銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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二「ヨーゼフ・ベルガー(前編)」(新帝国暦二十四年四月)

【新帝国暦二十四年四月 バーラト自治政府領外宙域 ハイネセン航宙情報区 救難訓練艇】

 

「遅い」

 

操縦席の後ろから声がした。若い男は返事をせず、正面の表示盤に映る小型作業艇との距離を詰めていく。二十キロほど先を漂流しているのは訓練用の標的艇で、右舷推進器停止、通信不良、乗員二名、うち一名負傷という設定だった。

 

相対速度を落としたところで、また後ろから声が飛んだ。

「まだ遅い」

 

今度は操艇教官が振り返った。

「ポプランさん。今日は見るだけという話だったのでは?」

 

ポプランは悪びれず返す。

「見てるだけだ」

 

教官が言う。

「口が動いてます」

 

「目とつながってるんだよ」

 

後部席のカリンが笑った。

「そういう病気なのよ。昔から」

 

「お前に言われたくないな、カリン」

 

救難訓練艇には八人が乗っていた。

操艇講習の受講者が四人、元民間救難会社勤務の操艇教官、救急資格を持つ職員が一人、それにカリンとポプランである。銃器などの武装はなく、船体も軍用ではない。ハイネセンの港湾救難局で十年以上使われ、現在は予備に回されている艇を訓練日に借りており、加速性能も貨物艇よりはいくらかましという程度の性能だった。

 

外板には補修箇所を示す小さな番号がいくつも残っている。

ポプランは午前中だけ、と言って乗ったが、その午前中はすでに一時間ほど延びていた。

 

「距離六・二。相対速度、毎秒十一」

 

前席の受講者が読み上げると、ポプランが言った。

「進路を合わせすぎだ」

 

若い男がとうとう振り向いた。

「まだ何もしてないでしょう!」

 

「だからだよ。故障船を信用するな。止まってるように見えて流れるし、まっすぐなように見えて回る。真正面から追い込むな。最後に合わせればいい。いまは逃げ道を一本残せ」

 

若い男は何か言いたげな顔をしたが、表示盤へ向き直った。進入角を三度ずらす。

 

「素直ね」

 

カリンが言うと、ポプランは満足そうに頷いた。

「いい生徒だ」

 

「今日は見るだけじゃなかったの?」

 

「見てるだけだ」

 

「口がずいぶん働いてるけど」

 

「目で見たものを口で言ってるだけさ」

 

その間にも前方の作業艇はゆっくり大きくなっていた。実際に故障しているわけではないので航法灯は正常に点いているが、訓練用表示では右舷側の推進器が使用不能になっている。操艇教官が時計を見た。

 

「接触まで四分。収容班、準備」

 

後部で二人が立ち上がり、カリンも安全索を確認しながら席を離れた。今日は中に入って終わりではなく、負傷者を出し、もう一人も乗せ、艇を離してハイネセンまで戻るところまでが訓練だと説明する。

 

ポプランは前方の表示盤を眺めた。二十年以上、民間船を飛ばしてきた。故障船そのものは珍しくなく、乗員が焦っている船も、管制に嘘をつく船も、修理代を惜しんで限界まで飛ばした船も見てきた。

 

遭難はたいてい、何か一つが派手に壊れて始まるわけではない。小さな無理を三つか四つ重ねた末に、最後の一つが来る。

 

「左から寄せろ」

ポプランが言うと、操艇教官がまた振り返った。

 

「今度は何です」

 

「あの艇の想定故障なら右へ流れる。収容中に姿勢が崩れたら、こっちが押される」

 

教官は前方を見て数秒考えたあと、受講者へ指示した。

「左へ二度。相対速度を八まで落とせ」

 

ポプランが笑った。

「素直な先生だ」

 

「帰ったら教官席を譲りますよ」

 

「遠慮しとく」

 

「もう半分やってますけどね」

 

前の席から小さな笑いが起きた。そのとき通信卓で音がした。最初は誰も反応しなかったが、訓練用通信とは違う帯域の短い雑音だった。通信担当の受講者が表示を確認し、もう一度耳を澄ませると、今度は二秒ほど続いた。

 

「教官。救難帯です!」

 

笑いが止まった。通信担当が訓練回線を切って受信帯域を広げると、画面上を数字が流れ、方位推定の表示が点滅する。三度目の信号はひどく弱く、音声らしいものが混じっていたが、まだ言葉までは取れなかった。

 

収容区画から戻ってきたカリンが訊いた。

「訓練?」

 

教官は即答した。

「違います」

 

訓練用標的艇への接近はそこで中止され、一人がハイネセン管制への回線を開き、別の一人が救急箱を固定し直す。カリンも訓練用の人形を壁際へ寄せ、実際の担架を引き出しに戻った。ポプランは信号方向を見た。

 

「距離はどのくらいだ」

 

「推定七千二百。誤差大きめです」

 

「動いてるか?」

 

「分かりません」

 

教官は操縦席へ戻って指示した。

「訓練中止。実救難へ移行する。ハイネセン管制へ通報。現在位置と推定方位を送れ」

 

受講者の声から先ほどまでの軽さが消え、艇が進路を変える。訓練用作業艇は側方へ流れ、そのまま表示盤の端へ消えていった。

 

