銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第八十一話「道が開いたら(前編)」(新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月)

【救難艇到着まであと六時間】

 

【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月十八日 六時三〇分 リオ・ヴェルデ星系 惑星アロヨ・ド・モリノ セラ・ノルテ地方】

 

夜が明けてまもなく、エルフリーデ、イルゼとランズベルクの三人は農産物集荷場を離れた。

イルゼが車を運転し、ランズベルクは助手席で折り畳んだ道路図を広げている。

 

車載航法は通信を切ってあり、交通管制網への現在地照会も経路更新も使えない。端末に保存しておいた地図と、紙の道路図だけが頼りだった。

 

後席のエルフリーデは毛布を腰まで掛けて横になっていた。昨夜より顔色は戻っていたが、車を出す前に身体を起こしただけで息が切れ、イルゼに背を支えられて、もう一度座席へ横になった。

 

バーラトの救難隊に指定された端末への接続時刻の少し前、小さな町へ入った。共同市場の脇に公衆端末があり、向かいには買物客のための駐車帯もある。

 

イルゼは端末から見える位置に車を停め、エルフリーデの様子をランズベルクへ伝えた。熱はなく、意識もはっきりしている。車での移動は続けられるが、歩くことは当てにしないでほしい、と念を押した。

 

「ずいぶんな言われようね。本人が目の前なのに」

エルフリーデが目を開けた。

 

「今朝も起き上がるだけで息が切れました。着いてから歩いて宇宙船に乗れと言われても無理でしょう」

 

エルフリーデは反論せず、肩の下に敷いた上着の位置を直してもらった。ランズベルクは本日分の薬があることまで確認して、手帳を閉じる。

 

ランズベルクが公衆端末へ向かう間に、市場の店々では日除けを広げ始めていた。彼はバーラト自治政府の用意した一時連絡箱へ接続し、認証を済ませると、エルフリーデの身体状態と薬の残量、現在もセラ・ノルテ地方にいることを送った。

 

受信の表示を確かめてから車を振り返る。イルゼはこちらを見ており、彼が頷くと、後席のエルフリーデへ何か話しかけた。

 

 

***

 

 

【同時刻 リオ・ヴェルデ方面 教国支配域外縁 バーラト救難隊 前進母船】

 

バーラトの前進母船の格納区画では、救難艇へ積み込む医療器材の最終確認が続いていた。

カリンは搬送寝台の固定具を一本ずつ引き、エルフリーデを載せた状態でも解除操作に手が届くかを確かめている。

 

保安局の担当官が、医療班の医師とともに入ってきた。係官は封をした透明袋を手にしていた。

中にあるのは、ヨーゼフを収容した救難訓練艇の通路で、教国治安部隊の要員が落とした投薬機だった。

 

医師が分析結果を端末へ表示した。

「一度作動させると、あらかじめ設定された量が入る型です。体格やそのときの身体状態に合わせて、現場で量を調整するものではありません。現在分かっているコールラウシュ女史の状態では、使わせたくありません」

 

「もし使われたらどうなりますか?」

 

「眠らされるだけで済まない可能性があります。呼吸や循環まで落ちれば、生命に関わります。普段服用している薬を完全には把握できていないことも気になります」

 

カリンは袋の中の投薬機を見た。

「使われた場合に備える薬は積めますか」

 

「分析できた成分に対する拮抗薬は用意します。呼吸補助もできます。ただ、それで必ず元へ戻せるとは言えません」

 

「分かりました。使う場合の手順も一緒にください」

 

医師は頷き、艇内へ積む器材をカリンと確認した。

係官が投薬機を持ち帰ったあと、医療器材の棚には小さな薬剤箱が一つ増えていた。

 

 

***

 

 

ユアン・ウォードが統括するバーラト救難隊の前進母船は、教国が指定する支配域のすぐ外側、接境宙域まで進出していた。母船は越境せずにここで待機し、ポプランとカリンを乗せた救難艇だけを切り離す。

