【新帝国暦二十四年五月 ハイネセン バーラト自治政府・評議会庁舎】
「ミンツさん。仮に法案が可決されて、軍と国防委員会が設けられた場合の話なのですが」
バーラト自治政府評議会議長のベルナール・コーツは、いつもより慎重な口調で切り出した。
評議会に提出された〈バーラト自治防衛軍設置法案〉の議事が終わってから一時間ほどになる。
議長室には、審議が始まったばかりの法案の資料が机の端に置かれていた。
「国防委員会の委員長の職をあなたにお願いできないでしょうか。もちろん、まだ正式な打診ではありません」
ユリアン・ミンツは、すぐには答えなかった。
その沈黙を、コーツはためらいと受け取ったらしい。
「ご家族もいらっしゃるし、〈傘の会〉の会長のお仕事もある。簡単にお引き受けいただけるとは考えておりません。ただ、今のうちにお気持ちだけでも伺っておきたかったのです」
〈傘の会〉は、正式にはバーラト星系市民安全互助隊という。旧同盟軍人らを中心に組織された非営利の民間団体で、住民の救難や災害対応、操艇などの訓練を行っていた。ユリアンはその会長を務めている。
「お気遣いありがとうございます。ですが、まだ考えがまとまっていないんです」
「あなたが、ですか」
コーツは思わずそう言い、それから失礼を詫びた。ユリアンが何かを決めるのに時間をかけること自体は、珍しくない。資料を調べ、相手の意見を聞いてから結論を出す男だと知っている。それでも、今回ばかりは多少意外だったらしい。
「急かすつもりはありません。正式なお話になれば、改めてご相談します」
「そのときにはきちんとお返事します」
二人はそこで話を終えた。
庁舎の廊下を歩きながら、ユリアンは今日の審議に至るまでの経緯を思い返していた。
教国領からの共同救難作戦によって、カリンとポプラン、それに救出された女性二人は無事にバーラトへ帰還した。作戦そのものは成功したといってよい。
しかし、救難艇を追跡する教国の武装艦艇に対し、バーラト自治政府には自力で四人を守る手段がなかった。帝国軍が動き、帝国と教国の交渉がまとまったからこそ、四人は帰還できたのである。交渉が決裂していれば、カリンとポプランは身柄を拘束され、教国領内へ連行されていたかもしれない。
これを受け、自治政府は〈バーラト自治防衛軍設置法案〉を評議会に提出した。
住民や港湾、航路を守るため、自治政府自身が指揮できる軍を持つという提案だった。
教国との戦争の激化に伴い、帝国軍も各地の戦線に兵力を割かなければならず、バーラトの防衛に十分な戦力を回せなくなってきた。
帝国政府も、現下の情勢を踏まえ、限定的な防衛力の整備を検討することには反対しないと回答していた。ただし、実際に艦艇を取得するには帝国編入協定上の制限が残っており、別途協議が必要だった。
評議会では費用、武器使用、国内出動、文民統制をめぐって意見が割れた。
それでも法案を正式な審議へ進めることは決まった。帝国への編入以来、長く軍備を持たずに暮らしてきたバーラト自治政府が初めて自前の軍を持つ方向へ動き出したのである。
それに先立って審議された、民間団体に会員への通知を義務づける暫定措置は否決されていた。〈傘の会〉は引き続き、救難と教育を担う民間団体のままである。将来、自治防衛軍に誰が志願するかは、必要な法律と正式な募兵制度が整ってから、それぞれの市民が自ら決めることとされた。
ユリアンは、その判断を支持していた。戦争が迫っているからといって、人の名前を先に集め、役割まで決めてしまってよいわけではない。時間のかかる仕事だが、それでもこの手続を省略するわけにはいかなかった。
廊下の向こうで、事務総監のアレックス・キャゼルヌが彼を見つけた。
「おや、ユリアン。まだ帰っていなかったのか。コーツ議長に呼ばれたそうだな」
「ええ。ちょっとお話があって」
「国防委員長をやってくれという話だろう」
ユリアンは足を止めた。
