その一つの席を巡って、二人の教国貴族が争っていた。
旧帝国以来の世俗貴族の名門、ケンペレン伯爵。
教国の聖爵位を授かった〈聖章貴族〉である、ファウスティヌス金枝伯爵。
どちらも自家の港に定期船を呼び込みたい。
勝負の鍵を握るのは、聖都の港に大きな影響力を持つグレーフェンベルク侯爵。
その支持を取り付けた方が、勝利に大きく近づく。
さて、老練な侯爵は、どちらに味方するのか。
今宵の『戦』の舞台は、侯爵邸で催される豪華な古代ローマ式晩餐会である。
【新帝国暦二十四年四月 神聖黄金樹教国 聖都ラディークス 大伽藍・聖王の私的区画】
グレーフェンベルク侯爵から聖都滞在中のフェリックスへ招待状が届いたのは、聖王ヴィルヘルミーネとの茶席へ向かう途中だった。
来訪者の連絡を扱う係官が、封書を一通持ってきたのである。侯爵家の私宴への招待で、日取りと、聖都にある侯の邸宅の場所が記されていた。
招待状をしまったところで、案内の係官から声がかかった。
「ミッターマイヤー大尉。聖王陛下がお待ちでございます」
以前に訪れた私的区画の応接室へ入ると、ミナはすでに菓子を選んでいた。
「いらっしゃい、フェリックス! 今日はあんまり時間がないの。次の用事まで、あと二十分くらい」
「……時間がないなら、別の日でもよかったんじゃないか?」
「王様には暇なときなんてないの。あなたも皇帝副官なんだから、分かるでしょ? だから、これからはこうして空いた時間を見つけて、三人でおやつの会をすることにしたのよ」
ミナは当然のように答えた。
「勝手に決めるな! 俺だって忙しいんだぞ」
フェリックスはヨーリクを見た。
卓には三人分の茶器が並んでおり、ヨーリクはすでに席について、何も言わずに茶を飲んでいる。
「……で、たった二十分で何を話すつもりなんだ?」
「そうねえ……フェリックス、恋人はいるの?」
フェリックスは菓子を取ろうとしていた手を止めた。
「初手でそういう話かよ! お前、聖王陛下、俺、敵軍の将校。まずお互いの立場を考えろ。それから距離感も考えろ。というか、そもそも何でそんな話になるんだ? 突っ込みどころが多すぎる。却下だ、却下!」
「……そう、いないのね」
「余計なお世話だ!」
ミナは楽しそうに笑った。フェリックスがヨーリクへ目を向けると、彼は澄ました顔で茶を飲んでいた。
「騎士さま、何とか言ってやってくれ」
「ミナ、もう二分三十秒使ったぞ」
「そっちかよ……」
ミナはまた笑い、菓子を一つ取った。
「そういえば、フェリックス。さっき何かお手紙を持っていなかった?」
「ああ。グレーフェンベルク侯爵家からの招待状だ」
エードゥアルト・フォン・グレーフェンベルク侯。
旧ゴールデンバウム王朝時代の門閥貴族で、現在は教国軍第一聖団の政治的領袖である。
教国側へ逃れて旧門閥諸家をまとめた経歴や、自らは聖名を辞退しながら門下には拝受を勧めていることも、情報としては把握していた。
ミナは手にした菓子を皿へ戻した。
「面白い方よ、あの方。すごく親切なのに、ちょっと不思議なの」
「不思議って、どういうことだ?」
「みんな、侯爵閣下にお願いごとをしに行くのよ。ちゃんと話を聞いてくださるわ。それなのに帰るころには、お願いに来た人の方が『お任せください』って言ってるの。しかも嬉しそうに!」
「単に仕事を押し付けられただけだろう」
ヨーリクが言った。
「違うわよ、騎士さま。侯爵閣下もちゃんと手伝ってくださるの。あとからどうなったか、あたしも聞いてるんだから。だから不思議なのよ」
フェリックスは笑った。人を褒めてその気にさせる。旧い門閥貴族には、よくある手口だった。
招待状には、前宇宙期の地球に栄えた古代国家『ローマ』の風習にならい、饗宴を催すと記されていた。
「それとね、あの方はご自分の家の昔話が大好き。いつも、とっても楽しそうに話してくださるのよ」
「五百年分の話を聞かされる。覚悟しておけよ」
ヨーリクが言った。
ミナはヨーリクを見た。
「え? 騎士さまも聞いたことあるの?」
「聞かされた。初めはただの自慢話だと思ったが、諸侯の駆け引きや援軍の集め方、引き際の判断など、意外と戦にも役立つ話が多かった。途中で席を立つつもりが、結局最後まで聞いてしまった」
