【新帝国暦十一年 獅子の泉 アレク】
その人のことを、僕はずっと前から知っていた。
ウルリッヒ・ケスラー元帥。
軍務尚書。
かつては憲兵総監として、腐敗しきった憲兵隊を、一人で立て直した人でもある。
帝国の秩序を守る、法の番人。
背が高く姿勢がよく、いつも制服の襟元まできちんとしていた。
両の耳の横の髪は白く、眉にも白いものが混じっている。
笑った顔を、僕はほとんど見たことがない。
そして、この人は僕の命の恩人だった。
僕が、まだ母上のお腹の中にいたころ。
「地球教徒」という、狂信的なテロリストが火をつけたのだ、という。
もう、とうに滅んだ、と皆は言う。
その炎の中から、出産の近い母上を抱えるようにして運び出したのが、この、ケスラー元帥だった。
もし、あの夜、この人がいなければ。
僕は、生まれてくることも、なかった。
宮廷の誰もが、その話を知っていた。
僕も物心つく前から、聞かされて育った。
だから僕は、この厳めしい人を見るたびに、いつも不思議な気持ちになる。
***
その日、僕は、獅子の泉の一室で、ケスラー元帥と、その夫人に会った。
夫人の名は、マリーカさん。
もとは、母上の侍女だった人だ。
いまは、ケスラー元帥の奥方。
だが、元帥とは、ずいぶん歳が離れていた。
厳めしい白髪混じりの元帥の隣で、その若い夫人は、花のように、くるくると表情を変えて笑っていた。
「まあまあ、陛下!なんて、ご立派におなりで!」
マリーカさんは、僕を見るなり、両手を合わせて目を輝かせた。
「わたくし、陛下がこんなに小さかったころから存じ上げているのですよ。ええ、それはもう、生まれる前から!……あのね、陛下。陛下がこうして、ご無事にお生まれになれたのは、誰のおかげか、ご存じ?」
「……ケスラー元帥の、おかげ、でしょうか」
僕が言うと、マリーカさんは大きく、首を横に振った。
「ちがうのよ。……チョコレートアイスクリームの、おかげなの」
僕は、きょとんとした。
***
「あのね、陛下」マリーカさんは、身を乗り出した。
「あの夜、わたくし、無性に、チョコレートアイスクリームが、食べたくなって。それで、こっそり、買いに出たの。」
「そうしたら、その隙に、悪い者たちが、お館を襲って……。もし、わたくしが、アイスを買いに行かなければ。館の中にいて、皆と一緒に、危ない目に遭っていたわ。」
「だから、あのアイスクリームが、わたくしを助けてくれたの。……そして、外にいたわたくしが、お妃さまの、お部屋の窓の場所を、大佐さんに、お教えできたのよ。だから、陛下が助かったのは、チョコレートアイスクリームの、おかげ!」
理屈が、あちこち飛んでいた。
けれど、妙に筋が通っているような気も、した。
「マリーカ」
隣で、ケスラー元帥が低く咳払いをした。
「話が、逆さまだ。お前がアイスを買いに出たのは、ただの、偶然だ。それを、手柄のように言うでない」
「あら。でも、結果として、お役に立ったでしょう」
「……まあ、それは、そうだが」
「でしょう?」
マリーカさんが、勝ち誇ったように胸を張った。
ケスラー元帥は、渋い顔で、口をつぐんだ。
帝都じゅうの兵をぴたりと、ひと声で従える厳めしい元帥が。
奥方の前では、どうにも旗色が悪いらしかった。
僕は思わず、笑いそうになるのをこらえた。
***
「そうだ、陛下。よいものを、お教えしましょう」
マリーカさんは、急に声をひそめた。何か、とっておきの秘密を、打ち明けるように。
「魔除けの、おまじないよ。わたくしの、お祖父さまが教えてくださったの。……いいこと? よく、お聞きなさいね。――ホクスポクス・フィジブス。ホクスポクス・フィジブス」
「ほくす、ぽくす……?」
「そう! 凶事よ消えうせろ、という意味なの。悪いことが起きそうなときにこう唱えるの。……こつはね、二回、繰り返すこと。重ねて唱えると、効き目が、倍になるのよ」
