【新帝国暦二十四年(聖暦二十三年)四月 教国領リオ・ヴェルデ星系アロヨ・ド・モリノ聖管区 行政官】
ヨーゼフ・ベルガーがどうやって作業艇を動かして惑星から出たかについてはすぐに判明した。
教国治安機関で問題になったのは、宇宙港の出入口で本人確認が強化されたあと、彼がどうやって作業艇の係留区までたどり着いたかということだった。
「正面からは入っていません」
港湾保安局の職員はそう言って机の上の平面図を拡大した。
旅客区画、貨物区画、整備区画、その外側に係留設備が並んでいる。ヨーゼフの宿舎から作業艇まで通常の経路を使えば三か所の認証を通るはずだったが、そのどこにも彼の記録はなかった。
調査を担当していた行政官は記録を消した形跡がないことを確認してから、港の西側にある灰色の一角へ指を置いた。
「では、壁でも抜けたか」
「……そのほうが話は簡単かもしれません」
そこは自由惑星同盟時代から残る旧整備区画だった。
建国後の改修で正式な通行路から外されているが、消防設備と保守配管が残っているため完全には閉鎖されていない。
最低限の電源と端末は生きており、逃亡当日、街路側の入口にある保守扉が一度開いていた。その後、係留区画へ続く旧整備路の照明が順に起動した記録があった。
誰の認証だったのかと行政官が訊くと、職員は首を振った。旧い端末は現行の本人照合へ接続されておらず、その保守扉は保守番号と暗証だけで開けられたのだという。
行政官は職員を見たが、叱責はしなかった。ヨーゼフ・ベルガーがすでにバーラト側へ逃れた以上、声を荒らげても何も戻ってこない。
「全部止めろ。今日中にだ」
「もうしています」
職員が端末へ視線を戻すと、行政官も再び図面を見た。
逃亡当日に保守扉が開き、その先の照明が係留区画へ向かって起動したのを偶然とは考えにくい。ヨーゼフ自身が知っていた可能性もあるが、それならこの港で働いていた期間の記録のどこかに、利用した痕跡が残っていてよさそうなものだった。
「……誰かが最後の道を教えたのかもしれないな」
***
整備区画の監視映像はほぼ残っていなかった。常用区画ではないため長期保存の対象から外されており、確認できたのは数か所の粗い映像だけだった。
それでも人間の記憶は残っていた。
入口近くで清掃作業をしていた男が、逃亡当日の午後に女性の二人組を見たと証言したのである。一人は年配で、もう一人は歩くのに時間がかかり、腕を支えられていたという。
顔を覚えているかと訊かれると、男は首を振った。遠かったし、港では病人を支えて歩く者など珍しくもない。
ただ、似た二人を港近くの診療所で何度か見たという証言が出たため、調査はそちらへ伸びた。
***
【同月 惑星アロヨ・ド・モリノ 聖管区行政出張所】
ヨーゼフ・ベルガーが作業艇で逃亡した翌日、港の周辺では関係者への聞き取りが始まっていた。エルフリーデとイルゼが、旧整備区画の近くにいた二人として聖管区行政出張所に呼ばれたのは、その数日後だった。
二人は本名を出さなかった。偽名を名乗り、それに合わせた偽造身分証明書を提示した。端末上では、港の外縁で暮らす年配の女と、その生活を手伝う同居人として処理された。
出張所での質問は逃亡当日のことに限られた。ヨーゼフ・ベルガーを見たか、旧整備区画を知っているか、あの日どこにいたか。二人は訊かれたことにだけ答え、二十数年前の名前や経歴には一度も触れなかった。
聴取官は身分証明書を端末に通し、二人へ返した。少なくともその場では、それ以上の照合は行われなかった。
*
聴取を終えて建物を出ると、エルフリーデは道路脇の低い柵に手をついた。
イルゼが腕を支える。
そのとき、少し遅れて出張所から出てきた男が、二人の前で足を止めた。
そこにいたのは、同じ建物の別室で聖録院の調査を受けていたアルフレット・フォン・ランズベルクだった。
エルフリーデは男の顔をしばらく見た。
「……ランズベルク伯?」
男も彼女を見た。
「……コールラウシュ家のエルフリーデ嬢でしょうか? お久しぶりです、と申し上げるほど親しくはありませんでしたね」
「宮廷のパーティで、一度か二度でしょう」
「そのくらいだったと思います」
