【新帝国暦二十四年四月 バーラト自治政府領外 ハイネセン航宙情報区 救難訓練艇】
カリンが数秒遅れて息を吐いた。
「ちょっ……ちょっと待って」
いったんヨーゼフを見て、それからポプランを見る。
「あの、エルウィン・ヨーゼフ二世?本当に、あの?」
「ああ」
「本物なの?」
そこで初めて、ヨーゼフは少し困ったような顔をした。
「知らん。俺が知っているのは、昔そう呼ばれていたことだけだ」
カリンは改めてヨーゼフの顔を見た。
記録映像に残っているのは、二十年以上前の子供の顔だった。もちろん、そのままではない。それでも言われてみれば、目元や顔立ちのどこかに面影があるようにも見える。
それだけでは信じる理由にはならない。
ポプランが鼻から短く息を吐いた。
「なるほどな」
「信じるの?」
カリンが訊く。
「二十年前の皇帝陛下の顔なんぞ、細かく覚えちゃいないさ」
ポプランは教国艇の表示を顎で示した。
「だが、まったくの嘘にしちゃあいつらの追い方が本気すぎる」
ヨーゼフは何も言わなかった。
「それに、こんな馬鹿げた嘘をつくならもう少しましな身分を選ぶだろ」
ヨーゼフは一歩前へ出た。
「事情は分かっただろう。もう俺を渡せ」
「逆だ」
ポプランはそこでようやく振り返った。
「ますます渡せなくなった」
ヨーゼフの眉が寄る。
「なぜだ。俺に利用価値があるからか?バーラトにとっても、昔の皇帝なら――」
「何を言ってる?」
ポプランは本気で面食らったようにヨーゼフを見た。
「誰として生まれたかは、お前さんの責任じゃない」
ヨーゼフは黙った。ポプランは教国艇の表示へ目を戻した。
「そんな話なら、なおさら渡せんよ」
「……俺は、エルウィン・ヨーゼフ二世だぞ」
ポプランは肩をすくめた。
「おれが拾ったのはヨーゼフ・ベルガーって機関士だ」
その言葉の直後、教国兵の通信機から声が漏れた。
『接舷班へ。対象者の確保を優先。時間をかけるな』
通路に残っていた教国兵が通信機へ手を伸ばした。カリンはその動きを見ていたが、男が武器へ手を掛けないことを確認すると、隔壁の解除盤へ手を置いた。
「帰るなら、今よ」
男がカリンを見る。
「……対象者を引き渡してください」
「引き渡さない。でも、そっちが引くなら追わない。ここでまだ続ける?」
男は床にいる仲間と、隔壁の向こうに取り残された仲間へ順に目をやった。それから通信機へ短く状況を報告する。
その最中、船外監視が新たな光点を四つ拾った。識別表示には、ハイネセン側の救難艇三隻と航路監視艇一隻。まだ数分先だが、こちらへ向かっている。
数秒後、教国艇から撤収命令が入った。
『接舷班、撤収。五分以内に接舷艇へ戻れ』
カリンは隔壁を一枚ずつ開け、拘束していた一人も解放した。教国兵たちは負傷した仲間を支えながら接舷通路へ戻っていく。その間も、何人かはヨーゼフから視線を外さなかった。
やがて接舷通路の内扉が閉じた。
「全員戻った」
カリンの報告を聞いても、ポプランは速度を落とさなかった。
操艇教官が接舷部の表示を確認する。
「向こうの固定はまだ生きています。連中、接舷装置を外す気がないようです」
ヨーゼフが表示盤へ寄り、荷重値を数秒見てから別の系統を呼び出した。
「非常分離機構は?」
「正常です。ただ、相手側から補助固定を掛けられています」
ポプランが訊いた。
「非常分離だけじゃ外れないのか?」
ヨーゼフは接舷部の図を拡大した。教国艇から伸びた固定具が、救難艇の接舷口へ二本食い込んでいる。
「こっちのロックは外せる。でも、向こうの爪が残る」
「じゃあ、どうする」
「横からねじって外せ」
