銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第七十六話「疾風と金銀妖瞳(前編)」

【新帝国暦二十四年四月 帝都レーヴェンシュテルン 皇帝府 フェリックス】

 

バーラトとの協議が終わった後、俺は皇帝執務室へ呼ばれた。

 

室内には、アレクとケスラー元帥がいた。机の上には、さっきまで使っていた救難計画の資料がまだ開かれている。用件はだいたい分かった。あの人……エルフリーデ・フォン・コールラウシュのことだろう。

 

「フェリックス」

 

「はい」

 

アレクは手元の資料を閉じた。

「今回、お前は現地での救出作戦には関与させない。帝都に残って、余を補佐しろ。理由は説明するまでもないな」

 

「当然でしょう」

 

返事は、考えるより先に出た。

 

教国が俺を待っている可能性がある。あの人本人からも、来るなと言われている。

 

救難支援の現地総括指揮官にはアルブレヒト少将を出すし、航路や記録を見る人間も、艦艇配置を見る人間も別にいる。作戦には帝国軍から数百人も参加する。わざわざ俺が現地へ行かなければ成立しない仕事はなかった。

 

アレクが訊いた。

「異論はあるか?」

 

「ありません」

また、すぐに答えた。

 

アレクは何も言わず、しばらくこちらを見ていた。そういう顔をされると、何か余計なことまで見られている気がする。

「……何でしょうか?」

 

「いや」

アレクは視線を資料へ戻した。

「分かった。では、その前提で進める」

 

話はそれで終わるはずだった。

 

現地へ行かなくていいのだと思うと、さっきまで身体のどこかに入っていた力が、わずかに抜けた。

 

あの人のいるところまで行かずに済む。

 

教国が俺を待っている可能性がある。作戦上も、俺を現地へ出す必要はない。エルフリーデ本人からも来るなと言われている。それで全部説明はつく。

 

けれど、自分がほっとしている理由まで同じだとは思えなかった。あまり、気分のいい発見ではなかった。

 

 

***

 

 

【同日夕刻 獅子の泉「北辰の間」】

 

その夕方、北辰の間には七人が卓についていた。

 

軍務尚書ケスラー元帥。

宇宙艦隊司令長官の父上。

ミュラー、ビッテンフェルト、メックリンガーの三元帥。

現地部隊を指揮することになる、軍務省兵站監部次長のアルブレヒト少将。

そしてアレク。

 

俺はアレクの後ろで、いつもの副官の位置に立っていた。少し離れた壁際には、参謀のクラインと、統帥本部作戦局付のハインリヒの二人が立っている。

 

バーラト自治政府との協議内容が確認されたあと、ケスラー元帥が帝国側の支援計画を説明した。

 

救難艇そのものはバーラト側が運航する。

帝国軍は教国が警戒線として公示している境界の外に留まり、観測、通信、医療受入れ、必要な輸送を支援する。

 

救難艇が予定どおり戻れなかったときの手順も決められていた。途中で教国側から停止を求められたとき、患者の状態が悪化したとき、予定した受領地点が使えなくなったとき。帝国側がどこまで動くかは、出発前に詳細に決めておく。

 

「帝国艦は、警戒線を越えません」

ケスラー元帥が最後に言った。

「救難艇が警戒線の内側で停止させられた場合も同じです。本件の支援部隊には、教国支配宙域へ進入して救難艇を回収する任務を与えません」

 

ビッテンフェルト元帥が腕を組んだ。

「目の前まで救難艇が帰ってきてもか」

 

「目の前という距離では決めません。境界のどちら側にいるかで決めます。こちらから撃って艦隊戦を始める予定はありません」

 

「相手が先に撃ってきたらどうする?」

 

「その場合、自衛に必要な反撃をします。ただし、救出や追撃のために境界を越えるということはしません」

 

ビッテンフェルト元帥は何か言いかけたが、結局、口にはしなかった。

 

