【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月 聖都ラディークス・大伽藍】
エルフリーデ・フォン・コールラウシュについての報告書は、その夜のうちに慈母司牧アガーテと七人の枢機卿団のもとへ届いた。
報告を読み終えると、アガーテは目を閉じた。
やがて、慈母司牧アガーテの唇が動いた。
『ノーメン・セプルトゥム・ルーキ・レッデ
ラームス・プロクル・ア・ラディケ・ウォーケム・エイウス・アウディアト』
二句だった。
七人の枢機卿が一斉に手を動かした。聞こえた音だけを、それぞれの記録具へ写していく。
最後の一人が書き終えたころ、アガーテが目を開いた。
神託は下った。
最初に動いたのは、記録と正統史を預かる聖録院宰のプローディアだった。
七人分を照合して異同がないことを確認すると、原文を卓の中央へ投影する。
その隣で、教義と典礼を預かる教理院宰のリトゥスが訳文を組んだ。
『埋もれた名を、光へ返せ
根より遠き枝に、その声を聞かせよ』
第一句の解釈について、枢機卿団では異論が出なかった。
〈埋もれた名〉とはエルフリーデ・フォン・コールラウシュを指し、〈光へ返せ〉はその生存と名を世に公表せよ、という意味である。
問題になったのは第二句の解釈だった。
〈枝〉は単数形であったため「フェリックス・ミッターマイヤー」を指し、これに対応する〈根〉はエルフリーデを指す可能性が高い。字句のとおりに解釈すれば、エルフリーデからフェリックスに何らかの声をきかせよ、という意味だった。だが、どのような声を聞かせるのか、神託は沈黙していた。
アロイジウスは最後の言葉にこだわった。
「〈声を聞かせよ〉、なのですな。〈枝を根へ戻せ〉でも、〈根元へ連れて来い〉でもない。母親が生きていることを息子へ知らせれば、それだけで御言葉は満たされるとも読めますぞ」
スアーダも、その点には異を唱えなかった。
「ええ。神託の文言から読めるのは、そこまででしょう。あとは人の子による解釈で埋める必要がありましょう」
解釈が一巡したところで、アガーテが口を開いた。
「まずはエルフリーデさんの安全のことを第一に考えましょう。聖都の大伽藍へお越しいただけるよう、丁寧にお願いしてください。こちらなら安全も、医療も用意できます。すぐに受け入れてくださらなくても、きちんとお話しすれば分かっていただけると思います」
アロイジウスが眉を寄せた。
「それでも嫌だと仰ったら?」
アガーテは少し考えた。
「その場合、エルフリーデさんはご自分のお気持ちにまだ気づいておられないのかもしれません」
「……自分で、自分の気持ちに気づいていない、と?」
「ええ。エルフリーデさんは二十年以上、限られた方とだけ静かに暮らし、ご自分のことはご自分で決めてこられたのでしょう? 誰かに守られることにも、慣れておられないのだと思います。でも、安全な場所があって、守ってくれる人がいるなら、本当は安心したいはずですよ」
アガーテは穏やかに微笑んだ。
「まずは、何度かお話ししてください。それでもどうしても来てくださらないのでしたら――」
そこで一度、言葉を選んだ。
「そのときは、こちらで安全を優先しましょう。いったんお体は確保して大伽藍までお連れしてください」
アロイジウスは彼女を見た。
「ご本人が、はっきり拒否していても?」
アガーテは少しだけ言葉を探した。
「嫌だと仰った方を、そのままお帰ししたことが、何度もあります。皆さん、とても立派に、ご自分で決めておられました。……ですが、最後には決めることに疲れておしまいになりました」
それ以上は言わなかった。
「危険な状態にある方を、ご本人が嫌だと仰ったからというだけで、そのままにしておくことはできないでしょう?後でよくお話しすれば、きっとわかってくださいます」
「それは、身柄の拘束というのではないですか」
アガーテは少し困ったような顔をした。
「言葉のことは、皆さんにお任せします。でも、怖い思いはさせないでくださいね。手荒なことも、できるだけしないで」
アロイジウスは返事をしなかった。
アガーテは卓上の第二句へ目を移した。
「それから、エルフリーデさんとフェリックスさん。実のお母様と息子さんが二十年以上、一度もお話しになっていないのでしょう? それは、とてもつらいことだと思うのです」
アガーテはそこで一度、卓の縁に置いた指を組み直した。
「エルフリーデさんには伝えたくても伝えられなかったことがあるかもしれないし、フェリックスさんにも、訊きたくても訊けないことがあるかもしれません」
その声には、本当に同情があった。
「でしたら、せめて一度、お二人がお会いして、ゆっくりお話しできる機会を作って差し上げましょう」
アロイジウスは少し長く黙った。
「……それも、ご本人が望まなかった場合は?」
アガーテは不思議そうに彼を見た。
「そんなはずはないでしょう?」
「なぜです?」
「だって母と子ですもの」
即答だった。
「二十年以上も会っていなければ、怖いこともあるでしょう。でも、それは会いたくないという気持ちとは違います。
「……母と子でも、会いたくない者はおりましょう」
アロイジウスが言った。
「ええ、おられるでしょう」
アガーテはあっさり認めた。
「でもね。会いたくないと仰る方ほど、本当は――」
そこで言葉が止まった。
「……ごめんなさい。それは、私が決めることではありませんでしたね」
少しして、同じ穏やかな声が続いた。
「でもね、一度はお会いになった方がいいと思うのです」