旧帝国の門閥貴族の子弟は、名のある家々について家名と爵位だけでなく、その当主や家族の顔まで覚えさせられた。宮廷で誰に会っても、名を訊ねるような無作法をしないためである。
だから二人とも、互いをよく知っていたわけではない。
ただ、互いの名と顔を忘れることを許されないほどの家格ではあった。
イルゼの手が、エルフリーデの腕を支えたまま、わずかに固くなった。
若いころ、エルフリーデに付き従った先で、この男を遠目に見たことがある。だが彼女がよりよく知っているのは、その後の名前だった。
幼い皇帝エルウィン・ヨーゼフ二世を帝都から連れ出し、自由惑星同盟へ亡命し、銀河帝国正統政府に加わった――そのランズベルク伯だった。
ランズベルクは、二人が出てきた建物を一度振り返った。
「あなた方も、あの方のことで?」
「そうみたいね」
エルフリーデは答えた。
事情を訊かれたとき、ランズベルクは妙な質問をされていた。ヨーゼフ・ベルガーが旧整備路へ入る直前、女性二人が一緒にいたらしい。心当たりはないか、と。
一人は年嵩で、身体が弱っているように見えたという。
少し間を置いて、ランズベルクが訊いた。
「……あの方を、旧整備路へ通したのは」
「私たちよ」
イルゼがエルフリーデを見た。
答えるには早すぎた。まだ、目の前の男を信用したわけでもない。
だがエルフリーデは、言葉を引っ込めなかった。
どうせすぐ教国の人間には辿り着かれる。
「戻りたくないのかって訊いたの」
エルフリーデは続けた。
「戻りたくないって言ったから、道を教えただけよ」
ランズベルクの表情が止まった。
手にしていた端末の縁へ置いた親指が、そのまま動かなくなった。
「……あの方は、どちらへ行きたいとおっしゃいましたか」
「知らないわ」
「お訊きにならなかったのですか?」
「ええ」
ランズベルクの眉がわずかに動いた。
「では、あの方がどなたかを頼りたいとも?」
「訊いてないわ」
「どこへ行けば安全か、とも?」
「それも」
エルフリーデが少し怪訝そうに彼を見た。
「何かおかしい?」
「いえ」
答えたものの、ランズベルクはすぐには次の言葉を続けなかった。
「……戻りたくない、と。それだけだったのですね」
「それだけよ」
「それだけで、あなた方は道を開いた」
ランズベルクの視線が落ちた。
通りを小型の地上車が一台通り過ぎた。走行音が遠ざかってから、彼は小さく息を吸った。
「……ええ。そのとおりです」
イルゼが初めて口を開いた。
「ランズベルク伯」
声には警戒が残っていた。
「あなたは、昔あの方を帝都から連れ出した方でしょう」
ランズベルクは否定しなかった。
「はい」
「そして、逃げられた」
わずかな間があった。
「……ええ、そのとおりです」
弁解は続かなかった。
エルフリーデが彼を見た。
「あなた、あの子に訊かなかったのね」
ランズベルクの顔がわずかに強張った。
「……何を、でしょう?」
「戻りたいかどうか」
数秒、返事がなかった。
「はい」
やがてランズベルクは答えた。
「一度も訊きませんでした」
エルフリーデはそれ以上追及しなかった。
「そう」
その一言だけだった。
しばらく三人とも黙っていた。
やがてランズベルクが携帯端末を操作し、自分の連絡識別番号を表示した。
「私は、もうしばらくこの聖管区におります。もし何かありましたら」
イルゼは番号を見ただけで、すぐには受け取らなかった。
「……何をなさるおつもりですか」
「何も」
イルゼの目が細くなった。
ランズベルクは言い直した。
「お二人から何も求められなければ、何もいたしません」
そこでイルゼが端末を出し、番号を受け取った。
エルフリーデはそのやり取りを見ていた。
「あなた、もしかして私たちを助けたいの?」
ランズベルクは少し考えた。
「もしあなた方に必要とされることがあれば、です」
「あなたがしたいことを押し付けるのではなくて?」
ランズベルクの口が一度閉じた。
ほんの少しだけ、困ったような笑みが浮かんだ。
「……はい。今度こそは」
エルフリーデは数秒彼を見た。
「……変わったのね、ランズベルク伯」
「そうでしょうか?」
「昔は、もう少し面倒な人だった気がするわ」
