第八十八話「シュタイガー問題――老将の招待(前編)」(新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月末)
【某年 某星域】
これは、まだしばらく先の話である。
艦橋の戦術投影盤では、敵の前衛が徐々にその厚みを増していた。正面からの圧力を強めながら、こちらの右翼方面にも戦力を送り込み、防御を崩そうとしている。
戦術投影盤の前に立つ指揮官は、二十代前半と見える青年だった。
やや明るい栗色の髪を横へ流し、切れ長の目には澄んだ青い瞳があった。通った鼻筋と薄い唇、引き締まった顎が、端正な顔立ちに鋭さを添えている。背はやや高く、細身ながら、肩や腕には軍人らしく鍛えられた張りがあった。
彼はしばらく敵の動きを見つめていたが、やがて戦術投影盤の正面を指さした。
「いかがなさいますか、ロイエンタール閣下」
指揮官に問いかけたのは、クリストフ・オルベルク従聖将だった。教国軍第二聖団〈
「オルベルク参謀、正面を縮めてくれ。砲火は中央に集中させる」
「右翼が薄くなりますが」
「ああ。敵はそこへ戦力を寄せてくるだろう。そうなれば、中央との連携に隙ができる」
「そこを衝く、と」
「そうだ。ただし、敵の前衛は追わないでくれ。狙うのは後続との接続部分だ」
オルベルクは短く応じ、命令を伝えた。正面の砲火が密度を増し、前進してきた敵の艦列を押し止める。その一方で、右翼では味方の配置が少しずつ変わり、敵もこれに応じて動き始めていた。
「ロイエンタール閣下。ラザレフ司令から連絡が入りました。全体の指揮は予定どおり継続。こちらの攻撃については、閣下の判断に委ねるとのことです」
「分かった。メルゼブルク聖将はどうしている?」
「防御線を維持しておられます。損傷艦の後退も進んでいます」
「聖王守護ヨーリクは?」
「敵の主力と交戦中です。こちらの進出に合わせて攻撃を転じるとの連絡が入っています」
「ああ。敵がもう少し右翼へ寄るまで、こちらは待とう」
そのとき、通信卓から興奮した声が上がった。
「ロイエンタール閣下!右翼正面の敵が前進を開始しました!敵の中央部隊との間隔が開いています!」
若い指揮官は投影盤に身を寄せた。敵の前衛は正面に釘付けにされ、その側面では、後続との連携にわずかな乱れが生じ始めている。
「今だ。オルベルク参謀、右翼を前へ出してくれ。敵の先頭は相手にしなくていい。あの間隙へ火力を集中させる」
「聖王守護への連絡は?」
「ヨーリクには攻撃を始めてもらおう。敵が反転して戻る前に、片をつける」
オルベルクが指示を送り、艦橋にしばらく沈黙が訪れた。
やがて戦術投影盤の敵艦列に、大きな乱れが生じた。正面を押していた部隊が反転しようとしている。しかし、後続との連携を断たれたため、前進を続けることも、整然と退くことも難しくなっていた。
オルベルクはその様子を見つめ、傍らの青年へ静かに言った。
「……御父君を思い出しますな」
「父を?」
「第二次ランテマリオ会戦における、あの方の指揮を思い出しました」
若い指揮官は、少しばかり困ったような顔をした。
「……それは褒め言葉なのか、オルベルク参謀」
「いいえ。似ている、とただ申し上げただけです」
オルベルクは淡々と答え、再び投影盤へ目を戻した。
「さて、次はいかがなさいますかな、ロイエンタール閣下」
「……その呼び方には、どうにも慣れない。できれば、下の名で呼んでくれないか」
「承知しました、ロイエンタール閣下」
オルベルクは戦術投影盤を見つめたまま、表情を変えずに付け加えた。
「既に戦端は開かれました。もう、後戻りはできませんよ」
「……知ってるさ。俺自身で決めたことだ」
***
【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月末 神聖黄金樹教国 聖都ラディークス】