アロイジウスはしばらく黙っていた。
「……それでも、はっきり嫌だと仰ったら?」
「そのときは、まず大伽藍へお越しいただいて、ゆっくりお話しすればよいでしょう」
アガーテはそう答えた。
「時間をかければ、きっとご自分の本当のお気持ちに気づいていただけます。気づいていただけるまで、何度でも、何度でもお話ししましょう」
アロイジウスはそれ以上言わなかった。
しばらくして、ベルムが訊いた。
「では、帝国へ宣信院から正式に招聘状を出しますか。フェリックス・ミッターマイヤー大尉を、母親との面会のため教国へ招くと」
アガーテは首を振った。
「いいえ。それはしない方がよいでしょう」
「なぜです?」
「だって正式なお招きにしてしまったら、皇帝陛下や帝国政府のお返事が必要になってしまいますもの。フェリックスさんご自身のお気持ちとは、また別のお話になってしまいます」
そこで少し考え、続けた。
「それに、正式な訪問になれば、フェリックスさんの滞在の日数も、帰る日も、帝国に先に決められてしまうのでしょう?」
ベルムは答えなかった。
アガーテは穏やかに微笑んだ。
「せっかく二十年以上ぶりにお母様とお会いになるのですもの。そんなに急いで帝国にお帰りになる必要はないと思うのです」
「では、大尉本人の判断で来させる、と?」
「ええ。その方がいいでしょう」
アガーテはごく自然に頷いた。
「ご自分で来てくだされば、
そして、少し間を置いた。
「もしフェリックスさんが、皇帝陛下や帝国政府のお許しを待たずに来てくださるのでしたら――その方が、なお、よいと思います」
今度は誰もすぐには答えなかった。
アガーテは、その沈黙を反対とは受け取らなかったらしい。何かを思いついたように、少し表情を明るくした。
「あら、そうだわ。もしフェリックスさんがこちらへ来てくださったら、お父様のことをよく知っている方々ともお話をさせて差し上げましょう」
プローディアが顔を上げた。
「お父様――ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥ですか?」
アガーテは少し意外そうな顔をした。
「いいえ。生まれのお父様の方ですよ。オスカー・フォン・ロイエンタール元帥」
ベルムが腕を組み直した。
「ロイエンタール元帥の旧麾下を呼ぶ、と?」
「まだお元気な方はおられるのでしょう?」
「相当数は残っています。ただし、その多くは新帝国軍へ移りました」
「そうなのですね」
アガーテは少し考えた。
「でも新帝国軍には加わらず、その後それぞれに暮らしておられる方々もいるのでしょう?」
ベルムは一度、プローディアの方を見た。
「いるでしょうな。退役した者も、軍を離れた者も、帝国外へ出た者も」
そこで一度言葉を切った。
「……それから、ロイエンタール元帥の死について、まだローエングラムへの恨みを消せない者も」
「まあ、それはおかわいそうに。でしたら、その方々にも声をかけて差し上げたらどうでしょう?」
アガーテは嬉しそうに言った。
「フェリックスさんは、実のお父様のことをほとんどご存じないのでしょう?帝国で聞けるお話には、どうしても今の帝国から見たものが多くなるでしょうし、お父様のそばで実際に戦い、働き、慕っていた方々のお話も聞いていただいた方がよいと思うのです」
プローディアがわずかに目を細めた。
「別の側から見たロイエンタール元帥も、知ってもらうべきだと?」
「ええ。一つの側から聞いたお話だけで、お父様がどんな方だったのかを決めてしまうのは、かわいそうでしょう?」
アガーテは卓上に残るフェリックスの名を見た。
「きっと、ご自分がどこから来たのか、なぜロイエンタール元帥が先帝陛下に弓を引いたのか、もっとよく分かっていただけると思うのです。その方たちにも、フェリックスさんとお会いいただければ喜んでいただけますよ」
それから、顔を上げた。
「そうだ。もしフェリックスさんに教国に残りたいと仰っていただけるのでしたら、その方々と一緒に働ける場所を作って差し上げるのもよいかもしれません」
ベルムが眉を上げた。
「……軍務を、という意味ですか」
「フェリックスさんも軍人なのでしょう?」
「銀河帝国軍大尉、皇帝の副官です」
「あらあら。でしたら、ちょうどよいではありませんか。お父様をよく知る方々と一緒なら、フェリックスさんもきっと心強いでしょう」
アガーテは卓上の系譜を見ながら、確かめるように口にした。
「フェリックス・フォン・ロイエンタールさん……」
だが、すぐに小さく首を振った。
「いえ。それも私たちが決めることではありませんね」
ベルムがわずかに眉を上げた。
アガーテは嬉しそうに続けた。
「そうだわ。エルフリーデさんには、フェリックスさんに新しいお名前をつけていただきましょう」
誰も口を開かなかった。
「お生みになったときには、きっとそれもできなかったのでしょう?それはとても悲しい話だと思うのです。今度こそ、お母様ご自身に息子さんのお名前を選んでいただきましょう。エルフリーデさんにも、フェリックスさんにも、きっと喜んでいただけますよ」
アガーテの話は、まだ終わらなかった。
「お母様、エルフリーデさんにはこちらで最高の医療を受けていただきましょう。きちんとご病気を治して差し上げれば、フェリックスさんも安心なさるでしょうし――」
プローディアが記録へ視線を落とした。
「エルフリーデ女史は、根治を目的とする治療をこれまで複数回拒絶しています」
「ええ」
アガーテは少しも困った様子を見せなかった。
