【新帝国暦二十四年四月 ジャムシード星系外縁 教国軍第二聖団〈ウルカヌス〉艦隊旗艦〈ムルキベル〉 メスナー】
朝の定時報告には、夜間の哨戒結果と各群の配置状況が並んでいた。
メスナーが最初に確認したのは、帝国軍がまだ固定砲台群の射程圏から出てきてはいないということだった。
帝国軍のジャムシード軍管区は、星系へ通じる主要航路の進入口や分岐点に固定砲台群を配置し、互いの射界を重ねて防衛線を作っていた。警備艦が多少前へ出ても、深追いせず射程圏内へ戻れば、その砲火の援護を受けることができる。逆に教国軍がその内側へ不用意に踏み込めば、複数方向から集中砲火を浴びる。
今回、第二聖団司令部から〈ウルカヌス〉艦隊には、ジャムシード星域の制宙権奪取や星系占領の命令は出ていなかった。
ジャムシードは帝国軍主防衛線の北翼を支える拠点である。
一個艦隊一万隻だけで固定砲台群の内側まで踏み込み、そのまま星系を占領できるほど軽い場所ではない。攻略には複数艦隊と陸戦部隊〈
メスナーに与えられた任務は、その本格的なジャムシード攻略作戦に先立ち、帝国側の防衛態勢を戦闘下で露出させることだった。
固定砲台群の射界、警備戦隊の後退経路、軍管区機動部隊がどの条件で出てくるか。さらに圧力をかけたとき、帝都がどの正規艦隊をどれほどの時間で増援に回すか。
それらを一つでも多く確認して持ち帰ればよい。
その過程で軍管区機動部隊を捕捉してできるだけ損害を与える。
司令官まで討てるならそれに越したことはない。
その前に一つだけ、成功すれば儲けものという手も打っていた。
ジャムシード軍管区司令イザーク・フェルナンド・フォン・トゥルナイゼン大将の調略である。
成功の見込みが高いとはメスナー自身も考えていなかった。
だが帝国で二十年以上も中央から遠ざけられてきた男であり、かつて同じ軍にいたメスナーなら、その自尊心を刺激できる可能性はある。
もし応じれば、攻略戦を始める前に軍管区司令官を一人取り除けるうえ、先帝ラインハルトの学友であった帝国軍大将が教国へ転じたという宣伝材料まで手に入る。
ただ断られればそれまでの話だった。
その場合は予定どおり、ただちに軍事行動へ移る。
いずれにせよ、今回の任務にジャムシードの占領までは含まれていなかった。
もっとも、メスナー自身は任務で求められた程度の戦果で帰るつもりはなかった。
固定砲台群の外へトゥルナイゼンを引きずり出し、自分が罠を張り巡らせた戦場へ通せば、六千隻程度の現地戦力など〈ウルカヌス〉一個艦隊で十分に始末できる。
防衛態勢を調べるだけでなく、軍管区の機動戦力を殲滅し、
メスナーは、自分の用兵をもってすれば、それができると確信していた。
幼年学校時代からトゥルナイゼンを知る彼にとって、問題は勝てるかどうかではなかった。
出てきさえすれば、勝てる。
どうやって固定砲台群の外まで引きずり出すか。
そのために用意したのが、いま星図の上で形を取りつつある罠だった。
***
メスナーは夜のあいだにも小部隊を断続的に前へ出していた。帝国軍の警備艦が近づけば速度を上げて離れ、追跡をやめればまた姿を見せる。それを何度か繰り返して帝国軍を引き出そうとしたが、帝国側は警備艦を一定のところで引き返させるだけで、トゥルナイゼンは主力を動かさなかった。
「トゥルナイゼンめ。生意気にも少しは我慢を覚えたらしいな」
副官が笑うでもなく作戦図を拡大した。
「我が軍の配置を変えますか?」
「いや。このままだ」
左右へ散らしていた教国軍の艦群は、それぞれ予定位置へ移っていた。中央正面だけは意図して広く空けてある。そのさらに奥、帝国側の索敵が電子妨害で乱される宙域に〈ウルカヌス〉艦隊の主力が待機していた。
帝国軍にも、中央正面の奥にまとまった戦力が控えていることまでは分かるだろう。だが電子妨害によって同規模の反応がいくつも重ねられ、正確な位置と隊形までは掴めない。中央へ踏み込めば踏み込むほど、帝国軍は知らないうちに〈ウルカヌス〉主力との距離を縮めていく。
