【新帝国暦二十四年(聖暦二十三年)四月 リオ・ヴェルデ星系 惑星アロヨ・ド・モリノ 地方公序局庁舎】
地方公序局の取調室には、窓がなかった。
天井に埋め込まれた照明が、白い壁と金属製の机を照らしていた。出入口は一つだけで、廊下側から電子錠がかかっていた。
アルフレット・フォン・ランズベルクは昼前から十時間近く、その部屋で聴取を受けていた。
旧山岳道路で〈耳目〉に取り押さえられたあと、彼の身柄は地元の公序局へ引き渡されていた。
『公序局』とは教国で世俗の治安維持を担う警察機関であり、宗教警察を管轄する聖廉院とは別系統の組織だった。
「もう一度聞くぞ。あの道路に子供がいたのか?」
取調官が端末から顔を上げた。同じ質問をするのは、これで十三度目だった。
「……いいえ。おりませんでした」
「ならば、なぜ子供がいるように振る舞った!同じことを何度も訊かせるな!」
取調官は机を叩き、旧山岳道路にいた三名の職員の報告を突きつけた。
ランズベルクは遮断柵の前で、そこにいない少年と話し、抱き上げ、薬を与える動作を繰り返した。やがて少年が死んだと告げ、見えない遺体を抱えて歩き出したという。
ランズベルクはその報告を否定しなかった。エルフリーデとイルゼの二人を逃がすために追跡者の注意を引こうとしたことも認めたが、少年を抱き上げてからの行動については、何度尋ねられても曖昧な説明しかできなかった。
「ふざけるな!最初から全部芝居だったんだろう!何もない道路で死んだ子供を抱いて歩く人間が、どこにいる!」
ランズベルクは叱責に肩を縮め、申し訳なさそうに頭を下げた。
「何度問われても同じです。初めは、皆さんの注意を私へ向けるつもりでございました。ですが、途中から陛下のお声が聞こえまして……」
「どの陛下だ」
「エルウィン・ヨーゼフ二世陛下でございます」
取調官は口を閉じた。
公序局には、ランズベルクの二十二年前の記録も届いていた。旧ゴールデンバウム王朝の幼帝を連れ出し、その逃亡を受け入れられず、別の少年の遺体を皇帝本人と思い込んで持ち歩いていた男である。子供が衰弱し、死亡するまでの経過を克明に書き残し、発見後は精神病院に収容されていた。その後、長い療養を経て社会生活へ戻ったことも記されていた。
取調官には、正気を失った男の異様な行動としか思えなかった。その記録を読んだときから、目の前の男を気味悪く感じていた。
ランズベルクは膝の上で両手を重ね、何かを思い出そうとしていた。やがて、その視線が取調官の右肩越しに動いた。
取調官は反射的に振り返った。
そこには白い壁があるだけだった。床との境目に薄い影が落ちているほかは、何もない。
「……お前、何を見ている」
「いえ、何も」
「だったら、こっちを向いて話せ!」
ランズベルクは慌てて向き直った。
ランズベルクの記憶には、二十二年前、幼帝と暮らしていた部屋の光景が残っていた。
小さな窓と寝台のある部屋で、少年は何度も外へ出たいと訴えた。扉を叩いて抗議する幼帝を諭し、聞き入れられなければ身体を押さえ、薬を飲ませて眠らせた。
部屋の様子も、少年が怒って口にした言葉も、ランズベルクは今なお覚えていた。
その記憶を問われると、彼はためらいながらも、当時の行動を一つずつ認めた。
「当時は陛下をお守りしているつもりでございました。ですが、陛下は私ども……いや、私のもとを離れたかったのです。それを認めようとしなかったのは、私でございます」
取調官は、それまでの供述を読み返した。
二十二年前の手記についても、ランズベルクは事実でなかったことを認めている。幼帝が逃亡した事実を受け入れるまでに長い年月が必要だったことも、今は理解しているらしい。今回、幼帝の生存を示す情報が現れ、聖録院が本人性調査のために彼を招致したのも、そうした過去を知ってのことだった。
しかし、エルフリーデとイルゼを逃がした現在の山道で何が起きたのかという問いには、依然として取調官に理解のできる答えは出なかった。
「お前は本当に子供がいると思っていたのか。それとも、追跡を邪魔するために狂人の真似をしたのか。どっちだ」
ランズベルクは長いあいだ考え込んだ。
