銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第七十九話「銀河の英雄たちの伝説」(新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月)

【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月十四日早朝 教国領リオ・ヴェルデ星系 惑星アロヨ・ド・モリノ】

 

エルフリーデ、イルゼとランズベルクの三人が前の宿を出たのは、まだ朝の早い時間だった。

 

公共交通機関は使わなかった。

町の北口まで歩いて街道へ出ると、ランズベルクは北へ向かう車に手を上げた。

数台目で、旧い貨客車が止まった。荷室には青菜の箱と果物の籠が積まれ、運転席では朝の礼拝放送が小さく流れていた。

 

「北の方へ行くのか?」

 

窓を下ろしたのは、五十代くらいの男だった。作業着の胸に青果店の名札が縫いつけてある。

 

「ええ。できれば次の街までお願いします」

ランズベルクが答えた。

 

「市場までなら行くが、それでいいか?あと、狭いぞ」

 

「十分です」

 

三人が乗り込むと、男は礼拝放送の音量を少し下げた。

 

「朝の礼拝に寄ったら遅くなった。市場の親父は神様ほど待ってくれんから、少し急ぐぞ」

 

そう言って車を出した。

 

荷台には青菜と果物の箱が積まれていた。

街道にも、パン屋の車や作業員を乗せたワゴンが北へ向かっている。

三人はそうした朝の車の流れに混じって、前の宿のあった街から離れていった。

 

町を外れると、道の両側には果樹園と低い温室棟が続いた。畑の間を細い灌漑管が走り、ところどころでは無人の農作業車がゆっくり畝を進んでいる。

 

その景色の中に、白い壁の小さな礼拝堂が点々と混じっていた。入口の上には黄金樹の紋が掲げられ、朝日を受けて淡く光っている。礼拝を終えた人々は、そこで立ち話をするでもなく、作業車へ乗る者、畑へ向かう者、子供を連れて住宅区へ戻る者と、それぞれの朝へ散っていった。

 

街道沿いには農産物の集荷所があり、荷台を開けた貨客車へ箱が次々と積まれていた。小さな無人運搬車がその間を行き来し、道路脇の案内板には、ラテン語、帝国公用語と同盟公用語の三つの言語で市場町までの距離が表示されている。標識の支柱にも黄金樹の小さな紋章が付いていた。

 

窓を開けると、青菜と土の匂いに、どこかの店で焼いているパンの匂いが混じった。

 

途中、運転手が礼拝所の前で荷物を下ろした。

ランズベルクは近くの公衆端末を借り、バーラト側が用意した一時連絡箱を開いて確認した。

表示は短かった。

 

――収容は七日以内。日時・地点は追って指定。

ランズベルクは画面を閉じた。

「七日以内です」

 

エルフリーデが彼を見る。

「あと最大で七日、逃げればいいのね」

 

「そういうことになります」

 

「あなたはバーラトに行かなくていいの?」

 

「私はそもそもバーラトの市民ではありません。仮に市民籍があったとしても、バーラトには行きません。私が暮らす星は、別にありますので」

 

「私たちを助けたことは?」

 

「事情は聞かれるでしょうね」

 

「処罰されるんじゃない?」

 

「大丈夫ですよ。大した罪にはならないでしょう」

 

少しだけ、声が明るすぎた。

エルフリーデはそれ以上は訊かなかった。

このまま北の市場町まで行き、そこでまた別の車を拾うつもりだった。

 

だが次の集落が見えたころ、イルゼがエルフリーデの顔を覗き込み、すぐに身を寄せた。

エルフリーデの顔は蒼白で、こめかみには脂汗が滲んでいた。唇にもほとんど色がない。

 

「エルフリーデ様、一旦降りましょう」

 

「まだ行けるわ」

 

「行けません」

 

運転手が鏡越しに振り返った。

「大丈夫か。具合が悪いのか?少し先に診療所があるぞ」

 

「そこで降ろしてください」

ランズベルクが言った。

 

車を降りると、診療所とその隣に小さな公共図書館があった。

エルフリーデが壁へ手をついて言った。

「診療所は駄目よ」

 

「ですが――」

 

「受診したら記録が残るわ。そこで私だとわかって、鎮静薬でも打たれたら、もう逃げられない」

 

「……わかりました。では、隣の図書館で少し休みましょう」

イルゼが言った。

 

ランズベルクは図書館の看板を見た。

「ここなら静かでしょう」

 

エルフリーデが彼を見た。

「あなた、たしか図書館勤めだったかしら。少し嬉しそうね」

 

「気のせいです」

 

 

***

 

【同日朝 惑星首都から約二百六十キロ北方の町 ビリャ・アルバ】

 

図書館の玄関には、片方の肘掛けだけ新しくなった椅子が置かれていた。

 

エルフリーデがそこへ腰を下ろすと、受付にいた眼鏡の司書がすぐに立ち上がった。

事情を細かく訊かれることもなく、三人は閲覧室の端にある長椅子へ案内された。

司書は水を持ってきて、朝日が眩しくないよう遮光板まで下ろしてくれた。

 

エルフリーデは長椅子へ身体を預けてから、少し眉を寄せた。

「図書館で寝ていてもいいのかしら」

 

「かまいませんよ」

司書は少し離れた新聞閲覧席を見た。

「こちらの方など、毎週ですから」

 

白髪の老人が、開いたままの本を置いて目を閉じていた。

眠っているようにも見えたが、その老人は目を閉じたまま頁をゆっくり一枚めくった。

エルフリーデの口元が少し動いた。

 

ランズベルクはエルフリーデが落ち着いたことを確かめると、ようやく息をついた。

それから、受付の向かいにある書架を見た。

 

地域資料。旧い時刻表。旧同盟時代の刊行物。その上には、旧い定期船の模型が置かれている。

 

「あなたも座ったら?」

 

「ええ。もちろんです」

 

そう答えたランズベルクの目は、まだ書架の方を向いていた。

受付の脇では、司書が寄贈された古本や冊子を一冊ずつ整理している。

ランズベルクが何気なく見ていると、司書が一冊の薄い冊子を手に取って首を傾げた。

「これだけ発行年が分からなくて困ってるんですよ。奥付もなくて」

 