大伽藍は、朝になると意外なほど忙しい場所だった。
聖都での二日目、フェリックス・ミッターマイヤー大尉は、迎えに来た係官のあとについて回廊を歩いていた。
昨日は司祭と儀仗兵が並んでいた通路を、今日は長衣姿の職員が端末を持って行き交い、小型の搬送車が荷を積んで横切っていく。高い柱の向こうから聖歌が聞こえたが、その手前では作業員が何かの搬入時刻を相談していた。
「昨日とは、ずいぶん様子が違いますね」
「ええ。昨日は式典のために、こちらの通路を空けておりましたから」
係官は歩きながら予定表を開いた。
「午前に四件、午後に六件の面談がございます。合間に記録の照合もお願いしたいのですが」
「……昨日いただいた予定よりも、だいぶ増えていませんか?」
「はい。大尉からの照会にお答えできる方を、各部署にお願いして、頑張って見つけてまいりました。皆さん、お時間を空けてくださったんですよ」
係官は嬉しそうに予定表を差し出した。
フェリックスは、びっしりと埋まった予定を見て苦笑した。
「……それは、ありがとうございます。助かります」
「お役に立てて何よりです」
係官は満足そうに頷いた。
仕事はすぐに始まった。救難艇の無許可進入と二人の女性の搬出、それに教国軍による帝国巡航艦への発砲について、記録を確かめ、帝国で回答できることとバーラト自治政府へ回すことを分けていく。教国側も資料を出し、分からないところは調べ直してくれた。
ただし、議論が進んでも、教国の主張は変わらなかった。担当官たちはこちらの質問へ丁寧に答え、互いの見解が食い違った箇所には印を付けた。フェリックスもそのたび、帝国側の記録を確かめて回答を作った。
午前の面談が終わるころには、午後の予定がさらに一件増えていた。
「……まだ増えるんですか」
「よいお返事が届いたものですから」
係官があまりに嬉しそうなので、フェリックスも笑うしかなかった。
***
午後は、別の庁舎へ出向くことになった。
車が大伽藍の外周を離れると、フェリックスは窓へ顔を向けた。
昨日は迎賓車列でこの道を通った。だが、儀仗隊や沿道の人々の前を通り過ぎるのに気を取られ、聖都の街並みの細かなところまでは見ていなかった。
白い石の列柱が続く通りを、幅広い交通路が横切っている。
その上に透明な歩行回廊が架かり、さらに高いところを銀色の列車が滑るように走っていた。
車内が一瞬陰った。見上げると、回廊を歩く長衣の司祭のすぐ後ろを、仕事鞄を提げた人々が急ぎ足で追い抜いていった。
旧い灰色の建物もあった。低いコンクリートの壁を新しい石材で覆い、その上へガラス張りの施設を継ぎ足している。壁際の荷役口には無人の運搬車が列を作り、荷を受け取るたびにそれぞれ別の通路へ走り出した。
通りが大きく曲がったところで、目の前に広場が開けた。
広場の中央に、巨大な黄金樹が立っていた。
幹は透けるような金色で、見上げるほど高い位置まで枝が広がっている。
葉の間に細かな文字が輝き、ときおり枝の形が変わった。フェリックスが見ていると、樹の根元を一人の子供が駆け抜けた。金色の幹がその身体に重なったが、子供は気にする様子もなく駆けていった。
「あれは……何でしょう。装飾や礼拝のためのものですか」
「いえ。公共交通機関の乗換案内でございます」
「乗換案内?」
「根の部分が地下交通、幹が地上、枝が高架の路線です。行き先を探しやすいよう、あの形にしているのですよ」
言われてみれば、光の根は広場の地下へ降りる昇降路を指し、枝には交通路の番号や行き先が、ラテン語、帝国公用語、同盟公用語で浮かんでいた。枝が一本伸びると、広場にいた旅行者の一団が荷物を持ち直し、上階の乗り場へ歩き始めた。
「なるほど……。黄金樹を、そういうふうに使うんですね」
「慣れれば便利ですよ。ただ、乗り遅れそうなときに、枝を間違えてしまう方もおられます」
係官はその広場へ目を向けた。
