【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
茶はいつの間にか片づけられていた。
父上の前には黒ビールがあり、俺の前にも同じものが置かれている。母さんが出したのか、父上が持ってきたのかは見ていなかった。
父上の話は、イゼルローンを離れたあとのことへ進んだ。
「イゼルローンを出てからは、同じ戦場へ回されることが増えた。軍務省も気づいたんだろう。あいつと俺を組ませると損害が減る、と」
「それ、自分で言いますか」
「事実だ」
台所から母さんの声がした。
「その話、七回目よ」
「フェリックスには初めてだ」
父上は気にした様子もなく、黒ビールを一口飲んだ。
二人が実際にどんなふうに戦い、どんなふうに互いを見ていたのかは、ほとんど知らなかった。
父上は少し考えてから、話を続けた。
***
【帝国暦四八〇年代前半 銀河帝国・各戦域】
イゼルローンを離れてから、ミッターマイヤーとロイエンタールが同じ戦場へ送られることが増えた。
最初から軍が二人を一組として扱っていたわけではない。
だが、何度か同じ作戦に加わるうちに、組ませたときの損害が少なく、結果がよいことは周囲にも分かってきた。
気がつけば、一方がいる戦場へ、もう一方も配置されることが珍しくなくなっていた。
二人にとっても、その配置は都合がよかった。
とりわけミッターマイヤーの用兵は速い。
命令を受けてから動くのが速いというだけではない。
敵の陣形が崩れる兆しを見つけると、それが他の部隊にも明らかになるころには、もう次の位置へ向かっていた。
そのためときどき困ったことが起きた。
ある戦闘のあと、部下の士官が言った。
「我々の部隊はまた前へ出すぎました」
ミッターマイヤーは顔をしかめた。
「出すぎてはいない。敵が下がったんだ」
「……結果としては、そうですが」
「結果がそうなら、それでいいだろう」
士官は何か言いたそうだったが、言葉を呑み込んだ。
そこへ、作戦室の反対側からロイエンタールの声が飛んできた。
「あまり部下を困らせるなよ、ミッターマイヤー」
「卿には言われたくないな。昨日、卿の部下も卿の考えることはわからんと頭を抱えていたぞ」
「考えるのが仕事だ。頭くらい抱えさせてやらねば、給料をもらう資格がない」
近くにいた士官たちが笑いをこらえる中、ミッターマイヤーは卓上の星図を指した。
「それより、ロイエンタール。卿はここでなぜ戦列を開いた。敵の退路を空けたのかと思ったぞ」
ロイエンタールが星図を覗き込み、指先で一点を叩いた。
「わざと空けて見せたのだ。閉じれば、敵はあそこで死ぬまで粘る。逃げ道を一つ見せてやれば、そこへ集まる」
「それで逃げる敵を俺に追わせたのか。一言くらい言え」
「言う前に卿はもう追っていった」
ミッターマイヤーは言い返しかけて、やめた。
思い返せば、ロイエンタールの通信が届く前に、自分はもう動き出していた。
ロイエンタールの口元が緩んだ。
「ほらな」
「何が、ほらな、だ」
「卿が速すぎるという話だ」
「卿が回りくどいんだ」
「だからうまくいくのさ」
そう言われて、ミッターマイヤーは一瞬言葉に詰まった。
ロイエンタールはもう星図へ視線を戻している。
自分が前へ出れば、そのぶん後ろや横に穴ができる。
他の指揮官なら、その穴を恐れて自分を制止しようとする。
だがロイエンタールは、ミッターマイヤー動いて穴ができるなら自分が埋めればよい、と考えるらしかった。
逆も同じだった。
ロイエンタールの作戦は、ときどきミッターマイヤーには性に合わないほど手が込んでいた。
敵がまだ気づいてもいない退路を塞ぎ、予備兵力を一段後ろへ置き、そのさらに先まで読んで配置を変える。
ミッターマイヤーは一度、面と向かって言ったことがある。
「そんなことをしている間に殴ってしまえば終わるだろう」
ロイエンタールは平然と答えた。
「卿は鍵のかかった扉を見ると、まず蹴破ろうとするからな」
「開くならそれでいい」
「鍵を使った方が静かだ」
「戦場で静かにしてどうする」
「だから卿には鍵を預けん」
ミッターマイヤーは鼻を鳴らした。
そんなことを言い合いながら、実際に戦場へ出れば、不思議なほど噛み合った。
ミッターマイヤーが敵の側面へ出ると、その時点ですでにロイエンタールの部隊が退路を狭めている。
ロイエンタールが敵を妙な方向へ押し始めれば、その先に何があるのか、ミッターマイヤーにはだいたい分かった。
むろん、何もかも分かるわけではない。
読み違えることもあったし、あとで理由を訊いて腹を立てることもあった。
それでも、他の士官と組むより話が早かった。
別の戦闘のあと、若い士官の一人がミッターマイヤーに訊いた。
「ロイエンタール大尉から、事前に連絡を受けていたのですか?」
「何の話だ」
「あの配置です。我々の部隊があそこへ出るのをまるで最初から知っていたように、ロイエンタール隊から援護が入りました」
「ロイエンタールは別に知らなかったと思うぞ」
士官は目を瞬かせた。
「では、なぜ」
「なぜ?そこしかないだろう」
士官はなお理解できない様子だった。
後日その話をすると、ロイエンタールは笑った。
「卿にはな、そこしかないように見えるのだ」