数分後、微弱な識別信号を拾った。船籍情報の応答は途中で切れていたが、古い民間艇であることと船型だけは判別できた。港湾や小規模輸送で使われる旧式の作業艇で、二十年以上前から大量に出回っている型だった。

 

「熱源確認。主機一、出力不安定。補助推進器……片方、落ちてます」

 

ポプランが画面を覗き込む。故障というより、ここまで無理に飛ばしてきた船の数字だった。教官が通信を命じ、三度目の呼びかけでようやく雑音の中に声が混じった。

 

『……こちら……ベルガー。こちらベルガー。聞こえるか』

 

「聞こえています。ハイネセン救難責任区、救難訓練艇です。乗員数を知らせてください」

 

数秒の間を置いて、一名、と返ってくる。負傷の有無を訊くと、また少し間があり、『動ける』という答えだった。ポプランは眉を寄せた。その答え方をする船乗りは、だいたいどこか怪我をしている。通信担当がさらに状況を訊こうとしたとき、向こうから先に声が来た。

 

『確認したい。そこは、もうハイネセンの救難責任区か』

 

教官が答え、それを伝えさせる。

「そうだ」

 

回線の向こうではしばらく何も聞こえず、呼吸だけが小さく入り、やがて男が言った。

 

『……ならば、保護を求める』

 

ポプランは前方の暗い宇宙を見た。七千キロ先にいるはずの作業艇は、まだ星の一つとしてさえ見分けられない。ただ通信卓には、その艇から発せられる弱い信号が一つだけ点滅していた。

 

 

***

 

 

作業艇が目視できる距離まで近づくと、表示されていた故障情報より状態が悪いことが分かった。左舷側面には長く擦った跡があり、一部は外板まで剥がれている。主機の噴射も安定せず、数秒おきに光量が変わった。船名を表示する区画も消灯したままだった。

 

「衝突痕?」

 

カリンが画面を見ながら訊いた。ポプランは首を振る。

「正面から当てた跡じゃないな。どこかを長く擦ってる」

 

「一体何があったの?」

 

「船に聞いてくれ」

 

艇内に笑う者はいなかった。救難艇は作業艇の進行方向へ回り込み、相対速度をほぼ零まで落とした。姿勢制御が生きていることを確認して連結索を送り、二本目が固定されたところで接舷通路を伸ばす。

 

カリンは収容班の二人に、自分と係員だけが先に入ること、呼ぶまで通路へ出ないことを指示した。訓練ではないから、勝手なことをすれば帰ってからではなくここで怒る、と付け加えると、一人が緊張した顔で頷いた。

 

操縦席からそれを見ていたポプランが言った。

「優しくなったもんだな」

 

カリンが振り返った。

「誰が?」

 

「お前がだよ、カリン」

 

「そう見えるなら、目が衰えたのね」

 

接舷通路の気密表示が緑へ変わり、内扉が開いた。作業艇側の扉は数秒遅れて開く。

 

男は、そのすぐ向こうに立っていた。

 

三十を少し越えた程度に見えた。髪は短く、頬には二日か三日分の無精髭がある。作業着の肩から胸にかけて油が染み、左手には古びた工具箱を提げていた。額の右側には浅い傷があり、乾いた血がこめかみまで筋になって残っている。

 

救助される人間の持ち物としては、少し妙だった。持ち出した荷物はそれ一つで、衣服でも食料でもなく工具箱である。カリンの視線がそこへ落ちた。

 

「それ、置いてきてもいいのよ」

 

男は工具箱を見て答えた。

「軽い」

 

答えになっていなかったが、カリンは取り上げずに訊いた。

「名前は、ヨーゼフ・ベルガー?」

 

「ああ」

 

「歩ける?」

 

「見れば分かるだろう」

 

カリンの眉が少し上がった。

「思ったより元気そうね」

 

男は何も言わず救難艇へ移った。通路を渡ったところで、救急資格を持つ職員が待っていた。額の傷を見て椅子へ座らせ、携帯診断器を首筋へ当てる。頭を打ったか、吐き気はあるかと順に確認し、目眩を訊かれて男はようやく答えた。

「少し」

 

「それを最初に言ってください」

 

職員が救急箱から注射器型の投薬器を取り出すと、男の肩が動いた。

「鎮静剤はやめろ!」

 

声が、それまでより強かった。

 

「鎮静剤じゃありません。止血と炎症を抑える薬です」

 

男は投薬器を見たまま数秒黙り、ようやく腕を出した。

「……そうか、悪かった」

 

カリンは横からその顔を見たが、何も訊かなかった。投薬が終わると男はすぐ立とうとした。

 

まだ座っていろという職員に、男は答えた。

「船を見せろ」

 

自分の船かと聞き返されると、床へ視線を落とす。

 

「違う。こっちのだ。さっき接舷したとき、右側の補助ポンプが一度空転した。音がした」

 

操艇教官が前方から振り返った。

「こっちの船の音だと?わかるのか」

 

「ああ」

 

ポプランも男を見る。救難艇の補助ポンプは、確かに半年ほど前から始動時に一度だけ回転数が跳ねることがある。運用上問題なしとされ、次の定期整備まで持ち越されていた異常を、外から乗り込んできたばかりの男が知っているはずはなかった。

 

