【新帝国暦二十二年春 辺境の民間医療施設】
医師と技師が睡眠槽の制御を切り替えている間、ラスバッハは後ろの席で珍しく黙っていた。
神経反応の異常で一度中断された蘇生処置が再開され、やがてフロリアンのまぶたが開いた。
青年は周囲を見回し、傍らの男に尋ねた。
「……あなたは、誰ですか?」
「俺かぁ?お前の兄貴だぜぇ」
「違います。僕の兄上はマティアスです」
ラスバッハは笑い、青年自身の名と最後の記憶を尋ねた。フロリアンはエーレンフェルス家の名を正しく答え、父の書斎で兄とともに取り押さえられ、薬を打たれたことまで覚えていた。
「そうかぁ。お前、それから二十数年も寝てたんだぜぇ」
フロリアンは驚いたが、まず兄の安否を尋ねた。マティアスは生きており、今では『テラ・マーテル』という教団の聖職者になっているという。
「……兄上が、聖職者に?」
思いもよらない話だった。しかし、何よりも兄が生きていると分かり、フロリアンはほっと息をついた。
ラスバッハはその顔を眺め、急に愉快そうに笑い出した。
「そうだ。ひとつ芝居を打とうぜぇ!兄貴には『弟は死にました』って知らせて、でっかい葬式を出してやるんだ。でよぉ、兄貴が墓地に姿を見せたところで、棺桶を墓穴に下ろし始める。慌てて駆け寄ってきた兄貴の目の前で、お前が蓋を蹴破って飛び出すんだ。『兄上!埋めないでください!』ってなぁ!」
「……そんなこと、絶対にやめてください!」
「なんでだよぉ。兄貴は腰を抜かして喜ぶぜ。それに俺ぁ、仕事柄、葬儀屋には顔が利くんだ。段取りは任せとけよぉ!うまく教団に奇跡認定でもされりゃ、お前に小遣いも入るかもしれねえ」
「兄上は僕が死んだと思って悲しまれます。そんなひどいことをしないでください!」
ラスバッハはつまらなそうに口を曲げた。
「……なんだよぉ。記憶はあるし、人の気持ちもちゃんと分かる。普通じゃねえの?」
「閣下、もうよろしいでしょう。今回ばかりは善行をなさいましたな。では、まいりましょう」
レームに促されて立ち去りかけたラスバッハを、フロリアンが呼び止めた。
「あの……結局、あなたはどなたなんですか?」
「ヴィクトール・フォン・ラスバッハ。お前を起こしてやったのは俺なんだから、もう少し感謝してくれてもいいんだけどなぁ」
「……ありがとうございます」
「別に俺のことをお兄様って呼んでもいいんだぜぇ?」
フロリアンが首を振ると、ラスバッハはまた笑った。
***
フロリアンは歩けるようになってからも施設で検査を受け、空いた時間には配膳や荷運びを手伝った。記憶も判断力も正常で、職員からは礼儀正しい青年として親しまれていた。
最初に異変を覚えたのは、若い職員が荷箱の下に足を挟まれたときだった。フロリアンは駆け寄って箱を持ち上げ、医療担当者を呼んだが、職員の悲鳴を聞いた途端、次はどんな声を出すのだろうと期待している自分に気づいた。
数日後には、夫を亡くしたばかりの女性から話を聞きながら、もっと悲しませる言葉を告げたらどうなるだろうと考えてしまった。どちらの相手にも親切に接し、余計なことはしなかったが、夜になってもその考えが頭から離れなかった。
翌日、医師に相談すると、覚醒時の神経反応の異常によって感情や衝動に変化が生じた可能性を告げられた。ただし、回復の見通しは立たないという。
「元に戻るのでしょうか?」
「今の段階では、何とも申し上げられません。検査を続ける必要があります」
フロリアンは医師に、ラスバッハを呼んでほしいと頼んだ。
***
「おう、坊ちゃん。俺の顔が恋しくなったか?」
その日の夕方に現れたラスバッハへ、フロリアンは覚醒に伴う危険を知っていたのかと問い詰めた。ラスバッハはあっさり認めた。
「僕は……自分が恐ろしいんです。人が痛がっているのを見て、もっと見たいと思ってしまいました。悲しんでいる人にも、もっと悲しいことを言ったらどうなるだろうと……」
ラスバッハは目を輝かせ、椅子を引き寄せて、詳しい話を訊いた。
「おいおい、本当かよぉ!そりゃ面白え!で、何をした?」
「……何もしていません。助けました」
「もう一度痛がらせてみたりしなかったのか?」
「そんなことはしません!」
「そうかぁ。で、旦那が死んで泣いてた女の方には?『よかったじゃねえか、これで若え男と好きに寝られるぜ』とか言ってやったかぁ?」
