魔法少女リリカルなのはMissing in Ace~高難易度で行くリリカルなのは世界~ 作:ちょわわ
朝の光の中に、老提督は降りてきた。
切通しの野戦救護所。担架の上のリョウ、その手を離さない祭服の少女、砲身を杖にして立つなのは、直立のフェイト、そして一歩前に出て全員を背に庇うリンディ。旗艦から降り立った老人は、その並びを長いこと見てから、護衛も付けずに、歩いてきた。
立ち止まったのは、少女の前だった。
皺の刻まれた顔が、ゆっくりと屈められる。処理を命じた者と、命じられた者が、初めて、目の高さを合わせた。
「……名前を、聞いておこう」
「ヤガミ・ハヤテ」
少女は、まっすぐに答えた。それから、少しだけ考えて、付け足した。
「——いまは、まだ」
老提督は、その付け足しの意味を測るように三秒黙り、頷き、踵を返した。歩きながら、副官に短く命じる。
「全員、収容。医療を最優先。それから——机の上の、あの未署名の書類」
「は。処分は、いかに」
「破棄しろ。署名のない書類は、ただの紙だ。……ただの紙のまま、終わらせられた。それだけが、今回の私の、唯一の手柄だ」
査問は、三週間後に開かれた。
結論から言えば、それは裁きというより、記録の書き直しの儀式だった。老提督は議長席で、一件ずつ、様式に従って、事実を読み上げさせた。
処理中断時刻、〇三一〇:四七。第一階梯接触まで、残り一三秒。その接触が引き起こしたであろう事象の推定規模、次元世界全域。よって被告クルス・リョウの行動は『規定外の手段による、重大災害の未然防止』と認定する。懲戒として減給三ヶ月、および降格を検討したが——
「——本官は二度の特進を辞退しており、現階級は二等陸士であります」
「知っている」
老提督は、書類から顔も上げずに言った。
「二等陸士より下が、うちの階級表に無くてな。……減給のみとする。次からは特進を受けておけ。降格の余地を、残しておくものだ」
法廷のどこかで、誰かが咳払いに失敗した。
ヴァレル1の指揮系統離脱は『独自判断による人命救助行動』、ヴァレル2の照準諸元送信拒否は『未署名命令への服従義務の不存在』、エイミィ・リミエッタの報告遅延は『輻輳』、リンディ・ハラオウンの一連の行動は——議長は、そこで初めて書類を置いた。
「——五年前の事案記録に、議長権限で、付記を一行加える。『作戦措置と暴走選定の因果関係について、本件の観測結果は、関連性を強く示唆する』。……以上だ。私の反省文の、訂正版だと思ってもらっていい」
閉廷の際、老提督はリンディとすれ違いざま、記録に残らない声量で言った。
「……君の反省文が、正しかったよ」
「いいえ」
リンディも、同じ声量で返した。
「三通目を書かずに済んだ。それだけが、正しかったんです」
本局医療棟、長期療養区画、第七病床。
その朝も、エイミィの日課は同じだった。カーテンを開ける。波形を見る。五年間動かない水平の線に、おはよう、と言う。今朝は、報告が多かった。
「——というわけでね、クロノ。すごかったのよ、ほんとに。あ、それから今日は、お客さま」
病室の入り口で、フェイトが小さく頷き、その背中から、少女がおずおずと進み出た。胸に、角の丸くなった絵本を抱えて。
少女は寝台の傍らまで歩き、眠り続ける絵本の持ち主の顔を、初めて、見た。表紙裏の子供の字の主。かんちょうの、息子。みんなが、起きるのを待っている人。
「……かりてたの」
絵本を、そっと、枕元に置く。
「かえします。……ありがとう。いっぱい、よんだよ。ふぇいとに、よんでもらって、じぶんでも、よめるようになって、こわいときも、ずっと、もってた」
少女は、置いた絵本の位置を、几帳面に直した。直してから、覚えたばかりの、まだ誰にも使ったことのない言葉を、小さな声で使った。
「——おにいちゃん」
その時。
ピ、と。
五年間、同じ音程しか刻まなかった監視端末が、半音、揺れた。
エイミィが、振り向いた。モニターの上、水平の線の、いちばん新しい一点が——曲がっていた。上へ。ほんの僅か、けれど確かに、機械が校正異常を三回否定するだけの、明確さで。
コアの呪詛痕の表示は、昨夜の時点で、消えている。五年間焼き付いていた黒い紋様は、あの夜明けと同時に、砂の絵のように崩れて消えた。残っていたのは、傷の癒えるのを待つだけの、静かなコア。そして今——
線が、曲がった。
エイミィは、口元を両手で覆って、それから、覆ったまま、いつもの朝の挨拶を、いつもと違う声で言った。
「クロノ。……朝よ」
養子縁組の書類は、その日の午後、同じ病室で書かれた。
「ここで、いいの?」
「ここが、いいの」
少女はそう言って、眠る『おにいちゃん』の寝台の横の小机に、書類を広げた。リンディはペンを持ったまま、最後にもう一度だけ、確かめた。
「ハヤテ。……一つだけ、先に言わせて。わたしがあなたを迎えるのは、償いのためかもしれない。五年前のことの。それが混じっていない、とは、わたしには言い切れない。それでも——」
「つぐないでも、いいよ」
少女は、あっさりと言った。
「つぐないから、はじまっても。……かぞくに、なっちゃえば、おんなじだから」
リンディ・ハラオウンは、二秒だけ天井を仰ぎ、それから署名した。少女も署名した。線のよろけた、しかしもう二度と向きを間違えない五十音で。
