【救難艇到着まであと二日】
【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月十六日 リオ・ヴェルデ星系 惑星アロヨ・ド・モリノ 北部地方】
二日前に図書館のあったビリャ・アルバの町を出てから、三人は車で北上を続けていた。
途中の公衆端末から、車を確保したこと、一日に数百キロずつ北へ向かうつもりでいることは、バーラト側へ伝えた。進路上で収容できる場所を選んでほしいと頼み、一つの場所に長い時間留まらず、次の連絡を待ちながら北へ走った。
今朝は、すでに二度停まった。
一度目はエルフリーデに水を飲ませるためで、二度目は薬の時間だった。
ゾルナーから借りた灰色の車は年季が入っていたが、後席を倒せば身体を伸ばすことはできた。
昼前、街道の先に小さな町が見えてきた。共同市場の入口に公衆端末があり、すぐ脇には買物客のための駐車帯もある。
イルゼが車を停めると、ランズベルクは端末に接続する前にバーラトへ送る内容を確かめた。
――長距離の歩行は困難。短い距離なら介助があれば可能。
車での移動は続けられるが、途中で休息が要る。
「薬はあと二日半分です」
イルゼの言葉を書き添え、ランズベルクは車を降りた。端末の先客が市場へ戻るのを待ち、バーラトが用意していた一時連絡箱へ接続する。
認証を済ませると、新しい文面が一件届いていた。
――収容予定日 四月十八日。
――四月十七日夕刻までにセラ・ノルテ地方へ移動されたし。
――正確な収容地点および時刻は当日通知する。
――到達可否、車両移動の可否、現在の身体状態を返信されたし。
ランズベルクは日付を読み直した。二日後である。文面を手帳へ写すと、接続は保ったまま画面を隠し、すぐ後ろの車へ戻った。
「救出は二日後の、十八日です。明日夕刻までに入る地域も指定されました」
手帳を受け取ったイルゼは車載の道路図を開いた。セラ・ノルテは、北の山地の麓に町が点在する地方だった。現在地からおよそ三百キロの距離である。
ランズベルクが何か言う前に、イルゼは後席を見た。
「今日は具合を見ながら半分くらい。途中で悪くなれば、そこで止めます。それでも明日の夕方にはセラ・ノルテに入れるでしょう」
エルフリーデは身体を起こさずに地図を見せてもらい、指定地域のあたりへ指を置いた。
「そこへ行けばいいのね」
「正確な場所は当日に知らせるそうです。今は、そのあたりまで動けるかを聞かれています」
イルゼが答えると、エルフリーデは短く「行きましょう」と言った。
ランズベルクは到達可能と書き添え、さきほど聞いた身体の状態とともに二人へ読み返した。イルゼが頷くのを見て、端末へ戻る。
返信を送り終えるまで、長くはかからなかった。受領の表示を確かめて接続を切り、画面を閉じて車へ戻った。
イルゼは道路図を彼へ渡し、エルフリーデの足元に荷物が当たっていないか、最後に確かめた。
「伯爵、次に休めるところを見ておいてください。次の街まで、私が運転します」
「承知しました」
ランズベルクが道路図を広げると、後席から声がした。
「私は大丈夫。先を急ぎましょう」
彼が振り返る前に、イルゼが車を出した。
***
【同日 バーラト星系 惑星ハイネセン・軌道港】
最初に惑星ハイネセンの軌道港を離れたのは、通信中継を担う小型船だった。
ハイネセンと周辺星系を往復する民間連絡船と大きく変わらない船体である。
係留が外れると、通常便と同じ手順で管制の指示を受け、そのまま所定の航路へ入った。
ユアン・ウォードは出航時刻を運航表へ記入した。
五時間後には前方支援船が続いた。こちらには通信機材、予備物資、地上側からの更新を受ける要員が乗っていた。
同じ救難を支える船ではあったが、出航時刻も航路もあえて揃えてはいない。
次に出航を待つ前進母船の格納区画では、ポプランとカリンが救難艇の最終確認をしていた。
低反射処理を施された機体は収容架へ固定され、整備員が外部電源や蓄熱装置の状態を見て回っている。
カリンは後部区画へ入り、簡易寝台、患者固定具、薬剤、呼吸補助器具を順に確かめていた。
操縦席を覗き込んでいたポプランに、後部区画からカリンが声をかけた。
「まだ触らないでよ。こっちの点検が終わってないんだから」
「見てるだけだ」
「じゃあ、そのまま見てて。もう少しだから」
カリンは患者固定具の留め金を確かめ、整備員へ確認票を渡した。ポプランも操縦席の縁に置いていた手を引っ込め、点検が済むのを待った。
ポプランは何か言い返しかけたが、整備員が外部電源を切ると告げたので操縦席へ向き直った。
ケーブルが外され、艇内の照明が一度だけ落ちてから自前の電源へ切り替わる。表示が正常に戻ったのを確認すると、ポプランは黙って親指を立てた。
出航十五分前、船内回線からユアンの声が流れた。
未了項目があれば今のうちに上げるよう求めると、ポプランは操船側に問題なし、カリンは医療側も出航可能と答えた。
前進母船が軌道港を離れたのは、その十五分後だった。
