若獅子、宙に在り(新帝国暦三十年一月)
【新帝国暦三十年一月 ガンダルヴァ星系宙域】
英雄たちの時代は終わった。
ラインハルト・フォン・ローエングラム。
ヤン・ウェンリー。
銀河を二分し、歴史を燃え上がらせたあの巨星たちはもはや天にない。
後世、人はしばしばその後に続いた者たちをこう讃える。
父祖の遺志を継ぎ、なお時代を支えた立派な継承者たちであった、と。
だが少なくとも当人たちはそうは思っていなかった。
ラインハルトの子もヤンの弟子も。ただ、あまりに大きな父たちの影の下で己の小ささを噛みしめていた。
あの天を焦がすような輝きには逆立ちしても届かない。自分はしょせんその残り火を守るだけの平凡な者に過ぎぬ、と。
歴史が英雄と呼ぶ者と。
己を凡人と評価する者。
その隔たりの中で彼らの物語は始まる。
新帝国暦三十年一月。ガンダルヴァ星系。
燃えさかる宇宙の中心に一人の若き皇帝が立っていた。
一隻の白亜の戦艦が無数の光条の中を進む。
ブリュンヒルト。かつて銀河を統べた覇者、ラインハルト・フォン・ローエングラムの旗艦。
そして今その艦橋に立つのは彼の息子だった。
アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。
ローエングラム朝銀河帝国第二代皇帝。
二十代の半ばを過ぎた青年である。
父ラインハルトが世を去った齢を超えた。
父の遺したこの白い船。その艦橋に立つたび彼は思う。
僕はこの船にふさわしいのだろうか、と。
ブリュンヒルトを継ぐことはラインハルトという伝説を継ぐことと同義だった。
将兵たちはこの白く輝く装甲の船に皇帝が立つだけで奮い立つ。
だがアレクは知っていた。彼らが本当に仰いでいるのは玉座のこの自分ではない。
その背後にいまだ立ち続けている亡き父の幻だ。
「敵、第三聖団。一個艦隊、約一万。メルクリウス確認。右翼より急速接近。例の機動です」
「想定内だ。——だが想定の上限で速いな」アレクは星図を見つめた。
「主力を引きつけて横腹を狙う。武装商人、要するに海賊あがりどもの十八番だ。右翼のアイゼナッハ元帥に伝えよ。深追いはするな。あれは餌だ。食いつけば後ろから伏兵が来る」
「はっ」
「中央戦線、ビッテンフェルト元帥より入電!」オペレーターが読み上げる。
「読み上げます。『老いぼれシュタイガー、亀のごとく甲羅にこもれり。今より
「元帥らしい」アレクはわずかに苦笑した。
「お伝えせよ。逸るな、と。あの老将、シュタイガーは歴戦の勇将だ。防御に徹されれば容易には抜けぬ」
そのとき一人の青年士官が艦橋に駆け込んできた。
「おい、アレク!右翼後方、ハインリヒがまずいぞ!」
皇帝の幼名が艦橋に響き、居並ぶ将兵が一瞬凍りついた。
「ミッターマイヤー准将」
静かな、しかしよく通る声がそれを制した。
アレクの傍らに控えていた青年、皇帝付参謀クライン・ヴァルターだった。
年の頃はアレクたちと同じ。
だがその佇まいは戦場の喧騒の中で奇妙なほど静かだった。
感情の読めぬ端正な顔。彼はフェリックスをまっすぐ見て言った。
「御前です。お控えを」
「……っ。わかってるよ、クライン」フェリックスはばつが悪そうに舌打ちした。
「いちいち堅いんだよ、お前は」
アレク自身は眉一つ動かしていなかった。
「人前だ、フェリックス。取り繕え」
「失礼いたしました、陛下」
フェリックスの背筋がしゃきりと伸びた。先ほどまでの砕けた声は消えていた。
皇帝副官、フェリックス・ミッターマイヤー准将。
その口調は一転して淀みなかった。
「ご報告いたします。右翼後方の宙域に敵第四聖団。ディスとフリアエの二個艦隊、約二万が突入。損害を顧みぬ死兵による戦列後背への回り込みを企図しております。当該宙域、防衛にあたるはアイゼンベルク准将麾下、一個分艦隊。数的劣勢です」
「陛下!そのアイゼンベルク准将より入電!」
オペレーターが戸惑いがちに告げた。
「読み上げます。『陽動ごときに余計な増援は無用。我が分艦隊のみにて防ぎきってご覧に入れる。皇帝陛下におかれてはなにとぞ死神めにご専心を』。……以上、です」
艦橋に微妙な空気が流れた。
准将クラスが皇帝に直接入電で、しかも増援の打診を受ける前に断ってきたのだ。
