フェリックスがシミュレータの指揮室へ入ると、足元から低い機械音が聞こえた。
扉が閉まる。天井と壁の灯が落ち、正面の暗い面に艦橋の奥行きが現れた。
帝国軍士官の制服、卓上の表示、通信席の乗員。
シミュレータによる投影と分かっていても、歩く者が脇を通ると、こちらが体を避けたくなるほどだった。
正面視界には、観測映像で拡大された宇宙が広がっている。
遠くに銀白色の敵の同盟軍の艦影が幾重にも並び、艦橋下方の戦術表示にはフェリックスの指揮する帝国軍一万二千隻の配置が載っていた。
フェリックスが指揮席へ着くと、帝国軍の軍服を着た仮想の首席参謀が振り向いた。
「全戦隊、指揮系統への接続完了。先鋒と敵前衛の相対距離、縮小中です」
すぐ横で通信士が報告を復唱し、別の席から観測結果が届く。
演習のためにシミュレータによって作られた仮想の乗員たちだが、こちらが命令すれば、各艦隊の通信と行動を返してくる。
フェリックスは広げられた星図に手を伸ばした。
「全艦を二群に分ける。第一陣七千、前方に展開。第二陣五千、十光秒後方へ下げて次の防御線を作れ。暗礁帯を右に置く。両翼を畳んで、正面を狭めろ」
仮想の参謀が復唱した。しばらくして帝国軍の艦影が向きを変えていく。
史実でシュタイガーがとったのと同様の初期布陣である。
前面では、銀白色の同盟軍の艦列も横幅を減らし、前後に厚みを増していた。
「前衛、最大砲戦距離で面射撃。敵の先頭を足止めする。第二線は退避路を確保したまま待機。交代できる時機を逃すなよ。撃て!」
砲術席から応答があり、艦橋正面の宇宙に光が走った。
遠距離へ向けられた無数の射線は、一艦を狙って収束するようなものではない。
先へ出ようとする同盟軍の進路に、幾重もの砲火が置かれていった。
敵先鋒が減速した。続いて、その一部が後ろへ下がる。
「敵の第一列、後退を確認」
「敵の後続はどうなっている?」
「探知中。……敵前衛の後方で、新たな艦群が前進しています」
フェリックスは頷いた。
敵は先頭の部隊を入れ替えながら、攻撃を途切れさせない。
正面の艦影が入れ替わり、新たな敵艦隊が砲火を浴びせてきた。
「右翼前衛、損害増大! 暗礁帯側の艦は右へ避けられません!」
模擬の衝撃が艦橋を揺らした。被弾した巡航艦が次々と隊列を離れていく。
「損傷艦だけ後列に下げろ。前衛は持ちこたえろ」
ここで要塞方面に後退すれば、敵は余力を残したまま一気に追ってくる。
思っていたよりシュタイガーの攻勢は激しくなかった。
粘れる余力があるうちに、少しでも敵の数を削っておきたい。
もう少し敵を消耗させてから、次の防御線へ下がりたかった。
*
観戦区画では、参謀たちがフェリックスの構築した防御陣を見守っていた。
「同盟軍の交代は見えているようですが、ミッターマイヤー大尉は後退せず、踏みとどまって反撃していますね」
「……まだ退かんか」
首席参謀の老士官は、腕を組んだまま戦況図を見ていた。そのときシュタイガーの同盟軍が新手を繰り出し、帝国軍の第一線に再び砲火が浴びせられた。
*
次の攻撃が始まると、艦橋の警告灯が赤く染まった。
「敵の新手、前進! さらに後続も接近中!」
同盟軍の攻撃は激しくはなかったが、途切れなかった。
先頭の艦隊が下がっても、すぐに新手が現れ、砲撃を始めた。いつのまにかフェリックスがあると思っていた「余力」はなくなりつつあった。
このままでは持たない。フェリックスは損傷艦から順に退かせることにした。
「損傷艦から順に要塞方面に後退させろ! 第二線の一部を前に出して、後退を掩護しろ!」
後方の艦隊が前進し、傷ついた艦はその脇を通って下がり始めた。