ユアンの運航表には、通信中継船、前方支援船、前進母船の三つの欄すべてに出航時刻が入った。
隣の担当者が、次の中継確認は八十二分後だと告げた。ユアンは時刻を確認し、運航表を開いたまま次の報告を待った。
***
【同日 リオ・ヴェルデ方面宙域 帝国救難支援部隊】
バーラトの前進母船から通信接続要求が届いたとき、帝国軍側では観測艦、医療受入れ船、高速保安艦の前進配置がすでに終わっていた。
帝国軍派遣部隊を統括するアルブレヒト少将の前に開かれた宙域図では、帝国軍各艦は教国の設定している警戒線を越えず、帝国側宙域に散開している。
クラインの端末には、教国領リオ・ヴェルデ星系内で傍受された通信の抜粋が並んでいた。
教団特有と思われる符牒や言い回しを拾い、同じ語が使われた箇所を、発信元や前後の文脈と照らし合わせて解読作業を続けている。
意味の見当がついた数語に注記を加えると、解析画面を脇へ寄せ、バーラトの前進母船の識別情報を開いた。
アルブレヒト少将は椅子の背に身を預けたまま、クラインが照合を終えるのを待っていた。
クラインは観測艦から次々と上がってくる情報を整理していた。
教国軍の艦艇がどこにいるか。どの航路が空いているか。位置を確認できていない艦については、そのことも含めてバーラト側へ送る。
「分からないところは、分からないままで送ってくださいね」
アルブレヒトが言った。
「推測で埋められるより、その方がバーラトも動きやすいでしょう」
クラインが了承し、最新の宙域図を送った。
隣では、ハインリヒが別の星図を開いていた。
救難艇がエルフリーデたちを乗せて教国支配域を抜けたあと、帝国側の医療船と合流する場所を決めているのである。
予定している地点は一つあったが、救難艇が追手を避けて違う方向から出てくる可能性もある。そのためハインリヒは、境界の外側に二つの予備地点も用意していた.
「今の配置なら、どこへ出ても迎えに行けます」
ハインリヒが三つの地点を示した。
アルブレヒトは星図を覗き込み、それぞれの距離を確かめた。
「病人を乗せた艇に、こっちの都合で遠回りさせるのはやめましょう」
指先で三つの地点を順に叩く。
「出てきた場所に合わせて、こちらが動く。それでお願いします」
「了解です」
ハインリヒは医療船と高速巡航艦の位置を計算表へ入れ直した。現在の配置なら、予定している受領地点だけでなく、二つの予備地点にも先回りできる。救難艇がどの方向から教国支配域を抜けても、帝国側が受け取りに動けるよう、三地点それぞれへの所要時間を更新した。
その作業が終わるころ、バーラトの前進母船から情報接続の要求が入った。
クラインが送信元と暗号署名を確認する。
「バーラト救難隊、認証しました。観測情報を開きます」
許可が下りた瞬間、帝国軍の観測艦が集めていた情報がバーラト側の回線へ流れ込んだ。
***
バーラト前進母船の主スクリーンが、一度だけ暗くなった。
次の瞬間、星図の上に光が増え始めた。
それまで救難隊が把握していたのは、自前の観測と公開航路、それに過去の記録から推定した教国側の配置である。その空白へ、帝国軍の観測艦が現在追尾している艦影が次々に現れた。
一つの輝点が灯ると、その後ろに短い航跡が伸び、速度と進行方向、最後に観測された時刻が添えられる。さらに別の場所にも光が増え、惑星周辺から外縁へ向かう教国艦艇の動きが、これまでよりはるかに細かく浮かび上がっていった。
すべてが見えているわけではない。帝国側でも観測できていない区域は何も埋められず、星図の上に暗いまま残っていた。だが、その暗さもまた、どこまで確認できていて、どこから先を警戒すべきなのかを示している。
ユアン・ウォードは椅子から少し身を乗り出した。
「……ここまで見えていたのか」
航法担当者は返事をする間もなく、救難艇の離脱予測を引き直していた。
教国艦の位置が増えたことで、これまで安全に見えていた宙域の一部が消えた。その一方で、通過できる可能性の高い空間も新しく見えてくる。救難艇がどちらへ出ても、その先で何を避け、どこへ向かえばよいのかが、先ほどまでとは比べものにならないほど具体的になった。
さらに、境界の外側にいる帝国側の艦艇情報が入った。
医療船の現在位置と移動可能範囲が表示され、続いて高速保安艦の待機位置が星図へ加わる。三つの受領候補地点には、それぞれ何分で到達できるかが表示され、その数値は各艦の移動に合わせて更新されていった。
ユアンが見ている前で、帝国の医療船が待機軌道をわずかに変えた。
ほぼ同時に、別方向にいた高速巡航艦も動き始める。
大きな機動ではなかった。救難艇がどの出口を選んでも護衛の対応ができるよう、三つの受領地点へ寄れる位置を取り直している。
スクリーンの上で動きを見ていると、帝国側の準備が数字ではなく実体として伝わってきた。
ユアンは通信士へ言った。
「アルブレヒト少将をお願いします」
ほどなく超光速回線が開いた。
帝国側の艦橋が映り、アルブレヒトの姿が現れる。