そこを安全な進路と思って突出すれば、左右外側から行動の自由を少しずつ奪い、最後には奥に控える主力の砲列で集中砲火を浴びせる構想だった。
メスナーは右側の小集団を指した。
「〈
「大半は予定位置です。外側の数群が遅れています」
「急がせるなよ。揃うことより、どこに打つかの方が大事だ」
左右の艦群では、配置についたものから祈燈が上がり始めていた。灰色の船体に刻まれた経文が金色に浮かび、暗い宙域へ細い光が増えていく。
「外側の一群で、まだ〈祈燈〉が上がりません。機関に問題はありませんが、補給艇との切り離しが遅れています」
「では待て。光らせるために切り離しを急がせるな」
第二聖団の幕僚たちは、祈燈そのものより、その光がまだ上がっていない理由を気にしていた。作戦図の端には典礼名よりも、燃料、到着時刻、故障艦の復帰見込みが大きく表示されている。メスナーにとっては、それで十分だった。
遅れている艦群が予定時刻までに配置へ入れない場合、隣接する部隊の担当範囲を広げる案が出た。メスナーはすぐには採らず、まず遅延の原因と復帰見込みを確認させた。故障なら外す。補給の遅れだけなら待つ。穴が生じたという理由だけで、別の場所にいる艦まで先に動かすことを彼は嫌った。
第二聖団では、立派な名称のついた配置より、配置が一つ欠けたとき何を残せるかの方がよく議論された。メスナーが旧帝国軍の統帥本部にいたころから好んだのも、そういう作戦だった。
「〈
電子戦担当の幕僚が顔を上げた。
「電子妨害を強めますか?」
「まだ現状維持でいい。今は何かいると思わせる程度でいい。こちらから形を崩すな」
命令が流れたあと、副官が訊いた。
「トゥルナイゼンは出てくるでしょうか?正規艦隊の増援が来るまで、固定砲台群の内側に籠るつもりでは?」
「出てくるさ。我慢できまい」
「先夜のお話では、ずいぶん変わったようにも聞こえましたが」
メスナーは返事をしなかった。
二十年以上前、統帥本部で指揮官たちの演習記録を読んでいたころ、トゥルナイゼンの作戦案には特徴があった。勝っているあいだの線は太い。敵が崩れ、自軍が前へ出る場面はよくできている。
だが、その先で何かが狂った場合の線は、ないに等しかった。トゥルナイゼンの作戦案では、そもそもそのようなことは起こらないことになっていた。
先日の夜、トゥルナイゼンは自ら退路を語った。軍管区勤務も軍人の仕事だと言い、バーミリオンの失敗を先帝や帝国軍の責任にされては自分の立つ瀬がないとまで言った。
たしかに、多少は変わったのかもしれない。
だが、好機が見えれば自分の判断を信じ、それが正しかったと証明したがるところまで変わったとは、メスナーにはとても思えなかった。しかもトゥルナイゼンは昔から、その証明を自分一人の胸にしまっておく男ではなかった。
そして、メスナーのその読み自体は間違っていなかった。
「外側の二群、予定より遅れています」
「構わん。トゥルナイゼンが待ってくれているなら、こちらも罠の準備に十分な時間を使わせてもらうだけだ」
副官が返事をしかけたところで、別の声が飛んだ。
「帝国軍機動部隊、出港を確認!推定五千隻!」
メスナーは作戦図へ顔を戻した。
「ほらな。あいつは我慢できずに出てきた。肝心なところは昔と変わらんよ」
副官が帝国軍の進路を拡大した。
「こちらへ向かっています」
「警備隊五千か。こちらは正規艦隊一万だ」
メスナーは嗤った。
「数と質で劣りながら、好機と思えば前へ出る。まったく、やはり昔と変わらん」
トゥルナイゼン艦隊の進路は、左右に散った教国軍の小部隊ではなく、その奥へ向いていた。
メスナーはその線を見て、口元を上げた。
「突出してきたところを包んでやれ。今度はあれを連絡艇で呼び戻してくれる元帥やら皇帝やらもおらん」
本来なら、ここでトゥルナイゼンを討つ必要まではなかった。
軍管区機動部隊の運用を見せ、できるだけ損害を与え、帝国正規艦隊の増援まで引き出せば今回の任務としては十分である。
だが、目の前には昔からよく知る男が、自分から固定砲台群の外へ出てきていた。
メスナーは帝国軍の進路を指した。