ミナは声を上げて笑った。
「騎士さま、もしかしてまた聞きたいと思ってる?」
ヨーリクは答えず、無言で茶を飲んだ。
フェリックスはその横顔を眺めながら、バーミリオン星域での撤退戦を終え、帝都へ戻るブリュンヒルトの艦内でクラインから聞いた話を思い出した。
かつて聖園で一緒に過ごしたヨーリクに対して、クラインは「文句が一つある」と言っていた。
――クラインが文句を言いたがっていたぞ。
そう伝えてやりたい気もした。
だが、クラインは自分の過去を話してくれただけで、ヨーリクへの伝言を頼んだわけではない。
本人に断りもなく話してよいものか、フェリックスには判断がつかなかった。
少なくとも、ミナもいるこの茶席で持ち出す話ではないだろう。
ミナは菓子の皿をフェリックスへ寄せた。
「行ってきたら、何を食べて、何を聞いてきたか教えてね」
***
【聖都ラディークス グレーフェンベルク侯爵邸】
招待状に記された日の夕刻、フェリックスは侯爵邸を訪れた。庭の水盤には、まだ空の明るさが残っていた。
同行した係官と警護の者が玄関に近い控えの間へ通されると、フェリックスは侯の家令について列柱廊を進んだ。
帝国の宮廷や貴族の宴なら、幾度となく経験している。
家の由緒や調度を競い、互いの機嫌を損ねずに頼み事をする。商売や政治の話が持ち出されることもあるが、具体的な条件は後日になって詰めるのが普通だった。
今夜もそういう貴族同士の社交の席だろうとなんとなく考えていた。
礼を失わず、長い自慢話に付き合って帰ればよい。忙しい日々のなかでは平和な用事だが、特に待ち遠しい時間でもなかった。
柱の外には、低く刈り込まれた植込みと、細い水路を挟んだ花壇があった。内側の壁にも庭が描かれている。葉の陰から覗く小鳥や、奥へ続く格子の門までが細かく描き込まれ、歩いていくと、本物の庭が壁の中へ折れ曲がっているように見えた。
フェリックスは足を緩めた。絵の中の枝は動かない。そのすぐ脇では、開いた窓から入る風に、鉢植えの葉が揺れていた。
「お気づきになったかな」
回廊の先で、グレーフェンベルク侯が待っていた。
金糸を惜しげもなく使った礼装の袖口から、宝石を嵌め込んだ指輪がいくつも覗いている。片手には細い扇子を持ち、満面に愛想のよい笑みを浮かべていた。
旧帝国の門閥貴族を題材にした風刺劇画には、こういう人物がよく登場する。金と宝石で身を飾り、家柄を鼻にかけ、贅沢と権勢を何より好む、典型的な悪徳貴族である。
フェリックスは、思わず感心した。
よくもまあ、ここまで絵に描いたような人物がいたものだ。もし風刺画の画家がグレーフェンベルク候本人を見たら、何も描き足す必要がないだろう。
「……見事ですね。あの奥まで、道が続いているのかと思いました」
「向こうまで描かせたのだ。壁と分かってから眺めるのも一興よ」
侯は自分でも壁画を見上げ、それから客へ向き直った。
「よう来た、ミッターマイヤー大尉」
「お招きいただき、ありがとうございます」
「今宵は、旧い地球の食事を試してもらおう。古代ローマ式の宴は初めてかの」
「招待状をいただいてから、端末で調べました。寝椅子に横になって食事をするんですよね。絵は見ましたが、実際に経験するのは初めてです」
「ならば結構。物珍しがってくれる客が一人はおらぬと、わしも張り合いがないでな」
それにしても、寝て食べるところまで昔へ戻さねばならないのか。
フェリックスはそう思ったが、顔には出さなかった。旧い物が好きな主人に、わざわざ機嫌を損ねる返事をする理由はなかった。
侯の後ろから、灰褐色の軍服を着た青年が進み出た。フェリックスと年の近そうな男だった。
「第一聖団〈マルス〉艦隊所属、聖一尉のマルケッルス・セウェルス・ルキアヌスです。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
「銀河帝国軍大尉のフェリックス・ミッターマイヤーです。こちらこそよろしくお願いします」
青年は、フェリックスの目を見て礼をした。
「大尉とは同い年だそうではないか。マルケッルス卿、隣についてやれ。卿の方が、この家の寝椅子には慣れておろう」
「はい、閣下」
広間へ向かう途中、小さな前室を通った。
