【新帝国暦二年後半 旧自由惑星同盟領辺境】
食堂の壁面にニュースが流れていた。ヨーゼフはベルガーの向かいで焼いた肉を切っていた。ナイフの使い方が悪いと言われなくなって、まだそれほど経っていないころだった。画面が切り替わる。
手が止まった。写真の中に、自分がいた。宮廷服を着て、髪を整えられ、椅子へ座らされている。自分の顔なのに、ずいぶん幼く見えた。
字幕が出た。
――旧銀河帝国皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世の遺体を発見。
ヨーゼフは、書かれている意味を理解するまでしばらく画面を見ていた。
「嘘だ!」
ベルガーが顔を上げる。
「余はここにいる!」
声が思ったより大きくなり、近くの卓にいた者が振り返った。
「嘘だ! 勝手に殺すな!」
ベルガーは何も言わない。画面ではニュースが続いていた。遺体の発見場所、身元確認の経緯、埋葬について。どれもヨーゼフの知らないところで決まり、ヨーゼフの知らない自分が死んでいく。食堂の男が一人、画面を見上げた。
「結局、死んでたのか」
「まだ子供だったんだろ」
別の者が言った。
「可哀想にな。大人のおもちゃにされただけじゃないか」
ヨーゼフは立ち上がりかけた。無礼者、と言おうとした。処罰する、と言おうとした。
だが、その男は自分を見てもいなかった。誰も見ていない。画面の中のエルウィン・ヨーゼフ二世について話しているだけだった。ヨーゼフはゆっくり座り直した。
「……消せ」
ベルガーが壁面端末へ手を伸ばし、音を落とす。映像だけが残った。
「消せと言った」
今度は画面そのものが消え、食堂には食器の音と話し声が戻った。それがヨーゼフには奇妙だった。
皇帝が死んだ。それなのに隣の卓では誰かが明日の荷役について話し、厨房からは次の皿が出てくる。窓の外では船が着き、別の船が出ていく。
何も止まらなかった。
ヨーゼフは皿を見た。肉が冷めている。
「余は……」
そこまで言って、続かなかった。ベルガーは待っていた。
余は皇帝である。
何度も言ってきた言葉だった。殴られそうになったときも、どこかへ連れていかれそうになったときも、腹が減ってどうしようもないときでさえ、それを言えば、自分が誰なのかだけは失わずに済んだ。だがいま画面の中では、その皇帝が死んでいた。そして自分はここにいる。
どちらが間違っているのか、ヨーゼフには分からなかった。その夜は眠れなかった。
誰かが来ると思った。死亡報道が間違いだと気づいた者が来る。兵士が来る。ランズベルクが来る。あるいは、皇帝を探していた誰かが扉を叩く。
朝まで何度も廊下の音を聞いた。誰も来なかった。翌朝、機関区画へ行くと、ベルガーはいつもの場所にいた。
「十三のレンチ取ってくれ」
ヨーゼフは立ち止まった。ベルガーは機械の下へ潜ったまま、手だけを出している。昨日、皇帝が死んだ。今日も、この男はいる。
ヨーゼフは工具箱を開いた。十三のレンチはもう分かる。
「これか」
「それだ」
手渡すと、ベルガーはそのまま作業を続けた。世界は何も変わらなかった。
それからもしばらく、「余」は消えなかった。腹を立てれば出た。怖くなれば出た。誰かに強く命じられると、喉まで上がってくることもあった。
けれど、使わない日が少しずつ増えた。ある日、港の部品屋で伝票を渡され、名前を書くよう言われた。
ヨーゼフはペンを持った。一度だけ止まってから、「ヨーゼフ・ベルガー」と書いた。誰にも言われなかった。書いた文字を、自分でもしばらく見ていた。店員は何も気にせず伝票を受け取り、
「はい、ベルガーさん。次」
と言った。それだけだった。ヨーゼフは店を出た。訂正しなかった。
***
機械を触らせてもらえるようになるまでには、もう少しかかった。
最初に任されたのは掃除だった。油を拭き、外した部品を番号順に並べ、使い終えた工具を元へ戻す。
ヨーゼフはそんなことは誰にでもできると言ったが、ベルガーが答えた。
「誰にでもできることを間違えずにやれない奴には、その先は触らせない」
それが気に入らなかった。
ある日、ベルガーが席を外している間に、ヨーゼフは冷却管の継手を勝手に外した。何度も作業を見ていたので、自分にもできると思ったのである。戻すところまではできた。
試運転を始めると、継手から冷却液が細く噴いた。ヨーゼフはしばらくそれを見ていた。ベルガーが戻ってくる前に止めようとしたが、どこを触ればよいのか分からない。結局、非常停止を押した。
ベルガーは戻ってくると、床に広がった冷却液と継手を見て、何が起きたかをすぐ理解した。
「お前がやったな」
ヨーゼフは答えなかった。
「締め方が足りない」
「見れば分かる」
「見て分かるなら、次は漏らすな」
