【新帝国暦二十四年春 神聖黄金樹教国・聖都ラディークス 辺境司牧院付属礼拝堂】
礼拝堂の奥に、横幅が三メートル近い油彩画が掛けられていた。
川面に浮かぶ小舟の上で、二人の若い男が横たわっている。
頭の下には赤い枕が重ねられ、背後には黒い布が張られていた。灰色の掛布をかけられた身体は動かず、手前の男の腕が舟べりから垂れている。画面の右端には、包帯を巻かれた足先が見えた。
舟を漕ぐ者はいない。水面にはほとんど波がなく、遠い岸には低い丘が描かれていた。
舟がそこへ向かっているのか、それとも流れに任せているだけなのか、絵からは分からなかった。
人類が宇宙へ進出する以前、西暦時代の地球で描かれたものと伝わっている。
作者も本来の題名も、今ではもう分からない。制作の経緯を記した資料は失われており、教団の手に渡った経緯も不明だった。
ただ、絵が扱った古い伝説は伝わっていた。
かつて前宇宙時代の地球には、『フランク』という名の王国があったという。
父王に背いた二人の王子が、脚の腱を焼かれる刑罰を受けた。
王は息子たちを処刑することまではできず、運命を神に委ねるとして、櫂も舵もない舟に乗せて川へ流した。舟は修道院の近くへ流れ着き、王子たちは修道士に拾われて手当てを受けた、と物語は結ばれる。
神聖黄金樹教国の聖都ラディークスには、大小さまざまな礼拝堂があった。
しかし、聖都で単に「
旧い聖画や聖遺物を数多く所蔵することで知られ、教国の信徒はもちろん、遠方からの巡礼者や一般の観光客も訪れる、聖都有数の名所だった。
日中は礼拝の時間を除いて一般に開放され、希望する来訪者には辺境司牧院の司祭が絵の由来や宗教的な意味を説明していた。
絵を傷めないよう、室内の照明は抑えられている。額縁の脇では保存設備の小さな表示灯が点いていた。
数人の来訪者を案内していた司祭が、絵の前で足を止めた。
「こちらは、母なる地球の慈悲を伝える聖画として親しまれています」
司祭が語り始めたのは、古代の王子たちの話ではなかった。
二十数年前、ゴールデンバウム朝時代の銀河帝国でリップシュタット戦役が貴族連合の敗北に終わったころ、ある門閥貴族の伯爵家の二人の息子が、新しい帝国でローエングラム候に仕えることを望んだ。
だが、他の門閥貴族とともに辺境への亡命を決めた父親はそれを許さず、兄弟を強制的に冷凍睡眠に入れると、操縦装置と通信装置を使えなくした小型船に乗せ、宇宙空間へ流したという。
「その小舟を、教団の救護活動に協力していた一隻の商船が奇跡的に発見したのです。広大な宇宙空間で、救難信号すら発していない小舟を発見することが、どれほど難しいかお分かりでしょうか。お二人はそのまま施療院へ運ばれ、無事に救命されました」
司祭は絵の方へ手を向けた。
「この絵が描かれたのは、まだ人類が地球に暮らしていた頃です。そのころから、この親に見捨てられた哀れな二人の帝国貴族の兄弟が、教団に救われることは運命として定められていたのだ、という神学上の説もございます。わが教国の誕生を予告する、
年配の女性が、二人の若者の描かれた舟を見上げた。
「もしや、救われたお一人というのは、生きながら列聖されている、あのベネディクトゥス大司祭様ですか?」
「はい。お兄様の方ですね。今も辺境の施療院で、病人や身寄りのない方々のお世話をなさっています」
女性は少し考えてから、もう一度訊いた。
「弟さんの方は、どうなされたんでしょう」
「詳しい消息は、私も存じません。ただ、教国軍に身を置き、今は聖なる軍務に身を捧げておられると聞いております」
入口に近い長椅子には、教国軍第二聖団〈
辺境の施療施設へ送る医薬品と避難輸送について、院の担当者と協議するために来ていた。前の会議が長引き、礼拝堂で待つよう案内されたのである。軍服の上に羽織っていた外套は、椅子の背に掛けてあった。
司祭は最後に、もう一度古画へ目を向けた。
「母なる地球は、親から見捨てられたお二人をお見捨てになりませんでした。昔、この川を流れた王子たちと同じように、お二人も母の御手に温かく迎えられたのです」
