間を置いたように見えた。
「アーツを使った利用者さん三人分。」
指を三本立てる。
「使う前の状態が分かるように、経過記録を書き直しておいて。」
「……え?」
一瞬、思考が止まる。
施設長はその反応を見て、口元をわずかに緩めた。
「もちろん残業扱いでいい。」
さらりと言う。
数秒、固まる。
施設長は腕時計にちらりと視線を落とし、再びこちらを見る。
「黒田君。」
「はい。」
「今日は残業確定だね。」
逃げ場はない。
思わず天井を見上げる。蛍光灯の白い光がやけに眩しい。
「……ですよねぇ。」
施設長は小さく笑った。
その笑いに、先ほどまでの緊張が少しだけ溶ける。
ダンジョンでスケルトンを倒すより。
介護記録を書く方が時間が掛かる気がした。
俺は苦笑しながら事務所へ戻るのだった。