怒鳴られると思っていた。代わりにベルガーは布を一枚投げてよこし、床を拭くよう言った。それから継手を外し、締める位置を指で示した。
「ここから手応えが変わる。力任せにやると今度は潰すぞ」
ヨーゼフは黙って見た。
「やってみろ」
今度は命令するなとは言わなかった。継手を締め、もう一度試運転する。今度は漏れなかった。ベルガーは確認したあと、機械の蓋を閉じた。
「それでいい」
ヨーゼフは少し待った。褒められるのかと思った。何もなかった。
「……それだけか」
「何が」
「余……俺が直した」
ベルガーは首を傾げた。
「お前が壊したんだろ」
ヨーゼフは口を閉じた。ベルガーは工具を片づけながら言った。
「名前で回る機関があるなら、俺にも教えてくれ」
腹が立った。だが、その夜になっても、その言葉は残っていた。
皇帝が締めても、締め方が悪ければ漏れる。ベルガーが締めれば止まる。翌日、港で働いている老人が直しても止まったし、見習いが失敗すればまた漏れた。
***
翌年になってから、エルウィン・ヨーゼフ二世の死亡について、新しい報道が出た。
以前発見された遺体は別人である可能性が高いという。関係者の証言によれば、本人はそれ以前に逃亡しており、その後の所在は確認できていない。
食堂でそのニュースを見たとき、ヨーゼフは何も言わなかった。
ベルガーも黙っていた。死亡の字幕が消え、今度は「消息不明」という文字が画面に出ていた。ヨーゼフは食事を途中でやめた。
その夜は、前のときとは違う理由で眠れなかった。今度こそ誰かが来ると思った。
自分は死んでいなかったことになった。ならば、探す者も出てくる。皇帝を必要とする者も、皇帝を消したい者もいるはずだった。
荷役車が通るたびに目を覚ました。廊下で足音が止まるたび、身体が固くなった。一週間たった。誰も来なかった。
一か月たっても来なかった。ベルガーは朝になれば仕事へ行き、昼になれば二人分の食事を用意した。ヨーゼフは掃除をし、工具を戻し、少しずつ機械を触らせてもらった。歴史の中では、エルウィン・ヨーゼフ二世が再び生きたことになっていた。
港では、ヨーゼフ・ベルガーの仕事が一つずつ増えていった。
***
「誰も気づかなかったのですか?」
バグダッシュが初めて自分から質問した。ハイネセンの保安区画だった。ヨーゼフは視線だけを窓際へ向ける。
「何に、だ」
「あなたが、あなたの言う人物だということにです」
「ああ、気づかなかった」
「顔を知っている者はいたでしょう」
「九歳の顔を二十年以上覚えてる奴が、港に何人いる?」
バグダッシュは反論しなかった。
「それに」
ヨーゼフは、油と火傷の跡が残る自分の手へ目を落とした。
「……誰も、俺を探してなかったからだ」
部屋が少し静かになった。ムライはそこで同情するようなことを言わず、記録端末へ目を戻して確認した。
「ベルガー氏のもとで、機関関係の技能を習得したのですね」
「ああ」
「資格の取得時期は」
「記録が残ってるなら、そっちを見ろ」
「本人の申告と照合します」
ヨーゼフは少し面倒そうに息を吐いたが、覚えている範囲で答えた。そのやり取りを聞いて、バグダッシュがかすかに笑った。
「皇帝陛下も資格試験は受けたわけですか」
ヨーゼフはそちらを見た。
「……落ちたこともある」
今度はバグダッシュが少しだけ驚いた。
「それはぜひ記録に残しましょう」
「残すな」
ムライが端末を確認した。
「……失礼しました。確認したところ、その試験結果はすでに記録に残っていました」
ヨーゼフは初めて、この部屋で少しだけ笑った。
***
年を取るにつれて、ヨーゼフがベルガーへ訊くことは減り、ベルガーから訊かれることが増えた。
「音は」
「まだ高い」
「圧力は」
「上がりすぎてる。二番を開ける」
「先に温度を見ろ」
そんなやり取りを繰り返し、いつの間にか一人で任される仕事が増えた。見習いとして給金が出るようになると、最初の月にほとんど使い切った。
ベルガーは何に使ったのか訊かず、翌月から食費と住居費を先に取り分ける方法だけ教えた。ヨーゼフは気に入らなかったが、三か月目から自分で同じように分けるようになった。
港の外へ仕事に出ることも増えた。
貨物船の補機交換。小型艇の冷却系修理。航路上で動けなくなった船への出張整備。狭い機関区画に潜り込み、作業を終えて出てくれば、依頼主は彼が誰だったかではなく、何時間で直したかを訊いた。
それでよかった。ベルガーが仕事場に来なくなったのは、ヨーゼフが一人で当直を任されるようになってからだった。最初は二、三日休むという話だった。
一週間に延びた。ヨーゼフは仕事帰りにベルガーの部屋へ寄った。途中の売店で果物をいくつか買ったが、病人に何を持っていけばいいのか分からず、結局いちばん値段の高いものを選んだ。
