宇宙暦八百年六月一日。
そして、翌八百一年六月一日。この二つの日付を憶えているだろうか。
最初の六月一日、ヤン・ウェンリーが暗殺された。
翌年の同じ日、シヴァ星域会戦でワルター・フォン・シェーンコップが戦死した。
ヤンがユリアン・ミンツの養父であり、シェーンコップがカーテローゼ・フォン・クロイツェルの父であったことは、後世の銀河史でも広く知られている。
だが、それだけではない。
八百一年の六月一日には、歴史書に記されることのない出来事もあった。
父の死を知ったカリンは、ユリアンの胸で泣いた。
そして、彼に自分のことが好きかと訊いた。ユリアンは「好きだよ」と答え、もう一度彼女を抱きしめた。
六月一日は、二人がそれぞれ父を失った日であり、同時に二人自身の新しい個人史が始まった日でもあった。
それから十余年を経て、二人は結婚することになった。
***
【新帝国暦十六年五月 惑星ハイネセン 自治政府庁舎・事務総監室】
結婚式の十日前、バーラト自治政府の事務総監を務めるアレックス・キャゼルヌの机に、一枚の予定表が回ってきた。
六月一日、午前八時集合。あとは会食。
日取りは、新郎新婦が自分たちでもう決めていた。
結婚の日を二人で相談したとき、先に口を開いたのはカリンの方だった。
「六月一日がいいわ」
ユリアンは彼女を見た。
「本当に、その日でいいの?」
「ええ。あなたは?」
「実は僕もそう思ってた」
「じゃあ、決まりね」
「ああ。フレデリカさんには二人で話そう」
カリンも頷いた。
後日、二人はフレデリカを訪ね、式の日取りを伝えた。
フレデリカは少し黙ってから、二人の顔を見た。
「……その日がいいのね?」
「はい」
ユリアンが答えた。
「ええ」
カリンも頷いた。
フレデリカは二人を見つめ、静かに微笑んだ。
「わかったわ。喜んで伺います」
***
会場と料理は二人で押さえた。
招待状も一か月ほど前に発送され、出欠の返事はほぼ揃っていた。
旧同盟軍の仲間や二人の知人に声をかけているうちに、参加者は四百人になっていた。
ところが、肝心の式次第には、それ以上何も書かれていなかった。
ユリアンは〈傘の会〉の仕事で手が離せず、カリンは港湾管制区で救難の当直を続けている。
二人とも結婚することには迷いがなかったが、式をどう飾るかにはほとんど関心がなかった。
旧友たちと会い、そして食事ができれば十分だというのである。
キャゼルヌが連絡を取ると、ユリアンは「皆さんに挨拶する時間は必要ですね」と答え、カリンは「長い式は勘弁して」と言った。
短い誓約を行うことだけは二人とも了承し、細かい段取りはキャゼルヌに任せると言って、それぞれの仕事に戻ってしまった。
兵站の名将として知られたキャゼルヌにとって、四百人を招いた催しの予定が「集合、あとは会食」で済むなど、到底考えられないことだった。
その日の午後、事務総監室の扉に手書きの紙が貼り出された。
「結婚式準備本部」
貼ったのはキャゼルヌ本人である。
「十五年前、ヤンの奴の式は小さかった。あいつ自身がそう望んだし、当時は帝国に余計な勘繰りをされるわけにもいかなかった。あの時は、それでよかった」
仕事を終えて「本部」に集まった面々を、彼は見回した。
「今度の二人も、派手な式をしたいわけじゃない。だがな、四百人を呼んで、誰がいつ喋るのかも決めておらん。あの二人に任せていたら、本当に食事だけして解散になるぞ」
「それでもあの二人は満足しそうですけどね」
アッテンボローが言った。
「二人はな。だが、四百人も呼んで、誰がどのタイミングで挨拶するか、どういう余興をやるか、いつどの料理を出すかも決めておらん。客を迎える以上、そこだけは放っておけん」
帝都から超光速通信で参加していたポプランが、画面の向こうで拍手した。
「結構な作戦だ。おれが着くのは式の数日前になるが、口ぐらいは出せるぞ」