「そんなことは言いません!」
「なんでだよぉ。泣くか、怒るか、ひっぱたいてくるか。見てみてえじゃねえか」
「……あなたは、本当に最低の人間ですね」
「褒めんなよぉ。まぁとにかく、お前もちゃんと人の心は分かるみてえだな」
「……分かっているのに、そうしたくなるんです。それが怖いと言っているんです!」
ラスバッハは声を立てて笑った。
目覚めた直後は普通の青年でがっかりしたが、これは面白くなってきたという。
「僕は、あなたにお礼を言いました」
「そうだったなぁ」
「撤回します」
「おう、返す返す」
フロリアンは、なぜ自分を起こしたのかと尋ねた。
「そりゃあお前、親父に捨てられたかわいそうな坊ちゃんを救って、二十何年も待ち続けた兄貴と、涙の再会をさせてやりたかったからに決まってるだろぉ」
ラスバッハはそこで堪えきれなくなったらしく、声を上げて笑い出した。
「……もう、あなたはここへ来ないでください」
「また何か変わったことがあったら、どんどん教えてくれよぉ。生活費も治療代も、俺が全部出してやる。金の心配なんざしなくていいぜぇ」
ラスバッハは立ち上がり、扉の前で振り返った。
「せっかく起こしたんだ。見届けてやるよ。全部な」
フロリアンが答えないまま、ラスバッハは上機嫌で部屋を出ていった。
***
その後、フロリアンの身体機能は順調に回復していった。
睡眠槽の保存機能によって筋肉や骨格の劣化はかなり抑えられていたが、覚醒直後は平衡感覚が不安定で、少し走っただけでも疲労が残った。
それでも回復は早く、三週間ほど経つと、医師は対人訓練を許可した。
「以前、武術の経験がおありですか?」
「はい。帝国士官学校で格闘術を学び、卒業後も短い間ですが、帝国軍の装甲擲弾兵部隊で訓練を重ねました」
「それなら、身体が慣れれば以前の技術も戻ってくるでしょう。ただし、無理は禁物ですよ」
対人訓練の相手を引き受けたのは、レームが連れてきたラスバッハ子飼いの部下たちだった。
ラスバッハの部下だと聞いてフロリアンは難色を示したが、レームに説得され、医師の監督下で身体機能回復のための訓練を始めることになった。
最初の組手では、フロリアンは何度も床に転がされた。相手の動きは読めるのに、身体がついてこない。
ところが、訓練を重ねるにつれて動作が滑らかになり、一週間後には最初の相手をあっさり投げ倒した。
そこからの回復は目覚ましかった。
相手の打撃を受け流して懐に入り、腕を制して投げる。
力の強い相手には重心を崩して対抗し、素早い相手には踏み込みの瞬間を捉えた。帝国軍で繰り返し叩き込まれた格闘術は、二十数年の眠りを経ても失われていなかったのである。
三週間もすると、レームの連れてきた隊員たちは、誰もフロリアンに勝てなくなっていた。
フロリアンの技は正確で、相手の体格や戦い方に応じて自在に変化した。
彼自身も身体の回復を実感しており、最近では組手の時間を楽しみにするようになっていた。
「いや、結構なお手並みですな。私も帝国軍には長くおりましたが、これほどの使い手は滅多に見ませんでした」
「ありがとうございます。皆さんのおかげです」
「礼には及びませんよ。こちらも勉強させてもらいましたからな」
そこへラスバッハが現れた。
「おう、坊ちゃん。うちの連中をみんな叩きのめしたんだって?見かけによらず、強えんだなぁ」
「……もう来ないでくださいとお願いしたはずです」
「そうだったっけなぁ。だが、面白そうな話を聞いたもんでよぉ。俺と一丁やってみるか? 俺ぁ、結構強えぜぇ」
フロリアンは迷ったが、これまでの相手では試せなかった技がいくつもあった。
それに、ラスバッハが組手を申し出た途端、部下たちが顔を見合わせ、自然に場所を空けたことも気になった。
「……組手だけでしたら」
ラスバッハが上着を脱ぐと、隊員たちは自然に壁際へ退いた。
フロリアンは腕を払って懐に入り、相手の肩を制しようとした。しかしラスバッハは身体をひねってかわし、続けて仕掛けた足払いも軽く外した。攻め方を変えても肝心なところで相手の重心がつかめない。ラスバッハは笑っていたが、動きにはほとんど無駄がなかった。
やがてラスバッハが、わずかに右肘を開いた。フロリアンは腕を取って投げに入ったが、相手は抵抗せず、踏み込んだ瞬間に身体を反転させた。気づいたときには床へ倒され、片腕を完全に制されていた。