「どうして分かったんです?」
「お前さんのほかに誰を考えろというんだ」
「候補になる方はいくらでもいると思います」
「そりゃ、いるだろう。だが、軍を知らない人間に軍の監督を任せるのも困るし、軍人の言い分を右から左に通して予算を出すだけの人間でも困る。両方の事情が分かる者は、そう多くないからな」
キャゼルヌはそこで笑った。
「お前さんが長いこと官職に就いていなかったのも、こういう日のためだと思っている連中は多いだろうよ」
「それは、少し違うような……」
「違うのか。まあ、そういうことにしておこう。おれが気にしているのは、お前が引き受けるかどうかより、国防委員会を作るとなれば、どこから予算を持ってくるかだがね」
「まだ国防委員会はありませんよ」
「だから今から心配しているんだ。できてからでは遅い」
キャゼルヌは手元の資料を叩き、自分の執務室へ戻っていった。
その日の午後、ユリアンは審査資料の確認のため内務局にも立ち寄った。
国防委員長の筆頭候補としてユリアンの名前が挙がっていることは内務局長のムライも知っていた。
「引き受けるのかね」
「まだ決めかねています」
「何が問題だ?」
「……まだ、考えがまとまっていないんです」
ムライは少し考えてから答えた。
「軍の作戦を指揮するのは軍人だ。国防委員長は、軍が何のために存在し、何をすべきかについて政治上の責任を負う。君なら、その違いは理解しているだろう」
「ええ」
「十分に能力も資質もある。ならば、あとは引き受けるかどうかだ。誰かが務めなければならん職だよ」
傍らで資料を読んでいた自治政府顧問のクブルスリーも顔を上げた。旧同盟軍の統合作戦本部長だった人物は、穏やかに言った。
「君には昔から、もっと大きな責任を担うだけの能力と資質があった。無理に引き受けろとは言わんが、少なくとも能力や資質のことで迷う必要はないだろう」
「ありがとうございます。でも、そういう問題でもないようなんです」
「能力や資質とは別のところで、迷っているのかね?」
「……そうかもしれません」
ムライの眉がわずかに寄った。クブルスリーはそれ以上問い詰めなかったが、二人とも納得した顔ではなかった。
最後にフレデリカと顔を合わせたのは、記録室の入口だった。彼女は両手に抱えていた議事録を事務官へ渡し、ユリアンの前に立った。
「国防委員長の候補としてあなたを推す人は多いわね」
「フレデリカさんもそう思われますか」
「人事を決めるのは今の私たちではないわ。でも、皆があなたに期待していることは知っておいてほしいの」
「それは分かっています」
フレデリカは、彼の顔を少し長く見た。
「……そうね。あなたは、分かっていないから迷う人ではないものね」
そう言って、話を切り上げてくれた。
それが、かえってユリアンにはありがたく、同時に少し居心地が悪かった。
国防委員長は重要な職だと思う。自分を推す人々の考えも理解できる。このような日に備えて覚悟もしてきたはずである。
では、なぜ素直に頷けないのか。廊下を行き来する間にも、答えは出なかった。
帰宅のため庁舎を出ると、ハイネセンの街には夕方の灯が点き始めていた。
***
【同日夜 ハイネセン ミンツ家】
ユリアンが帰ったとき、息子のテオは居間の床に積み木を並べていた。低い建物の両側に、長い積み木で橋を架けようとしている。テオは父親の姿を見ると、手を振って呼んだ。
「お父さん、ここを押さえてて」
「ただいま。どこを?」
「ここ。ぼくが上を載せるから」
ユリアンは上着を脱ぐ間もなく、息子の隣にしゃがみ込んだ。テオが細長い一本を渡しかけると、橋はすぐに傾いた。息子は慌てて支えようとし、結局、建物の半分まで崩してしまった。
「また最初からだ」
「もう少し土台を広くしてみようか」
「さっきもやったよ」
「そうか。じゃあ、別の方法を考えよう」
台所からカリンの声がした。
「別の方法の前に、二人とも手を洗ってきてちょうだい」
