第七十一話「使える名前」(新帝国暦二十四年四月)
【新帝国暦二十四年四月 帝都レーヴェンシュテルン・獅子の泉】
バーミリオン星域での戦から帝都へ戻って、三週間ほどが過ぎていた。
帰還した日のことは、ところどころしか覚えていない。軍医に傷を診られ、何人もの報告を受け、最後に母の部屋へ呼ばれた。
母上は僕の顔を見るなり何か言いかけ、それからやめた。傷に触れないように一度だけ抱きしめて、「お帰りなさい、アレク」と言った。
少しして身体を離すと、いつもの母の顔に戻った。
「次は、もう少し母親の身にもなってください」
僕は返事に困って、結局「はい」とだけ答えた。
傷が塞がるまでのあいだにも、戦後処理は進んだ。
バーミリオン星系は教国の手に落ちた。退去を望んだ住民と、運び出すべき軍需物資はほぼ後方へ出せたが、星系を持ち帰ることはできない。後方では、避難してきた人々の住居や食料、家族の照会や移送の手配が始まっていた。戦場を離れたあとにも、片づけなければならないことはいくらでもあった。
軍も同じだった。五千隻を超える艦を失い、〈ブリュンヒルト〉は修理に入ったが、ワーレン元帥とミュラー元帥の主力は組織を保って帰ってきた。新しい艦隊を作るより先に、まず既存の六個艦隊の穴を埋めることが優先され、修理を終えた艦や補充艦、人員が次々に振り分けられていた。防衛の重心も、ジャムシード、マル・アデッタ、ランテマリオの線へ移っている。
地図の上では敗北だった。けれど、軍は壊れていなかった。僕を殺すことにも、帝国の主力を潰すことにも、教国は失敗した。
その一方で、ジャムシードからは妙に明るい報告が届いた。
軍管区司令のトゥルナイゼン大将が、教国軍の一個艦隊を退けたのである。しかも敵の艦隊司令まで討ち取った。開戦以来、帝国軍が敵艦隊司令を戦場で討ち取ったのは初めてだった。
この戦功で、トゥルナイゼン大将は上級大将に昇進した。
僕より先に報告を読んだ元帥たちは、ずいぶん驚いたらしい。
戦果の大きさに驚いたのだと思っていたのだが、どうも、それだけではなかったようである。
「トゥルナイゼン上級大将に、何かあるのですか?」
母上に訊いてみた。母上は少し考えてから、
「……昔、いろいろあったのです」
と言った。
「何がですか?」
「あなたは知らなくてよろしいでしょう」
結局、教えてもらえなかった。
フェリックス、クライン、ハインリヒの同期三人は、会戦後にそろって大尉へ昇進していた。
その後の補職については僕の意向も入った。
フェリックスは正式に皇帝副官に、クラインは皇帝付参謀となった。
二人は僕のそばへ来た。
だけど、もう一人は、艦隊へ戻る方を選んだ。
僕はハインリヒにも皇帝府へ来ないか、と執務室に呼んで訊いた。
「ジャムシードから帝都に戻る途中、結局、話せなかったな」
「はい」
「あのときは悪かった。今なら聞ける」
ハインリヒは少し黙った。
「……大したことではありません、陛下。御心配をおかけしました」
それ以上、彼は何も言わなかった。
皇帝府への異動についても、丁寧に辞退された。
「まだ、艦隊で覚えることがあります」
ハインリヒはワーレン元帥付の副官兼艦隊司令部参謀として配属されることになった。ワーレン艦隊は第二次バーミリオン星域会戦後の再編の最中であり、司令部が移るのは翌月になる。それまでハインリヒは統帥本部作戦局付として、帝都に残ることになった。
***
【新帝国暦二十四年四月 獅子の泉「北辰の間」】
バーラト自治政府から一件の照会が届いた。
この会議を開くことになった理由は、一人の機関士だった。
名を、『ヨーゼフ・ベルガー』という。
数日前まで、神聖黄金樹教国領の辺境で働いていた民間人である。その男が教国治安部隊の追跡を受けながら小型作業艇で惑星アロヨ・ド・モリノを脱出し、ハイネセン側の救難責任区までたどり着いたところを、バーラト自治政府の救難艇に保護された。