「はい、おしまい」
「……参りました」
ラスバッハはすぐに手を離した。
「いやぁ、面白かったぜぇ。相当に腕が立つな、坊ちゃん」
フロリアンは、ラスバッハが右肘を開いたのはわざとだったのかと尋ねた。
「正解ぃ。お前、俺が隙を見せるたびにすぐ仕掛けてきただろぉ。だからわざと右肘を開けてやったんだ。案の定、お前は腕を取りに来た。あとは踏み込んだところをひっくり返してやっただけだ」
さらにラスバッハは、フロリアンが組手の途中で相手を傷つけそうになると攻撃を緩めていたことも指摘した。
「訓練ですから、当然でしょう」
「俺だってお前の腕を折るつもりはなかったぜぇ。ただよぉ、お前がそうするって分かってりゃ使い道がある。相手の腕も足も見るんだ。頭ん中だって使えるもんなら使わねえ手はねえじゃねえか」
フロリアンには言い返せなかった。ラスバッハは彼の顔を見て、また笑った。
「お前は優しいままでいいんだぜ、坊ちゃん。言っとくが、俺ぁ、お前に人を傷つけろなんて一言も言ってねえからな。お前が何を嫌がって、何を選ぶか。それはお前が自分の意思で選びな」
フロリアンは、この男の人間性を嫌悪していた。しかし、戦う技術ではまだ学ぶことがある。
「……閣下。もう一度、お願いできますか?」
「ははは!俺に二度と来るなって言ったのは誰だよぉ!」
「それと訓練は別です」
「いいねえ!俺のことが大嫌いなくせに、また戦いたくてたまらねえんだろ?『嫌だ』は『もっとやって』で、『もう一度』は『朝までお願い』ってかぁ!」
「……そういう話はしていません」
レームが医師の定めた運動時間を超えていると告げると、ラスバッハは残念そうに上着を受け取った。
「坊ちゃん、次はもう少し工夫して来いよぉ」
一人になったフロリアンは、最後に倒されたときの足の位置を確かめた。あの男はやはり嫌いだったが、次の組手が待ち遠しかった。
***
【同年初夏 辺境の民間医療施設】
フロリアンの睡眠槽が消えてから二か月近く、兄マティアスは捜索を続けていた。
教団の辺境司牧院へ届け出るだけでなく、かつて兄弟の救出に尽力したベーレントにも助けを求めていた。
ベーレントは修理業者と搬送記録を調べ、ようやくラスバッハが手配した民間医療施設へたどり着いた。
「……ベーレント大佐!」
「お久しぶりです、フロリアン様。ご無事で何よりでした。マティアス様から頼まれまして、ずいぶん探しました」
二十数年前とほとんど変わらない青年を前に、年を取ったベーレントは本人の記憶と容体を確かめ、医師からも説明を受けた。危険を伴う覚醒を無断で行ったラスバッハにも抗議した。
「おやおや、石頭のベーレントじゃねえか。何だよぉ、俺に用か?」
「……あなたがフロリアン様の睡眠槽を無断で搬出し、危険を承知で覚醒させたそうですね」
「そうだぜぇ。おかげで坊ちゃんは元気になったじゃねえか」
ラスバッハが笑っていても、ベーレントは相手にせず、フロリアンに兄マティアスの暮らす町の施療院へ移るよう勧めた。
「兄上には、僕が生きていると伝えてください。でも、僕はまだ兄上のところには帰れません」
「何を仰るのですか。お兄様がお待ちです。診察も続けられますし、必要なら別の施設も手配します」
「……目が覚めてから、僕は少しおかしくなってしまったんです。兄上には、こんな僕を見せたくない。治るまで、もう少しだけ時間をください。お願いです」
ベーレントはフロリアンを見つめた。
「それは、あなた自身の意思ですか。ラスバッハに、ここに留まるよう強いられているのではありませんか?」
「おいおい、人聞きの悪いこと言うなぁ、石頭サマよぉ」
ラスバッハが横から口を挟んだ。
「なあ、坊ちゃん。俺がお前の嫌がることを無理にやらせたことが、あったか?」
「……いいえ」
「『自分の意思』だよなぁ」
「……はい」
「ほらな。ぜぇーんぶ本人の意思だぜぇ、石頭サマよ」
ベーレントはラスバッハには答えず、フロリアンに向き直った。
「少し、二人だけで話をさせてもらえますか」
「なんだよぉ、俺は邪魔者か。まあいい、ゆっくりやってくれ。なんならベッド付きの別室も用意してやるぜぇ。鍵もかけといてやろうか?」
「必要ありません」