『こちら銀河帝国軍救難支援部隊指揮官、アルブレヒト・フォン・ミュッケンベルガー少将です。回線を確認しました』
「バーラト救難統括、ユアン・ウォードです。こちらも確認しました。観測情報、受け取っています」
ユアンは背後の主スクリーンを一度振り返った。いまも観測艦から新しい情報が入り、いくつかの輝点が位置を変えている。
「正直、驚きました。こちらから見えていなかった艦が、ずいぶんあります」
アルブレヒトは少し笑った。
『そのために観測艦を出していますからね。分からないところは、分からないままで送っています。そこだけは気をつけてください』
「十分です。むしろ、その方が助かります」
ユアンは星図を見た。
惑星アロヨ・ド・モリノへ向かっている救難艇の予定航程。その周囲に教国艦艇の観測情報が広がり、さらに境界の向こうには帝国の医療船と高速保安艦が待っている。
「いよいよですね」
『ええ』
ユアンは少し姿勢を正した。
「貴軍の支援に感謝します」
アルブレヒトは首を振った。
『お礼は、二人を受け取ってからにしましょう』
ユアンの口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「そうします」
『それと、救難艇の帰路について一つ』
アルブレヒトは手元の表示を確認した。
『こちらの配置へ合わせる必要はありません。患者の状態と、そちらで得られた情報を優先してください』
「三つの受領地点のうち、どこへ出ても構わないと?」
『はい』
アルブレヒトは答えた。
『出てきた場所に合わせて、ボクらは動きます』
ユアンはもう一度スクリーンを見た。
三つの候補地点の外側で、帝国艦の予測位置が少しずつ動いている。救難艇に帝国側の都合を押しつけるのではなく、その帰路に合わせて受け取り側が位置を変えるという意味だった。
「分かりました。それでお願いします」
『承知しました』
回線が閉じた。
その間にも、帝国軍からの観測情報は流れ続けていた。新しい艦影が確認されれば輝点が増え、進路が変われば航跡も修正される。
ユアンはその星図をしばらく眺めていた。
***
【同日 タナトス星系 聖都ラディークス・大伽藍】
教国の枢機卿団の前に置かれていたのは、バーラト自治政府がエルフリーデへ向けて出していた公開公報だった。移動支援を望む場合は、バーラト自治政府の指定した域外救難窓口へ連絡するよう求める公示文である。もちろん収容の方法も、日時も、場所も公表されていない。
ノクスは、バーラト側が何らかの一時的な連絡先を用意し、そこを通じてエルフリーデ本人と接触を続けていると見ていた。エルフリーデ、イルゼとランズベルクの三人の携帯端末はいずれも電源が切られている。基地局記録から現在地を追うことはできず、所在は別の痕跡から拾うしかなかった。
「バーラトからの要員が惑星に潜入して、女史の収容と離脱を試みる可能性があります。そう考えて備えるべきでしょう」
エルフリーデ、イルゼ、ランズベルクの三人は、二日前、惑星首都から約二百六十キロ北方の町、ビリャ・アルバの公共図書館を出たところまで確認されている。
その後は南へ向かったという証言も複数あったため、南方を中心に聖管区を通じた捜索が行われたが、宿泊にも診療にも交通記録にも三人の痕跡はなかった。
軍務を司るベルム枢機卿は公報を閉じた。
「誰が来るかも、いつ来るかも分からん。おそらく帝国軍の支援を受けるのだろうが、その内容も不明だ」
「ですが、待っていれば女史は惑星から出ていきます。そうなれば、フェリックス・ミッターマイヤー大尉との接触機会も小さくなるでしょう」
スアーダ枢機卿の答えに、ベルムはすぐには同意しなかった。
卓上にフェリックスの経歴を開き、皇帝副官という補職と、その上に並ぶ二人の元帥の名を確かめた。
「一つ確認しておきたい。この青年を教国へ招くことは、母の御手がすべての星へ届く、その大願成就のためにそこまで重要なのか?」
プローディア枢機卿が、数日前に下った慈母司牧アガーテから神託を記録から呼び出した。
『根より遠き枝を、門の前へ導け。
その枝みずから門を越えしとき、此処に生きる者の声を聞かせよ。』
ベルムは第二句へ目を落とした。
「大尉を無理やり『門』まで連れて来い、とは読めんな」
「ええ。『みずから門を越えしとき』とあります。大尉ご本人の意思で教国まで来ていただく必要があるのでしょう」
スアーダは神託の第一句へ視線を戻した。
「根より遠き枝、つまりフェリックス・ミッターマイヤー大尉を自分の意思で『門』の前まで導け、そのように神託は仰っています」
記録を見るかぎり、調略を試みても短期間で寝返るような男でもないだろう、とベルムが重ねると、スアーダは、それも承知していると答えた。彼女はフェリックスの経歴を閉じ、神託の表示だけを残した。
「まず大尉に会うことです。彼が何を聞き、何を拒み、誰の話なら聞くのか。それが分かるだけでも、次があります」
「我らへの敵意を深めるだけかもしれんぞ」
