【新帝国暦二十四年四月末 教国領リオ・ヴェルデ星系外縁 教国入境引継ぎ地点】
銀河帝国軍大尉、皇帝副官フェリックス・ミッターマイヤーは、旅行鞄を提げて二隻の連絡艦をつなぐ通路を渡った。
教国側の舷門には、受入れの担当官が立っていた。
同行の帝国軍士官と受入れの確認を終えると、担当官はフェリックスへ日程を示した。
「入境日と出境期限を、お確かめください」
帝都を発つ前に渡された旅程と同じだった。フェリックスは期限を確かめ、担当官へ顔を上げた。
「確認しました」
それで引継ぎは済んだ。フェリックスを送り届けた帝国側の士官は端末をしまい、彼に向き直った。
「では、ミッターマイヤー大尉。お気をつけて」
「ありがとう。そちらも気をつけて」
二人が敬礼を交わすと、帝国軍士官は連絡通路へ戻っていった。
入れ替わるように、教国側の担当官がフェリックスの前へ進み出た。
「ようこそ、神聖黄金樹教国へ。ミッターマイヤー大尉のご来訪を、心より歓迎いたします」
「ありがとうございます」
担当官は丁寧に一礼し、脇へ退いた。
フェリックスは舷門脇の外部映像へ目を移した。
ハッチが閉じられ、二隻をつないでいた連絡通路が引き込まれていく。彼は足元に鞄を置き、帝国艦が離れるのを待った。
この渡航に先立ち、教国は〈大斉鐘〉の解除を帝国に通知していた。四聖団と親衛艦隊は戦区と任務に応じて即応態勢を順に緩め、帝国軍も観測報告を確かめながら警戒を調整していた。
両国はなお戦争中だったが、今回の救難をめぐる艦隊間の全面交戦はひとまず回避された。
移乗前に帝国側から受け取った報告にはエルフリーデの容体も記されていた。収容後に容体が悪化し、意識は戻っていない。現在は状態が落ち着き、ハイネセンへの医療後送の準備が進められているという。
外部映像の中で帝国艦がゆっくりと離れ始めた。先ほどまで画面の大半を占めていた舷側が小さくなり、艦首までが見えるようになる。同行の士官も航海のあいだ顔を合わせていた乗員たちも、皆あの艦で帰っていく。次に帝国の者と話すのは、定刻の超光速通信になる。
ふと、帝都を発つ前、実家の居間で聞いたエヴァンゼリンの声を思い出した。
「『ちょっと』なんて言わないで。そんな簡単なことじゃないでしょう」
心配させたくなくていつもの外出のように口にしたのだった。出かける本人が大丈夫そうにしていれば、母も安心すると思っていた。
遠ざかる艦を見ていると、もう少し話しておけばよかったと思った。
「大尉」
振り向くと、教国の担当官が少し離れたところで待っていた。
「お部屋へご案内してもよろしいでしょうか」
「お願いします」
フェリックスは鞄を持ち上げ、担当官の後について艦内へ歩き出した。
***
【新帝国暦二十四年四月末 教国領タナトス星系 聖都ラディークス】
連絡艦での航海を終えたフェリックスは、降下艇の窓から聖都ラディークスを眺めていた。
眼下にはラディークス中央宇宙港が広がっていた。幾筋もの発着路と広大な駐機区画、その間を結ぶ交通路が地平の彼方まで続いている。長い格納庫や貨物集積施設が整然と並び、離陸する船と着陸態勢に入る船が、絶え間なく行き交っていた。
大型貨物船の船腹には黄金樹の紋章が描かれていた。何隻もの輸送船が荷役設備につながれ、積み下ろされたコンテナが次々と搬送車に載せられていく。旅客区画では細身の定期船が発着を繰り返し、建物と船を結ぶ搭乗通路の下を、荷物を載せた車両が走っていた。黄金樹の紋章を掲げた民間船がこれほど集まる光景を、フェリックスは初めて見た。
中央宇宙港の一角は軍港になっていた。民間区画とは離れた発着場に、軍用輸送艦が何隻も停泊している。補給物資を積んだ車列が船腹へ吸い込まれ、一隻が発進すると、空いた位置へ別の輸送艦が降りてきた。
フェリックスはその艦影に見覚えがあった。船首から船腹へ続く輪郭と、外側へ張り出した輸送区画。帝国軍の識別資料で幾度も見た、教国軍第三聖団〈フェザーン〉の高速輸送艦だった。別の発着場には同型艦が並び、上空にも二隻が進入している。
民間船の離着陸も、軍港の荷役も、途切れる様子がなかった。降下艇が港の上空を旋回する間にも、眼下では何隻もの船が入れ替わっていた。
港の向こうには、石造の建物が重なっていた。
陽の当たる壁は明るく、屋根の間へ落ちる陰は深い。
その上に、金色の尖塔が一本抜け出している。頂に近づくほど細かく分かれた枝のような装飾が光を受け、艇が向きを変えると、さっきまで暗かった側が輝いた。
フェリックスは塔の下へ目を移した。だが、そこは手前の建物に隠れていた。降下が進むにつれ、塔の見えている部分は短くなり、やがて港の屋根の向こうに先端だけが残った。
「大伽藍の大尖塔です」
隣席の担当官が言った。
「このあと、あちらへご案内いたします」
「もう見えるんですね」
「ええ。高さはおよそ六百二十メートルございます。聖都のかなり遠くからでも望めますので、街ではあれを目印にする者も多いのです」
担当官は窓の向こうへ目を向けた。
「『ラディークス』という名は、ラテン語で『根』を意味いたします。母なる地球に根を下ろし、銀河の星々へ枝を広げる。あの黄金樹の尖塔には、そうした教えが表されているのです」
「なるほど。街の名前にも意味があるんですね」
