【新帝国暦二十四年四月 惑星アロヨ・ド・モリノ 臨時宿泊先】
翌朝、ランズベルクは卓の上に家系図を広げていた。
昨夜の検問を抜けたあと、三人が移ったのは港湾区から少し離れた小さな宿だった。エルフリーデはまだ寝台に腰を下ろし、イルゼが朝の薬と水を用意している。その向かいで、ランズベルクだけが朝から難しい顔をしていた。
「どうしたの」
「一か所、家系図に誤りがありました」
ランズベルクは家系図の上の方を指した。第十代当社の亡命の年と、その下に第十一代フリードリヒの出生年が並んでいる。
「当主に連れられて亡命したはずの息子が、亡命の二年後に生まれたことになってしまっております」
イルゼが薬瓶の中を一度数え、蓋を閉じながら家系図を見た。
「それでは国境を越えた幼い息子というのは、一体どなたですか」
「……それが問題なのです」
ランズベルクは筆記具を取った。
「ここは訂正しておきます」
「お待ちください」
イルゼが言った。
「昨夜、検問の方が、その家系図を撮っていました」
筆記具の先が、触れる直前で止まった。
「つまり、いま直しますと」
「次に照合された場合、昨夜のものと違います」
「……そうなりますね」
エルフリーデは薬を飲み、グラスを置いた。
「架空の家なんだから、どちらでもいいでしょう」
「家系図が間違っているのは、そういう問題ではありません」
エルフリーデは彼を見た。ランズベルクも真顔だった。
「……そう」
ランズベルクは家系図には手を入れなかった。代わりに旅行鞄から白紙を一枚出し、上端へ書き始める。
イルゼが覗いた。
「何をなさっているのですか?」
「正誤表です」
エルフリーデがゆっくり顔を上げた。
「誰に配るの?」
ランズベルクの手が止まった。
「……配布の予定はありません」
「でしょうね」
それでも彼は書いた。〈第十一代当主フリードリヒ・フォン・ホーエンフェルス=アルテンブルク二世の出生年について〉。誤記と、正しい年。さらに、国境を越えた幼い息子が本人であることに変更はない旨まで付記した。
イルゼはそのあいだに薬を片づけ、今日の衣類を鞄の上へ出した。エルフリーデは途中からもう見ていなかった。
***
【新帝国暦二十四年四月 聖都ラディークス 第二聖団司令部】
参謀が一件の記録を机へ置いた。
「アロヨ・ド・モリノの聖管区からです。所在確認中の女性二名が、昨夜、旧港湾区を出ました」
ベーレントは修理予定表から目を上げ、記録を開いた。
車両を運転していたのは、聖録院が参考人として招致したアルフレット・フォン・ランズベルク。臨時移動資格は有効だった。同乗していた女性二名の身分証は偽名のものだった。
聖管区の本名照合の結果は、その時点ではまだ検問の端末へ反映されていなかった。二枚の身分証が所在確認中の二人と結びついたのは、今朝になってからだという。
そこまでは簡単だった。
「検問は何をしていたのですか?」
「聖録院発行の証明記録を見て、通したようです」
ベーレントはそれ以上、検問については訊かなかった。
「検問で、別の申告があります」
「……亡命貴族の末裔?一体どういうことですか?」
添付されていたのは、検問を担当した係官の聴取記録だった。
〈ホーエンフェルス=アルテンブルク家〉。
七十余年前、旧銀河帝国から自由惑星同盟領へ亡命した門閥貴族の一族。第十代当主アルノルト・エルンストは、宮廷の政争で兄に対して虚偽の告発をするよう命じられ、それを拒否したため、妻と幼い息子、それに蔵書三箱を携えて国境を越えた、とある。
ベーレントは最後まで読んだ。
「……そのような家名は記憶にありませんが」
参謀が顔を上げた。
「ベーレント閣下でも?」
「リッテンハイム家にいた時代に、旧貴族の系譜は一通り頭に入れています。少なくとも、私の記憶にはありません」
「帝国旧貴族名簿、亡命者名簿、旧同盟の移民記録まで照合しましたが、該当する家は確認できませんでした」
「では、そのように記録してください。女性二名の身分は確認済み。家系の申告は未確認」
「はい」
参謀は端末へ入力した。それから、もう一枚を机へ出した。
