銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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幕間五 譲る、ということ

【新帝国暦十二年初夏 帝都レーヴェンシュテルン 帝国軍士官学校・大講堂】

 

 

皇帝アレクサンデル・ジークフリード・フォン・ローエングラム。

この年、九歳である。

 

帝都レーヴェンシュテルンの帝国軍士官学校、その大講堂の壇上に、幼い皇帝の姿があった。

 

臨席のために据えられた椅子は大人の寸法で、床に足が届かない。

爪先がわずかに宙に浮いている。

それでもアレクは背筋を伸ばし、身じろぎひとつせず座っていた。

動いてはならぬ場所では動かぬこと。

侍従に幾度となく言い含められた作法を、彼は律儀に守っていた。

 

眼下には、その年の卒業生が整列している。

真新しい軍服。張りつめた首筋。これから宇宙の各所へ配されてゆく、帝国士官の卵たちだった。

先の大戦が終わって、十年あまり。

彼らのほとんどは、あの戦火を子供として遠くに見ただけの世代である。

抜くべき剣の敵が、いない時代に育った軍人たち――そういう幸福な、あるいはどこか手持ち無沙汰な世代だった。

 

その先頭。

総代の位置に、ひとりの青年が立っていた。

 

アルブレヒト・フォン・ミュッケンベルガー。

 

二十歳。

卒業生総代。首席で課程を修めた者。

 

その名は、講堂のそこかしこで囁かれていた。

旧帝国、ゴールデンバウム朝時代の宇宙艦隊司令長官、グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー元帥の孫。

武門の名家の血筋。

そして、祖父と同じ、首席卒業。

ここまでは、誰もが得心する血の話であった。

 

だが囁きは、そこで妙な色を帯びる。

 

「――あれが、噂の番頭(クレーマー)か」

 

総代ともあろう者が、卒業にあたって選んだ道は、常軌を逸していた。

首席には例年、用兵の中枢、作戦をつかさどる花形の参謀ポストと、その先の統帥本部への道が約束されている。

祖父もまた、その道を昇りつめた男だった。

だがアルブレヒトが望んだのは、その花道ではなかった。

前代未聞にも、この青年は、後方の兵站を選んだ。

 

前線で艦隊を率いるのではない。

弾薬を数え、燃料を配り、兵の食う糧を送りとどける。

帝国軍のなかでは、地味な裏方の仕事である。

 

もっとも、それでも彼は、兵科の将校ではあった。

艦を預かり、いずれは艦隊を率いる資格を持つ側。

主計将校とは、別である。

だが、勇と武を尊ぶ帝国軍の気風のなかでは、その別が、たいして重んじられなかった。

後方に回る者は、みな一緒くたに、勘定方あつかいされる。

 

首席で出たくせに、主計の真似ごとか。

商店の店番か。番頭か。

心ない同期のつけた蔑称「番頭(クレーマー)」の異名は、卒業を待たずに宮廷まで届いていた。

 

 

その「番頭」が、いま総代として、答辞を読もうとしていた。

 

壇に進み出た青年は、武門の名家の総代にしては、どこか締まりがなかった。

眠たげに半ば伏せた目。

まっすぐ立っているつもりらしいが、脱力した肩の線。

式典の格式を心底面倒がっている、そう見えなくもない立ち姿だった。

 

答辞。

 

忠誠を誓い、武勲を期し、先帝の遺した理想に殉ぜんと述べる。

そういう型が、この場には期待されていた。

 

だがアルブレヒトの口から出たのは、ずいぶんと勝手の違う言葉だった。

 

「――戦というものは」気だるげに、しかしよく通る声で、青年は言った。

「勇気で勝てるものではありません。数と、糧と、続ける力で決まります。華々しい突撃のひとつが成る、その陰で。弾を運び、飯を炊き、傷を縫っている者が、必ずいる。その者たちがいなければ、どんな名将も、三日と戦えません」

 

会場が、かすかにざわめいた。

祝いの席にはそぐわぬ、身も蓋もない話だった。

 