そして教国側は、別の名前を呼んでバーラト自治政府に男の身柄の引渡しを要求した。
――エルウィン・ヨーゼフ二世陛下。
バーラト自治政府は引渡しを拒否した。理由は単純だった。本人が教国へ戻ることを拒み、バーラトへの滞在を希望したからである。
バーラト側の記録だけでは、元皇帝本人と確定することはできない。そこで自治政府は、帝国政府へ旧帝室記録との照合を求めてきた。
もし本物ならば、単なる身元照会だけでは済まない。
国内治安。旧王朝の支持勢力。バーラト自治政府との関係。教国への宣伝効果。さらには、教国が「失われたゴールデンバウムの血」を掲げて聖王ヴィルヘルミーネという少女を戴いていることまで考えれば、一人の機関士の身元照会が帝国全体の問題になり得た。
そのため僕は、関係者を北辰の間へ集めた。正式な閣議ではない。人数も絞った。
帝国の文官組織全体を取りまとめる国務尚書。
軍政と憲兵・軍法系統を預かる、軍務尚書ウルリッヒ・ケスラー元帥。
帝国内の行政秩序と治安行政を担当する内務尚書。
バーラト自治政府との実務折衝を担当する、内務省自治領局参事官レーヴァルト。
国内の防諜と政治的工作を扱う、内国安全保障局長フォルストナー。
そして旧帝室の身分法や系譜の確認を担当する、司法尚書ヴェルディンガー。
軍からは、宇宙艦隊司令長官ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥にも来てもらった。
そして、皇帝の僕。
会議の卓についたのは八人だった。
会議には、フェリックスとクラインも参加していた。
皇帝副官のフェリックスは僕のすぐ隣に立ち、皇帝付参謀のクラインはその少し後ろで端末を開いて控えている。
皆が来るまで、僕はバーラトから送られてきた資料を読んでいた。
表紙には、まず現在の名が記されている。
〈ヨーゼフ・ベルガー氏〉
その下に、
〈旧銀河帝国皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世本人と推定〉
とあった。
港湾作業。機関整備。貨物船勤務。技能資格。居住地の移動。何度かの転職。旧自由惑星同盟領の辺境を渡り歩き、後に教国領となった地域で生活した記録もある。
ゴールデンバウム朝の皇帝だった数年間については、彼が何を食べたかさえ何冊もの本に書かれている。皇帝でなくなってからの二十数年間については、いつ働いたか、どこに住んだか、どんな資格を取ったか、その種の記録ばかりだった。
どちらの方が一人の人間について多く書いてあるのだろう、と考えているところへ最後の出席者が入室した。僕は資料を閉じずに言った。
「始めよ」
国務尚書が一礼し、会議が始まった。
「まず、論点を三つに分けます。
第一に、この人物がエルウィン・ヨーゼフ二世本人であるか。
第二に、本人であるとして、現在の銀河帝国においてどのような法的地位にあるか。
そして第三に、その事実を帝国としてどう扱うかです」
第一の点には、司法尚書のヴェルディンガーが答えた。
「帝国側に残る旧帝室記録との第一次照合では、同一人物である可能性はきわめて高いと判断しています」
僕は訊いた。
「確定ではないのか?」
「司法上の事実認定という意味でしたら、まだ足りません。旧帝室の医療記録に追加照合できる部分があります。また、幼少期の記録について、本人しか知り得なかった事項を用いた確認も可能です」
「幼少期の記録は、どの程度残っている?」
「相当量あります。宮内省、侍医、警護、教育担当の記録に加え、廃位後に旧宮廷勤務者から取られた聞き取りも残っています」
ヴェルディンガーは付け加えた。