「……どちらだったのか、私にも分からないのでございます」
取調官が大きく机を叩いた。
「いい加減にしろ!貴様、その与太話を何度聞かせるつもりだ!」
怒声が壁に反響した。ランズベルクは謝ったが、供述を変えなかった。初めは二人を逃がそうとしていたこと、途中から幼帝の声が聞こえたこと、その声に従って少年を保護しようとしたことを、繰り返し同じ順序で説明した。
その途中で、ランズベルクはふと机の下へ視線を落とした。
取調官は思わず足を引いた。
金属製の机の脚と、床に固定された椅子の支柱があるだけだった。取調官は一瞬遅れて、自分が相手の視線に反応したことに気づいた。
「……今度は何だ。何が見えた」
「手首でございます。山道で押さえられた痕が、まだ残っておりまして」
ランズベルクは右手を持ち上げた。取調官はその手を一瞥し、苛立たしげに椅子へ座り直した。
その痕がついた前後の出来事については、比較的明瞭な記憶が残っていた。
エルフリーデが、「アルフレット」と自分の名を大声で呼んだのである。振り向くと、彼女が車の窓から身を乗り出しており、そこでようやく自分が山道にいることを思い出したのだという。
「それまで私は、潜伏先で陛下のお世話をしておりました。少なくとも、そのつもりでいた時間がございました」
取調官は彼を見つめた。
正気を失っていたのか、巧妙に芝居をしていたのか。そのどちらとも断定できない供述だった。
取調官は端末の表示を閉じ、椅子に深く座り直した。
「……お前自身のために言うぞ。お前、自分が今どこにいるか分かっているか?」
「はい。地方公序局の取調室でございます」
「そうだ、今はな。だが、あの『人形使い』どもが――」
取調官はそこで声を落とした。
「あの聖廉院が身柄を引き渡せと言ってきたら、世俗事件しか扱えない俺たちにはもうどうにもできんぞ。お前の話には、昔の皇帝だの、死んだ子供だの、聖録院の調査だの、厄介なものがいくつも絡んでいる。連中がお前に関心を持つ理由はいくらでもある」
ランズベルクは黙って聞いていた。
「お前、聖廉院の〈悔悛舎〉は知っているか?」
「……いいえ」
「聖廉院の留置施設だ。そこへ移されたら、こんなものじゃ済まん。俺が机を叩いて怒鳴るくらい、なんでもなくなる。脅しではなく、本当の話だ」
取調官はランズベルクの顔を見据えた。
「教団の〈審問官〉の連中は決して怒鳴らん。机も叩かん。……そんな必要がないんだ。あいつらにとっては、ただの作業に過ぎない。人間に、人間であることをやめさせるのも、連中には造作ないことだ。お前が泣こうが、何を訴えようが、顔色ひとつ変えん。人間同士の話が、あの連中に通じるなどとは思わんほうがいい」
ランズベルクは、しばらく取調官の顔を見つめていた。
「……恐ろしいところなのでございますね」
「そうだ。分かったら、くだらん芝居はやめて、訊かれたことに答えろ」
「はい。私に分かることでしたら、何でもお答えいたします」
取調官は舌打ちした。
話が通じているのかどうかも、よく分からない男だった。
その後の聴取では、検問で用いたホーエンフェルス=アルテンブルク家の由緒書が問題となった。
「……十一代にわたる家督継承の経緯まで書いてあるぞ。ランズベルク、これもお前が作ったのか」
「はい。よくぞ訊いてくださいました」
ランズベルクは少し顔を明るくした。
「十一代という長さには深い意味がございまして。二度の亡命を経ておりますので、その間の系譜に矛盾があっては、由緒として信用していただけません。特に第六代当主の婚姻が重要でございまして――」
「もういい!誰が架空の貴族の歴史を説明しろと言った!」
ランズベルクは口を閉じた。だが、少し考えてから、おずおずと申し出た。
「……そうですか。なかなかの自信作なのですが。あの、差し支えなければ、系譜と由緒書を公的記録として保存していただけませんでしょうか。十一代分、ずいぶん苦心して組み立てましたので」
「証拠品として残るに決まっているだろう!」
ランズベルクは安堵したように頷いた。