「ボクは、その地味な裏方へ参ります」アルブレヒトは、あくびをこらえるような顔で続けた。

「面倒な役です。士官学校の兵科を出た者なら、誰も、やりたがらない。ですが、番頭のいない店は、回りませんので。仕方がないでしょう」

 

教官のひとりが、苦い顔をした。

武門名家の総代が答辞の壇上で口にするには、あまりに華のない、そして、どこか人を食った締めくくりであった。

「番頭」と陰口をたたかれた男は、その蔑称を、こともなげに自分の口から言い返してみせたのだ。

 

壇上の椅子で、アレクは小さく身を乗り出していた。

 

大人たちが眉をひそめる、その言葉のどこが、アレクには少し好ましかった。

うまくは言えない。

 

(……なんだか、いい人みたいだ)

 

幼い皇帝は、理屈ではなく、そう感じた。

 

答辞は、儀礼どおりの拍手で閉じられた。

心のこもった拍手であったかどうかは、また別の話である。

式典は、つつがなく終わった。

 

――そして、この日の栄誉は、まだ半分を残していた。

卒業生とその家族には、宮廷における皇帝拝謁の栄が待っている。

総代アルブレヒトと、その祖父である旧帝国の元帥もまた、獅子の泉へ上がることになっていた。

 

 

***

 

 

獅子の泉の一室に、拝謁の間が設けられていた。

卒業生とその家族が、順に幼帝の前へ進み出て、栄誉を賜ってゆく。

 

新帝国は、旧王朝の軍人であっても、戦争犯罪に手を染めなかった者には、恩給と叙勲を惜しまなかった。

爵位も勲章も、もはや実権には繋がらない。

名誉だけを与え、力は与えぬ。

寛容だが、甘くはない。

先帝の敷いたその統治の作法ゆえに、旧帝国の元帥もまた、こうして獅子の泉へ上がることを許されていた。

 

グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー。

 

八十を過ぎてなお、その背は一分の狂いもなく伸びている。

堂々たる押し出しは、いっそ皇帝よりも皇帝らしいとさえ評された往年のまま、いささかも衰えて見えなかった。

 

老元帥は幼帝の前に進み出るや、深々と、旧王朝の作法どおりの礼をとった。

 

「臣、グレゴール・フォン・ミュッケンベルガー。皇帝陛下の御尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じ上げまする」

 

堂々たる老将が、旧時代の臣下の礼を、寸分も崩さず、幼い皇帝に捧げている。

その光景に、居並ぶ者たちは、しばし声を失った。

 

「大儀である、ミュッケンベルガー元帥」アレクは、教えられたとおりの言葉を、皇帝の声で返した。

 

つづいて、その孫が進み出る。

総代アルブレヒトは、祖父の隣に立つと、その視覚的な落差が、いっそう際立った。

堂々たる祖父と、脱力しきった孫。

 

片や一分の狂いもない背筋、片や、あくびをかみ殺している眠たげな目。

 

アレクは、その孫のほうへ、目を向けた。

教えられた労いの言葉を述べようとして、ふと、それだけでは足りぬ気がした。

 

「総代」幼帝は、皇帝の声で言った。

「さきほどの、答辞。……あれは、よかった」

 

「はあ」アルブレヒトは、気のない返事をした。

 

「あえて目立たぬ役を務める。……よい心がけだ」そこまで言って、幼帝の声から、硬さが、ほんの少しだけ抜けた。

「余も、店番というものを、やってみたい」

 

「はあ」アルブレヒトは、気のない返事をした。

それから、眠たげな目で、ちらと幼帝を見た。

「……陛下。それ、たぶんいちばん、陛下がなりたくてもなれないやつですよ」

 

それだけの、やりとりだった。

 

そのときだった。列のうしろのほうで、押し殺した囁きが漏れた。

 

「……負け犬どもの領袖が、面の皮も厚い。よくもまあ、素知らぬ顔で、この御前へ……。恥という言葉を知らぬ、卑劣漢とみえる」

 

聞きとがめた声が、すぐさま飛んだ。

 

「そこの!」

 