 

惑星上でエルフリーデとイルゼの二人を収容したあとも、救難艇は母船には戻らない。

そのまま教国支配域を抜け、境界外に設定された受領地点へ向かい、そこで帝国の受領艦と合流して拾われる計画だった。

 

前日までに、セラ・ノルテ地方の着陸候補は四か所まで絞られていた。旧採石場跡、林業用作業場、地方道路の廃工区、それに山岳道路建設時の資材集積場である。

 

候補地は、教国建国以前に帝国が管理していた星系総督府の道路台帳や工事記録から拾ったものだった。そこへ境界外の帝国観測艦が長距離観測により取得した可視光と赤外域の地表画像を重ね、舗装面が残っているか、車両の進入路が塞がれていないか、周囲に新しい建物が増えていないかを確認して選定した。

 

『エルフリーデさんは、歩行できない前提で考えて。搬送台を車まで持っていける場所にしてほしい』

救難艇からカリンの返答が入った。

 

「候補地のうち、資材集積場であれば、舗装面の中まで車を入れられます」

ユアンは艇の大きさを重ねた図面を送り、車との間に十分な作業幅を取れることを確認した。

旧採石場は路面が荒れ、ほかの二か所には搬送距離や進入路の勾配に難がある。第七工区の旧資材集積場は、大型掘削機や運搬車を並べていた場所で、エルフリーデの乗る車を救難艇のすぐそばまで寄せられた。

 

救難艇の操縦席では、ポプランも同じ図面を開いていた。

 

『谷側から入るぞ。車は舗装面の端だな』

 

「その予定です」

 

『扉をそっちへ向けて降ろす。台を押す距離も短くできる』

 

運航担当者が予定時刻の欄を見た。

 

「収容時刻は十三時四十分のままでいいのでしょうか?日没後まで待てば、地上からは見つかりにくくなります」

 

ポプランは地形図から顔を上げた。

 

『目で見るぶんにはな。ただ、夜になれば山肌も舗装も冷える。低空へ入ってから熱源監視に掛かれば、こっちの方がかえって浮く。昼なら日向の岩も路面も温まってる。暗けりゃ何でも隠れるってわけじゃない』

 

「夜の方が有利とは限らないのですか?」

 

『ああ。それに、こっちは本来なら外へ捨てる熱を抱えたまま降りるからな。熱源監視で丸見えだ』

 

カリンも回線へ入った。

 

『それに、エルフリーデさんは朝の時点で、起き上がるだけで息が切れてるみたい。暗くなるまで車の中で待たせたくないわ。十三時四十分に行けるなら、そのままでお願い』

 

ユアンは時刻を変更しなかった。

 

「では、第七工区。十三時四十分着陸で確定します」

 

カリンの了解が返ると、ユアンは進入路を添えて地上側へ最終通知を送った。

 

ほどなく受領確認が返った。

 

ユアンは時計を見た。収容予定まで、まだ六時間近くある。このあとポプランとカリンは二人だけで境界を越え、救難艇一隻で教国支配域の奥へ入る。

 

「地上側への送信、完了しました。分離後、こちらからの呼び出しは行いません。帝国側の観測更新だけを所定の回線へ流します」

 

『了解』

 

ポプランの声が返った。

 

 

***

 

 

【〇七時〇〇分 惑星アロヨ・ド・モリノ セラ・ノルテ地方】

 

 

公衆端末に新しい文面が現れた。ランズベルクは収容時刻を先に読み、それから簡略図を開いた。

地方道一七号線を北西へ進み、旧線へ分かれた先に、工事道路への入口が示されている。

 

――収容時刻 四月十八日十三時四十分。

――収容地点 セラ・ノルテ山地、旧山岳道路第七工区・資材集積場。

――地方道一七号線旧線より進入。

――到着後は舗装面の端に停車し、車内で待機されたし。救難要員が車両まで迎えに行く。

 