「実際、そうだっただろう?」
「だから卿には、と言った。おれにはわかる。だが、他の者には違うだろうよ」
ロイエンタールは酒の入ったグラスを光に透かした。
「人間は、自分ならどうするかで他人を読む。卿はあの場面なら前へ出る。だからおれも、卿が前へ出るものとして手を打つ」
「それだけか」
「それ以上、何が要る」
ミッターマイヤーは答えなかった。
たぶん、その通りなのだ。
自分も同じように、ロイエンタールならここで何をする、といつの間にか考えるようになっていた。
もっとも、それを口に出せば妙な顔をされそうなので、本人には言わなかった。
***
あるとき、次の任地を記した命令書を見て、ロイエンタールが言った。
「また卿と一緒か」
「嫌なのか?」
「まさか。軍務省もようやく学習したと思っただけだ。兵器には正しい使い方がある」
ミッターマイヤーは命令書から顔を上げた。
「俺たちは兵器か」
「軍人なのだから、大差ないだろう」
「卿だけ兵器でいろ」
「では卿は何だ」
「人間だ」
「それは意外だった」
ミッターマイヤーは命令書を丸めて投げた。
ロイエンタールは片手で受け止めた。
こういう男であった。
***
【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
「本当に投げたんですか? 命令書を、丸めて」
「投げた」
「……軍務省からの命令書を」
「あいつが悪い」
少し考えた。
「あのころの命令書って、たしか皇帝の紋章が入ってましたよね」
「入っていた」
「それ、不敬で問題になりませんでした?」
「ロイエンタールにも似たようなことを言われたことがある」
台所から母さんの声がした。
「今でも投げるわよ、この人。新聞を」
「新聞は命令書じゃない」
笑いかけて、途中でやめた。
「ロイエンタールは、本気で自分を兵器だと言ってたんですか」
父上は少し考えた。
「分からん」
それから、言い直した。
「本気だったのか、冗談だったのか、俺はいまだに決められん。……あのときは、いつもの冗談だと思った。それで困らなかった」
父上が分からないと言うたび、少し意外に思う。
俺にとって父上は、ロイエンタールをいちばんよく知っていた人だった。
それでも、分からないことは少なくないらしい。
***
【帝国暦四八〇年代前半 銀河帝国・各戦域】
それでも他の誰かと組めと言われるより、ロイエンタールと組む方がよかった。
こちらの速度についてきて、判断は正確で、妙なところで臆病にならない。
失敗を見つけても、その場で責めるより先に穴を埋める。
そして何より、自分にはできないことをやった。
ミッターマイヤーは、ロイエンタールと同じ指揮官になりたいと思ったことは一度もなかった。
逆も、おそらくそうだろう。
同じ人間が二人いるより、違う人間が二人いる方が役に立つ。
少なくとも戦場では、それでよかった。
***
そのころ、ミッターマイヤーには戦場とはまったく別のところで、長年決着をつけられずにいる問題があった。
エヴァンゼリンへの求婚である。
知り合ってから七年、ようやく結婚を申し込む決心をしたと話すと、ロイエンタールはしばらく黙っていた。
「言いたいことがあるなら言え」
「……訊けば後悔するぞ」
「言え」
ロイエンタールはグラスを置いた。
「卿は敵陣へ突入するときにも、七年考えてから決めるのか?」
ミッターマイヤーは睨んだ。
「戦争と一緒にするな」
「なるほど。卿には戦争の方が簡単というわけか」
「少なくとも敵なら、撃てば済む」
「エヴァンゼリン嬢には、そうはいかんものな」
「当たり前だ。卿には分からんだろう」
「それは認める。一人の女に七年もかける気持ちは、おれにはたぶん一生分からん」
妙に素直に認められて、ミッターマイヤーはかえって返事に困った。
ロイエンタールはグラスを取り上げた。
「まあ、断られたら酒くらい奢ってやる」
「縁起でもないことを言うな」
「では、成功したら卿が奢れ。七年待った祝いだ」
そういう話をしてからしばらくして、ミッターマイヤーはようやくエヴァンゼリンに求婚した。
二十四歳だった。
エヴァンゼリンは十九歳になっていた。
***
【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
「七年、ですか」
「七年だ」
「長すぎませんか?」
「七年と三か月よ」
台所から母さんの訂正が飛んできた。
父上は、そちらを見なかった。
「お前には言われたくはない」
「俺が何ですか?」
「いや、何でもない」
何のことか分からなかったが、それ以上は追及しなかった。
母さんも何も足さなかった。
父上は黒ビールを飲んでから、結婚式の話を始めた。
***
結婚式はつつましいものだった。
大勢の名士を招くような家でもなければ、二人ともそんな式を望まなかった。
家族と、ごく親しい人々が集まり、その中にロイエンタールもいた。
軍服姿の彼が現れると、何人かの女性客が同時にそちらを見た。
ミッターマイヤーは気づいた。
父親も気づいた。
母親も、おそらく気づいていた。
当のロイエンタールだけが、何も気づいていないような顔をしていた。
式の前、控室へ顔を出したロイエンタールに、ミッターマイヤーは言った。