「その可能性もありましょう」
スアーダは神託の第二句を見た。
「ですが、御言葉は、彼の好意を獲得せよとまでは仰ってはいません。門の前へ導け、とあるだけです。そこで何を聞き、何を持ち帰るかは、あの方自身が決めることです。我ら人の子の作為の及ぶところではありません」
そこで聖廉院宰のノクス枢機卿が、エルフリーデの所在報告を卓の中央へ戻した。
「その機会を残すためにも、まずコールラウシュ女史の身柄を先に確保します。
もはや聖管区による捜索だけでは間に合いますまい。そろそろ、力を入れて探すといたしましょう。惑星の〈
〈
構成員は『聖園』の出身者である。幼いころから教団の内側で育てられる。〈耳目〉としての適性を見出された者たちは、成人するとそれぞれ異なる身分と経歴を与えられて社会へ送り出される。
彼らは、命令を受けてから現地へ潜入するのではない。
最初から、そこにいる。
辺境の町にも、宇宙港にも、商船にもいる。軍の艦隊にもいる。どこにでもいる。
そして、もちろん帝都にもいる。
普段は何もしない。ただ見て、訊いて、憶える。教団から命令が下れば動き出す。
「捜索の強化を悟らせず、女史の周囲へ惑星の〈耳目〉を寄せます。本人を確認できしだい、その場で押さえましょう」
「……女史ご本人が拒まれても、ですかな」
アロイジウス枢機卿の問いに、ノクスは頷いた。
「バーラトの潜入要員と接触する前に、こちらで押さえる必要があります」
ノクスが言った。
「バーラトの民間人であれ帝国軍人であれ、救出要員が入ってきたと確認できた時点で、確保に移ります。できれば地上へ降りる前、惑星圏へ入ったところで捕捉したい」
「ええ。救出要員を確保できれば、その人たちの身柄も交渉の材料になります」
スアーダが続けた。
「女史や助けに来た者を人質にして、大尉を呼ぶと?」
「こちらから呼びはいたしません。ですが、解放のための交渉材料としていくつか条件はお示ししようと思っています」
アロイジウスは少し黙った。
「……それで来た者を、自らの意思で来たと言えるのですかな」
「条件を知ったうえで、来るか来ないかと決めるのは大尉ご自身です」
スアーダは神託へ目を落とした。
「門の前まで導くのは、こちらの仕事です。その先は、枝自身がお決めになるでしょう」
ノクスは現地回線を開いた。
「惑星アロヨ・ド・モリノの〈耳目〉を起動してください。対象はエルフリーデ・フォン・コールラウシュ。所在確認に留めず、身柄を確保します。まず、三人の足取りを洗います。軍や治安部隊による道路封鎖はまだ行いません」
***
【同日午後 惑星アロヨ・ド・モリノ ビリャ・アルバ 公共図書館】
聖廉院からの指令が流れてから一時間もしないうちに、惑星各地で〈耳目〉が動き始めていた。
宇宙港で貨物記録を扱っていた者が入港者名簿を洗い、幹線道路沿いでは給油所や宿泊施設の記録が拾われた。北部では公衆端末の接続履歴を追う者があり、南部では診療所と交通機関への照会が続いている。
新たに送り込まれた者ばかりではない。昨日まで職員として働き、客として店に入り、住民として暮らしていた者たちが、それぞれの場所で任務を始めていた。
地方図書館へ入った三人の〈耳目〉も、そのうちの一組だった。
閉館まで、まだ二時間ほどある。
三人とも旅装に近い服装で、受付には聖廉院の身分証だけを示した。
班長は、四月十四日に三人を見送った老人たちの証言を読み直した。ジャクソンとゾルナーは、ともに南へ向かったと答えている。
だが、翌十五日に南側で照会した宿泊施設や診療所、交通機関には、三人の記録が一つもなかった。
「駐車場の記録は残っているか?」
司書が管理端末を開いた。入退場時刻と車両番号は残っていたが、誰が乗っていたかまでは分からない。
班員の一人が、三人の退館時刻の前後に出た車を拾い、その所有者を照会していった。
灰色の旧型ワゴンのところで、手が止まった。
「ゾルナー名義の車両があります」
班長は、証言者名の欄と車両登録を見比べた。同じ住所だった。
三人は南へ行ったと言った男の車が、その三人の出発とほぼ同じ時刻に駐車場を出ている。
「盗難届は出ているか?」
班員が調べ、首を振った。班長はその車を優先照会の対象へ移した。
その後、北の町から公衆端末の利用記録が届いた。十四日の午後、図書館から百キロ以上離れたその町で、教国支配領域外への接続記録があった。
通信内容は暗号化されており、利用者も特定できなかったが、三人が車で移動した場合の時刻とは符合していた。
班長は北へ続く街道をたどり、照会先を選び直した。
「北を優先する。この車を見た者がいないか、ただちに確認しろ」
車の型と色、登録番号が北部の各班へ送られた。報告には、逃走に使われた可能性があると付されている。
班長は車内の人数と人相も確かめるよう指示し、本人を確認できれば確保に移ることを、最後に念を押した。
***
【救難艇到着まであと一日】
【新帝国暦二十四年四月十七日昼 惑星アロヨ・ド・モリノ北部地方】
