【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月末 神聖黄金樹教国 聖都ラディークス グレーフェンベルク侯爵邸】
ケンペレン伯の案は、グレーフェンベルク侯の支持を取り付けた。
だが、ファウスティヌス金枝伯はまだ諦めておらず、ここから巻き返す腹案があるという。
「さて、マルケッルス
ファウスティヌスは、それまで交渉には加わっていなかった青年へ顔を向けた。
銀葉子爵?
フェリックスは思わず隣を見た。
『銀葉子爵』は、教国が授ける聖爵位の一つである。
教国軍第一聖団の聖一尉と名乗ったマルケッルスが、貴族称号まで持っているとは思わなかった。
グレーフェンベルク侯に目をかけられている若い軍人だとばかり思っていたが、この若さで聖爵位まで授かっているとは、どうやらただ者ではないらしい。
――こいつ、早く言えよ。
もちろん、爵位を知ったところで態度を変えるつもりはない。
だが、先ほどまで隣で一緒に貴族たちの駆け引きを眺めていた青年が、急にその当事者の一人に見えてきた。
「御家の荘園も、この話に加わられませんかな。御家の荷を、当港の倉庫からまとめて聖都に輸送いたしましょう。倉庫の保管料と積替え料も、これまでより大幅にお安くいたしましょう」
要するに、ファウスティヌス金枝伯は、マルケッルス銀葉子爵に援軍を求めたのである。
突然話を振られたマルケッルスは驚かなかった。
「ありがとうございます、金枝伯。実は、御家の港に新しい定期便ができるならぜひ参加を考えたいと、当家の荘園の者たちから相談を受けておりました」
「ほう。それは結構なお話ですな」
「……ただ、現在の金枝伯の港の料金では、少々厳しいところがございまして」
マルケッルスはそこで言葉を切り、微笑んだ。
「金枝伯からこのようなお声がかかることもあろうかと、私も一品、用意してまいりました。侯爵閣下の銀器ほど見栄えのする品ではございませんが、こちらも少々、手をかけたものでございます」
そう言って軍服の内懐から携帯端末を取り出し、ファウスティヌスへ画面を向けた。
「どうぞ、御覧ください。この料金へ港の料金を値下げしていただけるなら、私は、金枝伯の港への寄港を支持いたしましょう。いかがでしょう?」
ファウスティヌスは画面を眺め、それから青年の顔を見た。
「……これは驚きましたな。私からお話を持ちかける前に、銀葉子爵におかれては既に具体的なお値段まで御用意とは」
「若輩者の分際ではございますが、金枝伯のお考えを、少々先回りさせていただきました」
「はっはっは! なるほど。さすがはマルケッルス銀葉子爵。若いのに、なかなか抜け目がございませんな」
ファウスティヌスは、もう一度数字を確かめた。
「よろしい。その料金でお引き受けいたしましょう」
「ありがとうございます。では、当家はファウスティヌス金枝伯の案を支持いたします」
二人は杯を掲げた。
向かいのケンペレン伯が、それを眺めていた。
「……ほう。金枝伯は、頼もしい援軍を得られたようですな」
フェリックスは隣のマルケッルスを見た。
自分と同じ年齢、同じ軍の階級に相当する青年が、老練な金枝伯を相手に、大幅な値下げを認めさせたのである。
先ほどまでケンペレン伯が優勢だった交渉は、これで二対一になった。
金枝伯家と銀葉子爵家という〈聖章貴族〉の二家が組み、世俗貴族のケンペレン伯に対抗する構図である。
グレーフェンベルク侯は、上機嫌で三人の教国貴族の顔を順に眺めていた。
「ほっほっほ。マルケッルス卿も、なかなかやるのう」
「いやはや、まったくでございます。ここまで値切られるとは。若い方も侮れませんな」
ファウスティヌス金枝伯は苦笑いした。
「さて、金枝伯よ。卿の港にマルケッルスの家の荷が加われば、定期船の積荷はどの程度増えるのかの」
「かなりの量になります。一年を通じて、安定した荷を用意できる見込みでございます」
「それは結構。だが、定期船の船倉を満載にするには、周辺諸家の荷を集めてもまだ足りぬのではないか?……さらに、ケンペレン伯の家の農産物まで加わればいかがかな?」
ファウスティヌスは、向かいの伯爵へ目を向けた。
「仰せの通りです。船会社を撤退させぬよう、ケンペレン伯にもぜひ御参加いただきたいところです」
「そうよの。では、ケンペレン伯の荷もまとめて金枝伯の港で預かるなら、さらに港の料金を安くできるのではないか?」
