【新帝国暦二十二年秋 辺境巡礼航路・定期客船】
巡礼者の一行は、老人と子供を含めて二十七人いた。
テラ・マーテル教団の施療院や礼拝所を巡りながら、辺境の星系を渡っていく巡礼である。裕福な者は少なく、長い船旅に慣れていない者も多かった。
フロリアンは乗船口の前で立ち止まっていた老婦人から荷物を受け取った。
「重いでしょう。僕が持ちますよ」
「でも、あなたも荷物があるでしょう?」
「いえ、僕の方は軽いですから」
老婦人は恐縮していたが、結局は荷物を預け、客室に着くまで何度も礼を言った。
席へ戻る途中には、母親に付き添われた少女が身体を丸めていた。顔色を見れば船酔いらしい。
フロリアンは乗員から水と濡らした布をもらい、横になれる空席があることまで聞いて戻った。
「しばらく休ませた方がいいと思います。向こうに横になれる場所があります」
母親は礼を言いながら少女を抱き上げた。
「あなたも巡礼の方?」
「はい。兄が教団の施療院で働いているんです。僕も、少し見ておきたいものがありまして」
船はその日の夕方に次の中継港へ着く予定だったが、出航から四時間ほど経ったころ、機関系統に異常が見つかったという放送が流れた。
速度を落とすため、予定していた乗継便には間に合わないという。
客室に不安が広がったのは当然だった。
辺境航路では、一便を逃せば次の船まで数日待つこともある。
一時間ほどして別の旅客船が接近すると、窓際にいた者たちから安堵の声が上がった。
白と淡い青に塗られた船体に、翼を広げた鳥の商標があった。
『アルカディア巡礼・旅客支援社』
その下には、会社の標語らしきフレーズが記されていた。
――誰一人残らず、目的地まで。
先ほどの老婦人が、ほっとしたように胸へ手を当てた。
「アルカディアなら安心だよ。昔、戦争から逃げるとき、この会社の船に助けてもらった人が大勢いたんだ」
ほかにも会社名を知る者はいた。
旧自由惑星同盟の末期、行政の輸送船さえ来ない辺境の奥地へ船を出し、避難民や負傷者を運んだことで知られた会社だという。現在も巡礼者や病人を対象にした輸送を請け負っているらしい。
フロリアンは窓越しにその船を眺めていたが、やがて何事もなかったように老婦人の荷物を持ち直した。
アルカディア社の乗員たちは、移乗してきたときにも丁寧だった。
故障船の乗客を先に収容すると説明し、老人と子供から順に新しい船へ案内した。
巡礼者たちは安堵してその指示に従い、フロリアンも一緒に船を移った。
***
航路が変わったことに最初に気づいたのは、窓際にいた少年だった。
「お母さん。星が反対へ動いてる」
母親は子供の勘違いだと思ったらしく、最初は笑っていた。
だが、それから間もなく客室の主照明が消え、赤みを帯びた非常灯が残った。
突然、扉が開いた。
先ほどまで旅客服を着て案内していた男たちが、今度はブラスターを手にして入ってくる。
「騒ぐな。荷物はそのまま置け。言うことを聞いてりゃ、痛い目には遭わねえ」
巡礼者たちは声も出せなかった。
少女の母親は娘を抱き寄せ、老婦人は震える手で祈りの印を結んでいる。
フロリアンは客室の端に立ったまま、男たちの配置を見ていた。出入口に二人、中央通路に三人、後方に一人。全員、制服の襟にはアルカディア社の社章をつけたままである。
男たちは乗客を一人ずつ立たせ、年齢と健康状態を端末へ入力し始めた。老人は後方へ、若い者は前方へ分けられていく。
一人が、先ほど船酔いしていた少女の腕をつかんだ。
「この子は病気なんです!」
母親がすがりつくと、男は鬱陶しそうに腕を振った。
「だから俺たちが診てやるんだよ」
その間へ、フロリアンが入った。
「待ってください。その子は船酔いをしています。無理に立たせたら吐いてしまいますよ」
男の目が鋭くなる。
「うるせえ、出しゃばるんじゃねえ。痛い目にあいてえのか」
「すみません」
フロリアンはすぐに頭を下げた。
逆らう様子を見せなかったためか、男は舌打ちしただけで少女を母親のところへ戻し、代わりにフロリアンを顎で示した。
「……俺と一緒に来い」
「はい」
素直に従いながら、客室を出る直前に振り返り、客室に向かって言った。
「心配しなくて大丈夫ですよ。ちゃんと話せばわかっていただけます。きっと何とかなりますから」
老婦人が祈るように頷いた。
***
フロリアンを連れていったのは三人だった。
先頭を歩く男の後ろに、大柄な男と細身の男が続いている。
三人は貨物区画の奥にある小部屋へフロリアンを押し込んだ。簡易寝台と洗面台があり、本来は乗客の身体検査か洗浄に使う場所らしい。
細身の男が天井を見上げた。
「切っとけ。記録が残る」
先頭の男が端末を操作すると、監視装置の表示灯が消えた。
大柄な男が笑った。
「またか。お前も好きだなぁ」
「お前は、あっちの方がよかったんだろ。心配すんな。次はそっちを手伝ってやる。……旅は長い」
先頭の男はフロリアンの顎をつかみ、左右から品定めするように眺めた。
「お前、ずいぶん綺麗な顔してるよな。上手く売れば高くつくぜ」
大柄な男も笑いながら寝台の端を叩いた。
「売る前に俺たちで味見だ。顔は傷つけんなよ」
フロリアンは顎を引き、三人から逃れるように一歩ずつ壁際へ下がった。
「……やめてください」
「怖がるなって。俺たちと少し遊ぶだけだ」
先頭の男が近づいてくる。
フロリアンは背中が壁へ触れたところで足を止め、しばらく三人の顔を見たあと、怯えた声を崩さないまま尋ねた。
「一つだけ、確認してもいいですか。あなたたちが、巡礼者を誘拐して売っている人たちなんですか?」
三人は顔を見合わせた。
最初に笑ったのは大柄な男だった。
「今さら気づいたのかよ。巡礼者だけじゃねえぞ。難民でも家出したガキでも、金になるなら何だって運ぶ」
先頭の男も面白がって口を挟んだ。
「商品になる前に、俺たちが『検品』することもある。客に不良品つかませるわけにはいかねえからなぁ」
そこまで聞いたところで、フロリアンは小さく息を吐いた。
「ああ。よかった」
先頭の男は、そこでようやく違和感に気づいた。
ついさっきまで怯えたように壁際へ下がっていた青年が、今は笑っている。口元だけではない。目まで楽しそうに細めていた。
男の笑いが止まり、代わりに訝しそうな顔になる。
「……何だぁ、お前。そういう趣味か?」
フロリアンは答えず、三人の顔を順に見た。
「もし違っていたら、どうしようかと思ってたんだよ」
声からも、怯えた調子は消えていた。
「遠慮しなくていいんだね。僕と一緒に楽しもうよ」