街道が山地へ近づくにつれ、エルフリーデは揺れのたびに後席の縁を握るようになった。イルゼが速度を落とすと、大丈夫よ、と声が返ってきた。
朝より弱かった。ランズベルクが振り返ると、額に汗が浮かび、唇の色も薄くなっていた。
「二キロほど先に、礼拝所と休憩所があります。そこで停まりましょう」
エルフリーデは目を開けた。
「止まっていると危ないんじゃないの?」
どこまで追ってが迫ってきているかは、三人とも知る由もない。ランズベルクは道路図で次の町までの距離を見たが、そこまでもたせようとは言わなかった。
「まず、休みましょう。顔色がよくありません」
イルゼは休憩所への側道へ入った。
施設には大型農業車両が一台停まっているだけで、受付の女性はエルフリーデを見ると、すぐに奥の休憩室を開けてくれた。
イルゼが長椅子へ横たえ、ランズベルクは言われた場所から水を持ってきた。
「一時間は休んでいただきます」
イルゼに言われ、ランズベルクは時計を見た。長椅子の上では、エルフリーデが薬を飲むために身体を起こそうとしていた。
彼は時計をしまい、肩を支える方へ回った。
四十分ほどすると、呼吸は落ち着いてきた。イルゼは椅子のそばに座ったまま、もう少し休ませるつもりでいた。
ランズベルクが空のコップを受付へ返しに行くと、女性が「お加減はいかがですか」と訊いた。
「少し落ち着きました。ありがとうございます」
女性は安心したように頷き、ランズベルクが奥へ戻ったあと、端末に残っていた未読の聖管区連絡を開いた。
女性二名と男性一名の所在を尋ねる通知だった。
一人は体調を崩している可能性があり、安全確認のため、似た人物を見かけた場合は知らせてほしいとある。
受付の女性は、休憩室の扉を見た。犯罪についての記載はなかった。役所か家族が捜しているのかもしれない。
彼女は特徴を読み返し、三人連れ、灰色の古い車、女性一名が体調不良、と見たことだけを書き込んだ。
送信したとき、休憩室ではエルフリーデが起き上がろうとしていた。肘に力が入らず、もう一度背を長椅子へ戻す。
イルゼは毛布を掛け直し、あと少しだけ、と言った。ランズベルクも入口へ向きかけていた身体を戻し、椅子に座った。
最寄りの〈耳目〉の車は、十八キロ南にいた。受付の女性が送った連絡は、聖管区の窓口で受け付けられ、その車へ回された。
***
【同日午後】
三人が休憩所を出たのは、聖管区に連絡が送信されてから二十分後だった。受付の女性は三人を玄関まで見送った。
イルゼが礼を言い、ランズベルクがエルフリーデを後席へ乗せるのを手伝う。
灰色のワゴンが街道へ戻るのを見てから、女性は使った毛布を畳みに行った。
*
その十五分後、〈耳目〉の乗用車が休憩所の駐車場へ入った。降りてきた男が連絡の礼を述べると、女性は、もう三人は出発したと答えた。
男は出発時刻と方向を確かめ、同行の女は駐車場の記録を見せてもらった。
「北の方に向かったようです。もう少し休んだ方がいいとは思ったんですが」
受付の女性が話している間に、灰色のワゴンの映像が見つかった。
拡大しても番号の全桁は読めなかったが、後半の番号一部と車体の特徴は登録資料に一致した。
乗降時の映像には、女を支える男と、運転席へ回るもう一人の女も残っていた。
二人は礼を言って車へ戻り、助手席の女が現地の班長へ報告した。
「対象の三人と判断します。この休憩所を出て、まだ十五分です」
男は発進しながら、前方の道路状況を尋ねた。次の分岐までは一本道で、途中に別の町はない。
助手席の女は北へ向かう班へも車両確認を求め、追跡車は街道へ出た。
その時点で、三人の乗る灰色のワゴンは同じ街道の約十六キロ先を走っていた。徐々に距離が縮まっていった。
*
灰色のワゴンの後部座席では、エルフリーデが眠っていた。イルゼは段差の手前で速度を落とし、越えてからゆっくり戻した。
ランズベルクが何度か後ろを見るので、イルゼが訊いた。
「何か見えますか」
「いえ。同じ車が続いている様子はありません」
「それなら前を見ていてください。次で道が分かれます」
イルゼも一度だけ鏡を見た。遠くに大型車が一台いるだけで、こちらを追ってくる車は見えなかった。
やがて街道が二つに分かれた。
右へ進めば、そのまま峠を越えて次の町へ出る。距離は短い。
左は川沿いを回る旧道で、三十分ほど余計にかかるが、勾配は緩かった。
ランズベルクが道路図を見た。
「右が早いです。ただ、この先はかなり登ります。左なら、しばらく川沿いです」
イルゼは後席を見た。
エルフリーデは眠っている。だが、さきほど車が大きく揺れたときには、目を閉じたまま座席を握っていた。
「左へ行きますしょう」
「三十分ほど遅くなりますが」
「構いません」
灰色のワゴンは旧道へ入った。
*
〈耳目〉の車が同じ分岐へ着いたのは、その十分後だった。
男が速度を落とす。
右は最短路。左は遠回りの旧道だった。
助手席の女は両方を確認した。
「病人を乗せています。左もありえます」
「分かっている」
