銀河英雄伝説・次代篇 ~英雄の残光~   作:銀河の灯守

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第二章 幼年学校編
第七話 三人の日々


【新帝国暦十三年 帝国幼年学校 アレク】

 

 

初陣から戻ると、幼年学校の日々は何ごともなかったように再開した。

 

朝の点呼、初級軍学の講義、午後の体術。時間割は一日も欠けず机の上へ積まれ、教官の声は、いつもの抑揚で銀河の星系図をなぞっていく。

寡兵をもって六千五百の大軍を屠った戦場も、光を失って沈んでいった無数の光点も、この白い校舎の廊下にはどこにも見当たらなかった。

 

それがアレクにはかえって不思議だった。あれだけのことがあって、世界はこうも平気な顔をしていられるものか。

だが同時に、そのことに少しだけ救われてもいた。

ここでは彼は皇帝でなく、成績の中ほどをうろつく一人の学び子でよかった。

 

昼餉の刻、食堂のいつもの卓に、いつもの二人がいた。

 

「聞いたか、アレク! 今日の体術、教官がまた新しい組手を持ってきたぞ。昼のうちに一回、試そうぜ」フェリックスはもう身を乗り出している。

 

「言っておくが、僕はまだ肩が治っていない」

 

「肩なんか、動かしてりゃそのうち治る。……たぶんな」

 

「その『たぶん』が、いつも僕を尻もちにつかせるんだよ」

 

フェリックスが声をあげて笑い、アレクも釣られて口の端をゆるめた。

初陣の前も、こうだった。

あの戦場を挟んでなお、二人のあいだの空気は、一つも欠けていない。

 

フェリックスにとって初陣は、遠くまで使いに出て帰ってきた程度のことでしかないらしかった。

その頓着のなさが、アレクには有り難かった。

 

変わったことが、一つだけあった。

 

卓の端に、クラインがいる。

以前のクラインはいつも一つ分だけ席を空けて、少し離れて座っていた。声をかけられれば礼儀正しく応じ、それ以上は決して踏み込ませない。

同じ卓を囲んでいても、心だけがずっと遠くにあるようだった。

 

だが初陣から戻って以来、その一つ分の隙間が、いつのまにか消えていた。

 

本人は気づいていないふうを装っている。

あるいは本当に気づいていないのかもしれなかった。

 

「クライン」アレクは声をかけた。

「昨日の講義、航路の結び目のところを僕は取りこぼした。あとで見せてくれるか」

 

「……はい。恐れ入りますが、陛下」クラインはわずかに間を置いて答えた。

「写しをそのままお渡しするより、要点だけ抜いた方がお役に立つかと」

 

「助かる」

 

それだけのやり取りだった。

だがフェリックスは横で、わざとらしく眉を上げてみせた。

 

「なあクライン。もう三人の間では、『陛下』はやめにしないか。アレクもそう言ってたぞ」

「……私には、それが正しい距離とは思えませぬ」

 

クラインは目を伏せてそう言った。

ただ丁重に、敬意をもって、扉を閉じられただけだ。

フェリックスは肩をすくめ、それ以上は押さなかった。

 

アレクも問わなかった。この男が閉ざしている扉の向こうに何があるのか、二人はまだ知らない。

 

知らないまま隣に座っていることだけはできた。それが初陣を経て手に入れた、ささやかな一歩だった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 帝都レーヴェンシュテルン・宮廷 ヒルダ】

 

 

子らが何ごともない日々を重ねていたその頃、宮廷は、まるで違う顔をしていた。

 

初陣は、輝かしい武勲として布告された。若き皇帝が、旧同盟の残党くずれを、初陣にして討ち果たした――公にはそう謳われた。

だが宮殿の奥では、その文面を信じる者は一人もいなかった。烏合の徒と踏んだ相手が、六千五百隻。

一歩誤れば、幼帝の御座艦は暗礁の底に沈んでいた。味方は一万二千を数えて死んだのだ。

 

