【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
母さんが休んでから、家の中はずいぶん静かになった。
食卓には黒ビールのグラスが二つ残っている。父上の方はほとんど空で、俺の方にはまだ少し残っていた。
さっきの話が終わってから、父上はしばらく何も言わなかった。俺も急かさなかった。
やがて父上が口を開いた。
「翌朝のことは、よく覚えている」
「何があったんですか」
「起きたら頭が割れそうだった」
思わず父上を見た。
「まず、そこですか」
「まず、そこだ」
父上は真面目な顔をしていた。
「俺もロイエンタールも、ひどい宿酔だった」
それから、カプチェランカで生還した翌朝の話を始めた。
***
【翌朝 惑星カプチェランカ・帝国軍基地士官食堂】
翌朝、ミッターマイヤーはひどい頭痛とともに士官食堂にいた。
朝食にはほとんど手をつけず、冷めていく皿を前に水ばかり飲んでいた。
向かいの椅子が引かれ、ロイエンタールが腰を下ろした。
いつも隙のない男も、この朝ばかりは髪がわずかに乱れている。
「ひどい顔だな。寝癖がついているぞ」
ミッターマイヤーは反射的に髪へ手をやった。
ロイエンタールの口元が曲がる。
「嘘だ」
「宿酔の朝からそういうことをするな。寝癖なら卿の方がひどい」
「宿酔だからこそ、楽しみが必要だ」
給仕が置いた水を、ロイエンタールは半分ほど一息に飲んだ。
「宿酔も卿の方がひどそうだ」
「卿ほどではない」
食堂では、二人とは関係なく朝が進んでいた。
食器が触れ合い、椅子が鳴り、少し離れた卓では若い士官たちが補充要員の到着時刻について話している。
昨日、人間が泥の中で殺し合っていたことなど、ここだけを見れば嘘のようだった。
ロイエンタールは水のグラスを置いた。
「昨夜の話だが」
ミッターマイヤーはフォークを置かなかった。
「どの話だ。卿はずいぶん酔っていた」
「卿もだ」
ロイエンタールの視線が一度だけミッターマイヤーの顔を捉え、それから皿へ落ちた。
「酒の勢いで、つまらんことを言った」
ミッターマイヤーは待った。
「忘れてくれ」
短かった。
謝罪でもなければ、説明でもない。
昨夜、言えなかった言葉が頭のどこかにまだ残っていた。
朝になれば何か言えるかもしれないと、眠る前には少し思っていた気もする。
だが、ミッターマイヤーはフォークでポテトを一つ刺し、持ち上げたあと、また皿へ戻した。
「何のことだ」
ロイエンタールが顔を上げた。
「まるで憶えていない」
しばらく、二人は互いを見た。
ロイエンタールの黒と青の瞳が、何かを量るようにミッターマイヤーを見る。
やがて口元がわずかに曲がった。
「……ふん、そうか。それならいい」
ロイエンタールは水を飲んだ。
それで終わった。
あまりにあっさりしていたので、ミッターマイヤーは少し拍子抜けした。
昨夜の話を否定するのか、酔っていたと言い訳するのかと思っていたが、ロイエンタールはどちらもしなかった。
そのことに、少しほっとした。
昨夜のロイエンタールをどう受け止めればよいのか、ミッターマイヤー自身にも分かっていなかった。同情するのは違う気がしたし、あれをこの男の弱さだと考えることにも抵抗があった。
忘れてくれ、と言われた。
そうであれば、忘れたことにすればいい。
少しして、ロイエンタールがミッターマイヤーの皿を見た。
「食わないのか」
「食欲がない。卿こそ、さっきから水しか飲んでないぞ」
「慎重に敵情を観察している」
「朝食だぞ」
「今日もっとも手強い敵かもしれん」
ミッターマイヤーは吹き出しかけ、頭に響いて顔をしかめた。
「笑わせるな」
「卿が勝手に笑ったんだろう」
それで、昨日の話は終わった。
朝食を終えるころには、二人の話題は今日の勤務へ移っていた。
昨日の混戦で部隊は各所に欠けを生じていた。
損耗した装備の補充、散開した兵の収容、再編に時間のかかる部隊をどこへ回すか。
宿酔の頭でも、軍務の話になれば二人のやり取りは急に速くなった。
ロイエンタールは右側の部隊を組み直すため、ミッターマイヤーの指揮下から兵を回せと言った。
「断る。俺のところも足りん」
「即答するな」
「ならば卿が別のところから持ってこい」