そのとき、同盟軍の砲火が退避中の艦列を直撃した。
「第一七戦隊、被弾! 隊列が乱れています!」
操艦不能になった駆逐艦を避けて、後続艦が進路を変える。右手は暗礁帯だ。
退避する艦列が左へ大きく膨らみ、掩護のため前進してきた艦群に近づいた。戦術表示の光点が重なり始める。
「掩護群、前進中止! 退避艦を先に通せ!」
だが、すでに動き始めた艦隊は急には止まれない。
味方が射線に入ってしまい、掩護群の砲火が次々と途切れた。
その隙をシュタイガー指揮の同盟軍が逃すはずもなかった。
新たな艦群が押し寄せ、帝国軍の前線が大きく崩れ始めた。
「前衛、これ以上は持ちません!」
「全艦、後退! 退ける艦から下がれ!」
フェリックスは戦術表示を見つめた。
後退を示す光点がほとんど動かない。その周囲で、被害を表す赤い表示が増えていった。
*
観戦区画では、作戦参謀がフェリックスの艦隊の動きを追っていた。
「退避路が乱れると、反撃に固執せずすぐに掩護群へ前進中止を命じましたな。状況の把握も、命令も早い。ミッターマイヤー大尉、なかなかのものですね」
「うむ。だが、シュタイガー閣下の指揮する同盟軍はもう次の部隊を出しておる。今から態勢を立て直しても、間に合うまい」
首席参謀は戦況図から目を離さなかった。
*
帝国軍の退却は混乱した。
命令が届かない艦が増え、後方へ戻れたのは前衛の一部だけだった。数千隻が敵の砲火の中に取り残されていた。
「第二線をもう一度前へ出せるか」
「可能です。しかし、退却中の艦群を避けて進む必要があります。到着するまで、前衛が持ちこたえられるかは……」
フェリックスは命令を出しかけ、思いとどまった。ここで救援を出せば、その部隊まで取り残される。
「……退ける艦から要塞方面に退かせろ。残った部隊は後退を掩護しろ」
激しい振動が艦橋を揺らした。
戦術表示から帝国軍の艦影が一つ、また一つと消えていく。
同盟軍も損害を出していたが、新手を投入して攻撃を続けた。
「左翼主力、離脱不能! 前衛司令部との通信も途絶しました!」
フェリックスは星図を見つめた。要塞へ帰れた艦はある。まだ戦える艦も残っている。だが、前方に取り残された主力を救う手段は、もうなかった。
模擬時間が進み、二日目が終わるころには、前方に取り残された主力の指揮系統も崩壊していた。
『守備側、主力指揮系統の維持不能。帰還条件未達成』
無機質な音声が艦橋に響いた。
『第一局終了。攻撃側、同盟軍の勝利』
戦術表示の時計が止まった。やがて仮想の乗員も艦影も消え、元の指揮室の壁が現れた。
フェリックスは指揮席から立てなかった。
手元の端末には、最後の戦況図が残っていた。全滅したわけではない。だが、守るべき主力を帰還させることはできなかった。
あれほど考え、命令を出し続けたのに。
史実でシュタイガーがどうやって帝国軍を帰したのかは知っていたのに。
結局、自分は何もさせてもらえなかった。
そう思った。
***
演習広間へ戻ると、シュタイガーは参謀たちと第一局の記録を見ていた。
「大尉。貴官は、なぜここで退かなかった?」
老将が指したのは、帝国軍の前衛がまだ戦列を維持していた時点だった。
「ここで退けば、敵……シュタイガー閣下は勢いを保ったまま追ってきたでしょう。あの時点の戦力差なら、後退しても追撃されて数で押し切られてしまう。もう少し敵を消耗させて数を減らし、追撃の勢いを削いでから下がるつもりでした。こちらにも、その余力があると判断したのです」
「なるほど。実際、持ちこたえたな。あの猛攻の中で損傷艦を内側へ逃がし、戦列を維持した手並みは大したものだった。あれができる者は、そうおらんぞ」