「ああ、そうかい。じゃあ、まず余計なことを言う奴を一人減らせたら助かるな」
「そいつは無理な相談だ」
***
本部長の権限は、発足から三時間で形骸化した。
妻のオルタンス・キャゼルヌが、娘二人を伴って「結婚式準備本部」に乗り込んできたからである。
「あなた、ちょっとそこを空けてくださる?」
キャゼルヌが席を立つと、オルタンスはその椅子に腰を下ろし、卓上に会場図を広げた。
娘たちも両脇へ椅子を寄せた。キャゼルヌは壁際から客用の椅子を運んできた。
「花と料理の確認は、こちらでやります。あなたには人数確認と送迎の手配をお願いしますね」
「待て。おれが本部長だぞ」
「ええ。手配が済んだら、こちらへ報告してくださいな。本部長さん」
キャゼルヌは妻を見た。オルタンスはもう、娘たちと会場図を覗き込んでいる。
「……何時までだ」
「会議が始まるまでにお願いします」
キャゼルヌは端末を引き寄せ、送迎業者の料金と予約状況を調べ始めた。
四百人の到着予定を時間帯ごとに整理し、必要な車両数を計算する。
料金と所要時間を比較し、三つの案にまとめた。
「あなた、資料にはそれぞれの案の長所と短所も書いてくださいね」
「分かっている」
「あと、分かりやすいように図も入れてくださる?」
「……承知した」
キャゼルヌは比較表の横に、新しい図を作り始めた。
***
「結婚式準備本部」の第一回準備会議は、祝辞の持ち時間を決めるところで行き詰まった。
出欠の返事には、「当日、一言ご挨拶を」という申し出が三十六件も添えられていた。
旧同盟軍の将官や幕僚、旧同盟政府の政治家など、ユリアンを幼い頃から知る者たちである。
誰もが二人を祝いたがっており、キャゼルヌとしても無下には断りにくい。
「一人五分として百八十分だ。祝辞だけで三時間だぞ。演説会じゃないんだ!」
「民主共和政を守ってきた連中の演説巧者ぶりを甘く見ては駄目ですよ。五分じゃ、前置きも終わらんでしょう」
アッテンボローが妙に誇らしげに言った。
「だから困ってるんだ!」
バグダッシュが名簿を調べた。
「『短く』と書いてある方が三人おられます」
「それが一番あてにならん」
キャゼルヌは即答した。
超光速通信の画面で、ポプランが椅子の背にもたれた。
「三分経ったら楽団に『剣の舞』を演奏させろ。あの曲に負けずに演説を続けられる奴がいたら、たいしたもんだ」
「お前が話しているときにも鳴らすぞ」
アッテンボローが言った。
「おれは三分も要らんね」
「どうせ余った時間で、よけいなことを言うんだろう」
「そのための祝宴じゃないか」
ムライが口を開いた。
「まず、話す者を決めるべきだ。時間を割り振るのは、そのあとでよい」
「そのとおりですね。では誰に頼みますか」
「新郎新婦の希望を確かめる必要があるだろう」
「もう確かめてありますよ」
オルタンスは名簿を夫の前から引き寄せた。
「式そのものは短くしてほしいそうです。代表の挨拶はムライさんに、祝宴ではポプランさんにお願いしましょう。ほかの方には、お二人と直接お話しする時間を用意します」
キャゼルヌは頷いた。
「それなら収まる。で、おれの仕事は?」
「乾杯の音頭をお願いします」
「それは何分だ」
「一分もあれば十分でしょう」
アッテンボローが笑った。キャゼルヌは言い返さなかった。
「ムライ局長も、三分でお願いします」
「承知した。話す内容の要点を三つにまとめてある」
「……三つもあるのか」
アッテンボローが顔を上げた。
***
第二の問題は、誰も議題にしないうちに、向こうからやってきた。
出欠確認用の名簿に、二百四人分の申し出がついて戻ってきたのである。
元
その者たちが、亡き連隊長の名代として、花嫁と入場したいという。
「全員で歩けるか!通路の幅を考えろ!」
キャゼルヌの正論は、白兵屋たちには通じなかった。
