銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

106 / 106
三「アルフレット・フォン・ランズベルク」(新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月)

【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月 教国領(旧自由惑星同盟領辺境)某惑星】

 

午後の返却台には、午前中より本が増えていた。

 

アルフレット・フォン・ランズベルクは端末に返却処理を通しながら、一冊ずつ背表紙を確かめていた。小説、園芸、初等機関工学、旧同盟時代の地方行政史。利用者が返す順番に意味はないから、書架へ戻す前に分類し直さなければならない。

 

薄い詩集を手に取ったところで、カウンターの向こうから声をかけられた。

 

「すみません。これと同じ作者の本、ほかにもありますか?」

 

若い女が、端末に題名を表示していた。

 

ランズベルクは画面を見てから席を立った。

 

「ございます。ただ、その作品だけがお好みでしたら、同じ時期のものより、十二年ほど後の詩集を先にお読みになる方がよろしいかもしれません。作者が一度故郷を離れまして、その後、帰還してから――」

 

女は少し困った顔をした。

 

「ええと、とりあえず一冊だけで」

 

「……承知しました」

 

ランズベルクは書架へ向かい、ほどなく一冊を持って戻ってきた。途中でもう二冊手に取ったが、少し考えて元へ戻した。

 

女は礼を言って貸出端末へ向かった。

隣の席で寄贈資料を整理していた職員が、顔を上げずに言った。

 

「今日は一冊で止まりましたね、アルフレットさん」

 

「ご希望が一冊でしたので」

 

「そう言われて前は五冊、持っていったでしょう?」

 

「関連を理解するには必要でした」

 

「借りる人には必要じゃなかったみたいですけど」

 

ランズベルクは何か答えようとして、やめた。代わりに返却台から次の本を取り、分類番号を確認した。

 

本を戻し、寄贈された郷土史資料の箱を開ける。三世代前の農業組合の会報、廃止された航路の時刻表、町議会の記念冊子。銀河史の本に載るようなものは一つもない。それでも捨てれば二度と戻らないので、日付を確認し、重複を除き、保存するものには番号を付けた。

 

ランズベルクは古びた時刻表を広げた。

 

星系内を行き交う惑星間ローカル便のものだった。欄外に、誰かが鉛筆で遅延を書き込んでいる。七十年以上前の話だった。その便に乗った者も、待っていた者も、おそらくもう多くは生きていない。

 

それでも、便が二時間遅れたことだけは残っていた。

 

「ランズベルクさん」

今度は受付の職員だった。

「お客様です」

 

「私に?」

 

「辺境司牧院の方だそうです」

ランズベルクの手が止まった。

 

図書館へ行政官が訪ねてくること自体は、珍しいことではない。地域資料の照会もあれば、古い行政文書の所在確認を頼まれることもある。しかし受付の職員が差し出した来訪票には、資料照会とは書かれていなかった。

 

〈本人面談〉。

 

その下に自分の名前があった。

 

アルフレット・フォン・ランズベルク。

 

彼は来訪票を見てから、開いていた時刻表を元の位置へ戻した。

 

「どちらに?」

 

「小会議室へご案内しています」

 

「分かりました」

 

席を立ちかけて、机の上の資料箱を見る。

 

「これは、まだ片づけないでいただけますか。戻ってから続けますので」

 

受付の職員は少し笑った。

「誰も取りませんよ」

 

 

箱の上へ作業中の札を置き、ランズベルクは上着を取った。

 

小会議室までは廊下を一つ曲がるだけだった。扉の前に立つと、胸元を一度整える。そういう仕草だけは、長い年月を経てもほとんど変わっていなかった。

 

扉を開けると、中にいた男が立ち上がった。

 

「アルフレット・フォン・ランズベルクさんですね」

 

ランズベルクは軽く一礼した。

 

「はい」

 

 

***

 

 

男は神聖黄金樹教国の辺境司牧院の職員だった。辺境司牧院は、各地の聖堂を通じて、生活支援や配給、診療、家族照会などを担う部署である。

 

名乗ったあと、携えていた端末を卓上へ置き、最初に本人確認を求めた。ランズベルクが身分証を差し出すと、男は表示された情報と顔を見比べ、いくつかの項目を確認していく。

 

途中で、その指が止まった。

神聖黄金樹教国では、移住してきた旧銀河帝国貴族が、かつての爵位を公的な称号として用いることが認められていた。

 

「登録上のお名前は、アルフレット・フォン・ランズベルク。称号はランズベルク伯爵となっています」

 

「はい」

 

「こちらでも、『伯爵』とお呼びした方がよろしいでしょうか」

 

ランズベルクは少し考えた。

 

「アルフレット・フォン・ランズベルクで結構です」

 

「称号はお使いにならない?」

 

「使わないと決めているわけではありません。ただ、普段は名前だけで足りますので」

 

職員はそれ以上訊かず、確認欄へ入力した。

 

ほどなく壁面端末が起動し、別の男が映った。

所属は聖録院だと名乗った。聖録院は、各地に残る記録や名簿を集約し、教国の正統史を管理する部署である。

こちらも挨拶を済ませると、前置きに時間を使わなかった。

 

「ランズベルクさん。二十年以上前の件について、いくつか確認させていただきたいことがあります」

 

ランズベルクの表情がわずかに変わった。

 

「どの件でしょう」

 

聖録院の職員は答える代わりに、一枚の画像を表示した。

 

三十歳前後に見える男だった。

淡い金髪はやや長めで、無造作に分けられている。濃紺の作業上着の袖を肘までまくり、腰には工具を差したポーチを提げていた。作業着にも手にも油汚れが残っている。

 

ランズベルクは黙って画面を見た。

 

「この人物に見覚えはありますか」

 

返事はなかった。

画像を拡大するよう求めると、顔だけが大きくなり、目元や鼻筋、顎の線がはっきりした。

それでも何も言わない。

 

「ランズベルクさん?」

 