「突出して戻れなくなったところを包んで潰す。ここで終わらせてやる」
***
【帝国軍ジャムシード軍管区機動部隊旗艦 トゥルナイゼン】
トゥルナイゼンは夜明け前には軍管区司令部を離れ、直轄機動部隊の旗艦へ指揮所を移していた。
戦術表示では、教国軍の小部隊が左右から少しずつ内側へ寄っている。後方では電子妨害も増えていた。
中央へ誘っている、固定砲台群から引き離そうとしている、別働隊を隠している。作戦参謀たちはいくつかの可能性を挙げたが、どれにも決め手はなかった。
トゥルナイゼンは中央の空間ではなく、その左右を見た。
「敵の陣だが、これはもう出来上がっているのかね」
「いえ。外側の部隊はまだ移動中です。主力との間隔も揃っていません」
「よろしい。ならば出るぞ」
作戦参謀が一瞬だけ黙った。
「敵が何を作っているのかは知らん。だが、まだ出来上がっていないことだけは分かる」
トゥルナイゼンは、敵主力がいると見られる奥を指した。
「諸君。罠というものは、閉じてからが怖い。ならば、そんなものは閉じる前に壊してしまえばよい」
左右で誘っている小部隊は追わない。
機動部隊の進路は、電子妨害の奥にいる〈ウルカヌス〉主力の推定位置へ向けられた。
後方に残した予備戦隊の千隻には、まだ出撃命令を出さなかった。
「撤退線は残っているか」
副官が表示を切り替えた。
「第一線、第二線とも変更なし。損傷艦の収容担当も配置済みです」
「よろしい」
艦隊を前へ出す直前に、帰り方を確認する。二十三年前の第一次バーミリオン星域会戦での失敗以後、トゥルナイゼンが自分に課し、いつの間にか習慣になった手順だった。
作戦参謀が訊いた。
「敵は一個艦隊規模です。ただでさえ我が軍は寡兵です。予備まで最初から出した方が確実ではありませんか」
「一理ある」
トゥルナイゼンは素直に認めた。
「相手が一個艦隊規模なら、こちらも使える戦力を全部出したくなる。昔の私なら最初から予備まで出していただろう」
副官がわずかに目を上げた。
「だが今日は、一個戦隊分千隻を予備で残す。私の許可があるまで動かすな」
命令が各戦隊へ流れた。
帝国軍機動部隊は、誘いをかけていた小集団には目もくれず、その奥へ向かった。
〈ウルカヌス〉の反応は速かった。
左右へ張り出していた教国艦の一部が中央へ戻り、前へ出ていた電子戦部隊も位置を変えた。帝国軍を空いた場所へ通すための配置が、正面から受ける配置へ変わっていく。
「メスナーめ、さすがに仕事をするな」
トゥルナイゼンは口元を上げた。
「だが、この私には及ばん。諸君、今日は少しばかり、歴史を作ることになりそうだ」
作戦参謀は返事をしなかった。
一瞬だけ、あの戦史劇の宴席が脳裏をよぎった。
帝国が設置している固定砲台群が撃った。
長距離砲火が主力の方に戻りかけていた教国軍の一群を側面から叩く。敵部隊が予定配置へ着く前に艦列が乱れ、その隙間へトゥルナイゼンの直率する帝国軍機動部隊五千隻が食い込んだ。
「押せます!」
「押せ。ただし、この追撃線までだ。勝っていてもこの線以上進んではならん」
トゥルナイゼンの示した追撃線が戦術表示に引かれた。
固定砲台群からの援護が届く。損傷艦が自力で戻れなくなっても、収容部隊を差し向けられる。その二つを重ねた線だった。
若い参謀が訊いた。
「敵がさらに崩れた場合は?」
「敵が崩れても、追撃線は越えるな」
帝国軍がさらに前へ出ると、ほどなく教国軍の後退が止まった。
前衛が左右へ開き、その背後から横長の砲列が現れた。退いていた艦も、砲列の前を横切らない角度へ揃って下がっていく。
観測士官が声を上げた。
「鐘の信号です」
低い音が記録系へ混じった。
「意味は?」
「不明です」
「記録だけ残しておけ」
その直後、離れた位置にいた複数の砲列から砲火が重なった。
最初の射撃が帝国軍の進路をずらし、次の射撃が回避先へ入る。前衛には被弾が増えたが、それでも進撃は止まらなかった。
帝国軍の先頭艦群が〈ウルカヌス〉前衛へ食い込み、正面の教国艦が一段後退した。そこへ固定砲台群の長距離砲火が重なり、後方の砲列も射線を保つため位置を下げる。