それでも、まず右の道を選んだ。
主要道には前方の町まで車両記録が残る場所があり、対象車がそこを通っていれば、すぐに確認できる。旧道については別の〈耳目〉へ照会を出した。
追跡車は峠へ向かった。
十五分後、前方から返答が来た。
灰色のワゴンは通っていない。さらに先の記録にも、該当する車両はなかった。
男は次の転回場所で車を返した。
「分岐まで戻るぞ。左の方だ」
それだけ言って、来た道を戻る。
分岐を間違えたことで、三人との差は一気に広がった。
*
そのころ、灰色のワゴンは川沿いの旧道を二十キロ以上進んでいた。
小さな町へ入る手前で、イルゼは広い路肩へ車を寄せた。エルフリーデへ水を渡すためだった。
「もう山は越えたの?」
「越えてません。川沿いを回っています。この先もしばらく平らです」
エルフリーデは水を二口飲み、容器を返した。
ランズベルクは後ろを見た。
道は空いていた。
*
〈耳目〉の追跡車が再び分岐へ戻った。
今度は迷わず旧道へ入る。
助手席の女の端末には、すでに旧道沿いの照会結果が入り始めていた。
「先で一件、似た車の目撃があります」
男は速度を上げた。
旧道へ入り直した時点で、三人との差は四十分近くまで開いていた。
追跡車が速度を上げても、川沿いの道を走る灰色のワゴンも止まっているわけではない。
しかも旧道には、農地や小さな町へ入る支線がいくつもあった。主要道のように、通過する車両を連続して拾える設備もない。
〈耳目〉の網も、このあたりまで来ると薄かった。
最初の目撃地点へ着いたころには、その報告から二十分以上が過ぎていた。そこから先にも一件、灰色のワゴンを見たという連絡があったが、車体の色しか一致していない。
助手席の女が次の報告を待った。
来なかった。
「その先は?」
「まだありません」
男は速度を落とさず走った。
地図には、最後に確認できた地点だけが残った。その先で旧道は、いくつもの支線へ分かれていた。
***
【同日夕刻 セラ・ノルテ地方】
指定された地域へ入ったころには、山の斜面に夕日が残るだけになっていた。イルゼは街道沿いの宿を見つけ、駐車場へ車を入れようとした。
その手前で、後席のエルフリーデが声をかけた。
「今日は、車で寝ましょう」
イルゼは速度を落としたまま、鏡越しに彼女を見た。
「エルフリーデ様、寝台で休んだ方がいいです」
「宿泊記録が残るでしょう。明日まででいいのよ。この席なら、横になれるわ」
ランズベルクも道路図から顔を上げた。イルゼはしばらく考えてから宿の前を通り過ぎ、代わりに、身体を伸ばして休める場所を探すことにした。
町を出て旧道へ入ると、閉鎖された農産物の集荷場があった。建物の前には駐車帯が残り、街道との間には木立がある。
車を停めると、イルゼは後席の段差に畳んだ上着を詰め、エルフリーデに寝心地を確かめた。
ランズベルクは足元の荷物を荷室へ移し、前席を倒せるだけの場所を空けた。窓を少し開けると、草と湿った土の匂いが入ってきた。
夕食は、昼に買っておいたパンと容器入りのスープだった。エルフリーデが半分ほど食べて手を止めると、イルゼもそれ以上は勧めず、残りを包んだ。
薬を飲ませ、翌朝の連絡時刻を確認してから、三人は灯りを消した。
イルゼが眠ったあと、ランズベルクは助手席の小さな手元灯をつけ、明日の連絡に使う町までの道を手帳で確かめた。
灯りを消して鞄へしまおうとしたところで、後席から声がした。
「伯爵。あなた、図書館では歴史の話をしていたけれど、小説も読むの?」
「ええ。若いころから、ずいぶん読みました」
エルフリーデは窓の方を向いていた。こちらを見ないまま、少し間を置いて訊いた。
「……育てもしなかった子が大きくなってから、どう向き合えば良いか迷う親の話はある?」
ランズベルクが答える前に、彼女は続けた。
「やっぱりいいわ、忘れて。最後には子供が親を赦してくれたりするのでしょう?そういう話なら、聞きたくない」
「……育てなかった娘が成長してから、自分の家へ迎えようとして断られる父親の話なら、存じています。『サイラス・マーナー』という、今から千七百年以上前、前宇宙期の西暦十九世紀の地球で書かれた小説です」
エルフリーデが顔をこちらへ向けたので、ランズベルクは手帳をしまい、話し始めた。
昔の小さな村に、ゴッドフリーという名前の裕福な家の跡取り息子がいた。彼には妻と幼い娘があったが、その結婚を実家には隠している。
「実家の父親に知られるのが怖かった。それに、彼には別に愛している女性がいました。ナンシーという娘です。結婚していることが知れれば、ナンシーとはもう結ばれない。ですから、妻と子の存在を隠していたのです」
ランズベルクは続けた。
「ある冬の夜、奥方は二歳になる娘を連れて、ゴッドフリーの実家へ向かいます。
夫のゴッドフリーは、彼女との結婚を実家には隠し、妻として認めようともしなかった。その夜、ゴッドフリーの実家では大勢を招いた宴が開かれていました。そこで自分と娘の姿を見せ、ゴッドフリーの父親にも客たちにも、隠されていた結婚の事実を明かしてしまおうと考えたのです」