「ですから、そこも丁寧にお話ししましょう。大伽藍へ来ていただければ、時間はいくらでもありますもの。お母様がお元気になれば、フェリックスさんも、教国でこれからどう生きていくかをゆっくり考えてくださると思うのです」
ベルムは返事をしなかった。
アガーテはその沈黙を、軍制上の問題を考えているだけだと思ったらしい。
ふと、何かを思いついたように顔を上げた。
「これも
何人かが、ほとんど同時に顔を上げた。
プローディアが先に口を開いた。
「慈母司牧聖下。問いを重ねるほど聖座の灯は削られます」
アガーテは小さく頷いた。
「ええ、分かっていますよ」
それから、少し楽しそうに付け加えた。
「ですから今日はこれで最後にしましょう。今日はまだ御門は開かれています」
アガーテは卓上にあるフェリックスの名へ目を落とし、そのまま瞼を閉じた。
七人が黙って待つなか、やがてその唇が動いた。
『ラディケス・ヴィヴェンティウム、フェッロ・フォルティオレス・スント。
ラームス・アド・シルヴァム・スアム・レデアト、エト・インテル・ルーチェス・ウンブラ・ナスカトゥル。
クム・ルーチェルナ・ノヴィッシマ・エクスティンクタ・フエリト、ノーメン・エイウス・ヴォカ。』
七人の枢機卿が一斉に手を動かした。
先ほどと同じように、聞こえた音だけをそれぞれの記録具に写し取っていく。
最後の一人が記録を終えると、プローディアが七つを照合した。
異同はなく、三行句だった。
この神託については、その場で誰も解釈を述べなかった。
妙な沈黙がしばらく卓上に残った。
アガーテは少し困ったように言った。
「あら、気が早い、と少しお叱りを受けてしまったかもしれませんね」
ほどなく次の予定を告げる連絡が入り、アガーテは席を立った。
「では、あとは私の子らで考えてください。エルフリーデさんもフェリックスさんも、怖い思いはさせないようにしてくださいね」
アガーテは七人を見回した。
「まずはお願いしてください。それでも分かっていただけなければ、お守りすべき方を優先してください」
そう言って、穏やかに微笑んだ。
「皆さんに、ご自分の本当のお気持ちに気づいていただき、お幸せになっていただきましょう」
七人は立ってアガーテを見送った。
扉が閉じても、しばらく誰も口を開かなかった。
最初に口を開いたのはスアーダだった。
「では、神託と慈母司牧聖下が示された方針を、実務へ落としていきましょう」
プローディアが記録具を開いた。
「第一段階は任意招請ですか」
「ええ。コールラウシュ女史に、大伽藍への来訪を正式に要請します。移動、滞在、医療はすべてこちらで用意する。まずは本人の同意を取ります」
ノクスが訊いた。
「拒否した場合は?」
スアーダは即答した。
「保護拘束へ移行します」
「身柄を確保するか?」
「ええ」
スアーダは卓上の記録を見た。
「ただし、最初から拘束してはいけません。本人が任意招請を受け入れる可能性は残っています。まず説明し、意思を確認する。それでも拒否する場合には、所在を固定し、身柄を確保して聖都へ移送します」
アロイジウスが顔をしかめた。
「ご本人が逃げた場合も?」
「拒否の意思表示とみなします」
「ずいぶん簡単ですな」
「簡単ではありません」
スアーダは答えた。
「だから先に、任意で来ていただく機会を置くのです」
プローディアが確認した。
「記録上は?」
「拒否までは任意招請。その後は保護命令に基づく身柄確保と移送。言葉を曖昧にしないでください」
アロイジウスが彼女を見た。
「『保護』と書きながら、『身柄確保』とも書くのですな」
「実際にそうするのでしょう。なら、両方書けばよい」
スアーダは淡々と答えた。
ノクスが訊いた。
「いつ確保に移ります?」
「公表と同時には動かない方がよいでしょう」
生存を広く知らせれば、彼女は誰にも知られず消せる人間ではなくなる。公表そのものが、一つの保護になる。そのうえで、公表のあと誰が動くかも見える。
サエクルムが言った。
「その動きを見る、と」
「ええ」
アロイジウスが口を挟んだ。
「エルフリーデ女史を『探知針』にするわけですな」
スアーダは少しだけ間を置いた。
「結果としては」
アロイジウスは顔をしかめた。
「本人の安全にもなる。ついでに周囲の動きも分かる。拒めば最後には拘束する。……ずいぶん都合のよい保護ですな」
「両方が成り立つなら、どちらかを捨てる理由はありません」
そこに悪びれた様子はなかった。
次に検討されたのは、フェリックス本人が動いた場合だった。
ベルムが確認した。
「大尉が正式の招聘状なく教国領へ入ってくれば、ただちに身柄を押さえる。それでよいな」
「ええ」
スアーダは答えた。
「その後は、調略を試みます」
ベルムが彼女を見る。
「母親を使うのか」
「使います」
スアーダはためらわなかった。
「女史には必要な治療を受けていただく。大尉には、お母様が教国の医療によって回復した、その結果を見てもらえばよいのではないでしょうか」
スアーダは淡々と続けた。
「そのうえで、旧ロイエンタール麾下にいた者のうち、新帝国軍には加わらず、ローエングラム朝への恨みを残している者を探し、大尉に会わせます。父親がどのような人間だったのか、彼らの口から聞いてもらいます」
「それで寝返ると思うか?」
「短期的には難しいでしょう」
スアーダは首を振った。
「ですが今説得に至らなくても、無意味にはなりません。まずは、ロイエンタール元帥の麾下だった、第二聖団のオルベルク首席参謀にお願いしてみようと思います」