「その記憶は、おそらく正確です」
エルフリーデの口元が、ごくわずかに動いた。
ランズベルクはそれ以上二人を引き止めなかった。
二人がいま何という名を名乗っているのかも、どこに住んでいるのかも訊かなかった。
***
【同日 アロヨ・ド・モリノ聖管区 行政官】
診療所の記録に残っていたのは、別の名だった。付き添いの女性は偽名を使い、戦後の混乱期に発行された地方身分証で登録されていた。
だが、逃亡経路監査として正式な照会がかかると、その身分証は長くは保たなかった。発行記録と移住者の登録を洗ううちに、別名の下に埋もれていた本名が出てきた。
『イルゼ・ヴァイゲルト』
一方、治療を受けていた女性については、公的な保険記録がなかった。診療費はすべて自由診療として都度支払われていた。
診療所に残る患者名も偽名で、その先はどこにもつながらなかった。調査側が手にしたのは、イルゼ・ヴァイゲルトという付添人の名前だけだった。
ヴァイゲルトの名前で住所歴を遡ると、旧同盟領へ移ってきたときの難民・移住記録に行き着いた。その先、旧帝国時代末期の記録に、氏名、生年、出生地が一致するものが一件あった。
「ゴールデンバウム朝銀河帝国。貴族家の使用人登録がありました。勤務先は――『コールラウシュ家』、だそうです」
イルゼ・ヴァイゲルトは、二十年以上、同じ女性と同居して暮らしていた。
同居人も別の氏名で住民登録されており、その名前だけを見れば、どこにでもいる市民だった。ただ、近隣住民の何人かが、ヴァイゲルトが同居人を「エルフリーデ様」と呼ぶのを聞いていた。
***
【同日夕刻 アロヨ・ド・モリノ 宇宙港外縁】
帰宅後、イルゼ・ヴァイゲルトは玄関脇の端末を閉じた。
翌日、聖管区の行政官がエルフリーデたちの住居に追加の事情聴取へ来るとのメッセージが入っていた。質問事項はヨーゼフ・ベルガーが使った旧整備路についてであった。文面だけなら、前回までの聴取と大差はない。
午前には近隣住民へ再照会があった。午後には古い居住登録について問い合わせが入り、診療所には病歴ではなく来所記録の照会が来ているらしい。
二十数年前に、誰かに見つからないための暮らしを始めた女には、それで十分だった。
二人の住まいは、宇宙港外縁に残る港湾労働者向けの古い連棟住宅だった。貨物区画から二本裏へ入った一角である。低い建物が細い生活道路を挟んで並び、窓からは宇宙港の誘導灯が見えた。発着する船の低い振動が、ときおり床を伝ってくる。
居間へ戻ると、エルフリーデは窓際の椅子に座っていた。卓上には読みかけの本と、半分ほど水の残ったグラスがある。
「エルフリーデ様。出る支度をしておいた方がよろしいかもしれません」
エルフリーデは本から目を上げた。
「明日の人が来る前に?」
「できれば、今夜のうちに」
「何があったの」
イルゼが今日一日の照会について話した。近所、古い住民登録、診療所。エルフリーデは途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
「……私を探しているのね」
「まだ、そこまでは分かりません」
「あなたが『出ましょう』と言うときは、もう分かっているときでしょう」
イルゼは返事をしなかった。
エルフリーデはしばらく彼女を見ていたが、やがて読みかけの本を卓上へ伏せた。
「もういいわ」
イルゼが顔を上げる。
「あなたは、ここで私から離れてちょうだい」
「何を仰っているのです」
「ずっと前から言っているでしょう。自分の人生を生きなさい、と」
それは初めて言われた言葉ではなかった。二十数年前にも、その後にも、エルフリーデは何度も同じことを口にしている。そのたびにイルゼは聞き流し、次の住居を探し、仕事を見つけ、薬を受け取りに行った。
「……エルフリーデ様はどうなさるのです」
「一人で大丈夫よ」
「そういうことを伺っているのではありません」
イルゼは珍しく語気を強めた。
「このままここへ残れば、いずれ見つかります。教国へ身を委ねるおつもりですか」
「いいえ」
エルフリーデの答えは早かった。
「もう誰にも、私の人生を使わせるつもりはない」