「本当ですか」
「本当よ!」マリーカさんは、大真面目だった。
「だって、あの夜も、わたくしがこれを大佐さんにお教えしたら。ほら、皆、無事だったでしょう」
またしても、隣で、ケスラー元帥が咳払いをした。
だが今度は、何も言わなかった。
ただ、白いものの混じった眉を、少しだけ下げただけだった。
***
僕には一つ、ずっと不思議だったことがあった。
「あの、マリーカさん。……どうして、元帥のことを、大佐さん、と呼ぶのですか。元帥は、元帥、なのに」
マリーカさんは、あら、という顔をして、それからくすくすと笑った。
「あのね、陛下。初めて、この人に会ったとき。わたくし、この人がどれくらい偉い人か、分からなくて。でも、いかにも偉そうだったから、とりあえず大佐さん、ってお呼びしたの。……そうしたら、本当は、もっと、ずうっと偉い人だったのよ。上級大将さま。恥ずかしいったら」
「では、いまは元帥では」
「ええ。でも、なんだか、大佐さん、のほうが、しっくりくるのよ」
マリーカさんは、隣の夫を見て、悪戯っぽく笑った。
「ねえ、大佐さん?」
ケスラー元帥は、答えなかった。
ただ、その厳めしい横顔が、ほんの少しだけ、赤くなったように、僕には見えた。
***
さんざん笑ったあとで。
ふと、僕はあることに気づいて、静かになった。
あの夜。悪い者たちが、館を襲った、あの夜。
母上と、生まれる前の僕は、本当に危なかったのだ。
マリーカさんが、あんなに明るく話すから、忘れそうになるけれど。
一歩間違えば、僕も、母上も、この世にいなかった。
「……あの夜は」僕は、ぽつりと言った。
「本当に、危なかったのですね」
部屋の空気が、少しだけ、変わった。
マリーカさんの笑みが、ふと、和らいだ。
ケスラー元帥は、僕をじっと見た。
「陛下」元帥は、静かに言った。
「もし、よろしければ。憲兵隊の詰所を、御覧になりますか。……あの夜、なぜ、ああいうことが起きたのか。そして、二度と起こさぬために、我々が、何をしておるのか。それを、知っておかれるのも、よろしいかと存じます」
僕は、頷いた。
***
その日、僕はケスラー元帥に、憲兵隊の詰所を案内してもらった。
あの夜のことを知りたい、という僕の気持ちを、元帥は汲んでくれたのだと思う。
国の秩序が、どうやって守られているのか。それを、その目で見せておこう、と。
詰所は静かだった。
兵たちは皆、きびきびと動き、無駄口一つ叩かない。
ケスラー元帥が通ると、全員がぴたりと手を止め、姿勢を正す。
厳しい人なのだ、とすぐに分かった。
「陛下。何か、お尋ねになりたいことは」
ケスラー元帥の声は、低く硬かった。
僕は少し迷ってから、かねて気になっていたことを聞いてみた。
「元帥。……憲兵は、ブラスターを持っていますよね。力で、国を守っているのですか」
ケスラー元帥は、僕を見下ろした。その目が、ほんの少し細くなった。
「力は、使います。ですが、陛下。力は、道具にすぎませぬ」
「道具」
「さようです。……我々が、守っておるのは、法にございます。力は、その法を守るための道具。それ以上のものではありませぬ」
***
元帥は、詰所の窓から帝都の街並みを見下ろした。
「陛下。剣は、人を斬るための道具です。銃は、人を撃つための道具。……いまどき、儀仗目的以外で剣を佩く兵は、おりませぬがな」
元帥は、わずかに、口の端で笑ったようだった。
「剣であれ、銃であれ。それらは、人を傷つけるために生まれた。……ですが、我々が、それを佩いておるのは、人を傷つけるためではない。傷つけさせぬためにございます」
「傷つけさせぬ、ため」
「さようです」元帥は頷いた。
「力ある者が、力なき者を、勝手に傷つける。強い者が、弱い者から、奪う。それを許さぬために、法がある。そして、その法を守らせるために、我々がおるのです。剣は、人を斬る。ですが、法は人を斬らせぬために、あるのです」