「……分かりません」

 

辺境司牧院の職員がわずかに顔を上げた。

聖録院の男は表情を変えなかった。

「まったく見覚えがない、という意味ですか」

 

「いいえ。似ているようにも見えます」

 

「誰に?」

 

間があった。

 

「私が、以前お仕えしていた方です」

 

聖録院の職員はそこで初めて、卓上へ別の資料を呼び出した。

「エルウィン・ヨーゼフ二世陛下、ですね」

 

ランズベルクは頷いた。

「ですが、私が最後に存じ上げている陛下は九歳でした。二十二年が経っています」

 

画面の男を見る。

「成人後の容貌を推定する資料もあります」

 

「推定は推定でしょう」

返答は穏やかだった。

「私は、この方が陛下ではないと申し上げているのではありません。似ているとも思います。ただ、この写真を見ただけで、同じ方ですとは申し上げられません」

 

聖録院の男が少し間を置いた。

「以前の記憶に、何か特徴はありませんか。顔立ち、癖、身体上の特徴でも構いません」

 

「ございます」

ランズベルクは答えた。

「ですが、先に詳しい資料を見てしまうと、どこまでが自分の記憶か分からなくなりそうです」

 

「分かりました」

聖録院の職員は一度資料を閉じた。

男の画像が画面に残った。

 

ランズベルクが口を開いた。

「……この方は今、何をしておられるのですか?」

 

「機関関係の仕事をしています」

 

ランズベルクはわずかに眉を動かした。

「機関士でしょうか?」

 

「はい。ですが、整備業務も含みます」

 

それ以上は訊かなかった。

やがて聖録院の職員が言った。

 

「まず、ランズベルクさんご自身の記憶について確認しましょう。二十二年前、エルウィン・ヨーゼフ二世陛下と最後に生活を共にしていた時期についてです」

 

ランズベルクの視線が、ゆっくり画面から外れた。

卓上には、自分の名前が記された古い記録が開かれていた。

 

「分かりました」

一度だけ、もう一度写真を見る。

「私が覚えていることを、お話しします」

 

 

***

 

 

【新帝国暦三年 旧同盟領 精神医療施設】

 

新帝国暦二年十一月、旧同盟領クラムフォルスで逮捕されたアルフレット・フォン・ランズベルクは、しばらくのあいだ、自分が精神医療施設にいることを正しく理解していなかった。

 

身柄を拘束されているという認識はあった。だが、それが何のためなのか、ランズベルク本人の中では長いあいだ区別がつかなかった。

 

求められれば面談には応じた。

 

卓を挟んで座った治療担当者が、記録を一枚ずつ確認する。名前を訊かれれば答えた。爵位も、銀河帝国正統政府での役職も、フェザーンからの経緯も話した。年月について混乱することはあっても、自分が誰であるかを尋ねられたときの答えだけは一貫していた。

 

問題が生じたのは、エルウィン・ヨーゼフ二世のことを訊かれたときだった。

 

「このご遺体について、もう一度確認させてください」

 

卓上に記録が表示された。

ランズベルクはほとんど見なかった。

 

「陛下のご遺体です、間違いありません。確認は済んでいます」

 

「誰が確認しましたか?」

 

「私です」

 

「どのように?」

 

そこで初めて、ランズベルクは相手を見た。

「私が陛下を見誤るはずがありません」

 

担当者は反論しなかった。

「遺体の身元について、再調査が行われています」

 

「必要ありません」

 

「理由を聞いても?」

 

「陛下だからです」

 

答えは穏やかだった。怒鳴りもしなければ、机を叩きもしない。ただ、惑星が恒星の周りを回っていることを説明するような口調で言った。

 

担当者は画面を切り替えた。

「遺体から確認できた特徴と、残っているエルウィン・ヨーゼフ二世陛下の医療記録には一致しない点があります」

 

「記録の方が間違っているのでしょう」

 

「その可能性も調べています」

 

「調べればよろしい」

 

ランズベルクはそこで話が終わったものと思ったらしく、椅子の背へ身体を戻した。

担当者は別の資料を開いた。

 

「この手記は、あなたがお書きになったものです」

 

ランズベルクの手記だった。

 

少年が衰弱していく様子、言葉を発する回数が減り、最後には眠るように息を引き取るまでが、日付とともに記されている。

ランズベルクは画面へ目を移した。

 

「ええ」

 

「この記録では、あなたは最期までそばにいたことになっています」

 

「実際にいました」

 

「その時期について、別の記録があります」

担当者が一つの文書を表示した。

「レオポルド・シューマッハ氏の供述記録です」

 

ランズベルクの顔から、わずかに表情が消えた。

「シューマッハ卿が?」

 

「この記録では、エルウィン・ヨーゼフ二世は同年三月には、すでにあなたのもとから姿を消していたとされています」

 

「……三月?」

 

「はい」

 

「では、その記録は間違っています」

ランズベルクの返答は先ほどより早かった。

 

担当者は画面を閉じなかった。

「どの部分がですか?」

 

「陛下は……陛下は、私とともにおられました!」

 

「三月以降も?」

 

「当然です!!」

 

「では、この供述は事実ではないと?」

 

ランズベルクは答えようとした。

だが、すぐには声が出なかった。

卓上には彼自身の手記と、シューマッハの供述記録が並んでいた。二つの記録は同時には成立しない。

 

ランズベルクの指先が震え始めた。やがて震えは手首から腕へ広がり、額には細かな汗が浮いた。視線が手記と供述記録のあいだを何度も往復する。まばたきだけが妙に少なくなり、見開かれた目は、どちらか一方に間違いを見つけようとするように文字を追っていた。

 

「……シューマッハ卿が、間違えているのです」

 

声は先ほどまでと違っていた。

ようやく言った。

 

「分かりました」

担当者はそう答えただけだった。

「今日はここまでにしましょう」

 

ランズベルクは不満そうに眉を寄せた。

「何も分かっていないではありませんか」

 