ベルガーは以前より痩せていた。ヨーゼフが紙袋を机へ置くと、中を見て眉を寄せる。
「何だ、これは」
「見れば分かるだろう。果物だ」
「……こんなに要らん」
「遠慮はいらん。食え」
ベルガーが少し笑った。
「命令するな」
ヨーゼフは口を閉じた。自分が昔、何度も言った言葉だった。
「……食べられるなら、食べてくれ。頼む」
「そうする」
ヨーゼフは椅子を引いて座った。少ししてから、ベルガーの顔をもう一度見る。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫に見えるか?」
「俺が見ても分からん。医者は何と言ってる」
ベルガーは曖昧に手を振った。
「年相応にあちこち悪いそうだ」
「そんな説明で分かるか。もっとまともな医者に診せろ」
「診てもらってる」
「ならば……」
ヨーゼフは一度言葉を切った。
「宮廷医師に診せる」
ベルガーが顔を上げた。
数秒、二人とも黙った。
「どこの宮廷だ」
ヨーゼフは答えなかった。
ベルガーは小さく息を吐いた。
「余計なことはするな。医者にはちゃんと診てもらってる」
「余計かどうかは俺が決める」
「病人は俺だ」
それには言い返せなかった。
ベルガーは紙袋から果物を一つ取り出し、しばらく眺めた。
「高かっただろ、これ」
「知らん」
「値札、ついてるぞ」
ヨーゼフは黙って一つ一つ値札を剥がした。
ベルガーは笑ったが、以前より声が弱かった。
「ヨーゼフ。明日の当直、何時からだ」
「六時だ」
「ならもう帰って寝ろ」
「余計なことを言うな」
「遅刻するぞ」
ヨーゼフは椅子に座ったまま動かなかった。ベルガーも、それ以上は帰れと言わなかった。
ベルガーが死んだのは、その数日後だった。
最後に何を話したのか。誰から連絡を受けたのか。その日のことを、ヨーゼフは後になっても詳しく話さなかった。
ベルガーが仕事場へ戻ってくることはなかった。
しばらくして、仕事場に残っていた私物を整理することになった。工具棚の脇には、ベルガーが長年使っていた工具箱が置かれていた。
ヨーゼフが初めて会った日にも、男が持っていたものだった。何度も修理され、留め金も二度交換されている。
ヨーゼフはその前で足を止めた。
仕事場の責任者が言った。
「ヨーゼフ。それ、お前が使うんだろ?」
遺言に名前が書かれていたわけではない。誰かが正式に形見として渡したわけでもなかった。
ヨーゼフは工具箱を持ち上げた。
「ああ」
それからずっと使っている。
***
ベルガーがいなくなったあとも、朝は来た。
ヨーゼフには翌日の当直があった。修理途中の機関があり、部品の注文があり、約束した船主がいた。
ヨーゼフは働いた。やがて一つの港に留まらなくなった。短期契約で貨物船へ乗り、修理要員として別の星へ行き、仕事が切れればまた別の船を探した。
旧同盟領の辺境では、戦争が終わっても景気のよい場所は多くなかった。人口の減った港もあれば、帝国の再編から外れ、航路そのものが細くなった星系もある。ヨーゼフは仕事のある方へ動いた。
船が動くところへ行き、壊れた物があれば直す。それを十年以上続けた。そのうち彼の仕事先に、黄金の樹を描いた救援船や輸送船が混じるようになった。
最初は一隻だった。
次に別の港でも見た。医薬品を運び、壊れた給水設備の部品を運び、支払いの滞っていた修理代を期限どおり払う者たちだった。
ヨーゼフは彼らの祈りに加わらなかった。向こうも、少なくともそのころは、祈れとは言わなかった。
「機関を見てくれ」
頼まれれば見た。直せば金が出た。それで十分だった。
後に神聖黄金樹教国と呼ばれることになる場所へ、ヨーゼフ・ベルガーが根を下ろしていったのは、そういう仕事の積み重ねからだった。
***
新帝国暦二十三年十二月二十五日。あるいは聖暦二十二年十二月二十五日。
神聖黄金樹教国が建国を宣言したとき、ヨーゼフは仕事場にいた。
港の共同休憩室では、壁面端末に式典の中継が映り、黄金の樹を背にした壇上から少女の声が流れていた。
『我は、母なる地球を見捨てた旧き王朝の血を負う』
周囲の作業員の何人かが手を止めて見ていたが、ヨーゼフは機関部品の検査票から目を上げなかった。
「見ないのか?」
同僚に訊かれた。
「ゴールデンバウムの血を引いてるそうだ。本物かね」
「見たところで、ポンプは直らん」
「新しい国ができたんだぞ」
「知らん。昨日も、ここはここだった」
その答えに、相手は肩をすくめた。
実際、少なくとも最初のうちは、ヨーゼフの日常に大きな変化はなかった。翌日も船は入り、整備依頼は来た。給料も出たし、食料品の値段が急に倍になるようなこともなかった。むしろ便利になったものもある。
別々の救護所が持っていた診療記録が共通化され、港を移っても同じ薬を出してもらえるようになった。