「はい。遠くへ旅立った者が帰ってくると、まずあの塔を探す、とこの街では申します。私も長く聖都を離れていたときには、帰りの船からずっと探しておりました」
担当官は少し照れたように笑った。
「見つけると、帰ってきたと思うものです」
フェリックスは窓の外へ目を戻した。黄金樹の先端は、今にも港の屋根の向こうへ隠れようとしていた。
着陸した艇の扉が開くと、外の空気とともに、遠くの機関音が入ってきた。
フェリックスは鞄を受け取り、舷梯を降りた。発着場の縁には警備兵が立ち、その背後では荷を積んだ車両が格納庫へ向かっている。
地上に立って見渡すと、窓からは近くに見えた建物同士の間にも、かなりの距離があった。
迎えの係官は彼を屋内へ通し、通信設備のある控室へ案内した。帝国への定刻の超光速通信を済ませた。エルフリーデの意識が戻ったという知らせは、まだなかった。
身支度を整えている間に、鞄は車へ運ばれた。
廊下へ出ると、大伽藍の典礼官が待っていた。聖王の御前へ進む位置と名を呼ばれてから応礼する順序を説明し、最後に付け加えた。
「大尉は帝国軍の礼をお取りください。お進みいただくところは、私からご案内いたします」
「承知しました」
典礼官は迎接区画へ続く扉の前で、外の係員へ合図を送った。
扉が開かれると、日差しの中に並ぶ儀仗隊が見えた。
灰褐色の軍服を着た兵士たちが、長い列を作っていた。肩の高さが揃い、列の端に掲げられた黒い旗には、金糸の黄金樹が大きく広がっている。風が吹くと布の下端が持ち上がり、根の部分までが開いた。旗手は旗竿をわずかに支え直したが、足は動かさなかった。
金管の音が鳴った。高く伸ばされた音を、低い音が受け、短い旋律になって繰り返された。広い発着場へ向けて吹かれる音は明るく、壁際まで来ると強く耳を打った。
フェリックスが典礼官とともに進むと、儀仗隊の指揮官が号令を掛けた。
号令に応じて兵士たちが姿勢を揃える動きは、帝国軍の儀仗でも見慣れていた。列に沿って靴音が重なる。フェリックスは指定された位置で止まった。
指揮官の礼に応じる前に、典礼官が一歩進み、ラテン語の唱句を述べた。
短い祈りが終わると、兵士たちが応じた。低い声が列全体から返り、傍らに控えていた係官たちも同じ言葉を唱えた。
フェリックスはその終わりを待ち、帝国軍の敬礼を返した。祈りを唱えない彼へ、誰も何かを促すことはなかった。
典礼官が身を引くと進む道が開けた。フェリックスは列の前を通った。近くで見る旗の金糸は風に折れるたびに細かな光を返していた。
軍楽がもう一度あの旋律を奏し、兵士たちは彼が通り過ぎる間、礼を保っていた。
大尉として事後協議に来た者へ、ずいぶん大きな礼が用意されている。この礼は、誰に向けられているのだろう。
車の前で、受入れの担当官が扉を開けた。フェリックスは典礼官に続いて乗り込み、列の方へ最後に目を向けた。車が走り出しても、旗はまだ風の中に開いていた。
港を離れると、車列は両側に石造建築の続く通りへ入った。
窓の外を柱と軒の陰が流れ、その間から店先や路地の奥が見えた。道の向こうを荷車が横切り、庇の下には品物を見ている人々がいた。広場へ出るたびに、あの金色の尖塔が建物の上へ現れた。
沿道の人々は車列を見ていたが、一様に声を上げているわけではなかった。迎賓車に掲げられた黄金樹の小旗に気づき、足を止めて頭を下げる者がいる。
前へ出ようとした子供を引き寄せ、襟元を直している女もいた。その子は母親の手を抜け出す代わりに、背伸びをして窓の中を見ようとしていた。
通りが曲がると、人垣も窓から外れた。脇道では店の男が台車の車輪を段差へ持ち上げ、もう一人が荷箱を押さえている。
車列が通ったあと、後方で止められていた車両が動き始めた。フェリックスは窓に映る自分の軍服を少し避けるようにして、街路の先へ目を向けた。
大伽藍に近づくにつれ、塀の向こうに大きな屋根と回廊が見えてきた。新しい石の面の間には、灰色のコンクリートの壁も残っている。窓の細い監視棟らしい建物を過ぎたところで、車は正門前に停まった。
降りたフェリックスの前には、鉄の門扉があった。表面は塗り直されていたが、縁や継ぎ目の凹凸までは消えていない。扉を支える金具の周囲だけ、黒い鉄肌が覗いていた。フェリックスがそこへ目を留めると、典礼官が言った。
「この門は、旧自由惑星同盟の惑星エコニアと呼ばれていた時代の捕虜収容所だったときから残されているものです」
門扉が開いた。低く軋む音が石壁の間へ返り、向こうに明るい広場が見えた。典礼官は扉の動きが止まるのを待ってから進んだ。フェリックスもそのあとに続き、古い鉄の縁を間近に見ながら通り抜けた。
広場の向こうには、さらに回廊が続いていた。脇の建物から白い布を掛けた台車が出てきて、係員が別の棟へ押していく。開いた扉の内側には机が並び、長衣の男が立ったまま端末を見ていた。彼らは典礼官と来客を認めると通路を空け、二人が過ぎてから仕事へ戻った。
回廊の陰へ入ると、顔に当たっていた日差しがなくなった。柱の間には明るい広場が見え、軒を縁取る金細工の葉は日を受けて光り、重なったところに細い影を落としていた。
回廊の先に、もう一つ門があった。典礼官はそこで待っていた係員へ短く言葉を掛け、フェリックスを先へ導いた。
