一「イザーク・フェルナンド・フォン・トゥルナイゼン(前編)」(新帝国暦二十四年四月)
【新帝国暦二十四年四月 ジャムシード星系 惑星タフテ・ジャムシード 帝国軍ジャムシード軍管区司令部】
昼食時の士官食堂で、バーミリオン星域の会戦が始まった。
ただし、つい先ごろ帝国軍と教国軍が砲火を交えた『第二次』のものではない。映っているのは二十三年前、先帝ラインハルト・フォン・ローエングラムとヤン・ウェンリーが戦った最初のバーミリオン星域会戦だった。
もちろん、本物の記録映像でもない。
先帝とヤン・ウェンリーの対決を描いた戦史劇である。この二十三年間、あの時代を題材にした作品が何本作られたか分からなかったが、いま食堂の壁面を占領しているのは、その中でも古典とされる一本だった。
画面では、バーミリオン星域会戦の出陣前の宴席が再現されていた。
若い帝国軍中将が、当時ラインハルトの秘書官だったヒルデガルド・フォン・マリーンドルフにワイングラスを掲げている。演じる俳優は相当に研究したらしく、背筋には寸分の迷いもない。口元には自分がまもなく歴史の中心へ迎え入れられることを疑っていない男の微笑があった。顎の角度まで自信に満ちている。
食堂の奥で、誰かが待ちかねたように言った。
「来るぞ」
「何がですか?」
「黙って見ろ。ここは初見で食らってほしい」
何人かが画面へ顔を向けた。すでに知っている者は、台詞より先に笑いをこらえ始めている。
画面の中の中将が、ほんのわずかに顎を上げた。
『
台詞が終わるより少し早く、食堂のあちこちから呻き声が上がった。
「ああー……」
「毎回思うけど、よく言えたな、これ」
「これ、トゥルナイゼン閣下は本当に言ったんですか?」
「ああ。当時の出席者の回想や証言をまとめた記録に残ってるらしいぞ」
「……なんでそんなところまで残したんですか」
間髪を入れず、別の卓から声が飛んだ。
「後世の歴史家のためだろうよ」
また笑いが起きた。
「ほら、次来るぞ。しっかり見ろ」
「何がです?」
「顔だよ、顔。皇太后陛下の表情だ。ほら」
画面では秘書官ヒルダ役の女優が礼儀正しい微笑を返していた。
壮麗と言ってよい美貌は微塵も崩れていない。それでも目元には、相手の自尊心を傷つけず、この会話をどう終わらせればよいのかを考えている気配があった。
この数秒も、トゥルナイゼン登場回では台詞と同じくらい有名だった。何度も見た者は、彼の台詞が終わるより先にヒルダの目元を見始める。
食堂の何人かが、ほとんど同時に笑った。
「やっぱりここだよな」
「あんなにお綺麗なのに、目だけ『この方を傷つけずに話を早く終える方法』を探してるのがわかるんですよね」
「役者が上手いんだよ。トゥルナイゼン閣下役もな。自信だけなら先帝陛下と互角に見える」
何人かが飲み物を吹きそうになった。
画面の若い中将は、二十三年後の自分がどのような評判を得ているかなど知る由もなく、満足そうに空になったワイングラスを置いた。
「まだ終わりじゃないぞ。しっかり見ろ」
「ああ、このあとだな」
少尉が嫌な予感のする顔をした。
「……もしかして、あの『突出』までやるんですか」
「やるに決まってるだろ!そこまで見て一話だ」
「閣下、出演時間のわりに密度が高いですね」
「ああ、『歴史の証人』だからな」
今度は食堂全体で笑いが起きた。
そして、戦史劇の編集は容赦がなかった。
宴席を彩っていた弦楽曲が途切れた次の瞬間、画面いっぱいにバーミリオン星域会戦の戦況図が現れた。先ほどまでワイングラスを掲げていた男の名を付した一隊が、今度は帝国軍の戦列から大きく前方へ飛び出している。
食堂からどっと笑いが起きた。
「十秒!」
「グラスのシーンから『突出』まで十秒しかなかったぞ」
「明らかに悪意あるだろ、この編集」
「いやいや、このテンポの良さが名演出なんだよ」
帝国軍の一群が前へ出ていた。
少し、という程度ではない。周囲の部隊との間隔を崩しながら敵の後退に食いつくように突出している。別の角度から見た映像へ切り替わると、その艦隊がすでに複数方向から同盟軍の砲火を受けていることまで、非常に分かりやすく示された。
「……行ったな」
「おい、まだ行くぞ!」
「さすがにそこはもう止まれよ!」
少佐がスープを口へ運びながら言った。
「敵が退いている。追いたくなる気持ちは分からんでもない」
「だからって、あそこまで一隊だけで行きます?」
「若いころには、自分だけに敵の背中が見えていると思う瞬間があるものだ」