「……クリストフ・オルベルクか。あの男は恨みの方角が歪んでおる気もするが、たしかに適任かもしれん。だが、ミッターマイヤー大尉が拒んだらどうする?」
「拒絶の内容まで、同時に公表する義務はありません」
ベルムはしばらく黙っていた。
「疑わせるだけでいい、と」
「ええ」
スアーダは答えた。
「寝返ってくだされば、それでよい。そうでなくても、帝国が彼を以前とまったく同じ目で見られなくなれば、一つは残ります」
「大尉が来なかった場合は、どうしますかな?」
アロイジウスが訊いた。
「誰が止めたのかが見えます」
スアーダは答えた。
「本人か、帝国政府か、皇帝か。皇帝が止めたというのなら、それも二人の記憶に残るでしょう」
「使えると?」
「必要になれば」
スアーダはそれ以上言わなかった。
「本人が、そもそも会いたくないと言った場合は?」
ノクスが訊いた。
スアーダは少し考えた。
「判断に必要な事実をすべて公表して伝えるべきでしょう」
彼女はエルフリーデの医療記録を開いた。
「健康状態も公表に含めます」
アロイジウスがすぐに反応した。
「コールラウシュ女史の生き方に深くかかわる情報でしょう。そこまで公にする必要がありますかな」
「息子へ母親の生存を知らせながら、重大な健康状態だけ伏せる理由がありますか」
「それを読めば、急がずにはいられなくなるかもしれませんな」
スアーダは彼を見た。
少しだけ間があった。
「そうでしょうね」
それだけだった。
アロイジウスは何も言わなかった。
リトゥスがそこで線を引いた。
「確認しておきますが、今議論されたことのほとんどは神託の解釈ではありません。病状を公表することも、女史を拒否後に拘束することも、来訪した大尉を確保することも、聖座の門より頂いた御言葉にはありません」
「承知しています」
スアーダは答えた。
「記録にもそう残してください」
プローディアが頷いた。
彼女が気にしたのは、病状の書き方だった。
「余命は出せません。推測ですから」
「必要ありません」
「治療を拒否している、という表現も避けます。診察や対症療法は受けています」
「虚偽は書きません。確認できているところまで、書きましょう」
公報に載せるのは、重い疾患を抱えていること、継続的に医療を受けていること、根治を目的とする治療については本人が選択していないこと。その先は書かない。
「それで十分です」
スアーダは言った。
公報の骨格は、そこで固まった。
宣信院が公報案を開いた。
その一方で、聖廉院には別の指示案が回された。
まず、大伽藍への任意招請。
所在監視は継続する。
本人が招請を受け入れない場合には、保護命令へ切り替える。
必要な範囲で身柄を確保し、医療要員を同行させたうえで聖都へ移送する。
抵抗があっても、生命に危険を及ぼす手段は用いない。
公報の上には、まだ神託の第二句が残っていた。
『根より遠き枝に、その声を聞かせよ』
スアーダはしばらくそれを見てから、二つの文書へ視線を移した。
一つは、銀河へ向けて公表されるもの。
もう一つは、一人の女がそれを拒んだときに使われるものだった。
誰も、それ以上神の話はしなかった。
***
【帝都 皇帝府】
アレクは教国の公報を一度最後まで読み、二度目は自分の副官の名が出てくる箇所で手を止めた。
エルフリーデ・フォン・コールラウシュ本人の現在映像も音声もなく、所在地も示されていない。教国がすでに身柄を確保しているのか、それとも所在だけを把握しているのかさえ、公報からは読み取れなかった。
「照合を続けろ。本人性と現在地を優先してくれ」
担当者たちが命令を復唱する。
フェリックスはアレクの斜め後ろ、いつもの副官の位置に立ったまま何も言わなかった。公報に自分の名が出てからも、表情はほとんど変わっていない。
アレクは何件か追加の指示を出してから、室内を見回した。
「以上だ。下がってくれ」
担当者たちが退出し、扉が閉じた。
部屋に二人だけになるまで、フェリックスは副官の姿勢を崩さなかった。
最後の足音が遠ざかる。
アレクは手元の端末を持ち上げ、振り返った。
「フェリックス」
「何だよ」
それだけで、もう皇帝と副官ではなかった。
アレクは端末を差し出した。
「読んでくれ」
「嫌な言い方だな」
「僕もそう思う」
そう言いながら受け取り、フェリックスは画面へ目を落とした。
エルフリーデ・フォン・コールラウシュという名は知っている。自分がその女から生まれたことも、オスカー・フォン・ロイエンタールとの間に何があったのかも、ミッターマイヤー夫妻は隠して育てなかった。
ただ、それはこれまで、父と母から聞かされた昔の話の中にしか存在しなかった。
生きているのか、もう死んでいるのか。それすら知らない。確かめようと思ったこともなかった。
自分が生まれる前後の、遠い世界の話だった。
自分の血につながってはいる。けれど、自分の人生とはほとんど交わらない話だと思っていた。
フェリックスは一度だけ指を止めたが、そのまま最後まで読んだ。読み終えてもすぐには端末を返さず、自分の名前が書かれた箇所まで画面を戻す。
フェリックスは自分の名がある一文を指で二度叩いた。その軽い音が止んでから、少し考えるように画面を見ている。
「教国は、俺を動かしたいんだろうな」
「たぶんな。ただ、まだ推測だ」
「分かってる」
アレクはそこで初めて、目の前の男の顔を少し長く見た。
「……行きたいとは言わないんだな」
フェリックスが顔を上げた。
「どこへだよ」
アレクは答えなかった。
フェリックスは端末を閉じた。
「名前を出されたから走っていけば、向こうの思う壺だろ」
「ああ」