ポプランは教国艇の噴射炎を見た。
「向こうは右舷を吹かしっぱなしだ。放せば右へ流れる。なら、振るのは左だな」
それから表示へ目を戻した。
「それで抜けるのか?」
「うまくいけばな」
「失敗したら、どうなる?」
ヨーゼフは接舷口の表示を指した。
「爪じゃなく、こっちの接舷口がちぎれるな」
前席の受講者が思わず顔を上げた。
ポプランはもう一度図を見た。
「どっちの可能性が高い?」
「お前がちゃんと振れば、爪が外れる方だ」
「なるほど。そこはおれの仕事か」
「そういうことだ」
ポプランは小さく笑った。
「で、主機はあと何秒もつ?」
「さっき落とした分、少しは冷えた。全出力なら二十五秒。それ以上は保証しない」
「二十五じゃ足りん。二十八ほしい」
ヨーゼフが即座にポプランを見た。
「追加の三秒はどこから出てくるんだ?」
「そこを何とかするのが機関士だろ!」
「お前が機械に頼んでみろ。俺より話が通じないぞ」
「じゃあ二十七」
「二十六。そこまでだ」
「二十六半」
「二十六……」
ヨーゼフがそこで口を止めた。
「ちょっと待て。何で俺まで交渉してるんだ。機械と値切るな!」
後ろからカリンの声が飛んだ。
「二人とも、ここは市場じゃないの。二十五秒で飛ばして」
ポプランは肩をすくめ、操縦桿を握り直した。
「仕方ない。二十五秒で何とかする」
「最初からそうしろ」
ヨーゼフはそれだけ言って点検蓋へ戻り、機関区画へ身体を沈めた。非常分離は、そちらの端末からも掛けられる。
ハイネセン管制からも、救難艇三隻と航路監視艇一隻がこちらへ向かっているとの確認が入っていた。到着まではまだ数分ある。教国艇も同じ情報を受けているはずだったが、固定を解除する様子はない。
「援軍が来る前に船ごと持っていく気ね」
カリンが言った。
「だろうな」
ポプランは前方へ目を戻した。
遠方を大型貨物船が一隻横切っている。その後方には、しばらく船影がなかった。民間船を巻き込まず、二隻分の船体を大きく振れる空間はそこしかない。
「ヨーゼフ」
『何だ』
「合図したら非常分離を頼む」
『ああ』
一拍置いて、ポプランが笑った。
「今度はやけに素直だな」
返事は、間を置かずに来た。
『頼まれたからな』
ポプランの口元が少し上がった。
大型貨物船が航路を抜ける。救難艇はその後方へ入り、教国艇も接舷したまま追随した。姿勢制御噴射の影響で二隻の船体がわずかに揺れ、接舷部の荷重表示が上下する。
ポプランは、その数値が落ち着くのを待った。
一秒。
もう一秒。
「今だ」
ヨーゼフが非常分離を作動させた。
同時にポプランが救難艇の姿勢を左へ振る。船体の奥で、巨大な金属部品が引き裂かれるような音が響いた。左舷接舷部の警報が一斉に点灯し、圧力値が急激に落ちていく。
教国艇が視界の端へ滑った。
外れた。
ヨーゼフは指示を待たず、冷却系の制限を解除した。主機出力が跳ね上がり、救難艇が教国艇との距離を一気に広げる。
『全出力、二十五秒。それ以上は持たせるな』
「了解」
ポプランは操縦桿を押し込み、加速を続けた。機関区画ではヨーゼフが温度と圧力の上昇を追っている。
『残り二十』
「まだいけるな」
『いけるかどうか決めるのは俺だ。十五』
カリンが座席へ身体を固定しながら、二人の通信を聞いていた。
「秒読みはヨーゼフに任せなさい。ポプランは前だけ見て」
「はいはい」
『十』
救難艇はなおも加速した。
教国艇も追ってくる。
『五。……零』
ポプランが主機出力を落とした。教国艇との距離が、少しずつ詰まり始めた。
しかし今度は、前方から四つの光点が近づいていた。ハイネセン側の救難艇三隻と航路監視艇だった。