摂政皇太后ヒルダの怒りは、声を荒げる類のものではなかった。

むしろ、恐ろしいほど静かだった。

息子を戦場へ出すことを許したのは、自分である。急かした宮廷の声に、抗いきれなかったのも、自分だ。

その悔いと、二十倍以上も敵を見誤った者たちへの怒りとが、細い肩の内側で、冷たく凍りついていた。

 

宮廷は宮廷で、荒れていた。初陣を最も強く推した派閥ほど、青ざめていた。

あと半日で、彼らは幼帝の弑逆を後押した張本人として歴史に名を刻むところだった。

誰もが、自分ではない誰かの過失であってほしいと願い、その願いは、やがて一つの方向へ流れ始めた。

 

――情報部が、敵の数を読み違えたのだ、と。

 

ヒルダは、その流れを一度、冷ややかに見つめた。そして命じた。

 

何がどう誤られたのか、末端まで徹底して洗え、と。詫びる者を探すのではない。

何が起きたのかを、正確に知るために。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 帝国幼年学校 アレク】

 

 

その(かげ)りは、いつも同じ卓の、少し離れたところからやってきた。

 

ローデリヒ・フォン・グルックスブルクは、痩せて背の高い、不機嫌そうな顔をした少年だった。

父は、旧ゴールデンバウム朝の初期から続く家柄の中堅貴族で、辺境の一星域に所領を持っている。機を見るに敏で、新王朝樹立にあたり、いちはやく先帝ラインハルトに協力し、所領を安堵された。

 

門閥の頂点に届く家柄ではなく、といって成り上がりの新貴族に肩を並べられては困る。

そういう宙ぶらりんの誇りの持ち主だった。

 

実力で門が開かれた幼年学校は、この少年に居心地の悪い場所だった。

ここでは血でなく席次がものを言う。

 

昨日まで平民だった家の子が、由緒ある家の子の上位に立つ。

それだけならまだ耐えられた。

だが、平民の子を見下せば「中堅ごときが」と嗤われ、かといって上位の貴族の子に取り入ろうとすれば足元を見られる。

どこに立っても自分の居場所はない気がした。

 

だからローデリヒは、自分より下を必死に探した。

 

彼が目をつけたのがフェリックスだった。

傍目には奇妙な選択に見えた。

フェリックスは宇宙艦隊司令長官、あの疾風ウォルフことウォルフガング・ミッターマイヤー元帥の子である。

 

新帝国で、これ以上ない高位の家だ。

だがローデリヒは、その血が実の血でないことを知っていた。

 

「――ミッターマイヤーの倅は、貰われっ子だそうだな」

 

昼餉の帰り、廊下で肩がぶつかったのを口実に、ローデリヒは声を張った。

周りの数人が、ちらと足を止める。

 

狙いはフェリックス一人でなく、その周りの耳だった。

 

「養父は立派なものだが、実の親の血のほうはどうだかな。なんでも、先帝陛下に反逆して無様に敗死した男と、その男に取り入った賊徒の係累の女の、婚外の子とか。いやはや、かの疾風も、そのような子を押し付けられるとは。罪な男を友に持ったものだ」

 

場の空気がすっと冷えた。

フェリックスの足が一瞬だけ止まる。

体の脇で、右手の拳が一度だけ握られて開いた。

だが振り返ったその顔には、笑みがあった。

 

「よく知ってるじゃないか。歴史をよく勉強していて、結構なことだ」フェリックスは軽く肩をすくめた。「ただ、次は比較帝国論ももっと勉強してから、絡んでくるんだな。血筋を問題としない新王朝じゃ、今の絡み方では部分点ももらえんぞ」

 

いなすような口ぶりだった。

ローデリヒの顔が屈辱に赤らむ。

言い返そうとして、うまく言葉が続かない。

フェリックスはもう背を向けて歩き出していた。

 