失効していた技能資格についても、昔の勤務先が確認できれば再登録の手続が簡略化された。
遠くの星で消息を絶った親族を探すため、名前や旧住所をまとめて照会できる窓口もできた。
ヨーゼフは信仰に興味を持たなかったが、そういう制度まで嫌う理由はなかった。
「前よりましになったな」
資格証の更新を終えた日、彼がそう言うと、窓口の若い職員は嬉しそうに笑った。
「記録を残しておけば、次にどこへ行っても困りませんから」
ヨーゼフは新しい資格証を財布へ入れた。
***
最初の照会は、何の変哲もないものだった。職場の事務員から、昔の救護記録について確認したい項目があると言われた。幼少期の居住地と当時使っていた氏名についてだった。
「また書くのか」
「聖都中央で記録をまとめてるらしい。昔の仮登録と今の資格記録が別人扱いになってる」
ヨーゼフは書類を見た。現在名の欄には、ヨーゼフ・ベルガー。旧登録名の欄には、ヨーゼフ。その下に、確認中という表示が出ている。
「出生地は不明でいい」
「前の記録もそうなってる」
「なら何を確認する?」
事務員も分からないらしく、肩をすくめた。
「中央へ返すだけだよ」
ヨーゼフは必要最低限だけ記入した。それから一週間ほどして、今度は診療所で昔の傷について訊かれた。
額ではない。幼少期に負った右肩の傷跡だった。普段の診療で問題になるようなものではなく、ヨーゼフ自身も長いこと意識していなかった。
「なぜ今さら訊く」
医療職員は端末を見ながら答えた。
「過去記録との照合です。同じ生年月日で、別の記録が一件あるので」
「別人だろう」
「そうかもしれません。確認だけです」
その場では、それ以上何もなかった。だが翌週、職場の端末へ届いた照会は、もっと古いものについてだった。幼少時に保護された場所。
保護時の推定年齢。本人が当時名乗っていた名前。ヨーゼフは最後の項目を見たまま、しばらく動かなかった。回答欄の横には、照合元の古い記録が一部だけ表示されていた。
――男児。推定八~九歳。
――身元不明。
――本人申告名、エルウィン・ヨーゼフ・フォン・ゴールデンバウム。
――銀河帝国皇帝を自称。
――記録焼失のため確認不能。
ヨーゼフは端末を閉じた。その日の仕事は最後まで終えた。翌日も出勤した。ただ、作業場へ入る前に、非常通路の位置を一度確認した。
***
三日後、知らない男が二人来た。軍人ではなかった。一人は濃い色の服を着た行政官らしい男で、もう一人は聖職者だった。どちらも武器を見せず、港の責任者を通して正式に面会を求めてきた。
ヨーゼフは断った。翌日、二人はまた来たが、今度は港の管理区画にある小さな面談室を用意していた。行政官は扉が閉じるのを確認してから、ヨーゼフへ向き直る。
「ヨーゼフ・ベルガーさん。少しだけお時間をいただけませんか」
「断る」
「ご負担をかけるつもりはありません」
「もうかけている」
聖職者の方が、困ったように笑った。行政官は端末を開いた。
「幼少時、新帝国暦二年三月ごろ、旧同盟領内で保護された記録がありますね」
「知らん」
「当時、エルウィン・ヨーゼフという名を名乗った」
ヨーゼフは答えなかった。行政官はさらに声を落とす。
「その後の照合で、いくつか一致する資料が見つかりました。まだ最終確認の途中ですが、私どもとしては慎重に扱う必要があると考えています」
「なら慎重に放っておけ」
聖職者が口を開いた。
「あなたから、お名前を奪うつもりはありません」
ヨーゼフは初めて、その男を正面から見た。
「何の話だ」
「長いあいだ失われていた真名を、本来の持ち主へお返しするだけです」
ヨーゼフの手がゆっくり握られた。行政官が何か言おうとしたが、それより先に聖職者が続けた。
「……エルウィン・ヨーゼフ二世陛下」
閉じた部屋の中で、その呼び方だけが妙にはっきり聞こえた。二十年以上、誰も使わなかった名だった。
「その名で呼ぶな」
声は思ったより静かだった。聖職者は表情を崩さない。
「ご不快でしたら、いまは控えます。ただ、これはあなたから奪われたお名前です。お返しします」
「要らん」
「突然のことで混乱しておられるのでしょう。もう一度言います。あなたの名前を、お返しします、エルウィン・ヨーゼフ二世陛下」
ヨーゼフは椅子の背に置いていた工具箱を取った。
「……最初は名前だ。次は、どこでどう生きるかまで他人が勝手に決める」
二人は黙った。ヨーゼフは工具箱を持ち上げた。
「そういうのは、もういい」
***
その夜、ヨーゼフは荷物をまとめた。多くはなかった。
着替えが二組。資格証。少しの現金。携帯端末。それらを鞄へ詰めた。
ベルガーの工具箱は、鞄の横へ置いた。逃げると決めたわけではない、と自分では思っていた。しばらく別の港へ移るだけだ。中央の照合が終わるまで距離を置けばいい。仕事なら他にもある。
