銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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四「父の面影」(新帝国暦十一年)

【新帝国暦十一年 獅子の泉 アレク】

 

その人のことを僕はずっと前から知っていた。

 

ウルリッヒ・ケスラー元帥。

 

軍務尚書。

かつては憲兵総監として、腐敗しきった憲兵隊を一人で立て直した人でもある。

 

帝国の秩序を守る法の番人。

背が高く姿勢がよく、いつも制服の襟元まできちんとしていた。

両の耳の横の髪は白く、眉にも白いものが混じっている。

獅子の泉(ルーヴェン・ブルン)の七元帥の中でもいちばん年かさの人だった。

笑った顔を僕はほとんど見たことがない。

そして、この人は僕の命の恩人だった。

 

僕がまだ母上のお腹の中にいたころ。柊館(シュテッヒパルムシュロス)という館が火に包まれた。

 

「地球教徒」という狂信的なテロリストが火をつけたのだという。

もうとうに滅んだと皆は言う。

 

その炎の中から出産の近い母上を抱えるようにして運び出したのが、このケスラー元帥だった。

 

もしあの夜、この人がいなければ。

僕は生まれてくることもなかった。

 

宮廷の誰もがその話を知っていた。

僕も物心つく前から聞かされて育った。

だから僕はこの厳めしい人を見るたびに、いつも不思議な気持ちになる。

 

 

***

 

 

その日、僕は獅子の泉の一室でケスラー元帥とその夫人に会った。

 

夫人の名はマリーカさん。

もとは母上の侍女だった人だ。

いまはケスラー元帥の奥方。

だが元帥とはずいぶん歳が離れていた。

厳めしい白髪混じりの元帥の隣で、その若い夫人は花のようにくるくると表情を変えて笑っていた。

 

「まあまあ、陛下!なんてご立派におなりで!」

 

マリーカさんは僕を見るなり、両手を合わせて目を輝かせた。

 

「わたくし、陛下がこんなに小さかったころから存じ上げているのですよ。ええ、それはもう、生まれる前から!……あのね、陛下。陛下がこうしてご無事にお生まれになれたのは誰のおかげか、ご存じ?」

 

「……ケスラー元帥の、おかげでしょうか」

 

僕が言うと、マリーカさんは大きく首を横に振った。

 

「ちがうのよ。……チョコレートアイスクリームの、おかげなの」

 

僕はきょとんとした。

 

「あのね、陛下」マリーカさんは身を乗り出した。

「あの夜、わたくし、無性にチョコレートアイスクリームが食べたくなって。それでこっそり買いに出たの。」

「そうしたら、その隙に悪い者たちがお館を襲って……。もしわたくしがアイスを買いに行かなければ。館の中にいて皆と一緒に危ない目に遭っていたわ。」

「だから、あのアイスクリームがわたくしを助けてくれたの。……そして、外にいたわたくしがお妃さまのお部屋の窓の場所を大佐さんにお教えできたのよ。だから、陛下が助かったのはチョコレートアイスクリームの、おかげ!」

 

理屈があちこち飛んでいた。

けれど、妙に筋が通っているような気もした。

 

「マリーカ」

 

隣でケスラー元帥が低く咳払いをした。

 

「話が逆さまだ。お前がアイスを買いに出たのは、ただの偶然だ。それを手柄のように言うでない」

 

「あら。でも、結果としてお役に立ったでしょう」

 

「……まあ、それはそうだが」

 

「でしょう?」

 

マリーカさんが勝ち誇ったように胸を張った。

ケスラー元帥は渋い顔で口をつぐんだ。

 

帝都じゅうの兵をぴたりと、ひと声で従える厳めしい元帥が。

奥方の前ではどうにも旗色が悪いらしかった。

僕は思わず笑いそうになるのをこらえた。

 

「そうだ、陛下。よいものをお教えしましょう」

マリーカさんは急に声をひそめた。何かとっておきの秘密を打ち明けるように。

「魔除けのおまじないよ。わたくしのお祖父さまが教えてくださったの。……いいこと? よくお聞きなさいね。――ホクスポクス・フィジブス。ホクスポクス・フィジブス」

 