「少佐、経験談ですか」
「食事中だ。黙れ」
そのころ、画面の中の旗艦ブリュンヒルトでは状況把握が進んでいた。
通信士官たちは妨害電波と電磁波の干渉に苦しみながら、突出した艦隊への連絡を試みている。オペレーターが敵味方の入り乱れた光点を識別し、問題の部隊が本来の配置から大きく離れ、秩序を失ったまま戦闘していることを確認した。
ラインハルト役の俳優が戦況図を睨んだ。
『いったいトゥルナイゼンは何をしているのか!?』
食堂中から、待っていましたとばかりに声が上がった。
「そうだ!何をしてるんだ!俺たちも聞きたい!」
「二十年以上、銀河中が聞いてるぞ!」
「閣下ご本人に聞けよ!」
「聞けるか!」
笑い声の中、画面のオーベルシュタインは、突出した艦隊を冷然と見やった。
『たいした勇者ですな』
食堂のあちこちから笑いが上がった。
「……絶対に褒めてないやつだ」
「この人に勇者とか言われたら、俺なら遺書を書く」
画面のオーベルシュタインは、なおも無表情だった。
『声は遠くにとどくのに、目は近くのものしか見えない。忌避すべき輩ですな』
「閣下、『忌避すべき輩』とまで言われてるぞ」
ラインハルト役の俳優は、不機嫌そうに戦況図から目を離さなかった。
『この戦いが終わって、生き残っていたら卿の忠告にしたがうとしよう』
一瞬、食堂が静かになった。
「……生き残っていたら?」
「トゥルナイゼン閣下、生き残るどころか今も現役の大将なんですよね」
「二十二年間、昇進してないけどな」
そこで劇中のナレーションが、ことさらに重々しく入った。
『トゥルナイゼンの勇敢さは、戦場に必要な冷静さを伴ってはいなかった。
敵を追うことには熱心でも、自らが全軍の中でどこにいるべきかを見ることができない。
その欠点をオーベルシュタインは見抜いていたのである』
「いや、わざわざ解説してくれなくても分かってるって。全銀河が見抜いてる」
「死体を蹴らないでやってくれよ」
「おい、閣下を勝手に殺すな」
笑いがまた広がった。
通常通信では本陣から命令が届かず、ついに旗艦ブリュンヒルトから連絡艇が発進した。ラインハルトの命令を記録した通信カプセルを積み、砲火の飛び交う戦場を横切ってトゥルナイゼン艦隊へ向かっていく。
若い通信士官が、そこで初めて笑うのをやめた。
「これ、本当にブリュンヒルトからわざわざ連絡艇を飛ばしたんですか」
隣の少佐が頷いた。
「当時の戦場なら、通信妨害がひどければあり得る」
「いや、そこじゃないです。皇帝陛下が、一人の中将を持ち場へ戻すためにです」
少佐は画面を見たまま口をつぐんだ。
「……そこは擁護できんな」
また笑いが起きた。
画面では、帝国軍前衛が次々と砲火の焦点へ吸い込まれていった。後世の映像作品らしく艦隊運動は実際より整理され、誰が見ても分かるように演出されている。それでも帝国軍の艦艇が敵を追っているつもりのまま自ら砲列の前へ出ていく様子は、現在の軍人たちが見ても気分のよいものではなかった。
若い少尉が首を振った。
「ご本人に聞いてみます?」
「だから聞けるわけ――」
そのとき、食堂の入口から声がした。
「私に何を聞きたいのかね」
笑い声が、きれいに消えた。
何人かは壁面映像を消すより早く立ち上がり、別の何人かは、口へ運びかけていたフォークを途中で止めた。
入口には、ジャムシード軍管区司令官、イザーク・フェルナンド・フォン・トゥルナイゼン大将が立っていた。
誰かが慌てて映像を消そうとしたが、トゥルナイゼンは片手を上げて止めた。そのまま食堂へ入り、自分を演じている俳優を眺めて顔をしかめる。
「ふむ、役者は悪くない。だが顔はもう少し似せられなかったのか。私は、あのころもう少し痩せていた」
「そこが気になるんですか」
「私を演じる以上、当然だろう」
若い中尉が俯いた。肩がわずかに震えていたが、トゥルナイゼンがそれに気づかなかったのか、それとも気づいたうえで放置したのかは分からない。
「ただし、皇太后陛下が私を見る目については、おおむね正しい」
今度は何人かが耐えきれずに笑った。トゥルナイゼンは怒るでもなく、昼食の盆を受け取って空いている席へ向かった。
二十三年間というもの、あの台詞は本人よりもはるかに広く銀河を旅していたのである。
***
午後の作戦会議では、同じ男が別の意味で部下たちを困らせていた。
軍管区作戦部が提出した外縁防衛案そのものはよくできていた。