「……閣下。先ほどから、私ばかり値切られているような気がいたしますぞ」
「気のせいよ。わしはお主の商売が繁盛するよう、親切に相談に乗っておるだけだ」
侯が平然と答えると、マルケッルスまで笑った。
ケンペレン伯は笑わず、侯に尋ねた。
「……閣下。先ほど私にお約束くださった荷役枠の話は、どうなりますかな?」
「むろん、約束は変えぬ。ケンペレン伯が自家への直接寄港を選ぶなら、当家の枠を使うがよい」
侯はそう答えてから、少し声を改めた。
「ただ、金枝伯の港に、お主の荘園も含めて周辺諸家の農産物を集める案にも、捨てがたい利点があろう。荷が集まれば、船会社も喜ぶであろうよ。伯の家が毎年多額の保証料を払わずとも、定期船を維持できるようになるやもしれぬ」
「しかし、それでは私どもの港に定期船は来ません。当家の者たちは心待ちにしております」
「うむ。だが、そこは伯がよく考えねばならぬところだな」
侯は杯を置いた。
「そこで一つ、わしからも提案がある。三家で金枝伯の港を使うというなら、船会社が求める運賃収入の保証は、我がグレーフェンベルク家が全額を支払おう。これなら、伯が用意した二十年分の保証の金も、定期船につぎ込まずに済むな」
「……なんと。保証料を、すべて侯爵家が負担されると?」
「そうよ。ただし、わしが銭を出す以上、船会社との交渉は当家で取りまとめさせてもらうぞ」
ファウスティヌス金枝伯が顔を上げた。
「……なるほど。侯爵閣下も、しっかり御自分の取り分をお考えですな」
「わしにも、守らねばならぬ家があるのでな」
侯は笑って、ケンペレン伯へ向き直った。
「どうじゃ、伯。もちろん、先ほどの約束は変わらぬ。お主の港へ直接船を呼ぶか、金枝伯の港を使うか。二つの案をよく比べて、決めるがよい」
そのころには、給仕が仔豚の皿を下げ始めていた。
代わって運ばれてきたのは、焼いた栗と蜂蜜菓子だった。栗は薄い皮に切れ目が入り、まだ温かい。小さな焼き菓子には蜂蜜が塗られ、砕いた木の実が散らしてある。
フェリックスは菓子を一つ取った。表面はさくりと軽く、内側はしっとりしている。噛むと焼けた小麦と蜂蜜の香りが広がり、木の実の歯応えが残った。甘さは強いが、少し塩気もあって、続けてもう一つ食べたくなる。
隣のマルケッルスは栗を剥いていた。薄い皮を外すと、黄色い実が現れる。フェリックスも真似して一つ割った。まだ温かく、ほくほくした甘みがあった。
侯は給仕に酒を注がせ、ほかの客にも菓子を勧めている。ケンペレン伯の返事を急がせるつもりはないらしい。
ケンペレン伯は、端末に表示された二つの案を見比べていた。
自家の港に定期航路を誘致すれば、大型貨物船が入港する姿を領民たちに見せられる。港の荷役業者にも新たな仕事が生まれるだろう。
だが、そのためには船会社が求める巨額の最低運賃収入を保証しなければならず、伯爵家は少なくとも今後二十年間、多額の負担を背負うことになる。契約が更新されれば、その先も莫大な金額の支出は続く。
一方、金枝伯の港への寄港を認める案では、船会社への保証料を侯爵家が全額負担することになるため、ケンペレン伯家には一切の支払いが生じない。そればかりか、金枝伯の港の倉庫を従来よりも大幅に安い料金で利用でき、そこを中継港として、荘園の農産物を聖都へ出荷することもできるようになる。
金銭的な損得で判断するなら、答えは明白だった。
金枝伯の案を受け入れる方が、ケンペレン伯にとってはるかに有利になったのである。
「……港の者たちは皆、当家の港に定期船が来るのを楽しみにしておりましてな」
ケンペレン伯が、ぽつりと言った。
「荷役をする連中など、もう仕事の算段を始めているそうです。船が来ぬとなれば、私から説明せねばなりません」
「それは、さぞ残念がるであろうな」
侯が答えた。
ファウスティヌスは、ここで口を開いた。
「ケンペレン伯。御家の港から仕事がなくなるわけではございませんぞ。荘園からの荷を集め、選別し、当家の中継港へ送り、聖都へ出荷できるようになる。むしろ出荷量は激増しましょう。そのための小口船も必要になります。もちろん、出荷量が増えれば、地元の港にも新しい仕事が生まれます」
「しかし、港の者たちは、大きな定期船が来るのを待っているのです」