ランズベルクは分岐の数と道路番号を覚え、受領確認を返して接続を切った。

車へ戻るとすぐに道路図を広げ、イルゼに道順を示す。最後の分岐を指で押さえ、見つけ直せるよう紙の縁を折り込んだ。

 

「十三時四十分に、救難艇が来ます。山の中ですが、舗装された資材置き場まで車で入れます」

 

「そこまで、どれくらい?」

エルフリーデが訊いた。

 

「普通なら三時間ほどです。途中で休んでも間に合います」

 

イルゼは時計を確かめてから、道路図をランズベルクへ返した。

「次に停まれる場所も見ておいてください。山へ入る前に、もう一度休ませたいので」

 

ランズベルクが頷くと、イルゼは車を出した。市場へ入っていく荷物車を待ち、その後ろから街道へ戻る。

助手席では、ランズベルクが町を出て最初の分岐を探していた。

 

 

***

 

 

【〇七時三十分 惑星アロヨ・ド・モリノ セラ・ノルテ地方】

 

公衆端末の接続記録が上がったのは、三人が町を離れてから三十分も経たないうちだった。

 

北部地方の通信記録を調べていた〈耳目〉の要員が、四日前に別の町で拾った域外通信と、宛先側の中継先が一致していることに気づいた。内容と利用者の身元は、わからない。

 

現地班長は前日にワゴンを見失った地点と今朝の接続地点を並べ、夜のうちに車で移動できる距離であることを確かめた。

 

「三人が使ったものとして動く。付近の〈耳目〉へ知らせろ」

 

隣の要員が、端末のある町の位置を指した。

「この町へ集めますか?」

 

「いや、無駄だ。もう町を出たものと考えろ。先を予想して抑える」

 

班長は周辺の地形図を開いた。宇宙港を避けて病人を拾うならば、車で入れる場所に小型艇を降ろす可能性が高い。

 

道路沿いの工事跡や採石場を調べ、候補を四か所へ絞る。

 

「セラ・ノルテで拾うとすれば、この四か所のどれかだろう。全地点へ班を置くのが最善だが、今、その人数はない。時間もない。候補地に通じる道の入口で、張る。急げ」

 

候補地に通じる道へ、近隣にいた〈耳目〉が向かった。前日に三人を追っていた車にも接続地点が伝えられ、南から追い上げを再開する。

班長は四つの候補地点を残した地図を担当者へ送り、各班からの報告を待った。

 

 

***

 

 

【リオ・ヴェルデ方面宙域 バーラト前進母船】

 

救難艇のハッチを閉じると、格納区画の音が遠くなった。

カリンは後部区画で搬送台を固定し、薬剤ケースを床面の収納部へ押し込んだ。呼吸補助器具の表示が安定したのを確かめてから、操縦席へ顔を出す。

 

「こっちは終わったわ。着いたら車まで台を持っていくから、乗るときに急がせないでよ」

 

ポプランは拘束具を締めながら横を見た。

「追手が来ても、だな」

 

「ええ、来てもよ。ヨーゼフを拾ったときに相手にした連中程度なら、白兵戦装備なんかなくても、五人くらいまでは、あたし一人でお釣りがくるわ」

カリンは口の端を上げた。

「だからエルフリーデさんを急がせる必要はない。立たせて倒れたら、そっちの方が面倒よ」

 

整備員が最後の外部接続を外し、艇は自前の電源へ切り替わった。ポプランは蓄熱装置の余裕を確認し、予定航程を表示した。

外へ捨てる熱を抑えられる時間には限りがある。哨戒の薄い区間を通り、大気圏へ入るまで、余計な機動はできるだけ避けたかった。

 

船内回線へユアンの声が入った。

『地上側は最終地点を確認しています。帝国側からの観測更新も転送しました』

 

ポプランは新しい宙域図を開いた。

帰路には三つの合流候補点があり、いずれも教国支配域の外側だった。離脱する方向に合わせ、帝国軍の受入れ艦が境界外での受け入れに動く。

 