先着していた老貴族が、随員たちの差し出す端末に目を通していた。白い口髭をきれいに整えた男で、画面の一か所を指で示して何かを確かめると、端末を受け取って懐へ収めた。
グレーフェンベルク侯が近づくのを見て立ち上がり、料理の話を持ち出した。
「侯爵閣下。お届けしたものは、いかがでしたかな」
「おお、ケンペレン伯。料理長がたいそう喜んでおった。今宵は皆にも味わってもらうぞ」
「それは結構。お口に合えばよろしいのですが」
控えめな表現だったが、合わないなどとは少しも思っていない言い方だった。
侯が男を紹介した。
「こちらはアルベルト・フォン・ケンペレン伯爵だ。ケンペレン伯、こちらが帝国からの客人のミッターマイヤー大尉だ」
「お目にかかれて光栄です、大尉。どうぞ今夜は、料理をともに楽しみましょうぞ」
フェリックスが礼を返すと、侯は先に食堂へ入った。ケンペレン伯も続く。随員は一礼し、来た方へ戻っていった。
マルケッルスが扉を押さえてくれた。
「こちらです、大尉」
中へ入ったフェリックスは、思わず食卓を見下ろした。
低かった。
奥と左右に置かれた幅広い寝椅子が、低い卓を三方から囲んでいた。白い布の上に、深紅や緑の枕が並んでいる。入口に向いた一方だけが開けられ、給仕はそこから卓へ近づけるようになっていた。
金色の灯が入ると、壁の暗さがいっそう深くなり、卓上の銀器がよく映えた。
天井には宴を囲む人々の絵があった。絵の中の客まで、肘をついて横になっている。
「なるほど。ああするんですね」
フェリックスが見上げると、マルケッルスも天井へ目を向けた。
「ええ。ただ、あれほど足を伸ばすと、隣の方に当たります。こちらは少し狭いので」
「そこは、絵の方が贅沢なんですか」
「はい。絵の中の方には、給仕もぶつかりませんし」
青年は普通の顔で答えた。フェリックスは笑い、案内された寝椅子の縁へ腰を下ろした。
食堂に集まったのは、侯を含めて九人だった。
フェリックスの隣にはマルケッルスがいて、前室で挨拶を交わしたケンペレン伯も席についていた。
侯から新たに紹介されたのは、アロイジウス枢機卿と、ファウスティヌス・ヴァレリウス金枝伯。
ほかに三人の客がいた。
教国には、旧帝国の貴族制度に由来する世俗の爵位に加え、『聖樹公爵』を最高位とする五等の〈聖爵位〉が設けられていた。
聖爵位は、旧帝国以来の世襲爵位とは別に授けられる栄誉称号である。『金枝伯爵』はその第三等にあたる。
教国では、教団や国家への貢献を認められて〈聖爵位〉を授けられた者たちを〈聖章貴族〉と呼び、世俗貴族と区別していた。
フェリックスは、紹介された客たちと順に挨拶を交わした。
アロイジウス枢機卿には見覚えがあった。聖都に到着した日、大伽藍の祭壇からフェリックスにウインクしてきた人物である。
「おお、ミッターマイヤー大尉。ようやく近くで御挨拶できますな」
「先日は驚きました。まさか壇上から、枢機卿猊下にウインクをいただくとは思いませんでしたので」
「ほっほっほ! お気づきでしたか。あの場では、お声をかけるわけにも参りませんでしたからな」
アロイジウスは愉快そうに笑い、卓の脇に用意された肘掛け椅子へ腰を下ろした。
「アロイジウス猊下。今宵もそちらの椅子にお座りか」
侯が声をかけた。
「ええ。この椅子は、実によろしいですな」
「寝椅子も、よいものを揃えたつもりだがの」
「存じております。しかし、わしはどうも、横になると眠ってしまいそうでしてな。まだ閣下にお願いせねばならぬことがございますので」
枢機卿は肘掛け椅子に座りすっかり落ち着いていた。侯もそれ以上は勧めず、家令に、小卓の位置を少し寄せるよう言った。
フェリックスはマルケッルスにならって左肘を枕へ預け、軍服の肩が引かれない位置まで枕を寄せた。右手で杯を取ったものの、戻す場所には少し迷った。
隣のマルケッルスが、低い台を指した。
「そこへ置いて大丈夫です。小皿も右側へ参ります」
杯を戻してみると、立って眺めていたときより、器はずっと近かった。
「……思ったほど、食べにくくはなさそうです」
「最初の皿を召し上がれば、すぐ慣れますよ」
「マルケッルス卿は、よくここへ?」
「何度か、侯にお招きいただいています。ですが、私も最初は、給仕から皿が来るたびに起き上がっていました」