「少し拝見しても?」

冊子を受け取ったランズベルクは、表紙と最後の頁を確かめた。

「ここに出版番号があります。旧帝国時代の略記号での書き方ですね」

 

「あなた、分かるんですか?」

 

「ええ。私も図書館で働いておりますので。旧帝国時代の資料はよく扱います」

ランズベルクは番号を指で示した。

「この形式なら、おそらくこの年代です」

 

司書の顔が明るくなった。

「助かります。こういうのが何冊かあるんです」

 

「私でよければ少しお手伝いいたしましょう」

 

 

頼まれた数冊だけを年代順に分けていると、近くの机にいた青い上着の少年が、本を抱えてやってきた。

同じ机では同じ年頃の少女も端末と本を広げている。

学校は休みで、二人とも休み明けが提出期限の課題を片づけに来たらしい。

 

「おじさん、旧帝国時代の資料に詳しいの?じゃあ、これ教えてよ」

 

かなり厚い戦史だった。

 

「学校の課題ですか?」

ランズベルクが訊いた。

 

「うん。休み明け提出」

 

新聞席から、目を閉じていた白髪の老人が顔を上げた。少年の祖父、ジャクソンだった。

 

「学校が休みに入った日からコツコツとやっておけばよかったんだ」

 

「それを今言っても遅いよ」

 

「わざわざ本で調べんでも、ここに経験者がいるんだがな」

 

少年は振り返りもしなかった。

「経験者ってじいちゃんのことか?じいちゃんが軍にいたときの話、いつも飯が足りなかったとか、寝る時間がなかったとか、そればっかりじゃん」

 

「戦争なんて、だいたいそんなものだ」

 

少年は祖父のジャクソンを相手にせず、持ってきた本をランズベルクの前へ開いた。

そのページには、球形の巨大要塞が載っていた。

 

「これ、イゼルローン要塞だろ?」

 

「ええ、そのようですね」

 

「こんなの、どうやって落としたの?」

 

ランズベルクの手が止まった。

 

長椅子の方で、エルフリーデが目を開けた。イルゼもそちらを見る。

 

ランズベルクは少年から本を借りた。

 

「どこからお話ししましょうか?」

 

「最初からお願い」

 

「それは長くなりますよ」

 

「どれくらい?」

 

ランズベルクは少し考えた。

「なんといっても、銀河の歴史ですからね」

 

新聞席でジャクソンが鼻を鳴らした。

「孫よ。変なのを捕まえたな」

 

ランズベルクは聞こえなかったことにして、大人用の椅子を一脚引いた。

「では――」

 

戦史の頁に手を置き、少年たちを見渡した。

 

「広い宇宙に、ひとつの巨大な要塞が浮かんでおりました。帝国と自由惑星同盟を結ぶ回廊を塞ぎ、幾度攻めても落ちず、近づく艦隊をことごとく退ける難攻不落の城塞」

ランズベルクは、戦史に載った球形の要塞を指した。

「そして、その射程へ踏み込んだ艦隊を待つものがある。出力九億二千四百万メガワット。戦艦でさえ、まともに受ければ跡形もなく蒸発する要塞主砲――」

 

少年が身を乗り出した。

ランズベルクは一拍置いた。

「《雷神の槌》――トゥールハンマー」

 

少女も端末から顔を上げた。

 

「その要塞の名を、イゼルローン。正面から攻めれば、まず帰れない。回り道もない。さて――どう落としましょう」

 

「艦隊で攻める!」

 

「それは同盟軍がその前に幾度も試みて、全て失敗しております」

ランズベルクは少し笑った。

 

「同盟軍は六度攻めて、六度落とせませんでした。そこで七度目に現れたのが、かの有名な不敗の魔術師、ヤン・ウェンリーです」

ランズベルクは目の前の少年と少女を見た。

「さあ。あなたがたはヤン・ウェンリーです」

 

「え、ぼく?」

 

「私も?」

 

「正面には《雷神の槌》。回り道はない。そして六度の攻撃はすべて失敗している」

本を要塞に見立て、少年と少女の前へ置いた。

「この要塞を落とせと言われました。どうします?」

 

「……正面から艦隊で行ったら撃たれるんだよね」

 

「まず帰れません」

 

少女が本を覗き込んだ。

「じゃあ、戦わないで中に入るとか?」

 

ランズベルクの目が少し輝いた。

「ほう。どうやって?」

 

少女は考えた。

「……帝国軍のふりをする?」

 

「ご名答!」

 

少年が身を乗り出した。

「でも、誰がやるの?」

ランズベルクは待っていましたとばかりに言った。

「そこで登場するのが――――伊達男か、無頼漢か。口は悪いが腕は一流。ワルター・フォン・シェーンコップと、彼の率いる〈薔薇の騎士(ローゼンリッター)〉です」

 

「強い?」

 

「非常に」

 

「先生より?」

 

「……比較する相手を間違えています」

 

入口で若い工員が吹き出した。椅子の様子を見に来た班長まで足を止める。

 

ランズベルクは本を二冊使い、片方を要塞へ近づけた。

「そこでヤンは、一隻の艦を帝国軍艦に見せかけ、その中にシェーンコップと〈薔薇の騎士〉を乗せました」

 

少年が言った。

「偽物?」

 

「ええ。見た目は帝国軍艦。乗っている者たちも帝国兵に見える。そしてその艦が、同盟軍に追われたふりをしてイゼルローンへ逃げ込むのです。『重大な情報を持ち帰った。入港させてくれ』と」

 

「罠だ!入れちゃ駄目だ!」

 

「もちろん、あなたには分かっていますからね。でも当時の要塞の中の人々には分からず、入港を許しました」

 

ランズベルクは一冊の本をもう一冊の内側へ滑り込ませ、そこで指を鳴らした。

「そして要塞の中で、〈薔薇の騎士〉が動き出します」

少年の目が丸くなった。

「うわ、ずるい!」

 