「受け取った。変更が出たら、そっちで回してくれ」

 

『分かりました』

 

格納扉が開くのに合わせて収容架の固定が外れた。ポプランは姿勢制御を入れ、母船の床からゆっくり離れると、しばらく同じ針路を保ってから惑星へ向けて進路を変えた。

 

教国の支配宙域へ入る前に、通信は必要なものだけに絞った。

 

教国の監視網にまったく映らずに済むとは考えていない。救難艇の低観測装備の役目は、弱い反応を一隻の航跡として結ばせず、所属と目的を特定されるまでの時間を稼ぐことだった。

 

二人を収容して惑星から離陸した瞬間、状況は変わる。

地上から離陸地点と時刻を通報され、それまでの観測記録と照合されれば、断片的な観測データを一本の航跡としてつなげられる可能性が高かった。

 

それまで見つからなければ良い、そう割り切っていた。

 

*

 

惑星アロヨ・ド・モリノへ近づいたところで、ポプランが前方の表示を拡大した。

「一隻、教国艦が予想よりも惑星寄りに来てるな」

 

帝国側が追っていた教国の小型哨戒艦だった。

前回の観測位置と速度からなら、救難艇の降下予定線より外側を通るはずだったが、最新の観測点はそこから惑星側へずれている。

 

このまま降下を始めれば、数分後には互いの進路がかなり近づき発見される可能性がある。

今はまだ向こうがこちらを捕捉した様子はない。哨戒艦は予定していた巡回を続けていた。

 

後ろからカリンが訊いた。

「まだ減速には入らないの?」

 

「少し待つ。あの哨戒艇を先に横切らせる」

 

ポプランは前方表示を指した。教国の小型哨戒艦を示す光点が、救難艇の降下予定線を横切るように動いている。

 

「今降りれば、あいつのすぐ近くを通ることになる。こっちが余計に動くより、向こうに先へ行ってもらった方が早い」

 

救難艇は針路を変えず、惑星の外縁を浅くなぞるように進んだ。

 

能動探査は使えない。こちらから見えている哨戒艦の位置も、帝国側が最後に送ってきた観測と、自艇が拾う受動情報を重ねたものだった。ポプランはその光点と、画面上に引かれた降下予定線だけを見ていた。

 

時刻が進んでいく。

 

十三時四十分までの余裕が、少しずつ削られていった。

 

カリンはもう催促しなかった。後部区画へ戻らず、操縦席の後ろで表示を見ている。

やがて哨戒艦の光点が予定線を横切った。

 

まだ近い。

 

ポプランは動かない。

 

もう一度、位置が更新された。哨戒艦は惑星側を離れる方向へ進み、救難艇との距離が広がり始めた。

 

「……よし」

 

ポプランの手が動いた。

 

「行くぞ」

 

救難艇の艇首がゆっくり惑星へ向いた。

 

それまで黒い円弧にしか見えなかったアロヨ・ド・モリノの縁が、前方いっぱいに広がっていく。

ポプランは一気に落とさず、上層大気へ浅い角度で艇を入れた。

 

最初は何も起こらなかった。

 

数秒して、船体のどこかから低い振動が伝わってきた。

 

空気が艇を捉え始めている。

 

ポプランは減速を強めず、そのまま長い距離を使った。

急激に速度を殺せば、それだけ姿勢制御も放熱も目立つ。艇は大気の薄い層を滑りながら、少しずつ速度を落としていった。

 

操縦席の端で、蓄熱表示が上がっていく。

 

外へ捨てるはずの熱を、艇の内部へ抱え込んでいる。

表示は警告帯へ近づいたが、ポプランは放熱を始めなかった。

 

後ろからカリンが訊いた。

「あと、どれくらい持つ?」

ポプランは蓄熱表示と残りの降下距離を見比べた。

「着地までは持たせるさ。帰りは客が二人増える。そこからが腕の見せどころさ」

 