通信回線が開く。
『神聖黄金樹教国航路警備艇へ。バーラト自治政府登録救難艇に対する強制接舷および武装要員の乗艇を確認しています。これ以上の接近を中止してください。全記録は自治政府へ送信済みです』
教国艇はすぐには速度を落とさなかった。
警告がもう一度流れる。
救難艇三隻が左右へ広がり、こちらを囲むように位置を取った。武装艇ではない。それでも、ここからさらに進めば、一人の遭難者を回収するという説明では済まなくなる。
教国艇はようやく減速した。
しばらく並走したあと、最後の通信が入る。
『当該人物の身柄について、神聖黄金樹教国は正式な返還要求を行います』
ハイネセン側から返答はなかった。
教国艇はなお数秒だけ同じ針路を保ったあと、ゆっくりと離れていった。
艇内では誰も歓声を上げなかった。
ヨーゼフが冷却系を通常設定へ戻していく。さきほどまで船内を埋めていた警報は、一つ、また一つと消えていった。
最後に残ったのは、左舷接舷部の故障を示す黄色い表示だけだった。
操艇教官がそれを見て、ようやく息を吐く。
「修理、増えましたね」
ポプランは前を向いたまま答えた。
「教材が増えたと思え」
少し離れたところから、ヨーゼフの声がした。
「ポプラン。お前はもう、俺が乗ってる船では二度と操縦桿を握るな」
「なぜだ?」
「機関を壊すからだ!」
そこで初めて、艇内に小さな笑いが起きた。
***
ハイネセン宇宙港へ着くころには、ヨーゼフの額の血は完全に乾いていた。港には内務局員と医療職員が待っていた。受付の職員が端末を確認して告げる。
「ヨーゼフ・ベルガーさんですね。事情を伺う前に、まず医療区画へお願いします」
ヨーゼフはタラップを降りた。数歩進んだところで、カリンが呼び止める。
「ねえ」
ヨーゼフが振り返った。
「あんた、本当に皇帝なの?」
ポプランも少し離れたところから見ていた。ヨーゼフはすぐには答えなかった。港の向こうでは貨物艇が離陸し、作業員が次の船へ誘導灯を振っている。誰も彼を見ていなかった。やがてヨーゼフは言った。
「だった」
それだけ答え、医療職員のあとを歩いていった。
***
【新帝国暦二十四年四月 ハイネセン宇宙港 保安区画】
医療区画から戻されたとき、ヨーゼフは何度か右手を開いては閉じた。救難艇の機関区画に置いてきた工具箱がないのが、思いのほか落ち着かなかった。椅子へ座ると、壁際の時計を一度見た。
向かいにいる男は、ムライと名乗った。内務局長だという。ヨーゼフにはその肩書きがバーラトでどの程度のものか分からなかったが、部屋の外に立つ職員たちの様子を見れば、少なくとも事情聴取のためだけに毎回出てくる男ではないことは分かった。
もう一人、窓際に細身の男がいた。名はバグダッシュ。保安局次長だという。
「では、最初から確認します」
ムライが記録端末を開いた。
「あなたの氏名は?」
「ヨーゼフ・ベルガーだ」
端末へ入力される。
「年齢は?」
「三十一」
ムライはそれを記録すると、生年月日についても訊いた。そこでは少し間があった。
「……登録してある日でいいか」
「構いません」
ヨーゼフは登録上の生年月日を答えた。
ムライは確認を一つずつ進めた。現在の職業、直近の勤務先、教国を出た時期、使用した作業艇の船籍。ヨーゼフが分からないと言ったものについては、それ以上押さず、記録欄へそのまま不明と入れていく。それが十数分続いたあと、質問が止まった。
「次は、本人性確認のための質問です」
ムライは端末から目を上げた。
「現在の氏名ではなく、出生時の氏名を確認します」