教国軍がジャムシード方面へ進出した場合、二つの警備戦隊を後退させながら所定の宙域へ誘導し、航路上の固定砲台群の長距離砲火と待機させた機動部隊で挟撃する。図上演習では、侵入した敵前衛は二時間足らずで消滅した。
説明が終わっても、トゥルナイゼンは星図から目を上げなかった。
「撤退路はどうした?」
作戦参謀が一瞬言葉に詰まった。
「我が軍の、でしょうか」
「敵軍の撤退路を心配する会議なら、私は呼ばれなくてもよかろう」
参謀は表示を切り替え、第二線まで押し戻された場合にはカッファ方面への航路を使うと説明した。
トゥルナイゼンはその航路を敵に塞がれた場合はどうするのかを訊いた。第三中継点を経由するという答えが返ると、今度は先週の輸送遅延でそこには十分な燃料が届いていないということを指摘した。
トゥルナイゼンから部下への質問はその後も同様だった。
二つの警備戦隊が同時に損傷し、収容できるのが一方だけならどちらを先に入れるのか。民間の避難船と後退する軍艦が同じ航路へ殺到したら、どちらを先に通すのか。通信が切れたとき、現場の誰に撤退を決める権限があるのか。
軍管区作戦部の幕僚たちが用意していたのは、勝つまでの手順だった。
トゥルナイゼンが訊いていたのは、その手順が途中で崩れたあと誰を帰し、何を次の戦いへ持ち越すかだった。
会議は予定より四十分長引いた。
最後にトゥルナイゼンは最初の作戦図をもう一度表示させ、全体を見渡してから頷いた。
「作戦そのものは悪くない。だが、これは敵が諸君の希望どおりに動き、味方が諸君の希望どおりに働いた場合の計画だ。私の経験から言うと、戦争というものは、もう少し協調性に欠けている」
何人かが笑ったが、本人は真顔だった。
「修正案は明朝までに出したまえ。それから追撃条件を付けること。どこまで追うかではなく、何のために追うかだ。その問いに答えられなくなった地点で止まる」
作戦参謀が端末へ書き込むのを確認すると、トゥルナイゼンは時計を見た。
「以上だ。私は長い会議を好まない」
会議はとっくに予定終了時刻を過ぎていた。
延長時間の大半は、トゥルナイゼンが細部に次々と穴を見つけ、そのたびに作戦部が図面を直したために費やされている。
四十分前の予定終了時刻を覚えていた者たちは、誰も何も言わなかった。
***
その夜、トゥルナイゼンは軍管区司令部から歩いて十分ほどのところにある、小さな酒場にいた。
ジャムシードへ赴任してから見つけた店で、葡萄酒の品揃えがよく、週に一度か二度仕事を終えたあとに立ち寄っていた。
軍管区司令官が通うにはいささか地味な店だったが、一人で飲んでいても放っておいてくれるところを気に入っていた。
二杯目を頼もうとしたところで、店員が小さな封筒を置いた。
差出人の名はなかった。中には一枚のカードがあり、二十数年前に若いトゥルナイゼンが演習後に提出し、統帥本部の査閲へ回された作戦案について査閲官から書き込まれた短い評語が記されていた。
店員が去ると、トゥルナイゼンはカードをもう一度読んだ。グラスを手に取りかけ、思い直したように卓の右端へ寄せる。
それから店内を見回した。
奥の席にいた五十歳ほどの男が立ち上がった。
「お話しいただけるのでしたら、中継いたします」
トゥルナイゼンはカードを指先で持ち上げた。
「……アルノルト・メスナーか」
男の表情がほんのわずかに動いた。それだけで十分だった。
「いいだろう。話そう」
案内されたのは店の奥にある小さな個室だった。
会食用の部屋らしく、丸い卓と四脚の椅子があり、壁にはこの土地の葡萄畑を描いた絵が一枚掛かっている。
男は卓上に薄い通信端末を置いた。
「通信終了後、この端末は回収します。記録も残りません」
「周到だな」
「念のためです」
トゥルナイゼンは何も言わず椅子に腰を下ろした。
「では、つないでくれ」
男が端末を操作すると、しばらくして画面が明るくなった。
映し出された顔を見てトゥルナイゼンの口元が緩んだ。
「メスナーか。まだ生きていたのか」
アルノルト・メスナーは眉一つ動かさなかった。
「君にだけは言われたくないな」
「それもそうだ」
アルノルト・メスナーはトゥルナイゼンと同じ帝国軍幼年学校の出身だった。
学年は二つ上で、在学中から自信のあり余った後輩のことは知っていた。トゥルナイゼンは学年首席の『ラインハルト・フォン・ミューゼル』と同級で、そのすぐ下に並ぶ優等生の一人だった。