「長い祈祷文を一字一句違えず暗唱できる方でも、乗換えの順番となると、なかなか覚えられないものらしいのです」
フェリックスは吹き出した。
広場の一方では、石造りの小さな礼拝所の前に人が集まっていた。老人が胸元に手を当てて祈り、その傍らで子供が母親の袖を引いている。隣の停留所では、出発を告げる音声が響き、職員が乗り場へ走っていた。遠くから鐘の音が届いたが、広場の人の流れは変わらなかった。
広場の端では、旅行鞄を持った一団が案内表示の前に集まっていた。巡礼者らしい。老人や子供も混じっている。表示には、ライガール星系方面の旅客便がいくつか欠航になったと記されていた。
「……あちらは、どうしたんでしょう」
「このところ、辺境航路で海賊の被害が続いているんです。
係官は困ったように笑った。
「早く落ち着いてくれるとよいのですが」
フェリックスがもう一度見たとき、巡礼者たちは係員から別の便を案内されていた。
車は広場を離れ、市場の並ぶ通りへ入った。
屋根の下に幾筋もの店が並び、黒く焼き締めたパン、香草を混ぜた平たいパン、柔らかそうな白パンが積まれている。どの店にも客がいた。黄金樹の小さな飾りを売る店の隣では、作業着の男が昼食の包みを受け取り、立ったまま中身を確かめていた。
「大尉、あちらが中央市場です。帰りに少し寄ってまいりましょうか?」
「いいんですか?」
「許可された経路の範囲でしたら。市場をご覧になるだけでも面白いと思いますよ」
「それはぜひ。そうだ、黒パンのおいしい店があれば教えていただけませんか。たしか、こちらでは『第二聖団風』とか言うんでしたっけ」
「……お待ちください」
係官が急に真顔になった。
「第二聖団風、と一口に申しましても、いろいろございます。補給艦の厨房で焼くものと、工廠地区で焼くものを一緒にされては困ります」
「……そんなに違うんですか」
「もちろんです。大尉がお好みなのは、粗挽きのライ麦に大麦を多めに混ぜ、酸種を強く効かせた補給艦式でしょうか。それとも、細挽きのライ麦に全粒小麦を合わせ、二晩寝かせる工廠式でしょうか」
「ええと……製法は分かりませんが、厚く切って少し温めるのが好きですね。酸味はあるけれど、噛んでいるとだんだん甘くなってくるような。バターを載せると、なおいいです」
「なるほど。工廠式ですね」
係官は大きく頷いた。
「でしたら〈三つの石臼〉です。間違いありません」
即答だった。
「あそこの主人は、第二聖団の造船工廠の食堂でパンを焼いていた職人でしてね。焼き上がりは黒褐色で、手に取ると驚くほど重い。ところがナイフを入れると、中はきめが細かく、しっとりしているんですよ」
係官は両手でパンの厚さを示した。
「これくらいの厚さに切って、切り口を軽く炙るのがよろしい。噛み始めにはライ麦のほのかな酸味が来るんですが、噛むほどに甘みが出てくる。そこへ塩の利いたバターを載せるんです。熱でバターがゆっくり溶け、染み込んでいく。私はあれを、熱い豆のスープと一緒にいただくのが好きでしてね」
「……それは、うまそうだ」
「ええ。実にうまいんです」
係官はそれで話が終わったという顔をした。だが、すぐに何かを思い出したらしい。
「いえ、お待ちください。せっかく聖都へいらしたのですから、黒パンだけではいけません」
「おすすめがあるんですか?」
「もちろんです。〈麦と蜜〉の〈ラディークス風〉を召し上がらずにお帰しするわけにはまいりません」
係官は窓の向こうに見える市場の奥を指した。
「小麦に少しだけライ麦を混ぜて、前の晩から生地を寝かせるんです。蜂蜜も入れますが、甘くするためではありません。焼き上がったときに、ほんのわずかに蜂蜜の香りを残すためです」
話すうちに、係官の声がますます弾んできた。