ユリアンは息子と顔を見合わせた。しばらくすると二人とも、まったく同じように渋々立ち上がった。
夕食はカリンとテオが先に済ませており、ユリアンの分が温めてあった。食事をしているあいだ、テオは崩れた橋について話し続けた。ユリアンが質問すると、そのつど別の説明が返ってくる。どうやら完成図よりも、作り直すことの方が楽しくなってきたらしかった。
「明日もやるからね」
「うん。早く帰るようにするよ」
「昨日もそう言ったよ」
ユリアンは言い返せず、カリンが笑った。
「忘れないでね。明日はあたし、朝から晩まで講習なの。テオの面倒、お願いね」
「分かってるよ」
息子が寝室へ行く前、ユリアンは絵本を一冊読んだ。
テオはもう一冊を持ってきたが、ユリアンが明日また読もうと言うと、少し不満そうに本を戻した。それでも約束だぞと念を押してからは、素直に寝台へ入った。
居間に戻ると、カリンが卓の上に二つのカップを並べていた。ユリアンが向かいの椅子に座ると、彼女はすぐに尋ねた。
「今日、評議会の後、コーツ議長に呼ばれたそうね。国防委員長の話、来たんでしょう」
「君まで知ってるのかい」
「今日の議会のあと、何人に同じことを言われたの?」
「……数えていないな」
「でしょうね」
カリンはカップを差し出した。
「で、引き受けるの?」
「まだ決められないんだ」
「どうして?〈傘の会〉の仕事があるから?」
「それもある。これまで続けてきたことを、急に誰かへ渡すわけにはいかないとも思う」
「少しずつ引き継げばいいでしょう。それに、あの会はあなた一人で動かしてるわけでもないでしょう」
「そうなんだけどね」
「あたしやテオのことを心配してるなら、それも話して。あなたが委員長になったら、忙しくなるでしょうけど、忙しいのは今でも同じでしょう。なんとかするわ」
ユリアンは頷いた。どれも確かな問題だった。しかし、どれも決定的な理由ではなかった。
「今回の救難作戦で、僕は何もできなかった」
「何も、ってことはないわよ。あなたが残って連絡をつないでくれたから、あたしたちは動けたんだから」
「そう言ってもらえるのは嬉しいよ。でも、教国の軍艦に君たちが追われていたとき、こちらには君たちを守る力がなかった。帝国軍が収容と防衛に協力してくれたうえに、皇帝副官のミッターマイヤー大尉が自分から教国へ赴くと申し出てくれたから、ようやくあの場を収められたんだ。どちらが欠けても、どうなっていたか分からない」
「それは事実ね」
カリンは視線を落とさなかった。自分が乗っていた艇のことだ。彼女は何度も交わした通信や、ポプランが速度を抑え続けた操縦を覚えている。
「だから今、自分たちの軍が必要だって話になったんでしょう。あなたは、いつかこういう日が来るかもしれないって、ずっと前から考えていたわ。だからこそ、公職にも就かず、〈傘の会〉を育ててきたんじゃない」
「〈傘の会〉は、もともと軍隊を作るための組織じゃないよ」
「分かってるわ。救難と教育のための会よ。でも、本当に軍が必要になったら、今度はあなたが国防委員長として責任を引き受けるんだろうって、あたしも思ってた」
ユリアンは答えなかった。カップを持ち上げたものの、口をつけずに卓へ戻した。
カリンはしばらく夫の顔を眺めていたが、やがて小さく首を傾げた。
「……違うのね」
「何が?」
「あなたが迷ってるの、〈傘の会〉をやめるかどうかじゃないわね。国防委員長の仕事が怖いわけでもないわ」
ユリアンは黙っていた。
「ようやく分かったわ。でも、今ここで言わせるのは、違う気もするわね」
「そんなに顔に出ているかな?」
「出ているわよ。あなたって、考えてることを隠したいときほど、ちゃんと考えてるって顔をするもの」
「それは困ったな」
「困るのはこっちよ。何年あなたの顔を見てきたと思ってるの」
カリンは少し笑ったが、それ以上は追及しなかった。
ユリアンは、カリンが次の朝には〈傘の会〉の訓練場へ向かうことを思った。
