一「宇宙海賊グエン・バン・『フー』」
【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年春 教国領・旧同盟辺境宙域】
グエン・バン・ヒューとサンドル・アラルコン。
かつて自由惑星同盟軍に籍を置いた、この二人の少将の名を憶えている者もいるだろう。
グエン・バン・ヒューは、ヤン・ウェンリー麾下でも屈指の猛将であった。
攻撃精神が旺盛で、ひとたび突撃を命じれば、敵の中央へ躊躇なく突入する。冷静な総司令官の統制さえあれば、絶大な破壊力を発揮する指揮官であった。
実際、救国軍事会議による内乱の際、ドーリア星域の会戦で彼は三千隻を率いて敵第十一艦隊の側面から突撃した。
前方と上下左右、五方向から敵の砲火を浴びながら、旗艦の艦橋で陽気に笑い、「突撃!突撃!突撃!」と明快そのものの命令を下し、どちらを向いても敵ばかりなのだから狙いをつける手間もない、と豪語した男である。
サンドル・アラルコンは、軍事的能力はあったものの、思想的には病的ともいえる軍隊至上主義者であった。
彼には、民間人や捕虜を殺害したとの嫌疑が幾度もかけられていた。軍法会議では証拠不十分などとして無罪になっているが、ヤンはその背後に軍人同士の庇い合いがあるのではないかと疑っていた。
気質も来歴も異なる二人の提督だったが、その最期は同じ戦場で訪れた。
宇宙暦七九八年の第八次イゼルローン要塞攻防戦である。
ケンプ大将の率いる帝国軍は、同盟軍の前に敗れ、総司令官のケンプは戦死し、ミュラーも負傷した。
しかし、ヤンの定めた計画に従い勝利を収めた同盟軍にも、最後に思わぬ損害が待っていた。
ヤンは敵の深追いを固く禁じていた。
ところが、グエンとアラルコンの率いる合計五千隻以上の部隊は、帝国軍に食いつきそのまま追撃を続けてしまったのである。
彼らが追っていたのは、単なる敗残兵ではなかった。
帝国軍の増援として到着したウォルフガング・ミッターマイヤー上級大将とオスカー・フォン・ロイエンタール上級大将が、追撃者を誘い込むために偽装後退させていた部隊だったのである。
ミッターマイヤーの精鋭が後背に現れ、偽装後退をやめた帝国軍が正面から砲火を浴びせた。
同盟軍がたまらずに逃れようと天底方向へ向かうと、そこにはロイエンタールが待ち構えていた。
前後からの猛攻によって同盟の追撃部隊は壊滅した。
グエン・バン・ヒューはエネルギー・ビームを浴びた乗艦とともに消滅した。
アラルコンもその数分後、光子ミサイルの直撃で艦を両断され、艦橋を含む前半部が味方の巡航艦に衝突して戦死した。
その後、ヤンが艦隊を率いて到着したとき、帝国軍はすでに秩序正しく撤退を始めていた。
ヤンは、目的を達したら執着せずに離脱するミッターマイヤーとロイエンタールの用兵を名将の戦いぶりとしてユリアン・ミンツに示した。
グエンとアラルコンに欠けていたのはまさにその引き際であったと、後世に評されている。
***
それから二十数年。
かつての自由惑星同盟領の辺境にあり、今は教国領となったある星域に、『
もちろん、別人である。
そして、この二人には、本物のグエンとアラルコンの両提督を上回るものが一つだけあった。
引き際、つまり逃げ足の速さである。
「頭ぁ!教国軍の巡航艦ですよぉ!」
「何だと!どこにいやがる!」
「正面です!こっちに向かってきます!」
「馬鹿野郎!何をぼさっとしてやがる!全速撤退だ!退却!退却!退却!」
明快そのものの命令ではあるが、二十数年前に戦死した二人の提督が仮にこの命令を聞いていたら何と言ったかは分からない。
少なくとも、この海賊たちは今日も生き延びるつもりであった。
***
教国軍の巡航艦はまだ光学画面の中では小さかった。だが、巡航艦と呼ばれるだけの武装と索敵能力を持つ相手である。旧式の武装船で逃げ回っているグエンたちにとっては、姿が見えた時点で十分すぎるほどの脅威だった。
海賊団副頭目のサンドロ・アラルゴンは操縦桿を握り直したが、最大推力には入れなかった。正面の通商路を避け、左手に広がる旧鉱石集積場の方へ船首を向ける。
「おい、サンドロ!全速だと言っただろうが!」
「ここで全速にしたら、あそこの貨物架台に突っ込みますよぉ!」
「そんなもの避けろ!」
アラルゴンは返事をせず、操縦桿を左へ倒した。