大柄な男が眉をひそめた瞬間、その身体が横へ流れた。
フロリアンは伸びてきた腕を取って懐へ入り、肘を逆へ折りながら体重を乗せた。巨体が壁へ激突し、息を吐き出しながら床へ崩れる。
何が起きたのか理解できないまま、先頭の男が腰のブラスターへ手を伸ばした。
それも遅かった。
フロリアンは大柄な男の身体が落ちる前にブラスターを抜き取り、先頭の男の脚を撃った。
男が絶叫して倒れると、その声を聞きながら楽しそうに目を細めた。
「いい声で鳴くね」
「この野郎……!」
男は脚を引きずりながら出口へ向かった。
フロリアンは追うでもなく、その背中を見ていた。
「待ってよ。さっきまで、あんなに楽しそうだったじゃないか。まだお楽しみは始まってもいないよ」
その声で、細身の男だけが動きを止めた。
彼は二人を助ける代わりに、壁際の非常通報器へ手を伸ばしていた。
フロリアンもそれに気づいたが、止めなかった。むしろ楽しそうに男の手元を見た。
「へえ。君は少しだけ頭がいいんだね。いいよ。押させてあげる」
男が通報器を押す。
警報が鳴り、通路の向こうから複数の足音が近づいてきた。
フロリアンの笑みが深くなった。
「ほら。いっぱい来た!」
扉が開いた直後、ブラスター音が続いた。
一人目が倒れ、二人目が扉の陰へ隠れ、三人目が通路を逃げる。フロリアンは相手が応射してくるたびに笑い、逃げる男を追って部屋を飛び出した。
「わざわざ来たんだろ?もっと遊んでいきなよ」
細身の男は壁際から動けず、その笑い声とブラスター音が徐々に遠ざかり、やがてまた近づいてくるのを聞いていた。
戻ってきたフロリアンの頬には、細い血の跡が一本ついていた。
男が震えながら通路の方を見ると、フロリアンはその視線に気づいて笑った。
「安心しなよ。何人か、口の軽そうな人は生かしてあるから」
少し考えるように間を置いた。
「『保険』は必要だからね」
細身の男は何も答えなかった。
フロリアンは笑った。
「さて、始めようか。次は『正直者ゲーム』だよ」
男の顔を覗き込む。
「僕が聞いたことに、正直に答えるだけ。簡単だろ?」
***
細身の男は、自分はただの乗員であり、上の人間については何も知らないと言い張った。
フロリアンは怒りもしなかった。洗面台の横にあった椅子を運んで男の正面へ置き、腰を下ろそうとしたところで、胸元の名札に目を留めた。
「……君、ドルフっていうんだ」
男が黙ったままフロリアンを見る。
フロリアンはにこりと笑った。
「よろしくね、ドルフさん。短い付き合いになるかもしれないけど」
ドルフの顔から血の気が引いた。
「じゃあ、まず簡単なことから訊こうか。僕たちを、次はどこへ運ぶ予定だったの?」
「……知らねえ。俺は言われたことをやってただけだ」
フロリアンは何事もなかったように椅子へ腰を下ろし、奪ったブラスターを膝の上へ置いた。
「でもドルフさんさぁ、次の移送予定を端末で見ていたでしょう。僕たちを客室で分けていたときも、何度も端末を確認していたよね?」
ドルフは答えなかった。フロリアンは微笑んだ。
「じゃあ、ゆっくり思い出そうか。大丈夫。時間はいっぱいある。……旅は長いからね」
*
ドルフが最初に口にしたのは、次の中継港だった。
そこから先は、一つ答えるたびに時間がかかった。
直接指示を受けている〈船頭〉の名、使用する船の船籍番号、暗号回線、次の取引時刻。
フロリアンは答えを端末へ記録し、まだ何か隠していると思えば、また最初から同じ質問をした。
やがてドルフは、捕らえた人間を分ける倉庫の場所を話した。
少し前まで「知らない」と言い張っていた武装部門の責任者についても、自分から名前を出した。
はじめのうちは、一つ答えるたびに口を閉ざしていた。
そのたびに、しばらく会話が途切れた。
再び声が聞こえるころには、ドルフの返事は少しずつ早くなっていた。
「それだけ?」
フロリアンが尋ねると、男は慌てて別の情報を探した。
もう質問されていないことまで話し始める。
どの船がよく使われるか、〈船頭〉がどの時間帯に通信を入れるか、どの倉庫なら警備が薄いか。
自分が知っていることを頭の中から必死に掘り出し、それを差し出せば次は何も起こらないのではないかと期待しているようだった。
「ほかには?」
フロリアンが訊く。
ドルフは慌てて首を振った。
その手に残っている指は、もう一本と一関節分しかなかった。
「もうない。本当にない。俺が知ってるのはそこまでだ。〈船主〉の顔だって知らねえし、上からの命令は全部〈船頭〉を通して来る。だから、これ以上は本当に……」
「うん」
フロリアンは端末へ目を落とした。これまで聞いた内容に大きな矛盾はなく、途中で口にした暗号列も船内端末に残っている形式と一致している。
必要なことは、もう十分に聞けていた。
「ありがとう、ドルフさん。とても助かったよ」
その言葉を聞いた瞬間、ドルフの顔に安堵が広がった。
「じゃあ……もういいんだな?」
フロリアンは顔を上げた。
「何が?」
「全部言っただろ。お前が聞いたことは全部答えた。だから、もう――」
フロリアンはしばらく男の顔を見ていた。
感謝しているのは本当だった。ドルフが話さなければ、ラスバッハたちが次の拠点へたどり着くまで、もう少し時間がかかっただろう。
「もう君に訊きたいことはないよ」
ドルフは一瞬、その言葉を理解できなかったらしい。やがて顔色が変わった。
「だったら、終わりだろ」
「尋問はね」
フロリアンは笑った。
「仕事はここまで。次は、世間話でもしようか」
そこから先、フロリアンが欲しがったのは情報ではなかった。
ドルフは最初、助けてくれと繰り返した。
それで通じないと分かると金を出すと言い、次には自分はたいしたことをしていない、命令されただけだ、誰も殺していない、家族がいる、と理由を変えながら、自分を生かすための言葉を探し続けた。
フロリアンは、その一つ一つを聞いていた。
一つの言葉が通じないと知ったとき、人は次に何を選ぶのか。何を差し出せば相手が止まると考えるのか。
やがてドルフは理屈をつけることさえやめ、ただ、もう死なせてくれ、殺してくれ、と懇願するようになった。
フロリアンが部屋を出るころには、その声も聞こえなくなっていた。
***
巡礼者たちのところへ戻る前に、フロリアンは『保険』を処分し、洗面台へ向かった。
手を洗うと、水がしばらく色を変えた。頬にも細い血の跡が残っていたため、濡らした布で丁寧に拭き取る。巡礼服の袖は汚れていたので、収納棚に残っていたアルカディア社の外套を上から羽織った。
鏡の前で髪を整える。