彼女も、軍ができれば志願を考えるだろう。夫が政治家として軍を監督することと、妻が実際に戦うことは、何も矛盾しない。だが、自分たちが二人とも家を空ける日が来れば、テオの暮らしをどう守るのか、話し合わなければならない。
もっとも、その心配で決断できないというわけでもなかった。
「少し、歩いてきてもいいかな」
「いいわよ。あんまり遅くならないでね」
「テオのことは――」
「もう寝たわ。明日の橋と、本の続きを忘れなければ大丈夫」
ユリアンが立ち上がると、カリンは何気ない調子で付け加えた。
「どんな仕事をしたいかぐらい、自分で決めていいのよ。たまには自分に正直になりなさい」
彼はしばらく妻を見つめた。
「……ありがとう」
「お礼はいいから、上着を着ていって。夜は冷えるわ」
ユリアンは言われたとおりにして、家を出た。
***
【同日夜 ハイネセンポリス・第九区】
ユリアンはしばらく目的もなく歩いた。日中は法案と委員会のことを考え、帰宅してからは妻や息子の顔を見ていた。そのどちらも大切だったし、どちらかを避けたくて外に出たわけではない。ただ、一人で考えれば答えが出るのかといえば、そういう気もしなかった。
裏通りへ入ったところで、見覚えのある看板が目に入った。
〈遊技場〉。
十年近く前、バグダッシュと一緒に訪れたことのある店だった。
店の奥には旧自由惑星同盟軍の艦隊戦術シミュレータを改修した大型筐体が何台も置かれている。何基かは古い外装を残し、操作卓の縁には、長年使われてきた機械らしい細かな傷があった。
中へ入ると、思ったより人が多かった。仕事帰りらしい工員、制服を脱いだ運航関係者、若い学生、そして、かつて軍務に就いていたと分かる客もいる。中央の表示板には対戦結果が次々に流れ、奥の長椅子では、いま終わった試合について声高に論じている者たちがいた。
壁には二つのランキング表が残されていた。〈撃沈数〉と〈帰還率〉。
帰還率の最上段には、昔と変わらず〈TRIGLAV〉の名と九六・二%という数字がある。
ユリアンは、その文字を見て笑った。ここでよく過ごしているという、ある男の姿が目に浮かぶ。
「対人戦なら、こちらです」
受付の若者が空いている筐体を示した。
この夜は〈対人艦隊戦〉の対戦希望者が多く、相手はすぐに見つかるという。通常の長時間演習とは異なり、対人戦は戦況の一局面を切り出し、短い制限時間で勝敗を競う形式になっていた。
「久しぶりなので、少し手間取るかもしれません」
「大丈夫ですよ。初めての方でも参加できますから」
ユリアンは礼を言い、登録名を入力せずに入室した。筐体の扉が閉まると、外の話し声が遠のく。狭い座席に腰を下ろし、操作卓の各部を確かめた。軍用のころとは表示も違い、忘れていた操作もあった。最初の数分、彼は画面の端にある説明を読み返していた。
やがて対戦相手が決まった。
初戦の相手は、撃沈数部門の上位にいる青年だった。
開戦直後から積極的に攻め、ユリアンの艦隊を半ばまで追い込んだ。操作に慣れていない分だけ対応が遅れ、こちらも何隻か失ったが、その後は形勢が少しずつ変わっていった。
青年が全力を向けた先から、ユリアンの主力はすでに離れていた。
ほどなく、戦闘終了の表示が出た。青年は結果を何度も確かめ、それから椅子を離れた。
続く対戦では、別の客が慎重な布陣で臨んだ。
ユリアンは前の試合とはまったく違う戦い方を選び、相手が動くまで待った。
三人目は開始早々から予想外の動きを見せ、観戦していた者たちを沸かせた。ユリアンも一度は判断を誤りかけたが、相手が優勢を固めようとしたころには、別の局面が始まっていた。
結果は、またユリアンの勝ちだった。
最初は、腕の立つ見知らぬ客が来たという程度の騒ぎだった。やがて挑戦を希望する者が増え、試合ごとに使用艦数や初期条件まで変えられた。負けた者は端末で試合を再生し、次の挑戦者へ助言を送ったが、似た局面はなかなか訪れなかった。