廊下の幅を先に考えて生きてきた連中なら、そもそも〈薔薇の騎士〉になどなっていない。
決着をつけたのは花嫁本人だった。返事を一言、使いの者に持たせた。
「全員でいい。ただし、あたしの後ろを一列でついてくること。隊列を乱した者は、あたしが直々に『説得』する」
〈傘の会〉で白兵教官を務めるカリンが教える制圧術は、この年の秋、「説得的接触」と改称されることになる。
彼女の言う「説得」が何を意味するのか、元〈薔薇の騎士〉連隊の男たちはよく知っていた。
二百四人は、久しぶりに連隊長の号令を聞いたときのような顔をした。
***
ポプランがハイネセンに到着すると、元〈薔薇の騎士〉連隊長のカスパー・リンツが三次元チェスの盤を持って待っていた。
十三年前に中断した勝負を、今度こそ決着させるつもりらしい。
二人が対局の場所に選んだのは、バーラト自治政府の評議会議場だった。
議場は会期外に限り、市民が申請すれば自由に利用できることになっていた。
アッテンボローが提出した申請書の使用目的欄には、「市民親睦会」と記されていた。
議長席の前には三次元チェスの盤が置かれ、議員席も傍聴席も旧同盟軍の将兵たちで埋まっていた。
一手ごとに歓声や野次が飛び交い、アッテンボローは議長席の脇で堂々と勝敗の賭けを受け付けていた。
三日目、賭けの負けが込んだ誰かが内務局へ密告し、ムライが現場へ乗り込んできた。
「……何をしている」
「三次元チェスですよ。見りゃ分かるでしょう」
ポプランが答えた。
「ここがどこだか分かっているのか!」
「民主共和政の殿堂でしょう。敬意を表して、ネクタイまで締めてきたぜ」
「その帳面は何だ!」
「市民の自由な意思による勝敗予想ですよ。強制は一切していない」
「議場で賭博とは何事だ!全員逮捕させるぞ!」
「待ってください、ムライさん。民主共和政では、議場は市民のものでしょう」
「賭博場ではない!」
アッテンボローは黙って帳面を閉じた。
「やれやれ。おれがいない間に、ハイネセンも変わっちまったな」
ポプランが嘆いてみせた。
「変わっとらん!そこを一歩も動くな!」
ムライは警備員を呼びに議場を出た。
リンツは盤上の駒を一つ動かした。
***
式の進行は、会場の司式担当者に頼むことになった。二人の誓約を中心に短い式を行い、代表の挨拶はムライが受け持つ。
「これで、あと決まっていないのは何だ?」
キャゼルヌが尋ねた。
オルタンスは分担表を確かめた。
「花嫁の腕を取って、壇まで付き添う役ね。〈薔薇の騎士〉の皆さんは後ろに続くけれど、隣を歩く人はまだ決まっていないわ」
「今、決めなくていいのか?」
「ええ。誰かに頼むか、一人で歩くかも含めて、カリンさんが自分で決めることですもの」
オルタンスはその欄を空けたまま、分担表を閉じた。
***
【新帝国暦十六年六月一日早朝 惑星ハイネセン ハイネセンポリス港湾管制区】
その朝、ハイネセンの空は、気象制御の予定表どおりに晴れていた。
式は午前八時からである。カリンは結婚式当日の朝も、午前六時半まで航空救難の待機当番に入っていた。
交代を頼むこともできたが、結婚式を理由に勤務を替えるつもりは本人にはなかった。結婚するのは八時から、六時半までは仕事でしょ、というのが本人の言い分だった。
待機明けにそのまま式場へ向かえるよう、同僚たちが更衣室を花嫁控室に仕立てていた。
午前六時十二分、沿岸海域から遭難信号が入った。
民間の釣り艇。親子二名。機関停止。船体へ浸水。潮流は沖向きで、最後に送られてきた位置情報もすでに古い。
最寄りの水上救難艇が到着するには、少なくとも五時間はかかる見込みだった。
当直表に残る飛行可能な操縦士は、一名。
――カーテローゼ・フォン・クロイツェル。
あと十八分で、待機は明けるはずだった。
管制官が通信器を持ったまま考えていると、更衣室からカリンが出てきた。