先ほどまでのことを思い出しても、手は震えなかった。
むしろ気分はよかった。
首元の巡礼用装身具へ指を触れると、内部に仕込まれた装置から短い振動が返ってきた。ラスバッハ側にも合図は届いている。
フロリアンは鏡の中の自分を確認してから、客室へ戻った。
扉が開くと、それまで身を寄せ合っていた巡礼者たちが一斉に顔を上げた。
「お待たせしました」
老婦人が真っ先に立ち上がった。
「まあ……大丈夫だったの?」
「はい。大丈夫ですよ」
少女を抱いていた母親も、まだ不安そうに周囲を見ていた。
「あの人たちは……?」
フロリアンは、皆を安心させるように笑った。
「ええ。よーく話し合ったら、皆さんを解放してくださることになりました。もう心配ありませんよ」
すぐには誰も信じられなかったらしい。何人かが本当なのかと尋ね、老婦人は胸元で祈りの印を結んだ。
そのとき、客室の外で短いブラスター音が聞こえた。
全員が身をすくめたが、フロリアンだけは扉の方へ顔を向けた。
「迎えが来ましたよ」
ほどなくしてラスバッハの手勢が船内へ入り、残っていたアルカディア社の乗員を制圧しながら、巡礼者を救援艇へ誘導し始めた。
先ほどまで押し殺していた声が、今度は泣き声と安堵の声に変わっていく。
老婦人は乗船口へ向かう前にフロリアンの両手を握った。
「あなたのおかげよ。本当に、本当にありがとう。あの人たちと話をつけてくれたんだろう?」
「僕は、少しお話をしただけです」
「それでもだよ。あなたがいてくれなかったら、どうなっていたか」
周囲の巡礼者からも次々と礼を言われた。
最後には、船酔いしていた少女まで母親の腕の中から小さな手を振った。
「お兄ちゃん、ありがとう」
フロリアンは少女を見て笑った。
「どういたしまして。もう船酔いは大丈夫?」
その嬉しさは演技ではなかった。
自分がこの船にいたから、この少女も老婦人も、ほかの巡礼者たちも売られずに済んだ。
それは、よいことだった。
フロリアンは最後の一人が救援艇へ移るまで乗船口に立ち、全員が無事に船を離れていくのを見届けた。
***
巡礼者たちがいなくなったあと、ラスバッハとレームが貨物区画へ入ってきた。
フロリアンは二人を例の小部屋まで案内した。
扉の前まで来ると、ラスバッハが中を覗き、そのまましばらく黙った。設備は壊れ、壁にはブラスターの跡も残っている。床にも、先ほどまでここで何が行われていたのかを想像するには十分な痕跡が残っていた。
レームも室内を一度見回したが、何も言わなかった。
ラスバッハがようやくフロリアンへ顔を向けた。
「……坊ちゃん。あの、床に転がってるフリカッセみてえなのは何だ?」
「ああ。ドルフさんですよ」
フロリアンは何でもないことのように答えた。
「次の中継地も、使っている船も、暗号回線も、直接指示を出していた人のことも教えてくれましたよ。フリカッセになる前にね」
ラスバッハはもう一度、室内を見た。
「……ずいぶんお喋りしたんだなぁ」
「はい。最後の方は、訊いていないことまでたくさん話してくれました。家族構成とか、子供のころのこととか、これまでどこでどういう悪事をしてきたのかとか」
フロリアンは少し考えてから、満足そうに付け加えた。
「たぶん、生まれてから今日までの人生は、だいたい全部知りました」
レームが室内を見たまま言った。
「短いわりには、ずいぶん太いお付き合いでしたな」
「ええ。かなり仲良くなれたと思いますよ」
ラスバッハは一瞬黙り、それから額を押さえた。
「人の
それでも最後には、少し楽しそうに笑った。
「だが、これだから人間ってのはおもしれえ」
***
【同日夜 辺境交易港・ラスバッハ隊仮事務所】
アルカディア社の船から持ち出された記録端末は、事務所の机を半分ほど占領していた。
ドルフから聞き出された暗号列を使って、一台ずつ内部の記録を確認していった。
そこには人数、年齢、健康状態、それに短い記号が並んでいた。
レームが今日の巡礼団と照合すると、老人五名、成人十四名、未成年八名で、合計二十七名。実際の人数と一致した。その横についた符号の一部は、移送先か、あらかじめ提示された買い手側の条件らしい。
ラスバッハは椅子を後ろへ傾けたまま画面を眺め、小さく口笛を吹いた。
「注文まで取ってんのかぁ」
レームによれば、一部は先に引渡先を決め、条件に合う人間を確保しているらしい。
残りは船へ乗せてから値をつける。行き当たりばったりに人をさらい、後から売り先を探している集団ではなかった。
フロリアンも少し離れたところから画面を見ていた。
客室で水を渡した少女の年齢も記録されていた。その横には何か符号があったが、意味を訊く気にはならなかった。
レームはさらにドルフの供述を重ね、次の中継地がリュセル港第三貨物区画であること、そこで捕らえた者を二手に分け、一方は別の貨物船へ、もう一方は地上施設へ送る予定だったことまで確認した。
ただし、ドルフが知っていたのはそこまでだった。
直接命令を受けていた〈船頭〉の名、次回の移送時刻、使用する船と暗号回線。
現場で必要になる情報は持たされているが、そのさらに上に誰がいるのか、組織全体がどうつながっているのかまでは知らされていなかった。
その作りを聞いたラスバッハは、むしろ感心したようだった。
「へぇ。辺境の連中にしちゃ、意外とちゃんとしてんなぁ。末端一人つかまえて、頭まで全部割れるようじゃ長く商売できねえ。現場には本当に必要最低限の分だけしか渡してねえ」
端末を指先で軽く叩きながら、楽しそうに続ける。
「悪いことするだけなら馬鹿でもできる。難しいのは、悪事を長く続けることだからなぁ」
レームは返事をせず、別の記録を開いた。
ドルフの供述と内部通信を照合していくうちに、同じ言葉が何度も現れていた。
〈渡し守〉。
正式な会社名ではない。アルカディア社の内部でも、人を集め、別の港へ送り、引渡先まで運ぶ仕事に関わる者たちが使っている呼び名らしかった。現場を取りまとめる者を〈船頭〉と呼び、その上に〈船主〉と呼ばれる人物がいることも、ドルフの話から分かっている。
ラスバッハはその呼び名を聞くと、妙に嬉しそうに笑った。
「〈渡し守〉ねぇ。田舎の人さらいにしちゃ、ずいぶん小洒落た名前つけてやがる」
その後は、表向きの会社を調べることになった。
『アルカディア巡礼・旅客支援社』は四十年以上前、旧自由惑星同盟領の辺境で旅客輸送を行う会社として設立されていた。
帝国との戦争や政情不安で公共交通が止まった地域へ救援船を出し、行政から避難民輸送を委託された記録も多い。