翌朝、ヨーゼフは鞄を肩に掛け、工具箱を持って仕事へ出た。港の出入口では身分確認が増えていた。昼には、職場の責任者から連絡が来た。
「中央から、お前を長期休暇扱いにしろって言ってきた」
「誰がだ?」
「分からん。上からだ」
「理由は」
「保護の必要、としか書いてない」
ヨーゼフは通信を切った。午後、宿舎の前に見慣れない車両が一台止まっていた。そこまで見て、考えるのをやめた。
九歳のときとは違う。いまは金がある。資格がある。船を知っている。自分が日常の仕事に使っている古い作業艇もあった。
右側の補助推進器に不調を抱えていたが、主機は動く。長く乗ってきた分だけ癖も分かっている。何より、行く先を自分で選べる。
ヨーゼフは宿舎へ戻らなかった。
宇宙港へ向かう途中で、二人の女に声をかけられた。
顔だけは知っていた。港に近い診療所で何度か見かけたことがある。
色の薄い金髪の女はひどく痩せていた。頬は落ち、肌にはほとんど血の気がない。肩や手首の細さが目につき、少し歩いただけでも、ときどき足を止めて息を整えていた。医者でなくても、長く病んでいることと、その身体にもうあまり無理が利かないことくらいは分かった。
その傍らには、年配の女が付き添っていた。金髪の女が歩調を落とすたび、さりげなく半歩近づいて、いつでも支えられる位置を取っている。
金髪の女が一度息を整えてから訊いた。
「どこへ行くの?」
ヨーゼフは足を止めなかった。
「あんたらに関係ないだろう」
「ええ。どこへ行くかは訊かないわ」
女は少し間を置いた。
「あなた、ここに戻りたくないのね」
ヨーゼフはそこで立ち止まった。
「……ああ」
女は頷いた。
「それなら、正面から港へ入らない方がいいわ。この先であなたを見張っている人たちがいるから」
ヨーゼフが振り返る。
「俺が誰か知ってるのか?」
「知らないわ」
返事は早かった。
「でも、あなたを見張っている人がいることは分かる」
付き添いの女が周囲を見てから言った。
「こちらへ」
二人はヨーゼフを連れて、大通りをそのまま宇宙港の西側へ歩いた。正面には主出入口の灯が見えていたが、その手前で付き添いの女が細い脇道へ入る。
古い建物の間を百メートルほど進むと石壁に埋め込まれた保守扉があった。港の旧整備区画へ通じる入口だった。
「正面の確認所を通らずに、宇宙港外周の係留区へ出られます」
付き添いの女が扉脇の古い保守端末を操作した。閉鎖表示は消えなかったが、低い作動音のあとに錠だけが外れた。
「どうしてそんなことを知っている?」
「長く住んでおりますので」
それ以上は説明しなかった。
ヨーゼフは開いた扉の向こうを見た。古い整備路は宇宙港の外周道路へ抜けており、その先には係留区の灯が見えている。作業艇を飛ばせば、いずれ管制には見つかるだろう。それでも、地上の主出入口で身元を照合されることだけは避けられる。
ヨーゼフは二人へ目を戻した。
「なぜ俺を助ける」
金髪の女は少し考えた。
「あなたが戻りたくないと言ったからよ」
それだけだった。
ヨーゼフは保守扉を抜けた。
その先は、港の外周を走る広い道だった。日はほとんど落ちていた。道沿いの街灯が一つずつ灯り、昼間の雨を残した石畳に淡い光を落としている。
遠くには何本もの港湾クレーンが夕闇の中に影を伸ばし、その向こうには係留された大型船の船体が並んでいた。航路標識の灯が高いところで瞬き、発着区画から低い機関音が響いている。
ヨーゼフは工具箱を持ち直した。
背後では、二人の女が保守扉の前に残っていた。金髪の女は街灯の下に立ち、白髪の混じった女が半歩後ろにつく。ここまで歩いてきただけで、金髪の女の呼吸はまた少し乱れていた。
付き添いの女が言った。
「この道をまっすぐです。次の分岐を左へ行けば係留区に出ます」
ヨーゼフは短く頷いた。
「助かった」
金髪の女は何も答えなかった。ただ、これからヨーゼフが歩いていく道を一度見て、それから彼へ視線を戻した。
ヨーゼフは背を向けた。
濡れた石畳を宇宙港の灯へ向かって歩いていく。右手には工具箱があった。遠くでは係留艦の灯が並び、港湾クレーンの骨組みが夕空を横切っている。
振り返らなかった。
背後で、付き添いの女の声がした。
「エルフリーデ様、もうお戻りください。これ以上はお身体に障ります」
ヨーゼフは足を止めなかった。
エルフリーデ。その名だけが、しばらく耳に残った。
***
作業艇は外周の係留区にあった。
ヨーゼフは通常の船舶認証で機関を起動し、整備区画から交通圏へ出た。船が動き始めれば記録は残る。そこから先まで隠れられるとは思っていなかった。
港の交通圏を抜けると、船籍の自動識別応答を切った。
一時間後、後方に教国治安部隊の航路警備艇が現れた。呼びかけには応じなかった。