ヨーゼフは記録端末から目を逸らした。
「必要か?」
「必要です」
「さっき船の中で言った」
「救難艇上での発言は記録されています。しかし、あれは緊急状況下の申告です。ここでは改めて、あなた自身に確認します」
窓際のバグダッシュは口を挟まなかった。ヨーゼフはしばらく黙った。
「……エルウィン・ヨーゼフ・フォン・ゴールデンバウム」
ムライの表情は変わらない。
「二世、ですか?」
もう一度、沈黙があった。
「ああ」
ムライはそれも記録した。
「分かりました。では、その名前を最後に公的に使用した時期について――」
「覚えてない」
答えは早かった。ムライは質問を止めた。
ヨーゼフは椅子の背へ身体を預けた。目を閉じたわけではない。正面の壁を見たまま、しばらく黙っていた。
やがて、昔のことを話し始めた。
***
今から二十二年前、彼はまだ、その名前しか持っていなかった。
***
【新帝国暦二年三月 旧自由惑星同盟領某辺境星系】
最初に腹が減ったのがいつだったか、後になってもヨーゼフには思い出せなかった。
逃げ出してから一日だったのか、二日だったのかも曖昧だった。眠った場所も一つではない。倉庫の裏、荷役用車両の陰、使われなくなった連絡通路。人の姿が見えれば隠れ、制服を着た者が通れば反対へ歩いた。
誰かが追ってくると思っていた。ランズベルクかもしれない。シューマッハかもしれない。あるいは、彼らがいつも口にしていた「忠臣」とか「正統な臣下」とかいう者たちかもしれなかった。
だが、誰も来なかった。
三日目だったと思う。宇宙港の下層区画で、食べ物を並べた小さな店を見つけた。ヨーゼフは店先を二度通りすぎ、三度目にパンを一つ取った。走った。
十メートルも行かないうちに捕まった。店主は大柄な女だった。襟の後ろを掴まれ、そのまま床へ引き戻される。
「放せ!」
暴れると、女は余計に強く掴んだ。
「食べたいなら食べたいって言いなさい。盗るんじゃないよ」
「無礼者!余を誰だと思っている!」
女の手が止まった。近くにいた客が振り返る。ヨーゼフはそれを、自分の言葉がようやく通じたのだと思った。
「余は銀河帝国第三十七代皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世であるぞ。今すぐ手を放せ。さもなくば――」
店の奥で笑い声がした。ヨーゼフは言葉を失った。笑ったのは作業服の男だった。食事の途中らしく、片手にスプーンを持っている。
「皇帝陛下だとよ」
「笑うな!」
「これは失礼。で、陛下はお代をお持ちあそばすのかね」
「そのようなものは家臣が――」
また笑いが起きた。今度は一人ではなかった。ヨーゼフは店主の腕へ噛みつこうとした。避けられ、頭を押さえられる。
「暴れるんじゃないよ」
「大逆だ!衛兵、出会え!」
「まったく、元気な皇帝陛下だねえ」
誰も跪かなかった。
衛兵も来ない。侍従もいない。命令を復唱する者も、彼を抱えて別室へ運ぶ者もいなかった。
ただ、何人かの大人が、汚れた服を着た子供を見ていた。やがて誰かが、笑うのをやめた。
「その子、戦災孤児じゃないのか?」
「たぶんな。かわいそうに、少し頭をやられてるのかもしれん」
「この前もいたろ?自分は貴族の跡取りだって言い張ってた子」
「ああ。あの子も、家族がみんな死んでた」
「役所へ連れていった方がいいんじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、ヨーゼフは店主の腕から身を捩った。役所。それが何であれ、誰かへ引き渡される場所だということだけは分かった。