「……陛下がこの人物を今後どう扱うかを判断されるのであれば、当時どのような子供だったかも御覧になった方がよいかと存じます」
「申せ」
少し間を置いてから、ヴェルディンガーは言った。
「……扱いやすい子供ではなかったようです」
それはずいぶん控えめな言い方だったらしい。
七歳当時の彼の記録が表示された。
高価な絹の寝衣。金髪。茶色の眼。年齢のわりに太りぎみの身体。そして、自分の身体の半分ほどもある熊のぬいぐるみを抱えている。
写真の中の子供は笑っていなかった。表情がない、という方が正確かもしれない。
「ランズベルク伯らによって帝都から連れ出された当夜の記録では、伯爵が忠誠を訴えても、本人はほとんど関心を示していません。ぬいぐるみを弄び、周囲を不機嫌そうに見ていたとあります。移動させようとすると激しく抵抗しました」
「抵抗?」
「叫ぶ、暴れる、手近な相手へ身体をぶつける。少なくとも、成人を相手にしても大人しく従う子ではなかったようです」
「宮廷でも同じだったのか?」
「程度の差はあったでしょうが、似た傾向は確認できます」
旧宮内省の記録に並んでいるのは、教育成果の報告より、日々の世話に関する記事の方が多かった。機嫌を損ねたときに誰が付き添ったか。誰と交替したか。何を遠ざけたか。どこまで本人の要求を受け入れたか。
「皇帝本人を普通の子供と同じように叱る権限や責任が、自分にあると考えた者は、ほとんどいませんでした」
「つまり、放置されたのか」
僕が訊くと、ヴェルディンガーは少し考えた。
「……放置、という言葉が正確かは分かりません。身の回りの世話はされていました。安全も確保されていました。欲しい物も、必要な物もなんでも与えられた。何も、止められませんでした」
ケスラーが顔を上げた。
「世話をした者は皆、傷を負っていたようだな」
「はい。被害を受けた者が多くいます」
そこで話を綺麗にしてはいけないのだろう。七歳だったから何をしてもよかったわけではない。
ヴェルディンガーは続けた。
「連れ出された後も改善していません。フェザーン船籍の貨物船で移送された際には、乗員たちが幼帝の食事係を嫌がり、誰が担当するかを押しつけ合った記録まで残っています」
ミッターマイヤーが眉を動かした。
「そこまでか」
「ええ」
僕はもう一度、七歳の写真を見た。熊のぬいぐるみを抱えた子供だった。
普通の家で、七歳の子供が気に入らないたびに人を殴り、叫び、物を投げたら、大人は止めるのだろう。僕は『普通の家』というものを知らない。それでも、たぶん、してはいけないことだとは教えるのではないだろうか。
だが、その子供は皇帝だった。
怒鳴れば人が動く。命じれば頭を下げる。気に入らなければ別の者が呼ばれる。泣いても、怒っても、暴れても、そのたびに周囲の大人の方が自分の行動を変えた。そういう世界の中で七年を生きた子供に、怒ることと命令することの違いが分かったのだろうか。
僕には、駄目なことを駄目と言ってくれる人間がいた。母もいた。教師もいた。元帥たちも、僕が皇帝だからという理由だけで何もかも肯定したわけではない。それを窮屈だと思ったことがない、と言えば嘘になる。もう少し好きにさせてくれてもいいのに、と思ったことなら何度もあった。
けれど、もし誰一人として僕を止めなかったなら。僕が怒るたびに相手の方が引き下がり、僕が欲しいと言えば何でも用意され、僕のしたことが間違っていても誰も間違いだと言わなかったなら。自分がどうなっていたかは、あまり考えたくなかった。
「陛下」
ヴェルディンガーの声で顔を上げた。
「何だ」
「現在のベルガー氏について、同種の人物像を前提にすべきかという点ですが、私は慎重であるべきだと考えます。今お示ししたのは、二十数年前の七歳児に関する記録です」
