銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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幕間四 父の面影

【新帝国暦十一年 獅子の泉 アレク】

 

その人のことを、僕はずっと前から知っていた。

 

ウルリッヒ・ケスラー元帥。

 

軍務尚書。

かつては憲兵総監として、腐敗しきった憲兵隊を、一人で立て直した人でもある。

 

帝国の秩序を守る、法の番人。

背が高く姿勢がよく、いつも制服の襟元まできちんとしていた。

両の耳の横の髪は白く、眉にも白いものが混じっている。

獅子の泉(ルーヴェン・ブルン)の七元帥の中でも、いちばん年かさの人だった。

笑った顔を、僕はほとんど見たことがない。

そして、この人は僕の命の恩人だった。

 

僕が、まだ母上のお腹の中にいたころ。柊館(シュテッヒパルムシュロス)という館が、火に包まれた。

 

「地球教徒」という、狂信的なテロリストが火をつけたのだ、という。

もう、とうに滅んだ、と皆は言う。

 

その炎の中から、出産の近い母上を抱えるようにして運び出したのが、この、ケスラー元帥だった。

 

もし、あの夜、この人がいなければ。

僕は、生まれてくることも、なかった。

 

宮廷の誰もが、その話を知っていた。

僕も物心つく前から、聞かされて育った。

だから僕は、この厳めしい人を見るたびに、いつも不思議な気持ちになる。

 

 

***

 

 

その日、僕は、獅子の泉の一室で、ケスラー元帥と、その夫人に会った。

 

夫人の名は、マリーカさん。

もとは、母上の侍女だった人だ。

いまは、ケスラー元帥の奥方。

だが、元帥とは、ずいぶん歳が離れていた。

厳めしい白髪混じりの元帥の隣で、その若い夫人は、花のように、くるくると表情を変えて笑っていた。

 

「まあまあ、陛下!なんて、ご立派におなりで!」

 

マリーカさんは、僕を見るなり、両手を合わせて目を輝かせた。

 

「わたくし、陛下がこんなに小さかったころから存じ上げているのですよ。ええ、それはもう、生まれる前から!……あのね、陛下。陛下がこうして、ご無事にお生まれになれたのは、誰のおかげか、ご存じ?」

 

「……ケスラー元帥の、おかげ、でしょうか」

 

僕が言うと、マリーカさんは大きく、首を横に振った。

 

「ちがうのよ。……チョコレートアイスクリームの、おかげなの」

 

僕は、きょとんとした。

 

 

***

 

 

「あのね、陛下」マリーカさんは、身を乗り出した。

「あの夜、わたくし、無性に、チョコレートアイスクリームが、食べたくなって。それで、こっそり、買いに出たの。」

「そうしたら、その隙に、悪い者たちが、お館を襲って……。もし、わたくしが、アイスを買いに行かなければ。館の中にいて、皆と一緒に、危ない目に遭っていたわ。」

「だから、あのアイスクリームが、わたくしを助けてくれたの。……そして、外にいたわたくしが、お妃さまの、お部屋の窓の場所を、大佐さんに、お教えできたのよ。だから、陛下が助かったのは、チョコレートアイスクリームの、おかげ!」

 

理屈が、あちこち飛んでいた。

けれど、妙に筋が通っているような気も、した。

 

「マリーカ」

 

隣で、ケスラー元帥が低く咳払いをした。

 

「話が、逆さまだ。お前がアイスを買いに出たのは、ただの、偶然だ。それを、手柄のように言うでない」

 

「あら。でも、結果として、お役に立ったでしょう」

 

「……まあ、それは、そうだが」

 

「でしょう?」

 

マリーカさんが、勝ち誇ったように胸を張った。

ケスラー元帥は、渋い顔で、口をつぐんだ。

 

帝都じゅうの兵をぴたりと、ひと声で従える厳めしい元帥が。

奥方の前では、どうにも旗色が悪いらしかった。

僕は思わず、笑いそうになるのをこらえた。

 

 

***

 

 

「そうだ、陛下。よいものを、お教えしましょう」

 

マリーカさんは、急に声をひそめた。何か、とっておきの秘密を、打ち明けるように。

 

「魔除けの、おまじないよ。わたくしの、お祖父さまが教えてくださったの。……いいこと? よく、お聞きなさいね。――ホクスポクス・フィジブス。ホクスポクス・フィジブス」

 

