【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月十八日 教国領リオ・ヴェルデ星系 惑星アロヨ・ド・モリノ近傍宙域】
操縦席の航法画面で、教国艦の進路を示す矢印が、次々と向きを変えた。
最初は数隻だった。少し遅れて、惑星の反対側にいた艦も救難艇の進行方向へ針路を寄せ始める。新しい観測が届くたび、こちらへ向かってくる教国艦の数が増えていき、やがて数十隻に達した。
「それ、全部こっちに向かってくるの?」
カリンが操縦席の後ろから訊いた。
「ああ。だが、おれの人気もまだまだだな。追っかけがたった数十隻とはね」
ポプランは後部の搬送寝台をちらりと振り返った。カリンはすでにエルフリーデのそばへ戻ろうとしていた。
ポプランが航法画面を見た。
「ま、気にするのは追いついてきたり、待ち伏せできそうな位置にいる連中だけでいいさ」
ポプランは帝国軍による収容予定地点までの敵艦の接近予測を開き、こちらへ届きそうな艦を拾い出した。
「収容予定地点までにこっちに接近しそうなのは、四隻だ」
その教国艦四隻のうち、一隻が加速を始めた。救難艇の進路を横切り、前方へ回ろうとしている。
ポプランはパルス・ワープの移行航路を呼び出した。
救難艇に搭載されたパルス・ワープ機関は、短時間ながら光速の約五十倍で航行する能力を持つ。これを使えば、一気に星系外縁へ抜けることができ、境界の外で待つ帝国収容艦へ近づくことができる。
ただし、どこからでも好きな方向へパルス・ワープに移行できるわけではない。
安全な航路と離脱先を定め、その方向へ艇の運動を合わせる必要があった。現在の位置から、無理なく向かえる移行宙域は限られていた。
最も近い移行宙域を選ぶと、一隻の教国艦がその手前へ先回りしようと加速を始めていた。
救難艇がワープに入る前に、横へ並べる進路だった。
「いい場所を選ぶじゃないか。可愛げがない連中だ」
教国軍からの通信が割り込んだ。
『こちらは神聖黄金樹教国軍第二聖団〈
「こっちは病人を乗せてる。話はできるが、急には止まれんぞ」
返答の間にも教国艦は近づいてきた。もう一隻が後ろに残り、ポプランの救難艇の針路が変わるたび同じ方向へじりじりと寄せてくる。
『繰り返します。貴艇の所属と許可を回答してください』
「いま敵のど真ん中で、軍艦数十隻に追い回されてる最中でね。ああ、サインならあとにしてくれ。有料だけどな。逃げるのに忙しいから、切るぞ。じゃあな」
ポプランは相手の返答を待たずに通信を切り、ユアンへ照会を転送した。
『……ポプランさん。相手は教国軍の哨戒艦ですよ』
「知ってるよ。さっき名乗ってただろ?」
『……分かりました。先方との通信はこちらで引き受けます。あなたは操縦に集中してください』
「ありがたいね。そうさせてもらう」
ポプランは主推進の出力を落とした。救難艇はそれまでの速度を保ったまま飛び続け、前方へ回り込もうとする教国艦との距離が、みるみる縮まっていく。
「前に入られるわよ」
「入らせるんだよ」
「速度を合わせられたら、横から停船を強いられるわ」
「並ぶ場所を間違えてもらえばいいのさ」
ポプランは予定する機動をカリンへ送った。
カリンは操縦表示を見てから、後部のエルフリーデへ目を向けた。
「このあと、切り返さなくていいのね?」
「ああ。一度だけ外へ振る。あとはそのままだ」
「それなら大丈夫」
教国艦は救難艇の前方を横切り、進路上で速度を合わせようとしていた。
ポプランは、すぐには動かなかった。
教国艦がさらに加速した。救難艇が現在の針路を保つと読んだのか、予想される通過位置へ向けて進路を絞ってくる。
「……よし、そこだ」
ポプランは艇首をわずかに横へ向け、低い推力を掛けた。救難艇は前進速度を保ちながら、ゆっくりと横方向へ移動し始める。