僕は頷いた。
「現在の状況について確認できているのは」
「機関整備、船舶勤務、資格取得、居住歴などです。二十数年間、民間の船舶や港湾、修理現場で働いてきたことは確認できます。少なくとも、幼少期の宮廷記録だけを現在の人格評価へ直接つなぐべきではありません」
「分かった」
ヴェルディンガーが本人性の説明へ戻った。
「行政上、ヨーゼフ・ベルガー氏をエルウィン・ヨーゼフ二世本人として扱い始めるだけの根拠はあります。ただし、対外的に本人であると確定して発表するには、もう一段階置くべきでしょう」
そこまでは、身元確認の問題だった。
「本人は、帝国へ戻りたいと言っているのか?」
答えたのは、自治領担当のレーヴァルトだった。
「いいえ、陛下。バーラト自治政府が身元照会に添付した意思確認記録では、神聖黄金樹教国への帰還を拒否しています。また、帝国政府の管轄下へ移ることも希望していません」
「では、どこへ行きたいと言っている」
「明確な行き先は述べていません。ただ、当面はバーラトに留まりたいとの意思を示しています」
レーヴァルトが該当箇所をこちらへ送った。聴取の全文ではない。処遇に関係する部分だけが抜かれていて、その末尾に、本人の発言が一行だけ残されていた。
〈ここにいていいなら、俺はここにいたい〉
僕はしばらくそこを見ていた。
「分かった。続けよ」
ヴェルディンガーが話を引き継いだ。
「もう一点、先に明確にしておくべきことがあります。エルウィン・ヨーゼフ二世がゴールデンバウム朝の皇帝であったという歴史的事実と、現在のローエングラム朝における皇位とは何の関係もありません」
「本人が復位を求めてもか」
「はい。法的には無意味です」
「本人が、廃位は無効であって、自分こそが皇帝だと言った場合は」
「政治問題にはなるでしょう。しかし法的には無意味です。ローエングラム朝の皇位は、ゴールデンバウム朝の皇位を継承するものではなく、法的地位としての連続性は不要です」
「現在の皇帝が二人になるわけではない、と」
「なりません」
ヴェルディンガーは簡潔に答えた。
内務尚書が卓に指を置いた。
「だが、法的には皇位がなくとも、政治的な危険は生じます」
ここからは司法ではなく、内務省が所管する話だった。
「具体的には?」
「旧王朝復古を標榜する集団、旧門閥貴族系の残存組織、反ローエングラム勢力です。現在はいずれも帝国そのものを揺るがすほどの規模ではありません。しかし、旧皇帝が現れれば、事情は変わり得ます」
「本人に復位の意思がなくてもか?」
「本人の意思と、その人物を利用しようとする者の意思は別です」
内務尚書は一度言葉を切った。
「本人が復位を拒否しても、本人を復位させたい者まで消えるわけではありません」
「本人が何も言わなくてもか?」
「むしろ、その方が都合のよい者もいるでしょう。本人の意思を勝手に代弁できますから」
内務尚書は続けた。
「旗が掲げられることを拒んでも、旗を掲げたがる人間はおります」
その言い方は好きではなかった。人を『個人』ではなく、『旗』とみなす。
内務尚書としては正しい見方なのだろう。僕自身も、物心がつくより前から何度も旗にされた。父の息子。皇太子。皇帝。
そのとき、内国安全保障局長フォルストナーが口を開いた。
「であれば、その危険はむしろ我々で利用できます」
僕は彼を見た。
「どう使う?」
「エルウィン・ヨーゼフ二世の本人性について、帝国政府として無視せず確認中である情報を、情報経路を絞りながら順に撒いていきます」
内務尚書が、フォルストナーへ視線を向ける。
「その情報で誰が踊るのかを見るのか?」
「はい。旧王朝復古派、教国系の工作網、旧門閥系の資金網。情報を撒く先を限定して撒いていくことで、どの勢力がどの系統で反応するか観測できます」