アレクは思わず前へ出かけた。

フェリックスを侮辱されて、黙っていられなかった。

 

だがその肩を、当のフェリックスが軽く手で制した。

 

「よせ、アレク。お前が出りゃ、あいつは英雄になる。皇帝に喧嘩を売って怯まなかった中堅貴族の子、ってな」

 

「……だが」

 

「気にすんな。ああいうのは、相手が痛がると喜ぶ。だから痛がらねえのが一番効く」

そう言って、フェリックスはいつものように笑ってみせた。だがアレクは見てしまった。

廊下の窓に映った自分の顔から、フェリックスがほんの一瞬、目を逸らしたのを。

両の目とも青かった。

彼はそれを見なかった。癖なのか意味があるのか、本人も語らない。

アレクも問わなかった。

 

 

少し離れた席で、首席のハインリヒ・フォン・アイゼンベルクが、ノートから顔を上げていた。

ローデリヒの下卑た絡みにも、いなしたフェリックスの余裕にも、加わりも助けもしない。

ただ一瞥して、また手元の記録筆へ目を戻す。

陰口に興じる暇があれば一問でも多く解く、という背中だった。

 

だがそのハインリヒの横顔が、皇帝と元帥の子が肩を並べて笑うあの輪を、ほんの一拍だけ、名づけようのない目で見ていたことに、気づいた者はいなかった。

 

そしてもう一人。少し離れて、クラインが立っていた。

感情の読めぬ端正な顔で、ローデリヒの後ろ姿を見ている。

人がどう動くか、誰が誰をどう憎むかを、値踏みするような目だった。

彼はその少年の名と、その目に灯った澱を、静かに記憶へ収めた。

だが、クラインの目が本当に留めたのは、それだけではなかった。

 

フェリックスが笑ってみせる直前の、あの右手の一握りだった。

それに気づいた者は、彼のほかにはいなかった。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 帝都レーヴェンシュテルン・宮殿 ヒルダ】

 

 

同じ頃、宮殿の一室では、獅子の泉の七元帥が、円い卓を囲んでいた。

摂政皇太后ヒルダが上座に着き、その正面に、軍務省情報部長ヴェルナー・アルテンホーフ中将が、蒼白な顔で立たされていた。

初陣の顛末を、末端まで洗った上での、報告の場である。

 

「では、はじめよう」議長役の宇宙艦隊司令長官、ウォルフガング・ミッターマイヤー元帥が静かに口を開いた。

「敵は六千五百。我々は、それを最大で三百程度の烏合の徒と踏んでいた。……二十倍以上だ。中将。なぜ、こうなった」

 

アルテンホーフの喉が、上下した。

「……申し開きの、しようもございませぬ。情報の集約と評価は、我が部の責。この失態、すべて――」

 

「待て」

それを遮ったのは、卓の一角で戦史の綴りを繰っていたメックリンガー元帥だった。記録者の目が頁の一点を指していた。

 

「失態、と一言で片づける前に、数字を見ていただきたい。……敵を『少数』と我々に信じ込ませた情報は、一つではない。三つあった。辺境の交易船がもたらした風聞。投降してきた残党の供述。そして、傍受した敵の通信の解析。この三つが、独立した三つの経路から、まったく別々に、しかし寸分たがわず『少数の烏合の徒』を指し示した」

 

卓に、沈黙が落ちた。

 

「一つの誤りなら、過失で説明がつく」メックリンガーの声はあくまで静かだった。

「だが、互いに繋がりのない三つの経路が、示し合わせたように、同じ方向へ、同じだけ誤る。……これは、確率の話だ。偶然では、まず起こらない。これは過失ではない。設計された罠だ」

 

アルテンホーフが、掠れた声で継いだ。

「三つの独立情報源からの経路が一致した時点で、誰も、それ以上は疑いませんでした。そこを、突かれました」

 