教国艦もすぐに反応した。
「向こうも針路を変えたわ」
「そりゃそうさ。だが、さっきまでの勢いは急には消せんだろう」
教国艦は加速方向を変え、救難艇の新しい進路へ合わせ直そうとした。しかし、先回りするために得た速度はすぐには消えない。相手が新たな接近位置を作ろうとしている間にも、救難艇は緩やかな曲線を描いて先に進んでいた。
「もう一度、修正してくるわよ」
「結構。どんどん曲がってもらおうじゃないか」
ポプランは推力を変えなかった。教国艦がさらに向きを変えると、今度は接近位置が救難艇の後方へずれ始めた。相手は、前へ出て救難艇と速度を合わせる機会を失いつつあった。
「……抜ける?」
「もうちょいだ」
次の観測で、さらに距離が広がった。教国艦は救難艇の横へ並ぶことができず、後方から追う針路へ移行した。
接近警告が消えた。
「一隻、かわしたぞ。そっちは?」
「呼吸は変わってないわ」
カリンは負荷表示をもう一度確かめた。
「……大したものね。あんなに低い加速で、軍の哨戒艦をかわすなんて。相手には何度も針路を変えさせて、自分は一度も切り返してない」
「感心してくれたのかい?」
「悔しいけどね。私だったら、もっと早くかわそうとしてたわ」
「そいつはお勧めしないな。早く逃げたら、向こうにも早く逃げ道を教える」
ポプランは笑い、後方に残ったもう一隻へ目を移した。
こちらは距離を保ったまま、まだ追跡を続けている。
「よく働く連中だ。こっちの休み時間まで見張ってる」
救難を支援する帝国軍から通信が入った。
『こちら、銀河帝国軍共同救難作戦支援部隊、観測担当のハインリヒ・フォン・アイゼンベルク大尉です。外縁に展開する教国艦二隻は、まだ貴艇への接近位置に入っていません』
ポプランは外縁の二隻を確かめた。
「ご丁寧にどうも、大尉殿。引き続き見張っててくれ。片がついたら、一杯やろうぜ。おれのおごりだ。サインも無料サービスでつけるぞ」
『……ありがとうございます。ですが、まずはご無事に戻ってください。こちらは観測を継続します』
「ありがとよ」
一度外れた教国艦も、後ろで追跡へ戻り始めた。さらに遠くでは、惑星周辺から動き出した艦艇が、次々と新しい針路を取っている。
ポプランは出力を低く保った。
「しばらくはこれで行く。カリン、女史をしっかり見てやってくれ」
***
カリンが寝台へ顔を寄せると、エルフリーデは鬱陶しそうに眉を動かした。先ほどまでの息苦しさは、いくらか落ち着いている。
「苦しくない?」
エルフリーデは首を小さく横へ振った。
カリンは分かっている範囲の情報をユアンへ送り、戻ってくるとエルフリーデがイルゼを見ていた。何か言いたそうな口元だったが、そのまま目を閉じる。イルゼはずれた掛布を直した。
カリンは脈拍を確かめた。艇の進路変更は小さく、後部には機関の低い作動音が続いた。
***
イルゼがもう一度掛布の端を直した。エルフリーデの眉は動かなかった。
「エルフリーデ様」
返事がない。顔を覗き込むと、目は閉じたままだった。
「エルフリーデ様、苦しくありませんか」
イルゼはカリンを呼んだ。
「いつもなら、返事がなくても手が動くんです。今は、それもなくて」
カリンは寝台の横へ入り、呼吸と脈を確かめた。異常を示す警報は出ていない。顔を近づけ、ゆっくり呼びかける。
「エルフリーデさん。聞こえますか」
しばらく、返事がなかった。イルゼは掛布から手を離し、二人の顔を見比べていた。
ようやく目が開いた。
「……何?」
「今、呼びました。分かります?」
エルフリーデはイルゼを見て、カリンへ視線を戻した。返事までにまた間が空く。
「聞こえたわよ」
カリンは呼吸の状態をもう一度確かめた。
「ありがとう。喋らせて悪かったわね」