司祭は来訪者たちを次の聖画へ案内した。年配の女性だけが絵の前に残り、舟の二人をもう一度見上げてから、皆の後を追った。
ベーレントはその話に口を挟まなかった。案内する声が廊下の奥へ遠ざかっても、黙って長椅子に腰を下ろしたままだった。
***
時は約三十年前に遡る。
【帝国暦四八六年・宇宙暦七九五年 ゴールデンバウム朝銀河帝国 エーレンフェルス伯爵家の居館】
のちにゴールデンバウム朝銀河帝国を二分するリップシュタット戦役の開戦まで、まだ二年を残していた。
エーレンフェルス伯爵家は、リッテンハイム侯家に連なる旧い門閥貴族だった。
当主のゲルハルト・フォン・エーレンフェルスは、リッテンハイム侯ウィルヘルムの縁戚であり、いくつもの所領を抱えていた。
あるとき、その伯爵家の税務処理に不正が見つかった。
発見したのは、リッテンハイム侯の家臣で、財務担当官と私設軍の参謀長を務めていた帝国軍大佐のコンラート・フェルディナント・ベーレントだった。
侯家の経理を扱っていたベーレントは、伯爵家から送られてきた収支報告と、領内の徴税記録を照合していた。徴収された税の一部が侯家への報告から抜け落ち、その分が伯爵家の別勘定へ移されていた。要するに、よくある税収の横領だった。
ベーレントは関係する帳簿を揃え、エーレンフェルス伯ゲルハルトに説明を求めた。
ゲルハルトは差額を示されても、まったく悪びれた様子はなかった。
「家を維持し、帝国の藩屏として帝室をお支えするには、表に出せぬ支出もある。どこの家でもやっておることだ」
「その支出を裏付ける記録はございますか?」
「平民風情が何を言う。少しばかりリッテンハイム侯に目をかけられているからといって、図に乗るなよ」
ベーレントは書類を引き寄せた。
「では、税収の横領が疑われる旨を、そのまま侯爵閣下に報告いたします」
「待て」
伯爵はしばらくベーレントを見ていたが、やがて声を低くした。
「……そうか、そういうことか。そのようなことをする前に、私から礼をしてもよいぞ。お前のような下賤の者には、金はいくらあっても困るまい」
「受け取る理由がございません」
伯爵の顔が険しくなった。リッテンハイム侯の縁戚である自分に恥をかかせるつもりかと問い詰めたが、ベーレントは、調べた数字をそのまま報告するだけだと答えた。
結局、この一件はリッテンハイム侯ウィルヘルムのもとまで届いた。
侯は不足分をエーレンフェルス伯に返納させ、帳簿の訂正も命じた。
しかし、不正を公にすることは避けた。侯にしてみれば、門閥貴族の間ではさして珍しくもない税収の横領だった。有力な縁戚との関係を悪化させてまで騒ぎ立てるほどのことではないと判断し、処分は内々に済ませた。
***
エーレンフェルス伯の処分が決まった日、リッテンハイム侯はベーレントを執務室へ呼んだ。
「ベーレントよ。卿はもう少し、貴族社会というものに慣れた方がよい。いや、貴族に限った話ではないな。人間社会にだ」
「人間社会、でございますか?」
「人の世は、帳簿のように整ってはおらぬ。ゲルハルトは私の縁戚だ。あれに非があるからといって、公に騒げば他の家まで巻き込むことになる。いくら私でも、平民の卿をこう何度も庇いきれるとは限らんぞ」
「候。お言葉ながら、帳簿もそれほど整っているものではございません」
リッテンハイム侯は眉を上げた。
「何?」
「数字の合わない帳簿は珍しくございません。ですから照合するのでして、最初から整っておれば、私の仕事はずいぶん少なくなります」
侯はしばらくベーレントを見つめ、それから苦笑した。
「待て待て。私は帳簿の話をしておるのではないぞ」
「それは失礼いたしました」
「いや、よい。……まったく、卿のそういうところを買っておるのだから、始末が悪い」
「恐れ入ります」
「もう少し自分の身も大事にせよ、と言っておるのだ」
ベーレントは一礼した。
「ご心配いただき、ありがとうございます」
侯はまた少し困った顔をしたが、もう何も言わず、手を振って下がらせた。