「……ハインリヒらしいな」
アレクは苦笑した。
ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク准将。
誇り高く、他者の手を借りることを何より嫌う男。
その痩せ我慢のような矜持をアレクは誰よりも知っていた。
「フェリックス。どう見る」
「アイゼンベルク准将の申す通り、陽動は陽動。放っておいてもあの男なら支えきりましょう」
フェリックスは言った。
「ですが、意地を張って死なれてはかないません。まぐれ当たりということもあります」
「同感だ」アレクは頷いた。
「アイゼナッハ艦隊から一個戦隊だけ後詰めに回せ。指揮権はあくまでアイゼンベルク准将のもの。准将の矜持は傷つけるな。『万一の備え』と伝えよ」
「御意」クラインが命令を伝達した。
「入電。バーラト自治防衛軍、宇宙艦隊。アッテンボロー司令長官麾下の二個艦隊、約二万。左翼側面宙域への展開を完了。味方識別、先方艦隊の登録名は……『第十三艦隊』となっております」
オペレーターがどこか釈然としない声で読み上げた。
若い通信士官が怪訝な顔で隣と目を見交わす。
「……その名で来たか」
アレクは苦笑した。フェリックスが横で吹き出しかけ、慌てて咳払いにすり替えた。
かつて父たちが銀河を二分して殺し合った、その相手といま翼を並べている。
歴史とは奇妙なものを運んでくる。アレクは短くそう思い、思考を戦場に戻した。
艦橋の将兵の目に映るのは非の打ちどころのないように見える二人の側近だった。
皇帝副官フェリックス・ミッターマイヤー。
疾風の名を抱く養父のもとで育った勇猛な武人。だが戦場での報告も具申も的確。
皇帝の剣であり盾であると誰もが信じて疑わない。
皇帝付参謀クライン・ヴァルター。
感情の読めぬ端正な面に盤面のすべてを映し取る双眸。
敵の企図を数手先まで読み解くその頭脳。
若い通信士官たちにとって頼もしいと同時に、どこか近寄りがたくもあった。
一連の差配が一段落した、ほんの一瞬。
アレクは傍らのパネルに指を滑らせた。
三人の周囲だけ空気が変わる。遮声シールド。
皇帝とその腹心たちの私的な会話を艦橋の喧騒から断ち切る薄い膜。
「……お前さ」フェリックスの声から敬語が消えた。
「相変わらずの堅物だな、クライン。御前です、お控えを、だってよ」
「妙ですね」クラインはわずかも動じなかった。
「同じ士官学校、同じ艦隊勤務。軍で規律に触れた時間は私もあなたも同じはずだ。……なのに、なぜあなただけこれほど規律と縁が薄いのか。私にはどうにも説明がつきません」
フェリックスは一瞬きょとんとし、それからげんなりした。
「……いつも回りくどいんだよ、お前は」
「規律の視点から見れば、私が普通であなたこそ逸脱である。そう思いませんか」
「やめろ、二人とも。喧嘩するな。クライン。敵艦隊の本命はどこにいると思う」
「左翼です」クラインは迷わなかった。
「敵戦列の陰、九時方向に艦影の空白。そこに親衛艦隊『
その名に遮声シールドの中の空気がわずかに張り詰めた。
「……僕も、そう思っていた。死神ヨーリクか」アレクは低く言った。
「論理的帰結としてそうなります」クラインは答えた。だが、ほんの一瞬。その端正な顔に何か名状しがたい翳がよぎった。
「左翼か」フェリックスが星図に目を走らせ、低く言った。
「第十三艦隊の、正面だな」
「ああ」アレクは静かに答えた。
「背中を預けると決めたのは僕たちだ」
ヨーリク。
その名を耳にするとき、この感情を見せぬ青年の奥で何かが静かに軋むのを。
アレクだけは知っていた。
アレクはパネルに触れた。遮声シールドが解ける。艦橋の喧騒が戻ってくる。
「陛下。入電、宇宙艦隊司令部より」
フェリックスの肩がわずかに動いた。
「繋げ」
『陛下。敵の本隊が動きました』
『例の死神が出てまいりました。敵、親衛艦隊『
星図の彼方で漆黒の宇宙に浮かぶ灰色の艦隊が目を醒ましつつあった。
無名の艦体、その一隻ごとの表面に刻まれた無数の細かな文字が鈍い金の光を帯びていく。
祈りの文字だった。
艦の一隻一隻が動く聖堂ででもあるかのように。灰色の海に、金の経文だけが音もなく灯る。
「光帯、展開」オペレーターが声を張った。
