【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月十八日 帝都レーヴェンシュテルン 獅子の泉「北辰の間」】
「駄目だ、フェリックス。それは認められない」
アレクの返事は早かった。
「お前は自分が何を申し出ているのか、分かっているのか?」
「はい」
「お前を人質として敵に差し出し、代わりにバーラトの救難隊員二名への身柄引渡し要求を取り下げさせ、帝国艦への女史の直接収容を認めさせ、教国軍も退かせる。そういう交渉をやれというのか!」
通信画面の向こうでは、宇宙艦隊司令長官ミッターマイヤー元帥が息子を見つめていた。
『向こうがお前を帰さなかったら、どうするつもりだ?』
「帰すという約束を、先に取りましょう」
『約束が破られたらどうする?お前を取り戻すために今度は艦隊を出すのか?』
フェリックスは画面の父から目を逸らさなかった。その言葉が反対のための反対でないことは、彼自身にも分かっていた。
「だから、まず教国側に訊いてほしいのです。仮に俺が皇帝副官として協議のために教国に赴くと提案すれば、こちらの要求を呑むつもりがあるのか。それを確かめてください」
アレクは言った。
「駄目だ。お前を行かせるわけにはいかない」
「陛下。北辰大軍議で決められた国家の方針を、お忘れではありませんね」
アレクの眉が動いた。
「軍備増強が整うまでは教国との決戦は避け、主防衛線を整える。艦隊を再建し、本格的な反攻に出られるまで、時間を稼ぐ。あの方針です」
「忘れるわけがないだろう」
「だからこそバーミリオンでは艦隊を温存することを優先して、星系から撤退したのでしょう」
アレクは答えなかった。
フェリックスは続けた。
「北辰大軍議では、わが軍の本格反攻まで二年を目安とすると決められました。造船所を動かし、将兵を補充し、艦隊を立て直す。それにはどうしても時間が要ります。いま教国軍との間で全軍を動員した決戦となれば、すべての計画が狂います」
『その程度のことは陛下も承知しておられる。お前が行けば済むというものではない』
ミッターマイヤーが言った。
「はい、元帥閣下。ですが、今回の件もバーミリオンからの撤退と同じことです。俺が行くことで軍備増強の時間を少しでも稼げるというのなら、その可能性を試すべきではありませんか?」
フェリックスは通信画面に向き直った。
アレクが口を開いた。
「行くのは別にお前である必要はない。ケスラー元帥に人を選ばせる。お前よりも、外交にも軍の実務にも通じた者は帝国に数多くいる。フェリックス、思い上がるな。お前は皇帝副官とはいえ、いち大尉に過ぎないんだぞ」
フェリックスは一度、父の画面を見てから言った。
「陛下。恐れながら、一つお尋ねします」
「何だ?」
「為政者として、帝国という国家と、一軍人の身の安全と、どちらを優先なさいますか」
通信画面の向こうで、ミッターマイヤーの表情が変わった。
アレクは、すぐには答えなかった。
「……フェリックス。お前は、余が国家の利益よりお前を優先し、反対していると思うのか」
「そうは申し上げていません」
「では、なぜそんなことを訊く?」
アレクはフェリックスを見た。
「お前も一人の帝国臣民だ。国家の利益のために、一人の臣民を使い潰せばよいのか?そういう話ではないだろう」
「臣民であると同時に、俺は帝国軍人です。この軍服は、帝国臣民を守るために着ています。それに、俺は使い潰されるために行くのではありません。帰国の約束はしっかり取ってくださいよ」
アレクはしばらくフェリックスを見ていたが、やがて通信画面へ目を向けた。
「……ミッターマイヤー元帥。一つ訊きたい」
『はっ』
「このまま現地での交戦をきっかけに各宙域で戦闘が拡大した場合、帝国軍は勝てるか?」