門を抜けたところで、視界が左右へ開けた。
広い前庭の向こうに、主聖堂があった。大扉の脇に立つ係員たちの姿と見比べてようやく扉の高さが分かった。両側の列柱は回廊のものよりはるかに太く、深い陰を挟んで並んでいる。柱の上へ続く石壁は仰がなければ端まで見えなかった。
フェリックスは顎を上げた。
正面の屋根の向こうからドームが丸くせり上がり、そのさらに上へ、港から見ていた黄金樹の尖塔が伸びていた。幹から左右に張り出した枝は、先へ行くほど細かく分かれ、その隙間に空を透かしている。遠くでは一つの金の光に見えていた部分に、いまは太い枝の陰と、日を受ける細い枝の輪郭があった。
左右の建築は前庭を挟んで続き、列柱廊の陰が明るい石畳へ長く落ちていた。壁の足元を行く人々は、柱の間へ入ると姿が消えた。建物のあいだに残された監視棟も、主聖堂と見比べれば小さな付属棟のようだった。
ただ、美しかった。
典礼官が主聖堂側へ到着を伝えている間、フェリックスはその場に立ち、黄金樹を見上げていた。
「お進みください」
フェリックスは典礼官へ顔を戻した。
「はい」
前庭を横切る間に、主聖堂の上部は視界から外れていった。代わって扉の面が大きくなり、脇に立つ者たちの顔が分かるようになった。低い鐘の音が頭上から届いた。フェリックスが音のした方へ目を向けるより早く、その響きは正面の石壁からも返ってきた。
扉の前で典礼官が立ち止まり、内側からの合図を待った。フェリックスも正面を向いた。やがて、左右の大扉がゆっくりと開き始めた。
***
開いていく扉の間に、奥へ続く通路が見えた。床には高いところから入る光が斜めに落ち、その先で、人々の並ぶ列が遠くまで延びていた。突き当たりにある壇は明るかったが、そこにいる者の顔は分からない。入口の左右が広がるにつれ、さらに外側の列柱と、その奥に重なる通路も見えてきた。
歌声が流れ出してきた。外で聞いていた鐘よりも柔らかく、いくつもの声が重なって、扉の前まで届いていた。典礼官が歩き始める。フェリックスはその後ろについて敷居を越えた。背に当たっていた風が弱まり、香の匂いがした。
両側には灰色の装甲兵が数十体並んでいた。教国が誇る陸戦部隊、聖騎士〈ケルビム〉である。
外套の下に両手剣が見え、装甲の面には細い金色の線が刻まれていた。動かない兵の前を通ると、線が光を返す位置が変わった。フェリックスは近くの一体を見てから、その先にも続く灰色の列へ目を移した。
その向こうには、司祭や軍人がいた。椅子に座った者も、通路の脇に立つ者も、近づいてくる二人へ顔を向けた。典礼官が通り過ぎても、視線はまだこちらに残っていた。フェリックスは、彼らの前を帝国軍の軍服で歩いた。
足音は歌声の下へ沈んだ。ときおり近くの列から衣擦れが聞こえたが、それもすぐ遠くなる。
歌っている者たちを探して、フェリックスは顔を上げた。左右の高廊に白い衣が並んでいた。手前の柱に隠れていた列が、進むにつれて見えてくる。正面から聞こえると思っていた歌声が、今度は頭上に広がった。
港で聞いた旋律だった。神聖黄金樹教国の国歌である。
「母なる地球よ、われらは御身を讃える
御身より生まれ、御身を呼び求める
数多の星々をさすらうわれらは
その心を御身に捧げる」
金管が短く区切っていたところを、人間の声は長く保ち、その下から別の高さの声が重なってくる。
「夜の中をさまよっていたわれらは
今、その枝の下に住まう
一つのパン、一つの食卓
一つの希望がわれらを集めた」
ひとつの節が終わっても、先の音がまだ残り、次の声と混じった。フェリックスは歩きながら、その節がもう一度戻ってくるのを待った。
香炉の近くを過ぎると匂いが濃くなった。燭火が並ぶ低いところでは、近くの衣の金糸が細かく光っている。上の石壁へ届く光は、それより白かった。
大きな柱を過ぎたとき、天井が途切れたように見えた。
フェリックスは視線を上げ直した。身廊の天井よりもはるかに高く、ドームの内側がせり上がっていた。曲面に沿う装飾は、明るい側では細い線になって重なり、光の届かない奥では輪郭を失っている。見上げているあいだも、手前の大柱が視界の端をゆっくりと過ぎていった。
ドームの下では、通り過ぎた側からも歌声が返ってくるようだった。
「われらのために斃れた者たちは
母なる地球のもとに安らぐ
いかなる名も、消されることなかれ
光よ、星々のあいだに広がれ」
典礼官は歩調を変えず、祭壇へ向かって進んだ。帝都の宮廷でも、皇帝のもとへ客が進む間、その歩調や礼を多くの者が見ていた。フェリックスは普段、皇帝の近くでその者たちを迎える側にいた。今日は、奥へ進むたびに新しい顔がこちらを向いた。
祭壇の左右には、四聖団の軍旗が下がっていた。共通の黄金樹を戴きながら、縁取りには臙脂、象牙色、深緑、紺青が使われている。風の届かない堂内では黒い布が重く垂れ、燭火を受けた金糸だけが襞に沿って明暗を変えていた。
教国中枢を統べる七人の枢機卿は、その旗の間の席に着いていた。黒い長衣に金糸の刺繍が入り、胸元から裾までの布が深い襞を作っている。
スアーダ枢機卿の顔が分かった。別の側にはベルム枢機卿がいた。外交通信の画面で言葉を交わした二人も、ここではほかの枢機卿とともに、黙って来訪者を待っていた。