僕はその言葉を、胸の中で繰り返した。
剣は、人を斬る。
法は、人を斬らせぬために、ある。
「旧い王朝では」元帥は続けた。
その声が、わずかに低くなった。
「力ある貴族が、法の上にありました。気に入らぬ平民を、裁きもせず斬り捨てても、咎められぬ。法が、力に負けておったのです。先帝陛下がお壊しになったのは、その仕組みでした。誰であろうと、法の下にある。皇帝とて、例外ではない」
「皇帝も、ですか」
「皇帝も、にございます」
元帥は、まっすぐに僕を見た。厳しい、しかし揺るがぬ目だった。
「……いえ。正しくは、こう申し上げるべきかもしれませぬ。皇帝には、法をも超える力が、ただ一つ、遺されております。皇帝大権。……いざというとき、法を止め、自らの一存で、国を動かす力。先帝陛下が、お持ちであった、あの絶対の力にございます」
「では、皇帝は、法の上にいるのでは」
「いいえ」
元帥の答えは、静かで、しかし、揺るがなかった。
「その力は、いわば、伝家の宝刀。……抜けば、たしかに、あらゆる難事を、断ち切れましょう。ですが、抜いたその瞬間に、法は、死にまする。皇帝が大権を振りかざし、頻繁に、法を超えて刀を振るえば、次からは、誰もがこう思う。皇帝の気分ひとつで、法など覆るのだ、と。……そうなれば、法を守る者は、いなくなります」
「だから……抜いては、いけない」
「御意」
元帥は、深く、頷いた。
「その刀は、鞘に納めたまま、持っておられることに、意味がある。いざとなれば抜ける。だが、決して、抜かぬ。……最も強い力を持つ皇帝が、その力を、自ら、使わずにいる。その姿を見て初めて、臣下も、民も、法を、信じるのです。……力を持つ者が、力を抑える。それが、法の下に立つ、ということにございます」
「陛下。……私は、長く、力を預かる側におりました。」
元帥はまっすぐ僕を見た。
「人を、取り締まり、時に、捕らえる側に。力ずくで人を抑えるのが、どれほど容易いか。そして、それが、どれほど脆いか。……いやというほど、見てまいりました。力だけで抑えた者は、いつか必ず、その力の隙を、突かれまする」
「隙を作らぬ、ただ一つの道。それは、力を持つ者が、自らも、法の下に立つことにございます。……いつか陛下が、真に国を統べられるとき。どうか、それを、お忘れなきよう」
***
その言葉は、八つの僕には半分も分からなかった。
自らも法の下に立つということが、どういうことなのか。
皇帝が、自分より上に法を置くとは、どういうことなのか。
だが、なぜだろう。その言葉は忘れられなかった。
この、笑わない厳めしい人が、命がけで守っているものの正体を、少しだけ見た気がした。
案内が終わり、詰所を出るとき、僕は思いきって、言ってみた。
「元帥。……あの、ありがとうございました」
「案内の礼など。務めにございます」
「いえ。……あの、そうではなくて」
僕は、言葉を探した。
「昔。柊館で。……母上と、僕を、助けてくれて。ありがとうございました」
ケスラー元帥の足が止まった。
しばらく、元帥は何も言わなかった。
それから僕のほうに向き直り、ゆっくりと片膝をついた。
僕と目の高さを合わせるように。
「陛下。あれは、礼を言われるようなことではございませぬ」
その声は、いつもの硬さの奥に、初めてかすかな温かさがあった。
「あの夜、私は、ただ、務めを果たしただけにございます。目の前で、失われようとする命があった。それを、守った。」
「憲兵の務めとは、つまるところ、それだけのことにございます。守るべき命を、守る。理由は、それ以上、要りませぬ」
「でも。僕が、いま生きているのは」
「陛下が、いま生きておられるのは」元帥は、静かに遮った。