アルブレヒト少将が、卓上の配置図を眺めながら言った。

「その方が楽ですね。境界を越える場合まで考え始めると、艦隊戦の準備をしていかなければいけませんからねえ。用意する船も人もこんなものでは足りません」

 

「卿は何でも楽か面倒かで考えるな」

 

「まぁ、兵站屋ですからね」

アルブレヒト少将は気にした様子もなかった。

「できないことを先に決めていただける方が、帰り道は作りやすいですよ」

 

アレクが少将を見た。

「アルブレヒト少将」

 

「はい、陛下」

 

「帝国側の救難支援を総括せよ。輸送、受入れ、医療後送、観測支援、撤収まで、卿がまとめろ」

 

「御意」

 

「患者の容体によって帝国の医療設備を使う必要が出ても、それだけで帝国への帰還扱いにはするな。本人が表明した当面の行き先は変えない」

 

「承知しました」

 

アルブレヒト少将は一度だけ俺の方を見た。以前なら、そこで何か仕事を振られると思ったかもしれない。

 

アレクはクラインへ視線を移した。

「ヴァルター大尉」

 

「はい」

 

「旧同盟時代の航路標識、港湾表示、周辺の運航記録を見ろ。現地で教団で使用されている意味の取れない符号が出た場合、判断できるだけの資料を持っていけ」

 

「御意」

 

「アイゼンベルク大尉」

 

「はい」

 

「帝国側の艦艇配置と到達時間、受領地点を変更した場合の所要を見ろ。アルブレヒト少将へ必要な数字を出せ」

 

「御意」

 

アレクは三人を見た。

「今夜出発してもらう」

 

返事が三つ重なった。

 

俺の名前は呼ばれなかった。もちろん、呼ばれるはずはない。

 

分かっていたはずなのに、父上や元帥たちがいる前で他の皆の仕事が一つずつ決まり、自分だけがいつもの場所に残っていると、少し妙な感じがした。だからといって、今回だけは自分も行きたいとは思わなかった。

 

 

***

 

 

北辰の間を出ると、クラインとハインリヒが少し先を歩いていた。

 

「おい」

 

二人が振り返った。

 

「出発、今夜なんだろ」

 

「二時間後です」

クラインが答えた。

 

「急だな」

 

「救難支援そのものは、もう始まっています」

 

ハインリヒは歩きながら端末を見ていた。たぶん、さっき渡された配置資料をもう読んでいる。

 

「ミッターマイヤー、貴様はどうする?」

 

「帝都に残るよ」

 

「そうか」

 

それだけだった。もう少し何か言われるかと思っていたので、少し腹が立った。

「おい、それだけかよ」

 

アイゼンベルクがこちらを見る。

「ほかに何がある?」

 

「三人で動くことも多かっただろ。少しくらい残念がれ」

 

「貴様は帝都に残って陛下の補佐をする役目がある。別に作戦に参加しないわけではない」

 

「そういうところが腹立つんだよ」

 

クラインの口元が少し動いた。

「行ってまいります」

 

「ああ。気をつけろよ」

 

ハインリヒは何も言わず、もう歩き出していた。

 

「相変わらず薄情な奴だな」

 

返事はなかった。二人はそのまま廊下を曲がっていった。

 

士官学校にいたころなら、何かが始まるときは皆同じ場所にいることが多かった。卒業してからは、それぞれの仕事を持つようになった。二人には二人の、そして俺には俺の仕事がある。

 

二人が向かう先には、あの人がいる。

 

それを考えてみても、特に追いかけたいとは思わなかった。

 

自分の執務室へ戻る途中、明日からの予定を確認した。アレクの会議が三件。軍務省から届く救難支援の報告整理。バーラトとの連絡窓口から上がる資料も、皇帝府へ回ってくる。帝都に残っても、作戦に関わらないわけではなかった。

 

 

***

 

 

【同日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】

 