ラインハルトを嫌った同級生が少なくなかった時代にも、トゥルナイゼンはむしろその才能を認めていた。内戦が始まると、多くの貴族出身の学友が貴族連合へ流れるなかでローエングラム陣営を選び、その選択を自分の先見の明として誇ってもいた。
のちにメスナーが統帥本部の作戦審査と査閲に長く携わるようになると、その名を今度は演習記録や作戦案の上で何度も見ることになった。少年のころから変わらぬ自信や華麗な勝利への嗜好も、そこにはよく現れていた。
メスナーは画面越しに相手を眺めた。
「君は変わらんな、トゥルナイゼン」
メスナーは画面越しに、トゥルナイゼンの階級章へ目をやった。
「そして、相変わらず大将か」
トゥルナイゼンは眉を上げた。
「メスナー。昔から君は人の階級にうるさい男だったな」
「君ほどではない。二十年以上も同じ階級章をつけ続けるのは、さぞ退屈だったろう」
「階級章は同じでも、仕事は変わる。最近になってようやく知ったがね」
メスナーは、その答えを鼻で笑うでもなく聞き流した。
「トゥルナイゼン。すでに知っているだろうが、私はいま教国軍第二聖団〈
「聞いている」
「一万隻だ。君が欲しがっていたものと、そう違わん」
そこで初めて、メスナーはわずかに笑った。
「単刀直入に言う。君もこちらへ来ないか」
トゥルナイゼンは意外そうに眉を上げたが、すぐには断らなかった。
「第二聖団では、もう一個艦隊を新設する計画がある」
メスナーはそう言って、卓上へ身を寄せた。
「一万隻を基準とする正規艦隊だ。司令官はまだ決まっていない。君をそこへ迎えたい。新設艦隊は当面、私の指揮下に置かれる」
トゥルナイゼンは目を細めた。
「つまり、私に教国軍の艦隊司令になれ、と」
「そういうことだ。第二聖団には、門閥に属さなかった旧帝国軍人や軍務官僚が多い。第一聖団に集まった門閥貴族どもとは違って、軍政、兵站、技術、実戦で食ってきた連中だ。君が来ても、珍しがる者はいない」
「ずいぶん条件がいいな」
「君向けに用意した条件だからな」
トゥルナイゼンは少し笑った。
「だが、一つ分からん。君は昔から私を高く評価していなかったはずだ」
「いまでもしていない」
メスナーは平然と答えた。
「銀河中が、君がバーミリオンで何をしたか知っている。私など、幼年学校時代から君を知っている」
「その私に一万隻を預けるのか?」
「君が何に失敗するかまでよく分かっているからだ」
メスナーはそこで初めて、身を乗り出した。
「未知の天才より、欠点の分かっている軍人の方が使いやすい。君は戦争全体を任せるには危なっかしいが、決断は速い。攻勢に出るべき時に躊躇もしない。一個艦隊を任せるだけなら、それは欠点ではなく長所になる」
「ずいぶんな評価だな」
「第二聖団には幕僚も兵站もある。君が前へ出すぎれば止める仕組みも作れる。こちらが欲しいのは、第二のラインハルト・フォン・ローエングラムやヤン・ウェンリーではない。与えられた艦隊を、必要なときに前へ出せる司令官だ」
トゥルナイゼンはワイングラスを指先で回した。
「なるほど。教国は私の欠点まで込みで買う、と」
「そういうことだ。それに、先帝ラインハルトの学友だった帝国軍大将がこちらへ来る。それ自体にも使い道はある」
「最後の一言で、ずいぶん値段を下げられた気がするな」
「適正価格だ」
トゥルナイゼンはそこで初めて提示された艦隊そのものについて細かく訊いた。
新造艦がどの程度入るのか、旧同盟系の艦が主体なら整備体系をどうするのか、乗員と幕僚をどこから回すのか。メスナーは実数の基準が一万隻であること以外は編成や出所について明かさなかった。トゥルナイゼンも深追いせず最後まで条件を聞いてから「悪くない」と評した。
その言葉に、メスナーはわずかに満足そうな顔をした。
「そうだろう。帝国ではもう君に正規艦隊を預けようなどという者はいない。統帥本部にも軍務省にも君のための席はない。中央勤務にもバーミリオン以来戻されていない。いま預かっているのは旧同盟領の軍管区と警備艦、それに航路上の固定砲台群だ」
メスナーは少し間を置いた。
「大将にはしてもらった。だが、そこで終わりだ。あの失敗で君の軍歴はほとんど決まったようなものだ。皇帝や帝国軍からは挽回の機会も十分に与えられなかった」
トゥルナイゼンはワイングラスの脚に指を添え、答えを選ぶように一拍置いた。
「メスナー、それは違うな。艦隊を預けられることだけを機会だと思っていた時期はある。その意味なら、君の言うとおりだろう。だがこれだけ軍人をやっていれば、もう少し仕事の種類を覚える。それに、バーミリオンで失敗したのは他の誰でもない。私だ。そこまで先帝陛下や帝国軍の責任にされては、私の立つ瀬がない」