マルケッルスも枕の位置を直し、先ほどより少し肘を外へ出した。それを見てフェリックスも肩の力を抜いた。
侯は自分の席から、客が落ち着くのを眺めていた。その侯へ、食卓を挟んだ向こうから声がかかった。
「侯爵閣下。あちらが、先日お話しくださった銀の酒器ですな」
ファウスティヌス金枝伯が、壁際の飾り台へ目を向けていた。
「おお、気づいたか。どうだ、あの葡萄の蔓の細工は。底の方もなかなかのものなのだぞ」
「それはぜひ拝見したいものです。ただ、あいにく私の席からでは、取っ手の半分も見えませんな」
「こちらの席からは、よく見えますぞ」
ケンペレン伯が口を挟んだ。
「細工の具合もよく分かる。侯には、よき席をいただきました」
「ほう。それは結構なことですな」
ファウスティヌス金枝伯は微笑んだ。
「旧帝国以来の譜代の伯爵家には、やはりよい席をお選びになる。さすがはグレーフェンベルク侯爵閣下です」
ケンペレン伯も微笑み返した。
「いやいや、私どもケンペレン家など、創家から四百五十年少々という旧い歴史だけが取り柄でございます。今をときめく金枝伯ほどの方に不自由をおかけしては、申し訳ない。よろしければ、お席を代わりましょうか?」
「いやいや。侯がお決めになった席を変えるなど、とてもとても。私などは、
「まことに。金枝伯は時代に恵まれたようだ。新しいお名前に、新しい聖爵位。羨ましい限りですな。ですが、ありがたいことに、当家は昔からの看板を変えずとも、今なお十分に通用しておりますので」
「それはようございました。……いつまでも通用するとよろしいですな」
「お気遣い痛み入ります。おや?そういえばグレーフェンベルク侯も〈聖名〉などには改名せず、当家と同様に昔からのお名前のままでいらっしゃいました。当家は候とご一緒できて、実に心強いことです」
グレーフェンベルク侯は、二人の応酬に口を挟まなかった。扇子を手にしたまま、双方の顔を交互に眺めている。ときには、喋っている者よりも、それを聞いている者の表情へ長く目を留めた。
やがて二人がにこやかに杯を手にすると、侯は声を上げて笑った。
「まったく、卿らは顔を合わせればこれだ」
侯は家令を呼んだ。
「食後には、あの銀の酒器を庭へ運べ。灯も用意せよ。皆でゆっくり見るぞ。底の銀細工もな」
「承知いたしました」
フェリックスが隣を見ると、マルケッルスは口元を引き締めていた。
「……さっそく前哨戦の撃ち合いが始まりましたね」
フェリックスも声を落とした。
「今のは痛み分けでしょうか?」
「ケンペレン伯の方が、少し押したと思います。最後に侯爵閣下のお名前を持ち出したでしょう。あれ以上、旧い家名をからかえば、侯爵閣下まで侮辱することになります。もっとも、金枝伯はあれで退く方ではありません」
「……詳しいですね」
「何度も観戦しておりますので」
マルケッルスは真顔で答えたが、フェリックスと目が合うと、とうとう小さく笑った。
二人の老貴族はもう何事もなかったように、にこやかに杯を手にしている。隣の青年とは退屈せずに話せそうだった。それだけでも、来た甲斐はある。
やがて、温かな水を入れた器と布が運ばれた。手を洗い終えると、アロイジウス枢機卿が母なる地球へ短い祈りを捧げた。マルケッルスは両手を合わせ、静かに頭を垂れた。フェリックスも口を閉じて待った。
祈りが終わると、給仕が卓の開いた側から入ってきた。
籠に掛けられていた布が取られ、焼きたてのパンの匂いが広がった。丸いパンには深い切れ目が入り、その縁が濃い褐色に焼けている。給仕が割ると、薄い皮が小さく鳴り、内側から湯気が上がった。
白い皿には、薄い緑の皮を残した梨が並べられていた。その間に柔らかいチーズが置かれ、刻んだ香草が少量添えられている。梨の切り口には果汁が浮き、灯を受けて光っていた。
フェリックスは、まず梨だけを口へ運んだ。
皮ぎわにわずかな歯触りがあり、その先の果肉は舌で押すだけで崩れた。冷たい果汁が広がり、呑み込んでからも甘い香りが鼻へ抜ける。熟しきった甘さのあとに、ほんの少し酸味が残った。
杯へ伸ばしかけた手を戻し、もう一切れ取った。
「チーズを載せて一緒に食べても、おいしいですよ」
マルケッルスが勧めた。
