【救難艇到着まであと十三分】
【同日十三時二十七分 セラ・ノルテ山地 地方道一七号線旧線】
「……なんといっても、銀河の歴史ですからね」
ランズベルクの声は穏やかだった。
大きくもないし、震えてもいない。ただ、それまで男と話していたときとは、声を向ける場所が違っていた。
「……何のお話ですか?」
「何の?エルウィン・ヨーゼフ二世陛下のお話にきまっているではないですか。臣がずっとそばにおりましたから、よく覚えております。ええ、臣が一番覚えているのです」
イルゼは運転席からランズベルクを見た。
実際の幼帝は、ランズベルクのもとから逃げ延びている。
その後のランズベルクは、別の何かを皇帝だと信じ、その少年が衰弱して死んでいくまでの妄想の日々を手記に書いていた。そのはずであった。
「陛下は、お外へ出たがりました。外は危険ですと、臣は何度も申し上げたのですが」
ランズベルクの視線が、男の肩越しへ移った。
「ああ、陛下。そちらではありません」
急に手を伸ばした。
何もないところで指が閉じる。そのまま腕が少し引かれ、逃げようとする小さな手を掴み直すように、もう一方の手まで添えた。
「お待ちください、陛下。転びますよ」
ランズベルクは腰を落とした。目の前にいるはずの少年と顔の高さを合わせ、困ったように笑う。
「分かっております。お外へ出たいのですね」
何かを言い返されたらしい。
「ですが、なりません。お外は危険ですから」
男が車へ戻るよう促した。
ランズベルクは一度だけ男を見た。
その目には、何の濁りもなかった。
「誘拐?何を仰いますか。救出です。歴史上の事件には、立場によって呼称が異なるものがありますから」
数日前、図書館で子供たちを笑わせたのと同じ言葉だった。
ランズベルクは、誰もいない場所へ困ったように微笑んだ。
「陛下にも、いずれお分かりいただけます。それまで、この不肖ランズベルクめが御傍に侍っております。何年でも、何十年でも。もう、二度と、お一人にはいたしません。永遠に」
男の足が、わずかに後ろへずれた。
ランズベルクの声には、脅しも怒りもなかった。
本当に、それが少年のためだと心から信じている声だった。
イルゼの指がハンドルの上で止まる。
男も返事をしかけたが、その前にランズベルクの目はもう別の場所へ戻っていた。
「さあ、陛下。もうお部屋へ戻りましょう」
少年の背へ腕を回したらしい。もう片方の手で肩を支え、嫌がる身体を無理に引かないよう、少しずつ向きを変えていく。
「そのように暴れては、お怪我をなさいます」
声には苛立ちがなかった。
妙にやさしかった。
ランズベルクはしばらく、逃げようとする少年を宥めていた。両腕の中にいるはずの身体がなお激しく身を捩ったらしく、彼の肩が二度、三度と揺れる。
「困りましたね」
そのとき、目つきが変わった。
ほんの一瞬だった。
笑みは消えていない。声も穏やかなままだった。
ただ、少年を見下ろす目の奥に、ぬるい光が宿った。
「仕方がありませんね」
ランズベルクは片手で少年を押さえたまま、上着の内側へ手を入れた。
何かを取り出した。
細い筒だった。
少なくとも、彼にはそう見えているらしかった。
親指で端を確かめ、手首を返し、先端を見た。慣れた者が薬剤のカートリッジを確認するような、無駄のない動きだった。
男は、その空の指先を見ていた。
そこには何もない、はずであった。
ランズベルクはカートリッジを器具へ差し込むように両手を合わせた。小さく捻り、押し込み、最後に指先で何かを弾いた。
「少しだけ眠りましょう、陛下」
腕の中の少年が、激しく抵抗した。
そのように見えた。
ランズベルクの上体が揺れ、押さえている腕へ力が入る。
「ああ。いけません」
少年の手を捕まえたらしい。
「動いてはいけません。動くと痛くなりますよ」
ひどくやさしい声だった。
ランズベルクは片膝をつき、逃げる身体を自分の胸と腕の間へ閉じ込めた。片腕を抱え込み、袖をまくるように手を動かす。