その夜も、官舎から実家に帰って夕食を食べることにした。

連絡したのは夜になってからだったが、母さんは何も訊かなかった。

 

「何時ごろ?」

 

とだけ返事が来た。

 

父上も家にいた。

 

三人で食卓を囲んでいるあいだ、今日の会議についてはほとんど話さなかった。父上は北辰の間にいたから、俺が現地へ行かないことも、アルブレヒト少将たちが今夜出ることも知っている。母さんも、たぶん父上から知らされている。

 

それでも、二人とも何も訊かなかった。

 

食事が終わると、母さんが茶を淹れた。

「まだ仕事の話?」

 

「たぶん」

 

「じゃあ、私は向こうにいるわね」

 

母さんはそう言ったが、台所へ行っただけだった。扉を閉めるわけでもない。

 

父上と二人で食卓に残った。

 

家へ向かう途中から、何を訊くかは考えていた。

 

あの人について父上に訊いても、ほとんど分からないと言われるだろう。あの人が何を考えて俺を産み、なぜ父上たちに託していったのか。それらを父上が答えられないことは、もう知っていた。

 

だから、その前のことを訊こうと思った。

あの人と出会う前の、ロイエンタールの話。

 

「父上」

 

「何だ」

 

「一つ、お願いがあります」

 

父上は茶を置いた。

 

俺は少しだけ迷ってから言った。

「ロイエンタールがどんな人だったのか、父上が覚えていることを全部話してもらえますか?」

 

父上はすぐには答えなかった。驚いた様子ではなかった。ただ、何から話せばいいのか考えているように見えた。

 

やがて、口を開いた。

「士官学校では、あいつを知らなかった」

 

思っていた答えと違って、俺は眉を上げた。

「そうなんですか?」

 

「一学年違いだった。顔くらいは見ていたのかもしれんが、話した記憶はない。向こうも同じだろう」

 

「では、いつ知ったのですか」

 

「イゼルローンへ行ってからだ。いつ親友になったのか、と訊かれると少し困る。何月何日の何時から、というものではなかったからな」

 

父上はそこで一度言葉を切った。

「だが、始まりなら覚えている」

 

茶の湯気が、父上の顔の前をゆっくり上がっていた。

 

「話はそこからだ」

 

 

***

 

 

【帝国暦四八〇年 イゼルローン要塞 士官用酒場〈後(ヒンター)フェザーン〉】

 

そのころ、ウォルフガング・ミッターマイヤーは二十一歳だった。

少尉から中尉へ昇進してさほど経っておらず、階級章もまだ胸に馴染んでいなかった。

 

同じ中尉でも、ロイエンタールは事情が逆だった。

大尉から降等されたという噂が、本人より先に要塞じゅうへ行き渡っていたのである。

噂によれば、オスカー・フォン・ロイエンタールは一日に三度、私的な決闘を行い、三度とも勝っていた。

 

ミッターマイヤーがその当人を見つけるのに、さほど苦労はしなかった。

左右で色の違う瞳という特徴を別にしても、噂の中心にいる人物にしては妙に平然としていたからである。

同じ年頃の士官が何人か遠巻きに彼を見ていたが、本人は気にした様子もなく、ひとりで酒を飲んでいた。

 

ミッターマイヤーはしばらく眺めたあと、その席へ歩いていった。

「卿がロイエンタール中尉だな」

 

男が顔を上げた。

「そうだが」

 

「ミッターマイヤーだ。卿は一日に三度も決闘したそうだな」

 

ロイエンタールは一拍だけミッターマイヤーを見た。

「三度勝った」

 

「そこが重要なのか?」

 

「少なくとも、負けた三人にとっては重要だろうよ」

 

ミッターマイヤーは眉をひそめた。

「受けなければよかったんじゃないのか?」

 

「正論だな」

 

あっさり認められたので、かえって調子が狂った。

「分かっているなら――」

 