「そうかぁ?せっかく水入らずにしてやろうと思ったのによぉ」
ラスバッハは笑いながら部屋を出ていった。
ベーレントは改めてフロリアンの意思を確かめた。
ここに残ることを本当に望んでいるのか、ラスバッハから強制されているのではないのか、兄との再会を拒むのはラスバッハの指示ではないのか。
フロリアンの答えは変わらなかった。
***
【同日 テラ・マーテル教団施療院】
「……生きているのですか。本当に、フロリアンは生きているのですね」
ベーレントの報告を聞いたマティアスは、弟が歩けるほど回復していると知って、すぐ迎えに行きたいと願った。しかし本人が会うことを望んでいないと告げられ、困惑した。
「……私が何か、あの子に嫌われるようなことをしたのでしょうか」
「そうではありません。マティアス様に会いたいと仰っていました。ただ、今は時間が欲しいそうです」
やがて届いた音声通信には、二十数年前と変わらない弟の声が残されていた。
『兄上、僕です。生きています。ずっと心配をかけて、本当にごめんなさい。もう少しだけ待ってください。必ず連絡しますから』
マティアスは何度も聞き返した。
その日の夜、ベーレントを通じて、もう一度フロリアンから連絡があった。映像はつながず、音声だけだった。
最初は、互いの声が本当にそこにあることを確かめるような話ばかりだった。マティアスは二十数年分だけ年を取ったと笑い、フロリアンは兄の姿を想像できないと答えた。
しばらくして、マティアスが昔のことを口にした。
「フロリアン。領地にあった〈
その名を聞いた途端、フロリアンの脳裏に、伯爵家の領地に立っていた古い監視塔が浮かんだ。
屋根や梁にはいつも鴉が巣を作っていた。
そのため土地の者たちは、帝国公用語で〈鴉の巣〉を意味する〈ラーベンホルスト〉と呼んでいた。
父に叱られると、幼いフロリアンはよくそこへ逃げ込んだ。石造りの塔の上から暮れていく領地を眺めていると、やがて決まって石段を上がってくる足音がした。
マティアスだった。
『……覚えています。兄上が、いつも迎えに来てくださいました』
「お前は毎回同じところへ逃げたからな。探す必要もなかった」
フロリアンは小さく笑った。
二十数年も経ったのに、あの塔で兄を待っていた時間だけは、不思議なほど鮮明に残っていた。
少し間を置いて、マティアスが言った。
「……今度も同じだ。迎えに行く」
フロリアンはすぐには答えなかった。
兄に会いたかった。
だが、目覚めてから自分の中に生まれたものを、兄には見せたくなかった。
『……いいえ、兄上。今は、もう少しだけ待っていてください。お願いします』
そして、少しだけ声を明るくした。
『もう、自分の足で帰れます』
マティアスは、それ以上帰ってこいとは言わなかった。
「分かった。では、ずっと待っている。施療院はいつでもお前の家だ」
話を終える前に、マティアスはもう一つだけ昔のことを持ち出した。
林檎のシュトゥルーデルを覚えているか、と。
フロリアンは今度はすぐに答えた。
『もちろんです』
「帰ってきたら、また一緒に食べよう。今度は私が焼く」
『……兄上が作るんですか?』
「二十年もあれば、人間はいろいろできるようになるんだよ」
フロリアンは久しぶりに、声を立てて笑った。
***
【同年初夏 辺境の貨物港】
ラスバッハに荷の引取りへ誘われたフロリアンは、その日、初めて人を殺した。
取引相手が倉庫で待ち伏せしていたのである。貨物の陰からブラスターの光条が走り、護衛たちは応射した。フロリアンも渡されていたブラスターを構え、荷箱の陰へ身を伏せた。
最初は恐ろしかったが、射線を確かめるうちに、相手が次に顔を出す場所が予測できるようになった。男が姿を現す。撃つ。別の遮蔽物へ移る。帝国軍で叩き込まれた動作が自然に続き、フロリアンは敵が次に何をするのかを読むことに夢中になった。
ほどなくラスバッハの部下が退路を断ち、残った者たちも武器を捨てた。フロリアンはなお通路の奥を狙っていたが、射撃を止めるよう命じられ、ようやく戦闘が終わったと気づいた。
「……僕が撃った人は、死んだんですか」
「五人なぁ。全員お前がやったんだぜぇ」
「五人も……」
「大したもんだ。うちの古参でも、初めてで五人も殺った奴はそういねえぞぉ。怖くなかったか?」