辺境では現在でも会社名を知る者が少なくなく、今日の巡礼者たちが抵抗なく船へ移ったのも、その信用が残っていたからだった。
現在の代表者として登録されているのは、『サイラス・ヴァルガ』という男であった。
五十代半ば。犯罪歴はなく、会社登記だけを見れば、長年辺境輸送に携わってきた実業家にすぎない。
レームが記録をさらに二十年以上遡ると、一件の旧いニュース記事が見つかった。
戦火の中、閉鎖直前の港へアルカディア社の船が入り、最後まで残っていた避難民を運び出したという記事だった。乗船口では三十歳前後の若い男が、救助された子供を抱いている。
記事に記された名前も、サイラス・ヴァルガ。
現在の肖像写真と並べてみれば、時間を隔てていても同一人物だと分かる。
ラスバッハは二枚の画像をしばらく見比べた。
「へえ。『人助け屋』から『人さらい屋』に業種変更かぁ」
帝国との戦争の末期、旧自由惑星同盟の行政機構が崩れていくにつれて、正規の輸送契約は減っていった。
旧同盟政府消滅後の記録には、密航の斡旋や偽造身分証、債務者の違法就労仲介に関する疑いが現れ、さらに数年たつと、人間を商品として別の業者へ渡した形跡が増えていく。
輸送会社がある日突然、人身売買組織へ変わったわけではない。
人を運ぶ技術も、航路も、倉庫も、港との人脈もそのまま残り、運ぶ理由だけが少しずつ変わっていった。
そして会社の標語も変わっていなかった。
――誰一人残らず、目的地まで。
ラスバッハは旧い記事と現在の売買台帳を交互に見ながら、口元を歪めた。
「善人だった頃に作った船も、倉庫も、看板も、信用まで全部そのまま使ってんのか。いいねぇ。……標語も傑作だなぁ」
フロリアンは思わず笑った。
「閣下が言うと、ずいぶん説得力がありますね」
ラスバッハは横目で青年を見たが、言い返す前にレームが次の資料を表示した。
過去数年間の運航記録と、周辺星系で届け出られた失踪者の記録である。
アルカディア社の船が寄港した地域と、その前後に人が消えている場所には、偶然として片づけにくい重なりがあった。
部屋がしばらく静かになったところで、事務所の扉が叩かれた。
入ってきたのは、灰色の長衣を着た教団の辺境司牧院の事務職員だった。今日救出された巡礼者二十七名が全員無事に保護されたことを報告すると、フロリアンにも深く頭を下げた。
「あなたが信徒の皆さんを人身売買業者から助けてくださった方だと伺いました。ありがとうございました」
フロリアンは少し困ったように笑った。
「……いえ、僕は、少し
事情を知っているラスバッハが横を向き、レームは何も言わなかった。
職員はそのやり取りの意味には気づかず、持ってきた端末を机へ置いた。
表示されたのは人名の一覧だった。
今日の事件を受けて、辺境司牧院に残っていた過去の失踪記録を改めて洗い直したのだという。
全員がアルカディア社に関係している証拠はないが、最後に同社の船を見た者、同社が使う港や倉庫の周辺で消息を絶った者が何人か見つかった。
教国が建国される前であるこの時期の教団には、複数の星系に散った事件を一括して強制捜査するような権限はない。
教団から帝国の総督府へ照会しても、星系をまたいだ照合や軍の出動までは行われていなかった。
職員は、画面の下まで続く名前を見た。
「まだ生きている方もいるかもしれません」
それから端末をレームの方へ押した。
「どうか、一人でも多く助けていただきたいのです。もちろん、報酬はお支払いいたします」
そこで少し言葉を切った。
「……これはお金だけの問題ではないことも承知しています。今日の船だけを見ても、相手はただの犯罪組織とは思えないほど武装していました。拠点となれば、さらに大きな戦力があるかもしれません」
職員はラスバッハとレームを順に見た。
「皆さんに、多大な危険を負っていただくことになります。そのうえでお願いしていることは、私たちも理解しています」
それでも、と頭を深く下げて続けた。
「どうか、お願いします」
ラスバッハは答えず、並んだ名前と、二十数年前に子供を抱いていたヴァルガの写真を見比べた。
やがて椅子から身体を起こす。
「こりゃあ、思ってたよりでけえ商売みてえだなぁ」
名簿をもう一度眺めてから、両手を打った。
「よっしゃ。いっちょ人助けするかぁ。俺ぁな、人を金で売ったり買ったりする商売は嫌いなんだよ」
フロリアンは思わずラスバッハを見た。
この男にも、嫌いな悪事があるらしい。
レームが端末から顔を上げた。
「まあ、閣下は別の目的で人さらいをなさいますがな」
「……ありゃ、ちゃんと目的があってやってんだよぉ」
「さらわれた側には、あまり違いはないと思いますが」
「細けえなぁ、お前は」
***
【数日後 辺境交易港 テラ・マーテル教団施療院】
レームが〈渡し守〉の網を追っているあいだ、フロリアンは定期検査を受けながら施療院の雑用を手伝っていた。
ある昼、診察室を出ると、待合室にベーレントがいた。
「お久しぶりです、フロリアン様。お加減はいかがですか」
身体にはほとんど問題がなく、神経の治療だけ続けていると答えると、ベーレントは安心したように頷いた。それから少し間を置き、兄のマティアスが今朝この施設へ着いたと告げた。
兄が自分の状態をよく知ってから来たことも、ベーレントから聞いた。
父を撃ったことはもちろん、目覚めてから他人の苦痛や恐怖に強い関心を示すようになり、その傾向が最近ではむしろ強くなっていることまで、マティアスは承知しているという。
フロリアンは一瞬、兄と会うのを断ろうとした。
兄には、こんな自分を見せたくない。その気持ちはまだ残っていた。
それでも、ここで逃げれば、いつまで経っても会えないような気がした。
しばらく黙ったあと、フロリアンは小さく頷いた。
「……わかりました。兄上に会います」
意を決して立ち上がり、ベーレントの案内で応接室へ向かった。
***
マティアスは窓際に立っていた。
髪には白いものが混じり、目尻にも細かな皺が増えている。それでも、弟を見るときにわずかに首を傾ける癖は昔と変わっていなかった。
「フロリアン」
名を呼ばれた次の瞬間には抱きしめられていた。
肩へ回された腕は強く、そのくせ少し震えていた。
「よかった。本当に生きていたんだな……よかった」
フロリアンも兄の背へ腕を回した。
自分にはほとんど流れなかった二十数年を、この人は全部生きながら待っていたのだと思うと、胸の奥が温かくなった。そういう感情は残っていた。
席につくと、マティアスは持ってきた包みを開いた。