ミッターマイヤーはすぐには答えなかった。
『勝てる戦場はいくつもございましょう。しかし、全戦域で勝ち切れるかと問われれば、現時点では何とも申し上げられません』
「理由を聞こう」
『九万隻対十一万隻という単純な船の数だけで勝敗は決まりません。我が軍の六個正規艦隊は、決して戦力として劣っておりません。ですが、明確に勝っているとも言えません。戦闘が広がれば、どの正面にどれだけの戦力を集中できるかで勝敗は変わります』
ミッターマイヤーは一度言葉を切った。
『それに、敵の戦い方については、まだ分からないことが多すぎます。タナトス、マーロヴィア、ロフォーテン、バーミリオンと戦ってまいりましたが、教国軍の全容を把握したとは到底申せません』
「仮に、敵を撃退できたとしてもか」
『はい。敵をどこかの戦場で退けても、我が軍が大きく損耗すれば、北辰大軍議で定めた再建計画そのものが狂います。二年かけて反攻の戦力を整えるはずが、失った艦隊を補充するところからやり直すことになります』
「では、今は決戦を行うべきではない、ということだな」
『我が方から戦線を拡大すべきではないと考えます。ただし、陛下――』
ミッターマイヤーは副官席の息子へ目を向けた。
『それを理由に、大尉を教国へ派遣すべきとは申し上げられません』
アレクは頷いた。
「……分かった」
それからフェリックスへ向き直った。
「お前は、余に難しい決断をさせようとしているな」
「申し訳ありません」
アレクは救難艇の位置を見た。救難艇と収容艦の進路に教国の単座艇部隊が重なる形で飛行を続けており、収容できずにいる。
やがて、皇帝はケスラーへ顔を向けた。
「教国側に確認する。ただし、約束する前に帰還の期限と条件を明確に定める」
「御意」
アレクはもう一度フェリックスを見た。
「まだ行かせると決めたわけではない。最終的には余が決める」
「はい、陛下」
***
【同日 銀河帝国支配宙域・教国境界付近 救難艇】
カリンが声を掛けると、エルフリーデは目を開けた。返事が来るまでに、先ほどより長い間があった。
「エルフリーデさん。お水、飲めそう?」
イルゼが吸い口を寄せる。エルフリーデは少し飲み、もうよいというように手を動かした。むせはしなかったが、イルゼが吸い口を外したあとも、しばらく息を整えていた。
「ポプラン、そっちはどう」
「収容艦は速度を合わせてくれてるよ。問題は、あの単座艇四機だ」
救難艇の前方には、帝国軍の収容艦が進入経路を維持していた。後方から追ってきた教国の哨戒艦四隻と〈アンゲルス〉四機も、退く気配を見せない。単座艇が収容進入の予定空域に重なっているため、ポプランは減速に移れなかった。
カリンが寝台へ戻ると、エルフリーデがイルゼの手を握っていた。口元が動いたので、二人は顔を寄せた。
「……あの子は、来ていないでしょうね」
「ミッターマイヤー大尉なら帝都にいます」
カリンが答えた。
「救難艇には乗っていません」
エルフリーデは目を閉じた。
「……よかった」
イルゼは返事をせず、握られた手をそのままにした。カリンは、呼吸と脈拍の表示をもう一度確かめた。
***
【同日 帝都 獅子の泉「北辰の間」】
教国との回線が開く前に、ケスラーはバーラト自治政府とも回答方針をすり合わせたことを報告した。
「分かった。では、教国とつないでくれ」
アレクが命じた。
教国側との回線が再びつながった。画面にはベルム枢機卿とスアーダ枢機卿、それに第二聖団司令部から参加するベーレント聖将が映っていた。
「ベルム枢機卿。先ほど貴国は、バーラトの救難隊員二名の身柄の取扱いについて合意が必要との立場を示されました」
『はい。その立場に変わりはございません』
「帝国として、両名の身柄を引き渡すことには応じかねる。ただし、本件の事後調査や協議には協力する用意があります」