「焼きたては素晴らしいですよ。塩水を塗った皮が薄くぱりっと焼けて、籠に移すと、ぱちぱちと音を立てるんです。手で割ると中から湯気が上がって、白い生地がふわっと開く。そこへ冷たいバターを一切れ置くと、熱でゆっくり溶けていきましてね。蜂蜜の香りとバターの塩気が合わさって……」
係官はそこで言葉を切った。
「……失礼。つい熱が入りました」
「いえ。ぜひ食べてみたくなりました」
フェリックスは笑った。
「しかし、ずいぶんお詳しいんですね」
「パンは、我ら教国の民にとって、母なる地球から授かった、最も旧い糧のひとつでございます。教国には『百の家があれば、百のパンがある』という言葉がございまして」
係官は当然のように答えた。
「毎日食べるものだからこそ、おいしい方がよろしいでしょう?」
「それは、まったくそのとおりです」
「では、帰りに〈三つの石臼〉と〈麦と蜜〉へご案内いたしましょう。幸い、二軒とも同じ通りにございます」
「ありがとうございます。楽しみです」
「ただし、午後のお仕事が予定どおり終わりましたら」
フェリックスは手元の予定表を見た。先ほど追加された一件が、まだ残っている。
「……それは、なかなか難しい条件ですね」
「そうですね。では、なるべく手際よく済ませましょう」
係官は微笑み、運転手へ次の行き先を伝えた。
フェリックスはもう一度、市場を振り返った。車が動き出しても、焼きたての黒パンにバターを載せたところが、なかなか頭から離れなかった。
車が広場を離れると、列車の走る高架の向こうに大伽藍の黄金樹の尖塔が現れた。
昨日はあれほど近くに感じたのに、街の建物と幾重もの交通路の上へ、まだ高く伸びている。さらにその遠方では、宇宙港から上がった白い船影が、薄い雲の上へ昇っていった。
午後の面談は、結局予定を少し超えた。
中央市場へ寄る時間はなくなったが、係官は翌日の帰路に回れるか確かめておくと言ってくれた。フェリックスは礼を言い、協議室へ戻って届いた回答に目を通した。
***
翌日の帰路、係官は約束どおり〈三つの石臼〉と〈麦と蜜〉へ案内してくれた。焼きたてを味わったフェリックスは、あの熱弁にも理由があると納得した。
その後も、フェリックスの一日は面談と記録の照合で埋まった。
エルフリーデが送ってきた警告は、もちろん忘れていなかった。
――来るな。教国はお前を待っている。
何を待っているのだろう。そう考えている間にも、翌日の予定が届き、また次の面談が決まった。
聖都に来て数日が過ぎた午後、いつもの係官が一通の封書を持ってきた。
「ミッターマイヤー大尉。第一聖団から、お誘いがきております」
差し出された封筒は、厚手の象牙色の紙でできていた。
縁には深紅の細い線が走り、中央にはフェリックスの姓名と階級が、流麗な筆記体で記されている。裏面には赤い封蝋が押され、その中央に黄金樹と〈マルス〉艦隊の紋章が浮き彫りになっていた。
「……ずいぶん立派なものですね」
封を開くと、同じ象牙色の厚紙が二つ折りになっていた。
表紙には、金箔で描かれた黄金樹が一本。
その根元に交差する二本の軍刀が配され、周囲を細かなラテン語の銘文が取り巻いている。
内側は意外なほど簡素だった。
上部に第一聖団司令部の名があり、その下に訪問先と日時が記されている。
本文はわずか数行。
最後には、オットフリート・シュタイガーの署名があった。
そして、余白に一行だけ、書き添えられていた。
――宇宙暦七九〇年・旧帝国暦四八一年、イゼルローン回廊での撤退戦の戦例。
フェリックスはその一行を読み直した。
三十余年前、ゴールデンバウム王朝時代の旧帝国軍一万二千隻が、三万隻近い自由惑星同盟軍を迎え撃った戦いである。
当時の帝国軍を指揮したのが、シュタイガーだった。
彼は狭い回廊の地形を利用して同盟軍の数的優位を封じ、三日間にわたって攻勢を凌いだ。
同盟軍は三日かけてもついにシュタイガーの防御陣を突破できず、補給の限界から攻撃を中止。帝国軍側は九割五分以上の艦がイゼルローン要塞へ帰還した。