エーレンフェルス伯は金を返したが、平民のベーレントが自分を辱めたことは忘れなかった。
***
それからしばらくして、ベーレントが収賄と恐喝の疑いで告発された。
告発したのはエーレンフェルス伯だった。
伯爵家に仕える複数の者が、軍務上の便宜を図る見返りにベーレントから金品を要求され、支払いを強いられたと証言しているという。リッテンハイム侯に提出された告発書には、それぞれの署名が入った調書まで添えられていた。
侯家の軍務館で査問が始まる前、ベーレントはリッテンハイム侯の執務室へ呼ばれた。
机には、ゲルハルトが提出した告発書と、複数の証人の調書が並べられていた。証人の三人はいずれも伯爵家に仕える下級貴族であり、調書には本人の署名と宣誓が添えられている。
リッテンハイム侯は、何度目かになる調書の確認を終えると、深いため息をついた。
「ベーレントよ。卿がこのようなことをする男でないのは、私が一番よく知っておる」
「恐れ入ります」
「だが、私が知っておるだけでは済まぬのだ。貴族が宣誓して述べた言葉は重い。それが一人ならまだしも、三人も揃って同じことを申しておる」
侯は調書を指先で叩いた。
「平民である卿がいくら身の潔白を訴えても、これを覆すのは難しい。軍務上の収賄と恐喝だぞ。このままでは処断を免れぬ」
ベーレントは黙って聞いていた。
「私がゲルハルトと話をつける。あれも私の頼みとあらば、告発を取り下げるくらいのことはするだろう。何か見返りは必要になるだろうが、止むをえまい。卿も一度、あやつに頭を下げよ。私の顔を立てると思ってな。今から行くぞ、すぐに準備しろ」
「お断りいたします」
侯は顔を上げた。
「……何だと?」
「してもいないことについて、謝罪する理由はありません」
「そんなことは分かっておる!」
侯の声が大きくなった。
「頭を下げるだけで済むのだぞ。腹の中ではゲルハルトの悪だくみなど、いくらでも嗤っておればよい。それが、それほど難しいことか!」
「申し訳ございません」
「では、どうするつもりだ?」
「事実を申し述べるほかございません。それで処断されるというのであれば、やむをえません」
リッテンハイム侯は、しばらく言葉を失った。
「……卿は、まったく」
何か言いかけたが、続かなかった。侯は椅子の背にもたれ、片手で額を押さえた。
「私は卿を死なせたくないのだぞ」
「ご厚情には、心より感謝しております。これまで、本当にありがとうございました」
「おい、待て! なぜ遺言のようになる! 私は卿を助けようとしておるのだぞ。少しは私の言うことを聞け!」
「申し訳ございません」
ベーレントは深く頭を下げた。
侯はますます困り果てた。
「…‥感謝も謝罪もせんでよい。少しは私の言うことを聞かぬか」
ベーレントは答えなかった。
侯はもう一度、机の調書へ目を落とした。ゲルハルトの名を記した告発書を手に取ったところで、扉が叩かれた。
「何だ。今は取り込み中だ」
扉の向こうから、家宰の声がした。
「ウィルヘルム様。査問に関して、新たに証言を申し出ている者がおります」
「証言だと? 誰だ」
「エーレンフェルス伯爵家の御子息、お二人でございます」
侯は調書をめくる手を止めた。
「……ゲルハルトの息子たちが?」
「はい。長男マティアス様と、次男フロリアン様です。お二人とも、宣誓のうえ、父君の提出された調書について証言したいと仰せです」
***
軍務館で開かれた査問では、マティアスとフロリアンがそれぞれ別に事情を聴かれた。
父からベーレントの金品要求を目撃したと証言するよう命じられたが、実際には見ておらず、署名を断ったという。二人の話は一致していた。
提出済みの調書を改めて調べると、金品を渡したとされる日時などにも食い違いが見つかり、ベーレントへの嫌疑は退けられた。虚偽の証言が作られた経緯については、引き続き調査されることになった。
査問が終わったあと、ベーレントは侯家の軍務館の廊下でマティアスとフロリアンの兄弟と行き会った。