新聞席から声が飛んだ。

「戦争でそれを言うか!」

 

ランズベルクは、もう一冊の本を机の向こうへ動かした。

「ですが、イゼルローンには要塞だけでなく、要塞駐留艦隊もいました」

 

「じゃあ、その人たちはどうしてたの?」

 

「ヤン提督は先に、駐留艦隊を外へおびき出しておいたのです」

ランズベルクは本を要塞から遠ざけた。

「同盟艦隊が逃げる。帝国艦隊が追う。その間に、〈薔薇の騎士〉が要塞へ入る」

 

少女が二冊の本を見比べた。

「あ、留守にしたんだ」

 

「そうです」

ランズベルクは、要塞に見立てた本へ指を置いた。

「では、要塞は?」

 

「〈薔薇の騎士〉に取られる!」

 

「外へ出た帝国艦隊は?」

 

「帰ってくる!」

 

「帰ってきます。ですが――」

 

少年が先に叫んだ。

「自分の要塞から撃たれる!」

 

ランズベルクは満足そうに頷いた。

「そのとおり。《雷神の槌》が、帝国艦隊へ向けられました」

 

少年が先に叫んだ。

「ひどい!」

 

「見事だ」

ジャクソンがぼそりと言った。

今度は大人たちが笑った。

 

「そして、かのヤン・ウェンリーは見事難攻不落のイゼルローン要塞を落としました」

 

拍手が起きた。その音につられ、廊下を通った親子が扉から顔を出した。

「何をやってるんですか?」

 

司書が答えた。

「ちょうどイゼルローン要塞が陥落したところです」

 

「え?」

 

「二十五年以上前の話ですよ」

 

親子はそのまま入ってきた。

 

「イゼルローンでは同盟軍が勝ったんだろ?」

少年が訊いた。

 

「勝ちました。でも、同盟はそこで、もっと勝ちたくなってしまった」

 

ジャクソンが鼻を鳴らした。

「そこからが大変だったんだ」

 

「じいちゃん、知ってるの?」

 

「もちろん知ってるとも」

 

「同盟軍はイゼルローン要塞を拠点にして帝国領の奥へ進みます。進めば進むほど、後ろは遠くなる」

 

少年が祖父を見る。

「……じいちゃんが言ってた、飯が足りなくなるやつ?」

 

「そうだ」

 

ゾルナーが横を向いた。

「ジャクソンさん、もしかしてあんた、あの遠征に?」

 

「ああ、同盟軍の第五艦隊にいた。お前は?」

 

「こっちは帝国軍のロイエンタール艦隊にいた」

 

今度はジャクソンが黙った。

 

少年が二人を見比べる。

「じいちゃんたち、敵同士じゃん!」

 

「昔はな」

ジャクソンが苦笑した。

 

ゾルナーが腕を組んだ。

「いま私に文句を言われても困るぞ」

 

「アムリッツァの恨みがある。少しは言わせろ」

 

二人が笑った。

 

「第五艦隊にはロイエンタール提督。別の戦線にはミッターマイヤー、キルヒアイス、ワーレン、メックリンガーの各提督ー――」

 

「ウランフもいるぞ!」

後ろから声がした。

 

「ご存じですか」

 

「ああ、親父がよく名前を出してた」

 

ランズベルクが少し声を落とした。

「ウランフ提督は殿軍として部下を逃がし、自分は帰りませんでした」

 

少女が訊いた。

「自分も逃げちゃえばよかったのに」

 

ジャクソンが答えた。

「逃げる順番ってのがあるんだよ、お嬢ちゃん」

 

「敵、見えた?」

 

「おれは機関室だ。出力を上げろ、下げろ、また上げろ。そればっかりで敵など見えん。飯も食い終わる前に呼び戻された」

 

「また飯の話だ」

 

「戦争なんてものは、だいたいそんなものだ」

 

今度は少年も笑った。

 

ランズベルクが掌を打った。

「さて、同盟軍が集結した先がアムリッツァ星域です」

 

「あ、それ知ってる!」

 

「またヤン・ウェンリーが活躍するやつだ!」

 

「ミッターマイヤーも、ロイエンタールもいるぞ」

ゾルナーが言った。

 

少女が睨む。

「先を言わないで」

 

「では皆さん。ヤン提督とミッターマイヤー提督、どちらが勝つと思います?」

 

「ヤン!」

少年が叫んだ。

 

「ミッターマイヤーだ」

ゾルナーは即答した。

 

「じいちゃん、どっち?」

 

ジャクソンは少し考えた。

「……生きて帰った方だな」

 

子供たちが笑った。

 

ランズベルクの話が動けば、客席も動いた。

ヤンが一手返せば少年が机を叩き、帝国軍が押し返せばゾルナーが膝を打つ。

少女は気になる名前が出るたび端末で確かめ、若い工員は班長に「今の誰です」と小声で尋ねては、「いいから聞いてろ」と返された。

 

また一人、扉から入ってきた。

「今どこ?」

 

「アムリッツァ会戦が終わるところです」

若い工員が答える。

 

「ああ、もうそこか」

 

「じゃあ、座って。立ってると見えないわ」

少女が言った。

 

司書が振り向いた。

「いつからあなたが係員になったの?」

 

笑いが広がった。

 

ランズベルクは、その笑いの中で部屋を見渡した。

「皆さんも、胸を熱くしたことがあるでしょう」

 

返事はなかったが、何人かが頷いた。

 

「まだ先があります」

 

「まだあるの?」

司書が訊いた。

 

「歴史は長いものです」

 

「お昼までには終わらせてくださいね」

 

「努力します」

 

「そこは約束してくださいよ」

 

もう一度、笑いが起きた。

 

「ねえねえ、ラインハルトはもう皇帝になるの?」

少年が訊いた。

 

「まだです。その前に、銀河帝国の門閥貴族です」

 

班長が嫌そうな顔をした。

「ろくでもなさそうな話だな」

 

「……その予感は大切になさってください」

 