「では、問いを立て直そう」

低く、硬い声だった。軍務尚書ケスラー元帥である。

腐敗しきった憲兵隊を一人で立て直した、法の番人。

その目がまっすぐアルテンホーフを射ていた。

 

「情報部に過失があったか否か。……それを問うのは、筋が違う。三つの独立した経路が、揃って同じ嘘を運んだ。それはもはや、前提だ。ならば、問うべきことはただ一つ。誰が、何のために、これほど周到に、我らの目を塞いだのか。それだけだ」

 

 

「犯人を出せ!」

卓を叩いたのは、ビッテンフェルト元帥だった。

「どこの、誰だ!初陣の陛下を血祭りに上げようとした奴は!単なる烏合の徒がこんな真似をできるか!」

 

「ビッテンフェルトは正しい」メックリンガーが応じた。

「犯人は誰か。旧同盟の残党にしては、手が込みすぎている。三つの経路を同時に汚す網、それを持つ者。……旧王朝の、門閥貴族の残党か。あるいは」

彼はそこで一拍、言葉を選んだ。

「もう滅ぼしたはずの、地球教の――その、生き残りか」

 

その名が出た刹那、ケスラーの横顔から表情が消えた。ほんの数瞬のことだった。

かつて燃える館から身重の皇太后を運び出した、あの夜の火が、その静けさの底で、遠く燻ったのかもしれない。だが彼は何も言わなかった。

 

会議は、そこで壁に突き当たった。

 

沈黙を破ったのは、上座の脇に控えていた、一人の枢密顧問官だった。

初陣を最も強く推した宮廷派閥の、実力者の一人である。

 

「畏れながら。話は、存外、単純ではございませぬか」彼は慇懃に切り出した。

「敵の数を読み違えた。それは、情報部の責にございましょう。アルテンホーフ中将が、その責を負われる。……それで、この一件は、収まりまする。徒に犯人捜しに時を費やし、陛下の御心をお騒がせ奉るよりは、よほど」

 

場をきれいに畳もうとする、なめらかな声だった。

急かした側が、その責を、まるごと一人の肩へ乗せようとしていた。

 

アルテンホーフが、静かに一歩、前へ出た。

「……仰せの、通りにございます」彼は深く頭を垂れた。

「一万二千の将兵は、私の読み違えの下で死にました。陛下を、危うくいたしました。詫びは、一つしかございませぬ。どうか、この命をもって――」

 

「やめよ」

ケスラーの声が、それを断ち切った。静かで、しかし揺るがなかった。

「死は、いちばん楽な詫び方だ。中将。貴官が腹を切って、一万二千が一人でも戻るか。それどころか、貴官を処断すれば、我らの目を欺いた手は、高笑いをするだろう。生贄を一つ立て、幕が引く。次も同じ手でやられよう」

 

彼は、顧問官のほうへ、ゆっくりと目を移した。

「責めを負う場所を、生贄に置くな。真相に置け。……誰かの首を刎ね、安心する。それは、旧い王朝のやり方だ。我々はそれを壊した側ではなかったか」

 

顧問官が、ぐっと詰まった。

だが、顧問官はすぐに顔を上げた。

「……生贄を立てぬのが正道。それは、認めましょう」なめらかな声に、今度は冷えた現実の重みがあった。

「ですが、ケスラー元帥。宮廷も、民も、いずれ責めを問うべき名を求めまする。一万二千が死んだのです。……アルテンホーフ中将の更迭は、遅かれ早かれ避けられますまい」

 

卓に、重い沈黙が落ちた。誰もそれを頭から否定できなかった。

 

「アルテンホーフ中将」ミッターマイヤーが締めくくるように言った。

「貴官の職を解きはせぬ。生きて、掘れ。誰が、我々の目を塞いだのか。それが、貴官の責任の取り方だ。……一万二千への、な」

 

アルテンホーフは、長いあいだ、頭を垂れたまま動かなかった。やがて、掠れた声で「――は」とだけ応じた。

 