白いドレスの裾は飛行の邪魔にならぬよう留め、肩へ飛行装具を通しながら髪をまとめている。
「あら、聞こえてたわよ。座標ちょうだい」
「い、いえ、今日はご結婚式でしょう。すぐにほかの者を呼び出しますので」
「親子二人が浮いてるんでしょ。式は逃げないけど、潮は逃げるの。何のための当直よ」
管制官が最新の漂流予測を呼び出した。最後の位置通報から時間が経っており、画面には広い誤差範囲が表示されていた。
「……ずいぶん流されたわね」
「一機でこの範囲を捜索するとなると、相当な時間がかかります」
「それでも行くわ。予備の燃料と医療装備を積んで」
カリンが格納庫へ向かおうとすると、待合室の長椅子から一人の男が立ち上がった。
オリビエ・ポプラン。本来は、待機明けの花嫁を式場へ送り届けるために来ていた男である。
「待てよ、カリン。もう一機あれば、手分けできるだろう?」
「ええ。でも、操縦する人が……」
「おれがいるぞ」
カリンは振り返った。
「手伝ってくれるの?」
「お前の面倒を見るのがおれの仕事みたいなもんだったからな。最近は白兵戦ばっかりやってるそうだが、操縦の腕が鈍ってないか見てやろうじゃないか」
「救難の当直はずっと続けてるわよ」
「そいつは結構。で、予備機は使えるのか?」
管制官はポプランのハイネセンでの操縦資格がまだ有効であることと、予備機の状態を確認した。補助機としての出動が許可されると、二機の捜索区域が割り振られた。
カリンは救難員たちの待つ機体へ、ポプランは予備機へと向かった。
***
式場には、午前七時前に連絡が入っていた。
――新婦、海難救助のため出動。帰着時刻、未定。
開式予定時刻の十分前になっても、帰投の連絡はなかった。捜索機は遭難艇の最終通報地点へ達したが、艇を発見できずにいた。
四百人の来賓が待つ会場の片隅で、進行役たちは対応を相談していた。このまま待つか、日を改めるか。いったん帰ってもらうことも考えなければならない。
「カリンが戻るまで、僕は待ちます」
ユリアンが言った。
「ですが、いつ戻られるか分かりません」
「分かっています。でも、待ちます。幸い式場は今日一日借りていますから」
ユリアンは穏やかに答えた。
「お客様には事情をお伝えします。お時間のない方に、無理に残っていただく必要はありません」
それ以上、誰も式を急がせようとはしなかった。
司会の係が壇に上がって、事情を説明した。
「新婦の到着まで、しばしご歓談ください」
その一言がまずかった。
四百人の来賓には、旧同盟軍の将兵だけでなく、政治家や、軍服を脱いで政界に転じた者も多かった。
非常時におとなしく歓談していられるような面々ではない。
三十秒後、結婚式場は作戦司令室兼議場になった。
通信畑の者が端末を取り出し、港湾管制の公開情報を拾い始めた。
航空隊出身者が壁面表示に沿岸図を呼び出した。
会場係が止めようとしたときには、もう遭難艇の最終通報位置に赤い印がついていた。
別の誰かが風向と潮流から漂流位置を計算し始めた。元軍医は遭難者の収容先を確かめ、補給屋は頼まれてもいないのに救難機の帰投余力を計算した。
一方、政治家たちは救難支援のための臨時対策本部を設置すべきだと言い出した。
対策本部長を誰にするかで早くも意見が割れ、議員経験者たちが口々に発言を求めていた。
軍人から政界に転じた者は、漂流予測について意見を述べたかと思うと、今度は本部長の選出方法に異議を唱えていた。
「……いったい、誰が指揮を執ってる?」
キャゼルヌが訊いた。
「誰も」
アッテンボローが答えた。
「とにかく全員、座らせろ。このままじゃ、式が始まる前に会場を追い出されるぞ!」
「どうやって」
しばらく誰も答えなかった。
最初にアッテンボローがムライを見た。
その視線に気づいたバグダッシュが、ムライへ顔を向けた。キャゼルヌも二人の様子を見て、何かを察したらしい。