「同じ検問記録に、一点おかしなところがあります」
「どこですか?」
「対象者の携行品です」
ベーレントが見ると、車両の積載物を記録する欄に、鞄三個、旅行用品一式、それに続いて〈蔵書三箱〉と記載されていた。
「……車内に書籍が三箱もあったのですか?」
「ありませんでした。鞄が三つ、とのことです」
「では、この三箱はどこに?」
参謀は聴取記録と積載欄を見比べた。
「七十年前の国境です」
ベーレントはしばらく記録を見た。
「係官が聴取内容を携行品欄にも転記したようです」
「……七十年前の積荷の記載は、備考欄へ移動しておきましょう」
「はい」
「昨夜の積荷とは混ぜないようにしてください。記録は正確にいたしましょう」
参謀は〈蔵書三箱〉を携行品欄から外し、備考へ移した。ベーレントはその処理が終わるのを待ってから、次の添付資料を開いた。検問の係官が提示を受け、端末で保存していた画像である。
「家系図もありますね」
画面に一枚の図が現れた。
第十代当主アルノルト・エルンスト、それに連れられて亡命した息子、そして最後の令嬢エリーザベト。婚姻、出生、死亡、亡命の年が整然と並べられ、線は定規を当てたようにまっすぐだった。
ベーレントは上から順に年次を追った。
指が第十一代で止まった。
「たしか第十一代は、父に連れられ一緒に亡命したのですよね?家系図をみると、亡命の二年後に生まれていることになっていますが」
参謀が画面へ身を寄せた。
「……本当ですね」
ベーレントは最初の聴取記録へ戻った。
「当主と一緒に亡命したという息子は、一体どこにいるのですか?」
参謀も記録を見直した。
「……別の子でしょうか?当主の隠し子とか」
「勝手にもう一人、子を増やさないでください」
「失礼しました」
参謀は家系図を修正しようとした。
「直さないでください」
指が止まった。
「原本はそのまま保存してください。第十一代の出生年と亡命年が前後して矛盾している、と注記を」
参謀は一度画面を見、それからベーレントを見た。
「……存在しない家の家系図の、誤りを、ですか」
「はい。存在しない家の家系図の、誤りをです」
ベーレントは家系図から目を離さなかった。
「存在しない家でも、二年後に生まれる子を連れて亡命することはできません。記録は正確にしておきましょう。
ところで、枢機卿団による保護拘束命令は、現地へ届いているのですか」
「はい。招請に応じないまま所在を離れた以上、発見した時点で確保せよ、と」
ベーレントは頷いた。
「では、所在確認を続けてください。保護拘束してから本人の離境意思を確認します」
「承知しました」
参謀が端末を抱えて退出しかけたところで、新しい通知音が鳴った。彼は足を止めた。
「ベーレント閣下。もう一件照会です」
「何です?」
参謀は受信したばかりの文面を開いた。
「昨夜の検問係官からです」
ベーレントは待った。
「〈ホーエンフェルス=アルテンブルク家について、当該一族の墓所の所在、ならびに第十代当主が亡命時に携行した蔵書三箱の現在の所在と内容について、記録があれば御教示願いたい〉」
ベーレントは少し待った。
「……照会の理由は?」
参謀が画面を見た。
「〈歴史的興味〉となっています」
しばらく、室内には端末の作動音しかなかった。
***
【新帝国暦二十四年四月 帝都 皇帝府】
バーラト自治政府から転送された通信は、その夜のうちに皇帝府へ移された。
〈来るな。教国はお前を待っている。〉
アレクは同じ文面をもう一度見ていた。ケスラーと皇帝付参謀のクライン、情報部担当者が向かいに座り、フェリックスはいつもの副官の位置に立っている。
クラインは通信文を見たまま言った。
「現時点で確実に言えるのは、送信者がミッターマイヤー大尉に来るなと警告していることまでです。救援を拒否するとは書いていません」
ケスラーが頷き、〈来るな〉の文字を拡大表示した。
「教国の保護を受け入れるとも、帝国やバーラトに関わるなとも書かれていません」
「コールラウシュ女史本人にどうしたいのかを訊くしかないな」
アレクは短く答えた。
問題は、どう訊くかだった。