ユリアンは対戦相手が変わるたび、違う戦い方をした。
先手を好む相手には進ませ、守りを固める相手には自分から動く必要を生じさせる。
若者たちは考えていた応手を使えないまま、次の判断を迫られた。
敗れた者の一人は筐体から出てくるなり、友人の端末を借りて画面を巻き戻した。
ユリアンの方は、勝敗のたびに短い息をつき、次の相手の名が表示されるのを待っていた。勝ち続けることに熱中している自覚はなかった。ただ、一つの戦闘が終わると、もう一つ確かめたいことが見つかる。その感覚が、思いのほか懐かしかった。
若いころ、ヤン・ウェンリーの傍らで見ていた戦いで、同じ戦法が繰り返されることはなかった。
誰もが得意の方法を磨く一方、ヤンは、その方法が通じなくなる場合を先に考えていた。いま操作卓の向こう側にいる者たちも、何年か後には自分がヤンから教わったのと同じことを知るのだろうか。ユリアンは、まだ見たことのない彼らの未来を思った。
*
次の対戦希望者が受付で手続きを始めたとき、周囲の客たちの声が少し大きくなった。
定期船の航路士をしているという若い男だった。この遊技場の対人戦ではほぼ敗れたことがなく、何度も対戦した客でさえ、青年の強さをうまく説明できないらしい。さきほどまで順番を争っていた若者たちが、彼には先を譲った。
航路士は、対戦相手が登録名を使わずに参加していることを気にする様子もなく、静かに試合を始めた。
ユリアンは数分もしないうちに、これまでの対戦相手とは違うものを感じた。
青年の艦隊は派手な戦果を狙わない。どの部隊にも帰り道があり、戦闘が進むほど、その帰り道を使って味方を組み直す。目立つ機動がないのに、必要なところへ必要な艦が戻ってくる。
こういう相手とは、こちらが望んだ形で決着がつくとは限らない。
試合は長くなった。
青年は崩されかけても艦隊をまとめ、次に戦える位置へ移してしまう。ユリアンは二度、優勢を得ながら決着をつけ損ねた。観戦していた客たちも、残存艦数を確かめては、首をひねりながら戦況の画面へ戻っていた。
結果が出たのは、制限時間が近づいたころだった。
〈勝者 GUEST〉。
青年は僅かな差でユリアンに敗れた。勝敗を確かめたあと、通信窓から聞こえたのは短い声だけだった。
「……対戦、ありがとうございました。勉強させていただきました」
「こちらこそ。とても勉強になったよ」
「また、ぜひお願いします」
返事はそれだけだった。
筐体から出ると、青年はすぐに何人かの客に囲まれた。
「おい、ウォード。お前が負けるなんてこともあるんだな。今の対戦映像、見せてくれ」
「……はい」
ユアン・ウォードは再生画面を開き、ユリアンが最初に優勢を得た局面まで戻した。周囲の客が口々に感想を述べるなか、彼は黙って画面を見つめていた。
*
ユリアンがもう次の対戦を断ろうとしたところで、受付の表示が切り替わった。
新しい挑戦者の登録名には、ただ一語が記されていた。
〈TRIGLAV〉。
ユリアンは思わず背筋を伸ばした。隣の筐体の扉が閉まる音がする。やはりこの店にいたのかと驚く一方で、どういうわけか、少しも意外ではなかった。
「おい、ユリアン。まだやれるか」
筐体間の回線から、聞き慣れた声が響いた。
対戦中の音声は中央の観戦画面の前にも流れており、客の一人が「ユリアン・ミンツだぞ」と隣に囁いた。「今度の相手は、アッテンボローだ」という声も漏れる。
「ええ。僕でよければ。……いつから僕だと分かったんです?」
「入ってきたときに見かけたんだ。見物人を待たせちゃ悪い。始めようぜ」
ダスティ・アッテンボローは、昔と同じ調子で言った。
対戦が始まった。
二人の艦隊は、序盤から激しく接触した。
それまでの試合と違い、一度の優勢がそのまま勝敗へつながる展開にはならなかった。