「今日はおとなしくしていろよ」
「何の話だ」
「分かっているだろう」
ロイエンタールは少し考え、納得したようにうなずいた。
「なるほど。花嫁を奪うなという話か」
「そこまでは言ってない」
「安心しろ。親友の妻を奪わねばならぬほど、女には不自由していない」
「自分で言うか」
「事実は事実だ」
「卿はやっぱり帰れ」
「招待しておいてひどいことを言う奴だ」
ミッターマイヤーは自分でも笑った。
式が始まると、ロイエンタールは本当におとなしくしていた。
女性参列者から視線を集めても、それに応じる様子はない。
エヴァンゼリンの前へ進むと、型どおりの祝福を述べ、儀礼的な接吻をした。
「おめでとう、ミッターマイヤー」
「ありがとう」
ロイエンタールはエヴァンゼリンへ一礼した。
「夫君は、戦場ではもう少し決断が速いのですが」
エヴァンゼリンが笑った。
「存じています」
「余計なことを言うな」
「もう手遅れだ」
エヴァンゼリンがロイエンタールへ向き直った。
「ロイエンタールさん。この人が戦場で本当にそんなに決断が速いのか、わたしは少し疑っています」
ミッターマイヤーは目を見開いた。
「エヴァ」
ロイエンタールは真顔でうなずいた。
「奥方の疑念には根拠があります。しかし、そこはご安心を。敵が相手なら、御主人はたいへん優秀です」
「敵が相手なら、か」
エヴァンゼリンがまた笑った。
二人に挟まれて、ミッターマイヤーは自分の結婚式でなぜ自分がからかわれているのか分からなかった。
だが、悪い気はしなかった。
ロイエンタールは長居しなかった。
酒を一杯飲み、何人かと言葉を交わし、まだ宴が続いているうちに席を立った。
「もう帰るのか」
「今日は主役が二人いる。そのどちらもおれではない」
「……たまには素直に祝って帰れ」
「十分に祝ったさ」
ロイエンタールはそう言ってから、少しだけ表情を改めた。
「幸せになれ、ミッターマイヤー」
その声に軽口の響きはなく、ミッターマイヤーも冗談を返すのはやめた。
「ああ」
「奥方を泣かせるなよ」
「……卿にだけは言われたくない」
ロイエンタールの口元に笑いが戻った。
「たしかにそうだ」
それだけ言って、彼は帰っていった。
その後ろ姿を見送っていたミッターマイヤーの父が、息子のそばへ寄ってきた。
「お前な。ああいう男を自分の結婚式へ呼んで、よく平気でいられるな」
「何の話だよ」
父親はロイエンタールが出ていった方を顎で示した。
「花嫁を持っていかれたらどうする」
ミッターマイヤーが何か言うより先に、母親が横から割って入った。
「あなた、自分の息子を少しは信用なさいな。うちの息子だって、けっこういい男ですよ」
「親だからそう思うんだ」
「あなたも親でしょう」
父親はそれで黙った。
少し離れたところからエヴァンゼリンがこちらを見ており、目が合うと笑ったので、ミッターマイヤーも笑い返した。
そのときの彼には、複雑に考える理由などなかった。
自分にはエヴァンゼリンがいる。
ロイエンタールにも、いつかそういう相手が現れればよい。
あの男にどんな女が合うのかと考えてみたが、すぐに分からなくなった。
気の強い女なら喧嘩になり、おとなしい女ならロイエンタールが退屈しそうだった。
賢すぎても互いに相手の言葉の裏を読みそうだったし、何も考えない女では、そもそもロイエンタールが近づかないだろう。
そのうち誰かいるだろう、とミッターマイヤーはそれ以上考えなかった。
***
【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
「母さんは、その話を知ってるんですか」
「知っている。全部な」
「『敵が相手なら優秀』って、いまでも使わせてもらってるわ」
母さんが言った。
「便利なのよ、あれ」
父上は苦い顔をした。
今度は笑った。
笑いが引いたところで、父上が言った。
「あいつは、俺の結婚式に来た」
顔を上げた。
「俺は、あいつの結婚式には出られなかった。……そういう日が、来なかったからな」
台所で、皿を洗う音が一度止まった。
母さんは何も言わなかった。少しして、また水の音が始まった。
父上も、それ以上は何も足さなかった。
さっきまでの結婚式の話が、急にずっと昔のことになったような気がした。
***
【帝国暦四八〇年代前半 銀河帝国】
結婚したからといって、二人の付き合いが変わったわけではなかった。
任地が近ければ酒を飲み、同じ作戦に入れば顔を合わせた。
ただ、ミッターマイヤーには帰る場所ができ、ロイエンタールには相変わらず、そのときどきで違う女がいた。
最初のうち、ミッターマイヤーは何度か口を出した。
ある夜、酒場で向かいに座るなり、ミッターマイヤーは訊いた。
「昨日までの女はどうした」
ロイエンタールはグラスから目も上げなかった。
「昨日までだ」
「そういうことを訊いているんじゃない。分かっているだろう」
「分かっているさ」
あまりに平然と答えるので、ミッターマイヤーは一瞬、何を言うつもりだったのか忘れた。
「だったら少しは考えろ。相手は卿ほど簡単には割り切れんこともあるだろう」
「そうかもしれんな」
「分かっていて、なぜ同じことをする」
「ほう、分かることと、やめることは同じなのか?」