二時間後になっても、その一隻は離れなかった。
ヨーゼフは最短航路を使わず、貨物船の多い区間を選び、古い中継路へ入って追跡艇との距離を少しずつ広げた。廃棄された中継ブイの列を擦り抜けるとき、左舷を一度、長く擦った。それでも完全には振り切れない。
やがて、通信が入った。
『ヨーゼフ・ベルガー氏。停船してください。あなたの安全を確保します』
ヨーゼフは切った。少しして別の声が入る。
『エルウィン・ヨーゼフ陛下。いまは錯乱しておられます。落ち着く
今度は通信機そのものを切った。右側の補助推進器が最初に止まった。予想していた故障だった。
問題は、その一時間後に主機温度まで上がり始めたことだった。追跡を避けるため予定以上の出力を使い続けたせいで、冷却系が限界へ近づいている。ヨーゼフは一度だけ航路図を開いた。ここから最も近い教国側の港へ戻れば、機関は持つ。
だが、戻る気はなかった。別の表示を呼び出した。ハイネセン側の救難責任区まで、まだ距離がある。
バーラト自治政府領へ亡命するつもりではなかった。政治的な保護を求める方法も知らなかった。ただ、船乗りなら知っていることが一つあった。
救難責任区まで出て救難信号を発すれば、少なくとも誰かが聞く。教国の港へ戻るより、それでいい。ヨーゼフは主機出力を落とし、冷却系の残り時間を計算した。届くかどうかは、半分ほどだった。
「半分なら、足りる」
ベルガーなら、そんな計算で船を出すなと言っただろう。ヨーゼフは少し笑った。そのあと、主機が一度失火して船体が大きく揺れ、額を計器盤の角に打ちつけた。警報が鳴った。
***
最初の救難信号には応答がなかった。二度目も同じだった。三度目を送る前に、ヨーゼフは出力をさらに落とした。右側の補助推進器は完全に死んでおり、左側だけで姿勢を保っている。
追跡艇の光点はまだ後ろにあった。距離は縮まっている。ヨーゼフは送信帯域を広げ、もう一度救難信号を出した。
雑音。しばらくして、返事があった。
『こちらハイネセン救難責任区、救難訓練艇。応答されたし』
ヨーゼフは目を閉じた。一秒だけだった。通信機を取る。
「こちらベルガー。聞こえるか」
***
ムライが端末を閉じる音で、ヨーゼフは現在へ戻った。保安区画の窓の外には、ハイネセン宇宙港の作業灯が並んでいる。あの救難訓練艇も、どこかの格納区画で接舷部を修理されているはずだった。
「いまのお話と、こちらで確認できた記録には大きな矛盾がありません」
ムライはそう言ったが、断定はしなかった。旧同盟時代の救護記録、仮登録、診療記録、技能資格の履歴。教国側から追跡されていたという事実も含めれば、ヨーゼフの申告を作り話として片づけることは難しくなっている。ただし、帝室関係の記録との最終照合はまだ終わっていなかった。窓際のバグダッシュが端末を回した。
「面白いのは、教国側の態度です。あなたの話では、逃げる前にはまだ『最終確認の途中』だった。ところが出航後、向こうはあなたを『エルウィン・ヨーゼフ陛下』と呼び始めています」
「何が言いたい」
「あなたが逃げようとした時点では、向こうもまだ、あなたがエルウィン・ヨーゼフ二世であったと確信まではしていなかった可能性が高い」
ヨーゼフは少し考えた。
「俺が逃げたから、確信したのか」
「逆もあり得ます。確かめ始めたから、あなたが逃げた」
バグダッシュはそこで話を切った。ムライが続ける。
「どちらにしても、あなたが教国を出る意思を持った時点と、教国側があなたの本人性を確信した時点には、少しずれがあったと考えるのが自然でしょう」
ヨーゼフは窓の外へ目をやった。
「……運がよかっただけか」
「それだけではないでしょう」
バグダッシュが言った。
「作業艇まで、どうやって辿り着いたんです? あなたの話では、その時点で港の出入口は身分確認が強化されていた」
ヨーゼフはしばらく黙っていた。
「古い整備路を使った」
「そんな道を知っていたのですか?」
「いや。教えられた」
バグダッシュの目が少し細くなった。
「誰に」
「……女が二人いた。片方は病人だった。もう一人が付き添ってた」
「知り合いですか?」
「違う」
「名前は?」
「知らん。病人の方を、付き添いが一度だけ呼んだ」
「何と?」
「……『エルフリーデ様』、と呼んでいた」
バグダッシュは端末へ何かを入力した。
「その人たちは、なぜ、あなたを助けたんです」
「俺がもう戻りたくないと言ったからだ」
「それだけ?」
「本人はそう言っていた」
ムライが端末から顔を上げた。
「その二人が出港に関与した記録を教国側が拾えば、二人は調査の対象になる可能性があります」
ヨーゼフの眉がわずかに動いた。
「まずいのか?」
「現時点では分かりません」
バグダッシュが答えた。
「ただ、向こうがあなたの逃亡経路を洗うなら、その女性二人も無関係では済まないでしょう」