「最初は怖かったです。でも、撃ち合っている間は、相手のことしか考えていませんでした」
フロリアンはしばらく黙った。
「……終わったとき、残念だったんです。もっと戦っていたかった」
「五人も殺しておいて、まだおかわりかぁ?はははっ!坊ちゃん、食い放題じゃねえんだぜぇ!」
「お願いです、閣下!どうか、面白がらないでください!」
「悪かったなぁ。けどよぉ、俺は荷の引取りに誘っただけだぜぇ。ま、護身用にブラスターは持たせたが。撃つのは、お前自身が決めたんだろ?」
「……はい」
ラスバッハは、もう護衛には誘わないと約束した。フロリアンは少し安堵したが、帰路では、自分の判断どおりに敵が現れた瞬間を何度も思い出していた。
***
フロリアンは荷受けの仕事に戻り、医師にも相談した。それでも貨物を数えているときや食事中に、倉庫での撃ち合いを思い出した。殺した相手の姿は恐ろしかったのに、もう一度あの場所へ戻りたいとも思っていた。
ある日、港の事務所へ書類を届けると、ラスバッハがレームと翌日の仕事を打ち合わせていた。
フロリアンが入ってきたのを見て、ラスバッハは一度だけそちらへ目をやった。
それから、わざとらしく声を張った。
「いやぁ、参ったなぁ!相手は旧同盟軍の陸戦隊上がりが二十人もいるんだとよぉ。しかも、どいつも殺し合いには慣れてるらしいぜぇ。こりゃあ、明日はずいぶん『食いで』がありそうだなぁ!」
レームは書類から顔を上げなかった。
「向こうが素直に荷を渡してくれればよいのですがな」
「そりゃ困るだろぉ。せっかく二十人もいるのによぉ」
ラスバッハはそう言って、またフロリアンの方をちらりと見た。
フロリアンは何も言わず、書類を机へ置いた。
そのまま出入口まで歩く。
足が止まった。
「……閣下。僕も、行けますか」
ラスバッハが、待ってましたとばかりに顔を上げた。
「んん?俺は誘ってねえぞぉ?」
「分かっています」
「自分が怖いんだろ?もうやめといたほうがいいぜぇ」
「……それでも、行きたいんです」
ラスバッハはしばらく青年を眺め、やがて声を上げて笑った。
「はははっ!そうこなくっちゃなぁ!いいかぁ、俺は来いなんて一言も言ってねえ。お前が
「はい、閣下。僕が決めました」
「じゃあ明日な。ただし、俺が止めろと言ったら止まれ。勝手に撃つんじゃねえぞ」
翌日の交渉も銃撃戦になった。相手は集団での戦闘に慣れており、遮蔽物を使って互いを援護したが、フロリアンは前回以上に落ち着いていた。飛び交う光条の中で相手の移動先を読み、何人も撃ち倒した。
戦闘が終わりかけたとき、逃げる敵を追おうとしたが、回線からラスバッハの声が響いた。
『追うな。持ち場を守れ』
フロリアンは足を止めた。
帰着後、ラスバッハが声をかけた。
「今回は、七人だなぁ。お前の殺した奴の人数だよぉ。いやあ、たいした腕だぜぇ」
フロリアンは嬉しかった。七人を殺したというのに、そのことよりラスバッハの称賛が胸に残った。嫌な気持ちにもなったが、また褒めてもらいたいと思ってしまった。
「けどなぁ、坊ちゃん。もう来んなよぉ。絶対に来んなよぉ。お前のために言ってやってるんだぜぇ」
数日後、次の仕事の集合時刻より早く、フロリアンは乗船口に来ていた。
***
【同年夏 辺境の貨物港】
武装護衛の仕事を重ねるうちに、フロリアンは初めて二人の部下を預けられた。
停泊中の貨物船から荷を引き取る任務だった。二人を船尾の昇降口と荷役用の扉に配置し、自分は中央の通路を受け持った。
ところが貨物室から武装した男が現れ、フロリアンに向けて発砲した。男が奥へ逃げると、フロリアンは後を追った。曲がり角の向こうから撃ち返してくる相手の動きを読み、次に姿を見せる瞬間を待つ。追い詰めるうちに、二人の部下へ連絡することも忘れていた。
ようやく撤収命令が届いて戻ると、無人になった中央通路から別の者たちが荷の一部を運び出していた。
帰着後、レームが尋ねた。
「あなたが追っている間、二人の隊員を誰が見ていたのですかな」
フロリアンは答えられなかった。
報告を聞いたラスバッハは、しばらく笑っていた。
「坊ちゃん、殺し合いは楽しかったかぁ?」
「……任務に失敗しました。申し訳ありません」
「そりゃそうだ」
ラスバッハは笑うのをやめた。
「いいかぁ、坊ちゃん。今日のお前の仕事は、預かった二人を使って、荷を持って帰ることだった。敵を追いかけて遊ぶことじゃねえ」