「ほくす、ぽくす……?」

 

「そう! 凶事よ消えうせろ、という意味なの。悪いことが起きそうなときにこう唱えるの。……こつはね、二回、繰り返すこと。重ねて唱えると、効き目が、倍になるのよ」

 

「本当ですか」

 

「本当よ!」マリーカさんは、大真面目だった。

「だって、あの夜も、わたくしがこれを大佐さんにお教えしたら。ほら、皆、無事だったでしょう」

 

またしても、隣で、ケスラー元帥が咳払いをした。

だが今度は、何も言わなかった。

ただ、白いものの混じった眉を、少しだけ下げただけだった。

 

 

***

 

 

僕には一つ、ずっと不思議だったことがあった。

 

「あの、マリーカさん。……どうして、元帥のことを、大佐さん、と呼ぶのですか。元帥は、元帥、なのに」

 

マリーカさんは、あら、という顔をして、それからくすくすと笑った。

 

「あのね、陛下。初めて、この人に会ったとき。わたくし、この人がどれくらい偉い人か、分からなくて。でも、いかにも偉そうだったから、とりあえず大佐さん、ってお呼びしたの。……そうしたら、本当は、もっと、ずうっと偉い人だったのよ。上級大将さま。恥ずかしいったら」

 

「では、いまは元帥では」

 

「ええ。でも、なんだか、大佐さん、のほうが、しっくりくるのよ」

マリーカさんは、隣の夫を見て、悪戯っぽく笑った。

「ねえ、大佐さん?」

 

ケスラー元帥は、答えなかった。

 

ただ、その厳めしい横顔が、ほんの少しだけ、赤くなったように、僕には見えた。

 

 

***

 

 

さんざん笑ったあとで。

ふと、僕はあることに気づいて、静かになった。

 

あの夜。悪い者たちが、館を襲った、あの夜。

母上と、生まれる前の僕は、本当に危なかったのだ。

マリーカさんが、あんなに明るく話すから、忘れそうになるけれど。

一歩間違えば、僕も、母上も、この世にいなかった。

 

「……あの夜は」僕は、ぽつりと言った。

「本当に、危なかったのですね」

 

部屋の空気が、少しだけ、変わった。

 

マリーカさんの笑みが、ふと、和らいだ。

ケスラー元帥は、僕をじっと見た。

 

「陛下」元帥は、静かに言った。

「もし、よろしければ。憲兵隊の詰所を、御覧になりますか。……あの夜、なぜ、ああいうことが起きたのか。そして、二度と起こさぬために、我々が、何をしておるのか。それを、知っておかれるのも、よろしいかと存じます」

 

僕は、頷いた。

 

 

***

 

 

その日、僕はケスラー元帥に、憲兵隊の詰所を案内してもらった。

 

あの夜のことを知りたい、という僕の気持ちを、元帥は汲んでくれたのだと思う。

国の秩序が、どうやって守られているのか。それを、その目で見せておこう、と。

 

詰所は静かだった。

兵たちは皆、きびきびと動き、無駄口一つ叩かない。

ケスラー元帥が通ると、全員がぴたりと手を止め、姿勢を正す。

厳しい人なのだ、とすぐに分かった。

 

「陛下。何か、お尋ねになりたいことは」

 

ケスラー元帥の声は、低く硬かった。

僕は少し迷ってから、かねて気になっていたことを聞いてみた。

 

「元帥。……憲兵は、ブラスターを持っていますよね。力で、国を守っているのですか」

 

ケスラー元帥は、僕を見下ろした。その目が、ほんの少し細くなった。

「力は、使います。ですが、陛下。力は、道具にすぎませぬ」

 

「道具」

 

「さようです。……我々が、守っておるのは、法にございます。力は、その法を守るための道具。それ以上のものではありませぬ」

 

 

***

 

 

元帥は、詰所の窓から帝都の街並みを見下ろした。

 

「陛下。剣は、人を斬るための道具です。銃は、人を撃つための道具。……いまどき、儀仗目的以外で剣を佩く兵は、おりませぬがな」

 

元帥は、わずかに、口の端で笑ったようだった。

 

「剣であれ、銃であれ。それらは、人を傷つけるために生まれた。……ですが、我々が、それを佩いておるのは、人を傷つけるためではない。傷つけさせぬためにございます」

 

「傷つけさせぬ、ため」

 