宇宙艦隊司令長官ミッターマイヤーだった。

「言いたいことがあるなら、この場で、大声で言うがいい。陰でこそこそ囁くのは、感心せんな。……そら、そこにいるビッテンフェルトのように、な。あの男はいつでも、思ったことを宇宙一の大声で言う」

 

半ば冗談、半ば本気の一喝に、場がしんと静まった。

 

が、当のビッテンフェルトが、自分の名を聞きとがめた。

 

「おう、呼んだか、ミッターマイヤー!」

 

黒色槍騎兵(シュワルツ・ランツェンレイター)の猛将は、のっそりと歩み出た。

そして、どうやら誰かが、老元帥を卑劣漢呼ばわりしたらしい、と察するや、我が意を得たりとばかりに胸を張った。

 

「おれの家の家訓はな、こうだ。他人を褒めるときは大きな声で、悪口はもっと大きな声で言え! ……だから、はっきり言ってやる!」

 

そして、宇宙一の大声で、堂々と、こう言い放った。

 

「このミュッケンベルガー元帥はな、卑劣漢などでは断じてない!たしかに、軍人としては、まるっきり無能だった!先帝陛下の足元にも及ばなんだ!おれが若造の頃から、負け戦の数なら右に出る者はおらん凡将だったがな!……だが、卑劣漢では、断じてなかった!そこだけは、このおれが保証してやる!」

 

拝謁の間が、凍りついた。

 

老元帥を庇うつもりで、その無能を宇宙一の大声で触れ回った。

しかも、幼帝の御前で。

悪気は、みじんもない。

それがなお、始末に負えなかった。

 

 

「――ビッテンフェルト元帥」

 

低く、冷ややかな声が、その凍結を断ち切った。

軍務尚書ウルリッヒ・ケスラー。

白髪の混じった、最年長格の元帥である。

 

「御前である。卿の賛辞、もう十分に、響き渡った。……これ以上は、元帥ご自身の喉のためにも、控えられよ」

 

「む? ……まあ、いい」ビッテンフェルトは、いささか不満げに、しかし満足そうに引き下がった。

「言うべきことは、言った」

 

ミッターマイヤーが、額を押さえて、天を仰いだ。

 

そして、当のミュッケンベルガーはといえば、気を悪くした風もなく、むしろ、かすかに口の端を上げていた。

 

「……無能、か」老元帥は、独りごつように呟いた。「ビッテンフェルト元帥は、相変わらず、正直だ」

 

やがて拝謁の列がはけ、人が三々五々に散じてゆくと、幼帝のかたわらに、老元帥がひとり、残った。

誰が仕向けたわけでもない。

ただ、そういう静かな間が、できていた。

 

「……ミュッケンベルガー元帥」アレクは、少し言いにくそうに、それでも問うた。

「さきほど、ビッテンフェルト元帥が。……元帥のことを、無能だったと。先帝の、足元にも及ばなかったと、言っていた」

 

「仰せのとおりにございます」老元帥は、眉ひとつ動かさず答えた。

 

「……悔しくは、ないのか」

 

「悔しい、と。……はて。臣は、この歳になるまで、それを悔しいと思うたことが、ついぞ、ございませんでした」そして、静かに言った。

「本日ここへ上がりましたのは、ひとつ、確かめたき儀がございましてな」

 

「確かめたい、こと……とは」

 

「臣は、先帝陛下を――あなたの父君の在り方を、ついに認めることができませなんだ」老元帥の声は、穏やかだった。

「臣がお仕えした古い帝国を、先帝陛下は、たった一代で、こなごなに壊しておしまいになった。臣は、それを最後まで許せなんだ。……先帝陛下が正しかったのか。その答えが、あなたを見れば、分かるのではないかと。それだけの、老いぼれの物見遊山にございます」

 

「……分かったのか」アレクは、思わず、前のめりに問うた。

 

老元帥は、ゆっくりと、頷いた。

 

「分かりましてございます……口に出すほどのことでもございませぬが」

 

少し、間があって。

 

老元帥は、幼い皇帝の顔にあるものを見てとった。

天才の子でありながら、天才ではない、という怯え。

「先帝の再来」を期待されるその重み。

 