教国軍が下がれば帝国軍はその分だけ距離を詰めた。踏みとどまろうとした敵艦群には固定砲台群の火力が集中し、左右へ開けばトゥルナイゼンが率いる機動部隊がその隙間へ入ってくる。
戦況図の上で、〈ウルカヌス〉の光点が少しずつ後方へ押されていった。
「敵前衛、後退しています!」
「中央砲列も後退!」
「前衛、損害増加!」
それでも帝国軍の進路は前を向いたままだった。
作戦参謀が戦況図を見た。
「いけます。まだ押せます!」
さらに、後方に控えている予備戦隊千隻を示した。
「今、予備を投入すれば、このまま敵本陣まで押し込める可能性があります」
トゥルナイゼンは前線の損害と、先ほど引いた追撃線を見比べた。
戦闘中止の基準にはまだ達していない。予備を出せば、さらに前へ行ける。
そのことを確認すると、トゥルナイゼンはわずかに口元を上げた。
「困ったな。私の中の私が、ここは行け、進めと言っている」
作戦参謀が振り返った。
「……閣下?」
「こういう時の私は、あまり信用しないことにしている。昔、そいつの言うとおりにして懲りた」
トゥルナイゼンは戦況図から目を離さなかった。
「前衛を戻せ」
「閣下!まだ押せます!」
「知っている。だから戻す」
作戦参謀が言葉を失った。
「後ろを詰まらせるな。固定砲台群には退路を作らせろ。予備は出さん」
「しかし、予備を入れれば――」
「もっと勝てるかもしれないな」
トゥルナイゼンは頷いた。
「今、私の中で昔の私がそう言ったぞ。それが一番危ない。だから出さん」
作戦参謀が黙った。
「メスナーがこちらのために作った場所へ、わざわざ船を増やしてやることもあるまい」
帝国軍は後退へ移った。
出撃時の速さでは戻れない。被弾艦を抱え、隊列は長く伸びた。それでも離脱線と収容順は機能した。動けない艦から乗員を移し、曳航可能な艦は後ろへ回す。固定砲台群はその外側へ砲火を送った。
〈ウルカヌス〉は追ってこなかった。
「敵の追撃なし」
副官が報告した。
「理由は?」
「分かりません。敵も配置を崩したためか、再度誘うためか――」
「いや、どちらでもいい。決めつけるな。両方残しておけ」
トゥルナイゼンは戦闘開始時の配置と現在の配置を重ねさせた。
外へ出ていた艦群が中央へ戻り、電子戦部隊が前へ出ている。前面には、さきほど帝国軍を止めた砲列が新しくできていた。
「メスナーも、ずいぶん置き場所を変えたな」
副官が後方の予備戦隊を見た。
「次も予備は残しておくのでありますか?」
「わからん」
トゥルナイゼンは星図から目を離さなかった。
「だが、使えるから使う、というのは理由にはしない」
***
【教国軍第二聖団〈ウルカヌス〉艦隊旗艦〈ムルキベル〉 メスナー】
帝国軍の攻撃は止めた。
だが、戦闘前の作戦図と現在の配置を重ねれば、同じところを探す方が難しかった。
外側へ置いていた艦群の一部は、帝国軍の突進を受けるため中央へ戻している。
副官が損害を報告した。
前衛には修理不能艦が出ており、中破以上の集計はまだ終わっていない。
帝国側も同程度かそれ以上の損害を受けている。
「予定どおりだ。陣形を組み直せ」
副官が損害表示を見た。
「しかし、前衛の損耗は想定を上回っています」
「トゥルナイゼンを固定砲台群の外まで引きずり出すための必要経費だ」
メスナーは気にした様子もなかった。
「ベーレント司令もこの程度の損害で私を咎めはせん。トゥルナイゼンを仕留めて帰れば、なおさらだ」
メスナーは帝国軍が反転した位置を拡大した。
トゥルナイゼンがあと少し前へ出ていれば、帝国軍は〈ウルカヌス〉の砲列へさらに圧力をかけることができたはずだった。後方に残した予備を加えれば、押し切れる可能性もあっただろう。
だが、トゥルナイゼンは踏みとどまった。
メスナーは反転した地点をしばらく見ていた。
「何と言おうと、ここまでは出てきた」
副官が顔を上げた。
「固定砲台群の内側で待っておられず、好機と見ればここまで来る」
メスナーは帝国軍の航跡を指した。