女の喉が、わずかに鳴った。
何もない。
何もないはずだった。
それでも、押さえつけられた細い腕が見えた気がした。
「すぐに、終わりますから」
ランズベルクは笑っている。
次の瞬間、何も持っていない右手を、少年の腕へ押し当てた。
親指がゆっくり沈んだ。
少年が暴れたらしい。
ランズベルクは身体を押さえ込み、顔を寄せた。
「しっ。しっ。大丈夫です」
しばらく、その姿勢のままだった。
やがて抵抗が弱くなった。
ランズベルクの腕から力が抜けていく。
「ほら」
安堵したように微笑んだ。
「最初から、こうしておけばよかったのです」
それから、ふと困った顔になった。
眠り始めた少年の髪を撫でるように、何もないところへ手を滑らせる。
「……陛下がお悪いのですよ」
責める声ではなかった。
むしろ、許してやるような響きだった。
「おとなしくしてくださらないから、臣がこんなことをしなければならなくなるのです」
男の足が、また半歩下がった。
本人は動いたことにも気づいていなかった。
ランズベルクは腕の中の少年を抱き直し、頬へかかった髪でも払うように指を動かした。
「でも、もう大丈夫です」
微笑む。
「お目覚めになったころには、きっと落ち着いておられます」
そのまま何もない場所まで少年を運び、片手を伸ばした。
取っ手を回す。
扉を開けた。
「どうぞ」
身体を横へずらし、誰かを先に通すのではなく、今度は眠った少年を抱いたまま自分から中へ入った。
道路の上には、もちろん部屋などなかった。
そこにあるのは古い舗装と雑草だけだったが、ランズベルクはたしかに少年を抱いて部屋へ入り、背後の扉を閉めた。
最後に鍵を掛けるように手を動かした。
男はその指先を見ていた。
音などするはずがない。
それでも、鍵の金具が小さく噛み合ったような気がした。
「これでよろしい」
ランズベルクは安堵したように息を吐いた。
運転席側の女が呼んだ。
「ランズベルク伯。車へ戻ってください。……お願いします」
返事はない。
ランズベルクは数歩進み、そこに卓でもあるように腰を屈めた。何かを取り上げ、左手を下へ添える。
小さな匙だった。
少なくとも、指はそういう形をしていた。
「陛下。お食事の時間でございます」
手を差し出した。
少年の口元らしい高さで止める。
長く待ってから、少し角度を変えた。
「一口だけでも。ほら、これだけでございます」
拒まれたらしい。
ランズベルクの眉尻が下がった。
「お気に召しませんか」
匙を引き、今度はもっと近くへ運んだ。
「朝も召し上がらなかったでしょう。昼になればお腹も空くと思っていたのですが」
男がランズベルクへ一歩近づいた。
「伯爵、もう――」
「無礼者!!」
山道に声が響いた。
ランズベルクが振り返った。先ほどまでの困ったような笑みは消え、目がぎらついている。
「下賤の身で、陛下の御前へ近づくか。控えよ!身の程をわきまえぬか!!」
男の足が止まった。
「その穢らわしい手を、はよう下げよ!!陛下に触れることなど、貴様ごときに許されておらぬわ!!」
しばらく男を睨みつけていたが、ランズベルクはふいに表情を緩めた。
「……申し訳ございません、陛下。騒がしくしてしまいましたね」
声は、もう元のやさしさに戻っていた。
見えない匙を持ち直す。
「さあ。もう一口だけ召し上がりませ」
手を動かす。
待つ。
やがて匙を置いた。
「……夕方も、駄目ですか」
ランズベルクの視線が、目の前にいるはずの少年の顔からゆっくり下がった。頬から肩へ、腕へ、膝へと、痩せていった身体を確かめるように。
「ずいぶん、お痩せになりましたね」
女が、その視線の先を見た。
誰もいない。
それは分かっていた。
だが、空の椅子に座る少年の細い膝が、一瞬だけ見えたような気がした。
女は目を瞬いた。
道路しかなかった。
ランズベルクはまだ少年を見ていた。
「寒いですか?」
返事を聞いてから、毛布でも直すように両手を動かした。
「もう一枚、お持ちしましょう」