ブラウンシュヴァイク公、リッテンハイム侯、フレーゲル男爵。名前が出るたび、ゾルナーが「ああ」と言い、ジャクソンが「知らん」と返す。勝手に出撃し、軍人の命令を爵位で押しつぶし、失敗しては他人へ責任を投げる。

 

「そんな軍隊で勝てるのか?」

若い工員が訊いた。

 

「メルカッツ提督も、同じことを考えていたでしょうね」

 

「メルカッツ!」

ゾルナーが初めて身を乗り出した。

 

ランズベルクが笑う。

「お好きですか」

 

「嫌いな帝国軍人を探す方が難しい」

 

ジャクソンが横から言った。

「帝国だけの人みたいに言うな。亡命してヤン提督のところに来たんだぞ」

 

ゾルナーが眉を上げた。

「亡命しても、メルカッツはメルカッツだ」

 

ミッターマイヤーの挑発に若い貴族たちが乗ると、子供たちから「なんで行くんだよ!」「無茶だ!」と声が飛んだ。メルカッツの命令が無視されるたび、班長の顔が険しくなる。

 

そして、ヴェスターラントの名が出た。

 

「待ってください」

若い工員がランズベルクを止めた。

「そこ、自分の領地なんでしょう?」

 

「ええ」

 

「住んでるのも、自分の領民?」

 

「そうです」

 

「それを焼いたのか?」

 

ランズベルクが頷いた。

班長が低く悪態をついた。

 

「子供がいますよ」

司書が言った。

 

「すまん」

 

班長は謝り、少し間を置いて、もっと小さな声で同じ悪態をついた。

 

母親の一人が眉をひそめた。

「そんなことをして、まだ自分が正しいと思っていたの?」

 

「思っていた者もいました」

 

「馬鹿じゃないの」

少女が言った。

 

「その表現は簡潔でよろしい」

ランズベルクが答え、また笑いが起きた。

 

その軍の中に、メルカッツがいた。崩れる軍を支え、退く艦を守るところでは、ゾルナーが「そうだ」と小さく言った。ロイエンタールがメルカッツに押し返されると、今度はジャクソンが嬉しそうに息を吐いた。

 

司書は、また椅子を運んだ。

「これで最後ですよ」

 

「もう椅子ないの?」

 

「新聞席から持ってきたら、ジャクソンさんが昼寝できなくなります」

 

「今日はもう昼寝は無理だ」

ジャクソンが言った。

 

部屋が笑った。

 

ランズベルクは、その笑いが消えるのを待った。

「そして、勝利の式典です。キルヒアイスは、広間の入口でブラスターを預けました」

 

少年が顔を上げた。

「なんで?」

 

「この日は、そういう命令だったのです」

 

ゾルナーの太い眉が動いた。

「……あの日か」

 

ランズベルクは話を続けた。

「アンスバッハは、ブラウンシュヴァイク公の遺体に隠していたハンド・キャノンを取り出しました。砲口の先にいたのは、ラインハルトです」

 

少年の顔から笑いが消えた。

「キルヒアイスは?」

 

「すぐ近くにいます」

 

「危ない!止めて!」

 

ランズベルクは首を振った。

「いつもならキルヒアイスが持っていたブラスターは、入り口で預けてしまっていました。それでも彼は体を張って止めました。アンスバッハが撃ったその瞬間、飛びかかって砲口をそらしたのです」

 

「外れた?」

少女が訊いた。

 

「ええ。ラインハルトには当たりませんでした」

 

少年がほっと息をついた。

 

「キルヒアイスはハンド・キャノンを落とさせ、そのままアンスバッハを床へ押さえ込もうとしました。ですが――」

ランズベルクの声が少し低くなった。

「アンスバッハは、もう一つ武器を隠していました。指輪に仕込んだレーザー銃です」

 

少女の表情が変わった。

 

「キルヒアイスは胸を撃たれました。それでも、アンスバッハの手を放しませんでした」

 

「それで?」

 

「もう一度、撃たれました」

 

少女がしばらく黙ってから訊いた。

「……助かる?」

 

ランズベルクは首を振った。

「助かりません」

 

少年は俯いた。

「……キルヒアイス、あんなに強かったのに」

 

ジャクソンは孫の頭へ手を置いた。母親の一人がハンカチを取り出し、少女は下を向いた。

 

「ラインハルトは?」

 

「何度も友人の名前を呼びました」

 

ゾルナーは腕をほどき、視線を落とした。

 

長椅子では、イルゼがエルフリーデの背に当てた外套を直し、水を渡した。エルフリーデは一口だけ飲んで、またランズベルクの方を見た。

 

やがて、少年が鼻をすすった。

「次は?」

 

ランズベルクは待っていたように顔を上げた。

「次は、宇宙要塞を動かします」

 

「は?」

 

「要塞を、動かします」

 

若い工員が笑った。

「そんなもの、動くわけないでしょう」

 

「実際に動かしたんですよ」

 

ゾルナーが額を押さえた。

「あれをやるのか」

 

「ご存じですね」

 

「忘れるか」

 

二つの要塞が向かい合うと、子供たちは本を二冊立てて勝手に再現を始めた。

 

「こっちがイゼルローン要塞」

少年が言う。

 

「じゃあ私がガイエスブルク要塞」

少女が本を押す。

 

「ぶつけるなよ」

ジャクソンが言った。

 

「それをやったら歴史が変わるな」

ゾルナーが返した。

 

「ケンプって人はどうなったの?」

少女が訊いた。

 

「帰りませんでした」

 

「ミュラーって人は?」

 

「生きて帰ります」

 

「よかった」

 

「その人、あとでも出てくる?」

 

「ええ、何度も」

 

休憩にしようと司書が水を注ぎ足したところで、少女が端末を見て「あ」と声を出した。

 

「見て、これ!幼い皇帝がさらわれたって」

 

「はい。銀河帝国では、幼い皇帝が帝都から姿を消すという大事件が起こります」

 

少年が顔を上げた。

「誘拐?」

 

「……『救出』、と呼ぶ者もおります」

 

少女が端末を確かめると、そこにははっきり「誘拐事件」と書かれていた。ランズベルクはわずかに咳払いした。

 