「そうしよう。断りにくい頼み方なら得意だ」
「それは能力ではなく性格だな」
「区別する必要があるのか」
昨夜あれだけのことを話しても、軍務の話になれば、ロイエンタールはいつものロイエンタールだった。
ミッターマイヤーには、それでよかった。
食堂を出るところで、ロイエンタールが一度だけ足を止めた。
何か言いかけたようにも見えたが、結局、口にしたのは別のことだった。
「午後の打ち合わせに遅れるなよ」
「誰に言っている」
「七年かけた男に、だ」
「その話はもういいだろう」
ロイエンタールは笑って、そのまま廊下を歩いていった。
ミッターマイヤーは呼び止めなかった。
昨夜の続きを話す必要もないと思った。
***
【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
しばらく何も言えなかった。
「……父上は、そのまま、本当に忘れたことにしたんですか」
「ああ」
「ずっと?」
「二十年以上な。誰にも言わなかった」
父上はグラスを手に取ったが、飲まずにまた置いた。
「今夜、それを破った」
息を詰めた。
「……いいんですか?」
「あいつが生きていたら、話していない」
父上はそう言ってから、俺を見た。
「お前でなければ、話していない」
父上は少しだけ口元を曲げた。
「ヴァルハラで会ったら、たぶんロイエンタールには殴られるだろう。それは、そのときでいい」
笑おうとしたが、うまく笑えなかった。
父上はそれ以上、この話について説明せず、少しして次の話へ進んだ。
***
【帝国暦四八六年 クロプシュトック侯領】
戦闘技術顧問という肩書は、ウォルフガング・ミッターマイヤーにとって、これまで与えられた任務の中でもかなり性に合わない部類に入った。
戦場経験の乏しい青年貴族たちに艦隊運用を教えること自体はよい。
問題は、教えられる側に覚える気がほとんどないことだった。
三日前、ミッターマイヤーは一人の少佐に、艦列を崩して追撃すれば側面をさらすと説明した。
その少佐は神妙にうなずき、翌日の演習でまったく同じことをした。
「もう一度やったら、敵より先に俺が撃つぞ」
少佐は笑った。
冗談だと思ったらしい。
隣にいたロイエンタールだけは笑わなかった。
「卿は教官には向いていないな」
「知っているさ」
「生徒の方にも問題があるがな」
「それも知っている」
戦闘そのものは、もうほとんど終わっていた。
クロプシュトック侯の軍勢は潰え、侯自身も死んだ。
残っているのは占領地の整理と残存兵力の処理だったが、若い貴族士官たちは、戦争が終わってからの方が生き生きしていた。
誰の屋敷から何を持ち出した。
誰が逆らった。
何人殴った。
そんな話が夕食の席で武勲のように語られた。
ミッターマイヤーは、その現場に行き当たるたびに止めて回った。
ロイエンタールはそれを見て言った。
「卿は律儀だな」
「見つけたものを放っておけるか」
「放っておけとは言っていない。ただ、卿が百人いても足りんだろうと思っただけだ」
その通りだった。
戦闘中にはろくに前へ出なかった男たちが、抵抗できない相手には勇敢だった。
ロイエンタールはそんな連中を眺め、乾いた声で言った。
「五百年かけて帝国を食いつぶした家々の子孫だ。教育が行き届いている」
「笑えん」
「おれも別に笑ってはいない」
その日の午後、ミッターマイヤーは占領地区の一角で男たちの笑い声がした。
邸宅の裏庭へ入ると、ひとりの大尉が老婦人にのしかかり、周囲では同じ年頃の士官たちが笑っていた。
大尉は老婦人に暴行し、その指にはまった青い石の指環まで奪おうとしていた。
老婦人が指環を呑み込もうとすると、大尉は軍用ナイフでその喉を切り裂いた。
「何をしている」
笑い声が止まった。
大尉は血のついた手を見てから、ようやくミッターマイヤーの顔を認め、取ってつけたように階級を呼んだ。
ミッターマイヤーは大尉の手首をつかんだ。
「いま何をした」
「痛い、離してください」
「答えろ」
大尉は最初こそ狼狽したが、やがて別の表情を取り戻した。
父がブラウンシュヴァイク公の縁者であること、姉がリッテンハイム侯の一門へ嫁いでいることを並べ、系図くらい知ってから正義を振りかざせと言った。