操縦席へ回線を開く。
「ポプラン、加速と進路変更の許容上限を下げるわ。さっきと同じ負荷は、もう掛けられない」
「女史の意識はあるか?」
「今は、ある。でも、呼びかけへの反応が遅れた。急加速や急な方向転換はもう避けたい」
ポプランは新しい制限を操縦装置に入力した。
先ほどまでは使えた回避機動のいくつかが、ポプランの選択肢から消えた。
「……おいおい、使える手がほとんど残らないぞ。ずいぶん厳しい条件をつけてくれるな」
「文句なら、あとで聞くわ」
「まあいいさ。ご婦人を乗せてるときは、急発進も急ハンドルも御法度ってことだ。おれは紳士だからな」
「……誰が紳士ですって?」
「少なくとも、ハンドルを握ってる間はね」
ポプランは笑いながら操縦桿を握りなおし、追跡を続ける教国艦へ目を戻した。
「さて、今の飛び方ならどうだ?」
彼は主推進の出力をわずかに上げ、艇の進路を緩やかに変えた。カリンの端末に、慣性補償後の負荷が表示される。
カリンは数値を確かめ、エルフリーデの呼吸と表情を見た。患者の様子に変化はなかった。
「そのくらいなら大丈夫。続けていいわ。ただ、負荷を変える前には知らせて」
「了解。ご婦人方には、とびきり優しい運転をお約束するよ」
ポプランは推力を保ち、前方へ回り込もうとする教国艦の動きを追った。
カリンが観察結果を前進母船の医療担当へ送る間にも、教国艦の印は動いていた。
外れた一隻は後ろに戻り、さらに外側にいた一隻が、救難艇の行く先へ位置を変え始めた。
***
「前の一隻が動いたぞ」
離陸から数時間が経っていた。
惑星アロヨ・ド・モリノは外部映像の端に小さくなり、救難艇は星系外縁へ向かっていた。
先ほどまで遠方にいた教国哨戒艦の一隻との距離が近づいてきた。
共同救難作戦の内部通信回線に、ハインリヒから報告が入った。
『ポプランさん。一隻、貴艦に寄ってきています』
「了解。見えてるよ」
ポプランはカリンへ予定する進路変更を送り、了解を得てから艇をわずかに外側へ向けた。
すると、前方の教国艦もすぐに針路を変えた。救難艇が逃げようとする方向へ先回りしようとしている。
さらに、後ろから追っていた別の一隻が加速を始めた。
「二隻で挟んで止めるつもりね」
カリンが言った。
「ああ。前の奴がこっちを止めにかかる。避けようと減速すれば、後ろの奴が追いついてくるって寸法だ。こっちは加速は使えんからな」
ポプランはパルス・ワープの移行航路を開いた。
最も近いワープ移行可能宙域へ向かうには、前方の教国艦が待ち受ける方向へ飛ばなければならない。大きく迂回して別の移行宙域を目指すこともできるが、そのための加速と進路変更は、カリンが定めた上限を超えてしまう。
「パルス・ワープで逃げられないの?」
「ワープ機関は元気だよ。だが、敵さんが、あそこまで行かせてくれそうにない。連中もこっちにワープで逃げられるのを警戒してるんだろうさ」
ポプランは敵二隻の動きを見比べた。
「……よし、ここだ」
***
【同時刻 バーミリオン星域 教国軍第一聖団〈黄金樹〉隷下〈ベローナ〉艦隊旗艦〈スッラ〉】
「なんだぁ?」
ラスバッハが顔を上げた。レームは聖団司令部を経由して届いた中央からの緊急待機要請を開いた。
「現配置を維持し、通信即応を求めています。第二聖団担当宙域の惑星から、所属不明の小型艇一隻が離脱を図っているようです」
「たった一隻ぃ?そんなもんで、こっちまで待機かよぉ」
「艇は一隻ですが、進行方向の境界すぐ外には帝国軍が展開しているようです。艇は、帝国軍の情報支援を受けているようです」
「で、ベーレントのおっさんは何隻出したんだぁ」
「惑星周辺の哨戒艦、六十隻が追跡に動いております。ただし、実際に救難艇へ追いつける位置にいるのは四隻です」