言われたとおり、梨にチーズを少し載せて食べてみた。柔らかなチーズは果肉と一緒に溶け、塩気が加わると、さっきより甘みがはっきりした。刻んだ香草を噛んだところだけ、清々しい香りが立つ。
「うん、うまい」
フェリックスは皿を見てから、隣の青年へ顔を向けた。
「……なあ、マルケッルス。階級も歳も同じなんだ。もっと気楽に話さないか。俺のこともフェリックスと呼んでくれ」
マルケッルスは少し驚いたようだったが、すぐに笑った。
「いいのか?」
「もちろん。俺、お前でいこう」
「分かった。よろしくな、フェリックス」
「ああ、よろしく。ところで、お前はいつもこうして食べるのか?」
「いや。実は俺、梨とチーズは別々に食べる方が好きなんだ。どっちも上等なものだから、それぞれの味をじっくり楽しみたい」
フェリックスは隣の皿を見た。マルケッルスは梨だけを先に食べていた。
「なんだよ。さっき俺に勧めた方と違うじゃないか」
「せっかくだから、フェリックスには両方試してもらおうと思ってね」
「なるほどな。俺は一緒に食べる方が好きだ。梨の甘さとチーズの塩気が合わさって、一足す一が三になる。そんなうまさがあるだろ」
フェリックスがチーズをもう一片取ると、マルケッルスも、自分の皿に残っていた梨を口へ運んだ。
給仕が注いだ酒を飲むと、蜂蜜の香りがした。甘いが、葡萄酒の酸味も残っている。チーズの塩気によく合い、もう一口飲んでから杯を置いた。
「梨はお気に召しましたかな、大尉」
ケンペレン伯が、こちらを見ていた。
「はい。とても。この梨は、こちらで作られたものですか?」
「私どもが世話をしている荘園から送らせたものです。出荷を見ている者が、食べ頃をよく分かっておりましてな。今夜召し上がるなら、是非これを、と選んできたのです」
ケンペレン伯は自分の皿にも手を伸ばした。口へ入れる前に香りを確かめ、満足そうに食べた。
「帝国の皇帝陛下のお口にも合いますかな?」
フェリックスは杯を置いた。
「陛下のご感想までは、お約束できません。ですが、私の分をもう一皿いただけるなら、喜んで頂戴しましょう」
ケンペレン伯は喜び、今度は主催者を振り返った。
「それは、何よりの御返事です。侯、まだありましょうか?」
「十分にある。大尉にマルケッルス卿、若い者が遠慮するでないぞ」
「では、私ももう一皿。若い者の特権は、使えるうちに使っておきませんと」
侯が愉快そうに笑うと、マルケッルスも笑って給仕にお代わりを頼んだ。
二人の前へ新しい皿が置かれる。今度のフェリックスは、初めから梨とチーズを一緒に取った。向かいではケンペレン伯が、隣の客へ栽培の話を始めていた。実の大きさを誇るだけでなく、どの程度まで熟したものを出せるかについても、細かな注文があるらしかった。
次に届いたのは、薄切りの卵を重ねた温かい皿だった。
白身と黄身が鱗のように並び、その下から魚の焼けた匂いがする。匙を差し入れると、卵の下には厚く切った鮪が隠れていた。表面には焼き色がつき、ほぐした身の間から汁が滲んでいる。
卵と一緒に口へ運ぶと、魚の脂を、酢のきいたソースがさっぱりと食べさせた。黄身が汁を吸って柔らかく崩れ、あとから香草と胡椒が香る。
フェリックスはパンを小さくちぎり、皿に残った汁を含ませた。焼けた皮の香ばしさに、魚の濃い旨みが重なる。
「そのソースには、魚から造った調味液を使っておる。『ガルム』というものだ」
侯が、こちらの食べ方を見て言った。
「うちでは葡萄酒と酢を合わせておるが、なかなかよかろう」
「ええ。パンが足りなくなりそうです」
「それはよい。遠慮なく食べてくれよ」
侯は給仕へ合図した。新しいパンが置かれたのを確かめると、自分も卵の下へ匙を入れた。
フェリックスが二切れ目の鮪を取っていると、ケンペレン伯が話を戻した。
「今宵の梨を、聖都でもっと気軽に召し上がっていただければよいのですがな」
「聖都では、この梨はなかなか手に入らないのですか?」
「当家の荘園からこちらまで運んでくるのが一苦労でしてな。うちの家の港には、聖都へ直接向かう定期貨物船が寄らんのです。今夜の分は特別に手配しましたが、毎度こうして運んでいては、運賃ばかり掛かってしまう」
「それは、もったいないですね。こんなにおいしい梨なのに」