ひとり、またひとりと、ムライを見る者が増えていった。
やがて、本人以外の会場のほぼ全員がムライを見ていた。
ムライは一同を見渡した。誰も口を開かない。
彼は、ため息もつかなかった。
「……諸君、席に戻ってもらいたい。管制に必要な仕事は、現場で行われている。ここで勝手に通信を増やしても、救助の役には立たない」
彼は壇に上がり、用意された祝辞を取り出した。
「新婦の行動に、規律上の瑕疵はない。救難の当番を引き受けていた以上、任務へ向かったのは当然の判断だ」
四百人が静かになった。
「予定された私事と、予定外の救助。両者が重なったとき、何を優先すべきかは、平時から十分に備えておく必要がある。そこで、規律について三点だけ――」
来賓席のアッテンボローが呻いた。
「三点で済むもんか。おれは知ってるぞ」
***
高度六百メートル。ポプランはカリンの機から西へ数キロ離れ、割り当てられた海域を捜索していた。
二機が最後の通報地点へ着いたとき、釣り艇はそこにいなかった。漂流方向と潮流の情報を更新し、捜索範囲を沖へ広げた。
「西側は外した。そっちはどうだ、花嫁殿」
「まだ。潮の速い筋をもう一度見る。沖寄りをお願い」
「了解」
ポプランは機首を転じ、指定された海域へ向かった。
しばらくして、海面に細い煙が見えた。
「見えたぞ、十一時方向。……ほう、ちゃんと発煙筒を焚いてる。感心な親子だ」
カリンも機首を向けた。傾いた釣り艇の横に、浮具につかまる二人が見える。母親らしい人物が、もう一人を抱えていた。
「回収はあたしがやる。ポプランは上で見てて」
「へいへい」
カリンは救難機を艇の風下へ回し、揺れる浮具を見ながら機体を安定させた。後部の救難員が収容装置を下ろす。
先に子供を吊り上げ、続いて母親を機内へ収容した。
「よし。――花嫁殿、帰投針路へ」
二機は針路を変えた。朝日は、白いドレスの肩に残った飛行章へ、短く反射した。
***
壇上では、ムライが話し続けていた。
港湾管制の公開情報は、いつの間にか会場の壁面に転送されている。
――推定漂流位置、更新。
――捜索範囲、沖合へ拡大。
――遭難艇発見。
――収容開始。
――子供一名、収容。
報告が更新されるたびに、ムライは話を止めた。四百人が壁面を見上げ、安堵の声を漏らし、また静かになる。
すると彼は、寸分違わぬ調子で続きを始めた。
話し始めて四十分が過ぎたころ、最後の表示が切り替わった。
――遭難者二名、収容完了。救難機二機、帰投中。
四百人の参列者が、一斉に立ち上がった。
拍手が起こり、口笛が鳴り、誰かが「よし」と卓を叩いた。
救難地点を計算していた者が端末を閉じた。潮流図を出していた者が表示を消した。
いつの間にか作られていた帰投予想時刻の一覧にも、「収容完了」の文字が入った。
ムライは、全員が席に戻るのを待った。
それから、何事もなかったように続けた。
「以上が規律の第一の意義である。さて、ここからが本題だが――」
来賓席のアッテンボローが、深く息を吐いた。
「ほら見ろ。四十分かけて、まだ第一点じゃないか」
会場に笑いが起こった。
誰もムライを止めなかった。彼が話しているあいだは、少なくとも来賓が管制室へ押しかける心配はなかった。
***
花嫁が到着したのは、開式予定時刻から一時間四十分ほど経ってからだった。
救難機は九時過ぎに港湾管制区へ戻った。
母子を医療班へ引き継ぎ、ポプランの運転する車に飛び乗った。
純白のドレスの肩には、飛行章がついたままだった。本人はそれに気づき、一度は外しかけた。それから考え直して、つけ直した。
「これでいいわ。遅刻の理由としては悪くないでしょう?」
扉の前で、キャゼルヌが腕を差し出した。
ポプランも同じように腕を差し出し、リンツまでその隣に並んで腕を差し出した。
カリンは三本の腕を順番に見て、それから言った。