「ええ」

 

その返事が意外だったのか、ランズベルクは相手を見た。

 

「ですから、また確認します」

 

「何をです」

 

「何が記録から確認できるのかを」

 

面談はそこで終わった。

 

 

***

 

 

同じ話をされたのは、それが最後ではなかった。

 

何週間かして、別の記録が出された。遺体の推定年齢、治療歴との不一致、発見場所、死亡時期。そのたびにランズベルクは理由を見つけてそれは誤りだと言った。

 

記録が欠けている。検査が間違っている。戦乱の中で日付がずれた。証言者が混乱している。

 

誤っているものが一つ増えるたびに、正しいものとして残るのはランズベルクの手記だけになった。

 

それでも彼は自分が書いた手記を手放さなかった。

ある日の面談で、担当者が尋ねた。

 

「この文章は、いつ書いたのですか?」

 

「その都度です」

 

「すべて?」

 

「そうです」

 

担当者は数行を示した。

「この日の出来事を裏づける記録が見つかりません」

 

「記録が残らなかったのでしょう」

 

「では、この日は?」

 

「同じです」

 

「その前の日も?」

 

ランズベルクは口を閉じた。

担当者は手記を取り上げなかった。

「これはあなたがお持ちください」

 

「……当然です、私のものですから」

 

ランズベルクは手記を胸元へ引き寄せた。

担当者はもう一つだけ訊いた。

 

「エルウィン・ヨーゼフ二世陛下が、あなたのもとから逃げた可能性については?」

 

ランズベルクは顔を上げた。

「無礼な!陛下は……陛下は、私から逃げてなどおられません!!」

 

「そうですか」

 

「陛下をお守りしていたのは、この私です!!私なんです!!」

 

担当者は何も言わなかった。

 

「私からお逃げになる理由など、何一つありません!!」

 

担当者の沈黙に耐えかねたように、ランズベルクはもう一度言った。

 

「……ありません」

 

担当者はただ、面談記録へ何かを書き込んだ。

ランズベルクは手記を抱えたまま、それを見ていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦八年 旧同盟領辺境 精神医療施設】

 

その手記を最後に開いたのがいつだったか、ランズベルクはもう覚えていなかった。

 

以前は枕元から離そうとしなかった時期もある。表紙の角は擦れ、何度も開いた頁ほど綴じ目が緩んでいたが、ここ数年は一度も開いていなかった。

 

面談室の卓上へ置かれた手記を見て、ランズベルクはすぐには手を伸ばさなかった。

 

向かいに座る担当者は、以前と同じ人物だった。髪に白いものが増えていた。ランズベルク自身も、この部屋へ初めて入ったころより頬が落ち、髪際が少し後退している。

 

「開いても?」

 

「もちろんです」

 

ランズベルクは表紙を開いた。

最初の数頁は早く送った。その先で指が止まり、一か所を読んでいた。

そこには、エルウィン・ヨーゼフ二世が熱を出した夜のことが書かれている。

 

水を欲しがったこと。途中で目を覚ましたこと。ランズベルクが額へ触れたこと。その翌朝には少し熱が下がったこと。細部まで書かれていた。

 

担当者が訊いた。

「憶えていますか?」

 

「はい。この文章を書いたことは」

 

「ここに書かれていることは?」

 

返事までに時間がかかった。

 

「……分かりません」

 

担当者は何も言わなかった。

ランズベルクは頁へ目を戻した。

 

「以前の私は、手記の出来事を憶えていると答えたのでしょうか」

 

「はい」

 

「すべて?」

 

「はい」

 

ランズベルクは次の頁を送った。

少年の食事量が減ったことが記されていた。その次には、夜中に何度も目を覚ましたこと。そのさらに先には、呼びかけても答えなくなった日のことが書かれている。

 

どれも文章としては整っていた。

情景もあった。会話もあった。窓の外の天候まで書かれている。

 

「……よく書けていますね」

 

ランズベルクが言った。

担当者は彼を見た。

 

「そう思いますか」

 

ランズベルクは手記を閉じなかった。

「文章としては」

 

それ以上説明せず、最後に近い頁まで送った。

そこには、少年の死が記されていた。長い文章だった。読み終えるまで、担当者は一度も口を挟まなかった。

 

ランズベルクは頁の下まで来ると、指を止めた。

「……これは、事実ではありません」

 

声は小さかったが、聞き返す必要はなかった。

 

「どの部分がですか?」

 

ランズベルクはもう一度、文章の最初へ視線を戻した。

 

「私は、陛下の最期を見ていません。陛下がこの部屋で亡くなられたこともありません。私が水を差し上げたことも、この夜に熱を測ったことも、ありません」

 

「では、ご遺体については?」

 

ランズベルクの指が手記の端を押さえた。

「陛下のものではありません」

 

「以前は、別のことを仰っていました」

 

「ええ」

否定しなかった。

「以前は、たしかにそう思っていました」

 

担当者は卓上の別の記録を開いた。

以前にも何度も見たものだった。

遺体の推定年齢。医療記録との不一致。発見時期。そして、レオポルド・シューマッハの供述記録。

 

「シューマッハ氏の供述では、エルウィン・ヨーゼフ二世は新帝国暦二年三月には、あなたのもとを離れていたとされています」

 

「はい」

 

「この記録については?」

 

ランズベルクは答えなかった。

窓の外では、施設の中庭を歩く人影が見えた。植え込みの向こうで誰かが立ち止まり、付き添いの職員と話している。

 

「陛下は」

ランズベルクが口を開いた。

声が途中で止まった。

「……三月には、私のもとを離れておられた」

 

担当者は頷かなかった。

否定もしなかった。

 

「確認できる記録からは、そうなります」

ランズベルクは手記を見た。

少年がその後も自分と暮らし、病み、死んだと書かれた年月がそこにある。

その文章を書いたのも自分だった。

 