イルゼは黙った。エルフリーデが「誰に」を言わなかったことには気づいていたが、それを指摘はしなかった。
代わりに、別のことを訊いた。
「……治療はどうなさいます」
エルフリーデは窓の外へ目を向けた。
「受けるわ。受けられる範囲で」
「根治治療は?」
「それは受けない。そもそも、そのお金がないでしょう」
病は、この時代の医療で治療方法がないわけではなかった。
本人の細胞から再生臓器を作り、病に蝕まれて機能を失いつつあるいくつかの臓器を順に置き換えていく。一度の移植手術で終わる治療ではなく、順調に進んでも入院は年単位になると見込まれていた。
二十年以上、本名を伏せて暮らしてきたエルフリーデには、公的な医療保険も民間保険もなかった。診察や薬、検査や対症的な処置なら、そのつど費用を払って受けることができたが、再生臓器の作製と複数回の移植まで自費で賄える資産はない。
教国の成立後には、別の道もできていた。
正式に帰依した信徒は、高額な治療について教団から無利子の医療費貸付を受けることができる。返済が難しくなった場合には、教団の指定する奉仕に一定期間従事することで、残った債務の免除を受ける制度もあった。
診療所からは一度ならず利用を勧められている。
だが、エルフリーデはそのたびに断っていた。
フェリックスの消息を、イルゼは知っていた。
ロイエンタールの遺児がミッターマイヤー夫妻に引き取られたことは、銀河でもよく知られた話だった。その子が成長して帝国軍人となり、先日の第二次バーミリオン星域会戦では戦功を挙げ、大尉に昇進して皇帝副官になったという記事も出ていた。
エルフリーデは、そうした記事を自分から見ようとはしなかった。
イルゼが見つけてきては、勝手に聞かせていた。
イルゼはなお言葉を探していたが、やがて口にした。
「……やはり、ミッターマイヤー元帥にお願いしてみましょう」
「前から言っているでしょう。絶対に嫌よ」
「ですが、エルフリーデ様のお命の話です」
「分かっているわ」
「元帥なら、フェリックス様の産みの母親が、費用のために治療を諦めるのを黙って見ているような方ではないでしょう」
「イルゼ、やめなさい!」
イルゼは一度息をついた。
「……フェリックス様ご本人に頼るわけではありません」
「同じことよ」
エルフリーデは窓の外へ目を戻した。
「あの人たちは、あの子を育てた。あの子には、あの子の人生がある。それで十分でしょう」
イルゼは黙った。
「今さら、あの家に……あの子に背負わせるつもりはない」
しばらくして、イルゼがもう一度口を開いた。
「では、教団の貸付制度を使うことはできませんか?」
エルフリーデは答えなかった。
「正式に信徒として登録すれば、治療費の貸付を――」
「知ってるわ」
声は静かだった。
「診療所でも何度も言われたもの」
「でしたら」
「イルゼ」
エルフリーデはようやく彼女を見た。
「治療を受けるために信じてもいない宗教の信者になって、お金を借りて、それで返せなければ、その人たちが決めた仕事をするの?」
イルゼは答えなかった。
「医者に診てもらえるなら、診てもらう。薬があるなら使う。払えるものなら払う。できることはするわ」
そこで一度、息をついた。
「でも、生きるためだからって、私が誰のものになるかまで決めてもらうつもりはない」
「エルフリーデ様、誰のものにもなるわけでは――」
「分かってる」
エルフリーデは声を強めなかった。
「制度の話をしてるんじゃないの。私自身の生き方の話をしてるのよ」
イルゼは、それ以上何も言えなかった。
エルフリーデはもう一度、窓の外を見た。
「病気も含めて、私の人生よ」
それ以上は言わなかった。
イルゼはしばらく彼女を見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「でしたら、なおさら私が必要でしょう」
「……あなた、話を聞いていた?」
「二十年以上、聞いております」
「聞くだけで、従わなかったわね」
「ええ」
イルゼは立ち上がった。
「ですから、今夜もそういたします」
エルフリーデは呆れたように彼女を見た。
イルゼはもう、旅行鞄を取りに奥の部屋へ向かっていた。
***
【同年同月 第二聖団〈