「大丈夫よ。あたしは一人で歩ける」
三人の男は驚かなかった。
二十九年間、この娘はそうやって歩いてきたのである。
そのとき、会場の入口にフレデリカが姿を見せた。遅れて到着した花嫁の様子を見に来たらしい。
カリンは彼女に歩み寄った。
「――フレデリカさん。やっぱり、お願いしてもいい?」
フレデリカ・グリーンヒル・ヤンは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、何も言わずに腕を貸した。
二人が並んで歩き始めると、その後ろに二百四人の男たちが一列になって続いた。
今日ばかりは、誰一人、隊列を乱さなかった。
***
最前列には、席が二つ、空けてあった。
席次表には、こう刷ってある。
ヤン・ウェンリー
ワルター・フォン・シェーンコップ
一方の席には、古い黒ベレーと、湯気の立つ紅茶。
もう一方の席には、薔薇が一輪と、封を切ったばかりの強い酒。
受付には、もう一つ、届き物があった。
帝国の定期便で帝都から運ばれてきた、白い花の一箱である。
差出人の名は、どこにもなかった。ただ、宛名には、帝国式の敬称を添えてこう記されていた。
「ヘル・ミンツ」
***
カリンとフレデリカが並んで壇の前に着くと、会場の司式者が二人を迎えた。
フレデリカはカリンの腕をそっと放し、最前列へ戻った。そこには、今日も空けてある二つの席があった。
司式者は新郎新婦がそろったのを確かめ、開式を告げた。
誓約の言葉を求められ、ユリアンはカリンへ向き直った。
「誓います」
カリンも彼を見て、答えた。
「あたしも」
司式者が二人の結婚を宣言すると、カリンはユリアンの襟を引き寄せ、口づけした。
客席から拍手と口笛が起こった。ポプランは大喜びし、アッテンボローも立ち上がって拍手していた。
ユリアンは耳まで真っ赤になっていた。
***
ケーキ入刀には、刃先を食品用樹脂で覆った
二百四人の白兵屋が、新婦の構えに遠慮のない採点を飛ばした。
「腰が高い」
「左が甘いぞ」
「誰に習った」
「あんたたちにでしょうが」
切り口は、定規で引いたようにまっすぐだった。
空の飛び方は、父の友に習った。戦斧の扱いは、父の部下たちに一人一手ずつ仕込まれた。
前列の一人が、まだ肘の高さを指摘している。
「もう切っちゃったわよ」
「だから言ってるんだ!」
カリンは言い返そうとして、先に笑った。
来賓席の隅では、ボリス・コーネフが、今日こそ情報代の請求を切り出そうと三度席を立ち、三度、乾杯に巻き込まれて果たせずにいた。
リンツはスケッチブックを開いていた。
***
「花嫁の、父親の話をする」
祝宴の半ば、ポプランが壇に立った。手には、酒杯ではなく一枚の紙があった。
「あの不良中年はな、死ぬ間際まで気取り屋だったらしい。自分で自分の墓碑銘まで考えてやがった」
会場に笑いが起こった。
「あいつの最期を見届けたのは、帝国軍の兵士たちだった。そのうちの一人が、戦後、軍の戦史編纂のために証言を残していたんだ。何年か前に公開されたものだ」
ポプランは手にした紙を掲げた。
「おれが帝都の公文書館まで探しに行った。昔の戦闘記録を片っ端から調べて、ようやく見つけたのがこれだ」
彼は少し笑った。
「まったく。おれにこんな真面目な仕事をさせるとは、死んでからも手のかかる男だぜ」
ポプランは紙を広げた。
「『ワルター・フォン・シェーンコップ、三七歳、死に臨んで言い残せり――わが墓碑に銘は要らじ、ただ美女の涙のみ、わが魂を安らげん』、と。まったく、最後まで女のことしか考えてない男だ」
笑い声が聞こえた。ポプランも笑っていた。
「しかも、本人はこの文句が気に入らなかったらしい。アッテンボローに代筆させた方がまだましだ、とまで言っていたそうだ」
「冗談じゃない!」
アッテンボローが客席から声を上げた。