「……仕返しのため?」
「ええ。彼女自身はそのつもりでした。ですが、途中で雪の中に倒れ、そのまま亡くなってしまいました。幼い娘だけ歩き出し、近くの織物職人の家へ入り込むのです。その職人が、題名にもなっているサイラスです」
「ゴッドフリーという男は、妻子が実家に来ようとしていたことを知らなかったの?」
「知ります。亡くなった奥方を確かめ、娘の姿も見ています。それでも、自分の妻と子だとは言わない。サイラスが子供を育てるつもりだと聞くと、衣服を買う足しにと金だけ渡して、帰ってしまいます」
エルフリーデは眉を寄せた。
「知らない子に善意で恵んだような顔をして?」
「ええ」
ランズベルクはそこで一度、声を落とした。前席のイルゼが身じろぎしたが、目は開けなかった。寝息が戻るのを待ってから、彼は続きを話した。
サイラスは一人で暮らす、あまり人付き合いのない男だった。
子育ての仕方も知らず、近所の女性に教わりながら、女の子をエピーと名づけて育てる。
やがて娘が歩いて出かけるようになると、彼も仕事の手を休め、その後をついていくようになった。
「実の父のゴッドフリーは、その間どうしていたの」
「結婚したがっていたナンシーと結ばれます。ただ、娘のことも気にかけていて、援助はするのですが、自分が父親だとは名乗りません。そのまま十六年が過ぎます」
「同じ村で?」
「はい。娘が、別の男を父親と呼んで育つのを、ゴッドフリーは知っていたわけです」
エルフリーデは何か言いかけたが、やめた。ランズベルクは彼女の顔を覗き込まず、前を向いて話を続けた。
ゴッドフリーはとうとう二度目の妻、ナンシーへ真実を打ち明け、二人でサイラスの家を訪ねる。
今からでも娘を引き取り、何不自由のない暮らしをさせようと考えたのだった。
「娘に何と言ったの?」
「最初は、自分が本当の父親だとは言いません。自分たちには子供がいないので、養女として迎えたいと申し出ます。サイラスの老後も面倒を見る。娘にも苦労をさせずに済む、と」
「ずいぶん都合のいい話ね」
「ゴッドフリー本人は、これで少しでも償えると思ったのです」
ランズベルクは膝の上で両手を重ねた。
「ですが、娘のエピーは、育ての父サイラスの様子に気づきます。自分を行かせるべきかと迷って、震えている。それでもサイラスは、娘が望むなら邪魔はしないと言うのです」
エルフリーデは毛布を胸元まで引き上げた。
「その娘はどうしたの?」
「お父さんを置いていけません、と断ります。立派な家へ移って、奥様と呼ばれるような暮らしをしたいわけではない。ここで親しくしてきた人たちと離れたくない、と」
その返事を聞いて、ゴッドフリーは初めて、自分が実の父親だと明かした。自分には、この娘に対する誰よりも強い権利がある。実の父親なのだから、と言った。
「そこでサイラスが怒ります。なぜ十六年前に名乗らなかったのか。私がこの子をこれほど愛するようになるまで待って、今になって連れていこうとするのか、と」
「……当然だわ」
エルフリーデの声は低かった。ランズベルクは頷いたが、ゴッドフリーもそこで引き下がるわけではない、と続けた。
娘を豊かに暮らさせたいのに、サイラスがその幸せを妨げているのではないかと責める。
するとサイラスも、自分の気持ちが娘の邪魔になってはいけないと、口をつぐんでしまう。
「もう何も言わない。娘に話してくれ、自分は邪魔しない、と。それでゴッドフリーはエピーに、これまで父親らしいことはしなかったが、これからは一生、できる限りのことをしたいと話します」
「娘は、それを聞いてどうしたの?」
「サイラスを一人で家に残し、寂しく自分を思っていると知りながら、幸せにはなれないと答えます。これまでサイラスと幸せに暮らしてきた。これからも離れたくない、と」
エルフリーデは毛布の縁を指でならしていた。ランズベルクは彼女の顔を覗き込まずに続けた。
「そこでサイラスが、娘に念を押すのです。よい暮らしができるのに、貧しい自分のもとへ残って、後で悔やむことはないか。娘は、立派な服を着て裕福な暮らしをしても、親しい人たちから仲間と思われなくなるのでは、嬉しくないと答えます」
「それでも、ゴッドフリーはまだ諦めないの?」
「今度は奥方のナンシーが、娘に話します。育ててくれた人を慕うのは当然だが、実の父親へ果たすべき義務はどうなるのか、と」
エルフリーデは窓へ目を向けた。ランズベルクは、エピーが涙を流しながら、それでも自分の父親はサイラス一人だけだと答えるところまで話した。
娘はともに働く人々との暮らしを望み、結婚を約束した青年と一緒に、サイラスの世話をするつもりだった。
「それで、実の父親はあきらめて帰ったのね」
「はい。ろくに挨拶もできず、先に出てしまいます。奥方は、二人の幸せを願っている、また訪ねてきますと伝えてから、その後を追います」
「そこで終わりでしょう。今さら後悔しても遅い、という話ね」