嘘を書こうとした記憶はなかった。むしろ、一行ずつ真実を書いているつもりだったことだけは覚えている。

 

ランズベルクは言った。

「……私は、いない方のことを書き続けていたのですね」

 

担当者は少し間を置いた。

「その時のあなたが何を経験していたかについては、これまで何度も話しました」

 

「ええ」

 

「ですが、今日はその説明を繰り返す必要はないでしょう」

ランズベルクはかすかに頷いた。

再び手記を閉じた。

今度は胸元へ抱えなかった。卓上に置いたまま、手を離した。

しばらくして、ランズベルクが訊いた。

「その後の記録はないのですか」

 

「エルウィン・ヨーゼフ二世陛下の?」

 

「はい」

 

担当者は答える前に、端末を確認した。

「ありません」

 

「生きているとも、亡くなっているとも?」

 

「確認できません」

 

ランズベルクは目を伏せた。

「……そうですか」

 

担当者が手記を片づけようとして、ランズベルクの方を見る。

 

「手記、お持ちになりますか?」

 

以前なら考えるまでもない問いだった。

ランズベルクは表紙に目を落とした。

 

「いえ、不要です。そちらで保管してください」

 

担当者が手記を受け取った。

ランズベルクは、その手から離れていく本を見送った。

面談が終わりかけたところで、彼はもう一度口を開いた。

「一つ、訂正してもよろしいでしょうか」

 

「何をですか」

 

「先ほど私は、陛下が私のもとを離れた、と言いました」

 

担当者は待った。

 

「それでは、まるで普通に別れたようです」

 

言葉を探した。

 

「陛下は、私に行き先を告げておられません。私が許可したわけでもない。私は、その後ずっと所在を探しました」

 

担当者は何も補わなかった。

ランズベルクは自分で続けた。

 

「……陛下は、私からお逃げになったのですね」

 

部屋の中は静かだった。

担当者は数秒してから答えた。

 

「記録から確認できるのは、そこまでです」

 

ランズベルクは頷いた。

「ええ」

 

それ以上、理由を訊かなかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十年 旧自由惑星同盟領辺境】

 

アルフレット・フォン・ランズベルクが図書館で働き始めた最初の日、渡された仕事は寄贈本の整理だった。

 

五十七箱あった。

 

文学全集、児童書、旅行記、料理本、旧同盟政府が発行した統計年鑑。前の持ち主が本棚ごと処分したらしく、分野も年代もばらばらだった。上司は分類番号の一覧を渡すと、分からないものは勝手に決めずに訊くよう言った。

 

「承知しました」

 

返事だけは立派だった。

昼までに、ランズベルクは三度訊きに行った。

 

一度目は、詩集と随筆集が同じ箱に入っていたためだった。二度目は、著者本人による戦争回想録を文学として扱うべきか歴史資料として扱うべきか迷った。三度目になると、上司は一覧表を脇へ置いた。

 

「ランズベルクさん」

 

「はい」

 

「全部に完全な答えがあると思わないでください」

 

ランズベルクは少し考えた。

 

「しかし、置く場所は一つに決めなければならないでしょう」

 

「だから仮に決めるんです。あとで違うと思ったら直します」

 

「一度決めたものを?」

 

「はい」

 

結局、その回想録は地域資料の棚へ置かれた。

 

 

***

 

 

図書館の仕事には、答えの決まっていないことが思っていた以上に多かった。分類に迷う本もあれば、一度置いた棚から別の場所へ移す資料もある。

 

最初のころ、ランズベルクはそれを不安定だと思った。やがて利用者に本を訊かれても、本人が何を読みたいのか確かめずに棚から選ぶことは減った。子供に作文を見てほしいと言われても、自分ならこう書くと直すのではなく、何を書きたいのか先に訊くようになった。

 

上手になったとは言い難かった。

 

説明は長かったし、勧める本も多かった。

 

それでも、以前よりは自分の意見を述べる前に、他人に訊くようになった。

 

 

***

 

 

門閥貴族だった旧い知人から通信が来たのは、働き始めて何年か経ったころだった。

 

名前を見ても、すぐには顔が浮かばなかった。かつて自由惑星同盟へ亡命したころ、一度ならず席を同じくしたことがある男だった。

 

互いに近況を話したあと、相手は昔の話を始めた。

 

『ランズベルク伯よ。卿は、このままでよいと思っているのか』

 

久しぶりに聞いた呼び方だった。

ランズベルクは訂正しなかった。

 

「何についてでしょう?」

 

『何について?もちろん、ゴールデンバウム王朝についてだ』

 

男の声には、若いころとあまり変わらない熱があった。

『カザリン・ケートヘン一世に罪があるとは言わん。だが、あの即位も退位も、金髪の孺子(こぞう)の権力の下で行われたものだ。エルウィン・ヨーゼフ二世陛下の廃位を、我々が正統なものと認める必要はない』

 

ランズベルクは黙って聞いた。

 

『陛下の消息が分からぬからこそ、残った者が動かなければならない。それが忠義というものだ。卿なら分かるだろう』

 

「陛下のことを忘れてはいません」

 

男の顔がわずかに明るくなった。

 

『では――』

 

「ただ」

ランズベルクが続けた。

「陛下は、それをお望みなのでしょうか」

 

通信の向こうで男が黙った。

 

『何を言っている』

 

「王朝を再興すること、帝位に戻ることです」

 

『陛下がおられないからこそ、我々が――』

 

「ええ。以前、私もそう考えていました」

 

相手はしばらく何も言わなかった。

 

『今は違うと?』

 

ランズベルクはすぐには答えなかった。

窓の外では雨が降っていた。閉館後の図書館には、空調の音と、ときおり返却口へ本が落ちる音だけが聞こえる。

 

「ゴールデンバウム王朝への忠誠を失ったわけではありません」

 

『ならば何が問題なのだ』

 

「陛下が今、何を望んでおられるのかを存じ上げないことです」

 