「だが、もう終わったことだ」

ロイエンタールはそう言って、グラスへ視線を戻した。

 

反省しているようには見えなかったが、三人を倒したことを自慢しているようにも見えない。

事情を弁解もせず、目の前のミッターマイヤーに愛想を見せるでもなかった。

正論だと認めておきながら、後悔している様子もない。

どうにも妙な男だった。

 

視線に気づいたロイエンタールが訊いた。

「何だ」

 

「いや、卿はよく分からん男だと思っただけだ」

ミッターマイヤーはそう答えて名を名乗り、空いている席へ腰を下ろした。

 

ロイエンタールは追い払うでもなく、グラスを持ち上げた。

「それなら安心した。会ったばかりの男に、もう理解されたと言われるよりはましだ」

 

ミッターマイヤーは返事をせず、注文を取りに来た店員へ酒を頼んだ。

少なくとも、性格の合う相手ではなさそうだった。

 

唐突に、ロイエンタールが訊いた。

「卿は中尉になったばかりか」

 

「なぜ分かる?」

 

「さっきから何度か階級章を気にしている」

 

ミッターマイヤーは思わず自分の胸元を見た。

「人のことをよく見ているんだな」

 

「卿がわかりやすいだけかもしれんぞ」

 

言われてみれば、そうかもしれない。

ミッターマイヤーは少し面白くなかった。

 

それから何を話したのか、後になって思い出そうとしても、ミッターマイヤーにはほとんど記憶がなかった。

酒場のざわめきの中で、目の前の妙な男と、取り留めのない話をいくつか交わしたはずである。

店の奥から女の悲鳴がしたのは、そのときだった。

 

二人はほとんど同時に顔を上げた。

ミッターマイヤーはすぐ席を立ち、ロイエンタールも遅れずについてきた。

声は客席の奥、従業員用の通路の方からだった。

 

通路の前には二人の帝国軍士官が立っていた。

ミッターマイヤーは足を止めずに訊いた。

「今の悲鳴は何だ」

 

一人が進路を塞いだまま答えた。

「卿らには関係ない!」

 

「どけ」

 

「だから、関係ないと言って――」

 

控え室の方で何かが倒れた。

ミッターマイヤーは返事が終わるのを待たず、男の脇を抜けようとした。

その腕をもう一人が掴もうとしたが、届く前にロイエンタールが間へ入った。

 

士官が声を荒らげた。

「何をする」

 

「それはこちらの台詞だ」

ロイエンタールは相手を見たまま答え、ミッターマイヤーの方を振り返らなかった。

 

ミッターマイヤーも何も言わず、そのまま控え室の扉へ向かった。

女の短い悲鳴と、壁に何かがぶつかる鈍い音がした。

 

一発の銃声がした。

 

ミッターマイヤーが扉を開けると、一人の男が床に倒れていた。

壁際には店員の女が立っていた。

乱れた服の胸元を片手で押さえ、もう一方の手にはブラスターを握っている。

床の男の腰のホルスターは空だった。

女の手の銃口は、まだわずかに震えていた。

 

ミッターマイヤーが先に声をかけた。

「怪我は?」

 

女は答えようとしたが、うまく声が出なかった。

銃口は床の男へ向いたままだった。

 

ミッターマイヤーは一歩だけ近づいた。

「もういい。銃を下ろせ」

 

女はやがて腕を下げた。

「……私が撃ちました」

 

「分かった。何があった」

 

女は掴まれた手首を押さえながら、途切れ途切れに説明した。

フリーダ・ヘラーという名の彼女は、前の日、客席の近くで紙を一枚拾ったという。

品名らしいものと数字が並んでいたが、何のことか分からず、落とし物として控え室にしまっておいた。

 

その夜、三人の士官が来た。

通路にいた二人と、床に倒れているデーリング中尉である。

デーリングは紙を返せと言い、それが何なのかとフリーダが訊くと、控え室を勝手に探し始めた。

止めようとしたところで腕を掴まれ、壁へ押しつけられたという。

 