ランズベルクは少し考えた。車内の灯りは消えており、窓の向こうには集荷場の建物の輪郭が見えていた。
「私も、若いころはそこで、この男の話は終わったと思っていました。その後の話は、実のところあまり覚えていませんでした」
「まだ続きがあるの?」
「家へ帰ってから、夫婦で話す場面があります。男は椅子に腰を下ろす。奥方は帽子と肩掛けを取りますが、夫を一人にせず、そのそばに立っています。何と言えばよいか分からず、しばらく二人とも黙っているのです」
エルフリーデは続きを促さなかったが、目は閉じなかった。
やがてゴッドフリーが、もう終わった、と言う。妻も、娘を家へ迎える望みは諦めなければならないと答える。
本人の気持ちに逆らって連れてくるのは正しくない、と。
「男も、今度は反対しません。過ぎた年月の分だけ金を多く払っても、埋め合わせられないものがあると認めます。娘には娘の選んだ暮らしがある。その暮らしの中で、自分にできることをしようと」
「ずいぶん物分かりがよくなったのね」
「すぐに穏やかになったわけではありません。自分が父親だと明かした途端、娘の態度が変わった、嫌われたのだと思う、とも後悔します」
ランズベルクはそこで言葉を切った。エルフリーデが顔を伏せたので、聞きたくなくなったのかと思ったが、彼女の方から「それで?」と訊いた。
「その少し前に、ゴッドフリーが奥方へ確かめるのです。『あの子は、きれいな、よい娘だね』、と」
エルフリーデは顔を上げた。
「……自分のところへは来ないと拒絶した娘を?」
「はい。奥方は、『あなたと同じ髪と目をしている』、と答えます」
前席で、イルゼの毛布が擦れた。ランズベルクはそちらを見てから、もう少し声を落とした。
「その一言が、最近になって読み返したときに目に止まりました。男は娘への対応を後悔しています。それでも、あの子はよい娘だね、と誰かに言いたかったのでしょう。訊いてもらいたかったのでしょう」
エルフリーデは毛布の縁を指でならしていた。
「あなたは、その男をかわいそうだと思う?」
「思います。娘を連れていってよいとは思いませんが、あの帰り道は、つらかっただろうと」
「自分でしたことの結果でしょう」
「ええ。奥方も、あなたは悪くないとは言いません」
ランズベルクは窓から入る冷気に気づき、開いていた隙間を閉じた。エルフリーデはまだこちらを見ていたので、言い足した。
「ですが、そばにいるのです。そして、話を訊くのです。男が、娘のことを話し終えるまで、ずっと」
エルフリーデは少し黙り、やがて目を伏せた。
彼女はそれ以上、本の続きを訊かなかった。ランズベルクも話を終え、足元に置いていた水を後席へ渡した。
エルフリーデは二口ほど飲むと、自分で蓋を閉め、横に置いた。
「伯爵。あなたは、結婚していないんでしょう」
「ええ。子供もおりません」
「それなのに、よくそんな話を覚えていたわね」
ランズベルクは困った顔をした。
エルフリーデは少しだけ黙ってから言った。
「……でも、悪くない話だったわ」
ランズベルクは返事に迷った。
エルフリーデの口元が、ほんの少しだけ動いた。
街道を走る車の灯りが木立の間を横切り、二人は通り過ぎる音が遠ざかるまで黙っていた。
やがて彼女が言った。
「……あの子には、あの子の暮らしがある」
「はい」
「私が今さら何を言ったって、あの子を困らせるだけでしょう」
ランズベルクは後ろを振り返りかけて、やめた。助手席に座り直すと、彼女の方を見ずに答えた。
「ここで、私にお話しになるくらいはよろしいのではありませんか」
「何を?」
「お気持ちをです。大尉に、返事を求めるわけではないのですから」
エルフリーデが息を吸った。何か言い返すつもりだったらしいが、言葉は出てこなかった。
ランズベルクは前を向いたまま、彼女がまた口を開くのを待った。
「……会いたいわ」
声は小さかった。ランズベルクは頷いたが、彼女には見えなかっただろう。確かめるために振り返ることはしなかった。
「でも、それだけよ。あの子に、それ以上何かをしてほしいわけじゃない」
「ええ」
「母親と呼んでほしいとか、そういうことでもない」
「ええ」
エルフリーデは、それからもう何も付け加えなかった。
ランズベルクは背もたれへ身体を預け、膝に掛けていた上着を引き寄せた。
「この話、誰にもしないで」
「いたしません」
返事を聞くと、エルフリーデは毛布を肩まで引き上げた。ランズベルクは明朝の時刻をもう一度確かめようとして、足元の鞄を膝へ載せた。
「伯爵。あなたの手帳にも、書かないでね」
ランズベルクは鞄の留め金を閉じた。
「ええ。書きません」
――「それでは、皇帝陛下の最期についてお話しいたしましょう」
次回、『道が開いたら(前編)』
※作中でランズベルクが語る『サイラス・マーナー』は、ジョージ・エリオット作『Silas Marner: The Weaver of Raveloe』(William Blackwood and Sons, 1861年)。