「お前さん、機関士か。あの音を一度聞いただけで補助ポンプまで拾うなら、昨日今日覚えた腕じゃない。どこで船をいじってた?」

 

男は一拍置いた。

「……いろいろだ」

 

「そうか。言いたくないなら、別にそれでもいい」

 

その返しを予想していなかったらしく、男が少しだけポプランを見る。

 

カリンはその横で、男の作業着へ視線を落としていた。胸の名札は剥がされ、企業章らしい縫い跡だけが残っている。袖にも何かを外した痕があった。

 

「言いたくないっていうより、知られたくないみたいね」

 

男は答えなかった。

 

「どこから来たの?」

 

「南西だ」

 

「それじゃ広すぎるわ」

 

「狭くする気はない」

 

カリンは眉を上げたが、それ以上は追わなかった。

ポプランは男の顔ではなく、剥がされた名札と、まだ油のついた工具箱を見た。

「じゃあ、もう一つだけ聞くぞ」

 

男が視線を戻す。

「お前さん、遭難したんじゃないな。逃げてる途中で船がもたなくなったな」

 

今度は男が少し長くポプランを見た。

「……どうしてそう思う」

 

「船籍の自動識別も切った。それで、壊れかけた船をハイネセン救難区まで無理に飛ばしてきた。誰にも見つかりたくないが、死ぬ気もない――そういう飛び方だ」

 

男はしばらく黙っていた。

「……だいたい合っている」

 

ポプランは頷いた。

「誰から逃げてるかは、いまは聞かん。ただし、そいつがここまで追ってくるなら話は別だ。こっちの船まで巻き込むことになる」

 

男の表情が、そこで初めてわずかに変わった。

カリンが壁際へ寄りかかって訊く。

「何したの?」

 

「何も」

 

「その答え、この世で一番信用できないやつね」

 

男は少し眉を寄せた。

「本当に何もしていない」

 

言い返す声には疲労があった。

 

通信卓から、ハイネセン管制が遭難艇の曳航可否を確認してきた。その報告へ移ろうとしたところで、別の警報が重なる。接近警報だった。

 

操艇席の表示に新しい光点が一つ現れ、かなりの速度で救難艇へほぼ一直線に近づいている。通信担当が識別要求を送ると、返答はすぐに来た。

 

神聖黄金樹教国。民間航路警備用の高速艇だった。

「救難?」

 

受講者の一人が表示を拡大した。

「いや、あれ臨検艇だろ。救難設備より接舷装置の方がでかいぞ」

操艇教官は答えず、接近速度を確認した。救助に来る艇の速度ではない。

 

ヨーゼフ・ベルガーが立ち上がった。救急職員がまだ座っているよう手を出したが、彼はそれを振り払うこともせず、表示盤だけを見ていた。顔から血の気が引いている。

 

カリンがその横顔を見た。

「知ってる船?」

 

「船は知らない」

 

返事はすぐだった。だが視線は表示盤から動かない。

 

「じゃあ、あれが誰なのかは分かるのね」

 

ヨーゼフは答えなかった。

その直後、高速艇から通信が入った。

 

『こちら神聖黄金樹教国航路警備艇。ハイネセン救難艇、応答されたし』

 

通信担当が操艇教官を見る。教官は頷いた。

 

「こちらハイネセン救難責任区訓練艇。現在、遭難者一名を収容しています。接近目的を知らせてください」

 

数秒の間があった。

 

『貴艇が収容した人物について確認があります。当該人物は神聖黄金樹教国の保護対象者です。救助に感謝します。以後の移送は当方で引き継ぎますので、身柄を引き渡されたい』

 

艇内の空気が変わった。

 

操艇教官が訊く。

「確認します。その人物について、刑事事件での強制処分の令状は出ていますか」

 

『いいえ。刑事手続によるものではありません』

 

「では、本人の意思によらず引き渡す法的根拠は何でしょうか?」

 

今度は返事まで少し時間がかかった。

 

『……申し上げたとおり、当該人物は当国の要保護対象者です』

 

カリンはそこで通信ではなく、ヨーゼフの方を向いた。

「ヨーゼフ。あの船に乗りたい?」

 

ヨーゼフはほとんど間を置かなかった。

「乗りたくない」

 

カリンは教官を見る。

「だそうよ」

 

教官が送話器へ向き直った。

「本人は移送を拒否しています」

 

教国艇から返ってきた声は、それでも穏やかだった。

『対象者本人は現在、自己の置かれた状況を適切に判断できる状態にありません』

 

その言葉を聞いた瞬間、ヨーゼフは目を閉じた。ほんの一瞬だった。

開いたときには、もう表情は戻っている。

「……生まれたときから、ずっとこれだ」

 

ポプランがヨーゼフを見る。

「何がだ?」

 

「俺が何を考えてるかを、俺以外の人間が決める」

 

 

***

 

 

ハイネセン管制が回線へ入ったのは、その一分後だった。訓練艇から送った救難報告と、教国艇からの引渡要求がほぼ同時に届いたらしい。

 

担当管制官は双方の識別番号と現在位置を確認したあと、まず教国艇へ接近を止めるよう求めた。

教国艇から返答があった。

『当該宙域は公宙です。バーラト自治政府の領宙ではありません』

 

「承知しています。領有権の話はしていません。現在、当方の救難艇が遭難者を収容し、救難活動を継続中です。接近を控えてください」

 