「芯は変わっておらん。二十年以上ぶりの戦争だ。ここで勝てば、奴はこの二十三年を取り戻せる。少なくとも本人はそう思う。そんな餌を目の前に置かれて、トゥルナイゼンが止まれるものか」
そして、わずかに笑った。
「今日は、ぎりぎりのところで止まっただけだ。ならば次は、止まりたくなくなるところまで勝たせてやればいい」
そこで〈ウルカヌス〉は前面の配置をわずかに緩めた。帝国軍がもう一度踏み込める余地を作り、今度こそ残している予備戦隊まで誘い出して、包囲を完成させるつもりだった。
しかし帝国軍は来なかった。
教国側が少し距離を取れば、帝国軍の監視艇が同じだけ前へ出る。こちらが止まれば向こうも止まった。固定砲台群の射程圏から、トゥルナイゼンの機動部隊が再び姿を見せる気配はない。
メスナーはしばらく待ったあと、作戦図を見直した。
最初の予定なら、さらに下がればよかった。
こちらが退けばトゥルナイゼンが追ってきて、後戻りできなくなったところで、仕込んでいる罠を次々に発動させて殲滅する。そのはずだった。
だが、トゥルナイゼンはなかなか突出してこない。
「では、こちらから誘いに行く。前進だ」
副官が顔を上げた。
「止まっている奴を動かしたければ、動く理由を作ってやればいい」
前衛が反転し、固定砲台群の射程へ向けて進み始めた。
最初に用意した誘導路を自分たちの手で狭めることになるが、メスナーは承知していた。作戦の形を守ったまま相手が動かないより、形を崩してでも主導権を取り戻す方がよい。
各群へ修正命令が送られ、やがて旗艦にも低い祈鐘が流れた。応鐘は大半の部隊から返ったが、一群だけ反応が遅れた。メスナーは少し待ったあと、その部隊を予定から外した。
「返事のない部隊を、戦力に数えるな」
電子妨害の範囲も広げられた。帝国側の索敵に複数の反応を重ね、前面へ出る艦群を少しでも見分けにくくする。そのあいだにも固定砲台群から長距離砲火が返り、教国軍前衛には被弾が増えていった。
それでも帝国軍の機動部隊は動かなかった。
前面の圧力を保つため、メスナーは外側の艦群からさらに一部を回した。合理的な修正を一つ重ねるたび、最初に用意した戦場の形が少しずつ失われていった。
副官が、帝国軍はこちらの誘いを見抜いているのではないかと口にした。
「構わん。自分が罠を見抜いたと思えば、トゥルナイゼンは我慢できん奴だ」
メスナーは帝国側後方に残った予備戦隊を見た。
トゥルナイゼンは、好機が見えれば自分の判断を信じる男だった。しかも、それが正しかったことを証明したがる。その証明を自分一人の胸にしまっておけないところまで、メスナーは昔からよく知っていた。
若いころには敵の意図に気づいたときほど大胆になった。罠を見抜けば止まるのではなく、見抜いた自分なら破れると考える。警戒心が自信へ変わるのが妙に早い男だった。
あの夜の会話を思い返せば、多少は変わった部分があることも認めざるを得ない。
それでも好機を前にしたときの癖まで消えたと認めるには、メスナーにはまだ材料が足りなかった。
「あの男が予備を出さないのは、まだ足りているからだ」
副官は何も言わなかった。
「部下は損害を受けている。目の前には好機もある。勝てば名誉挽回だ。それでも戦力を残したまま、自分が臆病になったとは思わずにいられるか。そこまで別人になったとは思わん」
その読み自体は決して的外れではなかった。
問題は帝国軍がなお動かないことだった。
前面の圧力を維持するためメスナーはさらに外側の戦力を回した。副官が戦闘開始時の配置を現在のものへ重ねると、二つの図はもうほとんど一致しない。最初に帝国軍を通すはずだった中央も、退路を塞ぐはずだった外側も、すでに別の戦場になっていた。
前衛をいったん下げて配置を整え直す案も出た。
メスナーはすぐには答えなかった。
最初ならそれでよかった。こちらが退けばトゥルナイゼンが追ってくる。だがいま下がったところで、そこはもう自分たちが選んだ罠の入口ではない。単に帝国軍へ前進する場所を渡すだけになる。
「前衛はそこで止めろ。これ以上は押すな。外側も、もう動かすな」