メスナーは、帝国から冷遇されたことまで否定するのかと訊いた。
「いや。それは別問題だ。私はもっと重用されてもよかった。その点については、今でも異論がある」
「やはり君は変わらんな」
呆れたように言われても、トゥルナイゼンはむしろ満足そうだった。
「安心したまえ。君も変わっていない」
メスナーはしばらく黙っていたが、やがて返答を求めた。
「それで、答えは?」
「断る」
「理由は?帝国への忠誠か?」
「それもある」
トゥルナイゼンはグラスを持ち上げ、少し考えてから付け加えた。
「もう一つある。君の部下になるのが気に入らん」
それにはメスナーも初めて声を立てて笑った。
「それを聞いて安心したよ」
「何だと?」
「勧誘しろと上から命じられたから、私はこうして君と話している。軍事的には意味のある話だ。君がこちらへ来ればジャムシードには穴が開くし、現役の将官が転向すれば宣伝にも使える」
そこでメスナーは、わずかに口元を歪めた。
「だがな、トゥルナイゼン。正直に言えば昔からよく知っている阿呆を、いまさら自分の部下に抱え込みたいとは思っていなかった」
トゥルナイゼンは一瞬だけ黙り、それから笑った。
「話はまとまったな」
「結構。君は私の部下にならず、私は君のような阿呆を部下にせずに済む。双方に実りのある会談だった」
通信が切れると、トゥルナイゼンは端末を待っていた男へ押し戻した。男が個室を出ようとしたところで、一度だけ呼び止める。
「私がこの店へ来ることまで調べたのか」
男はわずかに間を置いて、「必要なことでしたので」と答えた。
「そうか。感心はせんな」
それ以上は何も言わなかった。男が去ったあと、トゥルナイゼンは店員を呼び、残っている葡萄酒に合うチーズを追加した。
***
トゥルナイゼンが軍管区司令部へ戻ったのは、それから一時間ほど後だった。
執務室には副官と、情報部から派遣されている防諜担当官が待っていた。
トゥルナイゼンが上着を脱ぐ間に、担当官は今夜の会話をすべて記録できたこと、一万隻という数字と新設艦隊への言及についてはすでに分析班へ回したことを報告した。
店員から封筒を渡された時点で、防諜側にはすでに連絡が入っていた。
あのときトゥルナイゼンがグラスを卓の右端へ寄せたのが離れた席にいた護衛への合図だった。敵から予定外の接触を受けたが、介入は不要。そのまま監視せよ――という意味である。
護衛の一人は合図を確認すると要人警護用の監視回線を開いた。
トゥルナイゼンの携行端末は、そのまま個室内の音声を軍管区司令部へ送った。工作員の端末そのものに手を触れる必要はなかった。
接触してきた男も、そのまま帰されたわけではなかった。
防諜担当官が市街図を開いた。
男は店を出たあと二度乗り物を替え、途中で尾行を確かめるような遠回りもしていたが、追跡班は距離を保ったまま軌道港近くの居住区まで追っている。
そこにある集合住宅の一室は民間運送会社の社員名義で借りられていたが、開戦直前から複数の人間が出入りしており、教国側の潜伏拠点である可能性が高かった。
「いつでも踏み込めます」
防諜担当官がそう告げたが、トゥルナイゼンは首を振った。
「まだいい。せっかく向こうまで糸が伸びている。ここで切ることはない。誰と会い、どこへ通信を出すのか見ておけ」
その指示を出してから、トゥルナイゼンは副官に〈ウルカヌス〉艦隊の現在位置を確認させた。
教国軍第二聖団〈ウルカヌス〉艦隊司令アルノルト・メスナー従聖将。
公称兵力は約一万隻だが、第二次バーミリオン星域会戦以降帝国側が確認できた艦影は断片的で、全軍の所在までは掴めていなかった。
「最後にまとまった艦影を確認したのは?」
副官が記録を開いた。
「六日前です。それ以降は小規模な部隊しか確認されていません」
トゥルナイゼンは壁面に星図を呼び出した。
教国占領圏からジャムシードへ伸びる航路の途中には帝国軍の外縁警戒線があり、第二次バーミリオン後の部隊移動や民間船の退避航路も重なっている。
彼は星図上の航路を見比べたあと、外縁哨戒線の報告を三日分まとめ、警戒態勢を一段だけ引き上げるよう命じた。
副官が、今回の勧誘と〈ウルカヌス〉の動きが関係しているのかと訊いた。
「分からん。だが、なぜ今になって私に勧誘が来たのかは考えておいた方がいい」
攻撃の前に軍管区司令官を引き抜ければ、それに越したことはない。