「さようです」元帥は頷いた。

「力ある者が、力なき者を、勝手に傷つける。強い者が、弱い者から、奪う。それを許さぬために、法がある。そして、その法を守らせるために、我々がおるのです。剣は、人を斬る。ですが、法は人を斬らせぬために、あるのです」

 

僕はその言葉を、胸の中で繰り返した。

剣は、人を斬る。

法は、人を斬らせぬために、ある。

 

「旧い王朝では」元帥は続けた。

その声が、わずかに低くなった。

「力ある貴族が、法の上にありました。気に入らぬ平民を、裁きもせず斬り捨てても、咎められぬ。法が、力に負けておったのです。先帝陛下がお壊しになったのは、その仕組みでした。誰であろうと、法の下にある。皇帝とて、例外ではない」

 

「皇帝も、ですか」

 

「皇帝も、にございます」

元帥は、まっすぐに僕を見た。厳しい、しかし揺るがぬ目だった。

 

「……いえ。正しくは、こう申し上げるべきかもしれませぬ。皇帝には、法をも超える力が、ただ一つ、遺されております。皇帝大権。……いざというとき、法を止め、自らの一存で、国を動かす力。先帝陛下が、お持ちであった、あの絶対の力にございます」

 

「では、皇帝は、法の上にいるのでは」

 

「いいえ」

元帥の答えは、静かで、しかし、揺るがなかった。

 

「その力は、いわば、伝家の宝刀。……抜けば、たしかに、あらゆる難事を、断ち切れましょう。ですが、抜いたその瞬間に、法は、死にまする。皇帝が大権を振りかざし、頻繁に、法を超えて刀を振るえば、次からは、誰もがこう思う。皇帝の気分ひとつで、法など覆るのだ、と。……そうなれば、法を守る者は、いなくなります」

 

「だから……抜いては、いけない」

 

「御意」

元帥は、深く、頷いた。

 

「その刀は、鞘に納めたまま、持っておられることに、意味がある。いざとなれば抜ける。だが、決して、抜かぬ。……最も強い力を持つ皇帝が、その力を、自ら、使わずにいる。その姿を見て初めて、臣下も、民も、法を、信じるのです。……力を持つ者が、力を抑える。それが、法の下に立つ、ということにございます」

「陛下。……私は、長く、力を預かる側におりました。」

 

元帥はまっすぐ僕を見た。

「人を、取り締まり、時に、捕らえる側に。力ずくで人を抑えるのが、どれほど容易いか。そして、それが、どれほど脆いか。……いやというほど、見てまいりました。力だけで抑えた者は、いつか必ず、その力の隙を、突かれまする」

「隙を作らぬ、ただ一つの道。それは、力を持つ者が、自らも、法の下に立つことにございます。……いつか陛下が、真に国を統べられるとき。どうか、それを、お忘れなきよう」

 

 

***

 

 

その言葉は、八つの僕には半分も分からなかった。

 

自らも法の下に立つということが、どういうことなのか。

皇帝が、自分より上に法を置くとは、どういうことなのか。

 

だが、なぜだろう。その言葉は忘れられなかった。

この、笑わない厳めしい人が、命がけで守っているものの正体を、少しだけ見た気がした。

 

案内が終わり、詰所を出るとき、僕は思いきって、言ってみた。

 

「元帥。……あの、ありがとうございました」

 

「案内の礼など。務めにございます」

 

「いえ。……あの、そうではなくて」

 

僕は、言葉を探した。

 

「昔。柊館で。……母上と、僕を、助けてくれて。ありがとうございました」

 

ケスラー元帥の足が止まった。

 

しばらく、元帥は何も言わなかった。

それから僕のほうに向き直り、ゆっくりと片膝をついた。

僕と目の高さを合わせるように。

 

「陛下。あれは、礼を言われるようなことではございませぬ」

 

その声は、いつもの硬さの奥に、初めてかすかな温かさがあった。

 

「あの夜、私は、ただ、務めを果たしただけにございます。目の前で、失われようとする命があった。それを、守った。」

「憲兵の務めとは、つまるところ、それだけのことにございます。守るべき命を、守る。理由は、それ以上、要りませぬ」

 

「でも。僕が、いま生きているのは」

 

「陛下が、いま生きておられるのは」元帥は、静かに遮った。

「陛下御自身の、生きる力にございます。私は、きっかけを与えたにすぎませぬ。……どうか、その命を、大切になさいませ。多くの者が守ろうとした、命にございますれば」

 