フロリアンは黙って聞いていた。
「それとな。部下を預かったら、そいつらが今どこにいて、何してて、ちゃんと帰ってこられるかまでがお前の仕事だ。強い奴が一人で全部やりゃいいってんなら、最初から部下なんざつけねえよ」
「……はい」
「失敗したからって、次から仕事を取り上げる気もねえ。そんなことしてたら、いつまで経ってもできるようにならねえだろ」
ラスバッハはレームに目を向けた。
「次も同じ二人をつけてやれ」
レームがわずかに眉を上げた。
「同じ二人を、ですか」
「当たり前だろぉ。坊ちゃんにも、あの二人にも、今日の失敗を次の仕事で取り返させるんだよ」
それからフロリアンへ向き直った。
「次は始める前に配置と連絡の順番を三人で決めろ。戦闘が始まっても、決めた時間になったら必ず互いの位置を確認しろ。敵を追いたくなったら、その前に部下へ一言訊け。お前がいなくなっても仕事が回るかってな」
「……承知しました」
「よし」
ラスバッハはまた笑った。
「失敗したこと自体はどうでもいい。二度同じ失敗したら、そのときは俺が笑ってやるよぉ」
次の任務では、フロリアンは部下の配置と連絡の手順を先に決め、荷が積み終わるまで持ち場を守った。ラスバッハからも褒められたが、一度も敵が現れなかったことを、フロリアンは少し残念に思った。
***
【同年初秋 辺境の貨物港・管理棟】
フロリアンが荷受けの仕事から戻ると、ラスバッハに呼び出された。
「おう、坊ちゃん。最近よく働いてるじゃねえかぁ。今日は特別手当をくれてやろうと思ってな」
「……何のことですか?」
「金じゃねえよ。現物支給だぜぇ」
ラスバッハは扉の外にいた老人の襟首をつかみ、部屋の中へ放り込んだ。
「何をする! 貴様、私を誰だと――」
老人は床に手をつき、憤然として顔を上げた。
「……父上?」
フロリアンは息を呑んだ。
フロリアンの父、ゲルハルト・フォン・エーレンフェルス伯爵だった。
伯爵はともに辺境に逃れた亡命貴族たちの資金と物資を着服し、その罪をある補給担当者になすりつけようとしていた。
かつてベーレントを陥れようとしたときと同じく、エーレンフェルス伯爵家の者に虚偽の証言をさせ、署名入りの告発状まで揃えていた。
だが、今回は相手が悪かった。補給担当者は、第一聖団の領袖であるグレーフェンベルク侯の縁者であり、侯自身も実務に明るかった。不正を見抜いた侯は穏便に返還を求めたが、伯爵は拒否し、そればかりかついには二十人ほどの旧臣を武装させて倉庫を襲わせた。
倉庫の警備を引き受けていたラスバッハは、彼らをまとめて捕らえたのである。
「ははは!親子の感動の再会ってやつだぜぇ!よかったなぁ、坊ちゃん。俺からの特別手当だ!」
ラスバッハは腰のブラスターを外し、卓上に音を立てて置いた。
「ま、積もる話もあるだろうからなぁ。明日には港の治安隊に引き渡す。今のうちに話しとけよぉ」
扉へ向かいかけて、ラスバッハは思い出したように振り返った。
「ああ、そうだ。こんなところにブラスターが置いてあるけどよぉ――使うなよぉ?絶対に、使うなよぉ?」
フロリアンは眉をひそめた。ラスバッハはにやりと笑った。
「危ねえからなぁ」
ラスバッハは扉の外の護衛二人に目配せして部屋を出ると、廊下の向かいにある監視室へ入り、レームとともにモニターの前に座った。
***
「……本当に、フロリアンなのか?」
「はい、父上」
「お前は、あの船で……。いや、まあ、生きておったのなら結構だ。それより、マティアスの奴はどうしようもない」
「……兄上が、どうかされたのですか?」
「あやつが辺境で坊主の真似事などをしておることは知っておる。私がここでゴールデンバウム王朝の復興のため、どれほど身を粉にして働いていると思う!父親の居所を知りながら、一度も顔を見せに来ぬのだぞ。まったく、出来損ないよ!」
監視室で、ラスバッハが膝を叩いた。
「これこれ! これだよぉ!帝国の門閥貴族ってのは、こうでなくっちゃなぁ!まだ、いるところにはいやがるんだよなぁ!」
ラスバッハは珍しい生き物でも眺めるように、モニターへ顔を近づけた。
「この爺さんさぁ、昔あのベーレントの石頭サマを陥れようとしたときも同じ手を使ったんだろぉ?人のせいにして、貴族の証人を揃えてよぉ。二十何年経っても進歩がねえなぁ!」