「ベルガー氏本人の身柄を帝国が確保する必要はあるか?」
「必要ありません」
「映像は?」
「それも不要です。エルウィン・ヨーゼフ二世とみられる人物について、旧帝室記録との照合が着実に進んでいる。その程度で十分です。反応した組織の通信や資金移動を追えます」
「偽の情報を流すわけではないのだな」
「必要ありません。確認中であるという事実だけで十分です」
それがかえって厄介だった。嘘なら、使うかどうかの線を引きやすい。だが、これは事実だった。本物かもしれない男がいる。本当に教国から逃げてきた。本当に帝国で本人性の照合をしている。
何一つ嘘を作らなくても、選択的に開示する事実だけで人を踊らせることができる。
内国安全保障局らしい仕事のやり方だった。
ケスラーが口を挟んだ。
「フォルストナー。ベルガー氏の情報は、バーラト自治政府から何の目的で提供された?」
「本人性照合のためです」
「政治工作への転用について、自治政府の了承は得ているのか」
「得ていません。ですが、自治政府の了承は法的には必要ではありません。問われたとしても、こちらから認める必要はないでしょう。
「法的に必要かどうかを訊いているのではない」
ケスラーは声を変えなかった。
「帝国が、本人性照合のために提供を受けた個人情報を、自治政府に断りなく政治工作へ転用したと知れた場合、バーラトは次から帝国へ情報を渡すと思うか?」
フォルストナーが黙った。
「……では、事前に自治政府の同意を得るべきだと?」
「工作をする前にそれを考えるのも、卿の仕事だ」
「そういうことだ」
「拒否された場合は」
「その時に、拒否されたという事実を含めて次を考えればいい」
フォルストナーは、それ以上は争わなかった。案を引っ込めたわけではない。
国務尚書が話を先へ進めた。
「国内治安の問題だけではありません。教国との戦争において、この人物が持つ政治的価値も検討する必要があります」
今度は、フォルストナーがすぐに口を開いた。
「そちらの価値の方が大きいかもしれませんな」
「理由は」
「教国は、聖王ヴィルヘルミーネを『失われたゴールデンバウムの血』として戴いています」
十四歳の聖王。教国は彼女を旧王朝の傍系に連なる存在と称し、滅んだ王朝の血を一身に負う宗教的象徴としている。その系譜が事実かどうかとは別に、教国がそう公称し、多くの人間がその意味を受け取っていること自体は事実だった。
フォルストナーは続けた。
「その一方で、実際にゴールデンバウム朝の皇帝だった人物が生きている」
一拍置いた。
「しかも、その人物は教国から逃げた」
フォルストナーは言い足した。
「聖王の正統性そのものに、疑義を生じさせられます」
司法尚書のヴェルディンガーが即答した。
「血統の真正についてでしたら、それだけでは足りません」
「なぜだ」
「ヴィルヘルミーネの公称系譜は、エルウィン・ヨーゼフ二世の直系ではありません。教国側の公表では、皇太子ルードヴィヒの庶系を経由するとされています。したがって、エルウィン・ヨーゼフ二世が生存していても、系譜上は両者が同時に存在し得ます」
フォルストナーが訊いた。
「では、ヴィルヘルミーネの系譜が偽りだと証明する材料にはなりませぬか」
「それもなりません。照合には聖王の側の資料が要ります。教国が出すことはないでしょう」
フォルストナーが言った。
「内国安全保障局としては、それでも十分です」
ヴェルディンガーが彼を見た。
「何がですか?」
「真実性の証明など不要です。疑わせることさえできれば、いくらでも工作のやりようはあります」
「それは私の職掌ではありませんな」
「ええ。その方面は、内国安全保障局にお任せください」