集積場は、採掘事業の縮小とともに使われなくなった宇宙施設だった。鉱石を積み出すための古い架台がいくつも残り、大小の貨物容器が係留されたままになっている。新しい航路図では危険区域として表示されていたが、グエンたちは以前にもここを通っていた。
アラルゴンは搬出用の旧航路へ進入し、貨物容器の間を抜けた。途中、係留索が一本だけ残った大型容器がゆっくりと回転しているのを見つけると、推力を絞ってその下を通過した。船体のすぐ上を傷だらけの金属外板がかすめるように通り過ぎ、艦橋の若い見張りが思わず頭を引っ込める。
「おい、サンドロ!今のは近すぎねえか!」
「当たりませんでしたよ」
グエンはなお文句を言っていたが、アラルゴンは聞き流した。あの隙間を抜けるには、あの速度でなければならなかったのである。
後方の表示には、教国軍巡航艦が旧集積場の外縁へ近づく姿が映っていた。
「サンドロ。追ってきたぞ」
「まだ分かりませんよ。巡回の針路かもしれません。……頭、次の曲がり角が危ないんで、ちょっと黙っててください」
グエンは不満そうに鼻を鳴らしたものの、口を閉じた。
操縦席を奪おうとしたことは、一度もなかった。アラルゴンが何度泣き言を言おうと、船を任せたときだけは余計な手出しをしない。それは二人の長い付き合いの中で、いつの間にか決まった習慣だった。
海賊船は最後の架台を抜け、集積場の反対側へ出た。
「よし。ここから全速だ!」
「分かってますよぉ!」
推進器が唸り、船体が細かく震えた。アラルゴンは機関の状態を確かめながら、正規航路から離れる方向へ加速していく。
しばらくして、若い見張りが巡航艦の離脱を報告した。
「見たか!これが俺の用兵だ!」
グエンは椅子から立ち上がると、片足を座面に乗せ、片手を腰に当てるポーズをとった。
そしてもう片方の親指で自分の胸を指し、得意満面で言い放った。
「教国軍だか何だか知らねえが、このグエン・バン・フーを捕まえようなんざ百年早いんだよ!」
ところがアラルゴンは後方の表示を確認しながら首を傾げていた。巡航艦から警告はなく、追跡のための加速も確認できなかったのである。
「頭ぁ、あの巡航艦、最初から俺たちを追ってなかったんじゃないですかねぇ」
グエンは片足を椅子に乗せたまま、しばらく画面を睨んだ。
「……だったら、ますます俺の判断が正しかったってことじゃねえか。見つかる前に逃げたんだからな!」
アラルゴンはそれ以上何も言わなかった。こういう理屈に反論しても、最後には必ずグエンが勝ったことになるからである。
***
危険区域を離れて通常航行に戻ったところで、機関室から報告が届いた。
予定より燃料を消費したという。
「何でそんなに使った!」
「頭ぁ、あれだけ急いで逃げたんですから。全速撤退って叫んでたのは頭でしょうが!」
「命令を出すのが頭目の仕事だ!」
「燃料代を払うのも頭目の仕事ですよぉ」
その一言でグエンの機嫌はさらに悪くなった。
船の修理費用もかさんでいる。前回の略奪では、商船の積荷からそれなりの品物を奪ったつもりだったが、売却できそうなものは意外に少なかった。
そもそも、奪えるだけ奪うという方針ではなかった。食料の一部は残したし、帰港に必要だと懇願された燃料も半分ほど返してやった。
商船の船長が泣きついてきたとき、そう命じたのはグエン自身である。
「だいたい、あの親父が悪いんだ!泣き言ばっかり言いやがって。こっちだって商売なんだぞ」
「おかげで、こっちは燃料を買わなきゃならないんですよ」
「ちくしょう。海賊ってのは儲からねえな!」
アラルゴンは航行記録を閉じた。今月の収支については後で『参謀』から改めて説明があるはずだった。それを考えると、グエンが今から腹を立てているのは、むしろ都合がよいかもしれなかった。
食堂では、すでに何人かの乗員が夕食を待っていた。古い食卓の端には修理中の工具が置かれ、調理係がそれをどけるよう怒鳴っている。そこへグエンが入っていくと、若い船員が大きな皿を持って近づいてきた。
「頭!また豆ですか!」
「文句あるか!」
「三日続けて豆ですよ!肉が食いたいんですけど」
「贅沢言うな!俺だって食いてえんだ!」
調理係は、肉を買う金さえあればいつでも用意すると言い、何人かの船員が同意した。グエンは金の話ばかりするなと怒鳴ったが、自分の皿にも豆しか盛られていないのを見て、それ以上は何も言わなかった。