「まったくです。ところが、ちょうどよい話がありましてな」
ケンペレン伯は少し声を弾ませた。
「聖都へ荷を運ぶ定期貨物船が、来期から寄港先を一か所増やす計画だというのです。ぜひ我々の家の港を選んでもらえないかと、船会社に申し入れております」
「定期船なら、梨だけでなく、ほかの作物も一緒にたくさん運べますね」
「そうなのです。今よりずっと多くの農作物を聖都に出荷できるようになる。荘園が大繁盛するだけではない。港で荷を積む者たちにも仕事が増えます。当家の者は皆、もう大張り切りでしてな」
ケンペレン伯は笑ったが、すぐに少し困った顔になった。
「実は、まだ船会社が承諾したわけではないのですが、つい家の者に景気のよい話をしてしまいましてな。帰ったらどうなったか、結果をすぐに知らせろと言われております」
「それは、ぜひよい知らせを持って帰りたいですね」
「ええ。そのためにも、今夜は侯爵閣下にお力添えをお願いするつもりでしてな」
フェリックスは、脇に置かれた梨の皿を見た。
これほどおいしいものが採れるのに、運ぶ船がないために売り先が限られているという。
聖都へ直通の定期船が寄るようになれば、荘園だけでなく、港で働く人々の暮らしも豊かになるのだろう。
ただ、その定期船を自分の港へこそ呼びたい人物は、ほかにもいた。
食卓の向かいにいるファウスティヌス金枝伯であった。
ケンペレン伯が侯へ向き直ると、フェリックスは隣のマルケッルスへ少し身を寄せた。
「なるほど、見えてきたぞ。ケンペレン伯は荘園に近い自分の家の港へ定期船を呼びたい。ファウスティヌス金枝伯は、自分の家の港へ定期船を呼びたい。どっちも侯を自分の味方につけたい。そういうことか?」
「ああ。ケンペレン伯の港なら、農産物をそのまま本船に積んで聖都に出荷できる。ファウスティヌス金枝伯の港なら、大きな集荷倉庫があるから、近隣から荷を集めてまとめて大量の作物を積める。どちらも船会社へ話を持っていってるんだ。だが、選ばれるのは、どちらか一方だ」
「で、侯爵閣下の後押しを得た方が勝つ、と」
「荷物を積んだとしても、聖都の港で下せなければ商売にはならん。グレーフェンベルク閣下は、聖都の港で荷を積み下ろすための『利用枠』を多くお持ちなんだ。それを使って聖都で荷下ろしする許可を侯から得られるかどうかが、決め手になる」
フェリックスは、向かい合う二人の老貴族を見た。
「……これは貴族同士の『戦』ってわけか」
「戦?」
「たった一つの寄港地を取り合って、味方を増やして、相手より有利な条件を揃えて、言葉を弾にしてお互い撃ち合う。俺たちが普段やってることと、そう変わらない」
マルケッルスは少し考えてから答えた。
「たしかにな。そう考えると、今夜いちばん忙しくなるのは侯爵閣下だろう」
「……ああ、そうだな。侯は、二人のうちどちらを選ぶか」
フェリックスは、満足そうに酒杯を傾けている侯へ目を向けた。
魚の皿が下げられるころ、食堂の入口から、肉の焼ける濃い香りが届いた。
二人の給仕が、大きな銀盆を運んできた。
載っているのは仔豚の丸焼きだった。皮は艶のある飴色に焼け、肩から背にかけて、細かな泡の跡が残っている。盆の底には澄んだ脂と肉汁が溜まり、添えられた香草まで濡れて光っていた。
切り分け役が刃を当てると、皮が乾いた音を立てて割れた。腹側を開くにつれ、中から短い腸詰が幾つも現れる。焼けた肉の匂いに、胡椒と香草の香りが加わった。
「これは驚きました。中に腸詰まで入っているんですか」
フェリックスが言った。
「うむ。旧い物語に、豚の中から腸詰が出てくる宴の話があってな。一度やらせてみたら、これがうまいことよ。以来、料理長に頼んでおる」
侯は切り分けられる肉を、自分でも楽しそうに眺めていた。
フェリックスの皿には、皮のついた肉と腸詰が一本、それに柔らかく煮た白い豆が盛られた。給仕が小さな匙で肉汁を回しかける。皮にはかけず、切り口と豆の上へ落としていた。
まず、皮の端がついた一切れを口へ運んだ。
噛むと皮がぱりりと割れ、その下から柔らかい肉と熱い脂がほどけた。焼けたところの塩気が濃く、肉の内側はしっとりしている。急いで呑み込むのが惜しくなり、何度かゆっくり噛んだ。