「あの人が銃を出したんです。脅すつもりだったのかもしれません。でも、すぐ目の前だったから……私、その腕を掴んで、それで」

フリーダは手の中のブラスターへ目を落とした。

「気づいたら、撃っていました」

 

ミッターマイヤーはそこで初めて床の男を見た。

胸部に被弾しており、すでに動いていない。

 

その間に、ロイエンタールは室内を見回していた。

開いた引き出し、倒れた椅子、散らばった器、床へ落ちた紙。

通路にいた二人の士官も入口まで来ていた。

そのうち一人が紙へ目をやると、ロイエンタールの視線も同じ方へ動いた。

 

ロイエンタールは紙を拾い上げ、目を通した。

「ミッターマイヤー中尉。これは、少々面倒かもしれんな」

 

ミッターマイヤーは横から覗き込んだ。

品名らしい略号、数量、日付、搬出先、金額が並んでいたが、すぐには意味が分からなかった。

「何だ、それは?」

 

「どうも、酒場のつけではなさそうだ」

ロイエンタールは紙を裏返し、もう一度表を見た。

「軍需物資の一覧だな」

 

入口の士官の一人が、わずかに身じろぎした。

 

ミッターマイヤーは声を低くした。

「……横流しか」

 

「その可能性はある」

 

「ならば憲兵へ渡すべきだ」

 

ロイエンタールは床のデーリングを一度見てから、紙に記された数量へ視線を戻した。

「待て。この男一人で、これだけの物資を動かせると思うか」

 

ミッターマイヤーも改めて数字を見た。

軍需管理の細部には通じていなかったが、一人の中尉が個人的に動かせる量ではないことくらいは分かった。

「上がいるというのか」

 

「いないと決める理由がない」

ロイエンタールは入口の二人へ目を向けた。

二人とも何も言わなかった。

 

「とにかく、憲兵は呼ぶ」

 

「それには賛成だ。ところで、憲兵には原本を渡すのだろう?」

 

「何か問題があるのか」

 

「紙というものは、燃えるのでな」

ロイエンタールは平然と言った。

 

憲兵が到着するまでの短い間に、ロイエンタールは店主の事務端末を使い、店主と従業員を立ち会わせて端末識別情報を含む時刻認証を付した複写を何枚か作らせた。

原本は、そのまま憲兵へ渡すという。

複写をどうするつもりなのかは、言わなかった。

 

ミッターマイヤーは端末から出てきた複写を見た。

「……ずいぶん用心するな」

 

「上が潔白なら、紙が二、三枚増えたところで誰も困らん」

 

「潔白でなかったら?」

 

ロイエンタールは複写の端を揃えた。

「そのときのためだ」

 

ミッターマイヤーは鼻を鳴らした。

「回りくどい」

 

ロイエンタールは否定しなかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦二十四年四月 帝都 ミッターマイヤー邸】

 

「父上」

 

そこで初めて話を止めてもらった。

 

「その写しを、ロイエンタールはどうしたんですか」

 

「そのときはどうするか言わなかった」

 

「父上は訊かなかったんですか?」

 

「訊かなかった」

父上は少し笑った。

「あいつは、訊かれることを自分で先に片づけておく男だった。訊けば答えたかもしれん。だが、訊こうと思ったときには、いつも片づいていた。出会ったときから、ずっとそうだった」

 

自分の手元を見た。

「……俺も、大事な記録は一か所には置きません」

 

父上がしばらく俺の顔を見た。

「知っている」

 

それだけ言うと、話を戻した。

 

 

***

 

 

【帝国暦四八〇年 イゼルローン要塞】

 

翌日、憲兵隊の聴取の席に、クラウゼン少佐が現れた。

デーリングの上官で、物資管理にも関係する立場にいた男だった。

声を荒らげるでもなく、フリーダを脅すでもなく、まず「部下の個人的な不正行為の可能性」を口にした。

 