「参謀に予算を見直してもらったらどうです?」
乗員の一人がそう提案すると、グエンは嫌そうな顔をした。
「あいつに相談してみろ。また無駄な支出を削れだの、船を修理しろだの言い出すぞ」
「修理はした方がいいんじゃないですかねぇ」
その声には答えず、グエンは食卓の中央にあった豆の皿を自分の方へ引き寄せた。アラルゴンは向かいの席で笑いをこらえていた。
若い船員が、その様子を眺めながら尋ねた。
「そういや頭、昔は同盟軍にいたんですよね?」
「ああ、いたとも。俺もサンドロも、れっきとした自由惑星同盟軍の軍人だったんだぞ!」
「へえ……」
若い船員は感心した様子で、グエンの顔を眺めた。普段の姿からは、あまり想像できない経歴だった。
「じゃあ、頭の名前も昔の軍の記録に残ってるんですかね」
「さあな。そんなもん、いちいち調べたこともねえ」
「ちょっと調べてみましょうか」
「好きにしろ!」
グエンは豆を口いっぱいに頬張り、もうその話には興味を失っていた。
若い船員は食卓の端末を引き寄せ、旧自由惑星同盟軍の人物資料を検索し始めた。
***
若い船員が最初に入力したのは、頭目の名前である『グエン・バン・フー』だった。
該当する軍人の記録は見つからなかった。もっとも、旧自由惑星同盟軍の人事記録は、国の滅亡とその後の混乱によって散逸している。
下士官の名前が検索に出てこないこと自体は、さほど不思議でもなかった。
ところが、端末はよく似た別の名前を表示した。
「……グエン・バン・ヒュー?」
若い船員は画面に顔を近づけた。
「頭、ちょっと見てくださいよ」
「何だ。今、俺は飯を食ってて忙しい」
「これ、頭の名前じゃないですか?」
グエンは豆を口に運ぶ手を止め、面倒そうに端末を覗いた。そこには、旧自由惑星同盟軍少将グエン・バン・ヒューの略歴と、軍服姿の肖像が表示されていた。
「……『ヒュー』?俺は『フー』だぞ」
「でも、ほとんど同じですよ。昔の記録だから、間違ってるのかもしれませんね」
「何言ってやがる」
「それより、頭……」
若い船員は、画面からグエンの顔へ目を移した。
「この人、頭にそっくりじゃないですか?」
言われて、グエンも改めて端末の中の少将の肖像を眺めた。
太い眉の下に鋭い目があり、鼻筋は太く、頬骨の張った顔を濃い口髭と顎髭が囲んでいる。
肖像の軍人はまだ壮年の盛りにあったが、目の前のグエンはそれより二十数年ほど年を取って見えた。
眉間と目尻には深い皺が刻まれ、髭には白いものが混じっている。
それでも、鼻や顎の形、眉のつき方まで、驚くほどよく似ていた。
「おいおい、本当に似てるぞ!」
別の船員が身を乗り出した。
「これ、二十年以上前の写真だろ?今ならちょうど頭の顔になるんじゃねえか?」
「髭も同じだ。ちょっと、頭、こっち向いてください」
グエンは言われるままに顔を上げた。
何人かの船員が端末の肖像と見比べ、口々に似ていると騒ぎ始めた。
グエン自身も、悪い気はしなかったらしい。
椅子を少し引いて姿勢を正し、白いものが混じった髭を撫でた。
向かいに座っていたアラルゴンは、その様子を見て嫌な予感がした。長い付き合いである。グエンがこういう顔をしたとき、ろくなことになったためしがない。
若い船員が略歴を読み始めた。
「自由惑星同盟軍少将……ドーリア星域の会戦で活躍……勇猛果敢、攻撃精神旺盛……」
「ほほう」
グエンが椅子を端末の方へ寄せた。
「なかなか立派な男じゃねえか」
「頭にそっくりですよ!顔も性格も!」
「まあ、そうだろうな」
アラルゴンが小さく咳払いをしたが、誰も気に留めなかった。
若い船員は、さらに画面を下へ送った。
「すげえ。この人、帝国の双璧とも戦ってますよ!」
「何だと?」
グエンの顔つきが変わった。
「双璧ってえと、あのミッターマイヤーとロイエンタールか!」
「ええ。ここに書いてあります。第八次イゼルローン要塞攻防戦のとき、二人を相手に戦ったみたいです」
その言葉に、近くの船員たちも興味を示した。誰かが椅子を持ってきて端末の横に座り、調理係まで鍋を火から下ろして覗き込みに来た。
画面には軍服姿の同盟軍少将がいる。そして、そのすぐ隣には、ほとんど同じ顔をした頭目が座っているのである。
「……すげえ。頭、昔はそんな大物と戦ってたんですか?」
「……まあな」
アラルゴンが豆を喉に詰まらせた。