「それは何よりでございます。できましたら、この不肖アルフレット・フォン・ランズベルクが創作した家系である旨も明記していただけますと、後世の方々に誤解を与えずに済むかと」
取調官は額を押さえた。
半日にわたって問い詰めても、この男には反抗する気配がなかった。ところが、何もない壁を突然見つめたり、存在しない貴族家の歴史を嬉しそうに語り出したりするのである。
取調官は最後に、本人の判断能力についてもう一度確かめようとした。
しかし、ランズベルクはそのとき、取調官の左側へ顔を向けていた。
視線の先は、壁際の床から少し上のところだった。ちょうど、小さな子供が座っていれば、顔のある高さである。
取調官は言葉を止めた。
数秒待っても、ランズベルクは視線を戻さなかった。
「……おい。そこに何かいるのか?」
ランズベルクは瞬きをした。
「はい?」
「今、何を見ていた」
「……何もございません。失礼いたしました」
取調官は壁際を見た。
何もない。白い壁だけだった。
「本当だな。本当に、子供が見えているわけじゃないな」
ランズベルクは驚いたように彼を見つめた。
「いいえ。どなたもおられません」
取調官はそれ以上尋ねなかった。
記録を閉じようとしたところで、ランズベルクが遠慮がちに声をかけた。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「陛下は……いえ、ヨーゼフ・ベルガー氏は、お元気でいらっしゃるでしょうか」
取調官は顔を上げた。
「さあな。ハイネセンにいるんだろうが、それ以上はこちらでは把握していない」
「そうですか」
ランズベルクは少し残念そうにしたが、すぐに顔を上げた。
「もし許されるのでしたら、一度だけでもお目にかかりたいのです。お顔を拝見できるだけで、十分なのですが」
そこでいったん言葉を切ったものの、思い直したように付け加えた。
「……いえ、できましたら、ほんの少しだけでもお話ができれば、なおありがたいのですが」
***
【新帝国暦二十四年四月 ハイネセン宇宙港 港湾救難局予備艇格納区画】
「だからそこを触るなと言っただろう、ポプラン」
ヨーゼフ・ベルガーが機関室の点検口から顔を出すと、オリビエ・ポプランは制御盤の覆いを持って立っていた。そばには外された固定具と、さっきまで使われていなかった工具が転がっている。
「触ってない。持ち上げただけだ」
「それを触ったと言うんだ。壊したら自分で直せるのか?」
「直せる男を知ってるぜ」
「……俺はお前の専属整備員じゃないぞ」
「命の恩人に向かって冷たいねえ」
ヨーゼフは覆いを取り返して傷がないか調べ、作業台へ置いた。
整備しているのは、教国領から脱出したヨーゼフを、ポプランたちが救助した際に使用した救難訓練艇だった。
先日の強制接舷と高負荷運転で傷んだ艇は、救難局の整備班が修理を続けていた。ヨーゼフは腕のよさが評判になり、手当を出すから手伝いに来てほしいと頼まれていた。まだ正式な職員ではなかったが、今では整備班の一員のように扱われ、顔を出せば当然のように仕事を任されていた。
「主機の交換部品もまだ来ない。お前が無茶な操縦をするからだぞ、ポプラン」
「それでみんな、助かったんだろうが」
「人間はな。機械にとっちゃ知ったことじゃない」
格納区画の入口から、笑い混じりの声がした。
「まだやってるの?」
カーテローゼ・フォン・クロイツェル・ミンツだった。救難時の医療記録を自治政府側へ引き継ぎ、ポプランがいると聞いて立ち寄ったという。
「おお、カリン。見てのとおり、整備の監督中だ」
「監督?邪魔してるだけだ」
「それは見れば分かるわ」
「おいおい、弟子が二人揃って師匠の敵に回るのかよ」
「俺がいつからお前の弟子になった!」
ヨーゼフは点検口から出ると、手の油を布で拭いた。カリンに何か尋ねかけて、言い直した。
「……あの二人はどうなった」
「エルフリーデさんとイルゼさん? 二人ともハイネセンに着いたわ。エルフリーデさんは搬送後に意識が戻らなくなったけど、今は容体が安定していて、専門の医療班が診ている。根治には再生臓器の移植と長期入院が必要で、費用も相当かかると思う。バーラトの医療保険にも入っていないから、そこが問題ね」