「歴史上の事件には、立場によって呼称が異なるものがあります」

 

新聞席でジャクソンが笑った。

ランズベルクは聞こえなかったことにして続ける。

「幼帝を帝都から連れ出した男が二人。一人は、もと帝国軍大佐レオポルド・シューマッハ。そしてもう一人が――」

 

少し間を置いた。

「アルフレット・フォン・ランズベルク伯爵という人物です」

 

そこから、話し方がそれまでより少しだけ丁寧になった。

宮殿を正面から出るわけにはいかない。そこで二人は地下道を使った。その道を知っていたのがランズベルク伯で、旧い仕掛けを開くために指輪も使ったのだという。

 

少年が感心したように言った。

「へえ、そのなんとか伯爵とかいう人、ちゃんと仕事してるじゃん」

 

「もちろんです! 彼は忠臣中の忠臣でしたから」

ランズベルクは満足そうに頷いた。

 

暗い地下道を抜け、幼帝を宮殿の外へ連れ出す。そこから先の逃走では、シューマッハが車を運転し、周囲を警戒し、段取りを次々に引き受けた。

 

少女が端末を見ながら首を傾げた。

「……仕事してるの、シューマッハ大佐だけじゃない?」

 

「大佐はそうした実務にたいへん秀でた方でした」

 

「じゃあ、伯爵の方は何をしたの?」

 

「道を知っていました。指輪も使いました」

 

少年と少女が顔を見合わせた。

「……大佐の方がすごくない?」

 

ランズベルクは姿勢を正した。

「歴史上の功績を、そのような単純な加算で評価することはできません」

 

少女が笑った。

「先生、そのなんとか伯爵が好きすぎるわ」

 

「人物には文学的焦点というものがあります」

 

「盛ったんだ」

 

「焦点化です」

 

「盛ったんだ」

 

今度は後ろまで笑いが広がった。

 

ランズベルクはなおも続けた。

「長い地下道の果て、伯爵は右手を伸ばします。伯爵の凛々しい横顔には、王朝の命運を――」

 

「その顔、誰が見たの?」

少女が訊いた。

 

「先生、見ていたみたいに言うね」

少年が言った。

 

そのとき受付から司書が呼んだ。

「ランズベルクさん、お荷物はこちらでよろしいですか」

 

笑いがぴたりと止まった。

 

少女が端末に表示された画像を見る。

「……アルフレット・フォン・ランズベルク」

 

少年が机を叩いた。

「これ、本人じゃん!」

 

部屋が爆発したように笑った。

 

ゾルナーは目元を押さえた。

「道理で伯爵が格好よかったわけだ」

 

ジャクソンが笑う。

「シューマッハ大佐に謝れ!」

 

「大佐への敬意は一度も失っておりません!」

 

長椅子の方からエルフリーデが呟いた。

「気づくのが遅いわ」

 

今度こそ、児童室の外まで笑いが響いた。

 

「何、何?」

廊下から誰かが顔を出した。

 

若い工員が笑いながら答えた。

「二十数年前の事件の犯人が、ここにいる先生でした」

 

また笑いが起きた。

 

「何の話だ、それ?」

 

「先生の話を訊けばわかるよ」

少女が言った。

 

司書が額へ手を当てた。

「また観客が増えた……」

 

ランズベルクはしばらく不服そうにしていたが、ふと思い出したように右手を上げた。

「ちなみに、先ほど申し上げた指輪ですが」

 

指から一つの指輪を抜いた。

「これです」

 

少年と少女が同時に身を乗り出した。

「まだ持ってるの?」

 

「もちろんです」

 

ランズベルクは指輪を掌に載せた。

「二十数年前、あの地下道を開いたのも、この指輪です」

 

少年はもう次の頁を開いていた。

「じゃあ、次はバーミリオン会戦をお願い!」

 

「よろしい」

 

「まだやるのですか?」

司書が訊いた。

 

「ここからが佳境です」

 

「ラインハルト対ヤンだ!」

少女が言う。

 

「そう。銀河で最も有名な二人の英雄が、正面からぶつかります」

 

「じいちゃん、今度はどっちが勝つ?」

 

「ヤン提督だ」

 

「さっきは生きて帰る方って言ってたのに」

 

「今回は応援させろ」

 

少女が叫ぶ。

「待って!まだ先を言わないで!」

 

笑いが起きた。

ランズベルクは二冊の本を向かい合わせた。

「では――始めましょう」

 

ここからは、説明する暇もなかった。

 

「ヤン、回る!」

少年が叫ぶ。

 

「ラインハルト、受けた!」

少女が続く。

 

「ミュラーが来るぞ!」

ゾルナーが言った。

 

「先を言うなって!」

 

「また来た!」

 

「何回艦を乗り換えるのよ、この人!」

 

「だから鉄壁なんだよ」

ゾルナーが得意そうに言った。

 

「お前が育てたみたいに言うな」

ジャクソンが返す。

 

拍手と笑いが重なった。後ろでは、帝国側を応援する声と同盟側を応援する声が勝手に分かれ始めていた。

 

「そこだ、ヤン!」

 

「皇帝、下がるな!」

 

「ミュラー、また乗り換えた!」

 

「しつこい!」

 

「褒め言葉だ!」

ゾルナーが叫ぶ。

 

ヤン艦隊の砲口が、ついにブリュンヒルトへ届く。

 

少年が机を叩いた。

「撃てる?」

 

「撃てます」

 

「行け!撃て!」

ジャクソンが手を突き上げて叫んだ。

 

ゾルナーも反射的に立ち上がった。

「待て!撃つな!」

 

少年が振り向く。

「どっちなんだよ!」

 

部屋中が笑った。

ランズベルクは両手を上げ、そのまま止めた。

 

「――そこで、ヤン提督に停戦命令です」

 

「はあ!?」

 

少年だけではなかった。何人もの声が重なった。

 

「ここで?」

少女が訊く。

 

「ここでです」

 

「撃てるんでしょ?」

 

「撃てます」

 