カリンは鼻で笑った。

「その腕、ちゃんと帰りまで取っておきなさい」

 

「注文の多い客だ」

カリンは短く笑って、後部区画へ戻った。

 

 

***

 

 

【救難艇到着まであと四十分】

 

【同日十三時 惑星アロヨ・ド・モリノ セラ・ノルテ山地】

 

町を出てから二度休み、三人は地方道一七号線を山へ向かっていた。道は登るにつれて狭くなり、谷側には古い防護柵と舗装の補修跡が続いている。

 

後席のエルフリーデは目を閉じていたが、カーブが続くたびに座席へ添えた手に力が入った。

 

「……エルフリーデ様、少し停まりましょう」

 

エルフリーデは目を開け、助手席のランズベルクへ訊いた。

「あと、どれくらい?」

 

「旧線への分岐まで十五分ほどです。そこから資材置き場まで、二十分少々」

 

「それなら行きましょう。無理になったら言うわ」

 

イルゼは鏡で顔色を確かめ、速度を上げずに進んだ。ランズベルクも急ぐようには言わず、道路図の折り込んだ箇所を開き直す。

次のカーブを回ると谷の向こうに道路が見え、その先は木立に隠れていた。

 

*

 

旧林道の入口で待機していた〈耳目〉の二人は、谷沿いの道を上ってくる灰色のワゴンを見つけた。

 

助手席の男が車両資料を開き、すれ違うあいだに番号を読み取る。番号も車種も一致した。ワゴンの運転席には女、助手席には男がおり、後席にも人影がある。

 

ワゴンが通り過ぎると、〈耳目〉の女はすぐ現地班長へ連絡した。

「該当する車両を確認しました。三名が乗っていると思われます。北西へ向かっています」

 

『位置を送れ。先へ回って止めろ』

 

女は地図を開き、旧線へ先回りできる下の連絡路を指した。このまま後ろについて追うより、そちらを使った方が早い。

 

旧線の先では道が二つに分かれていた。一方は採石場跡へ、もう一方は第七工区の資材集積場へ続いている。

 

「連絡路から先回りできます」

 

『近くに一名、〈耳目〉がいる。途中で拾え。採石場か第七工区だ。どちらへ行くにせよ、その手前で止められる』

 

女は車を発進させ、ワゴンとは反対の方向へ坂を下った。助手席の男は合流する要員へ停止地点を送り、簡易遮断具を用意するよう伝える。

 

二人が連絡路を走っているころ、灰色のワゴンは旧線へ入る案内標識の前まで来ていた。

 

*

 

「次です。右へ」

ランズベルクが道路図から顔を上げた。

 

イルゼは、古い地名の下に小さく〈旧線〉と書かれた標識を確かめてハンドルを切った。舗装の色が変わり、道の両側から木々が近づいてくる。

対向車は見えず、後席のエルフリーデも窓へ目を向けた。

 

「ずいぶん静かなところね」

 

「その方が都合がいいのでしょう」

ランズベルクは答え、資材置き場までの曲がり角を数えた。

 

*

 

〈耳目〉の二人は、道路脇で待っていた男と合流した。

男は地元の保守会社の作業服を着ており、車から工事用の折り畳み式遮断柵を下ろしていた。

 

「対象車両は、あと十分前後でここに到着します。保守車両を退避帯へ入れてください」

 

男が車を動かす間に、女はもう一人へ人物資料を渡した。

いまここにいる〈耳目〉は三人だけだったが、周辺の〈耳目〉にもすでに召集がかかっている。

あと一時間もすれば、近隣の町や施設から後続が次々に到着する見込みだった。

 

それまで三人をここに留めておけばいい。

 

女は車両番号と三人の顔をもう一度確認し、相手の車を停めたまま待たせる手順を確かめると、それぞれ道路の両側へ分かれた。

 

*

 

救難艇は山地の外側まで降りていた。

 