レームは何も言わず、モニターに目を向けていた。
画面の中では、ゲルハルトが息子に詰め寄っていた。
「ともかく、お前が生きていたのは好都合だ。あのラスバッハとかいう外道の無礼者のところで働いておるのだろう?すぐに私を解放させろ。エーレンフェルス家の者なら、父親に従え!」
「……その名前は、もう使いたくありません」
「何だと!」
フロリアンはしばらく父を見ていたが、やがて頭を下げた。
「僕には父上を釈放する権限がありません。明日、治安隊の方がいらっしゃるそうですから、そこで事情をお話しください」
「何だと!この私を見捨てるつもりか!」
「……失礼します、父上」
フロリアンは卓上のブラスターには触れず、扉へ向かった。
「待て、フロリアン!」
その声に、青年は足を止めた。
「……頼む。何とかしてくれ。グレーフェンベルクの奴が、この私をどうするか分からぬのだ」
フロリアンは振り返った。
「父上は……僕に助けてほしいのですか?」
「当たり前ではないか。お前ならラスバッハに話ができるのだろう?」
「……では、兄上のことを悪くおっしゃるのは、やめていただけますか」
「分かった。マティアスのことはもう言わぬ。だから頼む」
「ありがとうございます」
フロリアンは微笑んだ。父がこんなふうに自分の頼みを聞いてくれたのは、初めてかもしれなかった。
「それから、父上。もう一つだけ、伺ってもよろしいですか」
「何だ」
フロリアンは少し迷ってから、あの日のことを口にした。
「僕たちを冷凍睡眠に入れて、あの船で流した日のことです」
ゲルハルトの顔がわずかに強張った。
「……今さら、その話か」
「父上は、僕たちが二度と戻ってこなくても構わなかったのですね」
「お前たちが父に逆らったからであろう。殺さなかっただけでも、温情を示したと言える」
フロリアンは言い返さず、しばらく父を見ていた。
「あのとき父上は、もし誰かに拾われても、長い冷凍睡眠で廃人になっているだろうとおっしゃいました」
ゲルハルトは眉をひそめた。
「だから何だというのだ」
「父上が今でも、あれでよかったと思っておられるのか知りたいんです」
「何度言わせる。お前たちが家を捨てようとしたのだ。私は当主として――」
「僕は、父上を捨てるつもりはないと申し上げました」
部屋が静かになった。フロリアンは父を責め立てるような口調ではなく、ただ答えを求めるように尋ねた。
「父上。あの日のことを、少しでも後悔なさったことはありますか?」
ゲルハルトは怒鳴りかけたが、息子が黙って返事を待っているのを見ると、途中で声を抑えた。
明日には治安隊へ引き渡される。ここから出るには、目の前の息子にラスバッハを説得してもらうほかない。
「……まあ、あのときは私も少々やりすぎたかもしれぬ」
フロリアンの表情がわずかに動いた。
「やりすぎた、ですか」
「分かった。私が悪かった。それでよいだろう」
「僕たちを捨てたことが、ですか?」
ゲルハルトは苛立ったように息を吐いた。
「そうだ。私が悪かった。お前たちをあの船へ乗せたことも、迎えを出さなかったことも、すべて私が悪かった。それで満足か?」
フロリアンは、すぐには答えなかった。ずっと聞きたかった言葉だった。
父が自分たちを捨てたことを認め、間違っていたと言った。それだけで、長いあいだ胸の奥に残っていたものが、少し軽くなったような気がした。
「……ありがとうございます、父上」
ゲルハルトは息子の表情を見て、この話は終わったと思ったらしい。すぐに釈放の話へ戻り、ラスバッハに口を利いてくれれば、グレーフェンベルクにも自分から事情を説明すると早口で話し始めた。
フロリアンはその声を聞きながら、父が自分の言葉に耳を傾けてくれたことを考えていた。兄を悪く言わないと約束し、あの日のことまで謝ってくれた。欲しかったものは、もう手に入ったはずだった。
それなのに、父とのやり取りがこのまま終わってしまうことを、なぜか惜しいと思った。
もう一つ何かを言えば、父はどう答えるだろう。
さらに困らせたら、どんな顔をするのだろう。
そう考えたところで、フロリアンの視線が卓上のブラスターへ落ちた。
出ていく前のラスバッハの声が、頭の片隅に残っていた。
――使うなよぉ?絶対に、使うなよぉ?