ミッターマイヤーは途中まで言わせ、手を放した。
大尉の顔に安堵が浮かんだ。
「軍規に、不法に民を害し、軍の威信を損なう者は、将官の権限によってこれを極刑に処するを得る、とある。卿をその条項によって処断する」
安堵が消えた。
大尉は一歩下がり、待ってくれと声を上げた。
「反撃の機会は与える。銃を抜け」
助けを求めて視線が走ったが、誰も動かなかった。
やがて大尉の右手が腰へ落ち、ブラスターを抜く。
先に光が走ったのは大尉の銃だったが、ミッターマイヤーの頬の横を熱が抜けただけだった。
次の光条は外れなかった。
大尉が倒れると、ミッターマイヤーは銃口を下ろし、老婦人のそばへ膝をついた。
確認するまでもなかったが、それでも首筋へ指を当てた。
背後で誰かが走り去る音がした。
***
【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
「そいつを撃ったこと、後悔してますか?」
「していない」
父上は即答した。
「……撃つ前にほかの手があったかと、たまに考えることがある。だが、何度考えても、同じ結論だ。あの大尉は銃を抜いたし、老婦人はもう死んでいた。……それでも、たまに考える」
父上は一度正しいと決めたことを後から考え直したりしない人に見えていたので、意外だった。
父上は少し黙ってから、続きを話し始めた。
***
【帝国暦四八六年 クロプシュトック侯領】
討伐軍の総司令官はブラウンシュヴァイク公だった。射殺された大尉は、その遠縁でもあった。
ミッターマイヤーは公爵自身の糾問を受けた。軍規に従ったこと、自分が何を見たかを答えたうえで、貴族士官たちの暴行を放置した総司令官の責任にまで話を広げた。
当然、無事では済まなかった。
その日のうちに、彼は輸送艦の営倉へ入れられた。
夕刻、ロイエンタールが面会に来た。
「撃った男は、何をした」
「民間人を襲った。奪った。それから処断した」
ロイエンタールはそれ以上、理由を訊かなかった。
「公爵にもいつもと同じ調子で突進したのか?」
「少しだけ、丁寧にはした」
「それは結構」
ロイエンタールの金銀妖瞳が細くなった。
「このまま軍法会議まで行ければ、まだいい。だが、その前に卿が死ぬ可能性がある」
ミッターマイヤーは眉を寄せた。
「そこまでやるか?」
「卿の首ひとつで体面が戻せるなら、連中には安いものだろう」
ロイエンタールはそう言ってから、少し考えた。
「ひとり、会ってみる」
「誰にだ」
「ミューゼル大将だ」
皇帝の寵姫の弟として嫌われながら、若くして大将まで昇った男だった。ミッターマイヤーにも名前くらいは聞こえている。
「知り合いなのか?」
「まだ知己ではない。だが、この際に確かめてみる。あの男が、忠誠を尽くすに値するかどうかを」
「俺たちの件でか?」
「卿を助けて大貴族の無法と戦うなら、おれたちも彼に忠誠を誓おう」
ミッターマイヤーはしばらく友人を見た。
「……分かった。卿に任せる」
ロイエンタールは立ち上がった。
かならず助けてやる、だから短気をおこすな、と言った。
ミッターマイヤーが無理をするなと言うと、「女と勝利は、呼びもせんのに先方からおれのところへすり寄ってくる」と軽口をたたいて出て行った。
扉が閉じたあと、ミッターマイヤーは壁へ背を預けた。
ロイエンタールが何をするつもりなのか、詳しくは聞かなかった。だが、あの男が動くと言った。
それで十分だった。
***
【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
「ロイエンタールは、なぜそこまでしたんですか?」
「一度ならず俺に生命を救われた借りを返す、と笑いながら言っていた。それ以上は訊かなかった」
父上が「訊かなかった」と言うのは、今夜これが初めてではなかった。
父上は少しして、帝都の軍刑務所へ話を進めた。
***
【帝国暦四八六年 帝都オーディン 軍刑務所】
帝都へ戻ってきたという実感はほとんどなかった。
妻のいる家も、いつもの通りも、同じ惑星のどこかにあるはずなのだが、ミッターマイヤーが一日の大半に見るものは壁と扉だった。