フェリックスがアレクを見た。
「……何だよ」
「そう言うと思ってた」
「だったら訊くな」
アレクはフェリックスを見た。
「フェリックス。お前がどう思ってるのか、お前の口から訊いておきたい」
フェリックスは少し黙った。
「今は行かない」
「今は?」
「本人がどこにいるのかも、俺に会いたいのかも分からない。教国が何を企んでるのかも分からない。それだけ分からないことがあるのに、産みの母親だってだけで飛び出していく気はない」
端末をアレクへ返すと、そのまま扉へ向かう。だが出ていく直前になって足を止め、振り返らないまま言った。
「何か分かったら、すぐ教えろ」
「ああ」
今度はアレクも、それ以上のことを言わなかった。
***
【教国領 惑星アロヨ・ド・モリノ 連棟住宅】
その夜、アロヨ・ド・モリノの連棟住宅で、イルゼ・ヴァイゲルトは二つの鞄を玄関脇へ運び終えたところだった。
「もう出られます」
エルフリーデが椅子の肘掛けへ手を置いたとき、壁際の受信端末が鳴った。
緊急警報ではない。
教国中央から対外公報が出たときに鳴る、普段ならほとんど気にも留めない音だった。
イルゼが画面を見て、そのまま動きを止めた。
「……エルフリーデ様」
教国の国章。その下に〈宣信院発表〉の文字がある。
放送が始まった。
『神聖黄金樹教国は本日、旧銀河帝国リヒテンラーデ公一族に連なるエルフリーデ・フォン・コールラウシュ女史が、現在も生存していることを確認した』
イルゼが振り返った。
エルフリーデは座ったまま、画面を見ていた。
「ずいぶん早かったわね」
公報は、彼女が長年にわたって旧自由惑星同盟領内で一般市民として生活していたことへ短く触れた。
そこから先は、二十数年前の名前が並んだ。
リヒテンラーデ。
ロイエンタール。
その間に生まれた一子。
ミッターマイヤー夫妻。
エルフリーデは黙っていた。
『その一子は現在、フェリックス・ミッターマイヤー銀河帝国軍大尉として、ローエングラム王朝に仕えている』
イルゼの表情が変わった。
「フェリックス様のことまで……」
公報はさらに、エルフリーデが現在重い疾患を抱えていること、根治を目的とする治療を本人が選択していないこと、教国がその安全確保と保護に努めていることを告げた。
最後に、本人へ大伽藍への来訪を要請した。移動も滞在も医療も、すべて教国が用意するという。
そこで放送は終わった。
部屋に、宇宙港から伝わる低い振動だけが残った。
エルフリーデは画面を見たまま言った。
「生きていると知らせるだけなら、あの子の名前まで出す必要はないわ」
イルゼは返事をしなかった。
「まして、あの子がどこにいて、何の階級なのかなんて関係ない」
「では……」
エルフリーデが画面から目を離した。
「……あの子に聞かせているんだわ」
イルゼの唇がわずかに開いた。
それ以上、エルフリーデは言わなかった。
肘掛けに手を置き、ゆっくり身体を起こす。若いころなら意識もしなかった動作に、いまは少し時間がかかった。
イルゼは急かさなかった。立ち上がるのを待ってから、いつものように腕を差し出した。
「行きましょう」
「ええ」
玄関を出る前に、イルゼは一度だけ部屋を振り返った。
伏せた食器。読みかけの本。水の残ったグラス。窓際の椅子。
二十数年前にも、二人は持てるものだけを持って去った。
今度も、全部を持って行くことはできなかった。
***
【新帝国暦二十四年四月 惑星アロヨ・ド・モリノ 旧港湾区・短期宿泊棟】
エルフリーデとイルゼの二人が移ったのは、以前の家からそう遠くない古い宿泊棟だった。宇宙港で働く短期の労働者が寝に帰るだけの建物で、部屋には寝台が二つと小さな卓が一つあるだけだった。
イルゼは荷物を置くと、まずエルフリーデを座らせ、次の薬を差し出した。
「さっき飲んだわ」
「もう時間です」
「こういうところだけ、昔より頑固になったわね」
「昔からです」
エルフリーデが薬を飲み終えると、イルゼは端末を開いた。帝国へ直接送れば発信元を探られる。宛先に使ったのは、港湾区の掲示に数日前から出ている番号だった。無断出航した作業艇として、登録番号が張り出されている。船舶登録はまだ生きており、船宛ての通信は現在の管理先へ転送される設定のままだった。
「何とお書きしますか」
エルフリーデはしばらく黙っていた。それから、短く言った。
イルゼはそれを一字も変えずに打ち込み、その前に自分の言葉を三行だけ足した。現在地も返信先も書かなかった。
送信が終わると、イルゼは履歴を消し、別の番号を呼び出した。まだアロヨ・ド・モリノにいるかという一文だけを送る。
返事はすぐに来た。
〈おります。必要でしたら、そちらから場所をお知らせください。少々支度をしてから一時間ほどでお迎えにあがります〉
「理由は訊かれないのね」
「はい」
イルゼは宿泊棟の所在地を送った。
一時間ほどして、廊下の足音が部屋の前で止まった。
扉の外には、アルフレット・フォン・ランズベルクが立っていた。濃い色の外套に、小さな旅行鞄。夜中に呼び出された男にしては、襟まできちんと整っている。
ランズベルクは一礼して部屋へ入り、二人の足元の鞄を見た。事情は訊かなかった。
「これから、どちらへ参りますか?」
「まだ決めていないわ」
「承知しました。では、ここを離れるお手伝いだけいたしましょう。その先はエルフリーデ嬢……いえ、コールラウシュ女史がお決めください」
エルフリーデはしばらく彼を見ていた。
「それでいいわ」
そこまでは、よかった。
「移動に先立ちまして、一つだけ準備してまいりました」