「四隻もありゃ十分じゃねえか。それで捕まらねえのかぁ?」
レームは、司令部から転送されてきた追跡記録を再生した。
救難艇からの声が流れた。
――『いま敵のど真ん中で、軍艦数十隻に追い回されてる最中でね。ああ、サインならあとにしてくれ。有料だけどな。逃げるのに忙しいから、切るぞ。じゃあな』
ラスバッハが声を上げて笑った。
「なんだよぉ。面白ぇ野郎がいるじゃねえか。こんな愉快な鬼ごっこやってんのに、俺らは仲間外れかよぉ」
「記録ならお見せしております」
「俺は生で見てえんだよぉ。今からじゃもう間に合わないかもしんねぇが、俺らも駄目もとで船、出してみるかぁ?」
「いいですね、閣下」
ラーベンホルストが嬉しそうに顔を上げた。
「僕も追ってみたいです。あの操縦者と遊びたいです」
「よし、競争にしてやるかぁ。先にあの艇を仕留めた奴には司令官賞だ。捕虜を一匹くれてやるぜぇ!」
「やった!できれば、まだ抵抗する元気のある奴がいいなあ」
ローデリヒが口を開いた。
「……閣下。仮に追いつけたとして、あの艇をどうなさるおつもりでございますか」
「撃ち落とすに決まってんだろぉ」
「教国が保護を約束したご婦人を、教国軍が撃ち殺すことになりますな」
「……あぁ?」
「エルフリーデ・フォン・コールラウシュ女史が乗っているとのことです。生存を公表し、保護を申し出たのは我が国です。帝国も女史を自国の臣民として守ると表明しております」
ローデリヒが微笑んだ。
「我が国が保護を申し出たご婦人を、我が国の軍艦が撃ち殺す。しかも、皇帝の副官の実母ときた。帝国の宣伝官が聞けば、さぞ喜んで筆を執ることでしょうな」
「それはそれで面白くなりそうなんだけどなぁ。さすがにそれやったら、謹慎処分くらいじゃすまなそうだ。じゃあ、船をぶつけて止めるのはどうだ?横につけて、乗り込む」
「衝突で女史がお亡くなりになっても、結果は同じでございます」
「面倒くせえなぁ。じゃあどうすんだよ」
レームが追跡図を開いた。
「パルス・ワープに入って支配宙域外に逃げられる前に先回りし、速度を合わせて停船を求めるしかないでしょうな」
「だったら、ほかの船もどんどん寄せろよぉ」
「その努力はしているようですが、追いつけません。あの艇の操縦士、相当な腕のようです」
「撃つな、ぶつけるな、逃がすな、かぁ。しかも逃げてる奴は、腕利きときた。厄介な鬼ごっこだなぁ」
ラスバッハは声を上げて笑った。
「ベーレントのおっさんも、ずいぶん難しい仕事を押しつけられたもんだ」
「いずれにせよ、閣下が現地へ着くころには、もう終わっておりますよ」
レームが言った。
「……そこかよぉ」
ラーベンホルストが追跡図を覗き込んだ。
「残念ですね、閣下。艇へ取りつく新戦術を試してみたかったのに」
「どんな戦術だぁ?」
「聖赦執行隊の連中を、宇宙服で送り出すんですよ。強襲艦を敵の船と同じ速度に合わせて、船体へ次々と宇宙服で飛び移らせる。相手は病人を乗せてるから、急な機動はできないんでしょう?」
ラーベンホルストは追跡図を拡大し、救難艇の航跡を指で追った。
「でも、あの操縦士は本当に上手いなぁ。どんな方法で振り払おうとするのか、見てみたい。何人くらい取りつけるかも、試してみたいなあ」
「取りつけなかった隊員の回収はどうされます? 別に艇が要りますが」
レームが訊いた。
「回収なんてしませんよ。失敗した理由を調べます。失敗は成功の母って言うじゃないですか」
ラスバッハが声を上げて笑った。
「お前、本当に研究熱心な野郎だなぁ!」
「はい、閣下。こういうのは、実戦で試さないと分かりませんから」
「まぁ、いいさ。レーム。今回は出さねえ。今いるところで待機だ」
「承知しました、閣下」
***
【同時刻 リオ・ヴェルデ星系 救難艇】