誰も笑わなかった。僕も笑う気にはなれなかった。この戦争で敵国の象徴に疑念を生じさせられる材料があり、それを検討すらしない方が、国家を預かる者としては無責任なのかもしれない。
嫌な仕事だからといって、存在しないことにはできない。その問いを部下だけに言わせるのも違うと思った。
「本人はバーラトに置いたまま」
僕は訊いた。
「エルウィン・ヨーゼフ二世という名だけを帝国が使った場合は、どうなる」
何人かがこちらを見た。フォルストナーはすぐに答えた。
「費用が少なく、効果が見込める方法です。帝国へ移す必要はありません。むしろ帝国政府は身柄を保持しない方がよいでしょう」
「なぜだ」
「教国側に、旧皇帝が意思に反してローエングラム朝に拘束されている、と言わせる材料を与えずに済みます」
フォルストナーは少し考えてから続けた。
「エルウィン・ヨーゼフ二世とみられる人物が生存している。旧帝室記録との照合が着実に進んでいる。本人は教国領から脱出した。この三点の情報を情報経路に流していくだけでも、十分な政治的効果があります」
「……ヨーゼフ・ベルガー氏本人が、何を考えているかを問う必要はないのか」
「氏のお考えは、不要です」
本人の意思はいらない。
名前だけあれば、国家は仕事ができる。
僕は自分で訊いたのに、その答えがあまりにも簡単に成立することに気づいた。人間は食べるし、眠るし、逃げる。疲れる。怖がる。どこかに住まなければならない。
名前はそうではない。眠らない。腹も減らない。危険だから逃げたいとも言わない。名前だけなら、どこへでも置ける。それを勝手に使えば、別の人間を動かすことができる。
そこで、自治領局参事官レーヴァルトが発言を求めた。
「陛下。こちらが情報を公表したところで、教国側はたいして困らないかもしれません」
「どういう意味だ」
「失われた王家の血が、もう一人見つかった。そう説明することもできます」
フォルストナーが反論した。
「ですが、元皇帝本人が教国から逃げたという事実は消えません」
「帝国に不法に拉致された。あるいは、長年の混乱によって自らの正しい身分を認識できなくなっている。その程度の説明は可能でしょう」
「ヨーゼフ氏本人が否定したら?」
「判断能力を失っている。帝国がバーラトに圧力をかけ、そう言わせている。そう主張すればよい」
フォルストナーはしばらく黙った。
「……なるほど。事実を出しただけでは終わらないか」
「終わりません」
フォルストナーは一度頷いた。
「内国安全保障局でも、相手の出方を含めて詰めておきましょう。これは、単なる宣伝戦ではありませんな」
会議が始まってから、ミッターマイヤー元帥はほとんど発言していなかった。政治宣伝の専門家でも、旧帝室法の専門家でもない。それでも、この情報を公にしたあと、誰が実際に動くことになるのかという点では、宇宙艦隊司令長官の意見を聞かないわけにはいかなかった。
「卿はどう見る、ミッターマイヤー元帥」
彼は少しだけ姿勢を直した。
「公表した時点で、ベルガー氏は複数の勢力の軍事目標になります」
フォルストナーが言った。
「教国はすでに、バーラトの救難艇へ武装要員を乗り込ませています」
「規模が変わります」
ミッターマイヤーは短く返した。
「いま彼を狙っているのは、教国でしょう。ですが、公表すれば、旧王朝派にも反帝国派にも価値が出ます。守りたい者、奪いたい者、殺したい者が増える」
「今更、殺す価値もあるのか?」
「生かして使いたい者ばかりとは限りません」
ミッターマイヤーはそこで僕を見た。
「政治的に使うというご判断をされても否定はしません。ただ、それをするのであれば、ベルガー氏の安全を帝国としてどう守るかまで計算に入れてください」
名前だけを利用したつもりでも、撃たれるのは名前ではなかった。
人間だった。
僕は、手元に残っていたあの一行へ目を戻した。