「ほくす、ぽくす……?」

 

「そう! 凶事よ消えうせろ、という意味なの。悪いことが起きそうなときにこう唱えるの。……こつはね、二回繰り返すこと。重ねて唱えると効き目が倍になるのよ」

 

「本当ですか」

 

「本当よ!」マリーカさんは大真面目だった。

「だって、あの夜もわたくしがこれを大佐さんにお教えしたら。ほら、皆、無事だったでしょう」

 

またしても隣でケスラー元帥が咳払いをした。

だが今度は何も言わなかった。

ただ、白いものの混じった眉を少しだけ下げただけだった。

 

僕には一つ、ずっと不思議だったことがあった。

 

「あの、マリーカさん。……どうして元帥のことを、大佐さん、と呼ぶのですか。元帥は元帥なのに」

 

マリーカさんは、あら、という顔をして、それからくすくすと笑った。

 

「あのね、陛下。初めてこの人に会ったとき。わたくし、この人がどれくらい偉い人か分からなくて。でも、いかにも偉そうだったから、とりあえず大佐さん、ってお呼びしたの。……そうしたら、本当はもっと、ずうっと偉い人だったのよ。上級大将さま。恥ずかしいったら」

 

「では、いまは元帥では」

 

「ええ。でも、なんだか、大佐さん、のほうがしっくりくるのよ」

マリーカさんは隣の夫を見て、悪戯っぽく笑った。

「ねえ、大佐さん?」

 

ケスラー元帥は答えなかった。

 

ただ、その厳めしい横顔がほんの少しだけ赤くなったように、僕には見えた。

 

さんざん笑ったあとで。

ふと、僕はあることに気づいて静かになった。

 

あの夜。悪い者たちが館を襲った、あの夜。

母上と、生まれる前の僕は本当に危なかったのだ。

マリーカさんがあんなに明るく話すから、忘れそうになるけれど。

一歩間違えば、僕も母上もこの世にいなかった。

 

「……あの夜は」僕はぽつりと言った。

「本当に危なかったのですね」

 

部屋の空気が少しだけ変わった。

 

マリーカさんの笑みが、ふと和らいだ。

ケスラー元帥は僕をじっと見た。

 

「陛下」元帥は静かに言った。

「もし、よろしければ。憲兵隊の詰所を御覧になりますか。……あの夜、なぜああいうことが起きたのか。そして、二度と起こさぬために我々が何をしておるのか。それを知っておかれるのも、よろしいかと存じます」

 

僕は頷いた。

 

 

***

 

 

その日、僕はケスラー元帥に憲兵隊の詰所を案内してもらった。

 

あの夜のことを知りたい、という僕の気持ちを元帥は汲んでくれたのだと思う。

国の秩序がどうやって守られているのか。それをその目で見せておこう、と。

 

詰所は静かだった。

兵たちは皆、きびきびと動き、無駄口一つ叩かない。

ケスラー元帥が通ると、全員がぴたりと手を止め、姿勢を正す。

厳しい人なのだ、とすぐに分かった。

 

「陛下。何かお尋ねになりたいことは」

 

ケスラー元帥の声は低く硬かった。

僕は少し迷ってから、かねて気になっていたことを聞いてみた。

 

「元帥。……憲兵はブラスターを持っていますよね。力で国を守っているのですか」

 

ケスラー元帥は僕を見下ろした。その目がほんの少し細くなった。

「力は、使います。ですが、陛下。力は道具にすぎませぬ」

 

「道具」

 

「さようです。……我々が守っておるのは、法にございます。力は、その法を守るための道具。それ以上のものではありませぬ」

 

元帥は詰所の窓から帝都の街並みを見下ろした。

 

「陛下。剣は、人を斬るための道具です。銃は、人を撃つための道具。……いまどき儀仗目的以外で剣を佩く兵は、おりませぬがな」

 

元帥はわずかに口の端で笑ったようだった。

 

「剣であれ、銃であれ。それらは人を傷つけるために生まれた。……ですが、我々がそれを佩いておるのは、人を傷つけるためではない。傷つけさせぬためにございます」

 

「傷つけさせぬ、ため」

 