もっともトゥルナイゼンに断られる可能性すら考えずに工作員を送り込むほど、メスナーは楽天的な男ではないはずだった。
トゥルナイゼンは星図を見たまま、思い出したように言った。
「メスナーは私を馬鹿にしていた。いや、あの時代にいたまともな軍人なら、たいていそうだ。私自身を除いて、な」
副官は返事に困り、口を閉ざした。
「君、そこは否定してくれてもいいのだぞ?」
「……昔のことでありますので」
「上手く逃げたな」
昔話をするためだけなら、メスナーは工作員を一人ジャムシードへ潜り込ませ、発信元を隠した通信まで用意したりはしない。
星図の外縁には、まだ敵影はなかった。
その夜、ジャムシード軍管区の警戒態勢は一段だけ引き上げられた。教国側の潜伏拠点には誰も踏み込まず、その出入口を見張る人間だけが増えた。
***
翌朝、外縁哨戒線の報告三日分がトゥルナイゼンの机に載った。
一件ずつ見れば取り立てて異常なものではなかった。教国側航路で民間船の通行量が減っている。帝国側の監視艇が遠距離で不明艦を二度捉えたが、いずれも識別圏へ入る前に反転した。航路標識の一つが予定より三時間長く保守停止していたという報告もある。戦時下では、その程度のことは毎日のように起きていた。
ただし、三日分を一枚の星図へ重ねると、空白の形が変わった。
教国側からジャムシードへ向かう正面航路ではなく、その左右にある二本の迂回航路で民間航行が減っている。監視艇が不明艦を捉えた場所も、その二本の航路に近かった。
「ここを空けているように見えます」
作戦参謀が右翼側の迂回航路を指した。
トゥルナイゼンは答えず反対側の迂回航路へ視線を移した。二つの航路の間には、軍用として使えるほど広くはないが、小部隊が分散して通るには十分な空域がある。
「右が本命だと思うか」
「現状では、その可能性が高いかと」
「左を本命にして、そう思わせている可能性は?」
参謀は少し考えた。
「あります」
「そうであれば、いま決める必要はない」
トゥルナイゼンは二本の迂回航路をまとめて囲った。
「右から来ても左から来ても、最初の対応が同じで済むようにしておけ」
「警備戦隊を中央寄りへ?」
「それと固定砲台群の射界を確認しろ。どちらかに寄せるのは、敵が本当に寄ってからでいい」
トゥルナイゼンは星図を少し引いた。
「最寄りの正規艦隊は?」
副官が配置表を開いた。
「ビッテンフェルト元帥の
「昨夜のメスナーの件、ビッテンフェルト元帥にも入れておく。〈ウルカヌス〉がこちらへ出てくる可能性がある。近いうちに援護を頼むことになるかもしれん、と」
「正式な増援要請ではなく?」
「まだ敵も見えておらんのに、一万五千隻を呼びつけるわけにはいかんだろう」
トゥルナイゼンは二本の迂回航路へ視線を戻した。
「だが、必要になってから事情を説明するのは時間の無駄だ。先に知らせておけ」
*
午前の作戦会議に出されたのは、前日の指摘を織り込んだ修正版だった。
カッファ方面へ抜ける予備航路は二本に増やされ、第三中継点の燃料不足を前提に使用順が改められている。民間の退避船団と後退する軍艦が重なった場合の優先順位、通信が切れた際に現場で撤退を決められる指揮官、追撃を打ち切る条件にも、それぞれ明文の基準が付いた。
トゥルナイゼンは修正版を一通り確認して「これでいい」と言った。
ただし、それで会議を終わらせず機動部隊の編成表を開かせると、予備の一個戦隊千隻を最初から動かさないよう命じた。
「敵前衛を包囲するには、予定戦力をすべて投入した方が確実ですが」
作戦参謀の指摘に、トゥルナイゼンは首を振った。
「確実に見える作戦ほど、予定外のことが起きたときに困る。半分残せとは言わん。一個戦隊でいい。私の許可があるまで動かすな」
参謀が命令を記録するのを見届けると、トゥルナイゼンは付け加えた。
「私は昔、使える戦力を見ると全部前へ出したくなる悪癖があったらしい」
何人かが反応に迷った末、副官が訊いた。
「らしい、でありますか」
「戦史劇によればな」
そこでようやく、小さな笑いが起きた。
*
午後、外縁哨戒線から最初の報告が入った。
右翼側の監視区で複数の艦影が確認された。数はまだ三百にも満たず、識別距離の外側を横切っただけだったが、帝国軍の哨戒艦が接近すると、交戦せずに教国側へ後退した。
その一時間後、左翼側でも同じことが起きた。
トゥルナイゼンは二つの報告を並べて読んだあと、警戒態勢をもう一段上げることはしなかった。