「陛下御自身の、生きる力にございます。私は、きっかけを与えたにすぎませぬ。……どうか、その命を、大切になさいませ。多くの者が守ろうとした、命にございますれば」
僕は頷いた。うまく言葉が出なくて、ただ何度も頷いた。
厳めしい、法の番人。
その人の目線の低さと、声の温かさを、僕はその日、初めて知った。
***
【新帝国暦十一年 グリューネワルト伯爵夫人邸 アレク】
それから、しばらく後のこと。
母上が、帝都郊外に隠棲する伯母を訪ねる、というので、僕も、供をすることになった。
グリューネワルト伯爵夫人。
アンネローゼ様。
先帝陛下の姉。
母上にとっては、義理の姉。
そして、僕の大伯母にあたる人だ。
その人は、宮廷には、いなかった。
帝都の華やぎを好まず、ずっと昔に、俗世から身を退いていた。
住まいは、帝都を遠く離れた、辺境の田園の中。
船を乗り継ぎ、地上車に揺られ、半日以上をかけて、ようやく辿り着く、静かな土地だった。
道中、母上は、いつもより、少し口数が少なかった。
窓の外を流れる田園を、じっと見ている。
その横顔が、どこか、遠くを見ているようだった。
母上もまた、この訪問に、亡き父上の面影を、探しているのかもしれない。
僕は、そんな気がした。
***
離宮、と呼ぶには、あまりに小さな家だった。
金襴の装飾も、居並ぶ侍従も、何もない。
あるのは、手入れの行き届いた庭と、そこに咲く白い薔薇と、開け放した窓から流れてくる、焼き菓子の甘い匂いだけ。
アンネローゼ様は、僕たちを、門の前まで出て、迎えてくれた。
「まあ、皇太后陛下。よく来てくれたこと。……あら、皇帝陛下も。ご立派になられて」
母上と伯母様は、しばらく、手を取り合って、何か静かに話していた。
二人にしか分からない、長い時間の話を。
やがて、母上が、僕を見て、微笑んだ。
「アレク。わたくしは、少し用事があるの。あなたは、その間、アンネローゼ様のお庭でも、見せていただきなさい。……いえ」
母上は、少し考えて、言い直した。
「アンネローゼ様に、お父様のお話でも、聞かせていただくといいわ。わたくしより、ずっと昔の、お父様を、ご存じだから」
僕は、はっとして、母上を見た。
母上は、僕の心の中を、見透かしていたのかもしれない。
僕が、ずっと、父上のことを聞きたがっていたことを。
***
こうして、僕は、アンネローゼ様と、二人きりで、庭の見える部屋に座った。
「さあ、陛下。こちらへ。ちょうど、お菓子を焼いたところなの」
***
アンネローゼ様の焼いた菓子は、素朴で、優しい味がした。
宮廷の菓子職人が作る、きらびやかなものとは違う。飾りけのない、家庭の味だった。巴旦杏の甘酸っぱさを、パイとスポンジで、そっと包んである。だが、その素朴さが、なぜかとても美味しかった。
「美味しいです」僕が言うと、アンネローゼ様は、嬉しそうに笑った。
「よかった。……ケルシーのケーキ、というの。昔から、よく焼いていたお菓子」
「ケルシーの、ケーキ」
「ええ」アンネローゼ様は、懐かしそうに、目を細めた。
「わたくしの弟が。これが、大好きだったの。……小さいころ、貧しくて、ろくな菓子も買えなかったから。わたくしが、ありあわせの材料で、これを焼いてあげたの」
アンネローゼ様は、ふと、遠くを見た
「あの子と、それからあの子の大切なお友達と。二人で、競うように、食べてね。取り合いになって、よく、喧嘩もしたのよ」
ジークフリード・キルヒアイス。
「大切なお友達」とは、たぶんキルヒアイス元帥のことだろう。
その名なら、僕も知っている。
父上が、生涯でただ一人、心を許した親友。
若くして亡くなった、赤毛の将。
もし、あの人が生きていれば――と、いまも、多くの人が惜しむ。
母上も、元帥たちも、あの人の名を口にするとき、いつも、どこか特別な声になった。
歴史の教科書の、遠い英雄。
だが、アンネローゼ様の語るその人は、英雄では、なかった。