「さようです」元帥は頷いた。

「力ある者が力なき者を勝手に傷つける。強い者が弱い者から奪う。それを許さぬために法がある。そして、その法を守らせるために我々がおるのです。剣は、人を斬る。ですが、法は人を斬らせぬためにあるのです」

 

僕はその言葉を胸の中で繰り返した。

剣は、人を斬る。

法は、人を斬らせぬためにある。

 

「旧い王朝では」元帥は続けた。

その声がわずかに低くなった。

「力ある貴族が法の上にありました。気に入らぬ平民を裁きもせず斬り捨てても、咎められぬ。法が力に負けておったのです。先帝陛下がお壊しになったのは、その仕組みでした。誰であろうと法の下にある。皇帝とて、例外ではない」

 

「皇帝も、ですか」

 

「皇帝も、にございます」

元帥はまっすぐに僕を見た。厳しい、しかし揺るがぬ目だった。

 

「……いえ。正しくは、こう申し上げるべきかもしれませぬ。皇帝には、法をも超える力がただ一つ遺されております。皇帝大権。……いざというとき、法を止め、自らの一存で国を動かす力。先帝陛下がお持ちであった、あの絶対の力にございます」

 

「では、皇帝は法の上にいるのでは」

 

「いいえ」

元帥の答えは静かで、しかし揺るがなかった。

 

「その力は、いわば伝家の宝刀。……抜けば、たしかにあらゆる難事を断ち切れましょう。ですが、抜いたその瞬間に法は死にまする。皇帝が大権を振りかざし、頻繁に法を超えて刀を振るえば、次からは誰もがこう思う。皇帝の気分ひとつで法など覆るのだ、と。……そうなれば、法を守る者はいなくなります」

 

「だから……抜いては、いけない」

 

「御意」

元帥は深く頷いた。

 

「その刀は、鞘に納めたまま持っておられることに意味がある。いざとなれば抜ける。だが、決して抜かぬ。……最も強い力を持つ皇帝が、その力を自ら使わずにいる。その姿を見て初めて、臣下も民も法を信じるのです。……力を持つ者が力を抑える。それが、法の下に立つ、ということにございます」

「陛下。……私は長く力を預かる側におりました。」

 

元帥はまっすぐ僕を見た。

「人を取り締まり、時に捕らえる側に。力ずくで人を抑えるのがどれほど容易いか。そして、それがどれほど脆いか。……いやというほど見てまいりました。力だけで抑えた者は、いつか必ずその力の隙を突かれまする」

「隙を作らぬ、ただ一つの道。それは、力を持つ者が自らも法の下に立つことにございます。……いつか陛下が真に国を統べられるとき。どうか、それをお忘れなきよう」

 

その言葉は八つの僕には半分も分からなかった。

 

自らも法の下に立つということが、どういうことなのか。

皇帝が自分より上に法を置くとは、どういうことなのか。

 

だが、なぜだろう。その言葉は忘れられなかった。

この、笑わない厳めしい人が命がけで守っているものの正体を、少しだけ見た気がした。

 

案内が終わり、詰所を出るとき、僕は思いきって言ってみた。

 

「元帥。……あの、ありがとうございました」

 

「案内の礼など。務めにございます」

 

「いえ。……あの、そうではなくて」

 

僕は言葉を探した。

 

「昔。柊館で。……母上と、僕を助けてくれて。ありがとうございました」

 

ケスラー元帥の足が止まった。

 

しばらく、元帥は何も言わなかった。

それから僕のほうに向き直り、ゆっくりと片膝をついた。

僕と目の高さを合わせるように。

 

「陛下。あれは、礼を言われるようなことではございませぬ」

 

その声は、いつもの硬さの奥に初めてかすかな温かさがあった。

 

「あの夜、私はただ務めを果たしただけにございます。目の前で失われようとする命があった。それを守った。」

「憲兵の務めとは、つまるところそれだけのことにございます。守るべき命を、守る。理由は、それ以上要りませぬ」

 

「でも。僕がいま生きているのは」

 