まず現在の形を固定する。崩れた配置を、これ以上自分たちの手で崩さない。
命令が各群へ流れた直後だった。
戦術表示の一角で、帝国軍の光点が動いた。
「帝国軍機動部隊、再出撃!」
メスナーは一度だけ目を閉じた。
「……今度は、そちらに来たか。やはり我慢はできんようだ」
***
【帝国軍ジャムシード軍管区機動部隊旗艦 トゥルナイゼン】
再び出撃したのは、先ほど引き揚げたばかりの機動部隊だった。
応急修理を終え、まだ十分に動ける艦だけをまとめ直している。戦闘開始から一度も使っていない予備戦隊千隻は、後方に残したままだった。
教国軍が固定砲台群へ圧力をかけているあいだ、トゥルナイゼンは砲台と少数の警備戦隊だけで前面を支えさせた。その間にも、戦闘開始時からの〈ウルカヌス〉の配置を時刻ごとに星図へ重ねさせていた。
最初の攻撃を止めるためメスナーは外側に置いていた艦群の一部を中央へ戻した。帝国軍が予備を出さないと見ると、今度は固定砲台群へ圧力をかけるため別の部隊を前へ出している。そこへ警備戦隊が短く出て側面から砲撃すれば、教国軍はその対応のためにまた別の艦を動かした。
どの判断もその場だけを見れば間違ってはいない。
トゥルナイゼンも、メスナーが失策を重ねているとは考えていなかった。
ただ、艦艇は同時に二か所には置けない。
ある場所へ戦力を送れば、それまでいた場所からは艦が消える。帝国軍が圧力をかけるたび、〈ウルカヌス〉の配置にはその移動の跡が残った。
トゥルナイゼンは正面ではなく、外側の一角を指した。
「ここが減ったな」
作戦参謀が表示を拡大した。
「意図して薄く見せている可能性もあります。こちらが向かえば、到着するころにはまた埋められているかもしれません」
「そうかもしれん」
トゥルナイゼンは戦闘開始時の配置を現在の星図へ重ねさせた。そこには少し前まで、いまより多くの教国艦がいた。
「だが、最初から薄かった場所ではない。こちらへ対応するため、メスナーがここから艦を動かした」
「では、ここを攻めますか?」
「いや。見たいのは、その次だ」
参謀が顔を上げた。
トゥルナイゼンは別の場所を指した。
「こちらがまた圧力をかければ、メスナーは何かを動かす。なら、今度はどこから持ってくるかを見る」
トゥルナイゼンが探しているのは、いま薄くなっている場所そのものではなかった。
自分が圧力をかけたとき、メスナーがどの戦力を、どの順番で動かすのか。その反応を重ねれば、〈ウルカヌス〉の中で重要度の高い場所が見えてくる。簡単には動かさない部隊がどこに置かれているか。その部隊まで動かすには、どこを脅かせばよいのか。
「最後まで動かさない艦群がどこにいるか。それを見る」
機動部隊の進路が変更された。
帝国軍は正面へは向かわなかった。固定砲台群の射程圏の外縁を回り込み、〈ウルカヌス〉主力と前面部隊を結ぶ線へ近づいていく。
作戦参謀は、後方に温存している予備戦隊千隻を加えれば、より早く同じ場所へ圧力をかけられると進言した。
トゥルナイゼンは首を振った。
「敵が待っているものを、わざわざ予定どおり渡してやることはないよ」
後方の予備表示を一度見た。
「メスナーが私のことをよく知っているならなおさらだ」
〈ウルカヌス〉の反応は早かった。
前面へ向いていた砲列の一部が射線を変え、固定砲台群へ圧力をかけていた電子戦部隊も主力側へ戻り始めた。それでも帝国軍の回り込みが続くと、さらに別の艦群が動く。
最後まで主力側面に残されていた部隊だった。
トゥルナイゼンの目が、その光点を追った。
「そこまで動かすか」
前線からは、まだ攻撃を継続できるとの報告が届いていた。
作戦参謀が表示を拡大した。
「予備を加えれば、敵後方まで入れる可能性があります」
トゥルナイゼンはすぐには答えなかった。
教国軍主力までの距離。味方の損傷。固定砲台群の援護範囲。そして、この攻撃に応じてメスナーが動かした部隊を、最初から順に見直した。
予備を出せば、もう少し進める。
そのこと自体は間違いなかった。