中に入っていたのは、昔、兄弟が子供のころに屋敷でよく食べた林檎のシュトゥルーデルだった。マティアスは記憶に残る味だけを頼りに、何度も焼いて近づけたという。
「これ、本当に兄上が作ったんですか?」
「失礼だな。二十年もあれば、人間はいろいろできるようになるんだよ」
一口食べたフロリアンは、しばらく考えてから首を傾げた。
「昔、屋敷で食べてたものの方が、少し上でしたね」
「二十年でも足りなかったか」
「あと二十年くらい練習したら、追いつくかもしれません」
マティアスが呆れた顔をし、二人で笑った。
その普通の会話が落ち着いたころ、フロリアンは父のことを話した。
武器を持っていなかった父を、自分が撃ったこと。
父は最後には二人を船へ乗せたことを謝り、マティアスを悪く言わないと約束し、親子でやり直そうとまで言ってくれたこと。
それはずっと欲しかった言葉だったのに、フロリアンは父が次に何を言うのか、自分が銃を向けたときどんな顔をするのかをもう少し見たいと思い、そのまま引き金を引いたこと。
マティアスは途中で口を挟まず最後まで聞き、弟を責める代わりに、これからの話をした。
「……フロリアン。私と一緒に、辺境で暮らさないか?静かなところを探せばいい。治療を続けながら、施療院でも教団でも、お前にできる仕事はいくらでもある」
「兄上と一緒に、ですか?」
「ああ。父上を撃ったことは、人のために働いて償えばいい。教団への勤労奉仕という形なら、私からも話を通せる」
マティアスは少し言葉を切った。
「ラスバッハやグレーフェンベルク侯が、何をどう動いたのかまでは私には分からない。ただ、お前が父上の件で官憲から訴追されないことになったのは知っている。ベーレント大佐……いや、聖将から訊いた」
それから、ごく普通のことを言うように続けた。
「お前の身元引受人には私がなる」
フロリアンは思わず笑った。
「『ベネディクトゥス大司祭』が、ですか」
マティアスの顔がすぐに曇った。
「その呼び方はやめなさい」
「でも、本当にそうなったんでしょう?列聖までされて。すごいなぁ」
「私が頼んだわけではない」
「聖人サマ」
「ラスバッハの真似までしなくていい」
フロリアンは声を立てて笑った。
兄も困ったように笑っている。
だが、その顔を見ているうちに、ふと別の考えが浮かんだ。
――兄上を殺したら、どんな顔をするんだろう。
あまりに自然に浮かんだので、最初は自分でも何を考えたのか分からなかった。
目の前にいる兄へブラスターを向けたら、驚くだろうか。怒るだろうか。それとも最後まで自分を弟として見てくれるのだろうか。
父のときに感じたものとよく似た興味が、胸の奥で動いた。
兄を失いたくない。
一緒に暮らしたい。
そう思っているのに、それとは別に、この人を殺そうとしたら何を言うのか見てみたいという気持ちも消えなかった。
フロリアンは、しばらくマティアスの顔を見ていた。
「どうした?」
「……何でもないです」
その答えも嘘ではなかった。ただ、そんなことを考えてしまった自分に、以前ほど驚いてもいなかった。
***
話はやがて、昔の領地へ移った。
父に叱られるたび、幼いフロリアンは領地にある旧い監視塔へ逃げ込んだ。
屋根や梁に鴉が巣を作るため、土地の者たちは〈鴉の巣〉を意味する〈ラーベンホルスト〉と呼んでいた場所だった。
「兄上は、毎回迎えに来てくださいましたね」
「お前が毎回同じところへ逃げるからだ。探す必要もなかった」
マティアスは残っていたシュトゥルーデルを弟の皿へ移した。
「今度も同じだ」
弟をまっすぐ見る。
「もう一度言う。私と一緒に、辺境で穏やかに暮らそう。お前には帰る場所がある」
フロリアンは頷いた。
兄と暮らしたいと思った。
その気持ちは本物だった。
***
マティアスはそのまま数日間、施療院に滞在した。
フロリアンも食事や寝具を運び、患者の車椅子を押した。
ブラスターを持たず、兄と同じ場所で働き、一日の終わりには一緒に食事をする。穏やかな暮らしは退屈どころか、思っていた以上に心地よかった。
ある夕方、食堂でマティアスが旧い地球の聖人伝を読んでいた。
「兄上、また聖人の本ですか?」
マティアスが顔を上げた。
「また、というほど読んでいるかな」
「『ベネディクトゥス大司祭』になっても、先輩たちの研究が必要なんですね」
「だから、その呼び方はやめなさい」
フロリアンは笑いながら端末を覗き込んだ。
「今度は誰ですか?」
「『キリアン』という人がいた。遠い昔の地球で、異国へ渡って教えを説いた殉教者だ。相手が権力者でも、言うべきことは曲げなかった。読んでいて、お前のことを思い出したよ」
「……僕が聖人と一緒だというんですか?」
「そういう意味じゃないよ」
マティアスが思い出したのは、かつて父がベーレントを陥れようとしたときのことだった。
父は兄弟に、見てもいないことを見たと言えと命じた。
マティアスは迷った。父に逆らえば厄介な事になるのは分かっていたし、それが家のためだと言われれば、黙って従うべきなのではないかとも考えた。
だが、フロリアンは違った。
そんなことは言えない。見ていないものを見たことにはできない、無実の人を陥れるなんてできない、と父を前にして最後まで譲らなかった。
「……でも、最後には兄上も父上に従わなかったでしょう」
「ああ。だが、先に言ったのはお前だ」
マティアスは少し笑った。
「私は、お前があそこまで言うのを聞いて、ようやく腹を決められたんだよ」
フロリアンは意外そうに兄を見た。
「そうなんですか?」
「そうだよ。お前は昔から、妙なところで頑固だった」
二人は笑った。マティアスは端末を閉じ、それから少しだけ真面目な顔になった。
「聖キリアンが本当はどんな人だったのか、二千年以上も昔のことだから私には分からない。ただ、権力を持った相手から言えと言われても、自分が正しくないと思うことを言わなかったという話を読んでいたら、あのときのお前を思い出した」
少し間を置いた。
「今のお前が昔と同じだとは言わない。でも、昔のお前がいなくなったとも、私は思わない」
フロリアンは返事をしなかった。
***
翌日、〈渡し守〉の中継拠点から本拠地へつながる船と通信記録が見つかり、ラスバッハたちが今夜にも港を出ると聞いた。
フロリアンは施療院の仕事へ戻ったが、午後には出港時刻のことばかり考えていた。
二十年も組織を維持してきたのなら、武装部門にも巡礼船の男たちとは違う相手がいるはずだった。どれほど強いのか、どんなふうに撃ち返してくるのかと考え始めると、薬品箱を運んでいても意識がそちらへ戻った。