アレクは一度言葉を切った。
「その調査と協議の担当者として帝国から要員を聖都へ派遣するという案について、貴国のお考えを伺いたい」
『……派遣する担当者とは、どなたをお考えでしょうか』
「余の副官、フェリックス・ミッターマイヤー大尉です」
ベルムはすぐには答えず、スアーダと視線を交わした。
「まだ派遣を決定したわけではありません。貴国に受け入れる用意があるか、まず確かめたいのです」
『承りました。ですが大尉は現地にはおられません。どのような資格で協議や調査に参加されるのでしょうか』
「帝国側の連絡担当者としてです。救難隊員二名の法的責任を代わって引き受けさせるつもりはありません」
『なるほど』
ベルムが答えたところで、スアーダが口を開いた。
『大尉のご派遣は、陛下がご承認されたことでしょうか?』
「大尉本人から申し出がありましたが、余はまだ承認していません。まず、貴国が受け入れる用意があるか、あるとすればその条件を交渉したい」
『そうですか、大尉ご本人からのお申し出でしたか。……それはそれは』
スアーダはそれ以上は問わず、一度頷いた。
『承知いたしました。ご本人からのお申し出であれば、当国として受け入れの用意がございます』
スアーダは、少し間を置いてから口を開いた。
『ところでコールラウシュ女史の離境意思を確認するときも、帝国はご本人の意思を重く見ておられました。大尉についても、同じようにご本人の意思を確認しておくべきでしょう』
「本人からの申し出と、帝国としての派遣の決定は、それぞれ文書に残します」
『ありがとうございます』
スアーダは穏やかに頷いた。
『では、その点を明らかにするためにも、今この場で大尉ご本人のお考えも確認させていただけますでしょうか。後日、意に反してお迎えしたのではないかという疑義を残さぬためです』
アレクは一瞬だけ黙り、フェリックスを見た。
「ミッターマイヤー大尉、前へ」
副官席の画面が開いた。
『フェリックス・ミッターマイヤー大尉でいらっしゃいますね』
「はい」
『今回、事後協議のために教国へ赴くことは、ご自身からのお申し出でしょうか』
「はい。俺自身の申し出です。陛下の許可があれば、行きます」
画面の中のフェリックスが答えた瞬間、第二聖団司令のベーレントの背後に控えていた教国軍の参謀たちの空気が変わった。
首席参謀のクリストフ・オルベルク従聖将が、わずかに目を見開く。その隣の参謀も息を呑み、画面から目を離せなくなった。
フェリックスの顔立ちだけなら、彼らはすでに画像で知っていた。
だが、実際に口を開き、相手を見据えて言葉を返す姿は、画像で見ていた以上に彼らの良く知る人物に似ていた。
声の低さ。言葉を言い切る調子。視線の置き方。
参謀の一人が、ごく小さく呟いた。
「……見たか。ロイエンタール閣下に、よく似ておられる」
「……容姿だけではない。声もだ。あの、御言葉を言い切るときの調子まで……」
別の参謀がそう言いかけて、口を閉じた。しばらく画面を見つめたあと、ぽつりと漏らした。
「……閣下にも、お見せしたかった」
ある参謀は唇を固く結び、二度、三度とまばたきをした。目元に浮かんだ涙を、どうにかこらえていた。
オルベルクは何も言わなかった。ただ、画面の中のフェリックスから目を離せなかった。
参謀たちの低い声は、帝国側の回線までは届いていなかった。ベーレントは背後の気配には気づいていたが、振り返らずにスアーダへ尋ねた。
『確認は以上でよろしいでしょうか、スアーダ枢機卿』
『ええ。ありがとうございます』
スアーダは短く答えた。
『では、派遣される場合の資格と職務の範囲についても、事前にご提示いただけますでしょうか。こちらもどの部署でお迎えすべきかを決めなければなりませんので』