『バーラト側の救難を妨害する意図はありません。当方が対象者を引き継げば、救難活動は終了します』

 

「本人が移送を拒否しています」

 

『……承知しています』

 

短い沈黙のあと、声は元の調子に戻った。

『先ほど申し上げたとおり、本人の現在の判断能力には重大な疑義があります』

 

カリンが小さく鼻を鳴らした。

「へえ。『帰りたくない病』ってわけ?便利な病気ね」

 

ポプランが肩をすくめた。

「奇遇だな。実はおれもだよ」

 

管制官は今度は救難艇側へ、ヨーゼフの意識状態を確認した。救急資格者が診断器を見ながら答える。

 

「意識清明。氏名、現在位置、日時の認識に異常なし。軽度の脱水と疲労、額部裂傷。意思疎通に問題ありません」

 

「了解。ヨーゼフ・ベルガー氏本人に確認します。教国側へ移る意思はありますか」

 

ヨーゼフは通信卓へ近づいた。

「ない」

 

「ハイネセンへの移送を希望しますか」

 

少しだけ間があった。

 

「……希望する」

 

「了解しました」

 

それだけだった。教国艇からすぐに通信が入る。

 

『ハイネセン管制。当該人物については、当国側に医療記録および保護記録があります。本人が現在認識していない事情も含まれます。現場での意思確認だけをもって処理できる事案ではありません』

 

「では、本人の意思に反して移送を求める法的根拠と、予定されている措置の内容を送付してください」

 

返答まで、少し時間がかかった。

 

『現場で開示できる範囲を超えます』

 

操縦席の背に片腕を置いていたポプランが口を挟んだ。

「あいつらの要求も、こっちの呑める範囲を超えてるぜ」

 

教官が横目で見る。

「ポプランさん、さっきから聞こえますよ」

 

「聞かせてるんだよ」

 

ポプランは教国艇の表示を顎で示すと、通信を聞いている全員に届くよう、わざと声を張った。

「連れていく理由は現場じゃ話せない。だが、人間一人連れていく判断だけは現場でできる。妙な話だ」

 

カリンが少し笑ったが、ヨーゼフは表情を変えなかった。

ハイネセン管制の声はなおも事務的だった。

 

「現時点で、本人の意思に反して引き渡す根拠を確認できません。救難艇は予定どおりハイネセンへ向かってください。教国側からの正式な照会は自治政府対外連絡局で受け付けます」

 

『当国として、その判断には同意できません』

 

「記録しました」

 

回線が切れる。艇内に機器の作動音だけが戻った。

操艇教官は作業艇との連結解除を指示した。損傷艇には救難標識を残し、位置情報を後続艇へ引き継ぐ。まず乗員をハイネセンへ運ぶことになった。

 

しばらくして、ポプランがヨーゼフを見た。

「さて」

 

ヨーゼフもポプランを見た。

「お前さん、本当に何もしてないのか?」

 

「何もしていない」

 

カリンが横から言った。

「それはもう分かった。でも、何もない人をあそこまでして連れ戻しには来ないでしょ」

 

ヨーゼフは黙った。

 

「あんたが何かしたって意味じゃない。向こうが、あんたを連れ戻したい理由があるってこと」

声から冗談が消えた。

「話したくないことがあるのは分かる。でも、黙ったままあたしたちを危険に巻き込むのは違う。誰に追われてるのか、何をされる可能性があるのか。分かってることは話して」

 

ヨーゼフはすぐには答えなかった。通信卓へ目を向ける。教国艇の光点は止まっておらず、相対距離を保ちながらこちらと同じ進路へ乗りつつあった。

 

「……教国の治安部隊だ」

 

「それは見れば分かる」

 

カリンは視線を外さなかった。

「その先を聞いてるの」

 

「何もしてない!」

声が、思ったより大きくなった。

「俺は生まれただけだ!それも、俺が頼んだことじゃない!」

 

ポプランとカリンが同時に男を見る。ヨーゼフはそれ以上言わなかった。操艇教官が前を向いたまま、連結解除後に帰投航路へ入ると告げる。

 

ポプランは表示盤へ視線を戻した。教国艇が速度を上げ、救難艇の帰投航路へ先回りする軌道に入っている。

 

「教官。試しに、右へ五度振ってみてくれ」

 

操艇教官がポプランを見た。

「何を確かめるんです」

 

「連中がついてくるかどうかだよ」

 

教官はそれ以上訊かず、針路を五度変更した。数秒遅れて、教国艇も軌道を修正する。

通信担当が表示を見た。

「合わせてきました」

 

「もう五度」

 

今度は教官も黙って艇を振った。教国艇も動いた。

カリンが表示盤を見ながら言った。

「あいつら、この船の前に出るつもりね」

 

ポプランは頷いた。

「ああ。ハイネセンへ無事に帰す気はないらしいな」

 

教官は推力を上げたが、教国艇との距離は縮まった。性能差は表示を見るまでもない。あちらは航路警備用とはいえ高速艇で、こちらは中古の救難艇である。直線で競えば数分も持たなかった。教国艇から、再び停船要求が入った。

 

『当方は対象者の安全確保を目的としています。抵抗しなければ、貴艇乗員に対する措置は行いません』

 

「措置?」

 