そのとき、部屋の外から職員が入り、暗号通信の到着を告げた。送信元は神聖黄金樹教国だった。
***
通信は音声だけだった。教国側の話者は名乗らず、最初に、今回の接舷行為によってバーラト側へ負傷者が出たことへの遺憾を述べた。そのうえで、現在バーラト自治政府が保護している人物について、神聖黄金樹教国として正式な身柄引渡しを求めると告げた。呼び方は一貫していた。
エルウィン・ヨーゼフ二世陛下。
ヨーゼフは別室で通信を聞いていた。教国側には、本人が同席していることを知らせていない。
『当該人物は長期にわたり重大な心理的負荷の下にあり、自身の旧身元を否認しながら生活してきた可能性があります。旧身元が判明しつつある状況で行った意思表示のみをもって、恒久的な判断と扱うことは適切ではありません』
ムライが訊いた。
「本人は、教国へ戻る意思を明確に否定しています」
『承知しています』
「では、その意思を無視して移送するのですか」
短い間があった。
『現在の拒否そのものが、当該人物の状態を判断する資料の一つであると考えています』
ヨーゼフの手が膝の上で止まった。ムライは声を変えなかった。
「本人が拒否したことを、本人の拒否を無効とする根拠にする、という理解でよろしいですか」
今度の沈黙は少し長かった。
『そのような単純な整理ではありません。長年にわたって失われていた身元が突然判明した事案です。安全な環境で、専門家による継続的な支援と評価が必要です』
「それをどこで行うかは、本人と協議すべきではありませんか」
『当該人物は長年、現在の当国領域内で生活し、建国後は当国住民として医療、就業、身分上の保護を受けてきました。旧身元が判明した直後の混乱期にある以上、その継続的支援について当国は責任を負います』
ヨーゼフは小さく笑った。
「責任だと?」
誰も答えなかった。
「俺が帰らないと言ってるのに、連れ戻すのが責任か?」
通信はしばらく続いたが、結論は変わらなかった。教国は返還を求め、バーラトは即時の引渡しを拒否した。本人性の確認と、本人自身の意思確認を先に行う。必要なら第三者の医療評価も入れる。それまで強制移送には応じない。帝国政府への身元照会も別経路で開始されていたが、その回答を待つこととヨーゼフの暫定保護は切り分けられた。
通信が終わると、ムライはヨーゼフのいる部屋へ戻った。
「聞いていましたね?」
「ああ」
「念のため、もう一度確認します」
ムライは座った。
「教国へ戻る意思はありますか」
「ない」
返事は早かった。
「では、帝国政府の管轄下へ移ることを希望しますか」
今度はすぐに答えなかった。ヨーゼフは椅子の肘掛けを指先でなぞった。
「帝国へ行けば、どうなる」
「分かりません」
ムライは即答した。
「あなたの本人性が確認されれば、帝国政府が無関心ではいられないでしょう。ただし、どのような法的・政治的扱いになるかを、私は保証できません」
「で、殺されるか、幽閉されるか。どっちだ?」
「それも私が決めることではありません」
ヨーゼフは少し笑った。
「正直だな」
「仕事ですので」
それからムライは、最後の選択肢を口にした。
「あなたは、バーラトに留まりたいですか」
ヨーゼフは黙った。戻りたくない場所なら、いくつもあった。
教国へは戻らない。帝国にも行きたくない。昔の宮廷にも、ランズベルクのもとにも戻りたくない。
だが、どこへ行きたいかと訊かれると、すぐに言葉が出なかった。ベルガーが生きていたころなら、港へ帰ると言えた。いまはその港も遠い。
「分からん」
ムライは待った。
「分からんが」
ヨーゼフは一度言葉を切った。
「ここにいていいなら、俺はここにいたい」
ムライは頷いた。
「分かりました。暫定的な人身保護手続に入ります」
ヨーゼフは顔を上げた。
「……それだけでいいのか?」
「あなたは犯罪者ではありません」
ムライは淡々と言った。
「帝国編入協定と自治政府憲章では、帝国臣民にもバーラト自治政府領への居住移転の自由が保障されています」
ヨーゼフは黙ってムライを見た。
「『ゴールデンバウム朝の皇帝であった者はその自由を制限する』、という条項は協定にも憲章にも一文もありません」
「……本当に、それだけか」
「身元確認と通常の手続は必要です」
ムライは答えた。
「ですが、あなたが誰だったかという理由だけで、
***
二日後、ヨーゼフを医療区画から別棟へ移すという命令書が届いた。書式は正しかった。内務局の承認番号もあり、移送先として記載された医療施設も実在する。迎えに来た車両には医療標識があり、乗っていた三人も医療職員の服を着ていた。
受付の職員が移送処理を始めたところで、そばにいたバグダッシュが訊いた。
「承認番号の照合は?」
「これからです」