「事務方で協議させましょう」
スアーダは頷き、ベルムへ視線を移した。
『陛下。無許可進入についての我が方の見解は変わりません』
ベルムが引き取った。
『ですが、命令に反してこちらから先に一射が出たことも事実です。このまま両軍の艦艇を近づけておけば、再び事故が起こるおそれがあります。事後協議の窓口が確保されるならば、現場の追跡を終了することは検討できます』
「帝国艦による救難艇の収容を先に行います。貴国の哨戒艦四隻と単座艇四機には、すぐに帝国支配宙域から退いていただきたい。大尉の渡航は、その後、別の行程で行います」
『その順序についても含め、条件を詰めましょう』
ケスラーと教国側の担当官が、合意事項をまとめた。
・救難艇は帝国の収容艦へ収容し、エルフリーデとイルゼを医療班に引き継ぐ。二人が選んだバーラトへの移送を妨げない。
・ポプランとカリンの身柄は教国へ引き渡さない。
・無許可進入と発砲については双方の主張を記録として残して調査を続ける。帝国が回答する事項は、派遣が承認された場合にはフェリックスを連絡窓口とし、バーラトの隊員と航行に関する照会は自治政府が別に対応する。フェリックスは二人の法的責任を引き受けない。
ベルムが、連絡担当者の滞在期間を尋ねた。
『大尉に聖都へお越しいただくのであれば、関係部署への照会と資料の検討にも時間が必要です。どの程度の期間をお考えでしょうか』
「二週間を想定しています」
ケスラーが答えた。
「その間に終わらない協議は、帝国側の別の担当者が引き継ぎます」
『二週間は短い。今回の件は、現場の軍と聖都の複数の部署にまたがっております。大尉の到着後に初めて照会できる事項もあるでしょう。二週間では、ようやく話が始まったところでお帰りいただくことになるかもしれません』
「では、どれほど必要だとお考えですか」
『二か月ほど、お願いできればと思います』
アレクが口を開いた。
「二か月は長すぎる」
『そうお感じになることは理解しております。ただ、協議のために遠方からお越しいただきながら、日程の大半を各部署の返答待ちに費やすのも、双方にとって益のないことでしょう』
「それでも、協議が終わるまで期限を定めずに滞在するという条件は認められません」
『そこまでは求めておりません』
ベルムの返答を受け、スアーダが言った。
『三十日を上限とするのはいかがでしょう。期限が来れば、協議が途中でも大尉にはお帰りいただく。残った事項は、その後に別の担当者と続ければよいと思います』
ケスラーはアレクを見た。アレクが頷くと、条項の確認を続けた。
「聖都での滞在は三十日を上限とします。教国領への入境予定日、聖都への到着予定日、教国領からの出境期限は、出発前に書面で定めてください。移送が遅れても、出境期限は自動的には延びません。それまでに帰国のための輸送を用意していただきます。期限の延長には、大尉本人と帝国政府、双方の新たな同意が必要です。協議が未了であることも、延長の理由にはなりません」
『異存ございません』
スアーダが答えた。
『ご本人の意思を確認する以上、帰国の時期についても、ご本人があらかじめ承知しておられるべきでしょう』
ベルムも頷いた。
『三十日で確認できる範囲について、こちらで予定を組みましょう』
ケスラーが事務的な取りまとめへ移ろうとしたところで、ミッターマイヤーが発言を求めた。
『一点、加えていただきたい』
「何か」
アレクが促した。
『大尉の滞在中、毎日一度、定めた時刻に本人から帝国へ直接連絡させていただきたい。教国側から無事だとお知らせいただくだけでは、十分とは申せません』
『承知しました』
ベルムが答えた。
「通信設備の管理は貴国にお任せします」
ケスラーが応じた。