「頭ぁ!」
「何だよ」
「いや、その、ちょっと……」
「食事中に騒ぐんじゃねえ!」
グエンは副頭目を黙らせると、もっともらしく腕を組んだ。
「……戦場ってのはな、お前らが考えるほど単純なもんじゃねえんだよ」
自分が少将だったとは、グエンは一言も言っていない。帝国の双璧と戦ったとも言っていない。
それでも船員たちは、当然その意味だと受け取った。
やがて一人が、資料の続きを読み始めた。
「ええと……追撃部隊はミッターマイヤーの偽装退却に誘われ、ロイエンタールの包囲攻撃によって壊滅……」
「壊滅?」
グエンの眉が動いた。
「待て。そこをもう一度読め」
若い船員が読み返すと、グエンはしばらく考え込んだ。
「……ふふん。なるほどな」
「何がです?」
「そこまでその双璧をまとめて追い詰めたってことだろうが」
誰もすぐには答えなかった。
「追い詰められたのは同盟軍の方じゃ……」
アラルゴンが小声で言ったが、そのときにはもう、別の船員が大きな声を上げていた。
「分かった!頭は帝国の双璧を追い詰めたことがあるんだ!」
一度そう思い込むと、ほかの者たちも次々と頷いた。顔まで同じなのだから、偶然のはずがないというのである。
グエンは否定しなかった。大勢の期待に満ちた視線を浴びているうちに、本人まで何やら感慨深い気分になったらしい。
「……昔のことは忘れたさ」
彼は遠い目をして、食堂の壁を眺めた。
アラルゴンは顔を伏せた。
若い船員は感激したらしく、さらに資料を調べ始めた。ほどなくして、今度は端末に『サンドル・アラルコン少将』という名前が現れた。
「おい!副頭目の名前まであるぞ!」
「え?」
アラルゴンが顔を上げた。
「サンドル・アラルコン少将!グエン提督と一緒に戦ったって!」
「いや、俺は『サンドロ』だし、アラル『ゴン』でだな……」
「なるほど。名前を変えたんですね!」
「違えよ!そもそも、俺は少将なんかじゃ……」
「分かってますって!副頭目は、今は海賊なんですから、昔の同盟軍時代の将官の階級なんか名乗れませんよね!」
アラルゴンは、助けを求めるようにグエンを見た。
グエンは豆を食べていた。つい先ほどまで威張り散らしていたくせに、今は妙に静かだった。
「……頭ぁ、何とか言ってくださいよぉ」
「何をだ?」
「いや、だから、俺たちは……」
グエンは皿から顔を上げず、片手だけを振った。
「昔のことは忘れろ。あの頃を思い出すと、夜が長くなる」
そう言って、また豆を口に運んだ。
アラルゴンは、それ以上は何も言わなかった。
船員たちは二人のやり取りを、懐かしい戦友同士の遠慮のない会話と受け取ったらしい。顔も名前も似ており、しかも二人揃って同じ船にいる。
彼らにとっては、すでに疑う方が難しくなっていた。
しかし、端末を操作していた若い船員が、突然声を落とした。
「あれ……?」
画面には、二人の提督の最期が記されていた。
――グエン・バン・ヒュー、戦死。
――サンドル・アラルコン、戦死。
食堂が静かになった。
「……頭」
「何だ」
「ここ、二人とも戦死したって書いてます」
グエンは一瞬、困ったような顔をした。
「だから何だ」
「だって、頭も副頭目も、こうしてちゃんと生きてるじゃないですか」
「そうだな」
「ということは……」
若い船員は、ひどく重大な事実に気づいたように目を見開いた。
「戦死したことにして、逃げ延びたんですね!」
グエンは何も言わなかった。
「すげえ……帝国の双璧まで騙したのか!」
その解釈に感心する者が現れ、別の者が、だから名前を変えたのかと頷いた。
グエンの場合には顔があまりにも似ていることが、かえって彼らの確信を深めていた。
二十数年前の古い軍人の肖像と、現在の頭目をもう一度見比べる者までいたが、結局、誰も別人だという結論には至らなかった。
アラルゴンだけが、卓上の端末を見つめていた。
「頭ぁ、もういい加減に……」
「サンドロよ」
グエンは低い声で言った。
「人間、過去を振り返ってばかりじゃいけねえぞ」
「……何の話ですか?」
「大事なのは、今をどう生きるかだ」
アラルゴンは、しばらく頭目の顔を見ていた。
それから諦めたように息を吐き、冷めかけた豆を食べ始めた。
食堂では若い船員たちが二人の新しい経歴について、早くも熱心に議論していた。
帝国の双璧と戦い、死を偽装し、姓名を変えて辺境へ落ち延びた二人の名将。