『だから探すのだろう』

 

「見つけたあとに、陛下のご意思を伺えばよいのではありませんか?」

 

男の眉が寄った。

 

『見つけてからでは遅い』

 

「そうかもしれません」

 

ランズベルクは否定しなかった。

 

「ですが、本人のお考えを知らないまま、その方の名で始めることは、私はもういたしません」

 

言い切ってから、間を置いた。

 

「以前、それをいたしましたので」

 

相手は何か言いかけたが、結局、言葉にはならなかった。

ランズベルクの方から説得するつもりもなかった。

 

「お話しくださって、ありがとうございました」

 

『……ランズベルク伯』

 

「はい」

 

『卿は、ずいぶん変わったな』

 

ランズベルクは少し考えた。

 

「そうでしょうか」

 

本当に分からないような顔だった。

通信はほどなく終わった。

 

 

***

 

 

翌朝、ランズベルクはいつもどおり図書館へ出勤した。

 

前日に返却された本が台車に積まれていた。児童書の棚では番号の札が一枚外れ、地域資料室には、旧同盟時代の港湾組合から新しい寄贈品が届いている。

ランズベルクは上着を掛け、最初の箱を開けた。

中には、数十年前の航路図が入っていた。

端に日付を書き込み、資料番号を付ける。

分からないところは空欄にした。

いまは、それで仕事を進められた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月 教国領(旧自由惑星同盟領辺境)某惑星】

 

壁面端末には、先ほどの男の写真が残っていた。

 

聖録院の職員は、ランズベルクが二十二年前のことを話し終えるまで、途中でほとんど質問を挟まなかった。最後にいくつか年代を確認し、記録を保存すると、今度は別の資料を開いた。

 

「先ほどの人物について、こちらで確認できていることをお話しします」

 

ランズベルクは頷いた。

最初に表示されたのは、旧自由惑星同盟時代の救護記録だった。

二十年以上前、身元不明の男児が保護されている。年齢は九歳ほど。正確な出生地は分からず、本人が名乗った名前についても当時は確認できなかった。

 

ランズベルクは記録を読んだ。

 

「本人申告名」の欄で目が止まった。

 

エルウィン・ヨーゼフ・フォン・ゴールデンバウム。

 

その下には、当時の担当者による短い注記がある。

 

銀河帝国皇帝を自称。身元確認不能。

 

ランズベルクは何も言わなかった。

聖録院の職員が次の資料を出した。

 

「この男児の記録は、その後いくつかの仮登録へつながっています。完全に連続しているわけではありません。途中で失われた記録もありますし、氏名表記が変わった時期もあります」

 

画面上に年代が並んだ。

 

救護記録。居住登録。診療記録。就業記録。技能資格。

 

年月が進むにつれ、記録上の年齢も一つずつ増えていくが、氏名欄はある時点から一つに揃っていた。

 

ヨーゼフ・ベルガー。

 

ランズベルクがそこを指した。

 

「これは?」

 

「現在の氏名です」

 

「現在?」

 

「少なくとも二十年以上、この名前で生活しています」

 

ランズベルクは画面を見た。

「誰が付けたのですか」

 

「正確な成立経緯までは確認できていません。ただ、本人が日常生活で継続して使用している名前です」

 

ランズベルクは黙った。

「……ご本人が?」

 

「はい」

 

「ご自分で、その名を名乗っておられる?」

 

「現在確認できている記録では、そうです」

 

ランズベルクは椅子の背へ身体を預けた。

画面には、ヨーゼフ・ベルガーという名前の下に、二十年以上の記録が続いている。

機関整備。港湾作業。船舶補機。資格更新。診療。転居。

どれも皇帝としての記録ではなかった。

 

「機関士、と先ほど仰いましたね」

 

「はい」

 

聖録院の職員は職歴を表示した。

 

「正式な職種表記は勤務先によって異なります。整備士、機関要員、船舶機関技術者。資格もいくつか取得しています」

 

ランズベルクは職歴を送った。

勤務先が変わり、船が変わり、港が変わり、居住地も何度か変わっている。それでも名前だけは変わらなかった。

 

ヨーゼフ・ベルガー。

 

二十二年間が、ひとつの欄に収まっているわけではなかった。細かい記録がばらばらに続いていた。

 

「これほど残っていたのですか」

 

「一か所に、ではありません」

 

聖録院の職員は答えた。

 

「教国の建国後、旧同盟や帝国統治時代から各地にばらばらに残っていた救護、医療、就業、資格記録の統合が進みました。それまでは人物の同一性の照合が行われずに扱われていた記録同士が、つながり始めています」

 

「それで、この方が陛下ではないかと?」

 

「可能性があると判断しています」

 

返答は慎重だった。

 

「現時点で、私どもは写真一枚で本人だと決めているわけではありません。むしろ、それを避けるためにあなたへ確認をお願いしています」

 

ランズベルクは小さく頷いた。

もう一度、成人した男の写真を表示してもらった。

港湾施設で撮られた写真。作業服。片手の工具。

九歳の少年の面影を探そうと思えば、いくつか見つけられる気もした。見つけようとしなければ、知らない男にも見えた。

 

「ヨーゼフ・ベルガー氏は」

 

その名前を口にしたところで、ほんのわずかに間ができた。

 

「この惑星に、長く住んでおられるのですか」

 

「現在確認できる限りでは、いくつかの惑星の港を移っています。現在の居住地についても、本人性確認の一環として照会中です」

 

「そうですか」

 

ランズベルクは画面を見た。

二十二年前の少年がどんな大人になるのか、考えたことがなかったわけではない。だが、その想像の中で皇帝が作業服を着ていたことは、一度もなかった。

もちろん、機関士になっていたこともない。

 

「もう一つ、よろしいでしょうか」

 

「どうぞ」

 

「この方は、二十二年以上、この名前で生きてこられたのですね」

 

「記録上は、そうなります」

 