エルフリーデが惑星アロヨ・ド・モリノ内にいる可能性は高いが、帝国から個別通信を飛ばして通話すれば、探知により所在を特定される。軍用の秘匿回線をエルフリーデが持っているはずもない。
「銀河全域へ流しましょう」
ケスラーが言った。
「本人だけに分かればよい質問を、全銀河向けの公式放送に載せる。現在地を求めず、返信経路も複数用意しておけば、こちらの送信から居場所が割れることはありません」
「帝国へ戻れとも言わない」
アレクがそう言うと、情報担当者が端末の質問案を確認した。
「もう一点です。ミッターマイヤー大尉との面会を希望するか、という質問はどうしますか?」
「不要です」
フェリックスが間髪を入れず言った。
ケスラーがフェリックスに視線を向ける。
「確認しなくていいのか?」
「帝国政府として訊くことではありません。それに、あの通信で私には来るなとは言っている。それで十分でしょう」
公務の席らしく言葉は整っていたが、最後の部分だけは皇帝副官ではなく、フェリックス自身の声だった。
アレクは頷いた。
「分かった」
ケスラーは質問案を端末へ落とし込みながら、第四項のところで手を止めた。
「陛下。発信の前に、もう一つ決めておく必要があります」
「何だ」
「エルフリーデ女史が教国の保護を拒否し、安全な地域への移動を希望する。さらにバーラトへの移動を望み、自治政府も受け入れる。それでも教国が離境を認めない場合、帝国はどこまで関与しますか?」
アレクはほとんど間を置かなかった。
「女史を守る」
フェリックスが顔を上げた。
「帝国臣民が本人の意思に反して敵性勢力に身柄拘束され、自由な移動を妨げられようとしているなら、看過しない。これは国家としての責任だ」
「……陛下」
フェリックスが呼んだ。
「それは、私のためでしょうか。でしたら――」
「勘違いするな、大尉」
返答には迷いがなかった。
「卿の母親だからではない。エルフリーデ・フォン・コールラウシュが、一人の帝国臣民だからだ。帝国へ帰ることを強制もしない。本人が帝国内自治領であるバーラトへの移動を選び、バーラトが受け入れるなら、その移動の自由を国家として守る」
ケスラーが確認した。
「教国が実力で妨げた場合も、ですか」
「まず交渉で離境を求める。それで足りず、本人の意思に反して教国が身柄を拘束し、離境を妨げようとするなら、必要な軍事力行使も選択肢から外さない」
情報担当者がわずかに手を挙げた。
「陛下。一点、用語についてよろしいでしょうか」
「何だ?」
「教国との『交渉』を、対国家外交と同じ扱いにしないことは明記した方がよろしいかと存じます。帝国は神聖黄金樹教国を独立国家として承認しておりません」
アレクは情報担当者を見た。
「実態を見ろ。教国は現に辺境領域を支配し、行政機構を動かし、艦隊を持ち、その地域にいる人間を拘束する力も、外へ出す力も持っている」
アレクは卓上の星図を指した。
「女史をそこから出すために話をしなければならない相手が教国なら、教国と話す。国と認めたからではない。そこを実効支配しているからだ」
情報担当者が頷いた。
「では、法的な国家承認とは切り離した事実上の交渉として整理します」
「そうしろ」
アレクは少しだけ眉を寄せた。
「呼び方を整えれば現実が変わるわけではない。言葉遊びで人を助けられるなら好きにすればよいが、できないなら、現に人を動かせる相手と話せ」
ケスラーが確認した。
「交渉による解決を第一とする。しかし、それによって本人の離境を実現できない場合は――」
「軍事上必要な措置を取る」
アレクは答えた。
「目的は教国を国家として扱うことでも、教国を罰することでもない。帝国臣民エルフリーデ・フォン・コールラウシュを、本人が選んだ場所まで生きて出すことだ」
フェリックスが口を開いた。
「……あの人一人のために、何人もの人間を危険に晒すことになるかもしれません」
「ミッターマイヤー大尉、それは違います」
クラインが言った。
フェリックスが振り向く。