「ええ。それは承知しております。ですが、船会社が長く寄港を続けられることも、大切ではございませんかな。御家だけで、定期船の求める莫大な積荷量を支えるのは限界がございましょう」
「金枝伯のおっしゃることは、よく分かります。御家の港を使えば、当家の荘園も港も、今より……いや、定期船が当家に寄港する場合よりも潤うのでしょう。ですがな、金の勘定は、家の者の目には見えにくい。あの巨大な定期船が、決まった日に自分たちの港へ入ってくる。あの船影を見るだけで、『自分たちは聖都と直接つながっているのだ』と、皆が安心できるのです。『誇り』にもなる」
ケンペレン伯は、ファウスティヌス金枝伯へ目を向けた。
「聖都に近い港をお持ちの金枝伯には、少々お分かりになりにくいかもしれませんな。我々のような田舎者にとっては、金の損得には代えがたいものがあるのですよ」
金枝伯は、卓上の端末を指した。
「ケンペレン伯。御家が二十年分もの保証をご用意なさったことは、まことにご立派です。ですが、その保証に頼るよりも、実際の荷を増やして船会社に利益を出してもらう方が、商売としては長続きいたしましょう。マルケッルス銀葉子爵の御家をはじめ、周辺の荘園からさらに荷が集まれば、なおさらでございます」
ケンペレン伯は答えず、画面へ目を戻した。
「伯。私も倉庫の料金を大きく下げ、小口便の運賃も一部引き受けます。侯爵閣下が巨額の保証料を全額御負担くださる。あとは、御家の農産物をお預けいただければ、私どもの案は船会社にとっても相当魅力的なものになるはずです」
「……わかり申した」
ケンペレン伯は、ゆっくり頷いた。
「確かに、直接船を呼ぶために毎年大金を使えば、その分、荘園や港の設備に回せる金は減ってしまう。今の中継案なら、荷を出す者たちの負担も軽くなりますな」
伯爵はしばらく考えていたが、やがて端末を伏せた。
「……金枝伯の港を使わせていただきましょう」
伯爵は少し笑った。
「もっとも、港の者たちには、定期船が来ないことを私から説明せねばなりません。少々、恨み言を聞かされることにはなりそうですが」
「よくぞ決断された、ケンペレン伯。その節は、どうぞ私の名前もお出しください。御家の港へも一度私が直接伺い、貴家で荷を扱う者たちと話をさせていただきましょうぞ」
「ほう。それはありがたい。ぜひお願いしたいところですな」
ファウスティヌスは杯を置き、丁重に頭を下げた。
「では、御期待に沿えるよう、私も努めましょう」
「くれぐれも、梨を倉庫に寝かせたままにせんでくださいよ。金枝伯のお好きな酒とは違いますからな」
「心得ております。酒の話を、ずいぶん覚えておいでだ」
「頂戴したお教えは、大事にする方でしてな」
二人が笑うと、グレーフェンベルク侯も満足そうに頷いた。
「うむ、よい話になった。これなら船会社も、なかなか断れまい」
侯は家令を呼び、三人の貴族へ向き直った。
「明朝、それぞれの家から担当者を寄越すがよい。当家の家宰に条件をまとめさせよう。マルケッルス卿も、御家の荘園の方々へよろしく伝えてくれ」
「承知いたしました、閣下」
マルケッルスが答えた。
「船会社には、当家から正式に申し入れるぞ。もちろん、向こうが承諾して初めて定期便が決まる。皆、それまで気を抜くでないぞ!」
侯は三人の教国貴族を見渡すと、ぱちりと扇子を閉じた。
「それにしても、四つの家門が一つの定期船航路のために手を結ぶとは、なかなか壮観ではないか。そうだ、今宵の盟約を、旧きローマの言葉にあやかり〈四紋章の盟約《フォエドゥス・クァットゥオル・インシグニウム》〉と名付けようではないか!」
「……閣下。いささか大仰ではございませんかな」
ファウスティヌス金枝伯が苦笑した。
「大仰で結構! 教国を支える四家の紋章が並ぶのだぞ。これくらい立派な名前でなくては、格好がつくまい」
「船会社が、名前に恐れをなして逃げ出さなければよろしいのですが」
ケンペレン伯が言った。
「ほっほっほ! 名は立派に、条件は堅実に。そこは皆に頼むぞ」
侯は杯を掲げた。
「では、〈四紋章の盟約〉に!」
三人も笑いながら杯を掲げた。
「さて、アロイジウス猊下」
侯は、肘掛け椅子に座る枢機卿へ向き直った。
「せっかくお越しくださったのだ。今宵の盟約に、誓約の証をいただけるかな」
「おお、ようやくわしの出番ですかな。では、皆様のお約束を確かめさせていただきましょう」
アロイジウスは椅子から立ち上がった。