中盤、アッテンボローは一度ユリアンの後方を断ちかけ、ユリアンは進めていた攻勢を取りやめて部隊を戻した。逆にアッテンボローが追い込まれたときも、その艦隊は容易には崩れなかった。
どちらも、一つの戦果にこだわらなかった。
客たちは中央の観戦画面を囲み、点滅する艦影と時刻表示を追い続けた。
先ほどまでの対戦に参加していた者も、その横で黙って立っている。失った艦の数では勝っているはずなのに、少しも有利に見えない瞬間があった。
逆に追い詰められたはずの側が、次の数分間を自分のものにしてしまうこともあった。
航路士の青年が画面に近づき、何度か指を動かした。隣にいた客が、その指の先を追った。二人は戦況の一角を見比べ、別の表示へ目を移した。
時間は過ぎていった。
ユリアンは、いつの間にかコーツの問いを忘れていた。評議会も、法案も、〈傘の会〉の仕事も、この狭い筐体の中には入ってこない。目の前で起こることを一つずつ見て、次の判断をする。それを繰り返していると、胸の奥にたまっていたものが、少しずつ形を持ち始めた。
最後の数分、アッテンボローが大きく動いた。ユリアンはその意図を読み切れず、ようやく防いだところで、今度はこちらから戦況を変えた。すぐに決着がつくかと思われたが、アッテンボローも踏みとどまった。
そして、終了を告げる電子音が鳴った。
〈制限時間終了。引き分け〉。
双方とも、規定された勝利条件には達していなかった。
観戦画面にその文字が現れると、客たちは画面の数字を見比べた。驚いた顔をした者もいたが、すぐに次の試合の話を始める者はいなかった。
ユリアンは、ようやく操作卓から両手を離した。肩に力が入っていたらしく、背を伸ばすと、少しだけ痛みがあった。
画面には両軍の戦果と損害が並んでいる。互いに取り損ねた機会があり、救った部隊もあった。そのどれか一つが違えば、結果は変わっていただろう。
扉を開けて外へ出ると、遊技場の空気が違っていた。
筐体の周りに人が集まっていた。
最初の対戦で負けた青年は、ユリアンが出てくると席を立った。
作業着の女性も、手元の端末を置いて立ち上がる。
奥で試合を見返していた客が顔を上げ、しばらくしてその隣の者も立った。
誰かが合図をした様子はなく、やがて座っている者は誰もいなくなった。
ユリアンが軽く頭を下げると、最初の青年も会釈した。
別の者は背筋を伸ばしたまま、彼の顔を見つめている。
定期船の航路士は、まだ再生画面を手にしていたが、そっと腕を下ろした。
拍手も敬礼もなかったが、熱のこもった視線がユリアンに集まっていた。
彼が知っている顔は、ほとんどない。青年たちは端末を手にしたまま、ある者は少し身を乗り出し、ある者は顎を引いて、ただ彼を見ていた。
隣の筐体からアッテンボローが出てきた。上着を肩に掛け、二人を囲む人々を見回したあと、ユリアンの顔を見てにやりと笑った。
「いやはや。久しぶりに、骨の折れる相手だったな」
「こちらこそ。最後のあれは、参りました」
「負けてやればよかったか?」
「そうしてもらっても、たぶん気づいたと思います」
「生意気な奴だ。昔からそうだったが」
アッテンボローは笑い、それから出口の方を指した。
「一杯、付き合え」
――「あの星の海をもう一度、艦隊を率いて駆け回りたいんです」
次回、『傘の下に、剣を――ユリアン・ミンツ、立つ(後編)』
■バーラト自治防衛軍陸戦兵科・『装甲衛士〈ホプリタイ〉』について
【挿絵表示】
【挿絵表示】
・装甲衛士〈ホプリタイ〉
バーラト自治防衛軍の主力陸戦兵科の一つ。〈黄金樹大戦〉への本格参戦後、主要陸戦戦力として投入されることになる重装甲歩兵。
・開発思想
バーラト自治政府は長年にわたり帝国編入協定に従い宇宙艦隊の保有を制限されており、その間、救難・防災・産業用途の外骨格技術を独自に発展させた。再軍備後には、その技術的蓄積と資源を歩兵戦力の強化へ集中的に投入した。