彼は女の脛を蹴った。手が緩んだ隙に走った。後ろから怒鳴り声が聞こえたが、振り返らなかった。
***
その日の夕方、ヨーゼフは港の機関区画に入り込んだ。
扉が開いていたからではない。整備員が資材を運び出す間に、その後ろから潜り込んだのである。暖かく、油と金属の匂いがした。音が大きいので、自分の呼吸も外からは聞こえないと思った。
大型の補助発電機の裏に身体を押し込み、そこでようやく座った。昼に盗んだパンは、結局食べられなかった。腹が鳴った。
「出てこい」
ヨーゼフは動かなかった。
「聞こえてるぞ。三番機の裏だ」
男の声だった。しばらくして、作業灯の光が床を這ってきた。
「出てこないなら、こっちから引っ張る」
「近づくな」
「じゃあ出てこい」
「余に命令するな!」
作業灯が止まり、男はすぐには答えなかった。やがて声がした。
「分かった。命令はしない。ただ、お前がそこにいると機械を回せない」
ヨーゼフは返事をしなかった。
「回したら死ぬぞ、お前」
少し考えてから、這い出した。目の前にいたのは、四十をいくらか越えた男だった。大柄ではなく、作業服も新しくない。片方の袖を肘までまくり、手の甲には細かな傷がいくつもあった。男は、這い出してきたヨーゼフを上から下まで見た。
「腹減ってるか」
「減っていない」
その瞬間、腹が鳴った。男は笑わなかった。
「そうか」
工具箱を閉じ、立ち上がる。
「じゃあ、飯はいらんな」
歩き出した。ヨーゼフはその背中を見た。五歩、十歩と離れていっても、男は振り返らなかった。
「待て」
男が止まった。
「何だ」
「……食べてもよい」
「そうか」
それだけ言って、また歩き始める。ヨーゼフはついていった。食堂ではなく、機関区画の隅にある小さな休憩室だった。男は保温容器から煮込み料理を二人分に分け、片方をヨーゼフの前へ置いた。
「食え」
「……命令するなと言った」
男は自分の皿を引き寄せた。
「なら食うな」
ヨーゼフは男を睨んだ。男は気にせず食べ始めた。一分ほどして、ヨーゼフもスプーンを取った。
食べ終わるまで、男は名前を訊かなかった。皿が空になってから、ようやく言った。
「俺はベルガーだ」
ヨーゼフは黙っていた。
「お前の名は?」
答える必要があるのか考えた。だが、ほかに名前はなかった。
「エルウィン・ヨーゼフ・フォン・ゴールデンバウムである」
ベルガーは水を飲んだ。
「長いな」
「……銀河帝国第三十七代皇帝である」
「そうか」
それ以上、何も言わなかった。笑いもしなかった。信じたようにも見えなかった。ヨーゼフには、そのどちらの方が腹立たしいのか分からなかった。
***
「現在のベルガーという姓は、いま話した人物のものですか」
膝の上で組んでいた手をほどき、椅子へ座り直す。
「ああ」
「養父、という理解でいいでしょうか」
ヨーゼフは眉を寄せた。
「知らん」
ムライの手が止まった。
「分からない、という意味ですか」
ヨーゼフはそういう手続きをしたのかどうかは知らないし、少なくとも自分が何かに署名した覚えはないと答えた。
窓際のバグダッシュが言った。
「当時九歳なら、当然でありましょう」
「だから知らんと言ってる」
「なるほど」
バグダッシュはそれ以上続けず、ムライも記録欄へ何かを入力した。
「では、ベルガー氏と生活するようになった経緯を、分かる範囲でお願いします」
ヨーゼフは少し考えた。
「経緯なんかない。あの日、一緒に飯を食った」
それで終わり、と言いたげだったので、ムライも急かさなかった。しばらくしてから、ヨーゼフの方がもう一言だけ付け加えた。
「次の日もいた。それだけだ」