カリンが送話器を取ろうとしたが、教官が先に手で制した。

 

「管制へ転送だけしろ。返答は向こうに任せる」

 

通信担当が頷く。ポプランは少しだけ教官を見た。さっきまで訓練生を叱っていたときと同じ顔をしている。悪くない、とポプランは思った。

 

教国艇はさらに近づき、前方へ回り込んでこちらの進路に船体を置いた。衝突コースではない。そのまま進めば、減速か迂回を強いられる位置だった。教官が右へ避けると、教国艇も同じだけ移る。

 

前席の受講者が、願望を隠せない声で言った。

「まさか撃ってはこないでしょう」

 

「撃つ必要がない」

ポプランは表示盤から目を離さなかった。

「ぶつけて、止めりゃ済む。こっちは武装なし、加速でも負けてる。停めて横づけすりゃ終わりだ」

 

その言葉を待っていたように通信が入った。

 

『停船されない場合、対象者の緊急保護のため接舷措置を取ります』

 

ヨーゼフが壁から背を離した。

「……もういい。教国艇に連絡しろ。俺を渡すと言え」

 

カリンが眉を寄せた。

「さっきまで帰らないって言ってたでしょう」

 

「追われてるのは俺だ。お前たちじゃない。……悪かった。ここまで巻き込むつもりはなかった」

ヨーゼフは教国艇の光点を睨んだまま、低く付け加えた。

「俺を渡せば、済む」

 

ポプランはしばらく何も言わなかった。やがて操縦席の背から腕を離し、ヨーゼフの方を向いた。

「それで済むかどうか、お前が一人で決めるな」

 

ヨーゼフが顔を上げる。ポプランは教国艇を顎で示した。

 

「お前さんが自分から降りるってんなら止めんよ。だが連中、武装した船で追い回して、本人が嫌だと言ってるのに渡せと言う。挙げ句に、こっちの船へ乗り込む気まで見せていやがる」

そこで口元をわずかに歪めた。

「そういう連中に、はいどうぞと客を渡すほど、おれは物分かりがよくない」

 

「客じゃない」

 

「おれが拾った時点で客だよ。少なくとも、連中の荷物じゃない」

 

ポプランはもうヨーゼフを見ていなかった。表示盤へ視線を戻し、教国艇と周囲の航路を追っている。

「それに、力をちらつかせて言うことを聞かせようってやり方は、昔から性に合わん」

少し間を置いて付け加えた。

「おれに言うことを聞かせたきゃ、せめて美女と酒くらい用意しとけ」

 

カリンが小さく息を吐いた。

「そういうところ、ほんと昔から変わらないわね」

 

ポプランは操艇教官へ顔を向けた。

「操縦、代わるか?」

 

教官が眉を上げる。

「今日は見るだけじゃなかったんですか」

 

ポプランは操縦席へ手を伸ばした。

「予定変更だ。今日は無料サービスの日だ」

 

教官は表示盤と教国艇を見比べた。二秒ほど考えたあと、ベルトを外して席を立つ。

「お願いします、ポプランさん」

 

ポプランが操縦席に滑り込み、操縦桿を握った。

「さて。客を無事に届けるのも、運送屋の仕事なんでね」

 

受講者たちの視線が一斉にポプランに集まった。

 

「おいおい。運賃は無料だが、見物料は追加料金だぞ」

 

ポプランは主機出力、姿勢制御、燃料、推進器温度、周囲の民間航路を順に確認した。二十年以上前なら最初に見たのは敵との距離だったが、いまは違う。

 

「管制。前方の貨物航路、三分後の通過予定を全部くれ」

 

通信担当が復唱する。教官が横から訊いた。

「振り切れますか」

 

「無理だな」

 

あまりにあっさり答えたので、受講者の一人が息を呑んだ。

「じゃあ、どうするんです」

 

ポプランは操縦桿を倒した。救難艇が大きく左へ向きを変え、教国艇も追随する。

「速い方が勝つなら、操縦を覚えたてのころのおれは三回くらいは死んでるぜ」」

 

推力を上げると、中古艇の船体が低く震えた。背後で主機温度の警報が鳴り、右補助ポンプの回転数異常が読み上げられる。ヨーゼフが表示盤へ目を向けた。

 

「三番冷却系の設定、見せろ」

 

整備担当の受講者が戸惑いながら端末を渡す。ヨーゼフは数秒だけ数字を見て、床面の点検蓋へ目を落とした。

 

「誰がこれを絞った」

 

教官が答えた。

「前回の整備だ。圧力変動があった」

 

「絞りすぎだ。このまま出力を上げたら、右側から先に落ちる」

 

ポプランは前を見たまま言った。

「ヨーゼフ、直せ」

 

ヨーゼフの顔つきが変わった。

「俺に命令するな」

 

ポプランの手が一瞬止まった。

「……悪かった。命令されるのが嫌いなのは、おれも同じだ」

 

一拍置いて、ポプランは言い直した。

「ヨーゼフ、頼めるか?」

 

ヨーゼフは少しだけその背中を見た。

「ああ。分かった」

 

点検蓋の前へしゃがみ込む。整備担当が収納箱を開けようとしたが、ヨーゼフは自分の工具箱を引き寄せた。

 

「工具は?」

 

「必要なものはある」

 