七人のうちの一人、年配の枢機卿と目が合った。老人はフェリックスに向かってにっこりと笑い、片目をつぶってみせた。
フェリックスは少し驚いた。こんな場所でウインクされるとは思わなかったのである。彼が小さく会釈すると、老人は嬉しそうに頷いた。
祭壇の中央には、玉座があった。そこから脇へ離れた場所に、もう一つ椅子が置かれていた。飾りの少ない暗い色の椅子で、座っているのは老女だった。その席の床だけが、玉座のある場所より一段高かった。
「慈母司牧アガーテ聖下でございます」
典礼官が声を落として告げた。
フェリックスは老女へ目を向けた。膝の上に手を重ね、こちらを見ている。彼は会釈した。アガーテの口元が穏やかに緩んだが、言葉はなかった。
典礼官は祭壇前の位置で止まり、フェリックスにそこへ立つよう示した。中央の玉座は、まだ空いていた。
「聖王ヴィルヘルミーネ陛下、出御」
声が堂内の音響設備を通して響いた。椅子に座っていた者たちが立ち上がり、衣の擦れる音が一度に広がった。通路側の司祭たちは頭を垂れ、軍人たちは礼を取った。アガーテは椅子に座ったままだった。
祭壇の奥側に、白い衣が現れた。
聖王ヴィルヘルミーネ――ミナは、長い式服の裾を石床に引きながら歩いてきた。高窓から落ちる光を受け、背に流れる金色の髪が淡く輝いている。冠の下にはまだ幼さを残した、驚くほど可憐な顔があった。白い衣に包まれた肩は華奢で、彼女は足元を確かめることもなく、まっすぐ前を見据えていた。
神話の絵から天使が抜け出し、そのまま人々の前へ降りてきたようだった。フェリックスは帝都の宮廷で幾度も華やかな式典を見てきたが、これほど現実離れした姿を目にしたことはなかった。裾は一歩ごとに床を滑り、金色の髪も歩みに合わせて揺れている。それでも目の前を歩いているのが本当に生身の少女なのか、奇妙なほど実感が湧かなかった。
その斜め後ろに黒衣の男が従っていた。階級章も、胸を飾る勲章も見えない。少女が進めば同じ間隔で進み、左右に人が控えていても歩く位置を変えなかった。
国歌は最後の反復に入った。
「黄金樹よ、われらを結べ
星々のあいだへ枝を広げよ
そのもとに諸々の民は集う
一つの家、一つの信仰」
左右の高廊から届く声が重なり、フェリックスのいる場所まで強く押し寄せた。白い衣は黒い長衣の間を通り、中央へ進んだ。七人の枢機卿が左右に立ち、その背後に軍旗が垂れていた。
ヴィルヘルミーネは玉座の前で足を止めた。長い式服の裾が静かに広がり、金色の髪が背に落ち着いた。胸元に添えた右手には指輪が輝いている。彼女は顔を上げ、壇上から来訪者を見つめた。
フェリックスは壇上の少女を見た。遠くからは神話の中の存在のように思えたが、いまはその顔も、指輪を嵌めた細い指も、はっきりと見分けられた。近くの列席者たちも、彼女の方を向いていた。
国歌は最後の三句に入った。
「ラディーチェス・マトリ(根は母へ)
ラーミ・アストリス(枝は星々へ)
ノミナ・サクロ・リブロ(名は聖録へ)」
最後の句が長く伸ばされ、歌い手たちの声が止んだ。
それでも響きは頭上に残っていた。フェリックスは、遠くでまだ誰かが歌っているのかと思ったが、耳に届いているのは石壁に残る余韻だけだった。
人々の衣擦れも収まった。
典礼官が一歩脇へ出た。
「銀河帝国軍大尉、皇帝副官フェリックス・ミッターマイヤー殿」
フェリックスは前へ進んだ。教えられていた位置で止まると、案内役はもう視界の端へ退いていた。壇へ向かう通路に、彼一人が残った。フェリックスは聖王に敬礼した。
聖王は、彼の礼を受けて口を開いた。
「我は、貴官の来訪を歓迎する」
声は若かった。張り上げている様子はないのに、一語ずつはっきりと届いた。少女は言い終えて、彼を見ていた。七人の枢機卿も、壇の脇のアガーテも、次の言葉を待っていた。
「聖王陛下。お迎えに感謝いたします。合意された協議のため、参りました」
フェリックスは聖王を正面に見据え、帝国軍人として返答した。
聖王ヴィルヘルミーネは頷き、それから斜め後ろの男へ視線を移した。
「我が守護である」
典礼官が名を告げた。
「聖王守護、ヨーリク」
フェリックスは黒衣の男を見た。教国親衛艦隊〈守護天使〉の司令官。その名は知っていた。帝国側の報告で読んだ名に、もう一つ、ブリュンヒルトの皇帝私室で聞いた記憶が重なりかけたが、彼は目の前の男へ注意を戻した。
ヨーリクはわずかに顎を引いた。フェリックスも礼を返した。聖王が顔を向けても、男の注意は来訪者から離れなかった。フェリックスと聖王の間へ出るのに、数歩も要らない位置に立っていた。
礼を終えると、典礼官はすぐに次の言葉を発せず、慈母司牧アガーテの方を見た。ベルムもそちらへ顔を向けた。老女は膝に手を置いたまま、フェリックスへ話しかけた。
「よくいらっしゃいました、
先ほどまでと同じ場所で聞いているのに、言葉はひどく身近だった。フェリックスは彼女に向き直った。
「お気遣い、ありがとうございます。船でも十分に休ませていただきました」
「そう。それは何よりでした」
アガーテは嬉しそうに頷いた。
「お食事でも、お部屋のことでも、何かお困りになったら遠慮なくおっしゃってくださいね。せっかくいらしたのですから、心地よく過ごしていただきたいわ」