***
翌朝、ヨーゼフが目を覚ましたのは機関区画の休憩室だった。寝台ではなく、壁際に置かれた長椅子の上で、薄い毛布が一枚かかっている。いつ掛けられたのかは分からなかった。
ベルガーはすでに仕事をしていた。休憩室を出ると機関区画の奥から工具の音がする。ヨーゼフはしばらく入口に立っていたが、誰もこちらを見ないので、自分から近づいた。
「おい」
ベルガーは振り向かなかった。
「起きたか」
「なぜ余を起こさなかった」
「寝てたからだ」
「余には予定がある」
「何の」
答えられなかった。
ベルガーは機械の下へ潜り込んだまま片手だけを出した。
「そこに十三のレンチがある。取れ」
「余に命令するな」
手が引っ込んだ。
「じゃあいい」
ベルガーは自分で這い出し、工具箱まで歩いてレンチを取った。それだけだった。怒鳴られもしなければ、叩かれもしない。頼みを断ったので、自分で取りに行っただけである。
ヨーゼフはその後ろ姿を見ていた。そのことが妙に気になった。
昼になると、ベルガーは昨日と同じ休憩室へ戻り、保温容器から自分の分を皿へ移したあと、もう一枚にも同じ量をよそった。ヨーゼフは何も言わずに座る。
「今日は命令しないぞ。好きにしろ」
ヨーゼフは皿を自分の方へ寄せた。三日目には、機関区画の隅に簡易寝台が置かれていた。四日目には着替えが一組増えた。五日目、ヨーゼフが工具箱を勝手に開け、中身を床へ散らかしたとき、初めてベルガーは怒鳴った。
「使ったら戻せ!」
「余の物だ!」
「俺の工具だ!」
「ここにある物は皆――」
そこまで言って、ヨーゼフは止まった。何の物なのか、自分でも分からなかった。宮殿にあった物ならすべて皇帝の物だった。艦にあった物も、臣下も、軍隊も、帝国そのものも、自分のものだと教えられてきた。
だが、ここにある工具はベルガーのものだった。ベルガーは床に散らばった工具を指した。
「拾え」
「命令するな」
「じゃあ頼む。拾って元へ戻してくれ」
二人はしばらく睨み合ったが、先に目を逸らしたのはヨーゼフだった。一つ拾ってみたものの、どこへ戻すのか分からない。
「これはどこだ」
「右から三番目」
ヨーゼフはそこへ戻し、二つ目を拾った。それから、結局すべて元へ戻した。
次の日もベルガーはいた。皿を割った日も、作業員へ工具を投げつけかけて取り上げられ、一日口を利かなかった日もいた。
夜中に目を覚まし、扉が開かないと思って椅子で窓を割ろうとした日には、さすがに頬を一度叩かれた。ヨーゼフは殴り返し、ベルガーの唇を切った。
翌朝、目を覚ますと、ベルガーはいつものように機関区画にいた。唇には小さな傷が残っていたが、ヨーゼフを見ると言ったのは一言だけだった。
「起きたか」
ヨーゼフは何も言えなかった。その日の昼も、いつもの場所に皿が二枚あった。
***
最初に役所へ連れていかれたとき、ヨーゼフは逃げた。本当に走って逃げたので、ベルガーは港の荷役区画を二十分ほど追いかけることになった。捕まったのは、ヨーゼフの方が先に息を切らしたからだった。
「役所には行かない!」
「行かないと困る」
「はなせ!余を誰かに渡すつもりだろう!」
「誰にだ?」
「知らん!」
「俺も知らん」
ベルガーは膝へ手をつき、しばらく息を整えてから説明した。登録がなければ飯の配給も診療所も使えない。学校は嫌なら後で考えればいいが、まず名前を帳簿に載せなければ生活そのものが続かない。
「載せるな」
「じゃあ病気になっても自分で治せ」
「治せる」
「熱が四十度あっても?」
「治せる!」
「そうか。じゃあ俺は帰る」