ヨーゼフは少し考えてから、顔を上げた。
「俺が費用を出す。あの人がいなければ、俺は今ここにいないんだ」
ポプランが横から口を挟んだ。
「突っ込みたいところはいろいろあるんだが……まずお前さん、金なんか持ってないだろう」
「今はな。だが、分割でも何でも、払う方法は考える」
「金額も聞いてないのにか?」
「いくらかかるか分かったところで、気持ちは変わらん」
「二人とも、まだ早いわ」
カリンが口を挟んだ。
「まずはエルフリーデさんの意識が戻ってからよ。手術を受けるかどうか、決めるのは本人なんだから」
ヨーゼフは頷いた。
「ああ。もちろんだ。あの人が望むなら、俺にできることはしたい」
ポプランは呆れたように首を振った。
「まったく、お前さんは……。自分の生活もこれからだってのに」
「そういう人なのよ」
カリンは苦笑しながらヨーゼフを見た。
「まあ、嫌いじゃないがね、こういう馬鹿は」
ポプランも笑った。
話題は、二人が救難地点へたどり着くまでの経緯に移った。イルゼによれば、何日も宿を変え、幹線道路を避け、病身のエルフリーデを休ませながら移動していたという。
「二人だけじゃ難しかったと思うわ。道に詳しい人が手伝ってくれたの」
「ほう。お人好しの物好きがいたのか?」
カリンはヨーゼフを見た。
「アルフレット・フォン・ランズベルク氏よ」
ヨーゼフが持っていた工具を置いた。金属の作業台に当たり、思いがけず大きな音がした。
「……訊き間違いか。今、誰だと言った?」
「アルフレット・フォン・ランズベルク。ランズベルク伯爵よ。あなたもよく知っているでしょう」
「……同姓同名の別人じゃないのか」
「どうして?」
「あの男が、他人を助けたっていうのか?」
ポプランはイルゼから聞いた話を確かめながら、伯爵が車を運転し、宿を探し、最後は追跡者を引きつけて二人を先へ行かせたのだと説明した。
「……あいつが?自分だけ残って、他人を逃がしたっていうのか」
「そう訊いただけだ。おれたちが見たわけじゃない」
「あいつは人を逃がすような男じゃない。誘拐して、閉じ込める男だ。……そんな男が、理由もよく訊かずに他人を逃がしただと?俺をかつぐのもいい加減にしろ。いくらお前らでも、冗談じゃ済まないぞ」
「イルゼさんはそう話していたわ。伯爵がどういうつもりだったか、あたしには分からないけれど」
カリンは、三人が検問を通るために、亡命貴族の架空の家系を用意した話をした。ランズベルクは何代にもわたる系譜を作り、先祖の戦歴や亡命理由まで考え、急ぐ二人に説明しようとしていたらしい。
「家系図?」
「ええ。十一代続く家だって。検問の係官にまで見せたそうよ」
「十一代だと?」
ヨーゼフは顔を歪めた。
「……本当にあいつだったのか」
「それで本人だと分かるのか?」
ポプランが訊いた。
「そんな状況で架空のご先祖様を十一代も作って、誇らしげに説明しようとする馬鹿が、ほかにいるか。昔からそうだった。何か思いつくと夢中になって、周りの言うことなど訊きはしない。あの二人も、あんな奴によく何日も付き合ったな」
カリンが笑いかけたのを見て、ヨーゼフはまた悪態をついた。しかし、もう人違いだとは言わなかった。
ヨーゼフが伯爵のその後を尋ねると、追跡者に捕らえられたところまでは分かっているが、現在の処遇は知らないという返事だった。
「会ってみたくはないのか?二十年も経てば、少しは変わってるかもしれないぜ」
ポプランの問いに、ヨーゼフは顔をしかめた。
「……冗談じゃない。名前を聞いただけで体が拒否反応を起こしてるんだぞ。俺の居場所は絶対にあいつに教えるなよ」
***
【新帝国暦二十四年四月 ハイネセン宇宙港 港湾救難局予備艇格納区画】
交換部品が届いたという連絡を受け、ヨーゼフが宇宙港を訪れたのは二日後だった。救難訓練艇の右補助ポンプは、すでに新しいものへ交換されていた。作業台に置かれた古いポンプには、過熱による変色と内部の摩耗が残っている。
「もう取り付けたのか」
「ええ。ですが、前と同じ症状が出ないか、まだ試験していません」