「普通はつながっている」
「卿の場合はな」
「人を変人みたいに言うな」
「逆だ。卿はまっとうすぎると言っている」
ミッターマイヤーは眉をひそめた。
褒められた気がしない。
「卿は女を泣かせるのが楽しいのか?」
「楽しくはない」
その返事だけは早かった。
「ならば、なぜ」
ロイエンタールは答えなかった。
拒絶したというより、そもそも答えを探す気がないように見えた。
別のときには、もっと単刀直入に訊いた。
「卿は、そもそも女が好きなのか?」
ロイエンタールは妙な顔をした。
「……ずいぶん大きなくくりになったな」
「嫌いなのか?」
「それも大きすぎる」
「では何なんだ?」
「さあな」
ロイエンタールが笑った。
「結婚すると、人間は他人の男女関係にまで責任を感じるようになるのか」
「ならん。卿を見ていて腹立たしいだけだ」
「なるほど。友情というものは面倒だな」
「今ごろ気づいたのか」
「卿と知り合ったころから、薄々とはな」
ミッターマイヤーは反射的に言い返しかけて、やめた。
妙な話だが、こうして自分とやり合っているときのロイエンタールは楽しそうだった。
女のことを話すときより、よほど。
それに気づいてから、ミッターマイヤーは少しずつ彼の女性関係に口を出さなくなった。
単に女好きというだけなら、もう少し愉快そうにしていてもよさそうなものだった。
自慢もしない。
数を誇ることもない。
関係が終われば、その女について語らなくなる。
戦場なら、分かると言った相手は動く。
敵の意図が分かれば備え、味方の意図が分かれば応じる。
原因を知れば手を変え、失敗すれば次は直す。
ところが、女のことに限って、ロイエンタールは理解と行動を結びつけようとしない。
ある夜、とうとうロイエンタールに言った。
「卿は、自分で自分が分からんのじゃないか?」
ロイエンタールはグラスを口元まで持ち上げたまま、ミッターマイヤーを見た。
「ずいぶん失礼なことを言うな」
「違うなら違うと言え」
「違う」
「即答するな!」
「……卿はどちらの答えを望んでいる」
ミッターマイヤーは答えられなかった。
ロイエンタールは酒を飲んだ。
「人間など、自分のことをそれほど分かっているものか」
「卿はそうなのか?」
「さあな」
「またそれか」
「分からないものを、分かったふりをするよりはいいだろう」
その一言だけが、妙に耳に残った。
ミッターマイヤーは、そこで話をやめた。
ロイエンタールも何も足さなかった。
二人は次の任地や上官の悪口、補給の遅れについて話し始めた。
そういう話なら、いくらでもできた。
女の話だけは、少しずつ減っていった。
ミッターマイヤーは理由を知ったわけではない。
ただ、本人が答えようとしないものを、こちらが勝手に答える必要もないと思った。
分からないものは、分からないままでよい。
そのころのミッターマイヤーには、それで足りていた。
***
【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
黒ビールは、さっきより少し減っていた。
父上が女の話をするあいだ、何度か別の名前が頭に浮かんだ。
結局、訊いた。
「……ロイエンタールは、あの人とのことも、いつもと同じだったんですか?」
あの人、と言っただけで、父上には通じた。
「知らん」
「父上でも?」
「俺が見ていたのは、あいつの一部だけだ」
父上はグラスには手を伸ばさず、俺を正面から見た。
「ロイエンタールとあの女史とのことは、俺が話していいことじゃない。それは、女史本人にしか答えられん」
分かっていた。あの人がロイエンタールをどう見ていたのか。俺を産んだとき何を考えていたのか。なぜ二十二年前に置いていったのか。父上が答えられる話ではない。
本人に訊くしかない。
そう考えてから、手元の黒ビールを一口飲んだ。
俺は、その本人に会いに行かない。
今はそれでよかった。
父上は何も言わず、次の話を始めた。
***
【帝国暦四八四年 惑星カプチェランカ】
このとき、ミッターマイヤーとロイエンタールの二人は中佐になっていた。
カプチェランカでミッターマイヤーが最初に嫌ったのは、寒さより重力だった。
一歩踏み出すだけで、普段より余計な荷物を背負わされているように脚が沈む。
酷寒に加えて大気には水銀性ガスが混じっており、防護装備を外すこともできない。
視界の先には白と灰色、それに踏み荒らされた泥の色しかなかった。
戦闘が始まると、どこまでが味方の戦線でどこからが敵なのかという区別さえ、急速に意味を失った。
艦隊戦なら、戦場はまだ図形として見ることができる。
敵の厚いところ、薄いところ、前へ出すべき兵力と残すべき兵力があり、図面の上で考えたことを現実の艦隊へ移せばよい。
ここには図形がなかった。
泥濘の向こうから人間が現れる。
撃てば倒れ、その後ろからまた別の人間が出てくる。
砲撃で凍土がえぐられるたびに土砂と氷片が舞い、視界が白く閉ざされたと思えば、次の瞬間には数メートル先で敵兵と味方が組み合っていた。
通信越しにロイエンタールの声がした。
「艦隊指揮を覚えてきたつもりだったのだがな」
ミッターマイヤーは粒子ビーム・ライフルを撃ちながら答えた。
「残念だったな。今は装甲擲弾兵だ。諦めろ」