ベルガーは立ち上がり、本当に歩き始めた。ヨーゼフはその背中を睨んでいたが、十歩ほど離れたところで、結局あとを追った。
役所は港湾居住者向けの小さな窓口だった。壁には戦災、避難、記録焼失の場合の申告手順が貼られている。ヨーゼフと同じくらいの子供を連れた大人も何人かいて、出生証明を持っていない者は珍しくないらしかった。担当者はベルガーから事情を聞いた。
「親族は?」
「知らん」
「出生地」
ベルガーがヨーゼフを見る。ヨーゼフは答えなかった。
「本人は、エルウィン・ヨーゼフ二世と名乗ってる」
担当者が端末から顔を上げた。
「二世?」
「皇帝陛下らしい」
ヨーゼフが椅子を蹴った。
「らしいではない!」
窓口の向こうの職員が一瞬固まり、隣の席の女が吹き出しそうになって俯いた。ベルガーはヨーゼフの肩を押さえた。
「暴れるな」
「笑ったぞ!」
「笑わせとけ」
「処罰しろ!」
「俺にそんな権限はない」
担当者は困った顔で端末を見た。
「名前はヨーゼフで登録できます。ただ、姓が必要です」
「決まっておろう。『ゴールデンバウム』だ。『フォン』も忘れるなよ」
担当者の手が止まった。
「その姓は登録できません」
「何?」
「ゴールデンバウムは登録禁止姓です。本人確認の問題ではありません」
ヨーゼフは目を見開いた。
「余の家名だぞ!」
「そう申告されても、規則は同じです」
「無礼者!」
ベルガーが口を挟んだ。
「じゃあ、仮登録ならどうなる」
「正式な姓が決まるまでは、身元保証人と同じ姓を暫定的に使うことができます」
ベルガーは少し考えた。
「なら、俺のでいい」
ヨーゼフが振り向く。
「勝手に決めるな!」
「嫌なら別のを考えろ」
「……正式な姓は、今日決めなくてもいいんだな」
ベルガーは向き直って担当者へ言った。
「はい。ただし、それまでは仮登録上、身元保証人の姓を使用していただきます」
「余は認めぬぞ」
担当者は困ったようにヨーゼフを見た。
「正式な姓が決まれば変更できます」
ヨーゼフは不満そうに黙り込んだ。ベルガーはそれ以上何も言わず、身元保証人の欄へ署名した。
その日は仮登録で帰った。
翌日、ヨーゼフは役所へ行かなかった。その次の日も行かなかった。別の姓を考えろと言われても、考える気にはならなかった。自分にはすでにゴールデンバウムという姓がある。それを使えないと言っているのは、向こうの都合だった。
一週間ほどして、診療所から登録情報の確認通知が届いた。ベルガーが机の端末に表示したまま仕事へ出たので、ヨーゼフは勝手に通知を開いた。
氏名欄には、「ヨーゼフ・ベルガー」と表示されていた。
しばらく、その文字を見ていた。
自分の名前ではないと思った。役所が勝手に付けた仮の名だ。
皇帝である自分を、どこの誰とも知れない機関士と同じ姓にした名前だった。通知を削除してしまおうかと一度は思った。
だが、その名に紐づいた認証情報がなければ、診療所で薬を受け取れないことを、ヨーゼフはもう知っていた。食堂の配給記録にも、作業区画への出入りの仮証にも、同じ名前が使われていた。
ベルガーが帰ってきても、ヨーゼフは何も言わなかった。
ベルガーの方も、名前については何も訊かなかった。
翌日も訂正しに行かなかった。
それから、「ヨーゼフ・ベルガー」と呼ばれる場所が少しずつ増えた。港の食堂でも、診療所でも、臨時学級でも、工具屋でも、その名前を呼ぶ者は誰も皇帝のことなど考えていなかった。呼ばれた者が返事をすれば、それで次の用事が進んだ。
最初のうちは、呼ばれても振り向かなかった。
二度呼ばれると振り向いた。
そのうち、一度で振り向くようになった。