「ただし、通話に教国側の立会いを必須としないこと。接続できなかった場合は理由を伝え、同日中に再接続の機会を設けること。この点は明記させてください」
『よろしいでしょう』
ベルムは担当官と確認してから答えた。
『そのように定めましょう』
草案がまとまったところで、アレクは音声を切り、ミッターマイヤーへ目を向けた。
『陛下。私の反対は変わりません』
元帥はそう言ってから、続けた。
『一か月となれば、なおさらです。それでもお許しになるのであれば、帰国の便と毎日の連絡時刻は、私にもお知らせください』
「必ず伝えよう」
アレクはフェリックスを呼んだ。
「条件を聞いたな。余が当初考えていたより、長い滞在になりそうだ」
「はい、陛下」
「三十日で帰すという約束は取る。だが、破られたとき、余がすぐに迎えに行けるとは限らない。それでも考えは変わらないか」
「変わりません」
「女史の警告も憶えているな。教国はお前を待っている、と」
「はい」
「何かあれば必ず連絡しろ。自分だけで決めて済ませるな」
「はい」
教国との音声が戻された。アレクは、先ほどの条件で大尉の派遣を承認する意思を伝え、教国側の正式な回答を求めた。
スアーダが口を開いた。
『では、今回のご訪問は、大尉ご本人のお申し出に始まり、陛下が条件を定めて派遣を承認された。その経緯で、よろしいでしょうか』
「結構です。ただ、期限と帰国の手順は文書で取り交わしたい」
『承知しております』
アレクは答えず、スアーダを見た。彼女は穏やかな顔のまま、ベルムの返答を待っていた。
ベルムは最終条項を確認し、受諾した。
双方の確認書が取り交わされると、ベルムは聖序寮の担当官を呼んだ。
『第二聖団へ伝達せよ。現場の追跡を終了し、哨戒艦四隻と単座艇四機を帝国支配宙域から退去させるのだ』
***
【同日 聖都ラディークス 聖序寮】
帝国との通信が終わると、ベルムは取り交わした確認書にもう一度目を通した。
「……あれでよかったのか?せっかく来ても、三十日で帰すことになるぞ」
「ええ。そうお約束しましたから」
「大尉を迎えるために、あれだけの条件を受け入れたのだ。三十日だけで十分なのか?」
スアーダは少し考えた。
「帰国の日になっても、大尉ご自身が、
ベルムはしばらく彼女を見ていたが、それ以上は訊かなかった。
***
【同日 第二聖団〈律法〉司令部】
聖序寮の認証が付いた命令が届いた。ベーレントは合意文書と照らし合わせてから、担当官を呼んだ。画面の端には、四隻の艦長から繰り返し寄せられてきた撤退の具申が並んでいた。
「哨戒艦四隻は帝国支配宙域から退去。射撃管制による捕捉を解除させなさい。〈アンゲルス〉四機も、収容艦への進入空域から退避させること」
「追跡終了でよろしいのですか」
「現地での追跡は終わりです。救難艇の無許可進入の調査は続けます。命令違反の発砲も、処理を終えていません」
担当官が命令を送ると、ベーレントは単座艇の予測進路を開いた。
「救難艇の前を横切らないように退かせてください。これ以上、危険な機動をさせる理由はありません」
「承知しました」
「それから、発砲時の通信記録と、各艦長からの撤退具申をすべて私のところへ回してください。顛末書は私が作成します」
「司令ご自身が、ですか」
「撤退を認めず、射撃管制の維持を命じたのは私です。砲術員が命令に反して発砲したことも、私が何を命じていたかも、省かずに記します」
***
【同日 第二聖団〈律法〉哨戒艦艦橋】
「司令部から、命令変更です」
ヨアヒム・キルナー聖三佐は、通信士の顔を見た。
「今度は何だ」
「射撃管制による目標捕捉を解除。帝国支配宙域を速やかに退去せよ、とあります」
キルナーは、最後の一節をもう三度読ませた。
「……本当に、本当に帰っていいんだな」
「はい。ベーレント司令の認証も確認しました」