「じゃあ、なんで!」

 

「政治です。ヤンは撃てたのに、撃ちませんでした」

 

「戦ってる方はたまらんな」

班長が言った。

 

ジャクソンが肩をすくめた。

「戦争なんて、だいたいそんなものだ」

 

今度は孫が、その言葉に笑った。

 

「その次は?」

 

「マル・アデッタです」

 

ジャクソンの顔から笑いが消えた。

ゾルナーも声を落とした。

「……ビュコック提督か」

 

少年が祖父を見る。

「じいちゃんが昔いた艦隊の司令官?」

 

「昔な」

 

「会ったことある?」

 

「見たことはある。だが向こうは、おれなんぞ知らんよ」

 

「じいちゃんは知ってるのに?」

 

「そりゃ司令官だからな」

 

少年は納得したような、しないような顔をした。

ランズベルクは、ここでは本を動かさなかった。

「圧倒的な帝国軍を相手に、老提督は最後まで戦います」

 

「勝てるの?」

 

「勝てません」

 

「じゃあ逃げればいいじゃん」

 

ジャクソンが孫を見る。

「それでも残らねばならん時がある」

 

「なんで?」

 

「黙って聞いてろ、孫よ」

 

やがてラインハルトから降伏が勧められた。ビュコックは若い皇帝の才能を認め、それでも臣下にはならないと答える。

 

「ビュコックは、ラインハルトのこと嫌いだったの?」

少年が訊いた。

 

ジャクソンが先に首を振った。

「嫌いだから断ったんじゃない」

 

「じゃあ、なんで?」

 

ランズベルクはそこで少し間を置いた。

「ビュコック提督にとって民主主義とは、主君と臣下をつくるものではなく、対等な友人をつくるものでした」

 

少女は黙って聞いていた。

 

「最後に、チュン・ウー・チェン総参謀長がウイスキーを用意しました。二人は杯を掲げました」

 

「何に?」

少年が訊いた。

 

ランズベルクは答えた。

「……ビュコック提督が、生涯守ろうとしたものにです」

 

新聞席で、ジャクソンがゆっくり背筋を伸ばした。

少年は祖父を見て、理由も分からないまま同じように姿勢を正した。

 

「その直後、ビュコック提督の旗艦は集中砲火を受けました」

 

「……じいちゃん」

 

「聞いてる」

 

ジャクソンはそれだけ答えた。

ゾルナーも黙って姿勢を正していた。

 

「皇帝ラインハルトは、マル・アデッタ星域を通過する帝国軍将兵に起立敬礼を命じました」

 

誰も何も言わなかった。

 

やがて少女が訊いた。

「その後、ヤンはどうなったの?」

 

ランズベルクは答えなかった。

少女が顔を上げる。

「……何」

 

「回廊の戦いが一時停戦となり、皇帝との会談へ向かう途中のことでした」

 

「何?何があったの?」

 

「暗殺されます」

 

「嘘だ!」

少年が言った。

 

部屋が静まった。

 

「皇帝と、お話をしに行っただけなんでしょう?」

少女が訊く。

 

「ええ」

 

「戦いに行ったんじゃないのに?」

 

「違います」

 

「その途中で殺されたのか」

班長の声だった。

 

「そうです」

 

若い工員が椅子を蹴りかけた。

「そんなの、酷すぎるだろう!誰がやった?」

 

「地球教徒です」

 

あちこちから怒声が上がった。司書が何か言うより先に、母親の一人が「子供がいますよ」と言い、罵声の音量が下がった。

 

「ユリアン・ミンツはどうなったんだ?」

工員が訊いた。

 

「残ります」

 

「ヤン・ウェンリーの代わりになれるのか?」

 

「同じ人になる必要はありません」

 

「じゃあ、どうするんだ」

 

「自分のやり方で続けました」

 

その先は、名を挙げるたびに、部屋のどこかから反応が返るようになった。

 

「ファーレンハイトは?」

 

「戦死」

 

ゾルナーが目を伏せた。

 

「シュタインメッツは?」

 

「戦死」

 

「あの人も?」

 

「ええ」

 

「ルッツは?」

 

「皇帝を逃がす盾となり、帰りませんでした」

 

少年がとうとう顔をしかめた。

「……みんな、死んじゃうよ」

 

ジャクソンは言った。

「だからな、じいちゃんは飯の話をするんだよ」

 

「え?」

 

「帰って食えたからな」

 

少年は祖父を見た。

ジャクソンは、それ以上説明しなかった。

 

ゾルナーが口を開いた。

「生きて帰った人もいるぞ。ミッターマイヤー元帥も、ミュラー元帥も」

 

「ビッテンフェルトもな」

ジャクソンが付け足した。

 

少しだけ笑いが戻った。

 

だが、ラングの名が出ると、その笑いも消えた。

 

「そいつは知ってるぞ」

ゾルナーが言った。

 

「何した人?」

 

「ろくでもないことをした奴だ」

 

「何したの?」

少女が訊いた。

 

ランズベルクが答えた。

「無実の人間を罪人にしました」

 

「それで?」

 

「一人、獄中で死にました」

 

班長が短く悪態をついた。今度は司書も何も言わなかった。

 

「じゃあ、ロイエンタールが反乱したのも、そいつのせい?」

少年が訊いた。

 

「オーベルシュタインって人も関係あるんでしょう?」

少女が言った。

「さっきの本に出てた」

 

ランズベルクは首を振った。

「それだけなら、話はもっと簡単でした」

 

ゾルナーが低く言った。

「ロイエンタール閣下は、ご自分の判断で旗を上げたのだ。オーベルシュタインのせいでも、ましてやラングなどの企みによるものではない」

 

誰も笑わなかった。

 

「ミッターマイヤーとロイエンタールが戦ったの?」

少女が訊いた。

 

「戦いました」

 

「友達だったのに?」

 

「親友でした」

 

「どっちが悪かったの?」

少年が訊いた。

 

ゾルナーが天井を見た。

「それを始めたら、お昼までに終わらん」

 

一度だけ、笑いが起きた。

 