「陛下。ひとつ、老いぼれの世迷い言を、お聞きくださいますか」老元帥は言った。

「才ある者は、その才に溺れまする。大きく賭け、大きく勝ち、そして、いつか、大きくしくじる。天才の輝きは、まことに眩い。……なれど、それは一代限り」

 

「才なき者には、溺れる才がございません。ただ、務めを堅実に果たすしかない。その面白みのない歩み。道半ばで斃れる才ある者よりも、時に、ずっと遠くまで行くことができるのでございます」

 

かつて先帝ラインハルトに凡庸と断じられた男が、その孫のような幼帝に、凡庸であることの価値を説いている。

アレクには、まだ、その皮肉の深さは分からなかった。

 

「みな、陛下に、先帝の再来を期待いたしましょう。あの輝きの、二度目を」老元帥は続けた。

「なれど、臣は、こう申し上げる。……陛下は、父君には、似ておられぬ」

 

その一言に、アレクの、律儀に保たれていた表情が、崩れた。

 

「……知ってる」幼帝は、小さく、俯いて言った。

「余は……父上みたいには、なれない。絵も、武勇も……頭も。みんな、父上のほうが……」

 

声が、途切れた。

 

「それでよろしいのです」

 

アレクは、顔を上げた。

 

「似ておられぬ。それが、よろしいのでございます」老元帥は、初めて、ほんの少しだけ、目もとを和らげた。

「あなたは、あなたの器で、おなりなさいませ。先帝の写しになどなろうとなさいますな。……写しは、どうあがいても、本物には、及びませぬ。なれど、別の器ならば、比べる者は、どこにも、おりませぬゆえ」

 

老元帥は、ふと、遠い目をした。

「……陛下の父君が、壊したもの。臣は、それを五十年、内側から見てまいりました」声が、低くなった。

「あれは、陛下。二度と、戻してはなりませぬ」

 

「……戻す?」

 

老元帥は、微笑んで、首を振った。

「いえ。今の陛下には、まだ、分からずともよいことにございます。……ただ、いつか」

 

このときは、種だけが、幼い胸に落ちた。

 

「ひとつ、昔語りを、してもよろしいですか」

 

「うん」

 

「遠い昔。ある大きな庁舎に、長い長い、大階段が、ございました」老元帥は、おとぎ話でも語るように言った。

「その階段を、ひとりの老いた男が、降りてゆき。入れ替わりに、ひとりの若い男が、昇ってゆきました。男たちは、すれ違いざま、たがいに敬礼を交わしました。……降りてゆく者が、自分の場所を、昇ってゆく者に、譲ったのでございます」

「その、降りてゆく男は」老元帥の声に、笑みが混じった。

「誰に追われたわけでも、ございません。自分の足で、階段を降りたのです。……退くと、自分で決めた。負けて追われるのとは、違う。譲ることと、負けることは、別のものにございます」

 

幼い皇帝は、うまく呑み込めず、思わず素の声に戻っていた。

「……ゆずるのは、負けじゃ、ない?」

 

「はい。……老いぼれの負け惜しみと思うて、聞き流してくださいませ」

アレクには、やはり、ほとんど分からなかった。

ただ、階段を降りてゆく老いた男の後ろ姿だけが、なぜか、胸に残った。

 

 

 

***

 

 

やがて老元帥は、幼帝にふたたび深い礼をして、下がっていった。

 

その足が向かった先は、壁際で眠たげに、あくびをかみ殺している孫のところだった。

 

「アルブレヒト」

 

老元帥の声から、幼帝への恭しさが、嘘のように消えていた。

 

「あの答辞は、何だ。ミュッケンベルガーの名を負う者が、店番だ、番頭だと、あの大講堂で言い触らしおって。わしの、いや、家の顔に、泥を塗る気か」

 

「おや」アルブレヒトは、あくびをかみ殺したまま答えた。

「お祖父様は、店番を、見下されるのですか?」

 

「当たり前だ」

 

「はて。……では、お祖父様が、あの数々のご遠征で動かされた、膨大な糧秣と、輜重(しちょう)と、燃料は。いったい、どこのどなたが、運んでいたのでしょうね」

青年は、眠たげな目で、祖父を見た。

「まさか、勇気で運んだわけでは、ございますまい」

 