「もう一度読んでくれ。頼む」
「艦長、五度目です」
「六度目まで付き合え。さっきまで死にかけていたんだぞ。急に帰っていいと言われても、そう簡単には信じられん」
通信士は命令をもう一度読み上げた。
「……よし!本艦、指定針路へ。射撃管制解除。砲は絶対に撃つな。誰が何と言おうと撃つな!」
「艦長、それも先ほどから三度目です」
「だったら四度目だ。徹底しろ!」
復唱が艦橋を走った。
命令違反の一射を放った若い砲術士は、すでに席を外されていた。第二砲術席には別の乗員が座っている。キルナーはその席をちらりと見たが、何も言わなかった。発砲についての調査は帰投後も続く。まずは艦を無事に帰すことだった。
艦がゆっくりと針路を変え始めた。
「……十年は減ったな」
キルナーが呟いた。
「何がですか?」
「俺の寿命だ。こっちは住宅ローンがまだまだ残ってるんだ。減るならローンの残額の方にしてもらいたかったよ」
通信士が思わず吹き出した。
「笑い事じゃないぞ。お前はまだ若いからいい。俺には女房と、初等学舎の子が三人もいるんだ。まだまだ金がかかる。さっきは本気で二度と家に帰れないと思った。あいつらにローンまで残すところだったんだぞ」
「艦長、ほかの三隻も退去針路に入りました」
「単座艇は?」
「管制艦から離隔指示が出ています。現在、確認中です」
「よし。全艦が進路を空けるまで、目を離すな」
キルナーは戦術表示へ向き直った。帝国巡航艦の照準警告が、少しずつ弱くなっていく。
「……まったく」
大きく息を吐き、艦長席の背に身体を預けた。
「司令部の気が変わらんうちに、さっさと帰るぞ。今日は帰ったら浴びるほど飲んでやる」
「艦長、帰投後には発砲事故の顛末書と、司令部への出頭が待っていますが」
「望むところだ。至福の忙しさじゃないか」
「……至福、ですか?」
「ああ。怒られる一秒一秒で、生きてるって実感が湧く。さっきまではその一秒があるかどうかも怪しかったんだからな」
***
【同日 共同救難作戦・帝国軍前進指揮艦】
教国から退去の通知が届いても、アルブレヒト少将はすぐには収容を許可しなかった。
クラインが観測記録を追っていた。教国の哨戒艦は順に射撃管制を解除し、単座艇も隊形を解いて退避を始めた。
「単座艇四機、離隔を確認。進入空域、空きました」
アルブレヒトは一つ息を吐いた。
「収容進入を許可します。救難艇には、急な機動は要らないと伝えてください。女史の容体を最優先に」
***
【同日 銀河帝国支配宙域 救難艇】
「ようやく許可が出たな」
ポプランが進入予定を呼び出し、収容艦との相対速度を確かめた。減速へ入る前に、彼はもう一度だけカリンへ声を掛けた。
「これから速度を落とす。前に話した範囲でやる。何かあったら言ってくれ」
「分かった。エルフリーデさん、いまから収容艦へ入ります」
寝台の上でエルフリーデが目を開けた。イルゼが視線を合わせ、手を握る。カリンは身体の負荷を見ながら、操縦席へ減速量を伝えた。
「今のまま。急がないで」
「了解。こっちだって、急ぎたいのは山々なんだがね」
艇はゆっくり速度を落とし、収容艦の格納区画へ近づいた。ポプランは小刻みに姿勢を合わせ、カリンの求める範囲から負荷が外れないように操縦を続けた。固定装置が艇体を受け、軽い衝撃が床へ伝わった。
「入ったぜ」
「固定が終わるまで、まだ待って」
「分かってる。最後の一歩で転ぶのは柄じゃないさ」
艇の固定が終わり、ハッチが開いた。受入れの医療班が入ってくるとカリンは女史の状態と飛行中に負荷を抑え続けたことを伝えた。
「姿勢を保って、医療区画へ移します」
医師が答えた。
エルフリーデが搬送台へ移され、医療班が運び出そうとしたときだった。
「……カリンさん」
呼ばれたカリンが身をかがめると、エルフリーデはその手をそっと握った。