夕方、ラスバッハの事務所へ行くと、すでに航路図と船の配置が広げられていた。
「次の仕事、僕も行きます」
ラスバッハは、自分から誘っていないことを念押しした。
「別に来なくてもいいぜぇ。兄貴のところへ帰れるんだろぉ?」
「兄と暮らしたい気持ちは、あります。でもそれ以上に、今は戦いたいんです」
巡礼者を救いたい気持ちも本物だったが、それだけなら自分が行く必要はない。自分は自分のために行きたいのだと言った。
ラスバッハはしばらく顔を見たあと、小さく笑った。
「……そっかぁ」
***
【同日夜 辺境航路・アルカディア社外縁中継拠点】
〈渡し守〉の本拠地は、正規貨物も扱う現役の中継港だった。
定期船が入り、倉庫では一般貨物の積み替えも続いている。
その物流網の一部だけが、長い時間をかけて人身売買の経路へ組み替えられていた。
ラスバッハは正面から兵を入れず、ドルフの供述を起点に、次の中継地、そこを管理する〈船頭〉、さらにその上につながる船や倉庫へと、一段ずつ辿っていった。
押収端末の通信記録に船籍や契約先を重ねるうち、ようやく複数の関連拠点が浮かび上がってきた。
レームはそれらへ同時に監視をつけた。
どこか一つでも異変を察して動けば、証拠や資金、人員を逃がそうとする反応そのものから、さらに上の指揮系統を拾える。
最初に動いたのは船だった。
予定にない出港申請が入り、その直後には別会社名義の倉庫から大量の記録媒体が運び出された。
さらに別系統の決済記録で資金が動き始めると、レームは車両、名義人、取引先を重ね、最後まで伏せられていた逃走用の船まで割り出した。
ラスバッハは航路図を眺めながら笑った。
「ヴァルガの野郎、逃げ道を何本も作ってやがる。なかなかしっかりした悪党じゃねえかぁ」
「褒めながら、全部塞いでおられますがな」
「やることが俺と似てんだよぉ。だから、どこに逃げ道を作るかだいたい分かる」
航路図の一角を指で叩いた。
「ま、俺の方が上手えけどな」
主要な退路をほぼ塞いだところで、サイラス・ヴァルガから通信が入った。
画面に現れたヴァルガは、逃走路を次々に潰されているというのに取り乱してはいなかった。
『ラスバッハ。我々と貴様に、どれほど違いがある』
ラスバッハはすぐには答えず、レームが掘り出した二つの記録を画面に並べた。
一つは、二十数年前のアルカディア社が使っていた避難輸送計画。
もう一つは、現在の人間の売買台帳だった。
並べてみれば、驚くほどよく似ていた。
ラスバッハは二つの画面を眺めて笑った。
「お前、昔からやってることは変わってねえんだなぁ」
ヴァルガも否定しなかった。人を運ぶには船も燃料も食料も要る。
旧同盟が崩れ、運賃を払う政府が消えると、払えない者には働いてもらい、やがてその労働力を欲しがる側から金を取るようになったのだという。
『昔は政府や軍や本人が払った。今は受取人が払う。それだけのことだ』
ラスバッハはしばらく黙って、旧い救援計画と現在の売買台帳を見比べていた。
「……違うだろぉ。お前、人間に先に値段つけちゃいけねえよ」
通信の向こうで、ヴァルガがわずかに眉を寄せた。
「十八歳、健康、いくらで売れる、どこへ送る。そんなもん並べて、そいつがどんな人間か分かった気になるなよ。人間なんて、今日と明日で同じかどうかも分かんねえんだから」
レームが端末を操作する手を止め、顔を上げた。
『……貴様がそれを言うのか、ラスバッハ』
「何だよぉ。俺が言っちゃ悪いのか?」
ラスバッハは本気で心外そうだった。
「昨日まで逃げ回ってた臆病者が、土壇場で誰かを助けに戻ることもある。どうしようもねえ奴が、一生に一度くらいは立派なことするかもしれねえ。逆に、誰からも立派だと思われてた奴が、思いもよらねえことをする場合もある。そんな奴らに最初から値札貼って、行き先まで勝手に決めちまうなんて、もったいねえよ」
ヴァルガは少し考えてから答えた。
『人が一人ずつ違うことくらい知っている。だが船に乗せれば、一人につき寝床が一つ要る。食料も燃料も要る。どれほど人間が複雑でも、その分だけ船が増えるわけではないし、乗員の給料も払えん』
ラスバッハは、そこで少し笑った。
「お前は人を運ぶのが上手すぎたんだよぉ」
ヴァルガが黙る。
「上手すぎて、人間まで荷物に見えるようになっちまった」
ラスバッハは旧い写真に写る若いヴァルガへ目をやった。
「昔のお前は、もうちょっと面白いもん見てたんじゃねえの?」
『……何が言いたい』
「俺が知ってる、一人の男の話をしようか」
ラスバッハは椅子へ深く腰を下ろした。
「昔、帝国の辺境に司祭がいてな。鉱山町で小さな施療所と孤児院をやってた。これがまあ、驚くくらい立派な奴だったんだよ」
最初に会ったのは、正規の流通には乗せられない医薬品を売りに行ったときだったという。
ラスバッハが持ち込んだ品を見ると、司祭はまず仕入れ先を訊いた。ラスバッハが適当にごまかすと、薬の中身を確かめるより先に、そのまま帰れと言われた。
金を寄付すると言っても受け取らず、権力者との仲介を持ちかけても興味を示さなかった。脅しても態度を変えず、もっと大きな教会へ移れるよう口を利いてやると言ったときには、とうとう笑われたらしい。
「立派な男だったぜぇ。自分のためには、何にも欲しがらねえ。俺も途中から感心してきてなぁ」
『それで諦めたのか』
「いや。そいつを一冬、見てた」
ヴァルガの表情が少し変わった。ラスバッハは気づかずに続けた。
「毎晩、寝る前に孤児院を回るんだよ。帳簿を見るんじゃねえ。一人ずつ顔見て、指で数えるんだ。一人も減らしたくなかったんだろうなぁ」
その冬、孤児院には定員を一人超えて子供がいた。
役所の査察が入れば、その一人を別の施設へ送らなければならない。司祭は査察の日、寝床の数を一つ少なく申告した。
「俺は何も言ってねえんだぜ。あいつが、自分で不正をやることを決めた」
ラスバッハは、今でもそのときのことを面白がっているようだった。
「次の冬は薬が足りなくなった。出所の分からねえ薬は受け取らないって言ってた男が、熱出して寝てる子供を前にしたら、出所なんか訊かなくなった。その次は金だった。金の出所も訊かなくなった」
ヴァルガの指が卓上で止まった。
ラスバッハの話はまだ続いた。
「その次の年には、教会の裏を通る俺の組織の荷について何も訊かなくなった。孤児院には暖房が入って、飯も増えた。子供は一人も減らなかった。本人は相変わらず粗末な服着て、俺から自分のためには一銭も受け取らねえ」