「……ありがとうございます。ですが、結果はこのとおりです。俺があると思っていた余力は、閣下に持たされていたものでした」
シュタイガーは記録を進めた。フェリックスが後退を命じ、掩護部隊を前へ出す。その直後に退避中の艦が被弾し、進路を変えていた。
「確認しよう。どこまで退けばよかった?」
「イゼルローン要塞の射程内までです」
「そのための道が最終的になくなったのは、いつだ?」
フェリックスは記録を巻き戻した。掩護群を出したときは、まだ退避する艦との間に余裕があった。だが被弾した艦が左へ流れ、後続もそれに続く。掩護に出た艦は止まれず、互いの進路が重なっていった。
「……ここです。味方同士で、退路を塞いでしまった」
シュタイガーは黙っていた。
「もう少し早く退くべきでした。敵を抑えることばかり考えて、そのあと全軍を下げようとしたときの戦況の読みが甘かったです」
シュタイガーは頷いた。
「儂も、あの間断の無い攻めをいつまでも続けられたわけではないぞ。補給には限りがあるからな」
フェリックスは同盟軍の動きを見直した。確かに攻撃側も消耗している。だが、こちらが退却を始めたときには、まだ十分な戦力を残していた。
「もう少し早く退いていたら、どうなったでしょうか?」
「さて、やってみねば分からんな。貴官が
シュタイガーはにやりと笑った。
フェリックスは一瞬きょとんとしたが、その意味に気づいて笑みを返した。
老将はそれ以上、何も教えなかった。
フェリックスは、最初の防御線をもう一度見つめた。
自分は、撤収に必要な余裕を見誤っていた。
「シュタイガー閣下。もう一局、お願いします!」
「よかろう。そう来なくてはな、坊主」
シュタイガーは、待っていたように答えた。
「……坊主?」
フェリックスは思わず聞き返した。
「閣下。帝国軍の大尉殿に、その呼び方はいかがなものかと」
第一聖団首席参謀、エーベルハルト・フォン・ヴァルテンベルク従聖将だった。
「……おお」
シュタイガーは、自分の言葉に気づいたらしかった。
ヴァルテンベルクはフェリックスへ向き直った。
「失礼しました。閣下は、気に入った若い士官をついそう呼ばれる癖があるのです。貴官を侮ってのお言葉ではありませんので、どうかお気を悪くなさらず」
「……いえ。驚いただけです」
「ヴァルテンベルク。余計なことまで言わんでよい」
「でしたら、最初から『大尉』とお呼びください。外交問題になりかねませんぞ」
「そうしよう」
シュタイガーは軽く頭を下げた。
「すまなかった、大尉。無礼を許してほしい。さて、次は貴官が攻めるか?攻守交替だ」
「はい。お願いします!」
***
第二局で、フェリックスは旧同盟軍三万隻を率いた。
指揮室へ入ると、艦橋は旧同盟軍のものに変わっていた。正面には幾重にも連なる味方の艦影。その先に、シュタイガーの率いる旧帝国軍一万二千隻が待ち受けている。
フェリックスは、以前から考えていた攻略法を実行した。
三万隻を一度にぶつけるのではない。攻撃部隊を交代させながら、絶え間なく圧迫を続ける。第一局でシュタイガーが使った戦法だった。
フェリックスはそこに、自分なりの工夫を加えた。敵が次にどこへ退き、その先でどこに防御陣を敷くか。四手先、五手先を予測し、新手をあらかじめその場所へ向かわせる。敵が陣形を整えるより先に、こちらの艦が待っているようにするのだ。
攻撃は奏功した。帝国軍は早々に最初の防御線を下げ、同盟軍は間を置かず追撃した。
「敵主力、右方へ転進中! 次の防御位置を予測しました」
「機動部隊を先に回せ。追撃隊は正面から圧迫を続けろ!」