凍土の向こうで人影が一つ崩れ、別の影がその陰へ滑り込む。
照準を移しながら、つい口が動いた。
「まったく、軍も人使いが荒い」
「諦めろと言ったのは卿だぞ。文句は生きて帰ってから言え」
「誰にだ」
「軍務省へでも言え」
二人の間をビームが走り、会話はそこで切れた。
しばらくして、ミッターマイヤーは自分が予定よりかなり前へ出ていることに気づいた。
引き返すべきか一瞬考えたところで、右方から二本の射線が伸び、こちらへ回り込もうとしていた同盟軍兵士を倒した。
誰が撃ったのかを見る必要はなかった。
「また前に出すぎだぞ、ミッターマイヤー」
「見えているなら援護しろ」
「今したさ」
「ならば問題ない」
「卿のその論法だがな、いつか死ぬぞ」
「そうならんよう、卿が後ろを埋めろ」
一拍置いて、ロイエンタールが答えた。
「まったく、世話の焼ける友だ」
ミッターマイヤーは口元だけで笑った。
その直後、左側で敵兵が動いた。
「左、三人」
ミッターマイヤーが言い終える前に、ロイエンタールの射線がそちらへ振れていた。
「見えた」
「奥にもいるぞ」
「それは見えていない」
「俺を信じろ」
ロイエンタールは返事をしなかった。
数秒後、奥にいた敵兵まで倒れた。
「いたな」
「だから言っただろう」
こんなやり取りをしながら、二人は少しずつ前へ進んだ。
どちらかが相手の命令を待っているわけではない。
ミッターマイヤーが動けば、ロイエンタールはそのために空いた場所を見る。
ロイエンタールが敵の一部を押さえれば、ミッターマイヤーは残った側へ入る。
互いに相手を助けているという意識すら、もう薄かった。
そうするのが一番速かった。
***
戦線はさらに崩れ、通信には雑音が増えて、味方部隊との位置関係もはっきりしなくなった。
ミッターマイヤーが何度目かの射撃をしたところで、ライフルの表示が警告色へ変わった。
ロイエンタールの声がした。
「残量は」
「卿にやるほどはない」
「おれも同じだ」
「なら訊くな」
「希望くらい持たせろ」
最後の数射を使い切ると、ミッターマイヤーは空のエネルギー・カプセルを捨てた。
新しいものを探す余裕もないまま敵兵が突っ込んできたため、ライフルを逆手に持ち替え、銃身を相手の顎へ叩き込んだ。
横から戦斧が来た。
身体を沈めてかわし、相手の懐へ入る。
高重力のせいで動きがわずかに遅れたが、斧の刃は肩をかすめて過ぎた。
一撃、さらに二撃。
二度目に振り下ろしたところで、ライフルの銃身が曲がった。
「役立たずめ」
ミッターマイヤーは吐き捨てて、それを放した。
数メートル先からロイエンタールの声がした。
「兵器に当たるな」
彼もすでに射撃武器を失い、どこから手に入れたのか戦斧を握っていた。
「卿のは使えるのか」
「いまのところはな」
「貸せ」
「断る」
「友人だろう」
「だから断る」
戦斧を振るったロイエンタールの脇を、別の敵兵が抜けようとした。
ミッターマイヤーは足元の泥を蹴り上げ、相手が一瞬顔を背けた間に距離を詰め、倒れていた兵士の武器を拾った。
一射すると敵が倒れた。
ロイエンタールが横目でこちらを見た。
「卿は品がないな」
「勝てばいい」
「そこだけは昔から変わらんな」
それきり、また言葉が途切れた。
戦闘はさらに接近した。
零下三十度の泥の上へ人間が倒れ、噴き出した血が色を失う前に凍っていく。
戦斧の刃にも霜がつき、手袋は水と泥と血で重くなった。
泥と銃声の向こうから、ロイエンタールの声が飛んだ。
「おい、ミッターマイヤー。まだ生きているか」
「なんとかな。卿は何人やった」
「十人までは数えた」
一度、ミッターマイヤーは完全にロイエンタールを見失った。
敵兵を倒して振り返ったとき、右にも左にもあの長身がいない。
「ロイエンタール」
返事はなかった。
もう一度呼ぼうとして、ミッターマイヤーはやめた。
通信が死んだのかもしれないし、倒れたのかもしれない。
だが、探しに行けば今いる位置が崩れる。
ロイエンタールなら、それくらい分かっている。
なら自分もここを離れるべきではないと判断し、ミッターマイヤーは前を向いた。
三人目の敵を倒した直後、斜め後ろから銃火が走った。
ミッターマイヤーの死角へ入ろうとしていた兵士が倒れる。
少し離れた凹地から、ロイエンタールが顔を出した。
「おれを探したか」
「誰が探すか」
「まったく冷たい男だ」
「死んでいたら、あとで探すつもりだった」
「順序が逆ではないか」
「生きている奴を先に助ける」
ロイエンタールは真顔でミッターマイヤーを見た。
「合理的だな」
その「合理的だ」という評価が少し嬉しかったことは、ロイエンタール本人には言わなかった。
***
どれほど戦ったのか、時間の感覚がなくなった。
倒れた兵士の武器を拾い、使えなくなれば捨てた。
ロイエンタールの戦斧も途中で失われ、ミッターマイヤーの手にも、もはやまともな武器と呼べるものは残っていなかった。
呼吸器の内側が白く曇る。
指が動かない。
腕を持ち上げるたびに、重力が身体を地面へ引き戻そうとした。
ようやく周囲を見る余裕ができたとき、二人は囲まれていた。
前方にも左右にも、振り返れば後方にも敵兵がいた。
ロイエンタールが言った。
「人気者になったものだ」