ランズベルクは旅行鞄を卓に置き、十数枚を綴じた束を取り出した。表題は几帳面な文字で書かれていた。
〈移動時説明要領――亡命貴族ホーエンフェルス=アルテンブルク家最後の令嬢、その帰郷について〉
エルフリーデが表題を見た。
イルゼも見た。
「……『最後の令嬢』というのは、一体誰?」
「もちろん、コールラウシュ女史です」
「私、なのね」
「はい」
「……それ、いつ書いたの?」
「お返事を差し上げてから、支度に一時間いただきましたので」
「支度って、これ?」
「外套も着ました」
ランズベルクは束を閉じ、エルフリーデへ渡した。
「お読みいただくのは車の中で。通信をなさった以上、ここに長くはいられません。裏に港湾作業用の車を一台確保してあります」
イルゼが鞄を持ち上げた。ランズベルクが二人分の鞄へ手を伸ばす。自分の旅行鞄は、もう片手に提げていた。
「一つでいいわ」
エルフリーデが言った。
「夜中に鞄を三つ抱えた男なんて、真っ先に止められるわよ」
ランズベルクは三つの鞄を見て、廊下を見た。
「……おっしゃるとおりです」
彼はエルフリーデの鞄だけを持った。
扉の前で、イルゼはランズベルクの旅行鞄に目をやった。口の隙間から、大判の紙が折りたたまれて覗いている。
「ランズベルク伯、それは?」
「『ホーエンフェルス=アルテンブルク家』の家系図です。先ほど作ったのですが、自信作です」
「……偽の家系図まで持っていくのですか?」
「何が起きるか分かりませんので」
「使わないと思います」
「歴史とは、往々にして、必要とは思われなかった一切れの紙片によって――」
エルフリーデはもう廊下に出ていた。
「もう行くわよ」
「ちなみに、ホーエンフェルス=アルテンブルク家の起こりですが、もとはホーエンフェルス家とアルテンブルク家という二つの家に分かれておりました。ホーエンフェルス家の祖は、ダゴン星域の会戦に従軍しておりました。敗走の際に三隻の輸送艦を救った功によって――」
エルフリーデが振り返った。
「いいから行くわよ」
***
【同夜 旧港湾区 港湾作業車】
港湾作業用の車は座席が固く、暖房の効きが悪かった。ランズベルクが運転し、エルフリーデとイルゼが後部座席に並んだ。
「港湾区の出口に検問があります」
走り出してすぐ、ランズベルクが言った。
「十分ほどで着きます。それまでに、『エリーザベト女史』の部分だけ覚えていただけますか」
「……『エリーザベト』って、誰?」
「もちろん、コールラウシュ女史です。今から、『エリーザベト・フォン・ホーエンフェルス=アルテンブルク嬢』になっていただきます」
「……覚えなきゃいけない分量、どのくらい?」
「たった七頁ほどです」
「病人に七頁?」
ランズベルクが止まった。車は止まらなかった。
「あ」
少しして、前の席から声がした。
「……束の、四枚目と五枚目を抜いてください。それから、七枚目も」
イルゼが言われたとおりに抜いた。
「まだ四頁あります」
ランズベルクは少し考えた。
「あと八分です」
エルフリーデは車内灯の下で一頁目を開いた。
「……『第十代当主アルノルト・エルンスト・フォン・ホーエンフェルス=アルテンブルクは宮廷の政争で、国務尚書から兄コンラートを告発するよう命じられたが、これを敢然と拒み、妻と幼い息子、三箱の蔵書だけを携え、亡命した』」
顔を上げる。
「……お兄さんを告発しなかった話まで、要る?」
「ホーエンフェルス=アルテンブルク一族が亡命した理由ですので」
「税金が嫌だった、とかでは駄目なの?」
「そんな即物的なものでは、七十年後まで語り継ぐほどの亡命の理由になりません」
「じゃあ、皇帝の勘気に触れたとか」
ランズベルクが顔を上げた。
「何を言っておられるのですか!ホーエンフェルス=アルテンブルク家の兄弟といえば、忠臣中の忠臣なのです!」
「……そう」
「皇帝陛下に背いたのではありません。兄を陥れる虚偽の告発に加担することを拒んだため、佞臣であった国務尚書の卑劣な策謀によって、虚偽を吹き込まれた皇帝陛下のお怒りに触れて宮廷に居場所を失ったのです」
「それ、勘気に触れたってことじゃないの?」
ランズベルクは聞かなかったことにした。
エルフリーデは紙を見た。
「蔵書も『三箱』?逃げるときにそんなに持っていく?」
「……では、『一箱』で結構です」
次の頁はイルゼの分だった。代々この家に仕えてきた使用人一族の末裔で、母もその家で働いていたことになっている。
「……私の母まで出てきますね」
「お名前もあります」
「あるのですか」
「ルイーゼです」
イルゼは顔を上げた。
「なぜルイーゼなのですか?」
ランズベルクは交差点を一つ曲がってから答えた。
「……『イルゼ』という名の娘がいそうだと思いました」
エルフリーデが窓の方を向いた。
「あと六分です」
想定質問の頁には、目的地、滞在日数、体調、同行者との関係が並んでいた。その下に〈会話が長引いた場合〉という項がある。
〈今回の移動目的――ホーエンフェルス=アルテンブルク家の旧墓所の所在確認。亡父の遺品から、この一帯に一族の墓所が残っている可能性が判明したため、地方史家アルフレット・フォン・ランズベルクの案内で現地を訪れる〉
エルフリーデが顔を上げた。
「……お墓まであるの?」
「ええ。ですが現在、所在は不明です」
「ないんでしょ?」
「ですから、今から探しに行くのです」
エルフリーデは紙へ目を戻した。
「……こんな夜中に?」
「墓所探索とは、そういうものです」
「何、この質問。『亡命した御先祖は、どのような方でしたか?』」