ポプランは地形表示を拡大し、朝に確認した資材集積場への進入線を呼び出した。山腹の形と道路を重ねると、着陸地点はまだ尾根の向こうにある。

 

後部では、カリンが搬送台の固定を外し、ハッチが開けばすぐ押し出せる位置まで寄せていた。

 

「あと十三分」

 

ポプランが言った。

 

「間に合わせて」

 

「問題ない。女を待たせる趣味はないさ」

 

艇はさらに高度を下げ、山腹の陰へ入った。

 

 

***

 

 

【救難艇到着まであと十三分】

 

【同日十三時二十七分 セラ・ノルテ山地 地方道一七号線旧線】

 

木立の切れ目に赤い標識が見え、ランズベルクは道路図を膝に伏せた。

工事用の遮断柵が二本あり、その横に三人が立っている。退避帯には保守車両らしい一台が停まっていた。

 

「誰かいます」

 

「……道路工事かしら?」

イルゼは速度を落とした。

 

中央にいた女が止まるよう手を上げたので、イルゼは柵の数メートル手前でブレーキを踏んだ。

女は運転席の窓へ歩み寄り、イルゼの顔を確かめてから助手席へ視線を移した。

ランズベルクと目が合っても表情は動かず、聖廉院の身分証を示す。

 

「アルフレット・フォン・ランズベルク伯爵ですね。聖廉院の者です。エンジンを切って、三名とも車内でお待ちください」

 

声は丁寧だったが、抑揚がほとんどなかった。命令口調でも威圧的でもない。

ただ、相手が従うことを最初から前提にしているような話し方だった。

 

イルゼはエンジンを止めたが、窓を大きく開けようとはしなかった。

「何の確認ですか」

 

「エルフリーデ・フォン・コールラウシュ女史の所在確認です」

 

女は同じ調子のままイルゼを見た。

 

「あなたは、イルゼ・ヴァイゲルトさんですね」

 

「……そうです」

 

「ありがとうございます。そのままお待ちください」

 

後席でエルフリーデが目を開けた。女がその顔を確認すると、助手席側に回った男も端末の写真を照合する。

道路脇に残ったもう一人は、車両と三名を発見したと本部へ報告し始めた。

 

ランズベルクは、自分が聖録院に招かれた参考人であることと、正式な滞在資格を持つことを告げた。

 

男は承知していると答えたが、道を開ける気配はない。

道路図では、目的地の資材集積場まであと数キロの位置だった。

 

「女史はご病気です。ご本人も、教国による保護を望んでおりません」

 

「ご本人の希望を確認するのは、私の職務ではありません。三名とも車内でお待ちください」

声には相変わらず抑揚がなかった。

 

「従わない場合は、鎮静措置をとります」

 

男は腰のケースから細い投薬器を抜いた。

透明窓の奥に、薬剤の入ったカートリッジが収まっている。

威嚇するように構えたわけではない。

イルゼたちに見える高さまで持ち上げ、従わない場合に何をするのか事実を示しただけだった。

 

「こちらを使用します」

 

エルフリーデの視線が、投薬器で止まった。

ランズベルクもそれを見た。

「……病人にそれを打つ気ですか?」

 

「従わないようであれば」

 

ランズベルクの目が投薬器へ落ちた。

「どのような成分の薬剤です」

 

「その説明は受けていません」

 

「女史は衰弱しています!もし肝臓や腎臓の機能が落ちていれば、薬剤の代謝も排泄も遅れるでしょう。呼吸が抑えられた場合はどうなさるのです!」

 

男はランズベルクを見た。

「知りません」

 

「知らない?」

 

「私は投薬の要否を判断し、必要なら使用するよう指示されています。その後の医療処置は、私の職務ではありません」

 

「……投与量は、対象に合わせて変えるのですか?」

 

「いいえ」

 

「体重も、服用している薬も確認せずに?」

 