アンネローゼ様の焼いた菓子を、父上と取り合って喧嘩する、
ただの、食いしん坊の男の子だった。
「あのころは、ほんとうに、貧しかったけれど」アンネローゼ様は、微笑んだ。
「あの子たちが、このケーキを、宝物みたいに食べる顔を見るのが。わたくしの、いちばんの、幸せだったの」
その微笑みの奥に、かすかな、寂しさが、あった。
もう、二人とも、この世にいない。
そのことに、僕は、触れなかった。
ただ、アンネローゼ様の焼いたケーキを、もう一口、大切に、食べた。
僕は、菓子を持つ手を止めた。
そして、ずっと心の奥にしまっていた問いを、思いきって口にした。
「アンネローゼ様。……あの。父上は。先帝陛下は、どんな人、だったのですか」
***
アンネローゼ様は、少し驚いたように僕を見た。
それから、窓の外の遠い庭に、目を向けた。懐かしいものを、見るような目だった。
「そうねえ。……なんて、お話ししましょうか」
その声は、柔らかかった。
「先帝陛下は、いえ、あの子は。ラインハルトは。とても、癇癪持ちの子でした」
「癇癪持ち」
思いがけない言葉に、僕は目を丸くした。
伝説の中の先帝ラインハルトは、いつも冷静で天才的で、完璧な英雄だった。
癇癪持ちの子供、という言葉は、その像と、まるで結びつかない。
「ええ」アンネローゼ様は、くすくすと笑った。
「気に入らないことがあると、すぐに、頬をふくらませてね。負けず嫌いで、口も達者で。……わたくしが少しでも他の子と親しくすると、拗ねて、口をきいてくれなくなったりするの。とても、寂しがりな子でした」
***
僕は、言葉を失っていた。
癇癪持ち。負けず嫌い。寂しがり。拗ねる。
それは、僕の知っている「先帝ラインハルト」では、なかった。
歴史の教科書にも、宮廷の語り草にも、そんな父上は、どこにもいない。
そこにいたのは、ただの一人の男の子だった。姉に構ってほしくて拗ねる、どこにでもいそうな寂しがりの少年。
「意外に思われて?」アンネローゼ様は、僕の顔を見て、微笑んだ。
「……はい」僕は正直に、頷いた。
「僕の知っている父上は、もっと、すごくて、遠い人でした」
「そうね。世間の知っているラインハルトは、そうでしょう」アンネローゼ様は、静かに言った。
「英雄で、天才で、銀河を統べた皇帝。……でも、わたくしにとっては、ただの、弟なの。菓子をねだって、拗ねて、泣いて、笑った、小さな弟。それが、いちばん、本当のあの子」
***
アンネローゼ様は、刺繍の手を止めて遠くを見た。
「あの子はね。小さいころ、とても、貧しい暮らしをしていたの。……ろくな菓子も、買えなかった。だから、わたくしが、ありあわせの材料でこれを焼いてあげたの。あの子は、それを両手で大事に持って、宝物みたいに、少しずつ食べるのよ」
その声には、深い慈しみと、かすかな痛みが滲んでいた。
「あのころが、いちばん幸せだったのかもしれない。……何も、持っていなかったけれど」
アンネローゼ様は、そこで、ふと、言葉を止めた。
ほんの、一瞬だった。
なぜか、もうこれ以上は聞いてはいけない気がした。
アンネローゼ様の目に、そのとき、遠く悲しい色がよぎったから。
***
アンネローゼ様は、すぐにいつもの優しい微笑みに戻った。
「ごめんなさいね。年寄りの、昔話が、過ぎたわ」
「いえ」僕は、首を振った。
「……もっと、聞きたいです。父上の、話」
その言葉に、アンネローゼ様は、とても優しい目をした。
「陛下は。あなたは、あの子に、よく似ておいでね」
「僕が、ですか」僕は、驚いた。
「……僕は、父上のような、天才では、ないのに」
「天才かどうかなんて、どうでもいいの」アンネローゼ様は、微笑んだ。
「あの子は、たしかに戦の天才でした。多くの人をその輝きで従えた。けれど……」
アンネローゼ様は、そこで言葉を区切り、僕の顔を、そっと見た。