典礼官が一礼し、フェリックスにも身を引く位置を示した。
彼はこれで接見を終え、滞在先へ案内されるのだと思った。そのとき、ヴィルヘルミーネから声が掛かった。
「ミッターマイヤー大尉。銀河帝国には、賓客を茶席に招き、歓待する宮廷の習わしがあると聞く」
フェリックスは足を止め、聖王へ向き直った。
「異国より我が都を訪れた一人の武人に、我も礼を尽くしたい。茶を用意させてある。しばし、我と席を共にしてもらいたい」
彼女は同じ姿勢で返答を待っていた。典礼官や傍らの係官が、予定を確かめ直す様子はなかった。
「恐れ入ります。ご一緒させていただきます」
聖王が頷くと、脇の通路にいた係官が進み出た。ヨーリクが先に出口へ注意を向け、少女が玉座の前を離れた。フェリックスも案内に従い、中央通路から横へ出た。
列柱の間へ入ると、四聖団の旗は手前の柱に隠れた。さらに進むと、アガーテの席も、七人の枢機卿も見えなくなった。前を行く白い衣の裾だけが、暗い床の上を動いていた。
主聖堂を出て扉が閉じられると、足音が近くなった。回廊にも衛兵はいた。ヴィルヘルミーネは彼らの礼を受けて進み、ヨーリクはその斜め後ろを歩いていた。フェリックスは、聖王の式服が歩くたびに擦れる、小さな音を聞いた。
奥の扉の前で、係官が足を止めた。
「こちらでございます」
開かれた扉へ聖王が進み、ヨーリクがその脇へ立った。フェリックスは二人に続いて、部屋へ入った。
***
【同日 大伽藍・主聖堂】
主聖堂では、参列者の退出が始まっていた。聖廉院宰ノクス枢機卿は三人が去った通路から視線を戻し、アガーテの席へ近づいた。
「慈母司牧聖下。帝国の皇帝副官を、聖王陛下と私的に会わせてよろしいのでしょうか。守護ヨーリクは控えておりますが、枢機卿団の者は同席しておりません」
「あのままでよろしいわ」
「せめて私どものうち一人、同席させた方がよろしいのでは」
アガーテは満足そうに口元をほころばせた。
「若い人同士ですもの。仲良くしていただけばよいのです。私たちがそばにいては、いつまでもご挨拶の続きになってしまうでしょう」
ノクスは少し間を置いてから頭を下げた。
「承知いたしました。すべては母の御心のままに」
「警護はこれまでどおりに。ヨーリクさんもついていますし、心配はいりませんよ。お話の邪魔はしないようにね」
「はい」
ノクスは控えていた係官を呼んだ。
「茶席の係には、給仕が済んだら隣室で控えるように。呼ばれるまでは入らぬよう伝えなさい」
アガーテはそれを見届けてから、椅子の肘掛けに手を添え、ゆっくりと立ち上がった。
***
【同日 大伽藍・私的区画の応接室】
卓の上に、茶と菓子が用意されていた。薄く焼いたもの、表面に砂糖を掛けたもの、果物を載せた小さなものが、それぞれの皿に並んでいる。椅子は三脚あり、ヴィルヘルミーネが腰を下ろしてから、フェリックスも示された一脚に座った。少女は膝に広がる式服の裾を整えていた。
係官が茶を注ぎ、茶碗を受け皿ごと二人の前へ置いた。器が卓に触れ、小さな音がした。ヴィルヘルミーネが退出を命じ、係官が一礼して部屋を出る。ヨーリクは扉が閉まるのを確かめてから、ヴィルヘルミーネの斜め後ろへ立った。
ヴィルヘルミーネは、すぐには茶に手をつけなかった。
「ミッターマイヤー大尉。先のバーミリオンの会戦では、貴官自ら皇帝陛下の護衛艇を操ったと聞いておる」
「はい」
「若くして見事な働きであったな」
「恐れ入ります。しかし、陛下をお守りしたのは、私一人の働きではございません」
「それは承知しておる。我が守護も、バーミリオンで貴官らにはずいぶん手を焼かされたそうだ」
少女はちらりとヨーリクを見た。男はいつもと変わらぬ顔で立っている。
ヴィルヘルミーネは再びフェリックスへ向き直った。先ほどよりも少しだけ目を細め、彼の顔をじっと見ていた。
「……それに、貴官は皇帝陛下と幼い頃から親しい間柄だそうだな」
「はい。幼い頃から、お側におりました」
「貴官は、皇帝陛下にもそのように畏まって話すのか?」
「公務の席では、そのようにしております」
「では二人だけのときはどうなのだ?」
フェリックスは少女を見た。彼女はまだ茶に口をつけず、こちらの返事を待っていた。皇帝との私的な付き合いを、どこまで訊こうとしているのだろう。
何を話すかまで明かすつもりはなかったが、言葉遣いについて答えるだけなら支障はなかった。
「昔のままの言葉遣いになることもございます」
「ならば、我にもそのように話すがよい。遠慮は無用だ」
「……お戯れを」
「戯れなどではない。我は貴官と親しく話したいのだ」
「恐れながら、皇帝陛下とは長年のお付き合いがございますので」
「我とは、これから親しくなればよいであろう。そうだ、特別に『ミナ』と呼ぶことを許す」
フェリックスは返事に詰まった。帝都であればどこまで礼を崩してよいか、周囲の顔からも見当がついた。
ここには、口元を緩めてよいと知らせてくれる知り合いはいない。
少女は、彼が答えないので少し身を乗り出していた。
「聖王陛下のお心遣いは、大変にありがたく存じますが――」
「……もう、じれったい!」