フロリアンは机へ歩み寄り、ブラスターを持ち上げた。
***
監視室で、ラスバッハが笑うのをやめた。
「……へえ」
レームは回線を開いたまま、モニターに目を戻した。画面の中では、ゲルハルトが後ずさっていた。
「フロリアン……?何をするつもりだ。その銃を置け!」
「……父上」
「武器も持たぬ父親に銃を向けるのか!お前は帝国軍人だったのであろう!」
その通りだった。
フロリアンはブラスターを下ろしかけた。
ゲルハルトがほっとしたように息をついた。
フロリアンは、その顔を見ていた。
もう十分なはずだった。父は兄を悪く言わないと約束し、あの日のことも、少しは間違っていたと認めて謝罪してくれた。
それなのに、何か物足りない気がした。
フロリアンは再び銃口を上げた。
「……やめろ。フロリアン、頼む」
父の声が変わった。
「あのときのことは本当に悪かった。私が間違っておった!だから、その銃を下ろせ!」
フロリアンは父を見つめた。
「……本当に、そう思ってくださったのですか?」
「そうだ!何度言わせるつもりだ!」
ゲルハルトは壁際まで退き、息子の顔を窺った。
「なあ、フロリアン。昔のことはもう忘れよう。これからは親子でやり直せばよいではないか」
フロリアンは、胸が熱くなるのを感じた。ずっと聞きたかった言葉だった。あの日、父がこう言ってくれたなら、兄と二人でどれほど喜んだだろう。
「……ありがとうございます、父上」
ゲルハルトは安堵したように頷いた。
「うむ。分かればよい。さあ、その銃を……」
フロリアンは動かなかった。
父は途中で言葉を切り、息子の顔を窺った。次に何を言えばよいか、考えているようだった。
「フロリアン。お前は昔から優しい子だった。私の息子ではないか」
父の声は震えていた。
フロリアンは、その声を聞いていた。
「……父上」
「何だ。何でも言いなさい。もう怒らぬから」
ゲルハルトは、息子の返事を待った。
フロリアンはブラスターを握り直した。
父の顔から血の気が引いた。
「やめろ!フロリアン!私は、お前の父親なのだぞ!」
撃ったら父はどんな顔をするだろうかと、考えてしまった。
「頼む……助けてくれ、フロリアン……」
父の声は震えていた。フロリアンは、その顔から目を離せなかった。
引き金から指を離せば、それで終わる。父は謝ってくれた。ずっと聞きたかった言葉も聞くことができた。
それでも、もう少しだけ見たいと思った。
この人が次に何を言うのか。
自分が引き金を引いたとき、どんな顔をするのか。
フロリアンは、引き金を引いた。
ゲルハルトの身体が床へ崩れた。
「……父上?」
返事はもう、なかった。
***
しばらくして、監視室の扉が開いた。
ラスバッハは椅子に座ったまま、入ってきた青年を見た。
フロリアンは何も持っていなかった。
レームが席を立ったが、青年はその場に立ったまま、自分の両手を見ていた。
「……父上は、謝ってくださったんです」
ラスバッハから笑みが消えた。
「そうだったなぁ」
「ずっと、謝ってほしかったんです。兄上のことも、もう悪く言わないと約束してくださいました」
フロリアンは顔を上げた。
「親子でやり直そうとも、言ってくださったんです」
「聞いてたぜぇ」
「それなのに……」
言葉が続かなかった。
フロリアンは俯いた。
ラスバッハは何も言わなかった。
「……あんなふうに言わせたかったんじゃありません」
フロリアンはもう一度、自分の両手を見た。
「閣下。もう、僕を連れていかないでください」
ラスバッハは少しだけ間を置いた。
「分かったよぉ」
それ以上は何も言わなかった。
――「『キリアン』という人がいた。遠い昔の地球で、異国へ渡って教えを説いた殉教者だ。相手が権力者でも、言うべきことは曲げなかった。読んでいて、お前のことを思い出したよ」
次回、『キリアン・ラーベンホルスト』
【聖キリアンについて】
聖キリアンは、七世紀の地球においてアイルランドから大陸へ渡り、フランケン地方で布教したと伝えられる人物である。
伝承によれば、キリアンは当地の支配者ゴツベルトに対し、その婚姻が教えに反するものであると告げた。それは権力者にとって決して耳に心地よい言葉ではなかった。それでもキリアンは自らの言葉を曲げず、やがて同行していたコルマン、トトナンとともに命を奪われたと伝えられている。
後世、彼は〈フランケンの使徒〉として記憶され、殉教者として崇敬を受けることとなった。
それから二千年以上の時を経た銀河帝国にも、権力者である父に命じられながら、見ていないものを見たとは言わなかった兄弟がいた。
二十数年後、その兄は一人の旧い聖人の物語を読み、その名に弟を重ねた。
聖人の名を持ったからといって、その者が聖人になるわけではない。
しかし名前とは、ときに、その人間が後に何者となったかではなく、かつて誰かの目に映っていた、その残光をとどめるものなのかもしれない。
【聖キリアン像】
【挿絵表示】
ドイツ・ヴュルツブルク、アルテ・マイン橋の聖キリアン像。
司教冠を戴き、片手に剣を持つ〈フランケンの使徒〉の姿である。
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