「誰かにそう名乗るよう命じられていたのではなく?」

 

「そのような記録はありません」

 

ランズベルクはゆっくり息を吐いた。

 

「そうですか」

 

長い沈黙のあと、ランズベルクが言った。

 

「……生きておられたのですね」

 

聖録院の職員は答えなかった。

まだ本人性の確認は終わっていない。

ランズベルクも、そのことは分かっていたらしい。

 

「……この方が、あの方であるなら」

 

もう一度、画面の男を見た。

 

「生きておられた」

 

それ以上は何も付け加えなかった。

 

 

***

 

 

聖録院の職員は、表示していた記録をいったん閉じた。

 

「ランズベルクさん。お願いしたいことがあります」

 

ランズベルクは成人した男の写真から視線を戻した。

「何でしょう」

 

「惑星アロヨ・ド・モリノまで来ていただけませんか?」

 

ランズベルクの表情が変わった。

ほんの一瞬だったが、先ほどまで抑えられていたものが顔に出た。椅子から立ち上がりかけ、すぐに身体を戻す。

 

「それは――」

 

言葉が途切れた。

聖録院の職員は待った。

ランズベルクは卓上の資料を見た。

 

「ベルガー氏ご本人は、この照合についてご存じなのですか」

 

画面の向こうで、聖録院の職員がわずかに姿勢を変えた。

 

「……現在は行政上の照合を進めている段階です」

 

「では、まだ?」

 

「旧記録と現在の記録に複数の一致が見つかり、本人への照会も始まっています。ただし、私どもがあなたへ協力をお願いすることについて、本人から希望が出ているわけではありません」

 

ランズベルクは黙った。

辺境司牧院の職員が補足した。

 

「ランズベルクさん。あなたを何かの事件の容疑者として呼ぶわけではありません。あくまで任意の参考人です。二十二年前に陛下ご本人と生活を共にした人物が、現在確認できる範囲では非常に限られています」

 

「私が知っているのは、九歳までの陛下です」

 

「それで構いません」

 

聖録院の職員が答えた。

 

「幼少時の身体的特徴、話し方、習慣、当時の生活状況。こちらに残っている記録だけでは確認できない事項があります。あなたの証言だけで本人性を決めることもありません。他の資料と照合します」

 

ランズベルクはその言葉を聞いてから、もう一度写真を見た。

 

「アロヨ・ド・モリノに、この方がおられるのですか」

 

「現在の生活記録が集中している地域です」

 

答えは慎重だった。

ランズベルクはそれ以上、居所を訊かなかった。

 

「現地へ伺えば」

 

そこで一度止まり、言い方を変えた。

 

「ご本人とお会いすることになるのでしょうか?」

 

「分かりません」

 

聖録院の職員は即答した。

 

「必要があるかも含め、まだ決まっていません。面会をお約束する招致ではありません」

 

「そうですか」

 

ランズベルクはそれ以上求めなかった。

 

「では、私が知っていることでしたらお答えします」

 

「来ていただけますか」

 

「はい」

 

返事は今度こそ早かった。

辺境司牧院の職員が端末を操作した。

 

「惑星への移動と宿泊はこちらで手配します。参考人協力者として、滞在中に必要となる惑星内の移動資格も発給されます」

 

「そこまでしていただかなくても、自分で――」

 

「公務上の移動ですので」

 

職員は慣れた調子で言った。

ランズベルクは口を閉じた。

「承知しました」

 

「出発可能日は?」

 

「明日でも」

 

答えてから、何かを思い出した。

「……いえ。勤務があります」

 

二人が彼を見る。

 

「休暇を申請いたします。認められれば、最も早い便で」

 

辺境司牧院の職員が日程表を開いた。

「明後日なら交通便があります。無理に明日出る必要はありません」

 

ランズベルクは表示された時刻を見た。

「では、明後日でお願いします」

 

職員が予約欄へ入力した。

「分かりました。詳細は今夜までにお送りします」

 

面談が終わり、聖録院との回線が切れた。

ランズベルクは席を立ったが、扉へ向かう前に振り返った。壁面にはもう写真はなく、黒くなった画面に自分の姿だけが映っている。

 

「一つよろしいでしょうか」

 

辺境司牧院の職員が手を止めた。

「はい」

 

「先ほどの方について、新しいことが分かった場合は教えていただけますか」

 

「本人性確認に必要な範囲でしたら」

 

「それで結構です」

 

ランズベルクは軽く一礼した。

小会議室を出ると、図書館には先ほどと同じ午後の静けさが戻っていた。

返却台には本が増えている。

ランズベルクは上着を脱ぎ、作業中の札を置いたままにしていた資料箱の前へ戻った。

七十年前の時刻表も、開いた場所にそのまま残っていた。

 

彼は椅子へ座った。

 

それから、休暇申請の画面を開いた。

 

 

***

 

 

休暇申請の画面には、開始日と終了日を入力する欄があった。

ランズベルクは開始日に明後日の日付を入れた。そこで手が止まった。

終了日が分からない。

 

聖録院から求められているのは参考人としての証言であり、長期の滞在を予定しているわけではない。面談が一度で終われば、往復を含めても数日で足りるだろう。しかし、追加確認が必要になれば延びる可能性はある。

 

それ以上に、二十二年前から消息の分からなかった人物が本当に生きているのだとすれば――。

 

「ランズベルクさん」

 

背後から声がした。

振り返ると、上司が立っていた。

 

「休暇ですか」

 

「はい。少々、遠方へ行くことになりまして」

 

「何日くらい?」

 

ランズベルクは端末へ視線を戻した。

「二十二年前、歴史の彼方へ失われたある人物について、新たな事実が明らかになりつつありまして。もしそれが事実であるなら、これは単に一人の生死にとどまらず、旧王朝最後期の記録そのものを書き改めることになり、私自身もまた、その歴史の証人として――」

 

「それは大変ですね。何日必要です?」

 