蓋を開き、身体を半分機関区画へ入れたところで、ヨーゼフが顔だけを上げた。

「一つだけ言っておく。無茶な操船をするなら、先に教えろ。こっちは中にいる」

 

ポプランは前を向いたまま答えた。

「いまので、もう無茶のうちか?」

 

「十分、無茶だろう」

 

「了解。次から先に言う」

 

ヨーゼフは何か言いかけたが、やめた。そのまま機関区画へ身体を沈めていく。

カリンがその背中を見送ってから、操縦席へ目を向けた。

「ずいぶん素直に言うこと聞くのね」

 

「頼んだからな」

ポプランはそれだけ答え、表示盤へ視線を戻した。前方では教国艇がさらに速度を上げている。

「来るぞ」

 

救難艇は民間貨物船の往来する航路へ向けて加速した。

 

 

***

 

 

貨物航路へ入るまでの三分間、ポプランは一度も教国艇を振り切ろうとはしなかった。

 

救難艇の最大加速では勝負にならない。ならば、速力で勝負しなければいい。

ポプランは前方を横切る船の速度と通過時刻を一隻ずつ拾い、その隙間へ救難艇を滑り込ませていった。教国艇が同じ線を追おうとすれば、民間船との安全間隔を守るため、こちらより大きく進路を変えなければならない。

 

「二分後、右前方から大型貨物船。その後ろに小型輸送艇二隻。左側は空いています」

通信担当が管制情報を読み上げた。

 

「左へは行かない。貨物船の後ろを使う」

 

操艇教官が表示を見た。

「かなり近くなります」

 

「だから使える。噴射域には入らない。あいつが抜けた直後を通る」

ポプランは速度を落とさなかった。

巨大な貨物船が航路を横切り、船腹が視界を埋めていく。ポプランはその船尾が救難艇の前を抜ける瞬間まで待った。

 

「まだですか」

 

「まだだ」

 

接近警報が鳴る。

 

「今だ」

 

救難艇が貨物船の後方へ滑り込んだ。安全間隔の縁をなぞり、そのまま船尾の向こう側へ抜ける。

数秒遅れて来た教国艇には、もう同じ隙間は残っていなかった。貨物船との安全間隔を取るため外側へ回り込み、その分だけ距離が開く。

 

前席の受講者が、ようやく息を吐いた。

「……こういうの、講習ではやりませんよね」

 

「絶対やるなよ。教本にも書くな。腕より先に真似する馬鹿が出る」

ポプランはもう次の船影を見ていた。

 

そのとき、機関区画からヨーゼフの声が上がった。

『右補助ポンプ、戻した。上げるなら今だ。ただし三十五秒で切れ。五秒は余裕に残す』

 

「了解。三十五秒」

 

返事をすると機関区画から短く金属音が返ってきた。カリンが収容区画の入口から二人を見たが、何も言わなかった。ポプランも表示盤から目を離さない。

 

貨物航路へ入ったところで、操艇教官が周囲の船影を確認した。大型貨物船、定期輸送艇、民間の作業船。航路監視の記録だけでなく、それぞれの船にも航行記録が残る。

 

「ここまで来れば、向こうも無茶はできませんね」

 

「できるさ」

ポプランは即答した。

「ただし、やったら全部残る。誰も見てない場所で『保護しただけです』とは言えなくなる」

 

教官はもう一度、周囲の船影を見た。

ポプランは教国艇を振り切れてはいなかった。だが、ここまで逃げてきたことは無駄ではない。

ヨーゼフ本人が移送を拒否していることはすでにハイネセン管制へ記録されている。そのうえ、多数の民間船が行き交う航路で救難艇へ実力行使に出れば、それが単なる救助の引継ぎではないことは誰の目にも明らかになる。

 

それでも、教国艇は追跡をやめなかった。

 

無理な回り込みこそ控えているが、距離を一定以上開けず、救難艇が航路から外れる瞬間を待っているようだった。

 

大型貨物船の後方を抜けたところで、教国艇が動いた。

 

「来ます。左後方、急速接近」

 

通信担当の声が変わった。

教国艇は正面から追いつこうとはせず、斜め後方から救難艇の左舷へ寄せてくる。船体間距離が急速に縮まり、接近警報が連続音へ変わった。

 

「八百。七百五十。まだ詰めます」

 

操艇教官が表示を見て、低く言った。

「……それでもやる気か」

 

ポプランの表情から笑いが消えた。

「らしいな」

 

「接舷されます!」

 

ハイネセン管制から中止警告が送られたが、教国艇は応答しなかった。

代わりに短い通信だけが入る。

『聖義保全令第百九十六条に基づき、対象者の緊急保護措置を開始します。措置を妨害する行為は排除対象となります。抵抗しないでください』

 

ポプランは救難艇を右へ振った。

 

教国艇も追う。

もう一度方向を変える。今度は逃げるためではない。接舷に必要な相対速度を作らせないためだった。

それでも離れない。船体へ鈍い衝撃が走った。

左舷側の表示が一斉に赤へ変わる。

 

「外部接舷ポート、固定されました!」

 

教国艇側から固定装置を打ち込まれていた。

 

「解除できるか?」

 

操艇教官が確認する。整備担当が首を振った。

「外側からロックされています。ここで無理に船体を振れば、ポートごと持っていかれます」

 