食事だけは思っていたより悪くない。
毎回少し残していると、ある日、看守が食器を下げながら訊いた。
「毒でも疑っているのか?」
「まさか。太って帰ると妻に呆れられる」
看守は妙な顔をしたが、それ以上は訊かなかった。
ロイエンタールからの知らせはなかった。ミューゼル大将に会えたのか、その後どう動いているのかも分からない。それでも、友人が手を止めているとは思わなかった。
ずっと後になって知ったことだが、ロイエンタールはミッターマイヤーが帝都へ着く前から軍務省へ手を回していた。移送途中で死ぬようなことがあれば偶然とは認めない、とまで通告していたという。それで公然と殺されずに済んだのかどうかは分からないが、少なくとも別のやり方を試す者はいた。
ある日、取り調べだと言われて両手を拘束された。房へ入ってきた男は軍服を着ておらず、手には電気鞭を持っていた。
一度目はまともに受けたが、二度目にはミッターマイヤーは相手の間合いを測っていた。何度か鞭が振られたあと、男の巨体が床へ転がり、電気鞭もその傍らへ落ちた。
そこへフレーゲル男爵が現れた。倒れている男よりも、手錠をされたミッターマイヤーの方に興味があるらしい。
「さすがは平民出の英雄だな」
「わざわざ見物に来たのか」
その返答が気に入らなかったらしい。フレーゲルは取り巻きにミッターマイヤーを押さえさせ、自分でも何発か拳を振るった。
ミッターマイヤーは口の中の血を飲み込み、男爵を見上げた。
「それで終わりか」
フレーゲルの顔色が変わった。
「手を縛られた相手に勝ったことを、家へ帰って自慢するのか?」
取り巻きの何人かが視線をそらした。それで十分だった。
フレーゲルは自分で拘束を解かせたが、数十秒後には男爵の方が床に倒れていた。怒号が上がり、周囲の手がブラスターへ伸びる。ミッターマイヤーには武器がなかった。
そのとき短い光が続けて走り、取り巻きたちの手から武器が落ちた。
入口に三人の軍人が立っていた。
十九歳の青年が一人入ってきただけで、室内の力関係が変わった。
ラインハルト・フォン・ミューゼル大将だった。その傍らには赤毛の長身の士官がおり、反対側にはロイエンタールが立っている。
ミッターマイヤーは友人を見た。ロイエンタールもこちらを見たが、問いも安堵の言葉もなかった。
来ると言った男が、来た。
フレーゲルが床から身を起こしかけると、ラインハルトはブラスターを下ろさなかった。
「まだ続けるか」
男爵は答えなかった。
そこへブラウンシュヴァイク公の使者として、アンスバッハ准将が現れた。
アンスバッハは、フレーゲルへの公からの伝言として「いますこしの自重を望む」と告げた。フレーゲルは納得していない様子だったが、伯父の意向には逆らえない。取り巻きたちを連れて去っていった。
その後のやり取りは短く、公爵はこれ以上の騒ぎを望んでおらず、こちらも事を公にしないのであればミッターマイヤーの身の安全を保証する、ということだった。
アンスバッハも用件を終えると、ラインハルトにひとつだけ訊いた。どうやってここまで入ったのか、と。
ラインハルトが「フレーゲル男爵と同じだ。ブラウンシュヴァイク公の名を出した」答えると、准将はほんのわずかに表情を変えた。どうやら公の名は、この刑務所ではよく効く鍵だったらしい。
アンスバッハが去ったあとミッターマイヤーは改めて若い大将へ敬礼した。
「はじめまして、ミューゼル閣下。危急をお救いいただき、感謝いたします」
ラインハルトは、すこし前から来ていたのだが、ミッターマイヤーがフレーゲルを殴り倒すまで待っていた、私のぶんもよくやってくれた、と言って笑った。
ミッターマイヤーはしばらく彼を見た。ロイエンタールが、この男を選んだ理由が少し分かった気がした。
「閣下。戦場ではもっとお役に立ちます。なんでもご命令ください」
「ずいぶん大きく出たな」
答えてから、ミッターマイヤーはロイエンタールを見た。
「閣下に忠誠を誓います」
ロイエンタールの口元がわずかに動いた。
それで話は決まった。
結局、この一件が正式な裁判の場へ持ち出されることはなかった。裁くのであれば、討伐軍で起きたことも軍刑務所で起きたことも明らかにする。ラインハルトはそう主張したらしい。