「……シュタイガー閣下が、俺と会いたいと?」
「はい。司令部の用務で聖都へお戻りになっております。昔の戦例を肴に、大尉とぜひ一度、戦談義を交わしてみたいとおっしゃっていました」
フェリックスは、もう一度招待状へ目を落とした。
教国との開戦後、この戦いは帝国軍の図上演習でも繰り返し取り上げられていた。
帝国の作戦参謀たちや士官学校の学生の間では〈シュタイガー問題〉と呼ばれていた。
数で圧倒する同盟軍を指揮して、どうすればあのシュタイガーの構築した防御陣を突破して、撃破できるか。
正面から一斉に攻めるのではなく、前衛を交代させながらシュタイガーを休ませずに圧迫を続ける。
帝国軍の軍人たちは、誰もがそれを洗練させる方向で自分なりの工夫も加えて作戦を組んだ。フェリックスも何度か回答を作ったが、実際にシュタイガーに通用するかどうかは分からなかった。
係官が退出すると、フェリックスは招待状を机の端へ置き、途中だった仕事に戻った。
しばらくして、もう一度手を伸ばし、招待状を開いた。
シュタイガーの名を初めて聞いたのは、まだ九つの子供のころだった。
獅子の泉での稽古のあと、ビッテンフェルト元帥がかつての上官について語ってくれた。
――おれはあの人の下で戦の何たるかを覚えたのだ。
あの豪快な元帥が、そのときだけはひどく静かだった。
世がもう少し早く変わっていれば、あの人は間違いなく元帥になっていたはずだとも言っていた。
当時はその話の意味もよく分からなかった。
その人物が、いま敵国の将となり自分を招いている。
***
シュタイガーの臨時執務室は、第一聖団が聖都で利用する司令施設の奥にあった。
フェリックスを案内した士官は、入口で踵を揃えた。右手を左胸へ当て、続けて顔の右側へ引き上げる。掌をこちらへ向け、親指と人差し指、中指だけを開いた。〈聖枝礼〉と呼ばれる教国軍式の敬礼であった。
フェリックスが帝国軍式の答礼を返すと、士官は右手を下ろして退いた。
扉の向こうにあったのは、拍子抜けするほど質素な部屋だった。
飾り気のない事務机と椅子が数脚。
壁際には使い込まれた行李が一つ置かれ、窓辺には書類が積まれている。
教国軍でも最高位に列する軍人が使う部屋とは、とても思えなかった。
壁には古い儀仗サーベルが立て掛けてあった。鞘の金具は錆び、飾り紐は色を失っている。
だが、卓の前に座っていた老軍人が拭っている刃には、曇りがなかった。
老軍人は布を動かしたまま、顔を上げた。
「来たか。ミッターマイヤー大尉だな」
「はい。帝国軍大尉フェリックス・ミッターマイヤーです」
フェリックスが帝国軍式に敬礼すると、老軍人は〈聖枝礼〉で応じた。
白髪の混じった頭を少し下げ、ようやく刃を鞘へ納めた。
「オットフリート・シュタイガーだ。呼びつけてすまんな。座れ」
「お招きいただき、ありがとうございます」
「聖都での滞在はどうだ。不自由はしておらんか」
「いえ。皆さんによくしていただいています。ただ、協議の予定は日ごとに増えていまして。今日も書類が山積みです」
「ほう。帝国からの客人を、よく働かせておるらしいな」
老軍人は愉快そうに笑った。
どうやら自分もその予定を一つ増やしたことを、少しも悪いとは思っていないらしい。
「いえ。実は、今日はこちらへ伺うのを楽しみにしておりました」
「それは嬉しいことを言ってくれる」
シュタイガーは頷いた。椅子に腰を下ろしていても、背筋はまっすぐに伸びていた。
「さて。貴官は宇宙暦七九〇年・旧帝国暦四八一年の、イゼルローン回廊の撤退戦と言ってわかるか?」
「はい。閣下が旧帝国軍一万二千隻を率い、三万隻近い同盟軍の攻勢を三日間にわたって凌ぎ、主力をイゼルローン要塞へ帰還させた戦いですね」
「うむ。では話が早い」
老軍人は立ち上がり、フェリックスを手招きした。
「言葉をいくら重ねるより、一戦交えた方が互いのことはよく分かる。武人とはそういうものだろう」