その成果として開発されたのが、装甲戦闘外骨格〈パノプリア〉である。優れた防御力と高い機動性を両立し、高価で数をそろえにくいものの、近接戦闘能力においてはこの時代の銀河では最高水準にある。
装甲衛士は、前腕盾〈アスピス〉で敵の攻撃を受け止めて動きを封じ、対装甲鉤槌〈コラクス〉で装甲の継ぎ目や関節部、駆動機構を打つ。
重装甲の敵を一撃で粉砕するのではなく、複数の装甲衛士が連携して敵の機動力と攻撃能力を奪い、戦闘不能に追い込むことを重視している。
その根底にあるのは一騎当千の英雄に戦場の命運を託すのではなく、特別な武勇を持たない兵士であっても、優れた装備と訓練、仲間との連携によって強敵に打ち勝てる軍隊を作るという、バーラト自治防衛軍の思想である。
・名称
〈ホプリタイ〉の名称は、前宇宙期の西暦時代の地球、古代ギリシャの重装歩兵に由来する。部隊固有名ではなく兵科名である。古代ギリシャの多くの都市国家では重装歩兵の中核を、自ら武具を整えて戦列に加わる市民兵が担っていた。
密集陣形〈ファランクス〉では、各人の盾が自分の身体だけでなく左隣の仲間の半身も覆っており、一人が盾を捨てれば戦列全体が危険にさらされた。
バーラト自治防衛軍もまた、市民が自らの意思で志願する軍である。この名称には、市民が肩を並べ、互いの盾で互いを守るという重装歩兵の在り方への敬意が込められている。
各装備の名称もギリシャ語に由来する。〈パノプリア〉は重装歩兵の武具一式、〈アスピス〉は重装歩兵の大盾、〈コラクス〉は大鴉(鉤の形状にちなむ)、〈ペレキュス〉は斧を意味する。
・主要装備
・装甲戦闘外骨格〈パノプリア〉
高い防御力と機動性を両立した制式強化装甲。高度な姿勢制御、衝撃分散、隊員間の情報共有、負傷者搬送支援などの機能を備える。
・前腕盾〈アスピス〉
左前腕装着式の大型防盾。単独防御のほか、隣接する盾との機械的な連結による防壁形成が可能。必要に応じて接続を解除し、個別機動へ移行できる。
・対装甲鉤槌〈コラクス〉
槌頭と鉤を備えた片手用の近接戦闘兵器。装甲関節部・駆動機構への打撃、敵の姿勢崩し、武器腕の拘束などに使用する。槌頭や鉤先は交換式となっており、任務や想定する敵装甲に応じて先端部の仕様を変更できる。
・短柄斧槍〈ペレキュス〉
強襲班が使用する対装甲複合白兵武器。斧刃、槌頭、刺突用の突起を備え、敵の防御を崩して突破口を開くことを主な目的とする。柄が短いため、狭い通路でも扱える。
・運用理念
「守って、押し返して、連れて帰る」
・部隊標語
「TOGETHER, WE RETURN.」
――共に、生きて帰る。
古代ギリシアに存在した都市国家スパルタの母親は、出征する息子に「盾を持って帰れ、さもなくば盾に乗って帰れ」と告げたと伝えられる。勝って帰るか、名誉ある死者として帰るか。古代の重装歩兵に求められたのは、そのどちらかであった。
装甲衛士の標語は、この旧い格言に対するバーラト自治防衛軍の答えである。
盾は仲間を守るために持ち、傷ついた者は盾の内側に入れて連れ帰る。一人の英雄が戦場を制するのではなく、互いを守り、誰一人として容易に見捨てない。勝利だけでなく、生きて帰還することを誇りとする信条を表している。
・挿絵解説
挿絵に描かれた五名の装甲衛士の隊形では、前列三名が前腕盾〈アスピス〉を連結して防壁を形成し、後列二名が反撃と側面警戒を担当している。
大規模な密集方陣では、複数の戦闘単位が連携して盾壁を形成し、その背後に装甲衛士が幾重にも展開する。盾列は固定された壁ではなく、状況に応じて接続・解除、交代、前進・後退を行う。
盾と肩部に描かれた白い傘は、バーラト自治防衛軍陸戦部隊の徽章である。
※ 本編における本格投入は、もう少し先になる。
※ 装甲衛士〈ホプリタイ〉を擁する部隊の中には、旧自由惑星同盟軍の精鋭〈
同連隊はカスパー・リンツ少将が指揮を執る自治防衛軍最強の陸戦部隊である。旧連隊から受け継がれた白兵戦技術と、新世代の装甲装備を組み合わせて運用している。