僕は頷いた。うまく言葉が出なくて、ただ何度も頷いた。

 

厳めしい、法の番人。

その人の目線の低さと、声の温かさを、僕はその日、初めて知った。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十一年 グリューネワルト伯爵夫人邸 アレク】

 

 

それから、しばらく後のこと。

母上が、帝都郊外に隠棲する伯母を訪ねる、というので、僕も、供をすることになった。

 

グリューネワルト伯爵夫人。

アンネローゼ様。

 

先帝陛下の姉。

母上にとっては、義理の姉。

そして、僕の大伯母にあたる人だ。

 

その人は、宮廷には、いなかった。

帝都の華やぎを好まず、ずっと昔に、俗世から身を退いていた。

住まいは、帝都を遠く離れた、辺境の田園の中。

船を乗り継ぎ、地上車に揺られ、半日以上をかけて、ようやく辿り着く、静かな土地だった。

 

道中、母上は、いつもより、少し口数が少なかった。

窓の外を流れる田園を、じっと見ている。

その横顔が、どこか、遠くを見ているようだった。

 

母上もまた、この訪問に、亡き父上の面影を、探しているのかもしれない。

僕は、そんな気がした。

 

 

***

 

 

離宮、と呼ぶには、あまりに小さな家だった。

金襴の装飾も、居並ぶ侍従も、何もない。

 

あるのは、手入れの行き届いた庭と、そこに咲く白い薔薇と、開け放した窓から流れてくる、焼き菓子の甘い匂いだけ。

 

アンネローゼ様は、僕たちを、門の前まで出て、迎えてくれた。

「まあ、皇太后陛下。よく来てくれたこと。……あら、皇帝陛下も。ご立派になられて」

母上と伯母様は、しばらく、手を取り合って、何か静かに話していた。

二人にしか分からない、長い時間の話を。

 

やがて、母上が、僕を見て、微笑んだ。

「アレク。わたくしは、少し用事があるの。あなたは、その間、アンネローゼ様のお庭でも、見せていただきなさい。……いえ」

 

母上は、少し考えて、言い直した。

「アンネローゼ様に、お父様のお話でも、聞かせていただくといいわ。わたくしより、ずっと昔の、お父様を、ご存じだから」

僕は、はっとして、母上を見た。

 

母上は、僕の心の中を、見透かしていたのかもしれない。

僕が、ずっと、父上のことを聞きたがっていたことを。

 

 

***

 

 

こうして、僕は、アンネローゼ様と、二人きりで、庭の見える部屋に座った。

「さあ、陛下。こちらへ。ちょうど、お菓子を焼いたところなの」

 

 

***

 

 

アンネローゼ様の焼いた菓子は、素朴で、優しい味がした。

 

宮廷の菓子職人が作る、きらびやかなものとは違う。飾りけのない、家庭の味だった。巴旦杏の甘酸っぱさを、パイとスポンジで、そっと包んである。だが、その素朴さが、なぜかとても美味しかった。

 

「美味しいです」僕が言うと、アンネローゼ様は、嬉しそうに笑った。

 

「よかった。……ケルシーのケーキ、というの。昔から、よく焼いていたお菓子」

 

「ケルシーの、ケーキ」

 

「ええ」アンネローゼ様は、懐かしそうに、目を細めた。

「わたくしの弟が。これが、大好きだったの。……小さいころ、貧しくて、ろくな菓子も買えなかったから。わたくしが、ありあわせの材料で、これを焼いてあげたの」

 

アンネローゼ様は、ふと、遠くを見た

 

「あの子と、それからあの子の大切なお友達と。二人で、競うように、食べてね。取り合いになって、よく、喧嘩もしたのよ」

 

ジークフリード・キルヒアイス。

 

「大切なお友達」とは、たぶんキルヒアイス元帥のことだろう。

その名なら、僕も知っている。

父上が、生涯でただ一人、心を許した親友。

若くして亡くなった、赤毛の将。

もし、あの人が生きていれば――と、いまも、多くの人が惜しむ。

母上も、元帥たちも、あの人の名を口にするとき、いつも、どこか特別な声になった。

歴史の教科書の、遠い英雄。

 

 

だが、アンネローゼ様の語るその人は、英雄では、なかった。

アンネローゼ様の焼いた菓子を、父上と取り合って喧嘩する、

ただの、食いしん坊の男の子だった。

 