男は再びランズベルクへ近づいた。
今度は二歩まで来たところで、ランズベルクが顔を上げた。
何かを聞いている。
風が葉を鳴らしていた。
それだけだった。
ランズベルクの目は、さきほど閉じたはずの扉へ向いている。
「……またですか」
困ったように笑った。
「扉を力いっぱい叩かれましてね。臣に開けろと仰るのです」
耳を澄ませる。
「何度も、何度も。」
男まで音を待っていた。
何も聞こえない。
「何度も、何度も。何度も、何度も」
何も聞こえないはずなのに、ランズベルクが静かに首を振ったとき、男は扉の向こうで小さな拳が止まったような感覚を覚えた。
「いけません」
ランズベルクは誰もいない場所へ声を落とした。
「陛下のためですから」
指先が、扉の表面を撫でるように動いた。
男はその手首を掴もうとした。
手が届く直前、ランズベルクが屈み込んだ。
男の腕が止まる。
ランズベルクは床に横たわる誰かの背へ片腕を差し入れ、もう片方を膝の下へ回した。首が落ちないよう、いったん手の位置を直してから抱き上げる。
腕の中には何もなかった。
なのに、途中で重みが変わった。
ランズベルクの肘がわずかに沈み、受け止め損ねた頭を支えるように掌が上がった。
「そのうち、お静かになりました」
彼は腕の中を見下ろしていた。
「ようやくお分かりいただけたのだと、臣は思ったのです」
通信を終えたもう一人の男も、その手つきを見た。
何もない。
三人とも分かっている。
それでも、首の力を失った少年が腕の中にいるとしか思えなかった。
「ずいぶん軽くなられました」
ランズベルクは抱き直した。
「以前は、こんなに簡単には抱けなかったのですが」
その言葉のあと、掌が後頭部へ回る。
「お首を支えませんと。もう、ご自分では……」
声が途切れた。
ランズベルクは頬を寄せた。
腕の中にあるはずの口元へ、耳を近づける。
しばらく、そのままだった。
男は自分が呼吸を止めていることに気づかなかった。
「夜は何度も、こうして確かめました」
ランズベルクは小声で言った。
「息をしておられるか、心配でしたから」
耳を澄ませる。
長い時間が過ぎたように感じられた。
やがてランズベルクの顔に、ほっとしたような笑みが戻った。
「大丈夫。しておられます」
その瞬間、最初の男の踵が動いた。
半歩。
本人にも理由は分からなかった。
聖園で、驚くことも、嫌うことも、怖れることも、ずいぶん前に削られていた。
それらに名前を与えて立ち止まる習慣も、ほとんど残っていない。
それでも身体が退いた。
皮膚の内側を、冷たいものが這った。
ランズベルクがこちらへ一歩寄ったからだった。
腕の中の何もないものと一緒に。
男はもう半歩、道を譲った。
女も動いた。
女史の乗る車から離れるつもりはなかったはずなのに、ランズベルクが抱いているものの頭が自分の肩へ触れそうになった瞬間、身体が先に横へずれた。
ランズベルクは気づいていなかった。
彼は足元を見て、子供を下ろす場所を確かめていた。頭を支える手だけを最後まで残し、背を横たえ、胸元へ毛布を掛ける。
男はそこへ足を置けなかった。
何もない道路の一角を避けて、回り込んだ。
「その晩は、臣も少し眠りました」
ランズベルクは立ち上がった。
「朝になってカーテンを開けると、よい天気でした」
木々の間から差す光を見上げる。
それから寝台へ向き直り、袖口を引いて身なりを整えた。
「陛下、朝でございますよ。そろそろ起きませんと」
微笑んでいる。
返事がない。
ランズベルクは腰を屈め、顔を覗き込んだ。
「陛下?」
もう一度。
今度は少し近くから。
「……陛下?」
肩へ伸ばした手が、途中で止まる。
表情は変わらなかった。
首筋へ指を添えた。
待った。
男たちは誰も動かなかった。
ランズベルクの指が、ゆっくり離れた。
「ご崩御です」
声は静かだった。
悲鳴も震えもなかった。
ランズベルクは少年の胸元を整え、乱れた髪を払うように手を動かした。そのあと左の掌を開き、そこへ右の指を寄せる。