「コールラウシュ女史に対する国家としての保護責任は消えません。どこまで危険を負って履行するかは、その責任を負うことを前提として検討すべきことです。臣民への保護責任そのものを否定すれば、具体的な方法を検討する前に見捨てることになります」
「もし救出に人を出せば、危険に晒されるのもまた帝国臣民だ、クライン」
「はい。ですから、どこまでの損害の可能性を許容するかは厳しく検討する必要があります。それでも、国家が臣民を守る責任まで消えることはありません」
フェリックスは口を閉じたが、まだ納得してはいなかった。
フェリックスの目が、卓上に拡大されたままの〈来るな〉の文字へ一度だけ落ちた。
「……陛下。その女は、先帝ラインハルト陛下に弓を引いた、旧リヒテンラーデ一門の生き残りです。ロイエンタール元帥のもとに身を寄せ、元帥を政治的に追い詰める虚偽の証言までしたとまで記録にある人物です。帝国から見れば、不逞な叛乱分子でしょう。それが今になって、帝国に守ってもらって自分の行きたい場所へ行くというのは――」
そこで言葉を切った。
ケスラーの目が鋭くなった。
「虫が良すぎる、とでも言いたいのか?」
フェリックスは答えなかった。
「ミッターマイヤー大尉」
ケスラーの声が一段強くなった。
「私情を持ち込んでいるのは卿の方だ」
フェリックスの表情が固まる。
「旧リヒテンラーデ一門の人間であった。それが何だ。過去に先帝陛下へ敵対したことがある。それで、いま帝国が負う臣民保護の責任が消えるのか」
「……いいえ」
「ならば、何を根拠に女史を見捨てろと言っている」
フェリックスは答えなかった。
「一門の名か?二十年以上も前に、国家としてもう処理済みの行為を蒸し返すか?」
ケスラーはそこで言葉を止め、返答を待った。
フェリックスは何も言えなかった。
「卿自身の感情を、国家が一人の臣民を守らなくてよい理由へすり替えるな」
室内が静まり返った。
ケスラーは声量を戻したが、次の問いだけは一語ずつ明瞭だった。
「危険があるから臣民を見捨てるというのであれば、帝国軍は何のために存在する」
フェリックスが顔を上げた。
「答えろ、ミッターマイヤー大尉。卿は何のために軍服を着ている」
しばらくして、フェリックスが答えた。
「……帝国と、その臣民を守るためです」
「そうだ」
ケスラーはそれだけ言った。
アレクが会話を引き取った。
「方針は記録しておけ。いま決めたとおりだ。まずは教国と交渉する。決裂した場合の実力行使も並行して検討しておけ」
「御意」
***
【エルゴン星系 銀河帝国軍エルゴン軍管区司令部】
ハインリッヒ・ランベルツ大佐が超光速通信に出たのは、帝都時間では夕刻に近かった。
三十七歳。現在の補職はエルゴン軍管区司令部兵站輸送部長である。
艦船輸送、補給、損傷艦の後送、避難輸送など、戦場そのものよりも戦場へ至る道を扱う仕事を長く続けてきた。華やかな軍歴とは縁が薄い。
だが、フェリックスにとっては階級や補職より先に、もっと古い関係があった。
二十年余り前――新帝国暦二年末。帝国元帥オスカー・フォン・ロイエンタールが皇帝ラインハルトに叛旗を翻し、かつて双璧と並び称された親友ウォルフガング・ミッターマイヤーと艦隊を率いて激突した。第二次ランテマリオ星域会戦である。
ランベルツは当時、まだ幼年学校の最上級生で、ロイエンタールの従卒を務めていた。会戦の後、死にゆくロイエンタールのもとへエルフリーデが乳児であったフェリックスを連れて現れたとき、ランベルツはその場にいた数少ない人間の一人だった。
エルフリーデが去ったあと、ウォルフガング・ミッターマイヤーが到着するまで、乳児のフェリックスを抱いていたのもランベルツだった。
両親を失っていたランベルツは、叛乱終結後、フェリックスとともにミッターマイヤー家の庇護を受けた。もっとも、ほどなく士官学校へ進み、その後も軍務で家を空けることが多かったから、二人が兄弟のように毎日をともにして育ったわけではない。
それでも、休暇のたびにミッターマイヤー家に帰ってきて、やがては転任の合間にも顔を見せる年長の青年は、フェリックスが物心ついたころには、家族の一人だった。