「あのころは、ほんとうに、貧しかったけれど」アンネローゼ様は、微笑んだ。

「あの子たちが、このケーキを、宝物みたいに食べる顔を見るのが。わたくしの、いちばんの、幸せだったの」

 

その微笑みの奥に、かすかな、寂しさが、あった。

もう、二人とも、この世にいない。

そのことに、僕は、触れなかった。

ただ、アンネローゼ様の焼いたケーキを、もう一口、大切に、食べた。

 

僕は、菓子を持つ手を止めた。

そして、ずっと心の奥にしまっていた問いを、思いきって口にした。

 

「アンネローゼ様。……あの。父上は。先帝陛下は、どんな人、だったのですか」

 

 

***

 

 

アンネローゼ様は、少し驚いたように僕を見た。

 

それから、窓の外の遠い庭に、目を向けた。懐かしいものを、見るような目だった。

 

「そうねえ。……なんて、お話ししましょうか」

 

その声は、柔らかかった。

 

「先帝陛下は、いえ、あの子は。ラインハルトは。とても、癇癪持ちの子でした」

 

「癇癪持ち」

 

思いがけない言葉に、僕は目を丸くした。

 

伝説の中の先帝ラインハルトは、いつも冷静で天才的で、完璧な英雄だった。

癇癪持ちの子供、という言葉は、その像と、まるで結びつかない。

 

「ええ」アンネローゼ様は、くすくすと笑った。

「気に入らないことがあると、すぐに、頬をふくらませてね。負けず嫌いで、口も達者で。……わたくしが少しでも他の子と親しくすると、拗ねて、口をきいてくれなくなったりするの。とても、寂しがりな子でした」

 

 

***

 

 

僕は、言葉を失っていた。

 

癇癪持ち。負けず嫌い。寂しがり。拗ねる。

それは、僕の知っている「先帝ラインハルト」では、なかった。

歴史の教科書にも、宮廷の語り草にも、そんな父上は、どこにもいない。

 

そこにいたのは、ただの一人の男の子だった。姉に構ってほしくて拗ねる、どこにでもいそうな寂しがりの少年。

 

「意外に思われて?」アンネローゼ様は、僕の顔を見て、微笑んだ。

 

「……はい」僕は正直に、頷いた。

「僕の知っている父上は、もっと、すごくて、遠い人でした」

 

「そうね。世間の知っているラインハルトは、そうでしょう」アンネローゼ様は、静かに言った。

「英雄で、天才で、銀河を統べた皇帝。……でも、わたくしにとっては、ただの、弟なの。菓子をねだって、拗ねて、泣いて、笑った、小さな弟。それが、いちばん、本当のあの子」

 

 

***

 

 

アンネローゼ様は、刺繍の手を止めて遠くを見た。

 

「あの子はね。小さいころ、とても、貧しい暮らしをしていたの。……ろくな菓子も、買えなかった。だから、わたくしが、ありあわせの材料でこれを焼いてあげたの。あの子は、それを両手で大事に持って、宝物みたいに、少しずつ食べるのよ」

 

その声には、深い慈しみと、かすかな痛みが滲んでいた。

 

「あのころが、いちばん幸せだったのかもしれない。……何も、持っていなかったけれど」

 

アンネローゼ様は、そこで、ふと、言葉を止めた。

 

ほんの、一瞬だった。

 

なぜか、もうこれ以上は聞いてはいけない気がした。

アンネローゼ様の目に、そのとき、遠く悲しい色がよぎったから。

 

 

***

 

 

アンネローゼ様は、すぐにいつもの優しい微笑みに戻った。

 

「ごめんなさいね。年寄りの、昔話が、過ぎたわ」

 

「いえ」僕は、首を振った。

「……もっと、聞きたいです。父上の、話」

 

その言葉に、アンネローゼ様は、とても優しい目をした。

 

「陛下は。あなたは、あの子に、よく似ておいでね」

 

「僕が、ですか」僕は、驚いた。

「……僕は、父上のような、天才では、ないのに」

 

「天才かどうかなんて、どうでもいいの」アンネローゼ様は、微笑んだ。

「あの子は、たしかに戦の天才でした。多くの人をその輝きで従えた。けれど……」

 

