夜勤という仕事は、人手が足りない。
これはたぶん、俺の働いている施設だけの話ではないと思う。
コール対応。
排泄介助。
体位交換。
巡視。
記録。
急変があれば当然そっちが最優先になるし、転倒があれば報告書が増える。
夜中だから静か、なんてことはない。
夜中だからこそ、人が少ない。
だから、やりたいと思っていても後回しになる仕事は山ほどある。
掃除も、その一つだ。
日中に掃除担当の職員が入る場所もある。
けれど、どうしても手が回らない場所は出る。
廊下の隅。
スタッフ用階段。
各階の詰所。
冷蔵庫の中。
食べこぼしで汚れた車椅子。
そういう場所は、年末の大掃除や、たまたま人手がある日にどうにかする。
どうにかする、というより。
どうにかしていた。
けれど最近は、少し事情が変わった。
「戦骨、二階のスタッフ階段。モップ頼む」
カタ。
「鑑骨、三階詰所の冷蔵庫。中身の位置、ホワイトボードに書いてから拭いて」
カタカタ。
「癒骨は食堂の車椅子見てくれ。食べこぼし多いやつだけでいい」
カタ。
「転骨は俺と巡視。あとで一階の倉庫まで付き合って」
カタ。
……何だこれ。
普通に夜勤チームじゃないか。
もちろん、何でも任せられるわけじゃない。
入居者さんの居室はダメだ。
私物が多いし、壊したら困る。
勝手に物の位置を変えると、それだけで不安になる人もいる。
認知症の人なら、いつもの場所にいつもの物がないだけで落ち着かなくなることもある。
だから骨たちに任せるのは、共用部分や職員側のスペースが中心になる。
各階フロアの廊下のモップがけ。
各階の詰所の掃除。
スタッフ用階段のモップがけ。
冷蔵庫の中の拭き掃除。
食べこぼしで汚れた車椅子の清掃。
普段なら大掃除の時に、どうにかこうにか片づけていたような仕事。
それが今では、週に一回くらいのペースで回せるようになった。
これは地味に大きい。
いや、地味じゃない。
かなり大きい。
介護施設は、利用者さんの生活の場だ。
けれど同時に、職員が毎日走り回る職場でもある。
そこが少しでも綺麗になると、単純に気持ちがいい。
詰所の床がベタつかない。
冷蔵庫の奥で謎の汁が固まっていない。
車椅子のフレームに乾いたご飯粒が残っていない。
スタッフ階段に埃が溜まっていない。
それだけで、仕事中の小さなストレスが少し減る。
そして何より。
俺の腰が少しだけ助かる。
「……骨員が潤ってるって、こういうことなんだな」
思わず呟いた。
人員ではなく、骨員。
言ってから自分で少し嫌になった。
だが間違ってはいない。
俺が夜勤の日は、骨たちも一緒に動ける。
その分、普段なら手が回らない仕事に手を伸ばせる。
もちろん、全部が楽になるわけじゃない。
コールは鳴る。
記録は減らない。
眠気もなくならない。
腰も痛い。
それでも、廊下の端に溜まっていた埃が消えているのを見ると、少しだけ報われた気分になる。
そんなことを考えていると、食堂の方からカタカタと音がした。
癒骨が、車椅子の足元を拭いている。
膝掛けを外し、フットレストの周りを丁寧に拭き、最後に座面の下を覗き込む。
妙に手つきが優しい。
骨なのに。
「癒骨、そこ終わったら無理しなくていいからな」
カタ。
短く返事をして、癒骨はまた拭き掃除に戻る。
その少し向こうでは、戦骨がスタッフ階段のモップを持っていた。
なぜか構えが槍っぽい。
「戦骨」
カタ。
「それ、武器じゃないからな」
カタ……。
少し残念そうにモップを下ろす。
いや、残念がるな。
掃除道具だ。
三階詰所では、鑑骨がホワイトボードに冷蔵庫の中身を書き出していた。
上段、右。
牛乳。
中段、左。
未開封ゼリー。
下段、奥。
誰のか分からないタッパー。
「それは触るな」
カタ。
「誰のか分からないタッパーは、触った瞬間に責任が発生する」
カタカタ。
鑑骨は真面目に頷き、ホワイトボードに大きく書き足した。
『フメイ サワラナイ』
正しい。
非常に正しい。
こういう地味な判断も、最近は少しずつできるようになってきた。
最初の頃は、ただ指示されたことをするだけだった。
けれど今は違う。
何を触っていいか。
何を触ったらダメか。
どこまでやって、どこから人間の職員に確認するべきか。
骨たちなりに覚えている。
それが少し嬉しい。
嬉しいが。
「……俺、何を育ててるんだろうな」
夜勤中にモップを持つスケルトン。
冷蔵庫の中身を書き出すスケルトン。
車椅子を拭くスケルトン。
絵面だけなら完全に意味が分からない。
だが、現場では助かっている。
ものすごく助かっている。
それがすべてだ。
ナースコールが鳴る。
俺は反射的に表示を確認した。
二階。
重茂さんの居室。
「転骨、行くぞ」
カタ。
廊下の隅で待機していた転骨が、すっと横に並ぶ。
掃除は中断。
優先するべきは、当然そちらだ。
骨員が潤っても、介護の仕事がなくなるわけじゃない。
むしろ、できることが増えただけだ。
でも。
それでいい。
今まで手が届かなかった場所に、少しずつ手が届くようになる。
それだけで、夜勤の空気は少し変わる。
俺は転骨と一緒に、二階の廊下を早足で進んだ。