「ありがとうございます。マティアス様とフロリアン様のお二人には、助けていただきました」
マティアスは首を振った。
「私たちは、あったことをお話ししただけです」
フロリアンが兄を見た。
「父上はお怒りになるでしょうね、お兄様」
「まあな。だが、父上もいずれ分かってくださるさ。時に短慮に走られることはあるが、何度もお話しすれば、きっと理解してくださる」
マティアスはベーレントに向き直った。
「それに、ベーレント大佐はリッテンハイム一門の要石です。これからも大いに活躍していただかなくては」
「兄上、それを言うなら、もっと僕たちに教えていただかなくては、でしょう。僕はまだ軍務についてベーレント大佐から学びたいことがたくさんあります」
「フロリアンはこう申しておりますが、士官学校では白兵戦と徒手格闘の成績がどちらも首席なんですよ」
マティアスは誇らしげに弟を紹介した。
「兄上、そんなことまで……」
フロリアンは照れくさそうに笑ったが、すぐにベーレントへ向き直った。
「僕は、父上と兄上の役に立ちたいと思っています。ベーレント大佐には、今後もぜひ軍務について教えていただきたいんです」
「ええ、もちろん。私にお教えできることでしたら、喜んで」
フロリアンは嬉しそうに礼を述べた。マティアスも軽く頭を下げ、二人は並んで廊下の奥へ歩いていった。
***
【帝国暦四八八年・宇宙暦七九七年 リップシュタット戦役終結直後 銀河帝国領 エーレンフェルス伯爵家の居館】
リップシュタット戦役は、貴族連合の敗北に終わった。
エーレンフェルス伯爵家では財貨や家財の搬出が急がれ、当主ゲルハルトは愛妾と旧臣たちを伴って辺境へ逃れ、旧ブラウンシュヴァイク派のグレーフェンベルク侯を頼って家を再興するつもりでいた。
辺境への出立を前に、長男マティアスと次男フロリアンが父の書斎を訪ねた。
「父上、もうよろしいではありませんか。もう、門閥貴族の時代は終わったのです。これ以上、家の者を連れて逃げることはありません」
「今さら、あの金髪の孺子に頭を下げろというのか!」
「我々は敗れたのです。新しい帝国のもとでも、生きていく道はありましょう。別に貴族でなくなってもよいではありませんか」
フロリアンも口を開いた。
「僕は帝国に残り、新しい帝国軍に士官したいと思っています。士官学校で学んだことを、これからの帝国やローエングラム侯のために役立てたいんです」
ゲルハルトの顔色が変わった。
「この家の金で学ばせてやったお前が、父を捨てて敵……あの金髪の孺子に仕えるというのか!」
「父上を捨てるつもりはありません。ただ、僕は自分の道を選びたいんです」
「恩知らずどもめ! ベーレントの件でも父に逆らい、今度は家まで捨てるというのか!」
ゲルハルトは護衛を呼びつけた。
マティアスが何か言おうとしたが、護衛たちは二人を取り押さえた。フロリアンは激しく抵抗したものの、数人がかりで押さえつけられ、医療員が持ってきた鎮静薬を投与された。
「お待ちください!父上、何をなさるのですか!」
マティアスの問いに、ゲルハルトは冷たく答えた。
「もうお前らは要らぬ。息子なら、新天地でまた何人か産ませればよいわ」
「父上、お願いです。もう一度お話を……」
「黙れ。殺して発覚すれば、外聞が悪い。グレーフェンベルク侯はそのような仕儀をお嫌いになる。お前らは宇宙を一生彷徨っておれ」
ゲルハルトは吐き捨てるように続けた。
「幾兆分の一の幸運で誰かに拾われたとしても、『当主への叛乱を企てた息子たちを、温情によって逃がしてやった』と言えば済む。もっとも、そのころには長い冷凍睡眠で、口も利けぬ廃人になっておろうがな」
マティアスにも薬が投与された。
兄弟は強制的に冷凍睡眠に入れられ、二基の睡眠槽を備えた小型連絡艇に収容された。
操縦装置と通信設備は取り外され、船は曳航艇によって人の通わない旧採掘航路へ運ばれた。
移送を任された伯爵家の船務長は、命令書を何度も読み返した。連絡艇を切り離して帰投し、航行記録を消去せよとあるだけで、兄弟を迎えに行く船も、睡眠を解く担当者も指定されていなかった。