その伝説は本人たちの知らないところまで少しずつ立派になっていった。
グエンは誰かに頼まれるまでもなく、姿勢を正して座っていた。
アラルゴンは、明日の燃料のことを考えていた。
***
食堂では、戦死したはずの提督二人が名を変えて海賊をしているという噂に、早くも尾ひれがついていた。
そこへ、一人の男が入ってきた。
痩せた長身に、血色の乏しい顔。髪は乱れなく整えられ、薄い唇は固く結ばれていた。濃い灰色の上着は袖口が擦り切れていたが、襟元には皺ひとつない。
目に宿る人工物めいた光は、食堂の薄暗い照明の下でも奇妙に際立っていた。
男は記録板を手に、グエンの席まで歩いてきた。
「頭目。少々、お時間をいただきたい」
「おう、参謀か。どうした」
「機関室から修理の見積りが届きました。併せて、次回の補給計画について決裁をお願いします」
グエンは顔をしかめた。せっかく名将として尊敬を集めて良い気分でいたところへ、また金の話だった。
「後にしろ。今は忙しいんだ」
「推進器の整備は、次の出航までに済ませる必要があります。今朝のような航行をもう一度行えば、機関長は同じ出力を保証できないと申しております」
「今朝はちゃんと逃げ切ったじゃねえか!」
「副頭目の操船が優れていたからでしょう。次もそうであるとは限りません」
アラルゴンが少し嬉しそうに顔を上げた。グエンは面白くなさそうだったが、自分の船を危険から救ったのが誰なのかは承知していた。
参謀は記録板を卓上へ置いた。
「修理費を確保するには、支出を一部改める必要があります。まず、予定されている船体の再塗装ですが、延期を進言します」
「駄目だ!あれは俺が決めたんだぞ!」
「承知しております」
「今の色じゃ海賊船らしくねえんだよ。もっと強そうな色にだな……」
「仰る通り威容は乗員の士気に関わります。しかし、推進器が故障すれば、塗り直した船を敵に見せる機会さえ失います」
グエンは口を閉じた。
参謀は、あらためて二つの見積書を並べた。
「機関室の要求額には、余裕を見込んだ部分があります。そこは私が再検討します。ですが、整備そのものを省くことには反対です」
グエンは見積書を二度読み返した。
「……分かった。塗装は後だ。修理を先にしろ」
「賢明なご判断です」
「お前に褒められても嬉しくねえよ」
参謀は返事をせず、次の項目を表示した。
「食料費は、現状を維持すべきでしょう。これ以上切り詰めれば、乗員の不満が増します」
「金がねえって言ってるだろうが!」
「だからこそです。乗員の忠誠は無償ではありません。頭目が彼らに食事と仕事を与え、危険なときには逃げ道を用意するから、彼らはこの船に残っている。食費を削れば、まず腕のよい者から去るでしょう」
グエンが食堂を見回すと、部下たちも黙って話を聞いていた。
「じゃあ、どこを削れってんだ!」
「まずは、頭目の酒代です」
アラルゴンが下を向いた。
「……何だと?」
「全額を削る必要はありません。半分で結構でしょう」
「俺の酒を半分にしろってのか!」
「修理が終わるまでの間です」
グエンは参謀を睨みつけた。
「お前、俺に恨みでもあるのか?」
「私怨で帳簿を操作するほど、暇ではありません」
参謀は別の支出項目を示した。
「船体の再塗装、頭目の酒代、不要な港湾施設の利用料。この三つを見直せば、船員の食事に手をつけずに済みます」
「……お前、本当に容赦がねえな」
「それは、今後も船を動かすために必要な処置です」
グエンはしばらく考え込み、やがて大きく息を吐いた。
「分かったよ。好きにしろ。ただし、酒は半分までだぞ!」
「承知しました」
参謀は記録板に決裁を記入した。周囲の船員たちは、自分たちの食事が削られなかったことに満足したらしく、また賑やかに話し始めた。
一方、先ほど端末で戦史を調べていた若い船員は、参謀の顔と話し方に妙な見覚えがあった。
端末を帝国軍の人物資料に切り替え、幾人かの肖像を見比べているうちに、ある写真で手を止めた。
「……あっ!!」
あまりに大きな声だったので、グエンまで顔を上げた。
「どうした?今度は何だ!」
「頭、これを見てください!」
画面には、ローエングラム朝銀河帝国の初代皇帝ラインハルト・フォン・ローエングラムに仕えた、かつての帝国軍務尚書の肖像が表示されていた。
パウル・フォン・オーベルシュタイン。