エルウィン・ヨーゼフ二世は、皇帝を降りることができた。そう思ってから、すぐに違うと気づいた。降りたのではない。幼いころに連れ去られ、皇位を奪われ、逃げた。本人が自分で玉座を捨てて、自由な生活を選んだわけではない。
皇帝でなくなるまでに彼が失ったものを考えれば、それを自由になったなどと呼ぶのは違う。幸福だったはずもなかった。それでも、その後があった。二十年以上も。七歳のころの彼は、誰かに抱えられれば暴れ、気に入らなければ周囲へ当たり、食事を運ぶ役さえ嫌がられる子供だった。
それが今は、機械を直している。資格を取った。給料を受け取った。船に乗り、港で働き、住む場所を変えながら、自分の生活を続けてきた。そして今は、ここにいていいならここにいたい、と言っている。
僕はそこで、少し羨ましいと思った。
酷い目に遭った男を羨むのは、たぶんおかしい。それでも、皇帝でなくなった後にも人生が続いたという、その一点だけは僕には眩しく見えた。
皇帝にならなくてよかったなら、僕は何になったのだろう。軍人にもならなくてよかったなら。そんなことを、考えてみたことがなかった。学者ではなかった気がする。政治家になりたかったとも思わない。別に立派な答えでなくてもいい。
店番がよかったかもしれない。
何の店かは分からない。本屋でもいい。菓子を売る店でもいい。もっと何でもない、毎日同じような客が来る小さな店でもよかった。
朝になれば鍵を開け、品物を棚へ並べる。客が来れば売り、足りなくなった物を補充する。夕方になれば勘定を合わせ、夜には戸を閉める。失敗した日もあるだろう。客に怒られることも、売上が悪いことも、品物を仕入れすぎることもある。
それでも、その日の仕事が終われば、一日も終わる。銀河のどこかで何十万人が死んだという報告書を、夕食までに読まなくてよい。
明日の決裁一つで、何千人、何万人の人生が変わることもない。
「陛下」
顔を上げた。内務尚書がこちらを見ている。
「続けよ」
口から出た声は、いつもと同じだった。店の戸を閉める自分は消え、北辰の間が戻ってきた。
「帝国から正式にベルガー氏に面会を求めることも、検討すべきかと存じます」
「何のために」
「本人意思の直接確認です。今すぐでなくとも、いずれ帝国として確認する必要が生じる可能性があります」
そこで、レーヴァルトが言った。
「一点、よろしいでしょうか」
「申せ」
「皇帝陛下からの面会要請を、ベルガー氏が自由に断れるとお考えですか」
内務尚書が答えた。
「制度上は断れる」
「制度上は」
レーヴァルトは同じ言葉を返した。内務尚書はそれ以上言わなかった。僕も黙った。
会ってみたいとは思った。幼くして皇帝だった男が、二十数年後、工具を持って逃げてきた。どんな男なのだろう。声はどんなものなのか。僕を見たとき、何を思うのか。
少し話してみたい。だけど、その気持ちは、たぶん僕個人のものだ。
「余からの面会の招請は出さぬ」
内務尚書が頭を下げた。
「御意」
レーヴァルトも一礼した。それで本人へ直接会うという案は、少なくとも今は消えた。
国務尚書が全員を見渡した。
「陛下。御裁定を」
部屋が静かになった。さっきまで、司法が言うべきことを言い、内務が危険を挙げ、情報部門が利用方法を考え、自治領担当が境界を示し、軍がその後に必要になるものを示した。皆、自分の仕事をした。
ここから先は僕の仕事だろう。
「ベルガー氏とエルウィン・ヨーゼフ二世の本人性照合は続けよ」
ヴェルディンガーが頭を下げた。
「バーラト側が必要とする旧帝室資料は出す。ただし、照合に必要な範囲に限れ。宮廷記録だからという理由だけで、関係のないものまで渡すな」
「御意」
「帝都への移送は、バーラトに要求しない」