第二聖団司令部へ上がってきた調査報告書を最初に処理した参謀は、その名の意味をすぐには理解できなかった。
帝国の旧門閥貴族であったコールラウシュ家に仕えていた侍女のイルゼ・ヴァイゲルト。
ヨーゼフ・ベルガー逃亡への関与の疑い。
二十年以上生活を共にする同居女性。そして近隣住民が耳にしていた「エルフリーデ様」という呼称。
そこまで読んだところで、参謀は端末を持って立ち上がった。
コンラート・フェルディナント・ベーレントは補給船の修理予定表を読んでいた。
参謀がヨーゼフ・ベルガー逃亡の協力者について報告すると、ベーレントは最初、現地行政機関に任せるよう言った。しかし「コールラウシュ家」という名が出ると、修理予定表から目を上げた。
「コールラウシュ家の関係者ですか?」
「『イルゼ・ヴァイゲルト』という名です。旧帝国時代にコールラウシュ家で侍女をしていた女性です。その女性が二十年以上生活を共にしている同居人を『エルフリーデ様』と呼んでいるという証言があります」
ベーレントは数秒黙り、修理予定表を机へ置いた。
「コールラウシュ家のエルフリーデ……」
「ご存じなのですか?」
「……人を知っているわけではありません」
それだけ答えると、ベーレントは元記録を出すよう命じた。参謀が要約を開こうとしたので、要約はいらないと止める。
旧帝国の住民記録、没落後の移動記録、旧同盟領での仮登録、建国以前の行政資料。完全につながっているわけではなく、ところどころ欠け、名前も変わり、住所も何度か途切れている。
ベーレントは急がず、一つずつ確認した。
ヴァイゲルトの年齢。コールラウシュ家へ仕えていた時期。その家がリップシュタット戦役の直後に没落したこと。そして、彼女が後に生活を共にすることになる女性の推定年齢。大きな矛盾はなかった。
「旧帝国時代の資料にも当たってください。リップシュタット戦役後に取り潰されたリヒテンラーデ一族について、縁戚まで範囲を広げてください」
参謀が検索条件を組み直しながら、先ほどから気になっていたらしく尋ねた。
「ベーレント閣下は、コールラウシュ家をどこで?」
「昔、似た名簿を作ったことがあります。旧帝国でリッテンハイム侯家に仕えていた頃です」
「門閥貴族の名簿ですか?」
「人間を家と家の間に線を引いて並べる表です。誰が誰の縁戚で、婚姻すればどちらの派が強くなるか。旧王朝では、あれも重要な仕事でした」
ベーレントは自分でも可笑しくなったのか、わずかに口元を曲げた。
「昔から、顔より紙のどこに名前があったかを覚える方が得意でしてね」
参謀も少し笑った。
「最近は、第一聖団〈
「ええ」
ベーレントは資料から目を上げなかった。
「家名を捨てて聖名を名乗っても、人間は変わりませんからね」
参謀は返事をせず、検索範囲をもう一段広げた。
***
旧帝国時代の資料が届くまでにはしばらく時間がかかった。
ベーレントは手元に残ったコールラウシュ家の記録を眺めていた。
家名、爵位、婚姻、親族関係。若いころ、自分がリッテンハイム侯家の家臣として扱っていた帳面にも似た形式だった。
彼自身は、その欄に入る側の人間ではなかった。
市場の帳場で数字を覚えたころ、貴族の家系図など天文学の星図より遠いものだった。誰が誰の甥かより、一袋足りない荷がどこで消えたのかの方がよほど切実だった。
その少年がどういう巡り合わせでリッテンハイム侯家の帳場へ入り、さらに当主であったウィルヘルム・フォン・リッテンハイム三世に帝国軍士官学校まで送られることになったのか。ベーレントは、その話を部下にほとんどしたことがない。
「閣下」
参謀に呼ばれ、現在へ戻る。
「資料が来ました」
画面が切り替わった。
二枚の肖像が、左右に並んでいた。
左は旧帝国時代の記録だった。まだ若い女が、正面を向いている。
右は、今回の取り調べの際に撮影されたものだった。頬は痩せ、髪にも年月が刻まれていたが、目元には昔の面影が残っていた。
二枚の下に、顔貌照合の結果が表示されている。
――同一人物。
その下に名があった。
エルフリーデ・フォン・コールラウシュ。
リヒテンラーデ公一族の縁者である。
リップシュタット戦役後、当主クラウス・フォン・リヒテンラーデは自裁を強要された。