整備員が運転記録を開いた。故障前には回転数が不安定になり、冷却液の流量も規定値を下回っていた。ポンプは確かに傷んでいたが、それだけが原因かは分からない。
「低速から回そう。回転数と流量、それから吸入側の圧力を一緒に見たい」
整備員は冷却系の弁を確認し、運転を始めた。低速では問題がない。ところが負荷を上げると、回転数だけが正常に増え、流量は追いつかなかった。吸入側の圧力も下がっていく。
「……新しいポンプでも駄目ですか」
「ポンプは回ってる。入口が詰まってるかもしれん。一度止めよう」
系統を停止・隔離し、残圧を抜いてから、ヨーゼフは吸入側のフィルタを取り出した。網の一部に、薄い破片が引っかかっている。
「パッキンの欠片だな」
「古い継手のものですか?」
「似てるが、どこから来たかまでは分からん」
破片で網が塞がれた状態なら、負荷を上げたときに流量が足りなくなる。ヨーゼフは破片を整備員へ渡し、入口側の配管ももう一度洗うよう頼んだ。
そのころ、〈傘の会〉の操艇講習を受けている青年が、教官の使いで格納区画に来た。ヨーゼフが教国から逃げた際、同じ艇に乗っていた受講者の一人だった。取り外されたフィルタを見て、青年は遠慮がちに尋ねた。
「ベルガーさん。作業を見せてもらえませんか。あのとき、機関の警報が何度も鳴っていたから、何が悪かったのか知りたくて」
「邪魔しないならな。そこに立ってろ。工具には勝手に触るなよ」
青年は礼を言って作業台の横に下がった。ヨーゼフと整備員は配管を洗い、フィルタを交換して、接続部を組み直した。ヨーゼフは当たり面を確かめてから固定具を仮締めし、青年に声をかけた。
「十三のレンチを取ってくれ」
青年が工具箱を開くと、大小の工具が長さと用途に分けて収められていた。使い込まれて握りのすり減ったものも多いが、一本も乱雑には置かれていない。青年は表示を見て、一本を選んだ。
「これですか?」
「それだ。ありがとう」
ヨーゼフは固定具を締めてからレンチを返した。青年が元の場所へ納めたのを見届け、圧力試験の準備を整備員へ頼んだ。
「あんな小さな破片で、機関に異常が出るんですね」
「出ることもある。さっきは回転数が増えても流量が足りず、吸入側の圧力が下がった。だから入口を調べたんだ」
ヨーゼフは端末に並ぶ三本の記録を指した。青年はしばらく見比べてから言った。
「教国の艇に追われたときも、こういうのを見ていたんですか?主機の温度が上がっていたのに、ポプランさんは何度も加速してましたよね」
「あいつが無茶をするからだ。使える時間を計算して知らせても、もっと欲しいと言いやがる」
「でも逃げ切りました」
「だからって、まねするなよ。あのときはほかに手がなかった」
整備員が復旧を終え、二度目の試運転を始めた。今度は負荷を上げても吸入側の圧力は保たれ、流量も回転数に応じて増えていく。
右補助ポンプは規定の負荷範囲で安定して動いた。艇全体をすぐ運用へ戻せるわけではなかったが、今回の不具合はひとまず解消された。ヨーゼフが使った工具を箱へ戻していると、先ほどの青年が教官を連れて現れた。
五十がらみの教官は、旧同盟軍で輸送艇に乗っていたという。〈傘の会〉で操艇講習を担当しており、受講生から今日の話を聞いたらしかった。
「ベルガーさん、ありがとうございました。次の機関整備講習で、少しお話しいただけませんか。実際に故障を調べた方の話は、受講生にとって貴重なんです」
「講習か。俺は人に教えたことなんかないぞ」
「整備班にも同席してもらいます。受講生からの質問に答えていただくだけでも構いません」
「手当は出るのか?」
教官は少し意外そうな顔をした。
「ええ、もちろん。外部講師としての謝礼をお支払いできます」
「だったら、俺を使ってくれ。講習でも実習でも、機械のことなら教えられる。必要なら整備の仕事も引き受ける」
「それは助かります。では、まず来週の講習からお願いできますか」
「構わん。それと、救難局の整備主任にも話をしておいてくれないか。正式に雇ってもらえるなら、毎日でも来る。金を稼ぎたい」
教官は頷き、勤務条件については救難局の担当者と相談するよう勧めた。講習の日時と謝礼の手続を確認してから、青年を連れて戻っていった。