「あいつの墓碑銘なんぞ引き受けたら、何を書いても文句を言われるに決まってる」
今度は大きな笑いが起こった。
ポプランは最前列の空席へ目を向けた。薔薇が一輪と、強い酒が置いてある。
「さて、シェーンコップ。今日は娘の結婚式だ。お前がいれば、きっとろくでもない祝辞を聞かされたんだろうが……」
彼は紙を畳み、酒杯を手にした。
「まあ、いい。お前の分まで飲んでやるさ」
二百四人の男たちが、次々に立ち上がった。
カリンは父親の席を見ていた。頬を涙が伝ったが、彼女は拭おうとしなかった。
ポプランは空席に向けて杯を掲げた。
「ワルター・フォン・シェーンコップに」
***
楽団が、次の曲の前奏を弾き始めた。
古い、素朴な旋律だった。式の定番曲ではない。この星の流行歌でもない。
カリンが顔を上げた。
彼女はこの歌を、母の口から聞いた。
母がかつて、若い日のワルター・フォン・シェーンコップに聞かせ、別れてからも一人でうたい続けた歌である。
カリンがユリアンを見ると、彼は少し居心地が悪そうな顔をしていた。
十三年前、カリンが初めてその歌を人前でうたったとき、ユリアンもそばにいた。
彼は、そのときの歌をずっと忘れずにいた。
カリンは、それ以上訊かなかった。
代わりに、涙の痕をそのままに立ち上がり、楽団に片手を上げて、前奏をもう一度、と合図した。
四百人の前で、彼女は歌った。
冬の女王と、春に帰ってくる鳥たちの歌だった。
歌い終えたとき、広間は、拍手を忘れていた。
カリンは楽団へ小さく頭を下げてから、ユリアンの隣へ戻った。
その手を、彼が握った。
***
乾杯の音頭は、キャゼルヌが取った。
杯の中身は、酒ではなく、紅茶だった。
茶葉を選び、湯温を決め、最初の一杯を新郎が自分で淹れた。あとは厨房の者たちが、そのとおりに四百人分を用意した。
「諸君、長い演説は、もうムライさんが済ませてくれた」
笑いが起こり、ムライが眉一つ動かさずに頷いた。
「だから、おれは一言だ。――杯を持て。全員だ」
キャゼルヌは、最前列の二つの席を見た。
黒ベレーの前の紅茶には、新しい湯気が立っていた。誰が淹れ直したのか、誰も訊かなかった。
「出席者全員で。……新郎新婦に」
四百と二の席の上で、杯が上がった。
乾杯が終わると、ユリアンが挨拶に立った。
「皆さん、今日は僕たちのために集まってくださって、ありがとうございます」
彼は、黒ベレーと紅茶の置かれた席を見た。
「ヤン提督と一緒に暮らせて、僕は幸せでした。今日、カリンと結婚するところも、見ていただきたかったです」
少し間を置いて、ユリアンは参列者へ顔を戻した。
「提督が亡くなってからも、皆さんにはずっとお世話になってきました。こうして二人を祝っていただけて、本当にうれしいです。これからも、よろしくお願いします」
ユリアンが頭を下げると、拍手が起こった。
***
【同日夜 自治政府庁舎・記録官室】
祝宴は、日付が変わる前に散会した。
記録官室の灯りは、まだついていた。フレデリカ・グリーンヒル・ヤンは、式で交わされた挨拶と祝辞を、控えとして書き留めていた。ムライの話は、要点だけでも一頁に及んだ。
扉が、控えめに叩かれた。
新郎が、盆を持って立っていた。礼服のままである。
「今日は、ありがとうございました」
「お礼は、もう十分いただいたわ」
フレデリカは微笑して、盆を受け取った。
紅茶が一杯。
ユリアンが自分で淹れたものだった。ブランデーが少し濃かった。
新郎が去った廊下から、話し声が遠ざかっていく。ポプランと、アッテンボローの声である。
「今日の騒ぎは、当分の酒の肴だな」
「当分どころか。あの二人は一生、言われ続けるさ」
フレデリカは、ペンを取り直した。
窓の外には、よく晴れた夜空が広がっていた。
彼女は控えの末尾に、一行を書いた。
――本日、晴天。欠席者、なし。
インクが乾くのを待って、彼女は帳面を閉じた。