帝国軍士官が民間人に射殺された以上、正当防衛の成否は慎重に調べる必要がある。

軍需品の記録についても、デーリング個人が不正に持ち出した可能性をまず確認すべきだという。

言っていることだけなら、おかしくはなかった。

 

ミッターマイヤーは、それがかえって気に入らなかった。

「ずいぶん話を分けたがりますね」

 

クラウゼンが彼を見た。

「何のことかね、中尉」

 

「女を襲った男が取り戻そうとしていた紙から、軍需物資の数字が出てきました。明らかに同じ事件でしょう」

 

「それを決めるのは君ではない、ミッターマイヤー中尉」

 

「だったら調べればいい」

 

クラウゼンの眉がほんの少し動いた。

「もちろん調べるさ。私はその必要がないなどとは一言も言ってはいない」

 

そこへ、ロイエンタールが口を挟んだ。

「少佐のおっしゃる通りでしょう」

 

ミッターマイヤーは横を向いた。

クラウゼンも意外そうにロイエンタールを見た。

 

ロイエンタールは表情を変えずに続けた。

「事件を分けて調べた結果、何の関係もないと分かれば、それで結構です」

それ以上は何も言わなかった。

 

 

クラウゼンが去ってから、ミッターマイヤーは訊いた。

「ロイエンタール、なぜあの少佐に同意した?」

 

「別々に調べればいい、と言っただけだ」

 

「同じことだろう」

 

「別々に調べて、同じところへ行き着けばどうなる?」

 

ミッターマイヤーは少し考えた。

「……逃げにくくなる」

 

「そういうことだ」

 

「最初からそれを考えていたのか?」

 

「卿が正面から喧嘩を始めそうだったのでな。別のことを考える暇があった」

 

ミッターマイヤーは黙った。

 

 

***

 

 

【新帝国暦二十四年四月 帝都 ミッターマイヤー邸】

 

「上官と喧嘩、始めそうだったんですか?」

 

「……俺の中ではもう始めていた」

 

台所の方で、母さんが小さく笑った。

 

父上はカップの取っ手を指で動かした。

「今でも、ああいう手合いを前にすると腹が立つ。だが、今の俺なら、あのときのロイエンタールと同じことを言うかもしれん」

 

「年を取ったからですか」

 

「元帥になったからだ」

 

「同じじゃないですか」

 

「違う」

父上は真顔で言った。

「元帥になると、俺が正面から喧嘩をして困る部下が増える」

 

それは、少し分かる気がした。

アレクのそばで仕事をするようになってから、正しいことを言えばそれで済む場面は、思っていたより少ないと知った。誰が言うか、どこで言うか、そのあと誰が動かなければならないかまで考えないと、正しい話でも面倒なことになる。

 

父上も、若いころから今の父上だったわけではないらしい。少しおかしかった。

 

 

***

 

 

【帝国暦四八〇年 イゼルローン要塞 士官用酒場〈後(ヒンター)フェザーン〉】

 

二日ほど後、軍務省と統帥本部が例の件を気にしているらしい、という噂が流れてきた。

その夜、〈後フェザーン〉で顔を合わせるなり、ミッターマイヤーは訊いた。

「卿、あの複写をわざわざ軍務省と統帥本部に送っていたのか?」

 

ロイエンタールはグラスを口元まで運びながら答えた。

「念のために、な。別々に送った」

 

「俺には言ってなかったぞ?」

 

「卿は、憲兵へ渡せば充分だと思っていただろう」

 

「それはそうだが……」

 

「だから、残りはおれが考えた」

 

ミッターマイヤーはしばらく黙っていた。

 

ロイエンタールはグラスを置いた。

「卿に言えば、原本を持って正面からあの上官の部屋へ突進しかねんと思ってな」

 

「そこまではしない」

答えてから、自分でも少し自信がなくなった。

「……たぶん」

 