「いらん。戻せ」
作戦参謀が振り返った。
「ここで、でありますか。あと少し押せば、敵後方へ入れる可能性があります」
トゥルナイゼンも参謀を見た。
「その『あと少し』で評判を落としたことなら、私にも覚えがある」
誰も笑わなかった。
トゥルナイゼンは再び戦況図へ目を戻した。
「今日はもう見たいものを見た。戻せ」
機動部隊は反転した。
〈ウルカヌス〉の後方連絡線を断つことも、主力へ有効打を与えることもできなかった。帝国軍にも新たな損傷艦が出ている。
それでも、この攻撃に応じてメスナーは中央の砲列を向け直し、電子戦部隊を戻し、最後には主力側面に残していた艦群まで動かした。
帰投が始まると、作戦参謀が戦果をまとめた。
「敵主力への有効打は確認できません。我が方にもかなり損傷が増えています。成功とは言い難いかと」
トゥルナイゼンは、その評価を否定しなかった。
「そうだな。こちらも船を傷めた」
そして、戦闘開始時の〈ウルカヌス〉の配置を呼び戻した。
「だがメスナーも、ずいぶん見せてくれた」
トゥルナイゼンは、最後に動いた艦群の元の位置を指した。
「ここは何だ」
作戦参謀が答えた。
「まだ分かりません。主力護衛か、後方連絡の保護か。それ以外の可能性もあります」
「だろうな」
トゥルナイゼンは少し考え、そこに印を残させた。
「だが、メスナーがここから艦を動かしたのは最後だった」
参謀たちが表示を見た。
「つまり重要な場所だと?」
「かもしれん」
トゥルナイゼンは断定しなかった。
「少なくとも、ほかより簡単には空けたくない場所だった。その事実だけ覚えておけばいい」
最後に報告されたのは、戦闘開始から一度も前へ出していない予備戦隊千隻の状態だった。
燃料にも弾薬にも問題はない。後方に無傷の戦力が残されていること自体は、メスナーにも知られている。
作戦参謀がその表示を見た。
「閣下。あの千隻は、明日何に使われますか?」
「実はまだ決めていない」
数人が同時にトゥルナイゼンを見た。
「……決めておられないのでありますか?」
「そう言った」
トゥルナイゼンはわずかに口元を上げただけで、それ以上は説明しなかった。
***
【同夜 〈ウルカヌス〉艦隊旗艦〈ムルキベル〉 メスナー】
戦場の外側では戦闘配置を解いた艦から祈燈が消え始めていた。警戒任務に残る艦だけが金色の光を保ち、応急修理を終えて再び準備状態へ入った艦では消えていた経文が一隻ずつ浮かび直していく。
メスナーが見ていたのはその光ではなかった。
副官が今日二度の帝国軍の航跡を重ねた。最初の攻撃では〈ウルカヌス〉の砲列が正面へ出たところで止まり、次の回り込みでは中央の砲列と電子戦部隊を戻し、主力側面の艦群まで動かしたところで退いている。
「慎重になっただけでしょうか」
メスナーは首を振った。
「慎重な男ならば、そもそも朝に出てきていない」
トゥルナイゼンは敵の配置が分からないまま主力へ向かい、こちらが受ける形を整えれば退いた。次には別の場所から入り、また〈ウルカヌス〉を動かしている。二度とも帝国軍にはまだ押せる余地があり、予備を加えれば戦闘を続けることもできた。
それでもトゥルナイゼンは押さずに帰った。
今日の戦闘では別のことも起きていた。
〈ウルカヌス〉は二度とも斉鐘に合わせて砲火を重ねようとしたが、いつものようにはいかなかった。
最初の攻撃では帝国軍機動部隊がなかなか固定砲台群の射程圏から出てこなかった。
各砲列には斉鐘に合わせた射撃時刻が配られていたものの、その時刻になっても帝国軍は予定した距離まで入っていない。遠距離から撃てる砲列だけが火を開き、他の艦群は射撃を遅らせるか諸元を取り直した。
二度目は逆だった。
トゥルナイゼンは、出ると決めたあと急速に距離を詰めた。
〈ウルカヌス〉の砲列が取っていた射撃諸元は次々と古くなり、斉鐘が鳴るまでに修正を迫られた。鐘そのものは揃って鳴ったが、すべての砲列が同じ条件で撃てたわけではない。
〈斉鐘斉射〉が崩れたわけではなかった。
ただ二度とも、火力を重ねやすい距離に帝国軍が長く留まらなかった。