「卿だけだろう」
「残念ながら、卿も同じ程度には好かれているようだ」
こんなときまで平然としている。
ミッターマイヤーは隣の男を見た。
フルフェイスのヘルメットも装甲服も泥にまみれ、通信回線には荒い呼吸音が混じっている。
それでも、ロイエンタールの声だけは普段とほとんど変わらなかった。
周囲では、同盟軍歩兵がじりじりと包囲を狭めていた。
銃口の向こうから伝わってくるのは、警戒というより殺気だった。
こちらが何人倒したか、彼らも見ている。
「降伏するか、ミッターマイヤー」
「今さらか」
「訊いただけだ」
ロイエンタールは敵兵の列を見た。
「……おれなら捕虜にはせんな。殺し過ぎた」
「俺もだ」
敵兵たちはすぐには踏み込んでこなかった。
こちらが武器をほとんど失っていることは分かっている。
それでも、ここまでに倒れた仲間の数を見れば、最後の一歩をためらう理由にはなるらしい。
包囲は少しずつ狭まっていた。
ミッターマイヤーは距離を測った。
突破できる場所はない。
無理に走れば数秒で撃たれる。
これまでなら、ロイエンタールを見るだけで、次に何をするつもりかたいてい分かった。
前へ出る。下がる。敵を引く。一方を捨てる。
言葉がなくても、それくらいは読めた。
いまはもう分からなかった。
ロイエンタールは何も言わず、正面を見ている。
死ぬつもりなのだろう。
それは自分も同じだった。
だが、死ぬと分かった人間が何を考えるのかまでは、ミッターマイヤーには読めなかった。
自分の頭には、エヴァンゼリンの顔が浮かんでいた。
何を話したか、最後にどんな顔を見たか。
帰るつもりで出てきたから、別れらしい別れなどしていない。
もっと何か言っておけばよかったのかもしれないと思い、すぐに、そんなことを言っていたら笑われるだろうとも思った。
それで少し気が楽になった。
隣を見ると、ロイエンタールは正面を見たままだった。
誰を思っているのか、と訊きかけてやめた。
戦場で必要なことなら訊けるが、これは違う。
「来るぞ」
ロイエンタールが言った。
敵兵が動いた。
ミッターマイヤーも前を向いた。
「ああ」
二人には、それだけで充分だった。
***
突然、空気そのものが震えた。
最初ミッターマイヤーは砲撃だと思った。
直後、上空から轟音が落ちてきた。
雲と粉塵の向こうを帝国軍の大気圏内戦闘機が低空で横切り、極低周波ミサイルを敵陣へ撃ち込む。
地面が跳ね、凍土と氷片が空を覆って、ただでさえ弱い太陽光が消えた。
視界は一瞬で暗くなり、レーダーも攪乱された。
暗闇の中から、ロイエンタールの声が来た。
「ミッターマイヤー!」
「届いている!」
「右だ!」
「分かった!」
なぜ右なのかは訊かなかった。
右へ走った。
重力に脚を引かれ、泥に足を取られる。
それでも、直前まで塞がっていた方向から飛んでくるブラスターの光条は、明らかに減っていた。
右が薄い。
あの暗闇の中で、ロイエンタールはそれを見分けていた。
前に人影が出た。
敵か味方か確認するより早く、銃口がこちらを向いた。
ロイエンタールが横からその兵士へ体当たりし、ミッターマイヤーも巻き込まれて、三人まとめて泥へ転がる。
ミッターマイヤーは倒れた兵士の銃をつかみ、残量を見る暇もなく撃った。
敵兵が倒れた。
ロイエンタールが叫んだ。
「これで一つ貸しだ!」
「勝手に助けておいて何を言う!」
「では、返さなくていい!」
「最初からそのつもりだ!」
二人は走った。
途中で、今度はロイエンタールが泥に足を取られた。
ミッターマイヤーは足を止めずに振り返り、拾ったブラスターを撃った。
ロイエンタールへ近づこうとしていた敵兵が倒れる。
背後から声が来た。
「今ので相殺だな!」
「勝手に決めるな!」
その声が届いているうちは大丈夫だと思った。
姿が見えなくても、声がある。
声が右へ行けば右へ行く。
止まれば自分も止まる。
また声が届けば走る。
どちらがどちらを助けたのか、あとになって数えることなどできなかった。
そんなことを何度か繰り返しているうちに、飛び交うブラスターの光条は少しずつ遠ざかっていった。
***
帝国軍の陣地へ戻ったとき、二人とも自分の足で立ってはいた。
それ以上を望むのは贅沢だった。
ミッターマイヤーは地面へ腰を下ろし、呼吸器を外した。
冷気が肺へ入り、激しく咳き込む。
隣でロイエンタールも座った。
顔にも装甲服にも泥がこびりつき、ダークブラウンの髪には霜がついている。
普段なら初対面の人間が必ず一度は見る金銀妖瞳も、このときは疲労で光を失っていた。
しばらく二人とも喋らなかった。
周囲では負傷者が運ばれ、衛生兵が怒鳴り、誰かが補給を求めている。
ミッターマイヤーは自分の手を見た。
まだ震えていた。
「死に損なったな」
ようやく、ミッターマイヤーは言った。
ロイエンタールは泥のついた手袋を眺めた。
「残念だったか」
「卿と一緒に死ぬ趣味はない」
「安心した」
「卿は」
ロイエンタールは手袋から目を上げた。
「おれも卿と心中する趣味はないさ」
「女とならあるのか」
「相手によるな」
ミッターマイヤーは思わず笑った。
脇腹が痛んだ。
「痛いなら笑うな」
「卿が馬鹿なことを言うからだ」
「生還したばかりの友に、馬鹿とはひどいな」