ヨーゼフは工具箱の留め金を確かめ、端末に届いた講習予定を開いた。謝礼だけで大きな手術費用を賄えるとは思っていなかったが、整備の仕事と合わせれば、少しずつでも収入を増やせるだろう。
エルフリーデが手術を望むかどうかは、まだ分からない。それでも、本人が望んだときに何もできずにいるのは嫌だった。
ヨーゼフは来週の講習予定を登録すると、救難局の整備主任に面談を申し込む短い連絡を送った。
***
【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月 聖都ラディークス 第二聖団〈律法〉司令部】
第二聖団司令のコンラート・フェルディナント・ベーレント聖将のもとへ、アロヨ・ド・モリノ聖管区からアルフレット・フォン・ランズベルクに関する報告が届いた。
ランズベルクは旧山岳道路で聖廉院麾下の〈耳目〉に取り押さえられ、世俗の警察機関である地方公序局へ引き渡されていた。
ベーレントが目を留めたのは、現地の聖廉院が付けた処分意見だった。
〈枢機卿団の聖命執行を計画的に妨害し、保護拘束対象者らの逃亡を幇助した。聖命への重大な背反であり、大逆に準ずる行為として厳正な処断が相当である〉。
聖廉院の〈悔悛舎〉への身柄移管を求める付記もあった。
「聖廉院の担当官につないでください」
通信が開くと、聖廉院担当官が画面に現れた。
「まず、保護拘束対象者は一名です。『対象者ら』という表現は不正確です。ヴァイゲルト女史には命令が出ていません。訂正してください」
『承知しました。しかし、コールラウシュ女史の保護拘束は有効です。枢機卿団の命令でもございます。その聖務の執行を妨害した以上は――』
「大逆に準ずる、とはどういう意味ですか。大逆罪を適用できるのですか?」
『いえ、そこまでは……しかし、枢機卿団の聖命を故意に妨げた以上、重大な背反行為として――』
「私は、法的根拠があるのかどうかを訊いています」
担当官は答えに詰まった。
「暴行や脅迫も使用されていない。虚偽の説明で聖務の執行を妨げたのであれば、せいぜい〈聖務偽導罪〉でしょう。過去の同種事案では、どのように処理されていますか」
『……初犯で、暴行や脅迫を伴わない場合、戒諭のうえ不訴追、釈放が通例です』
「前例に照らして不訴追、釈放になるなら、そうすべきでしょう」
『しかし、閣下。それでは枢機卿団への説明がつきません。聖廉院の上層部も、厳正な処分を求めてきております』
「法に従って処理したと説明してください」
『……それでよろしいのでしょうか』
「何か問題があるのですか?」
担当官は口を閉じた。
ベーレントは報告書の末尾を開いた。
「それから、最終的にコールラウシュ女史の離境を認めたのは私です。本人の意思と医療上の必要性を確認したうえで、私に認められている職権で判断しました。その事実も記録してください」
『承知いたしました。ですが、聖廉院への身柄移管については――』
「必要ありません。新たな違法行為の証拠があるのですか?」
『……ございません』
「では、通常の刑事手続に戻してください」
通信が切れた。
副官が修正事項を記録しながら尋ねた。
「閣下。枢機卿から異議が出される可能性がありますが」
「そのときは私がノクス枢機卿に直接説明します」
「ランズベルクという者は、かつての幼帝誘拐事件の実行犯でもあります。あのブラウンシュヴァイク公とも近しい関係にありました。……リッテンハイム侯家にお仕えだった閣下には、あまり愉快な名前ではないかと存じますが」
「それが何か?」
「……いえ」
副官は一礼し、報告の修正に戻った。
***
【その後 教国領旧自由惑星同盟辺境 地方公共図書館】
ランズベルクへの処分は、ほどなく決まった。
現地の聖廉院が求めた厳罰は認められず、架空の系譜を使った検問通過などについて、前例に従い、戒諭のうえ不訴追とされた。
彼は釈放され、それまで暮らしていた辺境の街へ戻った。
図書館の受付にいた女性職員は、入口から入ってきたランズベルクに気づくと、貸出端末の操作を終えて立ち上がった。