門閥貴族の側にも、軍務省にも、そこまで話を広げたい者はいなかった。ミッターマイヤーは起訴猶予となり、次の出兵ではミューゼル大将の麾下に入ることになった。
ほどなく軍刑務所の門が開いたが、外にロイエンタールはいなかった。少し意外だったものの、あの男が花束でも抱えて出迎える姿を想像すると、いない方が自然だった。
家へ帰ると、扉を開けたエヴァンゼリンが、そのまましばらく夫の顔を見ていた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
エヴァンゼリンは頬に残った傷へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。ミッターマイヤーの方から、その手を取った。
その夜、食卓にはいつもの料理が並んだ。長く戻らなかった夫に、エヴァンゼリンは詳しい事情を尋ねず、ミッターマイヤーも話せる範囲だけを話した。
食事を終え、いつもの場所へ軍服を掛けたとき、ようやく実感が追いついた。
もうここへ帰れない可能性があったのだ。
軍歴だけではなかった。エヴァンゼリンと食卓を囲むことも、翌朝同じ家から出ることも、戦場へ戻ることも、まとめて失うところだった。
ロイエンタールは、それを全部つなぎ止めた。
***
【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
「母さんは、そのとき何て言ってた?」
「何も訊かなかった」
台所の暗がりを見た。
「……この家は、訊かない主義の家なんですか」
父上は、声を出して笑った。今夜はじめてだった。
「少なくともエヴァは、訊くべきときには訊く」
***
【帝国暦四八六年五月十日 帝都オーディン】
翌朝、家を出ると、通りの向こうにロイエンタールがいた。
「朝から待ち伏せか?」
「夫婦の再会を邪魔するほど無粋ではない」
「卿にしては殊勝なことを言うな」
二人は並んで歩き出した。行き先を訊く必要はなかった。
リンベルク・シュトラーゼにあるラインハルトの住まいで、二人は改めて彼の麾下に入ることを確認した。次の出兵ではラインハルト自身も前線へ出るという。
すでに軍刑務所で答えを出したことでもあり、話は長くかからなかった。刑務所で見た赤毛の士官がキルヒアイスと名乗り、四人はしばらく同じ部屋で話した。
住まいを出て、通りをしばらく歩いたところで、ミッターマイヤーが訊いた。
「それで、卿はあの人に何を言った?」
「いろいろとだ」
「便利な答えだな」
ミッターマイヤーはそれ以上は訊かず、数歩歩いた。
「助けが来るのが遅かったぞ」
「だが、間に合っただろう?」
ミッターマイヤーは横を見た。
「ああ。間に合った」
それ以上は言わなかった。
ロイエンタールも何も言わず、二人は帝都の通りを並んで歩いていった。
***
【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
「間に合った、ですか」
父上がさっき使った言葉を、そのまま繰り返した。
父上の手が、グラスの上で一瞬止まった。何かを言いかけたように見えたが、結局、口にはしなかった。
「……そのときはな」
その一言が、少し引っかかった。父上が話を続けた。
***
【帝国暦四八七年 ミッターマイヤー家】
一度だけ、言いかけたことはあった。
任地から帰った夜だった。
エヴァンゼリンが夕食の皿を片づけながら、ロイエンタールの近況を訊いた。
「ロイエンタールさん、お元気なの?」
「ああ」
「また女の人を泣かせていない?」
ミッターマイヤーは苦笑した。
「さあな」
「あなた、前はそのたびに怒っていたでしょう」
「言ってもあいつは耳を貸さん」
そのとき、カプチェランカの夜を思い出した。
実の母親に右眼を潰されかけた。
話せばエヴァンゼリンは訊き、そして、きっと真剣に考えてくれるだろう。
エヴァンゼリンが訊いた。
「どうしたの?」
ミッターマイヤーは首を振った。
「いや、何でもない」
「そう?」
「ああ」
妻に隠し事をしたという感覚はなかった。
友人が忘れてくれと言い、自分は憶えていないと答えたのだから、あの話はそこで終わっている。