エルフリーデが読み上げた。
「……そんなこと検問で訊かれる?」
「亡命貴族に興味を持つ方かもしれません」
「検問官が?」
「はい、歴史好きなら」
その下には、振る舞いの指定まであった。
〈答えたくない過去に触れられた場合、一度窓外の遠くの方へ視線を向ける。三秒静止した後、静かに「……昔のことです」と答える〉
「演技指導までつくの?」
「目を伏せると、嘘をついているように見えますので」
「もういいわ」
最後の半頁は文字が少なかった。
〈絶対に口にしない事項〉
一、銀河帝国。
二、フェリックス・ミッターマイヤー。
三、エルウィン・ヨーゼフ二世。
エルフリーデはその三行を、しばらく見ていた。
「これだけは覚えておくわ」
「ありがとうございます。では、前の部分も最低限――」
「嫌」
ランズベルクは少し黙った。
「承知しました」
前方に、検問所の灯が見えてきた。
「『エリーザベト』様。あと二分です。せめて半分くらい――」
「覚えないわよ。あと、『エリーザベト』って呼ばないで」
***
【同夜 旧港湾区出口・車両検問所】
検問所の照明は、夜の港湾区で一番明るかった。前に貨物車が二台並んでいる。
ランズベルクは速度を落とした。後部座席で、エルフリーデは最後の半頁を膝の上に伏せた。
順番が来ると、若い係官が運転席の窓に顔を寄せた。その後ろに、年配の係官が端末を抱えて立っている。
ランズベルクは身分証と一緒に、聖録院発行の臨時移動資格を差し出した。
若い係官は表示を読み、目を上げた。
「参考人協力……。こんな時間に、お仕事ですか、ランズベルク伯爵?」
「私用です」
若い係官は瞬きをした。
「……私用?」
「はい」
若い係官は後部座席を覗いた。
「そちらの方々は」
「亡命貴族ホーエンフェルス=アルテンブルク家の、最後のご令嬢、エリーザベト様と、そのお付きの方です」
若い係官の顔つきが変わった。
「なんと、亡命貴族……もしかしてローエングラム朝ではなく、ゴールデンバウム朝時代の、ですか」
後ろで、年配の係官が息を吐いた。
「また、歴史好きが始まったか……」
若い係官は聞いていなかった。後部座席の窓へ回り込み、身をかがめる。
「失礼ですが、ご令嬢ご本人でいらっしゃいますか?エリーザベト様と仰いましたか?」
エルフリーデは一拍置いた。
「……え? ええ」
「今日は、こんな時間にこちらで何をされているんですか?」
エルフリーデはランズベルクの後頭部を見た。
「……父の遺品に、この辺りに一族の墓所があるらしい記録があったの。それを探しに来たのよ」
「御先祖のお墓を?」
「ええ。七十年も前の話だから、残っているかどうかも分からないけれど」
若い係官の目が少し輝いた。
「あの、差し支えなければ。亡命された御先祖は、どのような方だったんですか」
ランズベルクが振り返りかけた。
「それは私から――」
「いえ、ぜひエリーザベト様ご本人から伺いたい」
ランズベルクは前を向いた。
エルフリーデは運転席の後頭部を睨んだ。
後頭部は何も答えなかった。
「……宮廷の政争で、第十代当主が兄に対して虚偽の告発をするよう命じられたそうよ」
若い係官が頷いた。
「……なんと卑劣な。御当主はそれを拒んで、奥方と、幼い若君を連れて」
エルフリーデは一度だけ言葉を切った。
「三箱の蔵書だけを持って、国境を越えた、そうよ」
「ほう……そのような状況で、蔵書を三箱も!」
若い係官は胸の手帳を出して『蔵書三箱』と書き留めた。
ハンドルの上で、ランズベルクの指が一度だけ動いた。
「ですが、兄君を告発しなかったというだけで、国までお捨てにならねばならないなんて」
エルフリーデは係官の顔を見たまま言った。
「それくらいの亡命の理由でなければ、七十年後まで語り継がれることにならないでしょう?」
若い係官はしばらく手帳から顔を上げなかったが、やがて感じ入ったように言った。
「心に染み入ります。良いお言葉ですね」
「……そうでしょうか」
「ところで今も、帝国の方にご親戚は?」
車内の空気が止まった。
エルフリーデは、ゆっくりと窓の外へ顔を向けた。
港湾区の照明の向こうには、係留艦の灯が並んでいる。
三秒経過。
「……昔のことです」
若い係官は姿勢を正した。
「……! それは、失礼いたしました」
係官の目がイルゼへ移った。
「そちらの方は?」
イルゼは背筋を伸ばした。
「ルイーゼの娘、だそうです」
若い係官は深く頷いた。
「ルイーゼさんの……?」
「おい」
年配の係官が言った。
「後ろが詰まってる」
「あと一つだけ」
若い係官は窓枠に手をかけた。
「あの、もしかして家系図とか……残っていたりは、しませんよね。七十年も経つと」
ランズベルクは何も言わず、助手席の旅行鞄を開けた。折りたたんだ一枚を抜き、窓から差し出す。若い係官は両手で受け取り、慎重に広げた。
しばらく、何も言わなかった。
「……これは、宮廷系譜院式ですか」
ランズベルクの眉が、わずかに上がった。
「おお、お若いのに、お分かりになりますか」
「ええ。直系を中央に置いて、婚姻で入った家を左右へ振って、傍系は世代ごとに線を一段落とす。今はもう、こんな書式で作る人はいません」
係官は紙面へ顔を近づけた。
「それに、これ……もしかして、最近ご自分で引き直されました?」
「ええ」
ランズベルクの返事が少しだけ早かった。
「見やすいでしょう」
「ものすごく見やすいです」
ランズベルクの口元が、はっきり緩んだ。
若い係官は家系図をもう一度眺め、それから少し遠慮がちに訊いた。