文字を書いている。
「三月。陛下、衰弱のため崩御」
一字ずつ確かめるように指が動く。
「臣は、そう記しました」
その言葉だけは、妙に明晰だった。
男がランズベルクを見る。
視線が合った。いや、合わなかった。
ランズベルクはすぐに寝台の方へ顔を向けた。
「陛下、お寒くはありませんか」
女の顎が引かれた。
死んだと言ったばかりだった。
それなのに、声には何の違いもなかった。
ランズベルクは毛布の端を折り込み、肩まで掛けてやる。
「もう、どこへもお出になりませんね。これからは、ずっと一緒でございます」
ランズベルクが安堵したように笑った。
男の胃の奥が縮んだ。
その感覚に名前はなかった。
ただ、身体はランズベルクへ近づくことを拒んだ。
いや、目の前の男ではない。
その腕の中にいるものへ。
ランズベルクが両腕を差し入れた。
「臣がお連れいたしましょう」
死んだ少年を、愛おしそうにもう一度抱き上げる。
「ずっとそばにおりますから。今度こそ」
頭を支える。
身体を胸へ寄せる。
そして歩き始めた。
遮断柵の方へ。
最初の男は進路を塞ぐために立っていた。
そのはずだった。
ランズベルクが近づくにつれ、男の視線はその腕の中へ吸い寄せられていった。
あと一歩進めば、少年の足が自分の身体へ触れる――そんなものは存在しないと分かっているのに、接触する寸前、男の身体が勝手に横へ逃げた。
女も同じだった。
誰も声を上げず、顔にもほとんど何も出なかった。
ただ三人の立つ位置だけが、いつの間にかランズベルクから少しだけ遠ざかっていた。
遮断柵の前が空いている。
ランズベルクはそこで足を止めた。
腕の中の何かを庇うように身体を丸めたまま、柵を見て呟いた。
「……これでは、陛下がお帰りになれないではありませんか」
「伯爵!」
車の中からエルフリーデが叫んだ。
ランズベルクの顔は上がらなかった。エルフリーデは窓枠へ手を掛け、さらに身を乗り出した。
「アルフレット!! 戻ってきなさい!!」
彼の目が動いた。
ゆっくりと車の方へ向く。視線はすぐには定まらず、エルフリーデの顔のあたりを彷徨ってから、ようやく止まった。
エルフリーデは何も言わなかった。
ランズベルクの腕から力が抜けた。抱えていたはずのものを失ったように片方の手が開き、空の掌が小さく震えている。
彼はその手を見た。
次に、自分の前にいる男を見た。遮断柵へ目を移し、その向こうにできた空間を見た。三人とも、さきほどより自分から離れている。
その意味を理解するまでに、ほんの一瞬かかった。
ランズベルクが息を吸った。喉が鳴った。
「……お見苦しいところを」
掠れた声だった。
だが、その目はもう男を見ていた。
イルゼがハンドルを握り直す。
ランズベルクの視線が一瞬だけ彼女へ向いた。
「イルゼさん、今です!」
エンジンがかかった。
女が運転席へ向き直る。
ほぼ同時に、ランズベルクは自由な方の手を遮断柵へ掛け、身体ごと横へ倒すように引いた。
金属の脚が路面を擦り、甲高い音を立てる。
男もようやく意図を悟った。
「待て!」
ランズベルクへ飛びつき、肩を押さえる。
ランズベルクは振りほどこうとはしなかった。むしろそのまま自分の体重を落とし、片膝を路面につく。肩を掴まれても、柵を握った手を離さなかった。
金属の脚が、もう一度路面を滑った。
もう一本の脚が横へ滑った。
車一台が通れるだけの隙間ができる。
灰色のワゴンが動いた。
女が車体を避けて身を引き、もう一人が柵へ手を伸ばしたが遅かった。
イルゼは開いた幅だけを見てハンドルを切り、遮断柵にも人にも触れず、その間を抜けた。
車が旧線を上り始める。
後席のエルフリーデが振り返った。
ランズベルクは二人に押さえられ、片膝を路面についたままだった。
もう、何も抱いてはいなかった。
こちらへ手を振ることもなかった。
ただ、車がカーブの向こうへ消えるまで見送っていた。
女は最初に立ち直った。