ヴィルヘルミーネ――ミナの声が高くなった。膝に揃えていた手をほどき、卓の上へ片手を置いた。
「あたしから普通に話すわ。あなたもそうして。さっきから、ちっとも話が進まないじゃない」
「……聖王陛下?」
「だから、それもいちいち付けなくていいって言ってるの!」
フェリックスはヨーリクを見た。男は小さくため息をつき、フェリックスを見返した。
少女の頭にはまだ冠があり、肩から落ちる白い布も、祭壇の前にいたときのままだった。
その顔には、もう隠しようのない苛立ちが浮かんでいる。
「こういうときだけでいいのよ。人前ではちゃんとするわ。最初からそう言ってるじゃない」
「……そこまでは言ってなかっただろう」
口にしてから、フェリックスは自分の言葉遣いがくだけていたことに気づいた。
だが、少女は咎めなかった。むしろ嬉しそうに笑い、彼の顔を覗き込んだ。
「そう、それよ! 今みたいに話してほしかったの!」
「……難しい注文だな」
「難しくしてるのは、あなたよ」
フェリックスは思わず笑った。少女も笑い、ようやく茶碗を持ち上げた。
彼も茶を飲んだ。茶は口をつけられるほどに冷めており、飲み込むと花に似た香りが残った。
「悪い。少しずつで勘弁してくれ」
「いいわ、それで許してあげる」
少女は茶碗を置いた。先ほどより楽な姿勢になっていたが、フェリックスが次に何を言うか、待っている様子は変わらなかった。
彼が菓子へ目を向けると、それより先に、彼女の方から話しかけてきた。
「帰ったら、あなたの皇帝さんに話してくれる?」
「何をだ?」
「一度、教国と話し合う機会を持てないかって。いつまでも戦争を続けたくないの」
フェリックスは茶碗を受け皿へ戻した。少女のそばには、バーミリオンでアレクの命を狙った艦隊の司令官が立っていた。彼はヨーリクを見ず、少女へ向き直った。
「……ひとつ、確認させてください。それは、聖王陛下としての正式なお申し出でしょうか」
ミナは少し意外そうな顔をした。
「……あたしのお願いよ。あなたに、皇帝さんと話してほしいの」
「では、率直に申し上げます。帝国領内で勝手に独立を宣言し、皇帝陛下のお命を狙ったのは教国です。帝国は、教国を独立国家としては承認しておりません」
「……それくらい、知ってるわ」
「教国が帝国に帰順するご意思であれば、その申し出は私から陛下へ取り次ぎます。しかし、独立を認めたうえで講和を結ぶというお話なら、私にはお約束できることがありません」
ミナは唇を結んだ。
「……じゃあ、降伏しないと、話し合うこともできないの?」
「そうは申し上げておりません。今回の救難についても、両国は協議を重ねました。ただ、戦争を終わらせる条件となれば、私がここでお答えできることではありません」
「そんなことは分かってるわ。でも、あなたは皇帝さんの友達なんでしょう?」
「はい」
「だったら、あなたからも話してほしいの。いつまでも戦争を続けていたら、また大勢の人が死ぬわ」
「……陛下には、聖王陛下がそうお望みであることをお伝えします」
「……また、畏まった話し方になってる」
少女は寂しそうに言った。
フェリックスは少し間を置いてから続けた。
「差し支えなければ、もうひとつ伺ってもよろしいでしょうか。枢機卿団では、どなたが聖王陛下のお考えに賛同されているのでしょう」
ミナは黙った。
「慈母司牧アガーテ聖下はいかがですか?教国軍の将官にも、同じお考えの方がいらっしゃるのでしょうか」
ミナは茶碗に目を落とした。何か言おうとしたが、口を開きかけただけで終わった。
「……お答えになりにくいことでしょうか。確かに、教国内部の政治的なお立場を、敵の軍人に明かすわけにはいかない事情もおありでしょうが――」
「こいつだけだ」
それまで黙っていたヨーリクが言った。
フェリックスはヨーリクを見上げた。
「……え?」
「こいつ一人だけだと言っている。枢機卿団にも、四聖団の司令官たちにも相談していない。こいつが一人で考えていることだ」
フェリックスは少女へ向き直った。
「……お前一人なのか?」
「そうよ!」
ミナは顔を上げた。
「でも、あたしは王様なのよ! 偉いんだから!」
フェリックスは返事に困った。つい先ほどまで、大伽藍で大勢の人々を従えていた聖王が、今は頬を膨らませてこちらを睨んでいる。
「……いや、偉いのは分かってるんだが」
「じゃあ、なによ」
「お前一人で講和を決められるわけじゃないだろう」
「そんなこと、分かってるわよ!」
ミナはむっとした顔で二人を見比べた。
「だから、あなたにお願いしてるんじゃない。皇帝さんと話せる人が、せっかくここまで来てくれたんだもの。何もしないで帰しちゃいけないと思ったの」
フェリックスはしばらく少女を見ていた。
「……待てよ、お前。建国の演説で、ローエングラムには赦される資格もないって言ってなかったか? 最後には帝国に聖戦まで宣言してたぞ」
ミナの頬が赤くなった。
「あ、あれは……教理院が用意した原稿を読んだだけだし……」
「その割には、ずいぶん迫真だったぞ」
「だって、ちゃんと読めって言われたんだもの!あたしだって一生懸命練習したのよ!」
「なるほど。練習の成果は出てたな」
「もう! からかわないでよ!」
フェリックスは笑った。ミナはまだ頬を赤くしていたが、やがて彼をまっすぐに見た。