ロイエンタールが笑った。

 

*

 

やがて、事件を要塞内だけで処理することはできなくなった。

別系統から同じ紙について問い合わせが入り、中央からは軍需物資の搬出記録を確認するよう、正式な照会が届いた。

こうなると、デーリングの不正行為と酒場の射殺事件に切り分けて片づけることは難しい。

 

後になってミッターマイヤーが知ったところでは、倉庫の記録と実際の在庫には相当の食い違いがあった。

民間業者へ流れた物資も確認された。

デーリング一人では動かせない量だったことから、クラウゼンの関与も明らかになった。

 

帝国軍を根底から揺るがす陰謀ではない。

巨大な軍隊の隅に巣くった、小規模で悪質な横流しだった。

それでも、そこで金を得ていた者にとっては、十分に隠す価値のある不正だった。

 

関係者は処分された。

フリーダについては、デーリングから不当な暴行を受け、抵抗の過程で武器を奪って発砲した正当防衛が認められ、殺人犯として裁かれることはなかった。デーリングが平民であり、その背後には門閥貴族の後ろ盾もなかったことも幸いした。

それで彼女が一人の男を撃った事実まで、なくなったわけではない。

 

事件の後、ミッターマイヤーは一度だけ、フリーダが自分の右手をじっと見ているのを見た。

声はかけなかった。

何を言っても、軽すぎる気がしたからだった。

 

事件はしばらく要塞を騒がせ、その後、急速に人々の話題から消えた。

軍需物資の横流し、関係士官の不祥事、民間人による士官射殺、管理責任。

表へ出して喜ぶ者のいない話ばかりで、詳細な記録はやがて憲兵隊の資料室へ収められた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦二十四年四月 帝都 ミッターマイヤー邸】

 

「そのフリーダって女の人は、どうなったんですか」

 

父上はすぐには答えなかった。俺はそのまま待った。

 

「……知らん。当時の俺は、知る必要があるとも思っていなかった。年の終わりには要塞を離れて、それきりだ」

 

父上は、自分の右手を見た。フリーダが見ていたのと同じ側の手だった。そのことに本人が気づいているのかどうか、俺には分からなかった。

 

「あのころは、それでいいと思っていた。知る必要のないものは、知る必要がない、と」

 

それ以上は訊かなかった。

 

 

***

 

 

【帝国暦四八〇年 イゼルローン要塞 士官用酒場〈後フェザーン〉】

 

事件から十日ほど経った夜、ミッターマイヤーとロイエンタールはまた〈後フェザーン〉にいた。

 

店内にはいつもの客が戻りつつあった。

事件の直後こそ憲兵や事情を知りたがる士官たちが出入りしていたが、それも長くは続かない。

要塞では毎日のように艦が出入りし、人事異動があり、訓練があり、次の噂が生まれる。

一週間もすれば、誰かが撃たれた酒場でさえ、また酒を飲む場所へ戻っていった。

 

フリーダが二人の卓へグラスを置いた。

「ありがとうございました」

 

ミッターマイヤーは顔を上げた。

「礼を言われることはしていない」

 

ロイエンタールが横から言った。

「それは本当だ。むしろ、店に憲兵を呼び込んだ」

 

フリーダは一瞬きょとんとしたあと、笑った。

事件のあとで彼女が笑うのを、ミッターマイヤーは初めて見た気がした。

以前と同じ笑い方かどうかは分からなかったが、確かめる気にもならなかった。

 

フリーダは二人を見比べた。

「お二人、前からご友人だったんですか」

 

「いや」

ミッターマイヤーは即答した。

 

ロイエンタールもグラスを置いた。

「あの晩が初対面だ」

 

「そうは見えませんでしたけど」

フリーダはそれだけ言うと、別の卓から呼ばれて離れていった。

 

残された二人は、しばらく黙って酒を飲んだ。

 