フェリックスにとって、ランベルツは昔からただ「兄さん」だった。
通信窓の向こうで、ランベルツは手にしていた書類を脇へ置いた。
「どうした、フェリックス。珍しい時間に」
「兄さん、忙しいところ悪い。教国の発表は見ただろう」
「ああ。エルフリーデ・フォン・コールラウシュ女史のことだな」
「少し聞きたいことがある」
ランベルツの表情がわずかに改まった。椅子へ背を預け、しばらくフェリックスを見た。
「俺が実際に見たことなら話せる」
「兄さんは、あの人から赤ん坊の俺を受け取ったんだよな」
「ああ。俺が自分の目で見たのは、あの人がお前を俺に渡したところからだ。ロイエンタール元帥と、その前に何を話していたかは聞いていない」
フェリックスは通信窓から目を外した。
「公表されている記録のとおりか」
「ああ。あの人は、お前をミッターマイヤー元帥に渡してくれと言った。そのあと一人で出ていった。元帥が来るまで、お前を抱いていたのは俺だ」
「父上に――ミッターマイヤー元帥に、俺を託せと言った理由は?」
「聞いていない」
「ほかに何か言ってなかったのか?」
「理由については、何も。ロイエンタール元帥と彼女がその前に何を話していたかも、俺は知らない。その場にはいなかったからな」
ランベルツは、ロイエンタールの最期の言葉を記録した人物でもあった。まだ少年だった彼が書き留めた文言は、その後二十年以上にわたって多くの人間に読まれ、さまざまな意味を与えられてきた。だが本人は一貫して、自分が見聞きしたことと、後から加えられた解釈を分けていた。
フェリックスはしばらく黙ってから言った。
「兄さんに訊いても、そこは分からないってことか」
「ああ」
そこでランベルツは口を閉じた。通信窓の向こうには、エルゴン軍管区司令部の簡素な執務室が見えている。戦争が始まってから輸送量が増えたのだろう。背後には未処理の運航票が何列も積まれていた。
「分かった。ありがとう。忙しいときに悪かった」
フェリックスが通信を切ろうとしたとき、ランベルツが先に名を呼んだ。
「フェリックス」
「何?」
ランベルツはすぐには続けなかった。脇へ置いた書類に一度目を落とし、それから通信窓のこちらを見た。
「一つだけ、今まで誰にも話していないことがある」
フェリックスの手が止まった。
「先に断っておく。ここから先は、記録された事実じゃない。俺があのとき見たことと、それを今の俺がどう受け取っているかという話だ」
ランベルツは言葉を選ぶように間を置いた。
「あの日のことは、その後、色々な人から、何度も訊かれた。あの人はどんな様子だった、何を考えていたように見えた、なぜ子供を置いていったと思うか――そんなことをな。俺は全部、見たことしか答えなかった。他人がそこから何を読み取るかまで、俺には責任を持てないからだ」
「……うん」
「だから、これは今まで誰にも話していない。だが、お前は当事者だ。お前だけには話しておく」
フェリックスは黙って待った。
「あの人が――エルフリーデ・フォン・コールラウシュ女史がお前を俺に渡したとき、まず、お前の頭を俺の肘へ載せた。それから背中と腰の重みを、ゆっくり俺の腕へ移した。俺がお前をちゃんと支えたのを確かめてから、片方ずつ手を離した。いきなり手を離したわけじゃない」
ランベルツは自分の両腕へ目を落とした。
「お前の後頭部に添えていた手は、最後まで残っていた」
フェリックスは何も言わなかった。
「お前はもう俺の腕に収まっていた。あの人が支える必要はなくなっていた。それでも、あの人は、お前の後頭部に添えていた手をすぐには離さなかった」
「どのくらい?」
「三秒、四秒か。それ以上だったかもしれない。二十年以上も前のことだ。時間までは保証できん」
ランベルツは顔を上げた。
「ただ、お前に触れている必要ももうなかった。それでも、あの人はお前に触れていた」
フェリックスの視線が、通信窓のどこにも定まらなくなった。
「どんな顔だった?」
ランベルツはすぐには答えなかった。
「泣いてはいなかった。俺の顔も見なかった。ただ、お前を見ていた。唇は固く結んでいた。そこまでは覚えている」