フェリックスは先回りした艦群の到着を待った。予測した宙域に、間もなく味方の表示が灯る。
「機動部隊、到着。敵影、駆逐艦三十余隻のみ。敵主力、見当たりません!」
「主力はどこだ?」
「すでに別の航路から後退しています!」
フェリックスは新たな進路を指定した。しかし、次に先回りした場所でも、迎えたのは少数の殿軍だった。シュタイガーは守ると見せた場所を捨て、フェリックスが追う間に主力を一段ずつ要塞へ下げていく。
さらに攻め方を変えても、主力をまったく捕まえられない。追撃を重ねるうちに同盟軍の燃料と弾薬が減り、補給船団との距離が開いた。このまま進めば、今度は自分の艦隊の帰路が危うくなる。
「……追撃中止。全艦、後退せよ」
模擬時間が進み、帝国軍主力がイゼルローン要塞の射程内へ入った。
『守備側、帰還条件達成。攻撃側作戦目的未達成』
『第二局終了。守備側、帝国軍の勝利』
正面の艦影が消え、元の指揮室の壁が現れた。
フェリックスは立ち上がった。端末に残された帝国軍の撤収航路を、最後まで目で追った。
***
観戦区画へ戻ると、シュタイガーは参謀たちと第二局の記録を見ていた。
画面には、フェリックスの猛攻を受けて後退する帝国軍が映っている。
防御線は次々と放棄されていたが、主力は整然と要塞へ向かっていた。
「貴官の攻めは速かったな。こちらが次にどこへ動くかを読んで、先回りして艦を置いておる。四手も五手も先まで考えていたのだろう」
「はい。……ですが、閣下には通用しませんでした」
「いや。第一線をあれほど早く捨てさせられたのは久しぶりだ。大したものよ」
シュタイガーは記録を少し戻し、画面の一角を指した。
「ここだ。儂が第一線の後退を命じるより前に、貴官はもう次の攻撃位置へ艦隊を動かしておった」
フェリックスはその場面を見直した。ふと思いついて第一局の記録を並べる。自分がようやく後退を命じた時刻より、シュタイガーが第一線を空けたのはずっと早かった。
「儂の後退の時機と進路を読んでおったな」
「……閣下を読んでいたなど、おこがましいですが。退かれるなら、あの進路だとは考えていました」
「うむ。なかなかできることではない」
老将は画面から目を離し、フェリックスを見た。
「疾風の倅か。なるほどな」
フェリックスは顔を上げた。
ロイエンタールの名は、一度も出なかった。
「……はい!」
フェリックスは、思いのほか大きな声で返事をしていた。
シュタイガーは演習広間の出口へ向かった。
「さて、帝都へ帰ったら、教国のシミュレータがよほど優れておったと吹聴するのを忘れるなよ。小さい国だが、なかなか侮れんとな」
「承知しました。ただ、帝国軍の参謀たちが見学に押しかけてきても、責任は取れませんよ」
老将は声を上げて笑った。
***
演習広間を出ると、廊下は静かだった。
シュタイガーは臨時執務室の前までフェリックスを見送りに来た。扉の脇には、先ほどの古いサーベルが立て掛けてある。
フェリックスは、ふと思い出して口を開いた。
「閣下。実は、子供のころにビッテンフェルト元帥から、閣下のお話を聞いたことがあります」
シュタイガーの足が止まった。
「……ビッテンフェルトから?」
「はい。ご自分は閣下の下で戦の何たるかを覚えた、と。それから、閣下が帝国軍を追われたことを、ひどく悔しがっておられました」
老将はしばらく黙っていた。傍らのサーベルの鞘へ手を伸ばし、古びた金具を指でなぞった。
「……ビッテンフェルトか。懐かしい名だ。あの莫迦はな、儂が軍法会議にかけられた日、辞表を懐に入れて待っておった。上の連中に叩きつけてやると、大声で怒鳴っておったわ」