「あら、アルフレットさん。お帰りなさい。予定よりずいぶん長くかかりましたね」
「ただいま戻りました。長くお休みをいただき、申し訳ありませんでした」
「お身体は大丈夫ですか?館長も心配していたんですよ」
「はい。今日からまた仕事をさせていただければと思うのですが」
職員は笑った。
「それなら、覚悟してくださいね。整理の終わっていない寄贈資料がまだたくさん残っていますから」
ランズベルクも微笑んだ。
「喜んで取りかからせていただきます」
奥の作業室には、出発前と同じ机があった。資料箱は三つに減っている。彼がいないあいだに、同僚たちが大半の分類を進め、来歴の分からない写真や、寄贈者への問い合わせが必要なものを残してくれていた。
「私の留守中に、ここまで進めてくださったのですね。ありがとうございました」
「手の空いている者で分担しただけです。またお願いしますね」
ランズベルクは作業に取りかかった。古い写真の裏には撮影年が書かれているものもあったが、後から誰かが記入したらしいものも混じっていた。写真に写る建物や街路を、地域の資料と一つずつ照らし合わせていく。
しばらくして、ある組合の集合写真で手が止まった。裏の撮影年と、背景にある建物の形が合わない。町の建築史を調べると、写真の入口は、記載された年よりあとに改築されたときの位置にあった。屋根の勾配も違う。
「こちらの写真ですが、少しよろしいでしょうか」
同僚が寄ってきた。
「確かに形が違いますね。でも、裏には年が書いてありますよ」
「ええ。この年が撮影当時に書かれたものか、後年の整理で記入されたものか、まだ分かりません。建物についての記録が間違っている可能性もございます」
ランズベルクは写真を机に並べた。
「以前、この建物を調べたことはあるのですが、私の記憶だけで直すのもよくありません。寄贈された方へ伺えればよろしいのですが」
同僚が寄贈者の資料を調べると、家族への連絡先が残っていた。問い合わせは自分が担当するというので、ランズベルクは撮影年を未確認のままにし、参考にした建築史の資料を添えて写真を脇へ置いた。
「ほかにもこういうのがあったら、見ていただけますか?」
「もちろんです。分かる範囲でしたら、いつでも」
午後には、別の寄贈箱から旧同盟時代の祭礼を写した写真が出てきた。珍しい装束を見つけたランズベルクは、近くの職員にその由来を説明し始めた。
「この衣服は、当地へ入植した方々が持ち込んだ習俗に関係するものと思われます。起源をたどりますと、さらに数世代前の――」
「アルフレットさん。続きは休憩時間に聞かせていただいてもいいですか?」
ランズベルクは時計を見た。
「ああ、もうこんな時間でしたか。失礼しました」
「あとで、ぜひ聞かせてくださいね」
「承知しました」
閲覧室では、学校帰りの子供たちが本を探し始めていた。受付脇の返却台には本が少しずつ積まれ、ランズベルクも作業室を出て、請求記号を確かめながら書架へ戻した。利用者に尋ねられれば探している本の棚へ案内し、その途中で同僚から頼まれた本を一冊、別の書架へ運んだ。
閉館の案内が流れるころ、寄贈写真の分類はほとんど終わっていた。確かめきれなかった数枚だけを分け、机を片づける。
「今日はずいぶん進みましたね」
「皆さんが先に整理してくださっていたおかげです。私一人でしたら、まだ何箱も残っていたでしょう」
ランズベルクが受付へ戻ると、返却台は空になっていた。
「お疲れさまでした、アルフレットさん。また明日」
「お疲れさまでした。明日もよろしくお願いいたします」
職員用の出入口を出ると、まだ夕方の明るさが残っていた。仕事帰りの人々が通りを歩き、向かいの店には夕食用の食品が並んでいる。少し先のパン屋から焼きたての匂いが漂ってきた。
ランズベルクは列の最後に並んだ。
夕食のパンと、翌朝に食べるものを一つ買い、袋を提げて店を出る。
街灯が点き始めた道を、いつものように歩いて帰った。
――「どんな仕事をしたいかぐらい、自分で決めていいのよ。たまには自分に正直になりなさい」
次回、『傘の下に、剣を――ユリアン・ミンツ、立つ』