腸詰はまた違った。薄い皮に歯を入れると、粗く挽いた肉の歯応えがあり、胡椒が利いている。仔豚の肉汁を吸った豆を添えると、辛さが和らいで、もう一口食べたくなった。
隣のマルケッルスも、しばらく何も言わずに食べていた。
フェリックスは、パンを一切れ残しておいてよかったと思った。皿の底に溜まった汁を、その白い内側へ吸わせる。指に触れた皮はまだ温かく、口へ運ぶと、小麦と焼けた脂の香りが一緒になった。
向かいでは、ケンペレン伯が給仕へ肉の切り口を示し、もう一切れ頼んでいた。ファウスティヌス金枝伯も腸詰を食べ終え、空いた皿の縁へ匙を置いている。
給仕が新しい葡萄酒を注ぐと、ケンペレン伯は杯を取った。
その動きへ、ファウスティヌス金枝伯が穏やかに声をかけた。
「待たれよ、ケンペレン伯。もう少しお待ちになった方がよろしい。杯の中で香りが開きます」
ケンペレン伯は杯を持ったまま、相手を見た。
「……金枝伯は、待つのがたいそうお上手らしい。御家の倉庫の荷にも、そのように待たせるのか?」
「酒は待てばよくなるものを選んでおります。荷については御心配なく。決してお待たせいたしませぬ」
ケンペレン伯は返事をせず、酒を一口飲んだ。それから杯を置き、侯へ向き直った。
「グレーフェンベルク閣下。梨の産地である当家の管理する港から直接定期船に積めれば、聖都まで途中の積替えも保管も要りません。今まで運賃が高くて出荷を諦めていた者にも、売り先ができましょう。ぜひ、お力添えをいただきたいのです」
「まことに結構なお話ですな」
ファウスティヌスが、布で口元を拭ってから言った。
「ただ、船は梨の実る季節にだけ走るわけではございますまい。私どもの家の港でしたら聖都にも近く、近隣から一年を通じて荷を集められます。今の定期航路からも、大きく外れずに済みますのでな」
そこでケンペレン伯へ目を向け、気遣うように付け加えた。
「おっと、これは失敬。御家のお膝元を、聖都から遠く離れた
ファウスティヌス金枝伯は、最後の言葉を侯に向けて言った。
グレーフェンベルク侯は肉を一切れ口へ運び、ゆっくり噛み終えると、今度はケンペレン伯の方へ顔を向けて目を細めた。
何も言わなかったが、フェリックスには「次はお前が反撃する番だ」と促しているように見えた。
ケンペレン伯が口を開いた。
「……金枝伯の家の港が定期船の寄港地になれば、私どもの港からそちらの倉庫へ輸送し、また積み直すことになりましょう。その費用は当家の荘園の者たちが払うのでしょう。御立派な倉庫を使わせていただくのは光栄ですが、その分、聖都で売る梨の価格も上がりましょう」
「もちろん、倉庫の使用料として相応の代価は頂戴いたします。ですが、まとまった量の荷が集まらなければ、そもそも定期船は来てくれなくなりますぞ。ケンペレン伯の荘園だけで、一年中、定期船の船倉をいっぱいに満たせるのでしょうかな?」
グレーフェンベルク侯は、皿に残った豆をすくって食べた。酒を一口飲み、それから杯を置いた。
「うむ。どちらの言い分も分かった。それで、ケンペレン伯。荷の足りぬ月はどうするつもりかの?」
「そこは、すでに手を打ってございます」
ケンペレン伯は懐から端末を取り出した。
「船会社が求める運賃収入に届かない月は、不足分を当家が補償いたします。向こう二十年分の保証料を、一括でお支払いする用意がございます」
端末には、確実に積める荷と、船会社が求める量に不足した場合にケンペレン家が補償する金額が二十年分示されていた。
前室で随員たちと確かめていたのは、この数字だったのだろう。
侯が画面を覗き込んだ。
「ほう。卿の家だけで、そこまで出すか」
「軽い金ではございません。ですが、我が家に仕える荘園や港の者たちの仕事につながるのであれば、その値打ちはあると思っております。そのうえで、侯爵閣下にお願いがございます」
「来ると思うておったぞ。申してみよ」
侯は笑った。
「聖都の港にお持ちの荷役枠を、お貸しいただきたいのです。船会社から求められているのは、運賃収入の保証と、聖都で荷を積み下ろすための利用枠。その二つでございます」
「銭は伯が出す。荷を扱う場所と時間は、わしに用意せよと申すか」
「はい。私の方でできることは、用意してまいりました」