レーヴァルトが記録した。本人がバーラトに留まりたいと言っている以上、こちらから動かす理由はない。少なくとも、いまは。
「生存も、現段階では公表しない」
フォルストナーが顔を上げた。
「情報の政治利用案については?」
僕は彼を見た。
「残せ。今の時点で、国家として彼を政治利用する可能性も捨てるな」
誰も口を挟まなかった。
「だが、国内反応、教国側の逆利用、旧王朝派の動向、本人警護、バーラト自治政府との関係、考慮すべき要素は多い。使った場合に得られるものだけではなく、そのために誰が危険を負うかまで詰めておけ」
「御意」
フォルストナーが答えた。
僕はそこで一度、言葉を切った。
「余は、ベルガー氏を政治的に使わぬと決めたわけではない」
自分で口にしてから、それが思っていたより冷たい言葉だと分かった。
嫌だった。
けれど、言い直さなかった。
「ただし」
フォルストナーがこちらを見た。
「ベルガー氏が言っていないことを、本人の言葉とするな」
「承知しております」
「本人が教国へ戻らないと言った。それを、ローエングラム朝への支持表明に変えるな。帝国へ来たくないと言った事実を削って、こちらに都合のよい部分だけを本人の意思として見せることもするな」
フォルストナーは今度はすぐに答えなかった。
「もし対外宣伝へ使う場合は、可能な限り本人の同意を取る。都合の良い発言を切り取るためだけに接触するな。必ず余の裁可を求めよ」
「御意」
国務尚書が確認した。
「本人から自発的な声明があった場合は」
「その時に考える」
「帝国に有利な内容であっても、事前に扱いを固定しない、と」
「そうだ」
「承知いたしました」
最後に、ヴェルディンガーが発言を求めた。
「陛下。文書上の呼称について一点、よろしいでしょうか」
「何だ」
「現在、帝国側資料では〈ヨーゼフ・ベルガー〉と〈エルウィン・ヨーゼフ二世〉が併記されています。今後、どちらを標準といたしますか」
僕は手元の表紙を見た。会議が始まったときから、二つの名前は同じ場所に印字されていた。上にヨーゼフ・ベルガー。その下にエルウィン・ヨーゼフ二世。どちらか一方を消せば簡単だった。だが、どちらも事実だった。
「本人について扱う文書では、ベルガー氏でよい」
ヴェルディンガーが記録する。
「旧帝室との本人性照合では」
「エルウィン・ヨーゼフ二世を使え」
「理由も記載いたしますか」
「必要なら、事実確認上の旧名と書け」
少し考えてから付け加えた。
「事実なのだから」
「御意」
ヴェルディンガーが最後の入力を終えた。会議はそれで終わった。出席者が順に席を立つ。
本人はこの部屋にいなかった。たぶん、いまごろはバーラトのどこかにいる。警備のついた部屋で休んでいるのかもしれないし、工具箱を返せと言っているのかもしれない。
その男が知らないところで、八人の人間が彼の名前について一時間近く話していた。最後にミッターマイヤー元帥が一礼して出ていった。扉が閉じる。僕の前には、照会資料だけが残った。
エルウィン・ヨーゼフ二世。
ヨーゼフ・ベルガー。
同じ男だった。一方の名には、二十年以上使われなくてもなお、人を集め、疑わせ、動かし、ときには殺させるだけの力が残っている。もう一方の名で、その男は二十年以上働いてきた。
どちらも、その男の名前だった。ただ、同じようには使えなかった。
端末に次の決裁通知が届いた。僕はしばらく表紙を見てから、ヨーゼフ・ベルガー氏の資料を閉じた。そして、次の文書を開いた。
――「あの人たちは、あの子を育てた。あの子には、あの子の人生がある。それで十分でしょう」
次回、『エルフリーデ・フォン・コールラウシュという女』
【人物図譜】
銀河帝国軍大尉 ワーレン元帥付副官兼艦隊司令部参謀 ハインリヒ・フォン・アイゼンベルク
【挿絵表示】