「俺の顔を……」
「ああ。そして、ここから先は俺の解釈だ」
フェリックスが小さく頷いた。
「当時の俺には、あの顔が何を意味していたのか分からなかった。まだ十五だったからな。二十二年たった今になって思えば、何かをこらえていたようにも見える」
ランベルツはそこで、もう一度言葉を選んだ。
「……俺には、いらないものを置いていく人間の手つきや表情には見えなかった」
フェリックスの表情が動いた。
「勘違いするな。それが愛情だったのか、罪悪感だったのか、責任だったのか、別れがたかっただけなのか、俺には分からない。あの人がなぜお前を置いていったのかも知らない」
「……」
「ただ、あの人は、お前が俺の腕にきちんと収まるまで、手を離さなかった」
ランベルツはそこで一度言葉を切った。
「収まったあとも、お前を見て、お前に触れ続けていた。お前の顔だけを見ていた」
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「俺が言えるのは、そこまでだ。そこから先は、本人にしか分からない」
フェリックスは目を伏せたまま頷いた。
「……分かった。仕事中に悪かった」
「構わん」
通信はそこで切れた。
***
【帝都 ミッターマイヤー邸】
その日の夕食は、以前と同じように三人だった。
フェリックスが来ると分かっていても、エヴァンゼリンは特別な献立を用意した様子を見せなかった。いつもの食卓に皿が一枚増え、いつもの鍋から少し多めに盛られている。それだけだった。
食事が半ばを過ぎたころ、フェリックスはナイフを置いた。
「父上。一つ聞いていいですか」
「何だ」
「ロイエンタールは、俺が生まれることを知ってたんですか」
ミッターマイヤーは手を止めた。
「妊娠していることは、知っていた」
ミッターマイヤーはフェリックスの顔を見た。
「エルフリーデ・フォン・コールラウシュ女史がお前を身ごもっていることは、俺もあいつも知っていた。俺がそのことをあいつに直接訊いたこともある」
「ロイエンタールは、何て?」
「『知らんな、知りたくもない』、と言った」
フェリックスは黙った。
「……あの人は結局子供なんか、欲しくなかったんですね」
「あの時はな」
フェリックスが顔を上げた。
「少なくとも、俺が訊いたときのあいつはそうだった。そこを都合よく言い換えるつもりはない」
ミッターマイヤーはそこで言葉を切った。
「だが、最期にお前を見たときまで同じだったかは、俺には分からん」
フェリックスはしばらく皿を見ていた。
「じゃあ、あの人が……エルフリーデが俺を置いていった理由は?」
「分からん」
「父上にも?」
「俺はあの女史とはほとんど話したことがない。お前を置いて去ったあと何を考えたかも知らん。そこへ俺の想像を足して、お前に事実みたいに渡す気はない」
「兄さんも同じことを言ってました」
「そうか」
それ以上、ミッターマイヤーは話を足さなかった。フェリックスもすぐには次の問いを出さず、エヴァンゼリンが空いた皿を一枚下げるのを目で追った。
「母さん」
「なあに」
「俺が、あの人に会ったら嫌か?」
エヴァンゼリンは手を止め、少し不思議そうに振り返った。
「どうして私が嫌なの?」
「だって……」
「向こうもあなたの母親でしょ?私は私よ」
あまりに普通の調子で返され、フェリックスは言葉を探した。
「会ったら、何か変わるかもしれないぞ」
「変わることはあるでしょうね。でも、それを私が止める理由にはならないわ」
エヴァンゼリンは椅子へ戻った。
「あなたがエルフリーデさんに会っても会わなくても、私はあなたの母親よ」
フェリックスはそれ以上、会うことについて訊かなかった。
エヴァンゼリンは鍋の蓋を開けた。
「まだ食べるでしょう」
「……食べるよ」
返事を待たずに皿へもう一度盛られ、フェリックスはフォークを取り直した。
***
【帝都 皇帝府】
翌日、銀河帝国政府は全通信圏へ短い公式声明を流した。
宛先は一人だけだった。
〈エルフリーデ・フォン・コールラウシュ女史へ〉