必要になれば、ロイエンタール本人がまた口を開くだろう。
開かないのなら、それも本人の自由だった。
少なくとも、二人の仲がそれで遠くなることはなかった。
――それで良いと思っていた。
***
【新帝国暦二十四年四月某日夜 帝都 ミッターマイヤー邸】
父上はそこで一度、グラスに口をつけた。黒ビールはもうほとんど残っていなかった。
「それからは、先帝陛下の下だ。ビッテンフェルト、ケンプ、メックリンガー、キルヒアイス……お前が知っている名前が、あのころ一つずつ増えていった」
俺は黙って待った。
「ケンプが死んだ」
父上はそこで言葉を切り、しばらくグラスを持ったまま動かなかった。
「……その葬儀の夜だ」
続きを待った。
けれど、父上は話さなかった。
父上が話を途中で止めるところを、ほとんど見たことがない。言うと決めたことは最後まで言うし、言わないことは最初から口にしない人だった。今夜も、ここまではそうだった。
「父上?」
父上はようやくグラスを置いた。
「……今日は、ここまでにしよう」
「続きはまた今度、ですか?」
「ああ」
理由を訊こうとして、やめた。
今夜の話には、父上があえて訊かなかったことが何度も出てきた。ここまで何時間も話してきた父上が、自分から止めたのなら、今は止めた方がいいのだろう。
「分かりました」
父上は少しだけ意外そうに俺を見た。
「何ですか?」
「いや」
それ以上は言わなかった。俺も訊かなかった。
ただ、ケンプ提督の葬儀の夜に何があったのかだけは、頭に残った。
父上は立ち上がりかけた。
その前に、呼び止めた。
「父上」
「何だ」
今日ずっと考えないようにしていたことが、口まで出てきていた。
「陛下から、現地へは行かせないと言われたんです」
父上は椅子へ座ったまま、こちらを見た。
「知っている」
「俺、当然でしょうって答えました」
「ああ」
「即答しました」
父上は何も言わなかった。
言葉にしてみると、それだけの話だった。理由なら、今日の午後から何度も頭の中で並べていた。
「……行くなと言われて、ほっとしたんです」
父上の表情は変わらなかった。
「あの人が危ないのに」
「作戦はもう動いている」
「分かっています」
「お前が行かなくても、助けるために必要な人間はもう出た。アルブレヒト少将が現地を総括する。皇帝副官のお前がわざわざ現地に行く必要はない。帝都で陛下を補佐するのがお前の役目だ」
「それも分かっています」
父上はそこで黙った。
自分でも、何を責めてほしいのか分からなかった。薄情だと言われれば腹が立っただろうし、当然だと言われても、たぶん納得しなかった。
黒ビールを一口飲んだ。もう冷たくなかった。
「あの人に、助かってほしいんです」
「ああ」
「死んでほしくない」
「うむ」
そこまでは迷わず言えた。次は少し時間がかかった。
「……でも、会いたくはない」
父上は返事を急がなかった。
「……少なくとも、今は」
「そうか」
「……それだけですか」
「ほかに何を言えばいい」
「実の母親なんですよ?」
「知っている」
「俺が、会いたくないって言ってるんですよ」
父上は少しだけ眉を寄せた。
「それも分かった」
それ以上の答えはなかった。
今夜、父上が何度も「訊かなかった」と言っていたのを思い出した。
「俺、怖いんです」
今度は、父上が少しだけ動いた。
「会うのがか?」
「……はい」
何が怖いのかまでは、うまく言えなかった。責められることなのか、謝られることなのか、それとも何事もなかったように名前を呼ばれることなのか。二十二年間、一度も会ったことのない人間が自分の母親だということ自体なのかもしれない。
しばらく考えてから言った。
「戦場へ行く方が、たぶん楽ですね」
父上はそこで初めて、ほんの少し笑った。
「やはり、俺の息子だな」
「何ですか、それ?」
「俺も昔、似たようなことを言った」
父上が七年かけて求婚した話を思い出した。
「一緒にしないでください」
「そうか」
「全然違います」
「分かった、分かった」
父上はまだ少し笑っていた。
腹は立ったが、さっきより呼吸は楽になっていた。
やがて父上は立ち上がった。
「今日は寝ろ」
「はい」
「明日も早いだろう」
「父上もでしょう」