「では何と言えばいい」
「命の恩人、というのはどうだ?」
「誰が、誰のだ?」
ロイエンタールはわずかに首を傾げた。
「それもそうだ」
「ならば、相殺だ」
また笑った。
今度は二人ともだった。
***
【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
「父上は、怖くなかったんですか?」
「怖かったさ」
父上はすぐに答えた。
「囲まれたとき、エヴァの顔が浮かんだ。それから、隣を見た」
そこで一度、言葉を切った。
「あいつが何を考えていたのかは、分からん。あれだけ隣にいて、あの一瞬だけは読めなかった。……今でも分からん」
俺のグラスでは、黒ビールの泡がほとんど消えていた。
父上はさっきから何度も「分からん」と言っている。若いころの父上は、戦場ではロイエンタールが次にどこへ動くか分かった。姿を見失っても、相手ならどうするかを考えればよかった。それでも、死ぬかもしれないと分かった瞬間に何を考えていたのかまでは、隣にいた父上にも分からなかった。
俺はグラスに口をつけた。さっきより温くなっていた。
母さんが席を立ったのは、そのあたりだった。
「私は先に休むわね」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい、母さん」
母さんは父上を一度見た。
父上も見返したが、何も言わなかった。
扉が閉じるまで待ってから、父上が口を開いた。
「ここから先は、エヴァにも話していない」
俺はグラスを置いた。
「二十年以上、一度も?」
「ああ」
父上は俺を見た。
「今まで誰にも話していない。お前が初めてだ、フェリックス」
それまでとは少し違う話が始まるのだと、その言い方だけで分かった。
背筋を伸ばした。
父上は、カプチェランカから生還した夜のことを話し始めた。
***
【帝国暦四八四年 惑星カプチェランカでの地上戦から生還した夜 帝国軍基地内バー】
その夜、二人は基地のバーにいた。
香料入りのシャワーを浴び、軍服も着替えた。
髪や皮膚に染みついていた泥と血の臭いはほとんど消えていたが、昼間の戦場まで洗い流されたようには感じなかった。
ミッターマイヤーは黒ビールを飲み干した。
「もう一杯」
隣でロイエンタールが横目を向けた。
「卿にしては速いな」
「今日くらいはいいだろう」
ロイエンタールは何も言わず、自分のグラスを空けて、同じものを頼んだ。
生還の祝いだと、最初の一杯では言った。
四杯目には、もうどちらもそんなことを言わなかった。
昼間、敵兵を何人倒したか数えていた男が隣にいる。
ミッターマイヤーはそのことを思い出した。
「十人までは数えたと言っていたな。結局、何人だった」
ロイエンタールはグラスを揺らした。
「忘れた。途中で数える意味がなくなった」
「最初からそんなものはない」
「卿が訊いたのだろう。ひどい奴だ」
「酒のせいだ。もう三杯目だからな」
「違う。四杯目だ」
ミッターマイヤーはグラスを見た。
「数えているではないか」
ロイエンタールが笑った。
しばらくは戦場の話をした。
どこで包囲されたのか、どの瞬間に戦線を見失ったのか、あの暗闇で走った判断が正しかったのか。
ロイエンタールが言った。
「あれで卿が左へ走っていたら、置いていくところだったぞ」
「命令した本人が言う台詞か」
「従ったのは卿だ」
「他に道がなかった」
「ならばおれの判断は正しかったわけだ」
ロイエンタールが笑い、またグラスが空いた。
死にかけたあとだから飲んでいるのか、飲んでいるから死にかけたことを話しているのか、だんだん分からなくなる。
それでも悪い気分ではなかった。
生きているという事実が、酒といっしょに遅れて身体へ入ってくるようだった。
「帰ったら、エヴァに叱られるな」
何となく口にした。
ロイエンタールがこちらを見た。
「なぜだ」
「無茶をした」
「戦場へ送り出した時点で、ある程度は覚悟しているだろう」
「覚悟はしていても、平気ではないさ」
「なぜ分かる」
「夫だからだ」
「便利な肩書だ」
「卿には一生縁がなさそうだがな」
言ってから、少し意地が悪かったかと思った。
だが、ロイエンタールは気にした様子もなかった。
「ああ。そのとおりだ」
「欲しくないのか?」
「妻がか」
「そうじゃない。家庭だ」
ロイエンタールはすぐには答えなかった。
ミッターマイヤーは少し後悔した。
やがてロイエンタールが言った。
「卿は家庭を持ち、幸福か?」
「何だ、急に」
「訊いただけさ」
ミッターマイヤーはグラスを置いた。
考える必要はなかった。
「ああ、幸福だ」
ロイエンタールは笑わなかった。
「即答か」
「考えるようなことか」
「おれには分からん。それだけ迷わず、人について答えられるということがな」
ミッターマイヤーは眉を寄せた。
「エヴァはエヴァだ。女だから信用したわけじゃない」
「では何を信用した?」
「本人だ」
ロイエンタールの手が止まった。
ミッターマイヤーはそれを見た。
昼間、戦場で一瞬だけ相手を見失ったときと、少し似ている気がした。
どこへ行ったのか分からない。
ただし今度は、探しに行く場所すら分からない。
「ロイエンタール、卿は俺を信用していないのか?」