ポプランは推力を落とした。

接舷部に人が入れば、それ以上の無理な操艇はできない。相手もそこまで計算している。

 

カリンがすぐに動いた。

「全員、決めた区画へ。操縦、通信、機関以外は前へ出ないで」

 

受講者たちの一人が収容区画の扉を閉じ、もう一人が救急職員を奥へ下がらせる。通信担当はハイネセン管制との回線を開いたまま、接舷位置と警報発生時刻を一つずつ読み上げ、記録へ残していった。

 

カリンは壁際の収納を開けた。

入っていたのは訓練用の防護具と、警棒型の衝撃器だけだった。装着しながら接舷口までの区画図を確認する。

操艇教官が立ち上がりかけた。

「自分も行きます」

 

「駄目。ここにいて」

カリンは振り返らなかった。

 

「相手は武装しています」

 

「だからよ。船を動かせる人間を前に出したら帰れなくなる」

 

教官は一瞬だけ黙り、席へ戻った。

接舷区画の表示が黄色から赤へ変わる。

向こう側で外扉が操作され始めた。

 

カリンは通路照明を半分落とし、二枚目の隔壁を閉じた。接舷口から操縦区画まで一本道で来させず、救難資材庫を経由する狭い通路だけを残す。

 

後ろにいた受講者が訊いた。

「ここを開けておくんですか」

 

「入ってくる場所を、向こうに選ばせない。こっちで決めるの」

カリンは隔壁の脇へ身体を寄せた。

「誰も前へ出なくていい。自分の区画を守って、言われた仕事だけして。英雄になる必要はないから」

 

受講者たちは頷いた。

外扉から振動が伝わってくる。

 

一度。

 

二度目でロック機構の一部が飛んだ。

 

三度目に警報が鳴り、外扉が開いた。

 

最初に入ってきたのは二人だった。

 

灰色の軽装甲服。胸には教国の識別章があり、手には短銃型の電撃兵器(スタン・ピストル)を持っている。銃口は下げていたが、周囲の確認の仕方は明らかに訓練された人間のものだった。

 

『抵抗しないでください。対象者の安全確保のみが目的です』

 

先頭の男が言った。カリンは姿を見せずに返す。

「本人が嫌だと言ってる。帰って」

 

『対象者は適切な判断能力を欠いています』

 

「そう」

カリンはそれだけ答えた。

先頭の男が一歩進んだ瞬間、隔壁を閉じる。

二人のうち一人だけがこちら側へ取り残された。

男は反射的に銃を上げた。

 

カリンは資材庫の陰から踏み込み、銃を持つ手首を壁へ押しつけた。スタン弾が天井を打ち、白い火花が散る。

相手は体格で勝っていたが、通路が狭く、足を開けない。

カリンは伸びた肘へ体重を掛けた。

短銃が床へ落ちる。

そのまま肩を入れ、男を膝から落とした。

 

「一名拘束。まだ後ろにいる」

 

通信だけ入れ、男の腕を救難資材庫の手摺へ固定する。

隔壁の向こうでは二人目が解除操作を始めていた。

さらに後方から足音が二つ。

少なくとも四人いる。

カリンは一枚先の隔壁まで下がった。

 

二枚目の扉が開いた。

今度は二人がほぼ同時に入ってくる。

スタン弾が隔壁の縁を叩いた。

被覆材が弾け、後ろにいた受講者の頬を切る。

 

「下がって!」

 

カリンが怒鳴った。

若者は頬を押さえながらも、教わったとおり次の隔壁まで退いた。

カリンは壁際の消火器を外し、通路へ噴射した。

白い消火剤が狭い空間を一気に満たす。

視界を失った先頭の足元へ救難索を投げ、引く。

一人が倒れ、後ろの男まで巻き込んだ。

 

カリンはその隙に距離を詰め、立ち上がろうとした一人の銃を持つ腕を壁へ押しつけた。短銃が床へ落ちる。

腰の袋から、注射器型の投薬器が一緒に転がり出た。カリンはそれを爪先で脇へ払った。

 

もう一人が起き上がろうとした、そのとき、後方から四人目が入ってきた。

 

「クロイツェル主任!」

受講者の声が飛ぶ。

 

カリンは振り返らずに叫んだ。

「三枚目、落として!」

 

隔壁操作卓の受講者の手が、ためらわずに動いた。

照明が消えた。

同時に三枚目の隔壁が閉まり、四人目だけが向こう側へ取り残される。

受講者が閉鎖を確認し、復唱した。

 

残った一人が銃を上げる。

カリンは倒れている教国兵の装甲服を引き寄せ、その身体を銃口との間へ入れた。相手が撃つのをためらう。

 

その一瞬で距離を詰めた。

銃を持つ手首を掴み、壁へ押し込む。

短銃が落ちる。

男はそこで動きを止めた。

 

カリンも追わなかった。

数歩の距離を置いて、互いに相手を見る。

 

「まだ続ける?」

 

男は床にいる仲間へ視線を落とした。

通信機へ何か短く告げたあと、ゆっくり両手を見える位置へ下ろす。

 

「……お願いします。抵抗は止め、対象者を引き渡してください」

 

「嫌」

 

「我々は、あなた方と戦うために来たのではありません」

 

カリンは床に落ちた短銃を見た。

「それを持って勝手に乗ってきた人が言う台詞じゃないわね」

 