「俺は元帥だからな」
「関係あります?」
「ある」
たぶん、なかった。
父上は空になったグラスを二つ持って、台所へ向かった。
その背中を見ながら、今夜父上に話してよかったと思った。
父上が台所へ行くと、少しして母さんも起きてきた。
「終わったの?」
「途中で止められた」
「そう」
驚いた様子はなかった。
「ケンプ提督の葬儀の夜まで行って、そこで終わり」
母さんは父上からグラスを受け取り、流しへ置いた。
「この人が途中でやめるなんて珍しいわね」
「母さんも知らない話?」
「知らないわよ。私は途中から寝てたもの」
「そうじゃなくて、その先」
母さんは少し考えた。
「ロイエンタールさんのことなら、あなたのお父さんが私に話していないことはたくさんあると思うわ」
その言い方には、不満も好奇心もなかった。
俺は椅子に座ったまま、母さんの手元を見ていた。
「あの人は……二十年以上、俺のことを何だと思ってたんだろうな」
母さんは手を止めなかった。
「さあ。私には分からないわ」
「……だよな」
「それは、いつかエルフリーデさん本人に訊くしかないでしょうね」
いつか、と言われるくらいなら、今は受け止められた。
少し黙ってから、訊いた。
「母さんは?」
「私?」
母さんが振り返った。
「母さんは、俺のことを何だと思ってた?」
初めて手が止まった。
何を訊いているのか分からない、という顔をされた。
「息子でしょう。ほかに何かある?」
すぐに答えられなかった。
母さんはそれ以上説明せず、またグラスを洗い始めた。
「……そうか」
「何よ」
「いや」
母さんは一度だけこちらを見た。
「明日も早いんでしょう」
「うん」
「じゃあ、寝なさい」
父上と同じことを言われた。
「二人とも、同じこと言うな」
「夜更かししている息子に言うことは同じよ」
「俺、もう子供じゃないんだけど」
「知ってるわよ」
母さんは笑った。
***
【翌朝 帝都レーヴェンシュテルン 皇帝府】
翌朝、俺はいつもの時間に皇帝府へ入った。
昨夜は遅くなったが、寝不足というほどではなかった。父上の話を思い返す時間の方が長く、眠りそのものはすぐに来た。
副官席へ着くと、すでに何件か報告が入っていた。
アルブレヒト少将たちは予定どおり帝都を発っていた。クラインからは移動中に確認する資料の追加要求が一件、ハインリヒからは帝国側受領部隊の配置について照会が二件来ている。
皆、もう自分の仕事を始めていた。
俺も端末を開いた。
救難支援関係の報告には、通常の副官業務とは別に優先表示が付いている。バーラトからの連絡、軍務省の回答、現地部隊から上がる観測情報を整理して、必要なものをアレクへ回す。
現地へ行かなくても、やることはあった。
少しして、執務室へアレクが入ってきた。
「おはようございます、陛下」
「おはよう」
机へ向かいながら、アレクが訊いた。
「もう見たか」
「はい。アルブレヒト少将たちは予定どおりです。クラインから追加資料の要求が一件。ハインリヒから二件。軍務省が処理中です」
「早いな」
「誰が?」
「三人とも、だ」
「仕事ですから」
アレクは座り、最初の報告を開いた。
俺も自分の端末へ戻った。
数分後、バーラト側から新しい通信が入った。共同救難作戦の前進配置を開始するという通知だった。最初に動くのは救難艇ではない。母船、観測、通信、受入れを先に所定位置へ出して準備する。
内容を確認し、アレクへ送った。
「陛下」
「何だ」
「救難部隊の前進配置が始まります」
アレクは報告を読み、短く息を吐いた。
「いよいよ動き出したな」
「はい」
それだけだった。
俺は帝都に残り、救難艇はあの人のいる場所へ向かう。
今はそれでいい。
――「もしかすると、今日ここで交わした話まで、いつか歴史の本に載るかもしれませんよ」
次回、『銀河の英雄たちの伝説』
【原作参照】
本話では、田中芳樹『銀河英雄伝説3 雌伏篇』(創元SF文庫・東京創元社)本文 p.71、および『銀河英雄伝説外伝1 星を砕く者』(同)本文 p.106–107、p.113–145を参照しています。
場面・会話・心理描写は、原作に描かれた出来事を踏まえつつ、ミッターマイヤーの記憶と視点から場面を再構成しています。