連絡艇が曳航艇から離れ、暗い宇宙へ遠ざかっていった。船務長は命令に反し、切り離した位置と時刻、船体番号、針路と速度を記した記録の写しを密かに残した。
そのころ当主ゲルハルトは、愛妾数名を伴い、ほかの敗残貴族たちとともに辺境へ向かっていた。
***
【帝国暦四八八年・宇宙暦七九七年 リップシュタット戦役終結後 旧リッテンハイム侯軍・軍需集積港】
リッテンハイム侯ウィルヘルムは、すでに世を去っていた。貴族連合は敗北し、侯家の私設軍も解体されつつあった。
ベーレントはリッテンハイム領の軍需集積港に残り、艦艇や物資の引渡し、兵員の帰郷手配など、敗戦後の残務処理に追われていた。
そこへ、エーレンフェルス伯爵家の船務長が訪ねてきた。
「ベーレント大佐。マティアス様とフロリアン様が……」
事情を聞き終えたベーレントは、しばらく言葉を失った。
「お二人を乗せた船は、今どこにあるのですか!!」
「旧採掘航路の外側です。伯爵様の命令で、私どもが曳航して切り離しました。操縦装置も通信設備も取り外されております」
「なぜ、もっと早く知らせてくださらなかったのです!!」
船務長は俯いた。
「……申し訳ございません。私も、伯爵様の命令に逆らえませんでした」
ベーレントは記録を手元へ引き寄せた。
「とにかく今はお二人を捜すのが先です。操舵士と観測員にも、後ほどお話を伺わせてください」
ベーレントは、港の救難担当をはじめ、旧知の船長や民間の曳航業者に次々と連絡を取った。
だが、リッテンハイム侯家の艦艇は接収を待っており、勝手に出港させることはできない。民間船も戦後の混乱で徴用や運航制限を受け、救難艇は敗残兵や負傷者の搬送に追われていた。
「どのような船でも構いません。あの宙域を通る予定の船は、本当に一隻もないのですか!」
何度目かの照会で、港湾管制の担当者がようやく一隻の船を見つけた。
『辺境の施療施設へ医薬品を運ぶ商船があります。ただ、船主が少々……』
送られてきた船籍を見て、ベーレントは眉をひそめた。
――カザリス商会。
フェザーン商人ジェイク・カザリスが率いる商船会社だった。交易も営んでいたが、商会そのものが海賊団として悪名高かった。
運んでいる医薬品は、ある宗教団体から委託されたものだという。
地球教から分かれたという新興の宗教団体で、辺境で救護活動をしているとは聞いたことがあったが、その実態はよく分からなかった。
ベーレントはほかの船の運航予定をもう一度確かめた。やはり、何もなかった。
「その船に……カザリス船長に、連絡を取っていただけませんか」
***
【帝国暦四八八年・宇宙暦七九七年 旧採掘航路外縁 カザリス商会所属輸送船】
遭難船の捜索依頼が届いたとき、ジェイク・カザリスは医薬品の積荷目録を確認していた。
航法士が受け取った座標と針路から推定漂流範囲を算出したものの、その広さは到底、一隻の商船で捜索できるものではなかった。遭難船は救難信号を発しておらず、手がかりも乏しい。しかも、積み込んだ医薬品を待っている施療施設が、次の寄港先にあった。
「放っとけ。そんなもん、探し始めたらきりがねえ」
カザリスは依頼を断ろうとしたが、同乗していたアガーテという女性が事情を聞きつけてやってきた。
彼女は、地球教から分かれた『テラ・マーテル教団』という新興宗教団体の創始者だった。
辺境の孤児院を預かるかたわら、カザリスの商船を利用して各地の施療院へ医薬品や食料を届ける活動にも携わっていた。二人は以前からの知り合いで、カザリスも彼女が困っている人間を放っておけない性分であることをよく知っていた。
「ジェイク、どうしても探していただけませんか?船には、まだ生きている方が二人いらっしゃるかもしれないんですよ」
「婆さん、あんたも無茶を言うねえ。広い宇宙で、信号も出さねえ小舟を探せってのか。そもそも俺ぁ、よくわかんねえ宗教団体のために船を動かしてるんじゃねえ。そこまで金に困ってねえよ。今はな。あんたとは長い付き合いだから、こうして薬を運んでやってるんだぜ。それを今度は、海賊に人探しまでやらせる気かよ」