そこでラスバッハは、懐かしそうに笑った。
「おかげで、その街じゃ俺たちの『お薬』が大流行よ。あれは儲かったねぇ」
『……待て』
ヴァルガの声が低くなった。
「何だよぉ?」
『……貴様、先ほどまで、もう少しまともな話をしていなかったか』
ラスバッハは本当に分からないという顔をした。
「ずっと同じ話してるだろぉ?」
レームが言った。
「閣下。私も途中までは、そう思っておりました」
通信の向こうで、ヴァルガはしばらく無言だった。
『……貴様は、人間を何だと思っている』
ラスバッハは即答した。
「人間だよ」
それから、当たり前のことを言うように続けた。
「何するか分かんねえから、人間はおもしれえんだ。お前は最初から荷物にしちまうだろ。俺の方がよっぽど人間扱いしてるんじゃねえのか」
レームは何も言わなかった。
ラスバッハはそこで何かを思い出したように付け加えた。
「ちなみに、いい孤児院だぞ。今でもな。あの司祭も、たまに『お薬』をつまむようになったけどよぉ」
少し間を置いて、ラスバッハは付け加えた。
「まあ、今じゃ俺んとこが資金洗浄や、違法物資をじゃんじゃん流すのに使わせてもらってるけどなぁ」
レームは何も言わず、手帳を閉じた。
***
【同日深夜 第二貨物棟】
フロリアンの班が第二貨物棟へ入って間もなく、先頭の隊員が正確なブラスター射撃を受けた。
〈渡し守〉側は闇雲に撃っているのではない。
一方が射撃しているあいだに別の者が位置を変え、こちらが前へ出れば無理に踏みとどまらず、次の遮蔽物から新しい射線を作る。
その動きの中心にいる男が、レームから渡された資料にあったダミアン・コルヴォという男だった。
旧自由惑星同盟軍陸戦隊出身。
ヴァルガがまだ避難民を運んでいたころからアルカディア社の船を守り続け、現在は武装部門を取りまとめている。
自分が撃っているあいだに部下を下げ、最後に退くのはいつも自分だった。
フロリアンはその動きを見ているうちに、自然と笑っていた。
「いいね。強い人がいる」
遮蔽物から飛び出した瞬間、コルヴォのブラスター光が頬の脇を走り、続く一射が胸部装甲の端をかすめた。
装甲表面が焼け、伝わった熱と衝撃に身体が半歩よろめいたが、痛みより先に笑いが出た。
「ははっ!すごい!今の、もう一回できる?」
返事の代わりに次の光束が走り、今度は肩部装甲の表面を焼いた。
腕に痺れが走った。
それでも、相手が本気で自分を殺そうとしていることの方が愉しかった。
まともに当たれば、死ぬ。
だからこそ、愉しい。
自分でも、その感覚が普通ではないことくらいは分かっていた。
やがてコルヴォの部下の一人が脚部を撃たれて倒れた。
すでに数歩先まで後退していたコルヴォは、負傷者に気づくと迷わず引き返し、自分を射線へ晒して男の腕を肩へ回した。
フロリアンはそこで射撃を止め、しばらく様子を見た。
逃げるより、仲間を助けることを選んだらしい。
そのことを確かめてから、負傷者のすぐ横へブラスター光を走らせると、コルヴォは反射的に身体を入れ替え、自分の装甲で部下を庇った。
フロリアンの目が輝いた。
「……来た。やっぱり仲間を助けに来るんだ。いいね、そういうの」
殺すだけなら難しくない。
しかし、それでは『愉しみ』がそこで終わってしまう。
別の負傷者へブラスターを向けると、今度は若い構成員が遮蔽物から飛び出し、コルヴォがその動きを援護した。
フロリアンは命中させられる光束をわざと逸らしながら、二人がどう動くのかを眺めていた。
「ほらほら。ちゃんと助けてあげないと。その人、死んじゃうよ」
怖いのに戻ってくる。
撃たれると分かっていても、仲間のために身体を晒す。
一人を傷つければ別の一人が動き、その相手を狙えば、さらに誰かが助けに来る。
いつの間にかフロリアンは、敵を倒すためではなく、その反応を続けて見るために撃っていた。
殺してしまえば終わるから、当てられる射撃をわざと外し、負傷者の周囲へ光束を走らせては、誰が助けに来るのかを待つ。
どこを引けば誰が動くのか、人間同士を結ぶ糸が少しずつ見えるようだった。
一人の負傷者へ、それまで前へ出てこなかった男が駆け寄った。
フロリアンはその姿を見て、楽しそうに笑った。
「へえ。君、そこに倒れてる彼とは仲がいいんだ。他の人のときは出てこなかったよね」
男の退路を塞ぐようにブラスター光を走らせ、銃口をわずかにずらす。
「じゃあ、君を動かしたいときは、彼を使えばいいんだ。もっと見せてよ」
その一方で、コルヴォだけは特定の誰かを選んで助けているわけではなかった。
若い構成員が倒れればそこへ向かい、別の場所で負傷者が出れば、自分の射線を捨ててでも引き返す。
近くにいる者から順に、できるだけ全員を後方へ送り込もうとしていた。
フロリアンはしばらくその動きを眺めた。
「君は誰でも助けるんだ。立派だね」
皮肉ではなかった。
自分が撃たれる危険を承知で仲間のために戻ることを、フロリアンも立派なことだと理解している。
だからこそ、その立派な人間がどこまで追い込まれれば仲間を諦めるのかを知りたかった。
最後まで諦めないのなら、それはそれで、最後にどんな顔をするのか見てみたかった。
しかし、その続きを見る機会は思ったより早く奪われた。
中央区画が制圧され、別方向から侵入した班が主要な搬送路を押さえたという報告が入ると、コルヴォはそれまでの撃ち合いに執着せず、残った部下へ撤退を命じた。
負傷者を先に下げ、自分は最後まで射線に残りながら、防火隔壁の向こうへ一人ずつ送り込んでいく。
「待ってよ。もう終わりなの?」
コルヴォは最後の部下を隔壁の向こうへ押し込みながら、こちらを見た。
「終わりだ。そっちの勝ちだ」
フロリアンの笑顔が消えた。
勝敗の話などしていない。まだコルヴォは動けるし、自分も戦える。
それなのに、相手だけが勝手に終わりを決めようとしている。
「……勝手に決めるなよ、ずるいじゃないか。まだ僕が満足してないだろ!」
閉じ始めた隔壁へ走ろうとしたところで、後ろから肩をつかまれた。部下のハラーだった。
「フロリアン様。もう終わりです」
中央区画も制圧され、こちらの任務も終了しているという説明は理解できた。
理解したうえで、それが自分にとって戦闘をやめる理由にはならなかった。
「知ってるよ。だから放して。あの人、まだ戦えるだろ」
ハラーが手を離さなかったため、フロリアンは反射的に腕を取り、重心を外して床へ投げた。
そのまま関節を捻り上げても、最初は閉じていく隔壁の方しか見ていなかった。
だが、少し力を加えたところで、ハラーの顔が目に入った。