一族にも処分が及び、女性と幼い子供は辺境へ流刑、十歳以上の男子はすべて死刑とされた。エルフリーデもまた、流刑に処された一人だった。
のちにオスカー・フォン・ロイエンタールの殺害を企てて失敗し、そのロイエンタールとの間に一子をもうけた。
子はミッターマイヤー夫妻へ託された。
その子の現在の名は、フェリックス・ミッターマイヤー。
ローエングラム朝銀河帝国軍大尉。
皇帝副官。
ベーレントは二枚の顔を見比べた。
遠い昔、家と家のあいだに引いた何本もの線。その一本の端に、コールラウシュの名があった。
ようやく位置がつながった。
「……やはり、この女でしたか」
参謀は資料を閉じずに、少し迷って尋ねた。
「先ほどの名簿の話ですが、閣下はリヒテンラーデ公ご本人にもお会いになったことがあるのですか?」
ベーレントは画面を見た。
「接点というほどのものではありません。一度、名を呼ばれたことがある程度です」
「閣下は他家の家臣であったのに、リヒテンラーデ公に憶えられていたのですか?」
「さあ。あの方は、人の名を間違えないことまで政治に使っておられたのでしょう」
声音には嫌悪も尊敬もなかった。
***
旧帝国時代の資料を追うにつれ、若い参謀にもエルフリーデという人物の輪郭が見えてきた。
最初に目についたのは、ロイエンタール元帥の殺害未遂だった。当時の帝国軍統帥本部総長を狙って失敗し、その本人を前にしても言葉を弱めなかったという記録が残っている。
旧帝国時代の記録では、彼女は取調官に妊娠を明かしたうえで、ロイエンタールが子を祝福し、その子のためによりより高い地位を目指す趣旨の発言をしたと証言している。後の調査で、その供述は虚偽だったことが判明した。
「……この女を好きにはなれそうにありません」
参謀が顔を上げた。
「ご面識はないのでしょう?」
「ありません。ですが、記録に嘘を混ぜる種類の人間を、私は好みません。記録への冒涜です」
エルフリーデは妊娠後もロイエンタールへの復讐心を失わなかった。
彼が先帝への反逆へ追い込まれると知った際にも、破滅を望む態度を崩さなかった。
その一方で乳児を抱え、必要な衣類や食料を求め、他人の助けを借りて必死で子を生かそうとした形跡がある。
最後に瀕死のロイエンタールを訪ねたときにも、彼女は復讐者としての言葉を捨ててはいない。だが、殺せる状態にある男を結局自分の手では殺さなかった。
子はその後、ロイエンタールの遺言に従ってミッターマイヤー夫妻へ託された。
参謀が資料を読み終えて言った。
「……ずいぶん言動が矛盾した女性ですね。一体、何がしたかったのでしょうか」
「人間とは一冊の帳簿ほど整っていないものです」
そこで一度止まり、机の上に積まれた補給関係の書類を見た。
「いや、訂正しましょう。帳簿というものもそれほど整ってるものではありませんね」
参謀が小さく笑った。
エルフリーデが生まれたときから持っていたものを、商人の子に過ぎなかったベーレントが手に入れるには、他人の署名が必要だった。士官学校へ入るにも推薦状が要り、費用を負担する家が要り、その名義をリッテンハイム侯が貸した。
参謀が資料を一つ送ったところで、旧軍歴の欄にベーレント自身の名が表示された。
「閣下も、リッテンハイム侯家から帝国軍士官学校へ送られたのですね。平民出身者としては、かなり破格だったのでは」
「ええ、おそらくは」
「そのまま侯家へ?」
ベーレントは一瞬だけ黙った。
「侯爵閣下にしてみれば、船一隻より安い投資だったのでしょう」
本人性の照合は、顔写真だけでは決めなかった。
イルゼ・ヴァイゲルトの経歴、二人の移動時期、年齢、居住歴、過去の登録、断片的に残る親族情報を一つずつ重ねていく。
照合には時間がかかったが、空白の両側は少しずつつながった。
旧帝国の終わりに記録から消えた二人の女性が、数年後、旧同盟領の片隅に現れる。その後も何度か住所を変えながら生活を続け、名前や家名を途中で変えることはあっても、二人の組み合わせだけは長い年月を通じて変わらなかった。
若い参謀が、不思議そうに画面を見た。
「でも、コールラウシュ家はもうなかったのでしょう」
