後世、一人の歴史家が辺境の資料保存所を訪れた。
彼が研究していたのは神聖黄金樹教国の建国期――『黄金樹大戦』と呼ばれ、かつて銀河を二分した戦乱の時代だった。
春の終わりに近い午後だった。
資料保存所はかつて教国の行政機関であった『聖管区』と呼ばれていた役所の建物を改修したもので、玄関の石柱には黄金樹の枝が浅く彫られていた。長い年月のあいだに幾度も補修され、枝の先端はほとんど形を失っていた。
二階の閲覧室には大きな窓が並んでいた。
午後になると西日が机の奥まで入り込むため、古い資料を扱うには遮光幕を下ろさなければならない。歴史家は幕を半分だけ下ろし、窓際の席で記録を調べていた。
その日は若い研究員が手伝いに来ていた。
「先生、次はこの箱です。目録には『民生関係雑件』とありますが、中身はまだ全部確認できていません」
「ずいぶん大きな箱だね」
「これでも半分です。残りは下の収蔵庫にあります」
「とても今日中には終わらんな」
「最初からそのつもりです。明日もお席を取ってありますよ」
研究員は笑いながら箱を開け、古い帳面を数冊取り出した。
表紙にはすっかり消えてしまった文字もあれば、聖王の紋章が鮮明に残っているものもあった。
歴史家が開いたのはかつて聖管区内にあった、一軒のパン工房の作業記録だった。
記録は教国の公用語の一つだったラテン語で書かれていた。
日ごとの焼成数、粉や燃料の使用量、共同食堂や施療院への納品数などが並んでいる。
頁を繰っているとある日の焼成数に訂正が入り、余白に窯の点検を求める書き込みがあるのが目にとまった。
歴史家はその箇所を読み直した。
ずっと昔、まだ彼が歴史学の学位論文に取り組んでいた若者だった頃、かつて聖管区で暮らしていたことがあるという老女を訪ね、話を聞いたことがあった。
老女は当時すでに百歳を超えていた。
小さな住居で一人暮らしをしており、歴史家が訪ねると客間の椅子に座って昔の話をしてくれた。
最初のうち聴き取りはあまりうまく進まなかった。
歴史家が知りたかったのは、ある年にその惑星へ進駐した教国軍のことだった。住民が何を知らされ、いつから聖管区の行政が始まり、軍の到着によって町にどのような変化があったのか。あらかじめ用意した質問を順番に尋ねていった。
ところが老女は少し話すとすぐに食べ物の話に戻ってしまう。
「パンがね、昔はもっと硬かったのよ。あんたたちのような若い人が今食べているのとは違ってねえ。焼きたての端っこなんて、歯の弱い人はとても食べられなかったわ」
「その頃、
「来ましたよ。大きな人たちでねえ。よく食べるのよ。あの人たちが来る日は、私たちもいつも余分に焼いてたわ」
「それは、軍が進駐した年のことですか?」
「さあ、どうだったかしら。もっと後だったかもしれないわ」
老女はしばらく考えていたが思い出せなかったらしく、またパンの話に戻った。
彼女は若い頃、聖管区のパン工房で働いていた。毎朝まだ暗いうちから窯に火を入れ、共同食堂や教団の運営していた施療院へ届けるパンを焼いていたという。
「一度ね、窯の調子が悪いのに気づかなくて、生焼けのパンを出してしまったことがあるのよ。子供たちがお腹を壊してしまってねえ。あのときは叱られたわ」
老女は苦笑した。
「それからは焼き上がりを確かめるのにずいぶんと神経を使ったわ。冬の祭日には蜂蜜を少しだけ多めに入れてねえ。近所の子供たちは、あれを本当に楽しみにしていたのよ」
歴史家は適当に相槌を打ちながら、次の質問へ移る機会をうかがっていた。
やがて予定の時間が過ぎた。次の訪問先へ行くために記録装置を片付けると、老女はもう帰るのかと少し残念そうな顔をした。