「追います」
短く言い、逃げたワゴンの方向を本部へ送る。作業服の男へ保守車両を出すよう命じ、そのまま退避帯へ走った。
もう一人も後を追う。
ランズベルクの前には、最初の男だけが残った。
男は彼の両手を見た。
まだ震えている。
「伯爵」
反応はなかった。
「私の声が聞こえますか」
ランズベルクは路面へ目を落としていた。
男はもう一度呼ぼうとした。
その前に、ランズベルクが顔を上げた。
「ええ」
ひと息つく。
今度はきちんと男の顔を見た。
「今は、聞こえています」
***
灰色のワゴンがカーブを抜けても、イルゼはルームミラーを見ていた。ランズベルクはもう映っていない。
後席から「前を見て」と言われ、ようやく正面へ視線を戻した。
「……はい」
助手席には道路図が開いたまま残り、最後の分岐に折り目がついていた。イルゼは次の曲がり角で減速し、印と道を見比べて右へ入る。
舗装の継ぎ目は増えたが、重機が通っていた道らしく幅はあった。山腹を回ると木立が途切れ、その先に広い舗装面が現れた。
エルフリーデが窓の外を見た。
「ここね」
イルゼは道路図を確かめて頷いた。舗装の割れ目には草が伸びていたが、中央には何も置かれていない。
艇を降ろす場所を空け、端へ車を寄せて時計を見た。
「あと一分です」
エンジンは切らなかった。エルフリーデも降りようとはせず、二人で来た道を見ていた。
坂の下にはまだ車影がない。やがてエンジンとは違う低い音が重なり、イルゼは窓越しに空を探した。
*
保守車両の二人は、最後の分岐を見ていなかった。
資材集積場と旧採石場のどちらへワゴンが入ったのか分からず、先に近い方の作業道へ入って確認した。車影がないことを見て引き返したところで、木々の上から低い飛行音が届いた。
女は山腹の方へ顔を向けた。
「第七工区です」
運転していた男がすぐにハンドルを切った。
*
救難艇の操縦席から、山腹の向こうに灰色の舗装面が開けた。
ポプランは端に停まったワゴンを見つけた。
「いた」
後部からカリンが訊いた。
「灰色?」
「ほかにない」
着陸地点へ一直線に入らず、ポプランは一度だけ機首を振って車の位置を確かめた。朝に引いた進入線より少し奥まで進み、側面ハッチがワゴンへ向くところで姿勢を戻す。
推力を落とすと、舗装面の砂が薄く流れた。
「開けるぞ」
「まだ。砂が落ちてから」
ポプランは数秒待った。
機体が接地し、舞い上がった砂が低く流れていく。カリンが「いい」と言うと、側面ハッチが開いた。
*
イルゼはドアを開け、搬送台を押して降りてきた女へ手を上げた。
「こちらです!」
カリンはそのまま後席へ回り、開いたドアからエルフリーデの顔を見た。
「エルフリーデさんですね」
「ええ」
カリンは彼女の手を取り、呼吸を確かめた。
「お迎えに来ました」
エルフリーデは目を閉じ、それから頷いた。
「ずいぶん遠くまで来てくれたのね」
「ええ。ここまで台を持ってきましたから、立たなくて大丈夫です。イルゼさん、反対側をお願いします」
カリンは搬送台を座席の高さへ合わせ、イルゼと二人で身体を支えた。エルフリーデが起き上がろうとするのを止め、横になった姿勢のまま移す。
短い移動だったが、彼女の呼吸は速くなっていた。カリンは台を動かす前に顔を覗き、苦しさがあるか訊いた。
「少し」
「そのままでいてください。返事は頷くだけで結構です」
搬送台を艇へ押しながら、イルゼが山道を振り返った。
「ランズベルク伯が、途中で止められました。私たちを先に行かせて、自分は残りました」
カリンはイルゼを見たが、台を押す手は止めなかった。
「分かりました。まず、この人を乗せます」
艇内へ運び込み、搬送台を寝台の位置へ合わせる。イルゼにも隣席へ座って拘束具を締めてもらい、カリンはエルフリーデの固定と呼吸補助器具を順に確認した。
操縦席からポプランの声がした。
「来た。二人」
開いたハッチの向こうで、保守車両が資材置き場へ入ってくる。