「……ポプランさんも」
「はいはい、ちゃんと聞こえてるぜ」
操縦席からポプランが顔を出した。
エルフリーデは二人を見た。
「……ありがとう。あなたたちが来てくれなかったら、イルゼと二人で、ここまで来られなかったわ」
言葉を継ぐまでに、少し時間がかかった。
「……本当に、ありがとう」
イルゼもカリンのそばへ来た。
「私からも、お礼を言わせてください」
彼女はポプランにも目を向けた。
「あの場所へ迎えに来てくださって、それからも、ずっと私たちを守ってくださって……。本当にありがとうございました」
イルゼは深く頭を下げた。顔を上げたとき、その目には涙が浮かんでいた。
「お礼なんて、いいのよ」
カリンはイルゼの手を取った。
「二人とも、無事にここまで来られてよかった。あとはお医者さんに任せましょう」
「そうそう。礼なら、ハイネセンで上等な酒を一杯おごってくれ」
ポプランが笑った。
「今度は操縦桿じゃなく、グラスを握っていたいんでね」
イルゼは涙を拭いながら、小さく笑った。
「ええ。ぜひ、お二人とも」
医療班が搬送台を押し出した。イルゼはもう一度ポプランとカリンに頭を下げ、それからエルフリーデについていった。
「やれやれ」
ポプランが座席の背へ手を掛け、ようやく立ち上がった。
長いあいだ姿勢を変えなかったせいで、膝が思ったより伸びなかった。
***
【同日 帝都 獅子の泉「北辰の間」】
救難艇の収容完了を知らせる報告が、皇帝副官席にも届いた。フェリックスは内容を確かめ、アレクの前に立った。
「陛下。救難艇の収容を完了しました。乗員二名、同行者二名、計四名です。ポプラン氏、クロイツェル・ミンツ氏、イルゼ・ヴァイゲルト女史」
フェリックスは次の名に目を移し、小さく息を継いだ。
「エルフリーデ・フォン・コールラウシュ女史。医療班に引き継がれました」
「容体はどうだ?」
「意識はありますが、返事の遅れは続いているということです。バーラトへの後送は、医療班が移動可能と判断してからになります」
アレクがケスラーと今後の軍務省の対応について話し始めたところで、通信画面の向こうからミッターマイヤーが息子を呼んだ。
『フェリックス』
「はい、父上」
『……エヴァには、何と言う』
フェリックスは少し考えた。
「教国の聖都に行って三十日で帰る、と」
元帥の表情は変わらなかった。
『自分で言え』
「はい」
『俺も帰ってから話す』
通信が切れた。
アレクはそのやり取りを聞いていた。ケスラーとの打ち合わせを終えると、フェリックスへ顔を向けた。
「フェリックス。今日はもう下がれ」
「ですが、陛下。まだ仕事が――」
「残りはケスラー元帥や他の者に任せる。お前には、家でしなければならない話があるだろう」
フェリックスは一瞬、アレクを見つめた。
「……ありがとうございます、陛下」
「明日はいつもより少し早く来い。お前が聖都に行く前に片づけてもらわなければならない仕事が残っている」
「はい」
フェリックスが敬礼すると、アレクは小さく頷いた。
***
【同日 帝都レーヴェンシュテルン ミッターマイヤー邸】
フェリックスが実家の居間へ入ると、エヴァンゼリンは卓に向かっていた。軍服姿の息子に気づくと、少し驚いたように顔を上げた。
「あら、フェリックス。お仕事はどうしたの?」
「陛下が、今日はもう帰っていいってさ」
「まあ、そうなの。珍しいわね」
エヴァンゼリンは嬉しそうに笑った。
「お夕飯は?うちで食べていくでしょう」
「ああ。父上ももうすぐ帰るって」
「それなら、今日は三人で食べられるわね。何か好きなものを作りましょうか」
エヴァンゼリンが立ち上がろうとしたところで、フェリックスが声を掛けた。
「……母さん」
「なあに?」
「俺、ちょっと教国へ行ってくるから」