「ええ」
「給金を払う家も、仕えるべき家もない。それでも、イルゼ・ヴァイゲルトという元侍女は、この人についていったんでしょうか?」
ベーレントはしばらく答えなかった。
「最初は、そうだったのでしょう」
「最初は?」
「旧帝国の人間です。家が滅びたからといって、翌日から主従でなくなるわけではありません」
画面を送ると、二人の居住記録が年代順に並んだ。星系が変わり、街が変わり、途中で名も変わっている。それでも二人は、ほとんど同じ時期に同じ場所へ移っていた。
「ですが、二十年以上となれば、それだけでは説明できません」
参謀も黙って画面を見た。
「旧王朝の復興運動への参加はない。帝国政府へ接触した記録もない。ロイエンタール元帥の名を使った形跡もない。息子にも、一度も接触していません」
「ずっと、隠れていた?」
「そう見えます」
「なぜでしょう?」
ベーレントは少し考えた。
「そこまでは、記録にはありません」
それだけ答えて、次の資料を開いた。
だが、ベーレントには少しだけ分かるような気がした。
この女には使える名前がいくつもあった。
エルフリーデ・フォン・コールラウシュと名乗れば、滅ぼされた旧貴族の生き残りになれた。リヒテンラーデ公一族の縁者として、旧王朝を懐かしむ者たちに担がれることもできただろう。
ロイエンタールの名を使うこともできた。
彼女は帝国屈指の名将の子を産んだ女だった。しかも、その男は皇帝に叛き、悲劇的な死を遂げている。死者の名は、生者の名より使いやすい。本人が否定することもない。
そして息子がいた。
フェリックス・ミッターマイヤー。
帝国宇宙艦隊司令長官夫妻の養子となり、いまでは皇帝の側近にまでなっている。その名を一度出せば、二十数年間の暮らしのうち、少なくともいくつかはもっと容易なものになったはずだった。
それでも、彼女は一度も使わなかった。
家も使わない。
死んだ男も使わない。
生きている息子も使わない。
一族を奪われたあと、彼女は復讐を選んだ。その復讐の過程で、自分も人を利用し、また自分も他人の思惑の中へ組み込まれた。やがて子を産み、その子さえ自分の手から離した。
そのあとで、もう誰かの娘としても、誰かの女としても、誰かの母としても生きたくないと思ったとしても、ベーレントには不思議ではなかった。
名前を捨てたかった、というわけではないのかもしれない。
名前に付いてくるものを、捨てたかったのではないか。
誰かが彼女を見つけ、その名に勝手に意味を与え、彼女以外の何かのために使うことを。
ベーレントは、そこまで考えてやめた。
記録には書かれていない。
人間の内側まで、帳簿のように欄を埋めることはできない。
ただ、一つだけ、その推測から外れるものがあった。
イルゼ・ヴァイゲルト。
家はとうになくなっている。
給金を払う者もいない。
仕えるべき当主もいない。
それでも、住所が変わるたび、二人の名は同じ場所へ移っていた。
二十数年。
最初は忠義だったのだろう。
だが、それほど長い時間を、忠義という言葉だけで説明するのは無理がある。
では何だったのか。
友情か。家族か。
そうではなく、他に行く場所がなかったというだけなのか。
あるいは、二人とも人生で失ったものが多すぎて、最後に互いだけは手放すことができなかったのか。
ベーレントは、それに名前をつけなかった。
画面を一つ先へ送った。
次の住所にも、二人の名があった。
***
その先を調べ始めると今度は逆に何も出てこなかった。
エルフリーデに政治団体への所属歴はない。旧門閥貴族との継続的な接触もなく、ローエングラム王朝への抗議活動をした形跡もない。
ロイエンタールの名を使って利益を得たことも、フェリックス・ミッターマイヤーへ接触を試みた記録も見つからなかった。
参謀は何度か検索条件を変えたが、結果は同じだった。
「二十年以上です。その間、何もしなかったのでしょうか」
ベーレントは片眼鏡を外して布で拭いた。
「生きていました」
それから、何事もなかったように生活記録を先へ送った。
雇用、転居、診療、居住登録、古い資格。どれも歴史書には載らない程度の記録ばかりである。