「……でも、戦争を終わらせたいって思ってるのは本当よ。あの演説をしたのもあたしだって、分かってるわ」
少し声を落として続けた。
「だから、あなたにお願いしたいの」
フェリックスは茶碗へ目を落とした。正式な講和の申し出ではない。交渉の条件も、教国中枢の意思も示されていない。ただ、この少女が戦争を終わらせたがっていることだけは分かった。
「……分かった。お前がそう言っていたことは、アレクに伝えるよ。ただ、あいつがどう答えるかは約束できない」
ミナは少し考えた。
「……うん。聞いてもらえるなら、それでいいわ」
それから、思い出したように付け加えた。
「じゃあ、帰るまでにちゃんと見ていって。大伽藍だけじゃなくて、この街も、ここにいる人たちも」
「ああ。見たことは見たまま話すよ」
「嫌なことがあったら、それも話すの?」
「話すよ」
ミナは不満そうにフェリックスを見た。
「……いいわ。でも、よかったことも忘れないでね、大尉」
「もう『フェリックス』でいいぞ。よかったことも忘れないよ」
ミナは嬉しそうに頷いたものの、すぐには次の話を始めなかった。卓にはまだ手をつけていない菓子の皿が並んでいた。
フェリックスは残りの茶を飲み、いちばん近い皿へ目を移した。そろそろ辞去すべきかとも思ったが、向かいの少女が彼の視線に気づいた。
「フェリックスって、甘いもの嫌い?」
「いや。どれにしようかと思っていた」
「ああ……そうなの」
ミナは二つの皿を見比べ、それから、彼の方へ少し寄せた。
「どれでもいいのよ!」
フェリックスは、薄く焼いた菓子へ手を伸ばした。
***
【フェリックス到着前 大伽藍・聖王私室】
フェリックスが聖都に到着する数日前のことだった。
ミナは帝国からの来訪者の説明を受けたあとも、卓の上に置かれた略歴を読んでいた。
帝国軍大尉、皇帝副官、フェリックス・ミッターマイヤー。
皇帝の幼い頃からの友人でもあるという説明が、気になっていた。親衛艦隊への連絡を終えたヨーリクが戻ってくると、ミナは顔を上げた。
「副官って、毎日皇帝さんと話すの?」
「仕事なら、そうだろう」
「じゃあ、偉い人じゃない」
「大尉だ。あまり偉くはない」
「階級の話をしてるんじゃないの」
ヨーリクが卓の向かいに立つと、ミナは来訪者の略歴を指した。
「ただの副官じゃないのよ。小さい頃からのお友達なんですって」
「俺は知らん。本人に訊いてみろ」
「訊くわよ」
ミナは略歴の隣にあった式次第を手に取った。港での迎接から主聖堂での公式接見までが並び、その先は来訪者の宿舎への案内になっていた。自分の出番を確かめて、もう一度最後まで読んだ。
「これじゃ、挨拶して帰すだけじゃない。あたしも話したいのよ!」
「旅のあとだ。休ませてやれ」
「お茶を飲むくらいなら、いいでしょう?ずっと立たせて話すんじゃないわ」
「疲れていれば、断りたいだろう」
ミナは少し考えてから頷いた。
「そのときは、別の日にするわ。でも、まず誘ってみたいの」
侍従を呼び、接見のあとに茶席を設けたいと伝えた。式の担当者と警護の者にも確かめるという返事があり、ミナはその間、何を話せばよいか考えていた。略歴を読み返しても、客が好きなものまでは分からなかった。
茶席を用意できるという返事が来ると、今度は菓子について訊かれた。ミナは自分の好みを答えかけ、やめた。
「ミッターマイヤー大尉、甘いものはお好きなのかしら」
「その点までは伺っておりません」
「そうよね……。じゃあ、甘さを控えて薄く焼いたものと、果物の載ったものも入れて。何種類かあった方が、選べるでしょう」
侍従は承り、退出した。ミナはまだ菓子のことを考えていたが、ヨーリクが扉の方へ目を向けたので呼び止めた。
「騎士さまも、一緒にいてね」
「警護にはつく。話すのはお前がやれ」
「警護だけじゃなくて、話にも加わってほしいのよ。二人とも軍人なんだから、あたしより分かる話とか、共通の話題もあるでしょう?」
「共通の話題なら、あるな」
「ほら、やっぱり。どういう話?」
「バーミリオンで皇帝を殺し損ねたときの話だ」
「却下よ、却下!いきなり全弾発射してどうするのよ!」
「初手で全弾は使わん。相手の出方を見てからだ」
「撃つ順番の話じゃないわよ!お茶を飲むの!お話をするの!」
ヨーリクは表情を変えなかった。
「だから、その話をすると言っている」
「だから、それは却下だって言ってるでしょう!」
「……たしか、そいつは皇帝を乗せて逃げ回っていたはずだ。何度も照準に捉えたが、結局、一度も当てられなかった。残念だった」
「残念がらないで!その本人をお茶に招くのよ!」
「大した腕だった。あれだけの操艦ができる奴は、そうはいない」
ミナはヨーリクを見上げた。
「……ちゃんと褒めるところがあるんじゃない。最初からそう言えばいいでしょう!」
「同じ話だ」
「全然違うわよ!殺し損ねたとか、残念だったとかは抜いて!」
ヨーリクは表情を変えなかった。
「お前が呼ぶ客だぞ?俺が話してどうする」
「分かってるわよ。あたしが話すけど、初めて会う人と二人きりじゃ、何を話せばいいか分からなくなるかもしれないじゃない」
ヨーリクはミナを見てから、頷いた。
「分かった」