ヒルダが静かに立ち上がった。

「徹底して洗いなさい。いくら時がかかってもよい」

 

ヒルダは、アルテンホーフへ目を向けた。

「中将。あなたの職は、解きません。……死も、許しません」

それは、慈悲の言葉ではなかった。

その声は、どこまでも静かだった。

だがその静けさの底に、凍りついた怒りがあることを、居並ぶ元帥たちは、皆、聞き取っていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 帝国幼年学校 アレク】

 

 

冷えた空気を、思いがけないところから戻した者がいた。

 

「はい、これ。実家から届いたやつ。焼き菓子、まだ温かいと思う」

 

放課後、卓へ戻ってきたアレクたちの前に、小さな包みが無造作に置かれた。差し出したのは丸顔の、どこにでもいそうな平民の子供だ。

 

トビアス・ブリュックナー。

 

父は中規模の輸送商を営んでいるという。

戦後成金のあくどさもなく、といって由緒もない、堅実なだけの家の子だった。

 

「悪いな、俺の分まで。こんなに貰っていいのか?」フェリックスが包みを覗き込む。

 

「むしろ貰ってくれ。全部持って帰ると、俺が全部食う羽目になる。持久走の成績、今でも下から数えたほうが早いのに、ますます太っちまう」

 

「なんだそれ」

 

トビアスはへらりと笑い、卓の全員に、一つずつ配って回った。

フェリックスにも、アレクにも。

そして卓の端のクラインの前にも、当たり前のように一つ置いた。

 

「……私は結構です」クラインが反射的に言いかける。

 

「そう言うと思って、一番小さいのにしといたよ。無理には勧めないぜ。気が向いたらどうぞ」

トビアスはそれ以上押さず、自分の席へ戻っていった。

 

クラインは、目の前に置かれた小さな菓子を、しばらく妙な顔で見ていた。

無償で差し出されたものを、どう受け取ればいいのか、分からなかった。

これは、いつか何かで借りを返せと求められる類のものか、何を返せばよいのか。

そう値踏みしかけて、ふと、なかなか直らないその考えそのものを恥じた。

 

礼を言おうとしたときには、トビアスはもう自分の席で別の誰かと笑っていた。

一拍、遅かった。

 

 

このトビアスという少年のことは、アレクも名前だけは知っていた。

席次はいつも中の下、才能というほどのものはどこにも見当たらない。

本人もそれを、隠しも嘆きもしない。

だが不思議と、輪の温度を測って口を挟むのが(うま)かった。

 

誰かが黙り込めば、どうでもいい話を転がして場を戻す。

フェリックスがぶっきらぼうに言葉を切り落とすのに対して、トビアスはそれを軽く拾い、床に落とさずに転がしていく。

 

「なあ、ミッターマイヤー」不意にトビアスが言った。

彼はフェリックスを、養子だの何だのと構えることなく、ただ苗字で呼んだ。

「さっきのグルックスブルク、ありゃ放っときゃいい。あの手の連中は、隙を見せた相手にしか吠えねえ。お前が平気な顔してりゃ、そのうち別の獲物を探すさ」

 

「ずいぶん詳しいな」

 

「商売の子だからな。うちの親父も、うるさい客の相手ばっかりだ。『怒ってる客は、値切りたいだけのことが多い』ってさ」

 

フェリックスがふっと笑った。今度のは、いなすための笑いではなかった。

 

アレクはこの平民の子に、どこか自分と似たものを感じた。

人の名を憶えるのがアレクなら、トビアスは人の好物を憶えているらしかった。

誰がどの菓子を好み、誰が辛いものを苦手とするか。

 

手元の擦り切れた小さな手帳に、時おり何かを書き留めている。

覗くと、同期の名の横に食べ物の名がいくつも並んでいた。

 

「憶えてどうする?」アレクが訊くと、トビアスは首をかしげた。

 

「どうもしない。ただ、次に会ったとき、そいつの好きなもんを一つ持っていける。それだけ憶えとくと、たいてい話が早い」

 