先に口を開いたのは、ミッターマイヤーだった。

「そういえば、あのとき卿もすぐ立ったな」

 

「卿もだ」

 

「俺は悲鳴がしたからだ」

 

「おれもだ」

 

「……卿とは性格が合わんな」

 

「安心した。おれもだ」

 

ミッターマイヤーはグラスを干した。

「卿は何でも回りくどい」

 

「卿は何でも真正面から行きすぎる」

 

「悪いか」

 

ロイエンタールはすぐには答えず、グラスの中身を少し揺らした。

今度の声には、皮肉がなかった。

「いや、悪くない。おれにはできん」

 

ミッターマイヤーは返事をしかけて、やめた。

自分なら憲兵へ渡して終わりだった紙を、ロイエンタールは一系統だけに預けなかった。

「卿のやり方も、俺にはできん」

 

今度はロイエンタールが少し黙った。

それ以上、互いを褒めるようなことは言わなかった。

 

やがて、ミッターマイヤーが空のグラスを卓へ置いた。

「次はもっと簡単な話がいいな」

 

ロイエンタールは考えるふりをした。

「戦争なら、敵が誰か分かっている」

 

ミッターマイヤーは一拍置いてから笑った。

「確かに、その方が楽だ」

 

ロイエンタールも笑った。

その夜は、それで終わった。

 

数日後、ミッターマイヤーが〈後フェザーン〉へ入ると、ロイエンタールはすでに奥の席にいた。

こちらに気づいたが、呼びもしなければ、手を上げもしない。

ただ軍靴の先を向かいの椅子へかけ、少しだけ引いた。

 

ミッターマイヤーはそこまで歩いていき、何も訊かずに腰を下ろした。

店員には「いつものを」とだけ告げた。

ロイエンタールも何も言わず、自分のグラスへ口をつけた。

 

それからは、〈後フェザーン〉で一人を見かければ、もう一人も同じ卓にいることが増えた。

その年の終わりには二人とも大尉となり、相前後してイゼルローンを離れた。

 

いつから親友になったのか、と問われても、ミッターマイヤーには正確な日付までは答えられない。

だが、始まりがあの酒場だったことだけは忘れなかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦二十四年四月 帝都 ミッターマイヤー邸】

 

母さんが、新しい茶を二つ置いた。

 

湯気を見ながら訊いた。

「最初は、ロイエンタールのことを嫌いだったんですか?」

 

「嫌いではないな。気に入らなかっただけだ」

 

「……それ、違うんですか?」

 

「違う」

父上はカップを取った。

「嫌いな相手とは、同じ卓で飲まん。気に入らん相手とは、飲む。……お前にも、そういう相手がいるだろう」

 

今日、北辰の間を出たあとに並んで歩いていた二人の顔が浮かんだ。

「……います」

 

「なら、分かるな」

 

母さんは何も言わず、父上の茶に砂糖を一つ落とした。

 

父上が話しているのは、二十年以上前に死んだ男だった。軍人としては知っていた。教科書にも戦史にも名前が出る。父上の親友だったことも、俺の実父だったことも知っている。

 

けれど、ここまでの話にいたのは、そのどれとも少し違った。

 

決闘を三度して降等され、人の階級章をよく見て、大事な紙を一か所には置かなかった。父上とは気が合わないと言いながら、いつの間にか同じ卓で酒を飲むようになっていた。

 

ここまでの話に出てきたロイエンタールは、俺が戦史で知っている元帥になる前の若い士官だった。もちろん、俺が生まれるよりずっと前の話でもある。

 

その先を、もう少し知りたいと思った。

 




――「女というものは、信用せん方がいい」

次回、『疾風と金銀妖瞳(中編)』


※原作参照:田中芳樹『銀河英雄伝説外伝1 星を砕く者』(創元SF文庫・東京創元社)本文 p.108–112。
なお、原作では〈後フェザーン〉で女性が客を射殺した事件について、具体的な真相は描かれていません。
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