「…………」

 

老元帥が、詰まった。

 

「だいたい、その姿勢は、何だ」老元帥は、話を逸らした。

「背を、伸ばさぬか。仮にも、武門の……」

 

「背を伸ばすと、疲れます」

 

「なに?」

 

「疲れると、計算を誤ります。計算を誤ると――」アルブレヒトは、こともなげに言った。

「人が、多く死にます。それも、無為に」

 

「なっ……」

 

老元帥は、絶句した。こめかみに、青筋が浮く。

喉の奥で、言葉が、詰まった。

 

 

あれほど堂々と、幼帝の前に額ずいてみせた、旧帝国最後の宇宙艦隊司令長官が。

脱力しきった孫を相手に、ぐぬぬ、と唸ることしか、できずにいる。

 

「……口の、減らぬ、小僧め」やっとのことで、老元帥は、絞り出した。

 

「恐れ入ります」アルブレヒトは、褒められたかのように、うっすらと笑った。

 

老元帥は、ふう、と息を吐いた。そして、この得体の知れぬ孫をしばし見た。

 

この孫が、いったい何を見据えているのか、もう、自分には読めぬ。

それは、次の時代の貌をしていた。

自分が、退いた、そのあとの時代の。

 

老元帥は、それ以上、何も言わなかった。

ただ、小さく鼻を鳴らして、背を向けた。

譲るように。

 

少し離れて、その一部始終を、幼帝が見ていた。

 

あの、恐ろしいほど堂々とした老元帥が、眠たげな青年に、言い負かされている。

アレクは、思わず、口もとをほころばせた。

式典のあいだじゅう保っていた、皇帝の顔が、ようやく九歳の子供の顔に戻った。

 

その日、幼い皇帝が、何を、どれだけ分かったのかは、定かではない。

 

老元帥の語った、階段の話も。

戻してはならぬという、あの低い声も。

多くは、まだ、幼い胸には重すぎた。

 

ただ、ひとつ。

 

似ていなくても、いい――その一言だけは、たしかに、胸の深いところに残った。

のちにこの幼帝が、天才ならぬ身で、皆を信じ、皆を束ねる声を持つにいたる、その、最初の一滴として。

 

「譲る」という言葉の、ほんとうの意味を、アレクが知るのは。……まだ、ずっと、先のことである。

 

 

***

 

 

のちに。

 

新帝国軍において、「番頭(クレーマー)のアルブレヒト」といえば、それは、ひとつの戦場の代名詞となる。

 

その男のいる戦線は、崩れない。

どれほど押し込まれても、粘り、耐え、最後の一艦、最後の一兵まで、戦力を保ちつづける。

派手な突撃も、鮮やかな一撃も、そこにはない。

ただ、決して大不況でも潰れぬ店のように、その戦場は、最後まで、回りつづけるのだ。

 

味方は、その名に安堵し。

敵は、その名を聞いただけで、攻めあぐねた。

 

かつて蔑みとして投げつけられた「番頭」の二文字は、いつしか、意味だけを裏返し、畏敬の名へと変わっていた。

同じ言葉のまま、値打ちだけが、覆ったのである。

――そして、この飄々とした男が、やがて「皇帝の算盤(カイザーレヒナー)」とまで呼ばれるようになるとは。

この日、彼のあくびを眺めていた誰ひとり、思いもしなかったであろう。

だが、それは、まだずっと先の話。

 

この日の彼は。卒業式典の壇上で、身も蓋もない答辞を読み、宮廷に眠たげなあくびを持ち込んだだけの。

……ただの、口の減らぬ、若者であった。




【次回予告】

幼き獅子は、多くの手に、守られて育った。

譲ること、(おぼ)えること、名を呼ぶこと。

だが、同じ(そら)の下に。

誰の手にも、守られなかった者たちがいた。

飢えと、闇と、絶望の果て。

誰ひとり拒まぬと優しい声が、切り捨てられた者たちを迎えにくる。

次回、『銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~』第一・五章

「拾われた者たち」。

――銀河の歴史が、また1ページ。
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