ランズベルクは、その先を長く説明しなかった。昔は同じ側に立っていた二人が、今度は別々の側から艦隊を動かした。どちらが押しても、さっきのバーミリオンのような歓声は上がらなかった。

 

「最後に、二人は会えたの?」

少女が訊いた。

 

「間に合いませんでした」

 

ゾルナーが目を閉じた。

長椅子の方で、イルゼがカップを卓へ置いた。エルフリーデは何も言わなかった。

 

窓の外の光は、いつの間にか昼近い強さになっていた。

 

廊下には立ったまま聞いている者が何人もいる。母親の膝では幼い子が眠り、若い工員は壁に背をつけたまま動かなかった。司書は壁の時計を一度見たが、何も言わなかった。

 

少年が訊いた。

「まだ残ってる?」

 

ランズベルクは少し待った。

「最後に、お話ししましょう」

 

ゾルナーが顔を上げた。ジャクソンも分かったようだった。

少女が訊いた。

「ラインハルト?」

 

「ええ」

 

それまでの講談めいた調子が、そこで消えた。

 

「戦争で死ぬの?」

 

「いいえ」

 

「暗殺?」

 

「いいえ」

 

「じゃあ……」

 

「病気です」

 

少年は眉を寄せた。

「そんなので死ぬの?」

 

「人は、そういうもので死にます」

 

誰も笑わなかった。

 

「二十五歳でした」

 

若い工員が顔を上げた。

「二十五?」

 

それだけ言って、黙った。

ランズベルクは、生まれたばかりの皇太子と、そのそばにいた皇妃のことを話した。

 

「その皇太子って、今の皇帝?」

少年が訊いた。

 

「はい。アレクサンデル・ジークフリード陛下です」

 

「お父さんが死んだとき、まだ赤ちゃんだったんだ」

 

「ええ」

 

ランズベルクは続けた。

「皇帝はその夜、ミッターマイヤー元帥に、妻君と幼い息子を連れてくるよう頼んだと伝えられています」

 

「なんで?」

 

「皇太子に友人を一人、残してやりたかったのだそうです」

 

少女が顔を上げた。

「友達?」

 

「連れてこられた子は、一歳を過ぎたばかりでした」

 

「その子の名前は?」

少女が訊いた。

 

 

ランズベルクが答えるより先に、長椅子から声がした。

 

「フェリックスよ」

 

ランズベルクは長椅子の方を見た。エルフリーデは目を閉じたままだった。

 

「……ええ。フェリックス・ミッターマイヤーです」

 

少女がすぐ端末を操作した。

「ちょっと待って。この名前、見たことある」

 

教国公報を開き、画面を少年の方へ向ける。

「この人?」

 

そこには、帝国軍大尉フェリックス・ミッターマイヤーの名と写真が表示されていた。

ランズベルクは頷いた。

「その人です」

 

「赤ちゃんと一歳で、友達になれるの?」

少年が訊いた。

 

「さて、どうでしょうか。ただ、その子は皇太子の手を握った、と伝えられています」

 

少年が言った。

「そんなこと二人は覚えてないだろ?」

 

「そりゃ覚えてないさ。一歳だったんだから」

ジャクソンが答えた。

 

少女は、さっき開いた教国公報をもう一度見た。

「この二人、今も一緒にいるんだ」

 

少年も画面を覗き込んだ。

「ほんとだ」

 

皇帝アレクと、その副官フェリックス・ミッターマイヤー。

長椅子ではエルフリーデが目を閉じたままだった。

 

少年は祖父を見て、それからランズベルクへ向き直った。

 

ランズベルクは、帝国の先を皇妃へ託した皇帝のことを話した。そして最後に、宇宙を手に入れたら、みんなで――と、言葉を残した。

 

そこで声は途切れた。

 

少年が訊いた。

「その先は?」

 

「ありません」

 

少年は、しばらくランズベルクを見ていた。

「……そう」

 

母親が、膝で眠っている子供を抱き直した。

少女は端末を伏せた。ジャクソンは前を見たまま動かず、ゾルナーも口を開かなかった。

司書が壁の時計を見た。正午まで、もういくらもなかった。

 

誰も拍手をしなかった。

頁をめくる音が、一度した。

 

ランズベルクは戦史の本を開いたまま、皆が顔を上げるのを待っていた。

 

 

***

 

 

司書が受付へ戻ったとき、業務用端末に聖管区から通知が届いていた。

 

市内の全公共施設へ、エルフリーデとイルゼ、それにランズベルクの所在を尋ねる照会だった。近くまで確認のために聖管区の担当者が来ているらしい。

 

司書は画面を閉じず、ランズベルクを手招きした。

「エルフリーデさんとイルゼさんというのは、ご一緒の方たちですね」

 

「ええ」

 

司書は長椅子へ目をやった。

「……お加減も悪いようですし、教団に迎えに来てもらった方が安全ではありませんか?」

 

ランズベルクが答える前に、エルフリーデが顔を上げた。

「教団の迎えは頼んでいないわ」

 

司書は彼女のそばへ行った。

「あなた方は、教団に見つからずにここを出たいのですか」

 

「はい」

 

司書はしばらく三人を見たあと、胸元の黄金樹へ指を添えて短く祈った。

「分かりました」

 

誰もすぐには口を開かなかった。

 

やがてゾルナーが立ち上がった。

「……車が要るな」

上着のポケットへ手を入れ、キーを取り出す。

「ああ、そういえば俺は昔から、車のキーを置き忘れる癖があってな」

そう言って、テーブルの上に置いた。

「本当に困ったもんだ」

 

ジャクソンが横目で見たが、何も言わなかった。

 

ゾルナーはそのまま出口へ向かい、扉の前で一度だけ振り返った。

「車が返ってこないと女房に怒られる。あとで返してもらえると助かるな」

それだけ言って出ていった。

 

しばらくして、ランズベルクがテーブルの上のキーを手に取った。

「……ありがとうございます」

 

「誰に言ってるんです?」

若い工員が笑った。

「貸してください。車を裏口まで回してきます。荷物を運び込む通路がありますから」

 