フェリックスは驚いた。その話は初めて聞いた。
「儂が止めた。貴様は軍に残れとな」
シュタイガーは少し懐かしそうに笑った。
「まったく、昔から手のかかる奴だった。だが、あれが帝国元帥になったのだから、儂の目も節穴ではなかったようだな」
フェリックスも笑った。
「元帥は今でもお元気ですよ。相変わらず、声も大きいです」
「そうか。それは何よりだ」
老将は短く答えた。
フェリックスは、古びたサーベルへ目をやった。
あのイゼルローンの撤退戦のあと、門閥貴族の恨みを買ったシュタイガーは軍法会議にかけられ、十七年間も投獄されたことは情報として知っていた。
シュタイガーの妻と娘も辺境惑星へ送られ、釈放後にシュタイガーが捜しても、ついに行方は分からなかったということも。
何か言葉をかけたいと思った。しかし、何を言えばよいのか分からなかった。
「どれ。大尉には、今日の善戦の褒美をやろう」
突然そう言われ、フェリックスは顔を上げた。
「……褒美、ですか?」
「うむ。忠告だ」
シュタイガーは少し声を落とした。
「この国には、貴官を帝国へ帰したくない者が少なくないらしい」
「……それは、どういうことでしょうか」
「儂も詳しくは知らん。そういう話が耳に入ってくるというだけよ。だが、用心するに越したことはなかろう」
フェリックスは黙っていた。エルフリーデから届いた警告が頭をよぎった。
――来るな。教国はお前を待っている。
「貴官は一局目で、まだ退けると思っておったな」
「……はい」
「退くと決めたときには、もう道がなくなっておった。ここでは同じ間違いをするなよ」
「……承知しました」
シュタイガーは頷いた。
フェリックスは少し迷ったあと、尋ねた。
「閣下。一つ、伺ってもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「なぜ、俺にそのような忠告をしてくださるのですか」
「決まっておろう」
老将は笑った。
「貴官には、もっと強くなってもらわねば困る。帝国へ帰って腕を磨き、いつか戦場で儂を討ちに来い」
「……ご冗談、ではないのですね」
「無論よ。だが今日のままでは、まだまだ儂には勝てんぞ」
フェリックスは思わず笑った。
「……分かりました。そのときは、今度こそ負けません!」
「うむ。楽しみにしておる」
やがて、フェリックスが敬礼すると、シュタイガーは背筋を伸ばし、〈聖枝礼〉で応じた。
フェリックスは案内の士官について階段を下りた。
明日も協議の仕事が待っている。だが今夜は、もう一度あの星図を広げてみたかった。
階段を下りながら、フェリックスはふと思った。
今日、あの演習で手の内を見せたのは、一体どちらだったのだろうか。
***
フェリックスの姿が廊下の向こうへ消えると、ヴァルテンベルク首席参謀が口を開いた。
「閣下。先ほどの大尉への忠告ですが、よろしかったのでしょうか」
「何がだ」
「
「うむ。当然知っておる」
「神託の解釈に関わることです。閣下があのような忠告を大尉になさったと知れれば、快く思わぬ方々もおられるかと」
「神託が、あの大尉を帰すなと命じたのか?」
「……いえ、そこまでは。ただ、そう解釈する方々がおられる、ということです」
「ふむ。では、それは『神』などではなく、『人』の望みであろうよ」
ヴァルテンベルクは答えなかった。
「儂は神託を叶えるために軍人へ戻ったわけではない。戦に使えるものなら使う。それだけの話よ」
シュタイガーは扉の脇のサーベルを取り上げた。
「儂がグレーフェンベルク侯に望んだものは、一つだけだ」
「……『戦場を一つ』、でございますか」