「陛下がいま生きておられるのは」元帥は静かに遮った。

「陛下御自身の、生きる力にございます。私はきっかけを与えたにすぎませぬ。……どうか、その命を大切になさいませ。多くの者が守ろうとした、命にございますれば」

 

僕は頷いた。うまく言葉が出なくて、ただ何度も頷いた。

 

厳めしい、法の番人。

その人の目線の低さと、声の温かさを僕はその日、初めて知った。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十一年 グリューネワルト伯爵夫人邸 アレク】

 

 

それからしばらく後のこと。

母上が帝都郊外に隠棲する伯母を訪ねる、というので、僕も供をすることになった。

 

グリューネワルト伯爵夫人。

アンネローゼ様。

 

先帝陛下の姉。

母上にとっては義理の姉。

そして、僕の伯母にあたる人だ。

 

その人は宮廷にはいなかった。

帝都の華やぎを好まず、ずっと昔に俗世から身を退いていた。

住まいは帝都を遠く離れた、辺境の田園の中。

船を乗り継ぎ、地上車に揺られ、半日以上をかけてようやく辿り着く、静かな土地だった。

 

道中、母上はいつもより少し口数が少なかった。

窓の外を流れる田園をじっと見ている。

その横顔がどこか遠くを見ているようだった。

 

母上もまた、この訪問に亡き父上の面影を探しているのかもしれない。

僕はそんな気がした。

 

離宮、と呼ぶにはあまりに小さな家だった。

金襴の装飾も、居並ぶ侍従も、何もない。

 

あるのは、手入れの行き届いた庭と、そこに咲く白い薔薇と、開け放した窓から流れてくる焼き菓子の甘い匂いだけ。

 

アンネローゼ様は僕たちを門の前まで出て迎えてくれた。

「まあ、皇太后陛下。よく来てくれたこと。……あら、皇帝陛下も。ご立派になられて」

母上と伯母様はしばらく手を取り合って、何か静かに話していた。

二人にしか分からない、長い時間の話を。

 

やがて、母上が僕を見て微笑んだ。

「アレク。わたくしは少し用事があるの。あなたはその間、アンネローゼ様のお庭でも見せていただきなさい。……いえ」

 

母上は少し考えて言い直した。

「アンネローゼ様に、お父様のお話でも聞かせていただくといいわ。わたくしよりずっと昔のお父様を、ご存じだから」

僕ははっとして母上を見た。

 

母上は僕の心の中を見透かしていたのかもしれない。

僕がずっと父上のことを聞きたがっていたことを。

 

こうして僕はアンネローゼ様と二人きりで、庭の見える部屋に座った。

「さあ、陛下。こちらへ。ちょうどお菓子を焼いたところなの」

 

アンネローゼ様の焼いた菓子は素朴で優しい味がした。

 

宮廷の菓子職人が作る、きらびやかなものとは違う。飾りけのない家庭の味だった。巴旦杏の甘酸っぱさをパイとスポンジでそっと包んである。だが、その素朴さがなぜかとても美味しかった。

 

「美味しいです」僕が言うと、アンネローゼ様は嬉しそうに笑った。

 

「よかった。……ケルシーのケーキ、というの。昔からよく焼いていたお菓子」

 

「ケルシーの、ケーキ」

 

「ええ」アンネローゼ様は懐かしそうに目を細めた。

「わたくしの弟が。これが大好きだったの。……小さいころ、貧しくてろくな菓子も買えなかったから。わたくしがありあわせの材料でこれを焼いてあげたの」

 

アンネローゼ様はふと遠くを見た。

 

「あの子と、それからあの子の大切なお友達と。二人で競うように食べてね。取り合いになって、よく喧嘩もしたのよ」

 

ジークフリード・キルヒアイス。

 

「大切なお友達」とは、たぶんキルヒアイス元帥のことだろう。

その名なら僕も知っている。

父上が生涯でただ一人心を許した親友。

若くして亡くなった、赤毛の将。

もしあの人が生きていれば――と、いまも多くの人が惜しむ。

母上も元帥たちも、あの人の名を口にするとき、いつもどこか特別な声になった。

歴史の教科書の、遠い英雄。

 

 