帝国政府は現在地の開示を求めない。帝国への帰還を要求するものでもない。指定された複数の受信窓口のいずれかへ、可能な方法で一度だけ意思を伝えればよく、返信がない場合も拒否とは扱わない。
前置きのあとに、質問が四つ並んだ。
〈一、神聖黄金樹教国による保護を望みますか。〉
〈二、現在地から安全な地域への移動支援を望みますか。〉
〈三、銀河帝国への帰還を望みますか。〉
〈四、バーラト自治政府領への移動を望みますか。〉
本人確認の材料として、先にヨーゼフ・ベルガーが使用した作業艇へ送られた通信との連続性を示す未公開情報を添えるよう求めた。住所も、映像も、音声も要求しない。フェリックスとの面会意思も質問には入っていなかった。
放送前の最終確認には、ケスラーとクラインも同席していた。
ケスラーが第三問を示した。
「帝国への帰還を求めていると受け取られる可能性もありますが、残しますか」
「残す。望むかどうかははっきり訊く。帰れとは書かない」
クラインが四問を見直した。
「いずれも本人が何を望むかだけを尋ねています。現在地も、理由も要求していません」
「それでいい」
フェリックスは横で黙っていた。
アレクが視線を向ける。
「これでいいか」
「はい」
それ以上は何も付け加えなかった。
***
【惑星アロヨ・ド・モリノ 貨物区画外縁】
帝国からの呼びかけをイルゼが見つけたとき、三人はすでに、ランズベルクが正誤表を書いた宿を離れていた。
今度の滞在先は、貨物区画の管理会社が短期契約者へ貸している小さな部屋だった。窓はなく、壁の向こうから搬送機の低い振動が一定の間隔で伝わってくる。エルフリーデとイルゼの鞄は、いつでも動けるよう最初から閉じたまま壁際に置かれ、ランズベルクの小さな旅行鞄もその横にあった。
薬瓶は鞄に入れず、卓の上に出してあった。イルゼは朝、その中を一度数えている。前の宿で数えたときより、時間はかからなかった。
イルゼが帝国側の四つの質問を読み上げるあいだ、エルフリーデは寝台の端に腰を下ろして聞いていた。
「以上です」
「それだけ?」
「はい。現在地も、映像も要求していません」
エルフリーデはしばらく考えてから訊いた。
「……あの子に会いたいかとは、訊かないのね」
「訊いておりません」
「そう」
それ以上は何も言わなかった。
イルゼは返信欄を開き、最初の問いをもう一度読み上げた。
〈神聖黄金樹教国による保護を望みますか。〉
「望まない」
イルゼがそのまま入力した。
第二問は、安全な地域への移動支援を望むかというものだった。
「望む」
三つ目は、銀河帝国への帰還意思だった。これには間を置かなかった。
「望まない」
最後の問いを前に、イルゼの読む速度がわずかに落ちた。
〈バーラト自治政府領への移動を望みますか。〉
エルフリーデはすぐには答えなかった。
「バーラトへ行かれるのですか?」
「市民籍がまだ残っているでしょう」
「記録上は、そのはずです」
「なら、望むと書いて」
イルゼは第四の回答を入力した。
望まない。望む。望まない。望む。
理由を書き添えなくても、四つの答えだけで意思は十分に明瞭だった。
本人性確認のため、最初の船舶通信に含まれていた未公表の情報も添えた。ヨーゼフを旧整備路へ通したこと、作業艇の識別番号を見た位置、最初の通信で使った宛名。前回の通信と今回の返信が同じ人物から発せられたことを補強できる材料だけを選んだ。
イルゼが四つの回答を確認した。
ランズベルクは、少し離れた壁際に座ったまま、一度も口を挟まなかった。
「これで、こちらの意思は伝わります」
「そうね」
「それでも教国が認めなかったら?」
エルフリーデは壁際の鞄へ目をやった。
「そのときは、また逃げるだけよ」
ランズベルクが静かに言った。
「では、そのときは移動する方法を考えましょう」
エルフリーデが横目で見た。
「止めないの?」
ランズベルクはもう、旅行鞄から白紙を一枚出していた。
***
【バーラト自治領ハイネセン 自治政府内務局】
帝国からの照会には、エルフリーデ本人から届いたとみられる回答原文と、送信者の本人性を検討するための資料が添付されていた。