痩せた顔、半白の髪、薄い唇。そして、人工の眼球が放つ独特の光まで、目の前の参謀と驚くほどよく似ていた。
「おいおい……」
グエンは画面と海賊団の参謀の顔を見比べた。
「こりゃまた、ずいぶん似てるじゃねえか」
「でしょう!頭もそう思いますよね!」
何人かの船員が集まってきた。
当の参謀は、目を向けることさえしなかった。自分が誰に似ているかなど、いまさら調べ直すまでもないという様子だった。
「参謀さん、お名前は?」
「パウル・ヴェーバーです」
「パウル!同じだ!」
若い船員は仲間たちを振り返った。
「名前まで同じだ!」
「姓は違うぞ」と誰かが言ったが、ほかの者はかえって感心した。
二十年以上も帝国の軍務尚書が身元を隠していたというのなら、姓くらいは変えていて当然だというのである。
参謀のヴェーバーは船員たちの顔を順に見た。
「……よく見てください。その人物は二十年以上前に死亡しています。私は別人です」
「頭たちだって、死んだことになってましたよ!」
ヴェーバーはグエンへ視線を移した。
「頭目。一体これは何のお話ですか?」
「……まあ、ちょっとした昔話だ」
ヴェーバーはそれ以上尋ねなかった。
若い船員は勢いづいていた。
「参謀さんも、昔は帝国の軍務尚書だったんでしょう?」
「違います」
「じゃあ、どうしてこんなに似てるんです?」
「その質問には、私より医師の方が適切に答えられるでしょう」
船員たちは顔を見合わせた。何を言われたのか、すぐには理解できなかったらしい。
グエンは逆に感心していた。
「しかし、軍務尚書か……。すげえじゃねえか。俺たちには旧同盟軍の提督が二人もいて、帝国元帥の軍務尚書までいるってわけだ!」
「頭ぁ、話を大きくしないでくださいよぉ」
アラルゴンの忠告は、すでに手遅れだった。
「よし、決めた!」
グエンが手を打った。
「参謀。お前の名前は今日からオーベル――」
「おやめください」
返答は、最後まで言い終わるより早かった。
「……おい、参謀。まだ全部言ってねえぞ」
「聞く必要がありません」
「何でだよ!」
「死者の名を借りる必要はありません。それに、姓名は頭目の命令で変更できるものではないでしょう」
グエンは不満そうな顔をした。
「じゃあ、『軍務尚書』だ!これならいいだろ!」
「私は、その官職に就いたことはありません」
「あだ名だよ、あだ名!」
ヴェーバーはしばらくグエンを見ていた。
「船内でそう呼ぶというのであれば、止めはしません。ただし、港湾当局に提出する名簿へ記載することは、お控えください」
「よし!決まりだ!」
グエンが勝手に宣言すると、船員たちから拍手が起こった。
こうして、旧自由惑星同盟軍の提督二人と、銀河帝国の元帥で軍務尚書経験者一人を擁するという、実に豪華な顔触れの海賊団が誕生した。
もっとも、頭目も副頭目も、実際には旧同盟軍の下士官だった男たちである。三人目の参謀も、帝国の官職など就いたことなどなかった。
この事実を船員たちへ改めて説明しようとする者は、もはやいなかった。
ヴェーバーは拍手が収まるのを待ち、記録板を閉じた。
「では、機関室へ参ります。修理の優先順位を確認しておきますので」
「おう。頼んだぞ」
ヴェーバーは一礼し、食堂を出ていった。
グエンはその背中を見送っていたが、姿が見えなくなると、アラルゴンの方へ身を寄せた。
「なあ、サンドロ」
「何です?」
「あいつ、実は本当に軍務尚書だったんじゃねえのか?」
アラルゴンは返事をするまでに、少し時間がかかった。
「……頭ぁ、俺にも、もう何が何だか分からなくなってきましたよぉ」
翌朝、船内の連絡板に新しい役職一覧が掲げられた。
頭目 グエン・バン・フー
副頭目 サンドロ・アラルゴン
軍務尚書 パウル・ヴェーバー
ヴェーバーはそれを一瞥したが、訂正を求めなかった。
その代わり、港湾提出用の乗員名簿に同じ肩書が記されているのを見つけると黙って削除した。
*
食堂では、若い船員たちが二人の新しい経歴について、早くも熱心に議論していた。
帝国の双璧と戦い、死を偽装し、姓名を微妙に変えて辺境へ落ち延びた二人の名将。
その伝説は、本人たちの知らないところまで少しずつ立派になっていった。
グエンは、近頃は椅子に片足を乗せ、片手を腰に当て、もう片方の親指で自分の胸を指す、例の妙なポーズをとることが増えていた。