そこに浮かんでいたのは痛みだけではなく、自分への恐怖だった。
それに気づいた瞬間、コルヴォが負傷者を助けに戻ってきたときと、よく似た興味が胸の奥に動いた。
この男は敵ではない。つい先ほどまで同じ側で戦っていた、自分の部下である。
それなのに、自分が腕を押さえているだけで呼吸が変わり、目の色まで変わっていく。
もう少し力を入れたらどうなるのだろう。
腕を少し壊したら、いつも普通に話していたこの男はどんな顔をするのだろう。
その続きを見てみたいと思った。
指へわずかに力を加えると、ハラーの呼吸が変わった。
面白かった。
そのとき通信機からラスバッハの声が入った。
『フロリアン。放せ』
いつもの間延びした調子ではなかった。
フロリアンは、もう閉じかけている隔壁と、床のハラーを見比べた。
二秒ほどして腕を放した。
「……承知しました、閣下」
それ以上は逆らわなかった。
〈渡し守〉の抵抗はほどなく終わり、サイラス・ヴァルガも最後の倉庫で拘束された。
ラスバッハたちは、この時点ではまだ知らなかった。
アルカディア社と〈渡し守〉は、それだけで完結した組織ではない。
人をさらい、運び、売る。
それは、辺境航路のさらに奥で勢力を広げつつあった巨大海賊組織――〈アケロン連合〉の末端にすぎなかった。
***
帰還後、ラスバッハは報告書を読み進めた。
建国宣言を目前に控え、このところ第一聖団では正規艦隊の編成と訓練、それに開戦準備が重なっていた。
新たに組み込まれた部隊の練度を揃え、指揮系統を組み直し、いつ戦端が開かれても動ける状態まで持っていく。
その間にも辺境から報告は上がっていたが、一件ずつ自分で底まで掘れる量ではなかった。
フロリアンが部下のハラーを床へ投げた箇所まで来ると、そこで指を止めた。
「……なーんか、これで終わったように思えねえんだよなぁ」
レームが顔を上げた。
「〈渡し守〉のことでございますか?」
「あいつら、どうもこれだけで全部って感じがしねえ。ま、ヴァルガの野郎を絞ってみりゃ、少しは分かんだろ」
ラスバッハは少し考え、それから妙に納得したように頷いた。
「……なんつーかなぁ。『悪の残尿感』ってやつだぜぇ」
レームは無視した。
ラスバッハは報告書へ目を戻し、ハラーの名が記された箇所を指先で軽く叩いた。
「で、こっちもこっちだ。なあ、坊ちゃん、面白えけどよぉ……ちっと面白くなりすぎてねえか?」
レームは報告書を閉じずに答えた。
「以前は、ご自分の中にあるものを嫌がっておられました。いまでは、それを使うことに徐々に抵抗がなくなってきておりますな」
「俺が止めりゃ止まったぜぇ」
「ええ。今のところは」
戦闘中の敵に何をするかはまだいい。
だが、止めに入った味方まで興味の対象になり始めたとなれば、普通の隊員を無造作に組ませるわけにもいかない。
ハラーの名が記された箇所を指で二度ほど叩いた。
「普通の奴と組ませて、片っ端から壊されたらたまんねえなぁ。坊ちゃん本人より、そっちの方が面倒だ」
レームが、では外すのかと訊いた。
ラスバッハは首を振った。
「あれだけ使える奴を外すのはもったいねえ。だったら最初から、使い潰しても困らねえ連中をつけりゃいい」
レームの眉がわずかに動いた。
「また、ろくでもないことを思いつかれましたな」
「褒めんなよぉ」
「褒めておりません」
ラスバッハは上機嫌で杯を空にした。
この時点では、まだ思いつきにすぎなかった。
***
新帝国暦二十三年春、フロリアンはラスバッハへ、船内強襲や拠点制圧を専門とする班を持ちたいと申し出た。
戦闘能力について、ラスバッハに異論はなかった。確認したのは一つだけだった。
「俺がやめろって言ったら、遊んでる途中でもやめるんだなぁ?」
フロリアンは少し笑った。
「……承知しました、閣下」
それで許可は下りた。
隊の人員登録を担当したレームの画面に〈エーレンフェルス〉という旧姓が表示された。
フロリアンはしばらくその文字を見たあと、もうその名は使いたくないと告げた。
「名前を変えるよ」
レームが入力の手を止めた。
「お決めになっておられるので?」
「うん。キリアンにする」
遠い昔の地球で、権力を持つ相手に命じられても、自分が正しくないと思うことを言わなかったという聖人。マティアスはその話を読み、弟を思い出したと言った。
フロリアンは、自分が聖人とは対極の人間だと自覚している。それでも、兄が憶えていた昔の自分まで、なかったことにする必要はないと思った。
レームが〈キリアン〉と入力した。
「姓はいかがなさいますか?」
こちらも決めていた。
伯爵家の領地にあった旧い監視塔。父に叱られるたび、幼いフロリアンはそこへ逃げ込んだ。
もう帰らないと腹を立てていても、夕方になれば決まって兄が迎えに来た場所だった。
「ラーベンホルストでお願い」
レームが入力を終える。画面に新しい名が表示された。
――キリアン・ラーベンホルスト。
『キリアン』は、兄が憶えていた自分。
『ラーベンホルスト』は、その自分を兄が何度でも迎えに来てくれた場所。
レームが画面を確認しながら訊いた。
「お兄様にも、新しい名で呼んでいただくので?」
フロリアンは首を振った。
「……兄上には、今までどおりフロリアンでいいよ」
これから自分が何者に変わっていくとしても、兄の前では少しでも長く『フロリアン』でいたかった。
***
登録を終えた日の午後、強襲艇の発進準備が整った。
格納庫へ向かう途中、端末から初めて新しい名前が呼ばれた。
『ラーベンホルスト班長。強襲艇、出せます』
フロリアンは一瞬だけ足を止めた。まだ、自分のことだとすぐには分からなかった。
やがて気づくと、自然に口元が緩んだ。
「うん。行こうか」
【人物図譜】
教国軍〈聖赦執行隊〉第一強襲群長 キリアン・ラーベンホルスト
【挿絵表示】
【次回予告】
敵国で過ごす三十日。
それは、
長いようで短く、
短いようで、あまりにも長い。
フェリックス・ミッターマイヤーは、
敵国で思いがけない人々と出会う。
父を知る者。
父を嫌った者。
父に救われた者。
父によって人生を変えられた者。
そして、
父とは何の関係もなく、
ただフェリックスと友人になる者たち。
戦争の向こう側にも、
食事があり、
仕事があり、
恋があり、
くだらない冗談があり、
そして、助けを待っている船がある。
帝国には、
フェリックスの帰りを待つ者がいる。
教国には、
フェリックスを残らせたい者がいる。
次回より、第二部・第三章。
「三十日の客人」
――銀河の歴史が、また1ページ。