ランズベルクは口を閉じた。

「……五日でお願いします」

 

「分かりました。足りなかったら連絡してください」

 

「よろしいのですか」

 

「休暇なんだから、そういうものです」

 

ランズベルクは相手を見た。

 

「ありがとうございます」

 

五日後の日付を入力した。

申請理由の欄にも手を止めたが、結局〈私用〉を選んだ。聖録院への参考人協力が私用に当たるのかは少し疑問だったものの、候補の中に〈二十二年前の皇帝本人性確認〉という項目はなかった。

 

送信すると、数分もしないうちに承認された。

 

かつてなら、何か大きな決意をしたときには、世界の方も相応に重々しい反応を返すものだと思っていた。実際には、二十二年ぶりに歴史の中へ戻ろうとしている男の休暇申請も、他の職員のものと同じ欄に並び、同じ承認印が付くだけだった。

 

それで困ることはなかった。

 

 

***

 

 

仕事を終えて帰宅すると、辺境司牧院から旅程が届いていた。

 

明後日の朝に出発し、途中一度乗り継いで、惑星アロヨ・ド・モリノへ向かう。現地での宿泊先と聖録院の面談場所も指定されている。

添付書類の中に、臨時移動資格があった。

 

〈聖録院本人性調査・参考人協力〉。

 

有効地域と有効期間が記され、その下に氏名がある。

 

アルフレット・フォン・ランズベルク。

 

旧身分を記した参考欄には、ゴールデンバウム朝ランズベルク伯爵家当主、と残っていた。

 

ランズベルクはそこを一度読んだだけで、資格証を閉じた。

旅行鞄を取り出す。

着替えを数組入れ、洗面具と端末の充電器を収めた。そこまで入れたところで本棚の前へ行き、しばらく迷った末に一冊を抜き出した。

 

旅行中に読むには少し厚かった。

鞄へ入れる。

もう一冊持っていこうとして、手を止めた。

それは棚へ戻した。

 

翌日は普段どおり出勤した。

午後になると、同僚が声をかけた。

 

「アルフレットさん、明日から休みでしたっけ」

 

「はい」

 

「旅行?」

 

「そのようなものです」

 

「楽しんできてくださいね」

 

ランズベルクは返事に困った。

 

「これは楽しむための旅行ではありません。この私自身が歴史の証人として旧王朝最後期の記録を――」

 

「じゃあ、気をつけて」

 

「……ありがとうございます」

 

それで会話は終わった。

 

閉館後、上着を着て職員口へ向かった。

途中で一度、振り返った。

 

書架が並び、返却台には明日の朝に処理する本が残っている。

五日後には、またここへ戻ってくる予定だった。

 

ランズベルクは照明を消した。

 

翌朝、彼は一つの旅行鞄を持って、惑星アロヨ・ド・モリノへ向かった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦二十四・聖暦二十三年四月 教国領リオ・ヴェルデ星系 惑星アロヨ・ド・モリノ】

 

惑星アロヨ・ド・モリノの宇宙港へ着いたのは、現地時間で午後を少し回ったころだった。

 

辺境司牧院から指定されていた到着口には、聖録院の職員が一人待っていた。ランズベルクが臨時移動資格を提示すると、職員は本人確認を済ませたものの、そのまま歩き出そうとはしなかった。

 

「ランズベルクさん」

 

「はい」

 

「到着早々で申し訳ありませんが、先にお伝えしておかなければならないことがあります」

 

ランズベルクは旅行鞄の持ち手を握ったまま相手を見た。

 

「何でしょう」

 

職員は周囲を一度確認した。

「ヨーゼフ・ベルガー氏の所在が確認できなくなりました」

 

ランズベルクはすぐには答えなかった。

「確認できなくなった、というのは?」

 

「一昨日まで通常どおり勤務していました。昨日から職場にも宿舎にも戻っていません」

 

「事故では?」

 

「その可能性も含めて調べました。ただ、本人が日常業務で使用していた作業艇が一隻、港から出ています」

 

職員は端末を開いた。

 

「正規の運航資格で起動されています。出航後、船舶識別応答が停止しました」

 

ランズベルクは画面を見た。

船舶番号、出航時刻、最後に確認された航路。知らない数字ばかりだった。

 

「捜索は?」

 

「始まっています。ただし、犯罪容疑者としてではありません。現在は本人の安全確認と、本人性照合の継続が目的です」

 

「本人性の確認は、どこまで進んだのですか」

 

「あなたがこちらへ向かっているあいだにも、照合できる資料が増えました。現時点では、ヨーゼフ・ベルガー氏がエルウィン・ヨーゼフ二世本人である可能性は、かなり高いと判断されています」

 

ランズベルクの視線が端末から上がった。

「かなり高い?」

 

「はい。ただ、最終確認はまだです」

 

「……そうですか」

 

それだけ言った。

二人は到着口を離れた。

 

港の公共区画には、ランズベルクがいま住んでいる土地とさほど変わらない光景が広がっていた。荷物を引く旅行者、作業服の港湾労働者、案内表示を見上げる家族連れ。窓の外では貨物車両が何台も行き来している。

 

ランズベルクは黙って歩いた。

 

行政区画へ入ったところで、職員が言った。

「当初は、ベルガー氏本人との照合が必要になった場合に備え、こちらで待機していただく予定でした」

 

「ご本人がいないのであれば、私は不要でしょうか」

 

「いいえ。むしろ確認したいことは増えています。過去の記録との照合に、引き続きご協力いただきたいと思っています」

 

「承知しました」

 

職員が言いかけて、言葉を止めた。

「それと、逃亡――」

 

ランズベルクが横を見る。

「どうぞ」

 

「……失礼しました。まだ本人が意図的に出航したと確定したわけではありません」

 

ランズベルクは少し考えた。

「本人性の確認が始まっていることを、ベルガー氏は知っていたのですか」

 

「いくつかの確認を本人へ行っています。幼少期の記録についても質問が始まっていました」

 