男はしばらく黙っていた。

「……あの方には、治療が要るんです」

 

カリンは何も返さなかった。

そのとき、ポプランから通信が入った。

 

『カリン。十秒後に右へ振る。全員、何か掴め』

 

カリンは天井を見た。

「今なの?」

 

『今しかない。接舷部の荷重を抜く。十、九――』

 

機関区画からヨーゼフの声が重なる。

 

『右側は三十五秒までだぞ』

 

『覚えてる』

 

ポプランの返事は短かった。

カリンは手摺を掴み、近くの受講者にも掴まるよう合図した。教国兵も状況を理解したらしく、壁へ手をつく。

 

『三、二、一』

 

救難艇が大きく姿勢を変えた。

全員の身体が同じ方向へ引かれる。

接舷部から、低い金属音が響いた。

その直後、奥に退いていた受講者の頬から血が落ちているのを、ヨーゼフが機関区画の監視画面で見た。

 

 

***

 

 

民間貨物航路を外れた瞬間、ポプランはもう一度速度を上げた。接舷した教国艇も引きずられるように針路を変える。固定は完全ではなく、相手側の接舷装置が二隻の姿勢差を吸収しようと伸縮を繰り返し、そのたびに船体の奥から鈍い振動が返ってきた。

 

ポプランは前方表示から目を離さず、機関区画へ声を飛ばした。

「あと何秒だ。さっきの三十五秒」

 

少し間があって、ヨーゼフの声が返る。

『もう使ってる。お前が貨物船の後ろへ入ったあたりからだ』

 

「それは先に言え」

 

『無茶するなら先に言え、と言ったはずだ』

 

ポプランは一瞬だけ笑った。言い返すのをやめて残りを訊くと、ヨーゼフは「冷却を一系統殺して、三十」と答えた。

 

「そのあと直せるか?」

 

『誰に聞いてる』

 

その返しに、ポプランの口元がわずかに上がった。

 

ポプランは推力を上限近くまで押し込んだ。救難艇の船体が低く唸り、接舷装置が教国艇との間で大きく伸縮する。外板の奥から周期的な軋みが伝わってきたが、ポプランは速度を落とさなかった。

 

やがてヨーゼフの声が入った。

 

『あと二十秒。そこを越えたら冷却が追いつかない』

 

「三十じゃなかったのか?」

 

『さっきからもう、十秒使った』

 

「細かい男だな」

 

『機関士だからな』

 

今度はポプランも何も言わず、操縦桿を握り直した。

二十秒が尽きる前に、ポプランは推力を戻した。接舷装置の伸縮が緩み、機関区画の警報が一つ消えた。

 

そのとき、後部区画から救急職員の声が飛んだ。頬を切られた受講者の傷が、思ったより深い。

押さえた止血材の下から、血が顎まで伝っていた。

 

機関区画から戻ってきたヨーゼフは、それを見て足を止めた。

床には、教国兵の腰から落ちた投薬器が、まだ転がっていた。

ヨーゼフはそれを一度だけ見て若者へ目を戻した。

 

「……もういい」

 

隔壁の脇で教国兵から目を離さずにいたカリンが、声だけで訊いた。

 

「何が?」

 

ヨーゼフは負傷した若者から目を離さなかった。さきほど渡せと言ったときの苛立ちも、教国艇を見たときの緊張も、もう声にはなかった。

 

「俺を連中に渡せ。このまま続けたら、次はその程度じゃ済まない」

 

「今さら何言ってるの?」

 

「俺を渡せば終わる。少なくとも、お前たちが巻き込まれる理由はなくなる」

 

カリンが何か返すより早く、操縦席からポプランの声が来た。

 

「だったら事情を話せ」

 

ヨーゼフが顔を上げる。ポプランは前を向いたまま続けた。

 

「お前が犯罪者なら、ハイネセンへ着いてから調べればいい。向こうの言い分が正しいなら、それもそこで確かめればいい。だが、何も言わずに『俺を渡せ』じゃ、こっちは何を基準に決めればいいんだ」

 

ヨーゼフは答えなかった。救急職員が負傷者の頬へ止血材を当て直している。若者本人は大丈夫だと言ったが、声にはまだ痛みが残っていた。

 

「言いたくないなら、それでもいい」

ポプランの声は変わらなかった。

「その代わり、おれたちは今分かってることだけで決める。お前は向こうへ帰りたくない。向こうも刑事事件じゃないと言ってる。それなのに、理由を説明しないまま、お前を力ずくで連れていこうとしている。いま分かってるのは、それだけだ」

 

しばらく、誰も口を開かなかった。

ヨーゼフは負傷した受講者を見て、それから一度目を伏せた。

 

「……昔の名前は、エルウィン・ヨーゼフだ」

 

カリンの表情が止まった。操縦桿に置かれていたポプランの手も、ごくわずかに動きを止める。

 

「……二世か?」

 

ヨーゼフはすぐには答えなかった。その沈黙だけで、答えはほとんど出ていた。




――「余は銀河帝国第三十七代皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世であるぞ。今すぐ手を放せ。さもなくば――」

次回、『ヨーゼフ・ベルガー(中編)』

【人物図譜】
機関士 ヨーゼフ・ベルガー
【挿絵表示】

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