「探られているだけだ」
副官が訊いた。
「〈ウルカヌス〉艦隊でしょうか」
「分からん。だがメスナーなら、私がこういう報告を見れば前へ出てくると思っているのだろう」
トゥルナイゼンは星図に表示された二つの艦影を眺めた。
「哨戒艦には追わせるな。見失っていい」
副官が命令を復唱した。
トゥルナイゼンはその声を聞きながら、星図のさらに外側へ目を移した。
そこにはまだ、〈ウルカヌス〉艦隊一万隻の姿はなかった。
翌日の午後になると、外縁哨戒線の様子も変わった。
前日まで遠距離から姿を見せては退いていた小部隊が、今度は帝国軍の哨戒艦に追わせようとしなくなった。一定の距離を保ったまま並行し、ときおり針路を変えてはこちらの反応を見ている。右翼側で二群、左翼側で三群。どれも千隻に満たず、戦力としては中途半端だった。
作戦参謀は、それらを陽動と見た。
「主力を別の航路から通すためではないでしょうか」
「かもしれんな」
トゥルナイゼンは否定しなかった。
「あるいは陽動だと思わせるために置いているのかもしれん。敵が何を考えているかについて、もっともらしい説明はいくらでも作れる。説明を作るのは参謀の仕事だが、それを信じるのは司令官の義務ではない」
参謀は不満そうだったが、反論はしなかった。
代わりに別の士官が現在の配置を示した。右翼側の二群と左翼側の三群を結ぶと、帝国軍が通常使用する航路を大きく囲む形になる。まだ包囲と呼べるほど狭くはなく、中央にも十分な空間が残っている。もしこの外側に主力がいるなら、こちらの行動方向を限定することはできる。
トゥルナイゼンは配置を見渡した。
「ずいぶん手間をかけているな」
「罠でしょうか?」
「当たり前だ」
何人かが顔を上げた。
「これだけの部隊を散らして何の目的もない方が怖い。メスナーもそこまで暇ではないだろう」
それ以上の分析はしなかった。
むしろ彼が確認したのは前日の指摘を受けて組み直された退避航路とその時点の燃料残量だった。カッファ方面へ抜ける第一予備航路には追加の補給船が到着し、第三中継点には予定の八割まで燃料が戻っている。民間船団についても、軍用航路と交差する時間帯をずらす変更が始まっていた。
「これなら一度は崩れても帰れるな」
作戦参謀が苦笑した。
「閣下は勝つ話より、負けて帰る話の方が多くなりましたな」
「勝つ話なら、私がしなくても皆がしてくれるよ」
その日の夕方、ようやく一つの報告が入った。
右翼側へ出ていた長距離監視艇がこれまでとは異なる規模の艦影を捉えたのである。
まだ識別精度は低かったが、推定五千以上。さらにその後方にも複数の熱源があり、全体では一個艦隊規模に達する可能性が高いという。
会議室の空気が変わった。
副官が表示を拡大し、作戦参謀が航路との位置関係を確認する。
敵主力はジャムシードへの最短線上にはいなかった。むしろこれまで左右に散っていた小部隊の中間、正面からは少し外れた宙域を進んでいる。
「〈ウルカヌス〉艦隊でしょうか」
「そうだろうよ」
トゥルナイゼンは今度は迷わなかった。
メスナー自身が勧誘の席で一万隻を口にしている。〈ウルカヌス〉は姿を消しており、その直後に一個艦隊規模がジャムシードへ現れた。偶然を疑うには、材料が揃いすぎていた。
「統帥本部と宇宙艦隊司令部へ送れ。敵一個艦隊、〈ウルカヌス〉の可能性大。ジャムシード方面へ進出中。ビッテンフェルト元帥の黒色槍騎兵艦隊の増援を要請する」
副官が復唱した。
それでも、トゥルナイゼンは総出撃を命じなかった。
外縁の二個警備戦隊には予定どおり後退を許可し、固定砲台群には射撃準備だけを命じた。軍管区直轄の機動部隊にも待機を継続させ、昨日の午前に残すと決めた予備戦隊には出港命令すら出さなかった。
帝都からの回答は、その日のうちに届いた。
黒色槍騎兵艦隊をジャムシード方面へ転進させる。ただし同艦隊も第二次バーミリオン星域会戦後の再編の途上にあり、ただちに全軍を動かすことはできない。先発部隊から順次出発させるが、主力の到着には最短でも数日を要するという。
それまでジャムシード軍管区は現防衛線を保持し、敵主力との決戦を避けて戦力を温存する。防衛線内における局地的な反撃については、軍管区司令官の判断に委ねる。
トゥルナイゼンは命令書を最後まで読んだ。
「妥当だな」
作戦参謀が訊いた。
「では、正規艦隊の到着まで、固定砲台群の内側に籠って待ちますか」
「待つとも」