「今度は長く掛けるぞ」
ポプランは二隻の動きを見比べていた。
前方の教国艦は救難艇の進路を斜めに横切り、先回りして速度を合わせようとしている。
もう一隻は後方から追いながら、惑星に近い内側へ位置を移していた。前方の艦を避けようと救難艇が内側へ逃げれば、そちらに後方艦が待っているという算段らしい。
「二隻とも、いい位置へ入ろうとしてるわね」
カリンが言った。
「ああ。だが、まだ揃っちゃいない」
ポプランは新しい進路をカリンへ送った。
「ここから星系の外側へ、少しずつ進路を変える。低い推力を長く掛けるから、途中で切り返しはしない」
「途中で相手が追いついてきても、急には避けられないわよ」
「分かってる。そいつは連中も同じだ」
カリンは負荷表示を確かめ、エルフリーデの呼吸へ目を戻した。
「……その機動なら続けられるわ。上限は変えないからね」
「ありがとよ」
ポプランは艇首を星系外側へ向け、低い推力を掛け始めた。救難艇はすぐには大きく進路を変えない。それでも、推力を同じ方向へ掛け続けることで、速度の向きが少しずつ外側へ変わっていった。
前方の教国艦が反応した。
『前方艦、針路を修正。後方の一隻も追随しています』
ハインリヒからの報告だった。
前方艦は救難艇の新しい進路へ向かい直したが、先回りのために得ていた速度を変えなければならない。後方艦も内側への移動をやめ、救難艇を追って外側へ向きを変え始めた。
「両方とも、こっちへ合わせてきたわ」
「そりゃそうだろうさ。だが、向きを変えたからって、すぐにそっちへ飛べるわけじゃない」
前方艦との距離が縮まった。接近警告は消えず、相手は救難艇の行く先へ向けて加速を続けている。
「ポプラン、これ以上は曲げられないわよ」
「曲げないさ」
彼は推力を変えなかった。
前方の艦は速度を合わせ直そうとしているが、救難艇もまた、同じ方向へ少しずつ進み続けていた。最初に敵が狙っていた接近位置は、救難艇の実際の進路から外れ始めている。
「もう少し、そっちへ行っててくれよ」
ポプランは教国艦の表示を見ながら呟いた。
敵艦が再び針路を直した。だが、今度は救難艇が通る位置だけでなく、そこへ到達する時刻まで合わせ直さなければならない。前へ出るために得た速度が、かえって邪魔になっていた。
「……抜けられそう?」
「まだ分からん。あいつも諦めちゃいないからな」
ポプランは出力調整器へ手を掛けたまま、次の観測を待った。
後部では、カリンがエルフリーデの呼吸を確かめていた。イルゼが掛布を直そうとすると、エルフリーデの眉がわずかに動いた。
「そのままでいいわ」
カリンが言った。
次の観測が届いた。
前方艦は救難艇が当初通るはずだった位置へ近づいていたが、救難艇の方はすでにそこから外れている。敵が速度を合わせ直すより先に、救難艇がその接近位置を通り過ぎた。
前方艦との接近警告が消えた。
「一隻目は外したぞ」
「でも、後ろが来てるわ!」
カリンの言うとおりだった。
後方の一隻も進路を変え、こちらの横へ出ようとしていた。ポプランは推力を緩めず、同じ緩やかな曲線を保ち続けた。
「大丈夫なの? そっちも追いついてくるわよ」
「追いかけるのは自由さ。だが、今から横へ並ぶのは骨が折れるぜ」
後方艦は、先ほどまで救難艇の内側へ寄っていた。ところが救難艇は外側へ進路を変えている。後方艦がその動きに合わせ始めたときには、両者の位置はさらに離れていた。
次の観測で、後方艦との距離も開き始めた。
「……あら」
カリンが小さく声を漏らした。
後方艦は追跡をやめていない。
しかし、今から加速しても、救難艇が現在の進路を飛んでいる間に横へ並ぶことは難しくなっていた。
「よし、後ろも遅れた」
ポプランはカリンへ連絡し、推力を少し落とした。