だが、アンネローゼ様の語るその人は英雄ではなかった。

アンネローゼ様の焼いた菓子を父上と取り合って喧嘩する、

ただの食いしん坊の男の子だった。

 

「あのころは、ほんとうに貧しかったけれど」アンネローゼ様は微笑んだ。

「あの子たちがこのケーキを宝物みたいに食べる顔を見るのが。わたくしの、いちばんの幸せだったの」

 

その微笑みの奥に、かすかな寂しさがあった。

もう、二人ともこの世にいない。

そのことに僕は触れなかった。

ただ、アンネローゼ様の焼いたケーキを、もう一口、大切に食べた。

 

僕は菓子を持つ手を止めた。

そして、ずっと心の奥にしまっていた問いを思いきって口にした。

 

「アンネローゼ様。……あの。父上は。先帝陛下は、どんな人だったのですか」

 

アンネローゼ様は少し驚いたように僕を見た。

 

それから、窓の外の遠い庭に目を向けた。懐かしいものを見るような目だった。

 

「そうねえ。……なんてお話ししましょうか」

 

その声は柔らかかった。

 

「先帝陛下は、いえ、あの子は。ラインハルトは。とても癇癪持ちの子でした」

 

「癇癪持ち」

 

思いがけない言葉に僕は目を丸くした。

 

伝説の中の先帝ラインハルトは、いつも冷静で天才的で、完璧な英雄だった。

癇癪持ちの子供、という言葉は、その像とまるで結びつかない。

 

「ええ」アンネローゼ様はくすくすと笑った。

「気に入らないことがあると、すぐに頬をふくらませてね。負けず嫌いで、口も達者で。……わたくしが少しでも他の子と親しくすると、拗ねて口をきいてくれなくなったりするの。とても寂しがりな子でした」

 

僕は言葉を失っていた。

 

癇癪持ち。負けず嫌い。寂しがり。拗ねる。

それは僕の知っている「先帝ラインハルト」ではなかった。

歴史の教科書にも、宮廷の語り草にも、そんな父上はどこにもいない。

 

そこにいたのは、ただの一人の男の子だった。姉に構ってほしくて拗ねる、どこにでもいそうな寂しがりの少年。

 

「意外に思われて?」アンネローゼ様は僕の顔を見て微笑んだ。

 

「……はい」僕は正直に頷いた。

「僕の知っている父上は、もっとすごくて、遠い人でした」

 

「そうね。世間の知っているラインハルトは、そうでしょう」アンネローゼ様は静かに言った。

「英雄で、天才で、銀河を統べた皇帝。……でも、わたくしにとっては、ただの弟なの。菓子をねだって、拗ねて、泣いて、笑った、小さな弟。それが、いちばん本当のあの子」

 

アンネローゼ様は刺繍の手を止めて遠くを見た。

 

「あの子はね。小さいころ、とても貧しい暮らしをしていたの。……ろくな菓子も買えなかった。だから、わたくしがありあわせの材料でこれを焼いてあげたの。あの子はそれを両手で大事に持って、宝物みたいに少しずつ食べるのよ」

 

その声には、深い慈しみとかすかな痛みが滲んでいた。

 

「あのころがいちばん幸せだったのかもしれない。……何も持っていなかったけれど」

 

アンネローゼ様は、そこでふと言葉を止めた。

 

ほんの一瞬だった。

 

なぜか、もうこれ以上は聞いてはいけない気がした。

アンネローゼ様の目に、そのとき遠く悲しい色がよぎったから。

 

アンネローゼ様はすぐにいつもの優しい微笑みに戻った。

 

「ごめんなさいね。年寄りの昔話が過ぎたわ」

 

「いえ」僕は首を振った。

「……もっと聞きたいです。父上の、話」

 

その言葉に、アンネローゼ様はとても優しい目をした。

 

「陛下は。あなたはあの子によく似ておいでね」

 

「僕が、ですか」僕は驚いた。

「……僕は、父上のような天才ではないのに」

 

「天才かどうかなんて、どうでもいいの」アンネローゼ様は微笑んだ。

「あの子はたしかに戦の天才でした。多くの人をその輝きで従えた。けれど……」

 