ムライは回答案より先に市民登録を調べさせた。旧自由惑星同盟時代の住民記録からバーラト自治政府成立後の登録まで履歴は途切れておらず、長期間域外に居住していたものの、市民資格を失効させる手続は取られていなかった。
担当官が端末を置いた。
「有効です。本人からの失効申請もありません」
ムライは頷き、帝国側照会へ視線を戻した。
内容は単純だった。
――エルフリーデ・フォン・コールラウシュ女史が、バーラト自治政府領への移動を明示的に希望している。貴政府として受け入れる意思はあるか。
「評議会へ上げてくれ。ただし、帝国との協議案件としてではない」
ムライは担当官に言った。
「市民の帰還案件として扱う。帝国が頼んだから受け入れるのではない。本人が帰りたいと言っているから、受け入れられるかを確認する」
評議会の承認はその日のうちに下りた。
回答は二文で足りた。
〈当該市民の市民資格が現在も有効であることを確認した。〉
〈コールラウシュ女史本人がバーラト自治政府領への移動を希望する場合、自治政府はこれを受け入れる。〉
送信前、別の職員が帝国政府への謝意を入れるかと訊いた。
「必要ない」
ムライは首を振った。
「帝国のために受け入れるわけではない」
回答は帝都へ送られた。
***
【帝都・ハイネセン・聖都ラディークス 外交通信】
エルフリーデ側から届いた回答とバーラト自治政府の受入れ表明が揃うと、帝国とバーラトはそれぞれ別の根拠から神聖黄金樹教国へ正式な申し入れを行った。
帝国側が求めたのは、本人が教国の保護を明確に拒否し、安全な地域への移動を望んでいる以上、その意思を妨げないことだった。教国当局がエルフリーデを発見した場合も、本人の意思に反して拘束せず、希望する地域への移動を保障するよう求めた。
バーラト側の要求はさらに簡潔だった。市民が帰還を希望しているため、安全な離境を保障されたいというものである。帝国は本人意思を、バーラトは市民の帰還を根拠にしたが、求めている措置はどちらもエルフリーデを安全に域外へ出すことだった。
宣信院から回答が戻ったのは、それほど遅くなかった。
帝都ではケスラーが、ハイネセンではムライが、ほぼ同時刻に同じ文書の写しを読んだ。
教国は冒頭で、エルフリーデ・フォン・コールラウシュ女史の自由意思を最大限尊重すると明記していた。
そのうえで、先の通信との連続性を示す非公開情報が含まれていることは認めるものの、それによって確認できるのは、送信者が当事者しか知り得ない情報に接しているということまでであり、今回の回答そのものがエルフリーデ本人の自由意思によって作成されたことまでは確認できない、と続けた。
さらに本人が重い疾患を抱えている以上、健康状態と意思能力を直接確認しないまま他政府の管轄地域へ移動させることは、本人の安全に反する可能性があるという。
ケスラーはそこまで読んで、文書を机へ置いた。
「よく出来ているな」
外交担当官が苦笑する。
「反論しにくい、という意味でしょうか」
「そうではない。何を言われても同じ結論へ戻れる、という意味だ」
文書の後半では、教国は現在エルフリーデの身柄を保持していない以上、現時点で教国側が移送措置を講じる対象も責任も存在しない、とも回答していた。
ただし、教国当局が本人を発見した場合には、まず安全な場所で保護し、医療上の状態と自由意思を直接確認する。その確認が終わるまでは、バーラトや帝国の管轄地域への移動を認めることは適切ではない。
そこまでが宣信院の公式回答だった。
ハイネセンでも、ムライが同じ箇所で読む速度を落としていた。
帝国もバーラトも要求を撤回せず、教国も本人保護の必要性を繰り返した。数度の往復のあと、外交担当者の間では、もはや新しい論点が出なくなった。
同じころ、宣信院から聖廉院へは別の通知が回っていた。
エルフリーデ側が、なお外部通信手段を持ち、発信していることが確認された。
惑星アロヨ・ド・モリノの地上で行われていた捜索は、対象範囲を少しずつ狭め始めていた。
――「お前の親父さん、もしかしてヤン艦隊にいたか?」
次回、『生きた航路図の血』