アガーテは、それでもせめて付近を捜してほしいと頼んだ。カザリスは航法図を眺め、彼女が引き下がる様子もないと分かると、とうとう折れた。
「……分かったよ。少しだけ寄り道してやる。ただし、帰りの燃料には手をつけねえ。見つからなきゃそれまでだぜ」
ところが、船が推定漂流宙域へ入って間もなく、観測員が小さな熱源を捉えた。船体番号を照合すると、ベーレントから送られてきた資料と一致した。
「……おいおい。本当に見つかりやがったのか」
カザリスは直ちに連絡艇の回収を命じた。
艇内には二基の冷凍睡眠槽が並んでおり、どちらにも生命反応があった。二人とも生きていたのである。ただし、一方の装置には異常が見つかり、医療担当者は覚醒させずに施療院へ運ぶことを決めた。
アガーテは搬送を手伝い、眠ったままの二人を見つめた。カザリスは彼女から無事を聞くと、満足そうに頷いた。
「そりゃ結構なことだ。ま、通りがかりに拾っただけさ。大した手間じゃねえよ」
そう言って船長席へ戻り、教団の運営する施療院への針路を指示した。
救助を終えたカザリスは、ベーレントへ通信をつながせた。
軍需集積港の執務室にいたベーレントは、二人とも生存していると聞くと、すぐには返事ができなかった。
「……お二人とも、間違いなく生きておられるのですね」
「ああ。冷凍睡眠槽も動いてるぜ。ただ、一つは調子が悪いらしいがな」
「ありがとうございます、カザリス船長。何とお礼を申し上げればよいか……」
「ま、俺は断ろうとしたんだ。礼を言われる筋合いはねえよ。礼なら、ここにいるアガーテの婆さんに言いな。どうしても探せって聞かなかったんだ」
カザリスは近くにいたアガーテを手招きし、通信席を譲った。
画面に映ったのは、質素な衣服をまとった女性だった。ベーレントが名乗ると、彼女は穏やかに微笑んだ。
「初めまして、ベーレント大佐。アガーテと申します。お二人が見つかって、本当によかったですね」
「アガーテ様。このたびは、何と申し上げればよいか分かりません。お二人は、かつて私を助けてくださった方々なのです」
「そうでしたか。それでは、大佐もずいぶんご心配なさったでしょう」
アガーテは、兄弟を教団の施療院へ運ぶ予定であることを説明した。
二人とも生命反応は安定しているが、一方の睡眠槽には異常があり、覚醒できるかどうかはまだ分からないという。
ベーレントは搬送先と連絡方法を尋ね、必要な費用は自分が負担すると申し出た。
「お心遣いはありがたく存じます。でも、費用のことは後で考えましょう。今はお二人を無事にお連れすることが先ですから」
「……どうか、よろしくお願いいたします」
ベーレントは深く頭を下げた。
「はい。お任せください」
アガーテはそう答えたが、通信を終える前に、もう一度ベーレントへ声をかけた。
「それから、差し出がましいことを申し上げるようですが、ベーレント大佐も今は何かとご苦労の多い時期ではありませんか。もしお困りのことがございましたら、どうぞ遠慮なく私どもを頼ってください。できる限りのことはしたいと思っております」
「……ありがとうございます、アガーテ様。そのお言葉、忘れません」
アガーテは穏やかに微笑み、施療院の連絡先を伝えた。通信が終わると、二基の睡眠槽が置かれた医療区画へ戻っていった。
***
【帝国暦四八八年・宇宙暦七九七年 銀河帝国領辺境 テラ・マーテル教団施療院】
施療院に運び込まれた二基の冷凍睡眠槽を調べた医師たちは、兄マティアスについては覚醒が可能と判断した。
しかし、弟フロリアンの装置には異常があり、いま目覚めさせれば重い神経障害が残るおそれがあった。生命を維持するためには、フロリアンの方は、当面眠らせたままにするほかなかった。
兄マティアスが目を覚ましたのは、それからしばらく後だった。そばにいたアガーテから弟の無事を聞くと、彼はすぐに会わせてほしいと頼んだ。