カリンは寝台の固定具から手を離し、エルフリーデの呼吸を確かめた。
「……変わってないわ。あの制限で二隻とも外すなんて、呆れたものね」
「連中が一生懸命曲がってくれるんだ。おれは慌てずに済んだよ」
「簡単に言ってくれるわね……」
「お?今日は二度も褒めてくれるのか」
「褒めてないわよ。呆れてるの」
「似たようなもんさ」
ポプランは笑ったが、すぐに航法画面へ目を戻した。
後方では、今かわした二隻に最初の一隻も加わり、教国艦三隻が追跡を続けていた。そのさらに外側には、まだ一隻が残っている。惑星周辺から動き始めた後続の哨戒艦も、少しずつこちらへ近づいていた。
「さて、そろそろワープで失礼したいところだな」
ポプランは、パルス・ワープの移行航路をもう一度開いた。
***
二隻をかわしたことで、パルス・ワープへ向かう道が一つ開けた。
ポプランは航法画面に移行宙域までの進路を表示させた。
「いけそう?」
カリンの声が入った。
「ああ。今度こそ、ワープまで持っていきたい」
ポプランは予定する進路変更をカリンへ送り、了解を得てから艇の向きを変えた。
追跡中の三隻はまだ後方にいる。このまま移行宙域まで飛べれば、パルス・ワープで一気に距離を稼げる。
共同救難作戦の内部回線に、ハインリヒから報告が入った。
『外縁の一隻は、依然として針路を変えていません』
ポプランは前方に残っている教国艦の位置を確かめた。最初から外側にいた四隻目だった。
「……あいつか」
その艦は、救難艇が目指す移行宙域の手前にいた。こちらがワープを始める前に接近し、速度を合わせて横へ並ぶことができる。
最後の一隻が待ち構えていた。
「また先回りされるの?」
カリンが訊いた。
「ああ。あいつ、いい場所に居座ってやがる」
「別のところからワープできない?」
ポプランは別の移行宙域を選んだ。だが、そちらへ向かうには大きく進路を変え、今から加速し直さなければならない。必要な負荷は、カリンが定めた上限を超えていた。
「駄目だな。そっちへ逃げるには、今から急いで曲がらなきゃならん。女史の体がもたんだろう」
ポプランは前方の教国艦を見た。
構わず進めばワープを試みることはできるが、その前に横へ並ばれ、停船や接舷を迫られるおそれがある。
「……仕方ない。ワープは後回しだ」
ポプランは移行宙域への進路変更を中止し、ユアンへ回線を開いた。
「ユアン、予定変更だ。ワープは使わず、そのまま境界の外へ出る。帝国艦に直接拾ってもらえるか」
『ですが、現在の受領地点へ向かうと、最後に救難艇の方で大きく減速し、進路を変える必要があります』
「そいつは困るな。こっちは病人を乗せてるんだ。迎えの艦を動かして、こっちの速度に合わせてもらえないか?」
『収容艦の位置と速度を変えられないか、帝国軍と詰めます』
「頼んだぜ。こっちは、のんびり飛んでるしかないんでね」
ポプランは低い推力を保ち、境界の外へ向けて航行を続けた。
後方の三隻は救難艇の追跡をあきらめておらず、前方には最後の教国艦が残っていた。
***
前進母船では、ユアンが救難艇の新しい進路を帝国側へ送っていた。
二隻の教国艦をかわしたことで、救難艇は当初の受領地点から外れていた。元の場所へ戻ろうとすれば、最後に大きく減速し、進路も変えなければならない。エルフリーデの容体では、どちらも許されなかった。
「帝国艦での収容ではなく、この前進母船に戻ってもらうのは、無理でしょうか?」
ユアンが運航担当に訊いた。
「難しいでしょう。遠回りになりますし、教国艦の追跡も振り切れません」
「分かりました。帝国側に、迎えの艦を動かしてもらいましょう」
ユアンは帝国軍の前進指揮艦へ通信をつないだ。
救難艇の現在の速度と進路を示し、艇に無理な機動をさせずに収容できる位置まで、収容艦の方を移動させたいと伝えた。