ミナは卓へ戻った。略歴をしまおうとして、その上にもう一度目を落とした。
「仲良くなって、帰ってもらうの。皇帝さんに、話くらいはしてくれるかもしれないでしょう」
ヨーリクは何も言わなかった。少し前、出撃する彼の袖口をつまみ、「帰ってきてね」と頼んだことをミナは思い出した。返ってきたのは「努力する」の一言だった。
皇帝の友人に会えば何が変わるのか、ミナにも分からない。それでも、自分が声を掛けられる人が、ここまで来るのだった。
「皇帝さんとは、普段どんなふうに話しているのかしら。子供の頃からの友達なら、軍の話ばかりじゃないでしょう」
ヨーリクは頷いた。ミナは侍従が戻ってきたところで、もう一つ言い添えた。
「お茶も菓子も、三人分ね!」
***
【現在 大伽藍・私的区画の応接室】
フェリックスは菓子を一つ、小皿へ取った。薄い生地は歯に触れると軽く割れ、香ばしい味のあとに控えめな甘さが残った。もう一口食べようとしたところで、向かいから声が掛かった。
「それ、どう?」
「うまい」
「そう」
ミナは、彼がもう一口食べるのを見てから、ヨーリクを振り返った。
「騎士さまも座って。三人分、用意してもらったんだから」
ヨーリクは空いている椅子を少し斜めに引き、フェリックスと出入口の両方へ身体を向けて腰を下ろした。二人の目が一度合い、フェリックスは卓の脇にあった茶碗を、ヨーリクの手の届くところへ寄せた。
ミナは左手で白い袖の端を押さえ、右手で茶を注いだ。ヨーリクの茶碗を満たしてから、フェリックスの方にも茶を足した。彼が礼を言うと、少女は今度は菓子の皿を持ち上げた。
「こっちも食べてみて」
「まだ一つ目だよ」
「食べ終わってからでいいの」
フェリックスは笑い、残りの菓子を口に入れた。ミナは皿をフェリックスとヨーリクの間へ置き、自分の小皿にも一つ取った。
フェリックスはその様子を見て、思い出した。
「そういや、俺の同期の友達にも、よく菓子をくれる奴がいたな」
「へえ。軍人さんにも甘党っているのね。きっと話が合うわ。今度、紹介してよ」
「……マーロヴィアで死んだよ」
ミナの手が止まった。
「……ごめんなさい。知らなくて」
「別にお前が謝ることじゃない。戦争だ」
フェリックスは小皿へ目を落とした。
「トビアスって奴でさ。誰が何を好きか、よく憶えてたんだ。士官学校の頃は、実家から菓子が届くたびに皆に配ってた」
「……そうだったの」
ミナはしばらく黙っていた。それから、フェリックスの小皿を見た。
「ねえ、フェリックスは、どんなお菓子が好きなの?」
「そうだな。今のところ、これかな」
フェリックスは空になった小皿を指した。
ミナは少し笑って、薄焼き菓子の皿を彼の方へ寄せた。
【次回予告】
一人の帝国軍大尉が、
敵国の聖都で歓迎された。
黄金樹の大伽藍。
七人の枢機卿団。
白衣の聖王と、その傍らに立つ黒衣の守護。
そして、三人分の茶と菓子。
フェリックス・ミッターマイヤーは、
戦場では知ることのなかった、
敵国の人々の顔を見た。
だが、彼が見たのは、
まだ、この国のほんの一部にすぎなかった。
聖都ラディークス。
黄金樹の尖塔を見上げる街には、
今日も人々が暮らしている。
彼らにも家族があり、
仕事があり、
守りたいものがある。
そして、それぞれの過去がある。
フェリックスに許された滞在期間は、
三十日。
帝国では、
彼の帰りを待つ人々がいる。
一方、この国には、
彼がまだ知らない人々がいた。
そして、ある航路には、
どこかで聞いた旧同盟軍の二人の猛将を思わせる、
奇妙な名の海賊たちがいた。
その傍らでは、かつての軍務尚書に生き写しの参謀が、帝国の命運でなく燃料代の削減に知略を尽くしていた。
銀河を二分する戦争は、
今も続く。
そのさなか、
一人の青年に与えられた、
わずか三十日の時間。
その日々が、
彼に何をもたらすのか。
次回より、第二部・第三章。
「三十日の客人」
――銀河の歴史が、また1ページ。
【人物図譜】
慈母司牧アガーテ
【挿絵表示】
聖王ヴィルヘルミーネ
【挿絵表示】
/ミナ
【挿絵表示】
【このエピソードで歌われる作中歌について】
【神聖黄金樹教国国歌】
『SUB ARBORE AUREA ―― 黄金樹のもとに』
※以下はラテン語原詞の日本語訳です。
【第一節】
母なる地球よ、われらは御身を讃える
御身より生まれ、御身を呼び求める
数多の星々をさすらうわれらは
その心を御身に捧げる
【反復部】
黄金樹よ、われらを結べ
星々のあいだへ枝を広げよ
そのもとに諸々の民は集う
一つの家、一つの信仰
【第二節】
夜の中をさまよっていたわれらは
今、その枝の下に住まう
一つのパン、一つの食卓
一つの希望がわれらを集めた
(反復部)
【第三節】
われらのために斃れた者たちは
母なる地球のもとに安らぐ
いかなる名も、消されることなかれ
光よ、星々のあいだに広がれ
(反復部)
【結唱】
根は母へ
枝は星々へ
名は聖録へ
※国歌の結唱は、作中で既に登場した奉唱句「ラーディークス・アド・マートレム/ラーミ・アド・アストラ/ノーメン・イン・リブルム・サクルム」を、教団式ラテン語の語形・構文へ歌唱用に詩的に変化させたものです。日本語では、いずれも「根は母へ。枝は星々へ。名は聖録へ」と訳しています。