アガーテは医師の許可を得て、まだ歩けないマティアスを車椅子に乗せ、弟の眠る部屋へ連れていった。
「いつになれば、弟は目を覚ますのでしょうか」
「まだ分からないそうです。でも、命は助かったのですよ。どうか希望を捨てないでくださいね」
マティアスは長い間、眠ったままの弟を見つめていた。
身体が回復してからも、マティアスは施療院に留まった。弟の装置には定期的な点検と部品の交換が必要であり、安全に覚醒させる方法も見つかっていなかった。
初めのうちは弟のそばを離れようとせず、食事もろくに取らなかった。見かねたアガーテが病室まで食事を運んでくると、ようやく口をつけた。
やがてマティアスは、自分から施療院の仕事を手伝うようになった。貴族の屋敷では使用人に任せていたシーツの交換から始まり、食事の配膳、身寄りのない病人の世話、文字の読めない人々の代筆まで引き受けた。弟の装置に必要な部品が不足すれば、遠方の業者にも問い合わせた。
***
ある日、かつて伯爵家に仕えていた男が施療院を訪ねてきた。父ゲルハルト・フォン・エーレンフェルス伯爵は生きており、辺境へ亡命した旧門閥貴族たちの間で暮らしているという。
「お父上のお住まいも分かっております。お訪ねになりますか?」
「いいえ」
マティアスはそれ以上何も言わなかった。その後も父の消息が伝わることはあったが、マティアスが会いに行くことは一度もなかった。
彼はテラ・マーテルの信仰を学び、聖職の務めに携わるようになった。やがて司祭となってからも施療院を離れず、病人を見舞い、亡くなった者の葬送に立ち会い、身寄りのない人々の世話を続けた。
***
【新帝国暦二十二年春 辺境・テラ・マーテル教団施療院】
兄弟が救われてから、二十数年が過ぎていた。
兄マティアスは司祭となり、施療院で人々の世話を続けていた。
一方、弟のフロリアンは、あの日と変わらぬ姿のまま、今も冷凍睡眠槽で眠っている。覚醒させれば重い神経障害が残るおそれがあり、教団の医師たちは長年、その危険を取り除く方法を探していた。
その春、老朽化した睡眠槽の電源制御部を交換する必要が生じた。ようやく見つかった業者は、装置を別の施設へ運ばなければ修理できないと説明したが、担当医師は危険を理由に搬出を認めなかった。
ところが二日後、フロリアンの眠る睡眠槽は施療院から突然姿を消した。夜間の搬出記録には担当医師の承認が付いていたが、医師は許可していなかった。
***
【新帝国暦二十二年春 辺境の民間医療施設】
ヴィクトール・フォン・ラスバッハは、ゴールデンバウム朝の時代から悪名を馳せていた男だった。その数々の所業によってラスバッハ家は取り潰されたが、本人は帝国に留まり、ゴールデンバウム朝統治下の帝国の治安弱体化に乗じて密輸業者や旧軍人を束ね、犯罪組織を運営していた。
しかし、ローエングラム朝が成立して取り締まりが厳しくなると、さすがのラスバッハも帝国での活動が難しくなった。
副官フーゴー・レームとともに辺境へ拠点を移した彼は、やがてテラ・マーテル教団の建国準備にも関わるようになった。武器や艦船の調達、兵員の確保、教団が表立って行えない仕事など、二人のもとにはさまざまな依頼が舞い込んでいた。
ラスバッハは犯罪者として悪名高かったが、軍人としての能力も一流だった。教団の軍備拡張にも深く関わり、のちに第一聖団の母体となる武装部隊の戦闘訓練も担当していた。
レームの取引先には、旧式の冷凍睡眠装置を扱う業者もいた。
その業者を通じて、二十数年間眠り続けている青年の存在を知ったラスバッハは、移送されてきた睡眠槽を興味深そうに覗き込んだ。
「へえ。若えじゃねえか。こいつ、記録じゃ四十代半ばのおっさんだろぉ?とてもそうは見えねえなぁ」
「冷凍睡眠中は、老化がほとんど進まないそうです。身体は二十歳そこそこですな。元は帝国の伯爵家の子息です」
「たしか、兄貴もいるんだっけ」
「はい。マティアスという兄君がおりまして、今は教団の施療院で司祭をしております。二十年以上にわたって弟の装置を管理する一方、病人や孤児の救済にも尽力し、その献身的な働きによって、生前に列聖されたそうです」