職員が番号を端末へ入力した。しばらくして、眉を寄せる。
「……処理済みになっています」
「いつです?」
「昨日です。別件の移送で使われています」
バグダッシュは命令書を受け取った。
「移送先にも確認を」
施設へ直接問い合わせると、ヨーゼフ・ベルガーという患者を受け入れる予定はないという返答があった。
バグダッシュが三人を見る。
「では、どちらへ連れていく予定だったのか、詳しく聞かせてもらおうか」
三人の周囲へ、内務局員が静かに集まった。
抵抗はしなかった。車両を調べると、通常の医療搬送では必要のない拘束具と投薬器が見つかった。積まれていた端末には、途中まで消去された指示文も残っていた。バグダッシュが復元した一節を、ムライはヨーゼフの前で読み上げなかった。
ヨーゼフ自身が見せろと言った。端末を渡され、画面を読む。
――対象者が移送を拒否した場合、その拒否は判断能力低下に伴う抵抗として扱う。
――必要に応じ鎮静処置を実施。
――対象者の身体安全を最優先とする。
最後の一文だけなら、善意にも見えた。
ヨーゼフは端末を返した。
「……昔と変わらないな」
ムライが訊く。
「何がですか?」
「眠らせれば、俺がおとなしくなると思っているところだ」
それ以上の説明はしなかった。ムライは端末を閉じた。
「バーラトでは、本人の意思を置き去りにした命令は執行しません」
ヨーゼフは男の顔を見た。ムライは慰めるような表情をしていなかった。
ただ、自分の所管する場所で何を執行し、何を執行しないか、事実を告げただけだった。
***
事件の記録は評議会へ回された。
公宙上での救難艇への強制接舷。武装要員の乗艇。本人の拒否を無視した引渡要求。さらに、バーラト側で保護された後の偽装移送。
軍備を持つべきだ、という声も出た。それに対して、ヨーゼフ・ベルガーをめぐる今回の一連の事件だけで、安全保障政策を変えるべきではないという反論も出た。教国との外交窓口を閉じれば、現在続いている行方不明者照会や民間人の移動まで止まるという指摘もあった。結論は出なかった。
ただ、記録は残った。
***
ヨーゼフが保護施設の部屋へ移って三日目、ポプランとカリンが面会に来た。
面会の理由として申請されたのは、救難時の遺失物返却だった。
ポプランが机の上へ工具箱を置いた。
ヨーゼフはしばらく見てから、手を伸ばした。
「どこにあった」
「機関区画だ。お前だけ助かって、相棒は置き去りか」
「置き去りにしたんじゃない。あの状況で持って歩けるか」
ポプランは工具箱を見た。
「おい、聞いたか? 本人に悪気はなかったそうだ」
「……誰に言ってる」
「こいつにだよ」
「返せ」
「もう返した」
カリンが横で呆れた顔をした。
「あんたたち、会って一週間も経ってないのによくそんなに喧嘩できるわね」
ヨーゼフは工具箱の留め金を確認した。中身は揃っている。一本だけ、十三のレンチの位置がずれていた。
ヨーゼフはそれを元の位置へ戻した。カリンが訊く。
「で、これからどうするの、ヨーゼフ」
「分からん」
「仕事は?」
「保護中の人間にあると思うか」
ポプランが椅子の背へもたれた。
「じゃあ暇だな」
ヨーゼフが睨む。
「なぜそうなる」
「訓練艇の機関がひどい」
「誰のせいだ」
「前からだ」
「お前が壊したからだろう」
「だから見てくれ」
ヨーゼフは工具箱へ手を置いたまま、ポプランを見た。
「……保護されてる人間に仕事をさせるのか」
ポプランは肩をすくめた。
「嫌なら断れ」
ヨーゼフは返事をしなかった。しばらくして、工具箱を持ち上げた。
「……見せてみろ」
カリンが笑った。ポプランは立ち上がった。
「そうこなくちゃな」
「直すとは言ってない」
「見たら直したくなるさ」
ヨーゼフはポプランを見た。
「ポプラン、お前、一体これまでいくつ機関を壊してきた?」
「壊したんじゃない。使い切っただけだ」
「それを壊したって言うんだ」
カリンが吹き出した。
「そこはたぶん、ヨーゼフが正しいわね」
「二対一は卑怯だぞ」
***
三人が宇宙港へ続く連絡通路を抜けて格納区画へ入ると、訓練艇の脇に男が一人立っていた。
片手に端末を持ち、傷の残る接舷部を眺めている。
男はポプランを見るなり言った。
「よう、ポプラン。救難艇を一隻壊したそうだな」
「会って最初の一言がそれか。壊したのは教国だよ」
ヨーゼフが工具箱を床へ置いた。
「主機を壊したのはこいつだ」
男は端末へ目を落とした。
「なるほど。そこは分けて書こう」
「書くな」
カリンが笑う。
「ダスティ・アッテンボロー。昔は提督、今は記者よ」
「余計な方から紹介するな、カリン」
アッテンボローはヨーゼフを見た。
「で、あんたは結局、何者なんだ?」
ヨーゼフは一瞬だけ黙った。
「ヨーゼフ・ベルガー。機関士だ」