ロイエンタールが眉を上げた。
「話が飛んだな」
「同じだろう」
「同じではない」
「どこが違う?」
ロイエンタールはミッターマイヤーの顔をしばらく見た。
「卿と寝ようとは思わん」
一瞬、意味が分からなかった。
分かった瞬間、ミッターマイヤーは吹き出した。
「俺だって御免だ!」
「卿が同じだと言ったのだろう」
「そういう意味じゃない!」
ロイエンタールも笑った。
二人とも、しばらく笑った。
ミッターマイヤーは目元を拭いた。
「まったく、卿という奴は。真面目な話をしていると、すぐ逃げるな」
ロイエンタールの口元から、笑いが少し引いた。
「そう見えるか?」
「見える」
「……卿は何でも真っ直ぐ行きたがる」
「悪いか」
「いや、うらやましい」
ロイエンタールはグラスへ視線を落とした。
ミッターマイヤーは黙った。
普段なら、そこをからかったかもしれない。
その夜はできなかった。
「だがな、ミッターマイヤー」
ロイエンタールが続けた。
「女というものは、信用せん方がいい」
「結局そこへ戻るのか」
「経験が多い者の忠告だと思え」
「失敗例が多いの間違いだろう」
「失敗が多い者ほど、資料は豊富だ」
ミッターマイヤーは呆れて笑った。
ロイエンタールも口元を緩めたが、それは長く続かなかった。
「……おれの母親が、いい例だ」
ミッターマイヤーの笑いが消えた。
いつもならロイエンタールはそこで話を終えていた。
だが、その夜は違った。
「父は名ばかりの下級貴族で、母は伯爵家の娘だった。二人とも青い眼だったそうだ」
ロイエンタールは正面を見たまま続けた。
「だが、おれには黒い右眼があった。母には、黒い眼をした愛人がいた」
ミッターマイヤーは黙った。
「母は、この眼を見て何を考えたと思う?」
ロイエンタールはグラスを持ち上げたが、空だった。
「ついていないな。肝心なところで酒がない」
「ならば、もう飲むのをやめろ」
ロイエンタールは空のグラスを置いた。
「……おれがまだ赤ん坊のころ、母にこの右眼をえぐり出されるところだったのだ」
「……母親が?」
「ああ。実の母親が、だ」
ロイエンタールは黒い右眼の下を、指先で一度だけなぞった。
「失敗したから、こうして二つ残っている」
まるで敵の射撃が外れた話でもするような口調だった。
ミッターマイヤーは腹が立った。
誰に向けた怒りなのか、自分でも判然としない。
母親に対してか、そんな話を平然としているロイエンタールに対してか、それとも何も言えない自分に対してか。
「卿は――」
言いかけて、止まった。
そんな女ばかりではない。
自分の妻は違う。
もっと人を信じろ。
どれも言おうと思えば言えたし、おそらく間違ってもいない。
だが、自分には帰る家があり、エヴァンゼリンがいる。
昼間、死を覚悟した瞬間にも、最後に思い浮かべる女性がいた。
その幸福を持つ自分がこの男へ差し出すには、どの言葉もあまりに簡単過ぎた。
ミッターマイヤーは黒ビールをひと口飲んだ。
「なあ、ロイエンタール。俺は思うんだが……」
返事がないので横を見ると、ロイエンタールはカウンターへ額を預けていた。
「おい」
肩を揺すってみたが、反応は鈍い。
どうやら眠っている。
「……こんなところだけ逃げ足が速い」
小さく言った。
返事はなかった。
昼の戦場なら、相手がどこへ行くか分かった。
右へ行けと言われれば右へ行ったし、姿が見えなくても声を追えばよかった。
いまは、どこへ行けばよいのか分からない。
ミッターマイヤーはしばらく隣に座っていたが、起こさなかった。
何を言うつもりだったのかも、結局最後まで決められなかった。
***
【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
「……父上はロイエンタールに、何て言うつもりだったんですか」
自分で思っていたより、小さな声が出た。
父上は答えず、しばらくグラスを見ていた。もう黒ビールはほとんど残っていなかった。
「覚えていない」
「本当に?」
「……いや」
父上は少し考えた。
「違うな。忘れたんじゃない。あのとき、最後まで決められなかった。いや、わからなかった」
何も言えなかった。
父上ならあとになって答えを見つけていたのだと、なんとなく思って訊いていた。二十年以上もあったのだから、あの夜に言えなかったことくらい、疾風ウォルフは分かっているのだろうと。そうではなかった。
「今だったら、何と言いますか?」
父上はすぐには答えなかった。
やがて、首を振った。
「……今でも、何と言えばよかったのか分からん」
グラスに残っていた泡が、縁で消えた。
父上はそれを見ていた。
「それが、悔しい」
――「だが、間に合っただろう?」
「ああ。間に合った」
次回、『疾風と金銀妖瞳(後編)』
【原作参照】
本話では、田中芳樹『銀河英雄伝説3 雌伏篇』(創元SF文庫・東京創元社)本文 p.66–71、および『銀河英雄伝説外伝1 星を砕く者』(同)本文 p.111–112を参照しています。
ミッターマイヤーの結婚、惑星カプチェランカでの戦闘、ロイエンタールが自身の生い立ちを語る場面など、原作に描かれた出来事を踏まえつつ、本作ではミッターマイヤーの記憶と視点から場面を再構成しています。