ベーレントは若いころ、主君に命じられ、別の種類の名簿をいくつも作った。
リッテンハイム侯家の傘下にある者、そうでない者。婚姻でこちらへ寄った家、対立していたブラウンシュヴァイク公側へ傾いた家。軍務に使える者、金を出せる者、名だけ貸す者。
そこでは、人間の名の隣に必ず何かがついていた。
家。派閥。役職。爵位。
その欄がすべて消えた女の二十年は、かえって目についた。
エルフリーデ・フォン・コールラウシュは旧王朝復興を試みていない。息子を取り返そうともしていない。
そして今回、正体を知っていた形跡もないヨーゼフ・ベルガーから「戻るつもりはない」と聞いて、旧整備路を開けた。
診療記録だけは、少し厚かった。
「重い病です」
参謀が読み上げた。
「根治には再生臓器の移植が要り、入院は年単位になると。本人は根治治療を選んでいません。教団の医療費貸付も、診療所から何度か勧められて、そのたびに断っています」
ベーレントは画面から目を上げなかった。
「理由は」
「費用、とだけ。教団の貸付は使わない、と」
ベーレントはそれ以上訊かなかった。
***
別の資料が表示された。
「エルフリーデ・フォン・コールラウシュには、バーラト自治政府の市民登録もあります」
取得時期はかなり古い。長くバーラトの外で暮らしていたが、離脱届も資格喪失処分も見当たらなかった。
参謀は画面を見ながら少し顔をしかめた。
「……これは厄介ですね」
「何がですか?」
「彼女がこれを持ち出せば、バーラト側は自領民保護を主張できます。今後、身柄をめぐる話になれば、面倒になります」
ベーレントは登録記録を開いたまま答えなかった。
参謀は少し迷ってから続けた。
「二十年以上も使われていない形式的な登録です。教国側では失効したものとして扱う、という処理はできませんか。あるいは――」
そこで言葉を選んだ。
「記録そのものを、教国側データベースに残っていた登録原簿から、消去してしまいましょう。教国として効力は認めない、と……」
ベーレントが参謀を見た。
「一体、あなたは何を言っているのですか?」
声は変わらなかった。
「バーラト市民籍が失効した記録があるのですか?」
「ありません」
「本人が放棄した記録は?」
「……ありません」
「では、有効でしょう」
参謀は黙った。
ベーレントは画面へ視線を戻した。
「こちらにとって都合が悪いからといって、存在する記録を存在しないことにはできません。記録への冒涜です」
***
報告書の草案が上がってきたのは、夜になってからだった。
ベーレントは最後まで読み、末尾の一文で指を止めた。
〈当該女性は、教国による保護拘束の対象と思料する〉
「これは誰の判断ですか」
「……私です。重い病を抱えた旧門閥の女性で、息子は帝国皇帝の側近です。放っておけば、誰に利用されるか分かりません。早急に身柄を確保すべきです」
「そうかもしれません」
ベーレントは否定しなかった。そのままその一文を消し、代わりに打ち込んだ。
〈今後の処遇については、本人の意思を確認したうえでの判断を要する〉
参謀が画面を覗き込んだ。
「本人の意思、ですか」
「まだ誰も、彼女がどうしたいのか、本人の意思を訊いていないでしょう」
***
【同夜 聖都ラディークス 聖録院】
コンラート・フェルディナント・ベーレント聖将の報告書が、聖録院へ届いた。
〈エルフリーデ・フォン・コールラウシュ女史、生存確認〉
本人の処遇について枢機卿団の判断を求める、との要請も付されていた。
旧い名だった。
コールラウシュ家から縁戚のリヒテンラーデ公一族へつながり、さらにオスカー・フォン・ロイエンタールの名が現れたところで、聖録院担当者の手が止まった。
その系譜の先に、現在を生きる名が一つあった。
フェリックス・ミッターマイヤー。
銀河帝国軍大尉。皇帝の側近。
担当者は報告書の冒頭へ戻り、件名をもう一度読んだ。
〈エルフリーデ・フォン・コールラウシュ女史、生存確認〉
――「……それから、ロイエンタール元帥の死について、まだローエングラムへの恨みを消せない者も」
次回、『来るな。教国はお前を待っている』
【人物図譜】
銀河帝国軍大尉 皇帝付参謀 クライン・ヴァルター
【挿絵表示】