「それも私の職務ではありません。従えば使用しません」

男は投薬器をケースへ戻した。

「従わなければ、使用します。それだけの話です。車内でお待ちください」

 

道路脇から、後続の到着までの数十分、三人をここに留めるようにとの指示が伝えられた。

男が頷くと、ランズベルクは道路図を助手席の端へ置いた。女は運転席を、男はこちらを見ており、柵のそばへ出ていくこともできそうになかった。

 

ランズベルクは道路図へ目を落とした。

 

資材集積場まで、もう数キロだった。迎えももうあと十分足らずで来る。

とても話し合って通してもらえそうな相手ではなかった。

 

彼は助手席の扉へ手を掛けた。

すぐには開けなかった。

イルゼが横から彼を見た。

「伯爵?」

 

ランズベルクは答えず、フロントガラスの向こうに立つ三人を見た。

 

考えないようにしてきたことがある。

思い出しても、十年以上そこから先へは入らないようにしてきた領域がある。

 

ランズベルクは一度、目を閉じた。

 

最初に浮かんだのは、記憶ではなかった。

 

自分の手記だった。

 

幼帝が逃げたあと、何か別のものを皇帝だと信じ、書き継いだ死の数日間。

閉じた扉も、食事を取らなくなった少年も、夜ごと呼吸を確かめたことも、朝になって動かなかった身体も、いまの彼には何であったか分かっている。

 

記憶ではなく、文字だった。

 

そのはずだった。

 

だが、頁を思い浮かべているうちに、文字の向こうに部屋が浮かび上がってきた。

 

扉の色が見えた。

卓上に残された食器があり、冷えた匙の重さが指先へ戻ってくる。夜の部屋の空気まで思い出せるような気がした。

 

――開けろ!余をここから出せ!

 

扉の向こうから、少年の声がした。

 

ランズベルクは目を開けた。

 

フロントガラスの向こうには、山道と遮断柵と、三人の〈耳目〉がいる。

まだ、こちら側にいた。

 

イルゼが小さな声で訊いた。

「どうします?」

 

ランズベルクはすぐには答えなかった。

後席を見る。

 

エルフリーデも彼を見ていた。

 

その視線を受けてから、ランズベルクはイルゼへ身体を寄せた。

「私が道を開きます」

 

「どうやって?」

 

彼は一度だけ口を閉じた。

「……このあと私が何を言っていても、何をしていても、構わないでください」

 

イルゼの表情が変わった。

ランズベルクは続けた。

「道が空いたらすぐ、行ってください」

 

「何をなさるおつもりですか?」

 

ランズベルクは答えなかった。

扉の取っ手を握った手に、わずかに力が入る。

「伯爵!」

 

「大丈夫です、とは今度ばかりは申し上げられません」

そこで初めて、ランズベルクはイルゼを見た。

 

「ここでお別れです」

 

彼はもう一度、目を閉じた。

それから助手席の扉を開けた。

 

男がすぐに寄ってきたので、ランズベルクは両手を見せながら道路へ降りた。靴底が路面につき、扉が背後で閉じる。

 

その瞬間だった。

 

「……それでは、まず皇帝陛下の最期についてお話しいたしましょう」

 

男の足が止まった。

 

「長くなりますよ。……なんといっても、銀河の歴史ですからね」

 

ランズベルクは微笑んだ。

数日前、図書館で子供たちを相手に歴史を語り始めたときと同じ、少し得意そうで人のよい笑みだった。

 

ただ、その目は違っていた。

 

その目を、男は聖園で何度も見たことがあった。

まだ名を呼べば振り向くのに、もう別のものを見始めていた者たちの目だった。

焦点は合っている。こちらも見えている。問いかければ答えもする。

 

それなのに、その奥では、もう別の世界を見ていた。

 

男は理由もなく、半歩だけ重心を後ろへ移した。

【挿絵表示】

 

 




――「あたし、ここで余計な正義を始める気ないの」

次回、『道が開いたら(後編)』
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