ランズベルクはキーを渡した。

 

工員が出ていったあと、彼は受付の端末を見た。

聖管区から照会が来ている以上、今日三人がこの図書館にいたことも遅かれ早かれ当局には分かるだろう。

 

「司書殿」

 

「はい?」

 

「お願いがあるのですが」

ランズベルクの声が改まったので、近くにいた者たちがまた彼を見た。

「星間通話のできる共用端末を、お借りできませんでしょうか」

 

司書が瞬きをした。

「できますけれど……」

 

ジャクソンも顔を上げた。

 

つい先ほど、聖管区から三人を探す照会が来たばかりである。そんなときに、ランズベルクが自分から星間通話をかけるという。

 

「どこへ連絡するんだ、伯爵?」

 

ランズベルクは答えた。

「私の勤務先です」

 

誰も予想していなかった答えだった。

 

「勤務先?」

 

「はい。別の惑星にある図書館です」

 

ランズベルクは端末の前へ座った。

 

回線がつながるまで、館内の何人かが遠巻きに見ていた。エルフリーデまで、長椅子からわずかに顔を上げている。

 

やがて画面に女性が映った。

『はい。どうされました?』

 

「ランズベルクです」

 

『あら、ランズベルクさん。お休み中でしょう』

 

「その件なのですが」

ランズベルクは居住まいを正した。

「まことに申し上げにくいのですが、休暇を一週間ほど延長させていただきたく――」

 

館内の空気が止まった。ジャクソンが口を半分開けた。

 

『一週間ですか?』

 

「はい。実は現在、私は少々、予期せぬ事情に巻き込まれておりまして」

 

『はあ』

 

「その事情というのが、簡単にはご説明しにくいのですが、歴史上きわめて重要な意味を持つ可能性がありまして――」

 

『ランズベルクさん』

 

「はい」

 

『休暇の延長ですよね?』

 

「はい。しかし、理由については正確にご説明しておくべきかと存じます。そもそもの発端は、私が歴史的使命に導かれてある人物の――」

 

『一週間ですね?』

 

「はい」

 

『有給休暇で処理しておきます』

 

「ですが、館長。これは単なる私事というより、歴史に対する一種の――」

 

『どうぞ楽しんできてくださいね』

 

通信が切れた。

数秒、誰も声を出さなかった。

最初に吹き出したのは若い母親だった。それをきっかけに、館内のあちこちから笑い声が上がった。

 

「休暇の延長か!」

ジャクソンが腹を抱えた。

 

「何の連絡をするのかと思ったぞ!」

 

「有給休暇使って、歴史的使命を果たすんだな!」

 

「伯爵、楽しんでこいよ!」

 

ランズベルクは端末の前で困ったように立っていた。

「いや、これは決して楽しみに行くわけでは――」

 

その言葉が、また館内の笑いを大きくした。

 

エルフリーデが長椅子で目を閉じたまま言った。

「もうやめなさい。余計にひどくなるわ」

 

「しかしですね――」

 

「分かったから」

 

イルゼが顔を伏せて笑っていた。

 

そこへ、先ほどの若い工員が戻ってきた。

「車、回しました。裏口です」

 

笑い声が少しずつ収まった。

 

エルフリーデは立ち上がった。数歩進んだところで足を止める。

「少し待って」

 

ランズベルクは急かさず、近くの椅子を引いた。イルゼも隣に立ち、呼吸が戻るのを待った。

 

やがてエルフリーデが頷いた。

「行けるわ」

 

三人は裏口へ向かった。

 

外にはゾルナーの車が停まっていた。

 

エルフリーデを後席へ座らせ、イルゼが隣へ乗る。ランズベルクが運転席へ回ろうとしたところで、少年が児童室から駆けてきた。

「先生、もう行っちゃうの?」

 

「ええ」

 

「続きは?」

 

ランズベルクは少し考えた。

「またいつかお話しいたしましょう。もっとも――」

 

少年が待った。

 

「もしかすると、今日ここで交わした話まで、いつか歴史の本に載るかもしれませんよ」

 

「まさか」

少年は笑った。

 

奥から声が飛んだ。

「伯爵!」

 

ランズベルクが振り返った。

 

ジャクソンが手を上げていた。

「楽しんでこいよ!」

 

また笑いが起きた。

ランズベルクは何か言い返そうとして、やめた。苦笑して、一礼した。

車が動き出した。

 

ランズベルクは一度だけ後ろを振り返った。裏口に集まった人々がまだ手を振っている。

 

図書館の建物は、角を曲がると見えなくなった。

 

車は昼前の交通へ混じって街を離れていった。

 

エルフリーデは後席で目を閉じ、イルゼが借りたクッションを背に当てている。建物はしだいにまばらになり、窓の外には畑と低い丘が増えていった。

 

 

***

 

 

三人が出てから十分ほどして、図書館の前に公用車が止まった。

二人の聖管区担当者が入ってきて、三人連れを見なかったかと訊いた。

ジャクソンは少し考えた。

「さあな」

 

担当者の一人が受付を見た。

「こちらに照会が届いているはずですが」

 

「届いてるよ」

 

「では――」

 

「来た人間の顔を全部覚えてるほど、暇じゃないんでね」

 

担当者たちは館内を見回した。

司書は何も言わなかった。

しばらくして、二人は礼を言って出ていった。

 

図書館はようやく静かになった。

少女はまだ、幼帝を連れ出した事件の頁を調べていた。

「やっぱり、伯爵の顔のことは書いてない」

 

司書が笑った。

「そこまで調べたのですから、今日はもう帰りましょう」

 

青い上着の少年は、朝には重いと文句を言っていた戦史を受付へ持ってきた。

「これ借りる」

 

ジャクソンが顔を上げた。

 

少年は目次を開き、しばらく指で追った。

「この本に、おじいちゃんの船も出てくるの?」

 

ジャクソンは、すぐには答えなかった。孫の隣へ座り、二人で本を覗き込んだ。




――「この話、誰にもしないで」

次回、『会いたいと言えた夜』
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