「旗艦ネメシスの艦体側面に大規模な発光帯」
教国が「
無名を旨とする聖列艦の海で、それを掲げることを許されるのはただ一隻。
死神が出たという合図だった。
「……来たか」
アレクの声は低かった。
その目には緊張。それに、奇妙な静けさが宿っていた。
何度戦場で相見えてもあの男とだけは決着がつかない。
退路を読まれ、思考を先回りされる。
まるでこちらの心の内まで見透かされているかのように。
だが、それだけではなかった。
死神ヨーリクを前にすると、アレクはいつも名状しがたい感覚に囚われた。
憎しみとは違う。恐れとも違う。
もっと静かで、もっと不可解な何か。
まるで鏡の向こうのもう一人の自分と対峙しているような。
(……お前は)
問いたくなる。敵に向かって答えが返るはずのない問いを。
——お前は、なぜ、そちら側にいる。
むろん答えは返らない。
ただ、遠い闇の彼方で死神の旗艦ネメシスが静かにこちらへ向かってくるだけだった。
***
(……父上なら)
ふとそんな考えがよぎった。父、ラインハルトなら。
天才の閃きでこの死神を一刀両断に断ち斬ったかもしれない。
——だが、僕にはそれがない。
アレクは奥歯を噛んだ。
僕には父の才はない。
僕にできるのはただ、敵を知り、備え、皆の力を一つに束ねること。それだけだ。
「全艦に通達」彼は命じた。
「死神の用兵は定石では読めぬ。各艦隊、決して単独で動くな。互いに連携し、余の指示を待て。奴の閃きに我らは結束であたる」
その声は若く、しかし揺るぎなかった。
『御意。時に、陛下』
ミッターマイヤーの声がわずかに改まった。
『フェリックス・ミッターマイヤー准将はそちらに?』
「ああ。余の傍にいる」
『ミッターマイヤー准将』疾風ウォルフの声が息子に向けられた。
『皇帝陛下をしっかりお守りせよ。ご迷惑をおかけするなよ』
艦橋にわずかな空気が流れた。
皇帝副官は背筋を伸ばし、しかしどこかむず痒そうに答えた。
「……承知、しております。父上」
通信が切れた。
フェリックスはしばらく無言だった。それから、ぐい、と顔を背けた。
「……クソっ。皆の前で子供扱いを」
「いい父上じゃないか」アレクが澄まして言った。
「ご迷惑をおかけするなよ、フェリックス」
「うるさい」
その耳がわずかに赤いのをアレクは見て見ぬふりをした。
「私も忠告しておきます」クラインが不意に横から言った。
「ミッターマイヤー准将。もう三十六時間、一睡もされていませんね。気づかれていないとでも?」
「……お前」フェリックスがぎくりとした。
「あなたが倒れれば陛下がお悲しみになる。代わりも利きません。私の仕事も増えます。——実に、非効率です」
「お前なあ……」フェリックスがげんなりした。
「最後の一言が余計なんだよ」
「事実です」
アレクは思わず小さく笑った。
この奇妙な三人で、何度修羅場をくぐってきたことか。
そして表情を引き締め、星図を見据えた。
その彼方で、死神の旗艦ネメシスが静かにこちらへ向かってくる。
そのとき艦橋の通信に、場違いな音が混じった。
鐘だった。
規則正しく、荘厳に、一定の間隔で。重く、澄んで、どこか葬送を思わせる響きだった。
無論、宇宙に音はない。
敵が妨害電波に鐘の律動を乗せ、帝国艦の受信系そのものを鳴らしているのだ。
「弔鐘、といったか」アレクは低く言った。
「あの鐘の律動に敵は一斉射撃を合わせてくる。斉鐘斉射。鐘一つで全火力が束なる。耳障りな合図だが、動きは読める。来るぞ」
「ああ」
「はい」
白亜のブリュンヒルトが敵主力へと舳先を向けた。
***
白亜のブリュンヒルトに立つ、若き皇帝。
その傍らに、武を預かる、帝国の双璧の一方の血を継ぎ、他方に育てられた子。
そして、知を預かる、出自なき青年。
遠い左翼には、魔術師の弟子たちの翼。
誰もがそれぞれの背負うものを抱えて、この戦場に立っていた。
だが、なぜこうなったのか。
この若き皇帝が、この二人の腹心が、そして遠い敵陣に佇むあの死神が。
いかにしてここに至ったのか。
その物語は遠く、十数年の時を遡る。
まだ誰もが幼く。世界がまだ穏やかだった頃。
——だがその静けさは、幼き獅子が初めて戦場に立つ日までそう長くは続かなかった。