帝国軍の前進指揮艦に、ユアンから新しい受領案が届いた。運用参謀が要点を読み上げた。
「収容艦二隻とも、境界は越えません。一隻が救難艇へ速度を合わせ、もう一隻はその周囲を警戒します」
「収容区画の準備は?」
アルブレヒトが訊いた。
「艇ごと収容できます。搬入口と固定装置の最終確認に入ります。ただし、教国艦もこちらの動きを見ているはずです」
「わかっています。収容艦を動かしてください。救難艇の進路と速度に合わせる。境界は越えないように」
命令を受けた収容艦が針路を変えた。
境界の外で待機していた収容艦が、救難艇の飛んでくる方向へ向きを変え、速度を合わせ始める。もう一隻も動き、収容作業中に周囲を警戒できる位置へ移った。
収容艦の収容区画では、隊員たちが搬入口を開き、救難艇の固定装置を点検していた。
「収容設備、異常なし。受入れ準備完了」
報告が艦橋へ届いた。
前進母船のユアンは、帝国軍の収容艦の実際の動きを見守っていた。
迎えの艦が救難艇に速度を合わせるにつれ、艇の方で必要となる減速は小さくなっていく。
「どうです?」
「減速は許容範囲に収まりました。ただ、最後の進路変更がまだ大きすぎます」
「帝国軍へ伝えてください。もう少し、収容艦を、救難艇の進路に合わせられないかと」
収容艦はさらに針路を変えた。救難艇の方は現在の低い加速を保ったまま、迎えの艦が動いてくれるのを待つ。
新しい航路が送られてきた。
「……入りました!」
運航担当が顔を上げた。
「現在の医療上限で、救難艇をそのまま収容できます!」
ユアンはすぐにポプランへ回線を開いた。
『ポプランさん、こちらで合わせられます。艇の方で大きく減速する必要はありません』
「そいつはありがたい。ようやく迎えが来てくれたか」
『ただし、最終接近の進路は送った案を維持してください。収容艦も、まだ速度を合わせている途中です』
「分かってる。カリン、聞こえたか? なんとかこのままの負荷で最後まで逃げられそうだ。どうだ?」
「上限は変えないわ。それで通して」
「了解。じゃあ、帝国軍に迎えにきてもらおうかね」
***
エルフリーデが薄く目を開けた。
「……まだ?」
「迎えの船が、こちらに合わせて動いています。もう少しです」
イルゼが答えた。
エルフリーデは小さく頷き、再び目を閉じた。カリンが呼吸を確かめると、先ほどから大きな変化はなかった。
そのとき、共同救難作戦の内部回線にハインリヒから報告が入った。
『別の教国軍哨戒艦群が、数十隻規模で外縁側へ移動を始めています。現在追跡中の四隻を支援するつもりかもしれません』
「何隻だ?」
『正確な数はまだ確認できていません。ただ、今の収容予定地点へは間に合わない見込みです』
「そいつは助かる。もうしばらく見張っててくれ」
ポプランは帝国収容艦の新しい進路を確かめた。こちらが大きく曲がる必要はない。迎えの艦が速度を合わせてくれれば、あとはその収容区画へ入るだけだった。
「ありがたいねえ。今度は向こうが一生懸命飛んでくれてる」
カリンから返事があった。
「最後まで気を抜かないでよ」
「分かってるさ」
ポプランが最後の進路変更に手を掛けた。
その瞬間、ハインリヒの声が飛び込んできた。
『ポプランさん! 外側の一隻が動きました!』
ポプランの手が止まった。
***
最後の一隻が動いた。
向かっているのは、帝国の収容艦と救難艇が合流する予定の宙域の方向だった。
「……おいおい、そっちへ来るか」
ポプランは、バーラトの救難隊統括のユアン・ウォードへ回線を開いた。
「ウォード。おれたちを迎えに来る帝国艦が動き始めた時刻を調べてくれ」
『すぐ確認します』