『ハヤテ・ヤガミ・ハラオウン』
ハラオウン家、四人目の子供だった。エイミィが眠るクロノの耳元に屈み込んで、囁いた。
「聞いた? 起きたら、妹が三人よ。……びっくりしないでね」
第68管理外世界の朝刊は、その週、『霊峰に観測史上最大の磁気嵐』という見出しを掲げた。
「ゆうかん、ゆうかんはいかがー! ……あっ!」
街角の売り台の前で、松葉杖の男が足を止めた。メアリは目を丸くし、それから売り台から一部引き抜いて、突き出した。
「かかりのひと! はい、これ! きょうは、ただ!」
「馬鹿言え。商売だろ」
リョウは硬貨を倍、置いた。
「……多いよ?」
「差額は、こないだの半額ぶんだ。帳簿は合わせとくもんだぜ、見習い」
「見習いじゃないもん! もう、じゅんかかりのひと、だもん!」
準係の人は、胸を張った。空は晴れていて、変な雲はどこにもなく、鎖骨の上の白い細い痕が、外套の下で少しだけ疼いた。消えない、と言われた線は、白い痕になって、残った。残っていることを、リョウは悪くないと思っていた。忘れっぽい性分の、帳簿代わりになる。
ゼルベロスへの帰艦は、夕刻だった。
格納庫には、乗員が全員いた。誰も号令をかけていないのに、全員いた。タラップを降りる四人を迎えたのは、敬礼ではなく、拍手と、厨房から流れてくる、あの匂いだった。帰艦報告より早く、油の温度は上がっていたらしい。伝統とは、そういうものである。
オーバ老が、少女の頭をわしわしと撫でた。
「言うたろうが。儂の守り神は、儂の守り神じゃと」
食堂の長机で、唐揚げの山が三つ、着任した。史上最大の揚げ数だったと、厨房の記録には残っている。
その夜、観測ラウンジで、リョウはなのはに呼び止められた。
「リョウさん。……あの時の続き、言ってもいいですか」
ガス灯の街の、あの路地の続き。狙撃に断ち切られた、文の続き。リョウは窓の外の星の海を見たまま、頷いた。
「……おう」
「わたしも」
なのはは、隣に並んで、同じ星の海を見た。
「——ずっと、そのつもりです。終わらせない係。リョウさんと、フェイトちゃんと、はやてちゃんと。……ずっと」
文は、二十日遅れで、最後まで届いた。リョウは何も言わず、拳を一つ、横に突き出した。こつん、と応える音がして、それで、全部だった。
命名式は、翌朝の朝礼で行われた。
「ゼロイチに、新配置を通達する。後衛支援・特異案件対応担当——コールネーム」
リョウは、整列の先頭の小さな頭を見下ろした。
「——『セイフティ』」
「せいふてぃ」
「意味は三つある。一つ、後ろで全部解決する係って意味だ。二つ目は……そのうち教えてやる。で、三つ目」
リョウは、しゃがんで、目線を合わせた。
「昔、俺はうちの隊の『外付けの安全装置』を自称しててな。今日から、後任はお前だ。先輩として一個だけ言っとく。——安全装置ってのは、長く保つのが仕事だ。長く保つコツは、たまに手ぇ抜いて、よく食って、よく寝ることだ。契約できるか」
小さな拳が、突き出された。
「けいやく、せいりつ」
消灯後の居住区。二つ隣の部屋の扉には、新しい名札が掛かっていた。
『ハヤテ・ヤガミ・ハラオウン』
線はまだよろけていたが、前より確かで、そして古い名札も、外されずに、その下に並んでいた。左右の逆さまの「ヤ」ごと。歴史は、上書きではなく、並べておくものらしい。
部屋の中からは、低い歌が聞こえていた。
なのはの子守唄だった。失われた歌は、何事もなかったように戻ってきて、滅んだ星の滅んだ言葉で、今夜も小さな聞き手を眠らせている。そして歌の切れ目に、今夜は、小さな声が続いた。
寝入りばなの、半分夢の中の声が——同じ旋律を、たどたどしく、鼻歌でなぞっていた。
誰も知らない言葉の歌は、もう、歌われなかった。代わりに、滅んだ星の子守唄が、夜天の子の声で、二番を続けていく。廊下の灯りは、今夜は一パーセントも、暗くならなかった。
リョウは自室に戻り、帳面を開いた。
日数の欄は、もう書くことがなかった。ゼロの日数も、逃避行の日数も、終わった。代わりに最後の頁に、医務室で写してきた小さなグラフを二枚、貼った。
一枚は、九ヶ月上って、二年ぶん下がって、そしてまた、意地のように上を向き始めた折れ線。担当医の手書きの付記は、今月から様式が変わっていた。『本人は「安い買い物でした」と笑っている。経過観察を継続。……全く、この患者は』。医学用語は、とうとう最後まで、戻ってこなかった。
もう一枚は、五年間の水平の果てに、生まれたばかりの角度をひとつ持った線。
上を向いた線と、動き始めた線。同じ夜から始まった二本の線が、五年かけて、同じ紙の上で、同じ向きになった。
リョウは鉛筆を舐め、二枚のグラフの下に、一行だけ書いた。
『——借りは、まだ返しきれてない。だから、続ける』
窓の外で、夜が、明け始めていた。
滅ぶはずだった世界で、新聞売りの少女が明日も新聞を売り、眠れなかった子供が、唐揚げの夢を見る。動かなかった線が動き、失われた歌が歌われ、握られたままだった拳が、ひらいて、握手を覚える。
解決じゃない。ただの、続きだ。
——それが、いちばん、いい。
第2部はここまでです。
ありがとうございました。