アンネローゼ様はそこで言葉を区切り、僕の顔をそっと見た。

「あの子と比べることなんて、ないの。あなたは、あなたの見えるものを大切になさい」

 

その言葉は僕の胸の、いちばん柔らかいところにそっと触れた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十一年 獅子の泉 フェリックス】

 

 

アレクが帝都に戻って何日か後のこと。

久しぶりに俺と顔を合わせたアレクは、なんだかぼんやりしていた。

 

「どうした。腑抜けた顔して」

 

「……ん」アレクは少し笑った。

「この前、伯母様のところで父上の話を聞いてきたんだ」

 

「へえ。わざわざ行った甲斐はあったのか」

 

「……うん」アレクは頷いた。

「父上の話を聞いたんだ。アンネローゼ様に」

 

「へえ。どんなだった。先帝陛下」

 

「……癇癪持ちで、寂しがりで、姉上の菓子が好きな子供だったって」

 

「なんだそりゃ」俺は思わず笑った。

「歴史の英雄が台無しだな」

 

「うん」アレクも笑った。

「でも……なんか嬉しかった。父上のこと、初めてちょっとだけ分かった気がして」

 

俺はその横顔を見て、ふと思った。

 

アレクは父上のことを知らない。

先帝陛下はアレクが生まれて間もなく崩御された。

だからアレクは父の顔も声も憶えていない。

伝説の中の父しか知らない。

 

それは少し、俺に似ているかもしれない。

 

俺も実の父を知らない。

 

オスカー・フォン・ロイエンタール。

 

会ったこともない。生まれる前に死んだ。

俺の父はウォルフガング・ミッターマイヤーだ。

それでいい、と思っている。

実の父のことなど、どうでもいい、と。

 

……いつだったか。父上が一度だけ言ったことがある。

「フェリックス。お前の本当の父親の話を聞かせる」、と。

 

俺は反発した。

「『本当の父親』って、なんだよ。父上は、父上じゃないのかよ」その言い方が嫌だった。

本当の、という言葉が。

まるで、父上が偽物みたいで。

 

だから俺は聞かなかった。

会ったこともない英雄の話なんて、どうでもいい。

そう言って、その場を逃げた。

 

父上はそれ以上何も言わなかった。ただ、少し寂しそうな顔をした。

 

どうでもいい、と思っていた。

だけど、本当にどうでもよかったのだろうか。

アレクが父上の話を聞いて、あんなに嬉しそうにしているのを見ると。

胸の奥がちりっと痛むような気がした。

 

でも、まだどうしても聞く気にはなれない。

 

本当の父親の話を聞いてしまったら。

なんだか、父上が遠くなってしまう気がして。

 

俺はまだ子供だ。

 

いつか大人になったら。会ったこともないその人の話を聞いてあげてもいい、と思える日が来るのかもしれない。

だけど、それは今じゃない。

 

今はまだ、俺の父上はただ一人でいい。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十一年 獅子の泉 アレク】

 

その夜、僕は寝台の中で今日一日のことを思い返していた。

 

ケスラー元帥の言葉。

剣は人を斬る、法は斬らせぬためにある。

 

アンネローゼ様の言葉。

癇癪持ちで、寂しがりで、菓子が好きだった弟。

 

まるで違う二つの話だった。

けれど、どちらも僕の「命」に繋がっていた。

 

ケスラー元帥は僕の命を救ってくれた人。

アンネローゼ様は僕に命をくれた父上の姉。

 

僕がいま、ここにいること。

それは当たり前のことではなかったのだ。

 

炎の中から運び出してくれた人がいて、貧しさの中で弟を慈しんだ姉がいて。

その弟がやがて僕の父になった。

 

たくさんの人の、たくさんの想いの、そのいちばん先に僕はいる。

 

僕はまだ父上のことをほとんど知らない。

だが今日、一つだけ分かったことがある。

 

父上もかつては一人の、寂しがりの子供だった。

天才でも英雄でもない、ただの小さな男の子。

その子が必死に生きて、そして銀河を統べる皇帝になった。

 

なら、僕にも。

天才でなくても、僕にも何かできるのかもしれない。

 

その夜、僕は少しだけ父上を近くに感じるようになった気がした。

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