女と男が車から降りた。女は端末を手にしたまま救難艇へ向かい、男の方が先に走った。
「離陸を中止してください! 聖廉院です!」
カリンは振り返らず、最後の固定具を引いた。
エルフリーデの身体が動かないことを確かめてから、ようやくハッチへ向かう。
男はもう乗降口の前まで来ていた。
「待て。ランズベルク伯はこちらで確保しているぞ」
カリンの目が一度だけ男へ向いた。
「一緒に来た人間だろう。置いていくのか」
「本人が残ったって聞いたわ」
「見捨てるのか?」
カリンはハッチの手前に立った。
「あたし、ここで余計な正義を始める気ないの」
男が一歩、艇内へ踏み込んだ。
「降りてもらう」
手がカリンの腕へ伸びた。
イルゼには、二人が一度ぶつかったようにしか見えなかった。
カリンは伸びてきた腕を受けると身体の位置を入れ替え、男の勢いをそのまま外へ流した。男は足場を失い、次の瞬間にはハッチの下の舗装面へ転がっていた。
何をされたのか理解するより、倒れる方が早かった。
カリンは追って降りなかった。
外にいた女が駆け寄るより先に、ハッチ脇へ手を伸ばす。
「閉めて」
「了解」
ポプランが閉鎖操作に入った。
女は倒れた男を避けて艇へ近づいたが、ハッチはすでに人が通れない幅まで狭くなっていた。撃とうとはしなかった。患者が中にいることは見えている。
カリンはもう外を見ていなかった。
エルフリーデの寝台へ戻り、顔を覗き込む。
「息、苦しくない?」
エルフリーデは首を横に振った。
カリンは表示を確かめ、自分の席へ戻った。
「二人とも乗った。上げていい」
「待ってた」
救難艇が浮いた。
舗装面で起き上がった男と、端末を構えた女が小さくなっていく。艇は急には機首を上げず、患者への負荷を抑えたまま木々の高さを越えた。
イルゼは小窓から下を見た。
資材置き場の端にゾルナーの灰色のワゴンが残っている。
その向こうで、女が端末へ何かを伝えていた。
***
救難艇が山地を離れると、ポプランは抑えていた通信を戻した。
「二名収容。上昇中」
前進母船から受信確認が返り、続いて帝国観測艦の情報が流れ込んできた。
降下前に見ていた図とは、少し違っていた。
「正面に一つ増えたな」
教国側の小型艇が一隻、惑星外縁から横へ動いている。このまま上昇すれば数分後に進路が近づく。
カリンが患者の表示から目を離さず訊いた。
「避ける?」
「まだだ」
ポプランはすぐには艇首を振らなかった。
帝国側の観測時刻と、自艇で拾える反応を見比べる。早く動けば、相手の次の進路も分からないまま距離だけを余計に使うことになる。
新しい観測が入った。
小型艇の予測線が、少し内側へ寄った。
ポプランの口元が動いた。
「そこか」
救難艇の進路が浅く変わった。
急な旋回ではない。患者へ掛かる負荷を、収容前に決めた範囲に収めたまま、交差するはずだった場所を横へずらしていく。
カリンは身体負荷の表示を見た。
「そのままで大丈夫」
「了解」
もう一度、観測位置が更新された。
二つの予測線の交点が、救難艇の後方へ移る。
教国側の小型艇はそのまま別方向へ進み、距離を開き始めた。
「追ってたの?」
カリンが訊いた。
「分からん」
ポプランは受領位置へ向けて艇首を戻した。
「でも、もう撒いた」
操縦画面から交差警告が消えた。
救難艇は上昇を続けた。
***
資材集積場からの報告が、教国軍へ送られていた。
セラ・ノルテ山中から所属不明の小型艇一隻が離陸。エルフリーデ・フォン・コールラウシュとイルゼ・ヴァイゲルトを収容したと見られる。現地要員一名が乗降口で接触したが、離陸を阻止できなかった。
当直士官は地上班の示した上昇方向を惑星上空の監視情報へ重ねた。
該当する航跡が一つあった。
一度進路を変えたあと、外縁へ向けて上昇を続けている。
「識別は」
「まだ取れていません」
士官は航跡から目を離さなかった。
「第二聖団へ回せ。あとは軍が対応する」
通信士が復唱する。
士官は続けた。
「上昇艇を見失うなよ」