若い船員たちが、この素晴らしい話を船内だけにとどめておくはずもなかった。
寄港するたびに、彼らは酒場で頭目と副頭目の武勇伝を披露した。最初は「帝国の双璧を相手に生き延びた」という話だったものが、次の港では「双璧の包囲を突破した」となり、その次には「双璧を手玉に取った」ということになっていた。しかも、あの軍務尚書と瓜二つの参謀まで抱えている。
誰も嘘をついているつもりはなかった。ただ、聞いた話を少し景気よく語っているだけである。
こうして、『名将』の伝説は、旧同盟領の辺境の港から港へと少しづつ広まっていった。
***
その数日後、グエンたちは小型貨物船を一隻拿捕した。
旧同盟領の辺境では珍しくもない、民間の輸送船だった。船体は古く、積荷もありふれた工業製品ばかりである。海賊船から停止を命じられた船長は、一度だけ逃走を試みたものの、砲塔が自船へ向けられると観念して機関を絞った。
グエンは通信画面に向かって、できる限り恐ろしい顔を作った。
「いいか!妙な真似をしなけりゃ、命までは取らねえ!積荷を調べさせろ!」
画面の向こうには、中年の船長がいた。顔色が悪く、額に汗が浮いている。彼は返事をする前に、何度も背後の乗員を振り返った。
「……乗員には手を出さないんだな」
「そう言ってるだろうが!」
船長はしばらく黙っていたが、やがて貨物室への立入りを認めた。
海賊船から乗り移った者たちは、積荷目録と現物を照らし合わせ、換金できそうな部品や工具を選び出した。グエンも自分で貨物室へ入り、何か高価なものはないのかと船長に詰め寄ったが、相手が差し出したのは、すでに使い古された機械部品の箱だった。
「何だこりゃ。もっといい物はねえのかよ!」
「ありません。うちは工場の補修部品を運んでいるだけです」
「ちくしょう、はずれだ。貧乏な船を襲っちまったな!」
船長の顔が、怒りでわずかに引きつった。
見るからに貧相な船に乗り、身なりまでみすぼらしい海賊に、貧乏呼ばわりされる筋合いはなかった。
これから奪われる部品を届けなければ、取引先への支払いも滞る。乗員たちに次の航海の給料を払えるかどうかさえ怪しくなるのである。
グエンはそんな事情を詳しく聞くつもりもなく、換金できそうな貨物をいくつか運ばせた。食料と燃料には手をつけず、航行に必要だと船長が申し出た機器も残したが、それで被害がなくなったわけではなかった。
貨物の移載が終わると、アラルゴンは両船の接続を解除した。
ところが、離脱した商船の姿勢がおかしかった。
「あれ……?」
アラルゴンが後方の表示に目をやった。
商船が緩やかに回転している。乗員たちが懸命に姿勢を立て直そうとしているようだったが、回転は収まらなかった。
「頭ぁ。ちょっと待ってください」
「今度は何だ!」
「さっきの船、故障してますよ」
調べてみると、貨物を移した際に、海賊船の接続具が商船の設備を傷つけたらしい。商船からは、姿勢制御がうまく働かず、このままでは安全に帰港できないという通信が入った。
「……おい。あれ、うちのせいか?」
「そうみたいですねぇ」
グエンは舌打ちした。
「何やってんだ、お前ら!」
「頭ぁ、文句は後にしてくださいよ。あの船、困ってますよ」
グエンは画面を睨んだ。商船の回転はまだゆっくりしたものだったが、先ほどまで大声で抗議していた船長の声には、今度は隠しようのない焦りが混じっていた。
背後からヴェーバーが歩み寄ってきた。
「頭目。このまま離脱すれば、巡視艦に捕捉される危険は減ります。ただし、あの船が自力で港へ戻れるかは不明です」
「その間、あいつらはどうなる」
「救難船が間に合う保証はありません。こちらの接続具が原因なら、放置して死者を出した際の影響も考慮すべきでしょう」
グエンはしばらく黙っていた。
それから、艦橋の通信装置を手に取った。
「おい、野郎ども!〈グエン海賊団〉の三原則を言え!」
船内各所の応答表示が点いた。
『『『一つ、奪いすぎるな! 帰りの燃料と食い扶持は残せ!』』』
『『『二つ、傷つけすぎるな! 逆らわねえ奴には手を出すな!』』』
『『『三つ、外道はするな! 人を売るな、いたぶるな、薬は売るな、やるな、殺しは楽しむな!』』』
船内に声が響いた。
グエンは商船を指さした。
「そうだ!俺たちは海賊だ。荷物は奪うし、金もいただく。だがな、帰れねえ船を置き去りにして、人が死ぬのを眺めるような真似はしねえ!」