ポプランは救難艇の進路を保ったまま、教国艦の動きを追った。相手はまだ遠い。現在の加速を続ければ、救難艇が収容艦へ近づく前に横へ並ぶことができる。
ユアンから返答が入った。
『収容艦の移動開始時刻を送りました』
ポプランは教国艦の観測記録と照らし合わせた。帝国艦が移動を始め、その動きを教国側が観測できるようになってから、相手は針路を変えていた。
「……なるほど。あいつら、迎えの方を見てやがったか」
『帝国軍の収容艦の動きから、合流場所を推測したということですか』
「ああ。こっちを追い回すより、迎えの艦を見てた方が早いってわけだ」
そのとき、教国艦の艦腹から、小さな機影が次々と離れた。
『外縁の教国艦から、単座戦闘艇四機が発進。救難艇の進路へ向けて加速しています』
ハインリヒの報告を聞いて、ポプランが顔をしかめた。
「……おいおい。連中、そんなものまで積んでやがったのか」
四機は二機ずつ左右に分かれ、救難艇の行く先へ広がっていった。
「……四機とも、ほとんど同時に針路を変えたわね」
カリンが言った。
「ああ。息が合ってるなんてもんじゃない。……嫌な感じだ、こいつら」
「どうするの?」
「お客さんを乗せてないなら、何とかするさ。だが、女史を乗せて無茶するのは無理だな」
ポプランの「嫌な感じ」という予感は正しかった。
教国軍が〈
感情をほとんど削られている彼ら、彼女らは、自分の身に危険が迫ったとしても通常の操縦士のように機動を緩めることがない。
ポプランは回避経路をいくつか試した。
右へ逃げれば一機との距離は開くが、別の一機が接近する。左へ向かっても同じだった。
パルス・ワープの移行宙域へ戻る案も調べた。
しかし、今から進路を大きく変え、後続の哨戒艦と四機の単座艇をかわして移行位置へ向かうには、やはり無理な加速と進路変更が必要だった。
ポプランが入力した各経路の予測負荷は、カリンが設定した医療上の上限をいずれも大きく超えていた。
「……参ったねえ。曲芸飛行をやればかわせないこともないだろうが、単座戦闘艇四機を相手にそれをやったら、女史の体がもたん」
ユアンから通信が入った。
『ポプランさん、このままでは教国艦と単座艇群に並ばれます』
「ああ、分かってるよ。こっちはできることはやった。あとは、お偉方同士で話をつけてもらおうじゃないか」
***
帝国軍の前進指揮艦では、アルブレヒトが収容艦の現配置維持を命じた。
「救難艇の収容準備は続けてください」
命令が伝えられ、収容艦は救難艇に合わせた速度と進路を維持した。収容区画も開けられたままだった。
一方、前進母船のユアンは、ポプランに代わって第二聖団からの照会に対応していた。救難艇の収容条件を協議するため、教国軍の哨戒艦へ改めて呼びかけた。
「こちらはバーラト救難隊統括、ユアン・ウォードです。バーラト市民籍を持つ病人を乗せた救難艇の運航を担当しています。現在の速度と進路を維持し、境界外で待機する帝国艦へ病人の移送を引き継ぎたい。安全な通過について、協議を申し入れます」
しばらくして、教国軍から返答があった。
『本件の協議は、第二聖団司令部へ引き継ぎます。現在の通信を維持してください』
「了解しました」
ユアンは帝国前進指揮艦へも連絡し、司令部への引継ぎを伝えた。
救難艇では、ポプランが前方の教国艦と単座戦闘艇四隻の表示を睨んだ。
「くそっ、あと一歩なのにな……」
カリンはエルフリーデの呼吸を確かめた。
イルゼは寝台の脇に座り、彼女の手を握っている。
そのとき、操縦席の通信欄に新しい接続先が表示された。
それまでの哨戒艦の識別が消え、第二聖団司令部の認証が現れた。
〈教国軍第二聖団司令 コンラート・フェルディナント・ベーレント聖将〉
【人物図譜】
教国軍 聖赦執行隊 第一強襲群長 キリアン・ラーベンホルスト
【挿絵表示】
――「〈
次回、『大斉鐘』