それだけのことを、この少年は、照れもせずに言った。

人を役目でなく名で見る癖。

アレクにとってそれは、そうせずにはいられないだけの、意味のない癖だった。

だが目の前の子は、それに近いものをまるで違う入口から持っている。

銀河を統べる者に要る、大した技ではない。

もちろん、学科の成績には一点も加わらない。

 

ただ、人と人の間に小さな橋を架けるための癖だ。

 

アレクは卓の端を見た。クラインがいつのまにか、あの一番小さな菓子を手に取っていた。

 

口には運ばず、ただ握っている。握った指には、わずかに力がこもっていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 帝国幼年学校 アレク】

 

 

その夜、寮の窓から帝都の光が見えた。

 

宮廷が荒れているのは、子供の僕にも、なんとなく伝わっていた。誰かが敵の数を偽って伝えたのだ、その手を大人たちが血眼で探しているのだ、と。

僕はその探索の輪には入れてもらえない。まだ、守られる側の子供だからだ。

 

初陣の帰りに見たのと、同じ光だ。

あのとき僕は、名簿を胸に抱いて、一万二千の名を、そのひとつまみも憶えられないことを思い知った。

 

玉座は、数えきれない名もなき死の上に建っている。それでも憶えようとすることだけはやめてはならない――それが答えにならない、たった一つの答えだった。

 

あれから僕は、名簿を開くたびに、一つの癖がついた。

名の脇の余白に、小さな印をそっとつけていく。

 

弔いの言葉を書けるわけではない。

ただ、読み飛ばしたくない。それだけの、子供じみた印だ。

 

僕はまだ、それをどう抱えていけばいいのか分からずにいる。

けれど、この幼年学校の日々の中には、初陣の戦場になかったものがあった。

 

一万二千は、僕には遠すぎた。

 

だがここには、フェリックスがいて、クラインがいて、菓子を配って回る、変な子がいる。

 

名も、好物も、いなし方の癖も、逸らす目の青さも、一つずつなら数えられる。憶えていられる。

 

あるいは、と僕は思った。

目の前の一人を取りこぼさずに憶えていくことの、その先にしか、あの名簿へ近づく道はないのかもしれない。

 

ただ、うまく言葉にはできなかった。

 

父上なら、こんなところで立ち止まりはしなかっただろう。

目の前の一つの名に躓くことなど、あの人にはなかった。だが僕は父ではない。

似ていない部分だけが、いつも僕にははっきりしている。

 

窓の外で、光が静かに(またた)いていた。

 

今日はいい日だった、と思った。

何ごともない、平凡な、どうということもない一日。

そういう日をこれからいくつも重ねていくのだろう。

 

僕はそう思っていた。

 

 

***

 

 

【新帝国暦十三年 帝国幼年学校 ローデリヒ】

 

 

同じ夜、別の窓辺で、ローデリヒ・フォン・グルックスブルクは一人、爪を噛んでいた。

昼間の廊下の記憶が、いつまでも消えない。

 

あの倅奴(せがれめ)は、嗤っていた。

侮辱を、軽く嗤っていなされた。

 

あの余裕が、皇帝と肩を並べて歩くあの三人の在り方が、彼にはどうしても我慢ならなかった。

 

血でも席次でもない何かで結ばれたあの輪の内側に、自分は決して入ることができない。

 

一度で駄目なら二度。

二度で駄目なら、三度。

あの倅奴の胸の奥にある、もっとも傷つきやすい場所を探すまでだ。

あの者が笑っていられなくなる場所が、どこかに必ずある。

 

少年はその夜、まだ何も知らなかった。

 

自分のその小さな、しかし粘っこい執着が、いつか自分の矮小な理解を遥かに超える結果を生むことを。

 

そのときの彼はただ、気持ちを分かち合うことのできる友や、自分の居場所が欲しいだけの一人の少年だった。

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