「うむ」
「しかし、あの青年を帝国へ帰せば、いずれ閣下の敵として戦場に立つことになりましょう」
「結構な話ではないか」
老将は笑った。
「敵は手強い方がよい。あれをこちらへ引き込んで、何が面白い」
ヴァルテンベルクは、何も言わなかった。
シュタイガーはサーベルを元の場所へ立て掛けた。
「さて。儂もそろそろ、艦隊へ戻らねばならんな」
***
その夜、フェリックスは大伽藍の通信室から帝都へ超光速通信を入れた。
協議の進み具合と翌日の予定を報告し、出境期限に変更がないことを伝えると、画面の向こうでアレクが書類を閉じた。
「それで、今日は他に何かあったのか」
「シュタイガー聖将に招かれて、会った」
アレクの表情が変わった。
「……あの、第一聖団司令のか?」
「ああ。本人と戦術シミュレータで二局やったんだ。〈シュタイガー問題〉の戦例だ」
「……シュタイガーが指揮したイゼルローンの撤退戦か。どうだった?」
「二局とも、完敗だった」
フェリックスは、演習の最後に見た戦況図を思い出した。
「アレク、あの人は底が見えねえ」
「……そこまでか」
「ああ。一局目は俺が帝国軍側で守ったんだが、退却の時機を読み違えて、やられた。二局目は同盟軍側になって、三万隻で攻めた。何手も先を読んで艦隊を動かしたつもりだったが、シュタイガーはその場所にもういない。守ると見せた場所を平気で捨てて、いつの間にか別の航路から主力を逃がしている。追いかけているうちに、こっちの補給が危なくなった」
アレクは黙って聞いていた。
「しかも、向こうはまだ余力を残していたと思う。俺は考えていた先回りを何度も試した。何度も研究してきた戦例だったのにな。……シュタイガーが何を考えていたのか、最後まで十分に分からなかった」
「……お前が、そこまで言う相手か」
「改めて、恐ろしい相手だと思った。帝都に帰ったら詳しく説明する」
アレクは椅子に深く座り直した。
「……なぜ、シュタイガーはお前を招いたんだろうな」
「本人曰く、俺と一戦交えたかったらしい。話している限り、本当にそう思っていたんじゃないかな」
「それだけだと思うか?」
「分からない。演習には昔の艦隊しか使っていないし、現用艦の情報も出していない。でも、俺の戦い方は見られたわけだからな」
「そうだな……。用心しろよ、フェリックス」
「ああ。分かってる」
「出境の予定にも、変更はないな?」
「ああ」
しばらくして、アレクが尋ねた。
「それで、そちらの暮らしはどうだ。食事はまともに取れているのか?」
「それは大丈夫だ。こっちのパン、うまいぞ」
「パン?」
「聖都の市場で買った帝国式の黒パンだ。こっちでは第二聖団風……いや、〈工廠式〉というらしい。厚く切って少し温めて、バターを載せるんだ。案内してくれた係官がやたら詳しくてさ」
「……そんな話まで教えてもらったのか」
「ああ。聞いているうちに、どうしても食べたくなってな。仕事の帰りに案内してもらったんだ」
「そうか」
アレクは少し笑った。
「ひとまず、食事の心配はなさそうだな」
「それから、アレク」
「何だ?」
「帝都に帰ったら、お前に直接話したいことがある」
「今は話せないのか?」
「……ああ。帰ってから話す。できれば、クラインとハインリヒの意見も聞きたい。聖王ヴィルヘルミーネに関する話だ」
アレクは少し間を置いて頷いた。
「分かった。帰ってから聞こう」
「ありがとう」
「フェリックス。必ず帰ってこいよ」
「もちろんだ」
――「そのときは、梨の評判だけを伝えます。大変お褒めにあずかったと」
次回、『グレーフェンベルク侯の晩餐会(前編)』