メスナーは二本の航跡を見た。
帝国軍がこちらの斉鐘を理解しているとは思わなかった。ましてや、あのトゥルナイゼンである。初見の戦術を看破したなどと考える材料はない。ただトゥルナイゼンは固定砲台群の援護圏では辛抱強く待ち、出ると決めれば一気に距離を詰めた。
〈ウルカヌス〉が弱かったわけではない。斉鐘斉射が崩れていたわけでも、第二聖団の練度が足りなかったわけでもなかった。
ただ、その戦い方は、トゥルナイゼンの間合いの取り方とはひどく噛み合わなかった。
「……勝つつもりがなかったのでしょうか」
「逆だ。どちらも通ればそのまま勝ちにつながった」
メスナーは戦闘開始時の配置を呼び戻した。最初の攻撃で前面の砲列を見せ、二度目には後方を脅かされたとき何を戻すかまで見せている。帝国軍も実際に艦を傷めた。それでも必要なものを見たところで引き返した。
一歩間違えれば、その探り自体が帝国軍の敗北になっていた。安全な場所から観察していたのではない。艦を前へ出して損害を受け、なお押し切れる可能性があるところで、攻撃をやめている。慎重になっただけならそもそも最初から出てこない。
昔のトゥルナイゼンなら不足した戦力を予備で埋めただろう。今日の男は前へ出る速さを失っていない。それでも勝ち切れずに戻ることを、自分の判断が誤っていた証拠とは考えなくなっている。
メスナーが見誤ったのは大胆さではなかった。
止まることをトゥルナイゼンが臆病だと思うかどうかだった。
副官が言った。
「……トゥルナイゼンは、変わりましたか」
メスナーは少し考えた。
「多少、変わったことは認めてやろう。だが、芯は変わっていない」
副官は二本の航跡を見比べた。
「何が変わったのでしょう?」
メスナーも同じものを見た。
「途中でやめられるようになった」
しばらく誰も口を開かなかった。
今回の〈ウルカヌス〉が第二聖団司令部から与えられていた威力偵察の任務は、すでにかなりのところまで達成されていた。
ジャムシード星域の固定砲台群の射界は見た。警備戦隊の後退要領も分かった。軍管区機動部隊がどの程度まで前へ出るかも確認した。
持ち帰るべきものは、もう十分にある。
こちらにも損害が出ている。本格的なジャムシード攻略は〈ウルカヌス〉一個艦隊で行うものではなく、後日、改めて行われる予定だった。
副官が撤退を進言した。
「閣下、ここまででよろしいのではありませんか。攻略作戦に必要な情報はかなり得られました。部隊を整え、後続とともに戻るべきかと」
メスナーも、その判断が軍事的に間違っているとは思わなかった。
むしろ正しい。
ただ一つだけ、気に入らないことがあった。
このまま退けば、今日トゥルナイゼンがやったことを正解にしてしまう。
それで教国軍が退けば、トゥルナイゼンは次からもっと早く止まれるようになる。
だが、本当にそれだけだっただろうか?
――あの阿呆などには負けたくない。
――いや、勝たせたくない。
そんな感情がまったくなかったとは、メスナー自身にも言い切れなかった。
作戦図へ新しい線が引かれた。
今度は中央の一角を意図して空ける。ただし見せかけだけの隙間にはしない。帝国軍が踏み込めば、本当に戦果を得られる場所にする。
その先には、さらに進めばもっと大きな戦果が得られそうな形を作る。帝国軍がそこまで来ても、すぐには閉じない。
「明日こそはあいつに、本当に勝てそうなものを見せる」
副官が顔を上げた。
「今度は途中でやめられないものをな」
メスナーはしばらく作戦図を見ていた。
「あと一日だ。明日でトゥルナイゼンを仕留める」
それから、不機嫌そうに付け加えた。
「駄目なら――業腹だが、それで退く」
同じころ、トゥルナイゼンも翌日の配置を作り直していた。
二人とも相手のことを昔からよく知っていると思っていた。
その認識だけは、まだ同じだった。
――「
次回、『イザーク・フェルナンド・フォン・トゥルナイゼン(後編)』
V — 人物図譜
教国軍第三聖団〈フォルトゥナ〉艦隊司令 従聖将ミロシュ・コルダ ※本編未登場
【挿絵表示】