「へえ。聖人サマの弟ってわけか」
「それだけではありません。例の旧い聖画が、この兄弟の救済をはるかな昔から予告していたという説まで広まっています」
「ああ、あの絵かぁ。たしかラディークスの『
ラスバッハは、しばらく考えるような顔をした。
「あれは、いい絵だぜ。赤い枕と黒い幕で、いいとこの王子サマらしく飾り立てておきながら、手前の男の腕は舟の外へだらりと垂らしてやがる。あれだけで、自分らじゃもう何もできねえってことが一目で分かる。川と空を同じようなくすんだ色で塗って、遠くの岸だけをわずかに明るくしてあるのも上手えよ。救う奴を一人も描かずに、見る者には助かると思わせる。なかなか腕の立つ絵描きだよなぁ」
ラスバッハは絵の構図を思い返しているらしく、しばらく黙っていた。
「ただ、惜しいなぁ。あの絵は一番面白えところで終わってる」
「と申しますと?」
「舟が岸に着いてから、二人がどうなったのかは描かれてねえだろ。こいつらも、兄貴の方は聖人になったそうだが、弟の方はまだ眠ってやがる」
ラスバッハは再び睡眠槽を覗き込んだ。確認窓の向こうで、フロリアンは何も知らずに眠っていた。
「……面白え。あの絵の続き、いっちょ俺が完成させてやらぁ」
レームは書類を閉じた。
「教団の辺境司牧院から照会が来ております。兄君……マティアス殿も弟の行方を捜しているそうです。ここを突き止められれば、厄介なことになりますな」
「見つからなけりゃ、見つかるまでは平気だろぉ?そうだ、レーム。賭けをしようぜ。こいつを無理矢理起こしてみて、生きて目を覚ますか、それとも死ぬか」
「お断りします。医師はもう呼んでありますから、そちらで勝手にどうぞ」
「俺ぁ生きる方に賭けるぜ。まだ何も見せてもらってねえからなぁ」
レームは返事をしなかった。
ほどなく、ラスバッハのお抱えの医師が入ってきた。腕は確かだったが、借金で首が回らなくなり、返済をラスバッハに肩代わりしてもらっていた。
医師は冷凍睡眠槽の記録を調べ、難しい顔をした。
「……覚醒処置は可能です。ただ、二十数年も眠っていたのですから、仮に命が助かったとしても、記憶や感情の働きに重い障害が残る可能性が高い。どのような障害になるかは、実際に目覚めさせてみなければ分かりません」
ラスバッハは愉快そうに笑った。
「ますます面白え。おい、レーム。賭けの目が増えたぜぇ。生きるか死ぬかだけじゃねえ。生き残ったとして、記憶がなくなるか、感情がぶっ壊れてるか、だってよぉ。隊員たちにも賭けさせるかぁ」
「掛け金の集計も、負けた連中からの取り立ても、どうせ私の仕事になるのでしょう。これ以上、余計な仕事を増やさないでいただきたいものですな」
「つれねえなぁ、レーム。……さて、どんな仰天人間になって目ぇ覚ますかねぇ」
ラスバッハは残念そうに肩をすくめ、睡眠槽の中の青年をもう一度眺めてから、医師に向き直った。
「起こせ」
――「その名前は、もう使いたくありません」
次回、『フロリアン・フォン・エーレンフェルス、あるいは■■■■・■■■■■■■■(後編))』
【本文中の絵画について】
エヴァリスト=ヴィタル・ルミネ作 《ジュミエージュの腱を切られた者たち》
1880年/油彩・カンヴァス/ニューサウスウェールズ州立美術館所蔵(オーストラリア・シドニー) 画像出典:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)
本作で描かれているのは七世紀のフランク王国の王、クローヴィス二世をめぐる伝説である。
伝説によれば、父王に背いた二人の王子は脚の腱を焼かれ、身体の自由を奪われた。腱を切られたとする伝えもある。やがて両親は二人を哀れみ、処刑せず、櫂も舵もない舟に乗せてセーヌ川へ流した。
舟は川を下りジュミエージュの修道院の近くへたどり着いた。王子たちは修道士に救われ、手当てを受け、その後は修道院で信仰に生きたとされる。