「先生、またいらっしゃるなら、今度はお茶でも飲んでいってね」
「ええ。また伺います」
歴史家はそう答えたが、結局その家を再訪することはなかった。老女が亡くなったと知ったのは数年後のことだった。
***
それから長い年月が過ぎた。
歴史家は手元の帳面へ目を戻した。
資料保存所の受入記録によれば、この帳面はあの老女の遺品として親族から寄贈されたものだった。彼女が働いていたパン工房の作業記録である。
歴史家は窯の不調を記した頁をもう一度開いた。
焼き上がりの不十分なパンを納品し、その後、子供たちから腹痛の訴えがあったことが記されていた。昔、老女が話してくれたとおりだった。
記録の末尾には作業を確認した者の署名があった。老女の名前だった。
歴史家はその文字をしばらく眺め、それから帳面を閉じた。
「先生、そちらは何かありましたか?」
「昔、話を訊いた人の帳面が出てきてね。パン焼き窯の調子が悪くて、生焼けのパンを出してしまった日の記録があったよ」
歴史家が帳面を箱へ戻そうと持ち上げたとき、頁の間から小さく折り畳まれた紙片が滑り落ちた。
机の上に落ちた紙片を研究員が指さした。
「何でしょうか?何か挟まっていたようですね」
二人は紙片を傷めないよう折り目を支えながら慎重に広げた。
紙は古びていたが帳面の頁に挟まれていたためか外側の傷みは少なかった。片隅には薄い染みがあり、中央には長く折られていた跡が残っていた。
日付も署名もない。
整った筆跡で十三行の文章が綴られていた。
冒頭には表題と思われるラテン語の一語が本文より少し大きな文字で記されていた。
『
歴史家は眼鏡を直し、最初の一行から読み始めた。
***
せめて一度、この門を自分の手で開けてみたい。
転んでもいい。間違えてもいい。
子は、門の外にも道があることを知らない。
私の名は、教団の帳面の中にある。
朝の鐘が鳴ると、冷たい石段を下り、言われた場所で働く。
ここは、私たちの家ではない。
そう思うのは、もうやめた。
ここで子が大きくなるのを見ていられたら、それでいい。
子は、もう飢えて眠ることはない。
朝になれば、今日もパンを焼く仕事がある。
夕暮れ、門が閉じられるころ、いつもの門番が私の名を呼んでくれる。
もう、転ぶことはない。間違えることもない。
この門が、私たちを守ってくれる。
***
「詩のようなものだね。君も読んでみるかい?」
研究員は紙片を受け取り椅子に腰を下ろして読み始めた。終わりまで読むと冒頭に戻って数行を確かめた。
「最初はずいぶん厳しいことが書いてありますね。ですが最後は、『この門が、私たちを守ってくれる』、と結んでいる。当時、教団に救われた人の率直な気持ちが伝わってきます」
「そうだね」
「こういう信仰告白の仕方もあったんでしょうか?教団の記録には信徒の共同体に迎えられた人たちの感謝の言葉が多く残っていますが、これもそういったものですかね」
歴史家は紙片を受け取り最初と最後の行を見比べた。中央の一行に目を止めそれから今度は末尾から順に読んでいった。
「……おい。これ、下から読んでみてくれ」
「下からですか?」
「一行ずつ、順番を逆にして」
研究員は不思議そうな顔をしたが言われたとおりに読み始めた。
「……なるほど。どちらなんでしょう。上からか、下からか」
「さあな。書いた本人に訊くしかあるまい」
研究員は隣に置かれた古い帳面を見た。
「この帳面の持ち主が書いたんでしょうか?」
歴史家は帳面を開き直し、先ほど見つけた老女の署名と紙片の文字を並べてみた。
帳面には何人もの書き込みがあった。老女の署名は短く、比較できる文字もわずかだった。同じ人物が書いたと判断できるほどの特徴は見いだせなかった。
「……分からんね」