「その後に、いなくなった」

 

「時系列としては、そうなります」

 

ランズベルクはそこで立ち止まった。

通路の脇には大きな窓があり、遠くに宇宙港の係留区が見えていた。何隻もの小型船が並び、その間を整備車両が走っている。

 

ランズベルクは窓の外を見たまま、何も言わなかった。

職員が声をかけた。

「ランズベルクさん?」

 

「……また、逃げられましたか」

 

「また?」

 

ランズベルクは職員を見た。

「いえ。こちらの話です」




【人物図譜】 
銀河帝国軍中尉 トビアス・ブリュックナー
【挿絵表示】
※〈開戦の日〉の撤退戦で、撤収船団を逃がし戦死

【次回予告】

一人の機関士が、
教国から逃げた。

その逃亡経路を調べる者たちは、
古い整備区画に残された、
わずかな記録へ辿り着く。

閉鎖された保守扉。
診療所に残る付き添い記録。
二十年以上、同じ女の傍らにいた老女。
そして、一つの呼び名。
「エルフリーデ様」

その名を知る者は、
まだ銀河に残っていた。

かつて、
オスカー・フォン・ロイエンタールを殺そうとした女。
リヒテンラーデ一族の生き残り。
ロイエンタールの子を産み、
その子をミッターマイヤー夫妻へ託し、
歴史から姿を消した女。

それから二十余年。

彼女は、
ロイエンタールの名を利用しなかった。
息子の前にも現れなかった。

歴史の表から消え、
誰も探さず、
誰にも探されない場所で、
ただ生きていた。

そしてその命は、
静かに尽きようとしていた。

だが、一人の男を逃がしたことで、
女の過去が掘り起こされる。
ヨーゼフ・ベルガーを追っていた記録は、
今度は彼女の名へつながっていく。

同じ惑星には、
かつて一人の皇帝を失った男が来ていた。
アルフレット・フォン・ランズベルク。

エルフリーデとランズベルク。
二十二年前には交わらなかった二人の人生が、
一人の機関士が残した逃亡経路の先でつながる。

そして、惑星アロヨ・ド・モリノの地上では、
二人の女と一人の詩人の逃亡劇が始まる。

一方、帝国には、
その女の名を知らされる一人の青年がいた。

フェリックス・ミッターマイヤー。

彼がまだ知らない、
彼自身の出生へつながる名。

そして、追う者たちは、
その女の息子の名さえ利用しようとする。

次回より、第二部・第二章。

「彼女の名前」

――銀河の歴史が、また1ページ。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

永久凍土上の石板について(作者:シロン茶)(原作:銀河英雄伝説)

原作後の世界。▼ヒルダが帝国に憲法を作ることをまじめに考えている話。▼これは、原作でヒルダがオーベルシュタインを永久凍土上の石板と呼んだことへの、長い長いお返し。▼ちょっと反論するつもりで書き始めたが、オーベルシュタインを美化しすぎて贔屓の引き倒しになってしまっている。▼え、あいつ、冷却水じゃなくてガソリンぶっかける奴だったじゃん!と思っても石投げないでくだ…


総合評価:11/評価:-.--/完結:6話/更新日時:2026年06月23日(火) 23:59 小説情報

フェリックス・ミッターマイヤーは庭師になった(作者:シロン茶)(原作:銀河英雄伝説)

ロイエンタールの遺児・フェリックス・ミッターマイヤーが造園技師になる原作後のイフ物語連作。思いつきで書いたので、視点があっちこっち飛びます。▼フェリックスが軍人になる話が普通なので、それ以外を考えたら、職人か芸術家という選択肢が浮かび、ミッターマイヤーの実家の造園技師を思い出しました。▼pixivからの転載を載せています。▼


総合評価:35/評価:-.--/完結:21話/更新日時:2026年05月28日(木) 21:02 小説情報

イゼルローンの話(作者:シロン茶)(原作:銀河英雄伝説)

第一巻のイゼルローン攻略時に、イゼルローンの人口は「100万人以上」と書かれ、ガスで眠らされたのは50万人でした。▼しかし、第二巻でヤンが司令官になって「人口500万人の都市」となっています。▼そこからの妄想。▼<原作にあるイゼルローンの機能>▼ 宇宙港に収容できる艦艇数2万隻▼ 病院のベッド数は20万床▼ 1時間あたりに生産できる核融合ミサイルの数7500…


総合評価:12/評価:-.--/完結:2話/更新日時:2026年06月04日(木) 22:25 小説情報

銀河英雄伝説 バーミリオンの反逆者(作者:ICHINOSE)(原作:銀河英雄伝説)

『すべての国家権力は、個人の自由と権利を擁護する一点において、はじめてその存在を認められる』自由惑星同盟最高評議会議長 ヤン・ウェンリー▼ バーミリオン星域会戦における同盟軍の勝利は、銀河の歴史を疑いなく定義づけた。いわゆる『バーミリオンの奇跡』である。▼ 宇宙暦823年。バーラト星系第四惑星ハイネセンからフェザーン星系第二惑星フェザーンに政治的中枢を移した…


総合評価:147/評価:6.45/連載:13話/更新日時:2026年09月26日(土) 22:43 小説情報

オーベルシュタインの演算(作者:シロン茶)(原作:銀河英雄伝説)

原作後。▼ラインハルト亡き後の銀河帝国に、死んだはずの二人が密かに蠢動し、残された者たちは葛藤する。▼彼らが密かに設計するのは、全宇宙四百億人の生命を繋ぐ巨大な医療ネットワーク。それは、生来の欠損や不運に苦しむ人々を救う「福音」であると同時に、全臣民の動向を音もなく察知する「究極の監視網(首輪)」でもあった。▼pixivで書いていたオーベルシュタインとロイエ…


総合評価:19/評価:-.--/完結:8話/更新日時:2026年05月29日(金) 18:25 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>