彼は操縦席を振り返った。
「サンドロ!戻れるか!」
アラルゴンは商船の状態を確かめた。
「……できますけど、もう通報されてて教国の巡視艦が来るかもしれませんよぉ」
「来る前に終わらせりゃいい!」
「頭ぁ、いつもそれですよねぇ……」
そう言いながらも、アラルゴンはすでに船を減速させていた。
参謀のヴェーバーが記録板を開いた。
「頭目。応急修理には、こちらの予備資材を使うことになります」
「分かってるよ!」
「次の寄港地で購入が必要になります」
「だから分かってるってんだ!」
「……では、そのように手配します」
グエンは参謀を睨んだが、ヴェーバーはもう機関室へ連絡を入れていた。
***
商船の船長は、海賊船が戻ってくるのを見て、最初は残りの貨物まで奪われるのだと思ったらしい。
グエンが修理のために戻ったと告げても、すぐには信用しなかった。
「何をするつもりだ!」
「直してやるって言ってるだろうが!」
「お前たちが壊したんだろう!」
「だから直すんだよ!」
結局、海賊船から整備員が出され、商船側の乗員と協力して応急修理を行った。アラルゴンはその間、両船が安全な距離を保てるよう操船を続けた。
作業は思ったより早く終わった。商船の姿勢は安定し、少なくとも近くの港までは航行できる見通しが立った。
グエンは通信を開いた。
「これで帰れるな?」
船長は、しばらく黙っていた。
「……港までは何とかなると思う」
「なら、さっさと行け!」
「奪った貨物は返さないんだな」
「返すわけねえだろうが!俺たちは海賊だぞ!」
船長は、ひどく嫌そうな顔をした。
「……だったら、礼は言わん」
「誰が礼を言えって頼んだ!」
通信が切れると、グエンは不機嫌そうに椅子へ座り込んだ。
商船は慎重に加速を始め、やがて遠ざかっていった。船長が彼らを許したわけではないし、当局への通報を思いとどまるとも約束していない。
アラルゴンが、ようやく肩の力を抜いた。
「頭ぁ。せっかく奪ったのに、かえって金がかかっちまいましたねぇ」
「うるせえ。あいつらが死んだら寝覚めが悪いだろうが」
「俺たち海賊なんですけどねぇ」
「海賊にだって流儀ってもんがあるんだよ!」
グエンはそう言って、奪った貨物の目録をもう一度眺めた。修理に使った資材を補充すると、儲けが出るどころか赤字になる計算だった。
しばらくして、ヴェーバーが見積書を持ってきた。
「頭目。今回の修理に使用した資材の補充費用です」
「……いくらだ」
ヴェーバーは金額を告げた。
グエンは天井を仰いだ。
「ちくしょう! やっぱり海賊ってのは儲からねえな!」
「その点については、以前から申し上げております」
「じゃあ、お前だったらどうした!」
「そもそも、あの船を拿捕の対象に選ばなかったでしょう。積荷の価値が低く、危険に見合う利益が得られません」
グエンは何も言い返せなかった。
「それに、頭目は人命を損なうことを望まれない。その方針自体を変更なさらないのであれば、なおさら相手を選ぶ必要があります」
ヴェーバーは静かに答えた。
グエンはしばらく彼を見ていたが、やがて笑い出した。
「はっはっは!そりゃそうだ!俺たちには『軍務尚書』がいるんだったぜ!」
アラルゴンも笑い始めた。何がおかしいのか分からないまま、近くにいた船員までつられて笑った。
ヴェーバーは記録板を閉じた。
「頭目。次の補給地をお決めください」
「何だよ。もう仕事か!」
「はい。そろそろ、利益の出る航海をしていただかなくては困ります」
それを聞いて、グエンはまた笑った。
ほどなくして海賊船は進路を変え、別の辺境星系へ向けて航行を再開した。
頭目が大声で命令し、副頭目が文句を言い、『軍務尚書』がその両方を聞きながら航路と費用の計算を続けている。
小さな獲物を選び、必要以上には奪わず、危なくなればさっさと逃げる。
さほど儲かりはしないが、おかげで今日まで生き延びてきた。
実に手堅い海賊稼業、そのはずであった。
もっとも、小さな船に常に小物ばかりが乗っているとは限らない。
彼らが幸運にも――あるいは不運にも――とんでもない大物を釣り上げてしまうのは、もう少し先のことだった。
――「あいつは人を逃がすような男じゃない。誘拐して、閉じ込める男だ」
次回、『それぞれの帰る場所(ランズベルク伯、ヨーゼフ・ベルガー)』