「わしが断れば、どうする?」
「そのときは、梨の評判だけを持って帰ります。大変お褒めにあずかったと」
侯は声を上げて笑った。
ケンペレン伯は笑わずに待っていた。隣の客も食事の手を緩め、主催者へ顔を向けている。
侯はもう一度、端末の数字を確かめた。
「よかろう。当家の空いている荷役枠は、ケンペレン伯の荘園のために使えるようにしよう。細目は家宰と詰めよ」
「ありがとうございます、閣下!」
ケンペレン伯は身体を起こし、深く頭を下げた。
「港の者たちにも、閣下のお力添えを伝えます」
「うむ。当家の名も出るのだ。最後まで頼むぞ」
「承知いたしました」
これで、ケンペレン伯は船会社が求める二つの条件を揃えた。
フェリックスは皿へ目を戻した。切りかけた腸詰が、そのまま残っていた。
今夜のために梨を選んだケンペレン伯爵家の者や、港で新しい仕事を待っている者には、このやり取りは見えていない。だが伯爵が帰ったら、侯の助力を得たと知らされるのだろう。
顔を上げると、侯はもう端末を返し、給仕から次の酒を受けていた。ケンペレン伯はその横顔へ丁重に一礼してから、ようやく自分の食事へ戻った。
アロイジウスが侯に声をかけた。
「侯爵閣下。ひとつだけ、確かめさせてくだされ」
「何かな、アロイジウス猊下」
「先日お願いした診療所への救済貨物ですが、あちらの受け渡しには差し支えありませんな。先方では、荷が届く日に合わせて人を集めねばなりませんので」
「むろんよ。猊下にお約束した分は、別に手配しておる。教団の荷を後回しにしてまで、あの二人を競わせるつもりはないぞ」
「おお、それなら安心しました。何しろ、わしが帰ってから返事を待っている者がおりますのでな」
「まったく、猊下もケンペレン伯も、わしのところへ来ると仕事の話ばかりだの」
「仕事を持ち込んでよいと仰せになったのは、閣下ですぞ」
侯は声を立てて笑った。
「さて、ミッターマイヤー大尉。せっかくの宴席が無粋な話ばかりになってしもうたの。退屈しておるのではないか?」
侯に声をかけられ、フェリックスは口の中のものを呑み込んでから答えた。
「いえ。よろしければ、最後まで伺っていたいです。……まだ、これで終わりではないのでしょう?」
相手への気遣いだけで答えたのではなかった。フェリックスは皿を少し脇へ寄せ、三人の顔が見えるように身体を起こした。
「いかにも。若いのに、よう見えておるな」
侯はファウスティヌス金枝伯へ向き直った。
「さて、金枝伯。これを聞いて、どう申す。お主のことだ。腹案があろう?」
ファウスティヌスは、ゆっくりと杯を置いた。
「はい、もちろん。今宵のお話はこれからでございます。ケンペレン伯は立派な御用意をなさった。であれば、当家も相応の条件をお出しいたしましょう」
――「お前、そのノイマン嬢のことが好きなんだろ?」
次回、『グレーフェンベルク侯の晩餐会(後編)』
【人物図譜】
エードゥアルト・フォン・グレーフェンベルク侯爵
【挿絵表示】
【挿絵解説:グレーフェンベルク侯爵邸のローマ式晩餐室】
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神聖黄金樹教国の首都ラディークスにある、グレーフェンベルク侯爵邸の晩餐室。フェリックスたちが招かれた宴席の会場である。
古代ローマの上流階級には、椅子に座るのではなく、寝椅子に横たわって食事をする習慣があった。その代表的な形式が〈トリクリニウム〉である。
中央の低い食卓を三方から寝椅子で囲み、残る一方を給仕のために開けておく。古典的な形式では、一つの寝椅子に三人ずつ、合計九人が食卓を囲んだ。席の位置には序列があり、主催者と客人の身分や関係によって配置が決められた。
食事の際には、左肘を枕に預け、身体を斜めに横たえて上半身を支える。右手は自由に使えるため、料理や杯を取ることができる。大きな料理は給仕が切り分け、客の手元へ運ぶ。完全に仰向けになるわけではない。
なお、手前に置かれた肘掛け椅子は、寝椅子を好まないアロイジウス枢機卿のために用意されたものである。
古代ローマの饗宴文化を再現しながら、旧帝国門閥貴族の豪奢な美意識と、神聖黄金樹教国の宗教的意匠が融合した空間である。