「あの子と比べることなんて、ないの。あなたは、あなたの見えるものを、大切になさい」
その言葉は、僕の胸の、いちばん柔らかいところにそっと触れた。
***
【新帝国暦十一年 獅子の泉 フェリックス】
アレクが帝都に戻って、何日か後のこと。
久しぶりに俺と顔を合わせたアレクは、なんだか、ぼんやりしていた。
「どうした。腑抜けた顔して」
「……ん」アレクは、少し笑った。
「この前、伯母様のところで、父上の話を、聞いてきたんだ」
「へえ。わざわざ行った甲斐は、あったのか」
「……うん」アレクは、頷いた。
「父上の話を、聞いたんだ。アンネローゼ様に」
「へえ。どんなだった。先帝陛下」
「……癇癪持ちで、寂しがりで、姉上の菓子が好きな、子供だったって」
「なんだそりゃ」俺は、思わず笑った。
「歴史の英雄が、台無しだな」
「うん」アレクも、笑った。
「でも……なんか、嬉しかった。父上のこと、初めて、ちょっとだけ、分かった気がして」
俺は、その横顔を見て、ふと思った。
アレクは、父上のことを、知らない。
先帝陛下は、アレクが生まれて間もなく崩御された。
だからアレクは、父の顔も声も憶えていない。
伝説の中の父しか知らない。
それは、少し、俺に似ているかもしれない。
***
俺も、実の父を知らない。
オスカー・フォン・ロイエンタール。
会ったこともない。生まれる前に死んだ。
俺の父は、ウォルフガング・ミッターマイヤーだ。
それでいい、と思っている。
実の父のことなど、どうでもいい、と。
……いつだったか。父上が、一度だけ、言ったことがある。
「フェリックス。お前の本当の父親の話を聞かせる」、と。
俺は、反発した。
「『本当の父親』って、なんだよ。父上は、父上じゃないのかよ」その言い方が、嫌だった。
本当の、という言葉が。
まるで、父上が、偽物みたいで。
だから俺は、聞かなかった。
会ったこともない英雄の話なんて、どうでもいい。
そう言って、その場を、逃げた。
父上は、それ以上、何も言わなかった。ただ、少し、寂しそうな顔をした。
***
どうでもいい、と思っていた。
だけど、本当に、どうでもよかったのだろうか。
アレクが、父上の話を聞いて、あんなに嬉しそうにしているのを見ると。
胸の奥が、ちりっと、痛むような気がした。
でも、まだ、どうしても、聞く気にはなれない。
本当の父親の話を聞いてしまったら。
なんだか、父上が、遠くなってしまう気がして。
俺は、まだ、子供だ。
いつか、大人になったら。会ったこともないその人の話を、聞いてあげてもいい、と思える日が来るのかもしれない。
だけど、それは、今じゃない。
今はまだ、俺の父上は、ただ一人でいい。
***
【新帝国暦十一年 獅子の泉 アレク】
その夜、僕は寝台の中で、今日一日のことを思い返していた。
ケスラー元帥の言葉。
剣は人を斬る、法は斬らせぬためにある。
アンネローゼ様の言葉。
癇癪持ちで、寂しがりで、菓子が好きだった、弟。
まるで違う二つの話だった。
けれど、どちらも僕の「命」に繋がっていた。
ケスラー元帥は、僕の命を救ってくれた人。
アンネローゼ様は、僕に命をくれた父上の姉。
僕が、いま、ここにいること。
それは、当たり前のことではなかったのだ。
炎の中から運び出してくれた人がいて、貧しさの中で弟を慈しんだ姉がいて。
その弟がやがて、僕の父になった。
たくさんの人の、たくさんの想いの、そのいちばん先に僕はいる。
僕はまだ、父上のことをほとんど知らない。
だが今日、一つだけ分かったことがある。
父上も、かつては一人の、寂しがりの子供だった。
天才でも英雄でもない、ただの、小さな男の子。
その子が、必死に生きて、そして銀河を統べる皇帝になった。
なら、僕にも。
天才でなくても、僕にも何かできるのかもしれない。
その夜、僕は、少しだけ、父上を近くに感じるようになった気がした。