「差し支えなければ、一枚、撮らせていただいてもよろしいですか。……その、書式の参考に」
「ぜひ」
ランズベルクは即答した。
それから一拍置いて、少し声を抑えた。
「ぜひ、どうぞ」
係官は端末を取り出し、家系図が歪まないよう角度を確かめながら、一枚撮った。
ランズベルクはその様子を、少し嬉しそうに見ていた。
年配の係官がその肩越しに端末を突き出した。
「おい、身分証は見たのか」
若い係官が止まった。
「あ」
年配の係官は自分で窓から手を差し入れた。三人分の身分証が、順に端末へかざされる。
エルフリーデは膝の上の半頁を押さえていた。
表示は三つとも緑だった。
二つには、小さく注記が付いていた。
年配の係官はそれを読み、後部座席へ一度だけ目を向けた。それから、ランズベルクの臨時移動資格にもう一度目をやった。それから何も言わずに端末を下ろした。
「行け」
若い係官は名残惜しそうに家系図を返した。
「御先祖のお墓、見つかるといいですね」
遮断棒が上がった。
検問所の灯が後ろへ遠ざかるまで、誰も口を開かなかった。
港湾区を出て最初の角を曲がったところで、エルフリーデが言った。
「……何か言いたいことがあるなら、言いなさいよ」
「ございません」
車はしばらく黙って走った。
ランズベルクが呟いた。
「……『三箱』と、おっしゃいました」
「黙って運転して」
ランズベルクは黙って運転した。
***
【惑星ハイネセン ハイネセン宇宙港・保安区画】
メッセージがバーラト側で見つかったのは翌朝だった。
ヨーゼフが逃亡に使った作業艇は、まだ通常運航へ戻されていない。通信識別も保安上の監視下に置かれていたため、教国領から届いた短い船舶通信は港湾保安を経て、そのまま保安区画へ回された。
ムライがヨーゼフへ端末を渡した。
「あなたが使った艇宛てです」
ヨーゼフは一行目を読んで、眉を寄せた。
〈あなたを通した者です。〉
「……あの人か」
逃亡の日、旧整備路を開けた病弱な女。付き添っていた女が、一度だけ「エルフリーデ様」と呼んでいた。
ムライは言った。
「そう見るのが自然でしょう。ただ、送信者は確認できていません」
少し離れたところでバグダッシュが受信経路を見ていた。
「悪戯にしちゃ、送り先を知りすぎてる」
ヨーゼフは最後まで読んだ。
「どういう事情かは知らんが、このメッセージを帝国へ送る」
「自治政府から送ります」
「俺からじゃ駄目なのか」
「あなたが本物だと思ったことまで、事実として一緒に届いてしまいます」
バグダッシュが画面から目を上げずに付け足した。
「送信者未確認、と書いておけ。親切に断定してやる必要はない」
ヨーゼフは二人を見た。
「面倒だな」
「情報というのは、だいたいそういうものです」
ムライの返事に、ヨーゼフは小さく鼻を鳴らした。
「じゃあ、それで頼む」
ヨーゼフは端末を返しかけて、手を止めた。
「……俺に何かできることはあるか」
ムライは少し考えた。
「いまのところは、ありません」
「そうか」
ヨーゼフは端末をムライへ渡した。それから、もう一言だけ付け加えた。
「向こうが本人かどうか確かめる必要が出たら、俺に訊いてくれ。あの日の港のことは、あの二人と俺しか知らない」
バグダッシュが初めて画面から顔を上げた。
「何を知っているんです」
「どの扉が開いて、どの道を通ったかだ」
ヨーゼフは足元の工具箱を持ち上げた。訓練艇の点検が、まだ途中だった。
***
【帝都 皇帝府】
バーラト自治政府からの通信は、その日のうちに皇帝府へ届いた。
原文に加えて、送信時刻、経路、船舶識別情報が添付され、末尾には〈送信者本人の身元は未確認〉との注記がある。一隻の作業艇へ送られた私信を港湾保安が拾い、バーラト自治政府が正式に帝国へ転送したものだった。
アレクは本文より先に経路を読み終えると、傍らに立つフェリックスへ端末を差し出した。
「バーラトからだ。発信地は教国領内。注記によれば、ヨーゼフ・ベルガーが逃亡に使った作業艇宛てだそうだ」
フェリックスは何も言わずに受け取り、添付された通信経路へ目を通した。
「送信者は?」
「確認できてない。ただ、ヨーゼフを通した人間が関わってる可能性は高い」
それだけ聞くと、フェリックスは本文を開いた。
〈あなたを通した者です。〉
〈エルフリーデ様は無事です。〉
フェリックスは続きを表示した。
〈フェリックス・ミッターマイヤー大尉に伝えてください。〉
その下に、二行だけあった。
『来るな。
教国はお前を待っている』
――「……俺には、いらないものを置いていく人間の手つきや表情には見えなかった」
次回、『一人の臣民』
【神聖黄金樹教国 枢機卿団――六院一寮】
教国中央には「六院一寮」を置き、七名の枢機卿が各部門を管掌する。
・聖録院 = プローディア枢機卿
所管:記録・名簿・正統史
略記:記録
・財務院 = サエクルム枢機卿
所管:財源の管理
略記:財務
・教理院 = リトゥス枢機卿
所管:教義・典礼
略記:教義
・宣信院 = スアーダ枢機卿
所管:宣伝・布教・対外交渉・教国方針の伝達
略記:対外
・辺境司牧院 = アロイジウス枢機卿
所管:各地の聖堂を通じた生活支援・配給・診療所・家族照会
略記:民生
・聖廉院 = ノクス枢機卿
所管:監察・審問・耳目
略記:監察
※聖廉院の配下には、〈耳目〉(オクリ・エト・アウレス)と呼ばれる組織がある。
〈目〉は、公然と人々を見守る監察の役目。
〈耳〉は、信徒や敵味方の軍組織の内部に入り、言葉を拾い、密かに中枢へ運ぶ役目を担う。
・聖序寮 = ベルム枢機卿
所管:軍務
略記:軍