アンネローゼ様は、そこで言葉を区切り、僕の顔を、そっと見た。

「あの子と比べることなんて、ないの。あなたは、あなたの見えるものを、大切になさい」

 

その言葉は、僕の胸の、いちばん柔らかいところにそっと触れた。

 

 

***

 

【新帝国暦十一年 獅子の泉 フェリックス】

 

 

アレクが帝都に戻って、何日か後のこと。

 

久しぶりに俺と顔を合わせたアレクは、なんだか、ぼんやりしていた。

 

「どうした。腑抜けた顔して」

 

「……ん」アレクは、少し笑った。

「この前、伯母様のところで、父上の話を、聞いてきたんだ」

 

「へえ。わざわざ行った甲斐は、あったのか」

 

「……うん」アレクは、頷いた。

「父上の話を、聞いたんだ。アンネローゼ様に」

 

「へえ。どんなだった。先帝陛下」

 

「……癇癪持ちで、寂しがりで、姉上の菓子が好きな、子供だったって」

 

「なんだそりゃ」俺は、思わず笑った。

「歴史の英雄が、台無しだな」

 

「うん」アレクも、笑った。

「でも……なんか、嬉しかった。父上のこと、初めて、ちょっとだけ、分かった気がして」

 

俺は、その横顔を見て、ふと思った。

 

アレクは、父上のことを、知らない。

先帝陛下は、アレクが生まれて間もなく崩御された。

だからアレクは、父の顔も声も憶えていない。

伝説の中の父しか知らない。

 

それは、少し、俺に似ているかもしれない。

 

 

***

 

 

俺も、実の父を知らない。

 

オスカー・フォン・ロイエンタール。

 

会ったこともない。生まれる前に死んだ。

俺の父は、ウォルフガング・ミッターマイヤーだ。

それでいい、と思っている。

実の父のことなど、どうでもいい、と。

 

……いつだったか。父上が、一度だけ、言ったことがある。

「フェリックス。お前の本当の父親の話を聞かせる」、と。

 

俺は、反発した。

「『本当の父親』って、なんだよ。父上は、父上じゃないのかよ」その言い方が、嫌だった。

本当の、という言葉が。

まるで、父上が、偽物みたいで。

 

だから俺は、聞かなかった。

会ったこともない英雄の話なんて、どうでもいい。

そう言って、その場を、逃げた。

 

父上は、それ以上、何も言わなかった。ただ、少し、寂しそうな顔をした。

 

 

***

 

 

どうでもいい、と思っていた。

だけど、本当に、どうでもよかったのだろうか。

アレクが、父上の話を聞いて、あんなに嬉しそうにしているのを見ると。

胸の奥が、ちりっと、痛むような気がした。

 

でも、まだ、どうしても、聞く気にはなれない。

 

本当の父親の話を聞いてしまったら。

なんだか、父上が、遠くなってしまう気がして。

 

俺は、まだ、子供だ。

 

いつか、大人になったら。会ったこともないその人の話を、聞いてあげてもいい、と思える日が来るのかもしれない。

だけど、それは、今じゃない。

 

今はまだ、俺の父上は、ただ一人でいい。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十一年 獅子の泉 アレク】

 

その夜、僕は寝台の中で、今日一日のことを思い返していた。

 

ケスラー元帥の言葉。

剣は人を斬る、法は斬らせぬためにある。

 

アンネローゼ様の言葉。

癇癪持ちで、寂しがりで、菓子が好きだった、弟。

 

まるで違う二つの話だった。

けれど、どちらも僕の「命」に繋がっていた。

 

ケスラー元帥は、僕の命を救ってくれた人。

アンネローゼ様は、僕に命をくれた父上の姉。

 

僕が、いま、ここにいること。

それは、当たり前のことではなかったのだ。

 

炎の中から運び出してくれた人がいて、貧しさの中で弟を慈しんだ姉がいて。

その弟がやがて、僕の父になった。

 

たくさんの人の、たくさんの想いの、そのいちばん先に僕はいる。

 

僕はまだ、父上のことをほとんど知らない。

だが今日、一つだけ分かったことがある。

 

父上も、かつては一人の、寂しがりの子供だった。

天才でも英雄でもない、ただの、小さな男の子。

その子が、必死に生きて、そして銀河を統べる皇帝になった。

 

なら、僕にも。

天才でなくても、僕にも何かできるのかもしれない。

 

その夜、僕は、少しだけ、父上を近くに感じるようになった気がした。

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