トゥルナイゼンは星図の敵艦隊を見た。
「だが、メスナーの仕事が終わるまで待ってやる必要はない」
作戦参謀が顔を上げた。
「決戦は避けよ、との命令ですが」
「誰が決戦をすると言った」
トゥルナイゼンは平然としていた。
「こちらには増援が来る。ならば、いま〈ウルカヌス〉を撃滅する必要はない。短く出て、敵を動かして、帰る。それであちらの予定が半日でも一日でも遅れれば、その分だけこちらが得をする」
この時点で、アルノルト・メスナーを討つことは作戦目的のどこにも入っていなかった。
ジャムシードを保持すること。正規艦隊が到着するまで軍管区戦力を残すこと。そして〈ウルカヌス〉に、自分たちの望む形で攻略戦を進めさせないこと。
それで十分だった。
作戦参謀が現在の敵主力を示した。
「敵主力を確認しても、こちらからは出ないのでありますか」
「確認したからだ」
トゥルナイゼンは敵艦隊の進路を示す細い線から目を離さなかった。
「メスナーは、私があれを見れば出てくると思っている。ならばしばらく待たせてやろう」
その後、〈ウルカヌス〉と思われる艦隊は速度を落とした。
前衛だけがさらに進み、左右に散っていた小部隊との間隔を詰めていく。帝国側の星図にはまだ意味を持たないいくつもの線が描き足され、それらは時間が経つにつれて一つの大きな形へまとまりつつあった。
作戦参謀たちはその形に名前を与えようとした。包囲の前段階ではないか、退路を限定するための配置ではないか、あるいは中央へ誘い込むための陽動ではないか。どの説明にもそれなりの根拠があった。
トゥルナイゼンは一通り聞いたあと、どれも採らなかった。
「分からんものを、分かったことにする必要はない」
会議室が静かになった。
「ただし、あちらがまだ何かをしている途中だということは分かる。艦隊をあれだけ散らして、完成したつもりではあるまい」
彼は星図の中央ではなく、その周囲を見ていた。右翼側の小部隊、左翼側の小部隊、後方に残る主力、そして帝国軍の哨戒線との距離。どこか一つを動かせば、別の場所にも動きが必要になる配置だった。
「敵が何を作っているのか。意図を判断するためにもう少し見たいところではあります」
作戦参謀の言葉に、トゥルナイゼンは頷いた。
「そうだな。私も見たい」
そこで一度言葉を切った。
「だが、見終わるまでは待たん」
参謀が顔を上げた。
「完成してから壊すより、作っている途中で邪魔をする方が安くつく」
トゥルナイゼンは現在の配置を保存するよう命じた。外縁の警備戦隊には追跡を禁じたまま後退を続けさせ、固定砲台群には射撃準備を維持させる。機動部隊についても出撃準備だけを進め、予備戦隊には先ほどと同じく待機を命じた。
「今夜はこれでいい。交代で休ませろ。明朝まで何も起きなければ、予定どおり会議を開く」
副官が時刻を確認した。
「六時でよろしいでしょうか」
「五時半にしよう。メスナーが私の睡眠時間まで調べているかもしれん」
何人かが笑った。
トゥルナイゼンも笑ったが、星図を消すことはしなかった。人が会議室を出ていくあいだも、壁面には〈ウルカヌス〉の推定位置が残っていた。その周囲では帝国側がまだ名前を知らない配置が少しずつ形を整え続けている。
最後に残った副官が、退室する前に振り返った。
「閣下は何を仕掛けてくると思われますか」
トゥルナイゼンは星図を見たまま答えた。
「知らん」
副官は意外そうな顔をした。
「分からないことを恥じて、知っているふりをするのは、若いころに十分やった」
副官が退出したあとも、トゥルナイゼンは一人で星図の前に残った。
昔の彼なら、敵の主力が見えた時点で、そこに勝利への道を探していたことだろう。
いま必要なのは勝利ではない。数日後までジャムシードを残し、そのとき自分の艦も残しておくことだった。
トゥルナイゼンが最後に確認したのは、敵主力の位置ではなく、自軍があと何度出て、何度帰ってこられるかだった。
星図の外縁で、教国軍の小さな光点がまた一つ位置を変えた。
メスナーは、何かを作っている。
トゥルナイゼンはそれを見届けると、星図を消した。
――「多少、変わったことは認めてやろう。だが、芯は変わっていない」
次回、『イザーク・フェルナンド・フォン・トゥルナイゼン(中編)』
V — 人物図譜 教国軍第二聖団〈ウルカヌス〉艦隊司令 従聖将アルノルト・メスナー
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