シュタイガーは口元にわずかな笑みを浮かべた。
「早速、図を見るか」
***
廊下を抜けた先に、第一聖団の演習施設があった。
演習広間には、イゼルローン回廊を模した立体星図が浮かんでいた。
二つの艦隊が向かい合い、その奥に要塞を示す光点がある。
広間の奥に、重い隔壁で仕切られた二つの指揮室があった。
「こちらへ入っていただくと、当時の両軍の旗艦の艦橋を再現いたします」
案内の演習士官が言った。
「発令、探知、被害報告、各戦隊からの通信も、すべて艦橋を通じて行われます。艦隊の行動と損害は演習装置が逐次処理します」
「艦橋ごとですか」
「ええ。機器の配置も当時の仕様に合わせてあります」
演習広間の一角には、第一聖団の参謀たちが集まる観戦区画があった。
首席参謀らしい老士官と、作戦参謀、兵站参謀が見える。観戦区画では、両軍の観測で判明した戦況を確認できるようになっていた。
フェリックスはシュタイガーに向き直った。
「……待ってください、閣下。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「これほどの設備を、敵国の軍人に使わせてよろしいのですか。軍事機密ではないのですか?」
シュタイガーは星図を見上げた。
「うむ。では貴官が帝都へ帰ったら、教国軍のシミュレータはなかなかのものだった……いや、帝国のものよりよほど優れておったと、存分に喧伝してくれ」
周囲の参謀たちから笑いが漏れた。老将の冗談には慣れているらしい。
「……それでよろしいのですか」
「よいとも。貴官が負けたときの言い訳が一つ増える」
老軍人の口元がわずかに緩んだ。フェリックスもつられて笑った。
「まだ、負けるとは決まっていません」
「ほう。そこは言い返すか」
シュタイガーは微笑み、演習士官へ顔を向けた。
「今日の艦は、三十余年前のものでよいな」
「はい。公刊戦史から復元した艦種と装備に固定しております。現用艦の性能値、通信方式、作戦記録には接続しておりません」
「聞いたとおりよ。お互いに今の艦の情報は使わん。三十余年前の帝国軍と同盟軍で勝負するのだ。それでよかろう」
「はい。異存ありません」
シュタイガーは演習士官に短く頷いた。
中央の星図に、旧帝国軍一万二千隻と旧同盟軍約三万隻が表示された。
イゼルローン回廊の同盟側出口。片側に暗礁帯があり、回廊の奥には要塞主砲〈トゥール・ハンマー〉の射程が示されている。
「……これは、〈シュタイガー問題〉ですね」
「ほう。向こうでは、そう呼ぶか」
「はい。どうやったら閣下の率いていた艦隊を撃破できるか、帝国軍人たちは皆、長年頭を悩ませています」
「ふむ」
老将は短く答えた。
「第一局。貴官が帝国軍を指揮せよ」
「……閣下は、同盟軍を?」
「うむ。言っておくが、儂の真似をするのは楽ではないぞ」
シュタイガーの目に笑みが浮かんだ。
フェリックスは再び星図を見た。史実の一万二千隻を救った男が、今回はその敵として来る。
自分なら同盟軍をどう動かし、どうシュタイガーを崩すか、何度も考えた戦例だった。
演習士官が正面の表示を切り替えた。
「開始時点で、双方の先鋒はすでに接敵しています。守備する帝国軍側の目的は、艦隊主力を統一指揮下に保ったまま、要塞砲の支援圏まで撤収することです。一隻でも多くの艦を帰還させてください。攻撃する同盟軍側はこれを阻止します」
「帰還できたかどうかは、何を基準に判定するのですか」
「各艦の損傷状態、推進剤の残量、航行能力と到達可能な航路を演習系が計算します。なお、演習を数時間で終了できるよう、待機や航行中は模擬時間を加速します」
フェリックスは条件表を読み、確認を返した。
「よし」
シュタイガーは右側の隔壁へ歩いた。
「その一万二千隻、貴官に帰せるかな?」
――「疾風の倅か。なるほどな」
次回、『シュタイガー問題――老将の招待(後編)』