家令が銀の盆を運んできた。盆には、黄金樹の枝葉を縁にあしらった薄い記録板が載っている。
枢機卿は四人に向き直り、先ほどまでとは少し違う、改まった声で告げた。
「グレーフェンベルク侯爵家、ケンペレン伯爵家、ヴァレリウス金枝伯爵家、ルキアヌス銀葉子爵家。四家は共同して、定期貨物船の寄港を船会社へ申し入れる。それぞれが今宵約した支援と負担を守る。これに相違ございませんかな」
侯が頷き、三人も同意した。
「結構。では、四家の御名を」
侯を最初に、三人が順に記録板へ署名した。四つの家門の紋章が並び、その下に署名と日付が記された。
アロイジウスは黄金樹の枝飾りを手に取り、胸元に掲げた。
「母なる地球の御前に、四家の盟約を証します。皆様が今宵交わされた約束を守り、力を合わせて、その事業を成し遂げられますように」
枢機卿が短い祈りを捧げると、四人は静かに頭を垂れた。
最後にアロイジウス自身が立会の印を加えた。
「これでよろしい。この証書は聖録院へ送り、記録として保管させましょう」
「おお、ありがたい! これで〈四紋章の盟約〉も、後世に名を残すことになるの」
侯は大いに喜んだ。
こうして、金枝伯の港を集荷の拠点とする四家の盟約が成立した。
周辺の荘園から農産物を集め、聖都の大市場へ送る新しい定期航路が生まれることになる。
「やれやれ。今夜は、ゆっくり食事をする暇もございませんでしたな」
ファウスティヌスが侯に言った。
「そうか。ならば、菓子をもう一皿出させよう」
「ありがたく頂戴しましょう」
「卿の分は多めに盛らせよう。今日の働きへの報酬だ」
今度はケンペレン伯も笑った。
「ところで、ミッターマイヤー大尉。梨はもうよろしいかの?」
侯がフェリックスへ声をかけた。
「いえ。もう一皿いただけるなら、ぜひ」
「ほっほっほ。よろしい。帰りにも持たせてやろう。ケンペレン伯、かまわぬな?」
「もちろんでございます。帝国の大尉殿のお口に合ったと聞けば、荘園の者たちも喜びましょう」
ケンペレン伯は嬉しそうに答え、さらに言葉を続けた。
「もしよろしければ、帝国の皇帝陛下にもぜひお伝えくださいませ。いずれは帝国にも販路を広げたいと考えておりますので」
「ほっほっほ!伯爵、もう商売の話か。まことに抜け目のない男よ」
「良い品を広くお届けするのも、領主の務めでございますれば」
伯爵は少しも悪びれずに答えた。
フェリックスは、新しく運ばれてきた梨を、先ほどと同じようにチーズと一緒に食べた。やはりうまかった。
開宴のころ、二人の老貴族が銀の酒器をめぐって嫌味を言い合っていたことを思い出した。
あのときは、老貴族が互いに相手をやり込めようとしているだけに見えた。
だが今夜、相手に譲歩し、最後には共同で船会社と交渉することになった。
しかも、最初はただの同年代の食事相手だと思っていたマルケッルスまで、自家の荘園の利益を考え、老練な金枝伯を相手に値下げを認めさせ、聖都の市場への販路を獲得するという成果まで上げている。
そして侯は、皆の願いを聞き入れながら、自分の家を共同事業の中心に据えた。
これも『戦争』だ。
フェリックスは、そう思った。
たった一つの寄港地を巡って味方を増やし、相手の条件を探り、譲歩を引き出す。砲声一つ聞こえない食卓だったが、誰も簡単には引き下がらず、それぞれが自分の家の利益を守ろうとしていた。
もし自分が貴族の家を代表して交渉に臨んだら、この人々と対等に渡り合えるだろうか。
フェリックスには、答えが出なかった。
***
食後、客たちは庭へ移った。
列柱の向こうでは、水路に沿って小さな灯がともり、半円形の寝椅子が置かれていた。低い卓の手前を浅い水が流れ、庭のあちこちから話し声が聞こえる。
侯は待ちかねていたように家令を呼んだ。
「ファウスティヌス金枝伯に、例の銀器を」
夕食の初めに話題になった銀の酒器が運ばれてきた。侯は自ら酒器を伏せ、底に彫られた葡萄の蔓を、庭の灯にかざして見せた。
ファウスティヌスは身を乗り出し、細工をしばらく眺めてから言った。
「おお。見事なお品ですな。ただ、この葉はもう少し浅く彫ってもよかったのでは。洗う者は、さぞ苦労するでしょう」
「その陰影がよいのではないか。金枝伯なら、削ってしまうであろうがな」
「平らなら、私もここまで覗き込みません」
「ほれ。分かっておるではないか」
二人が銀器を傾けていると、ケンペレン伯まで近づいてきた。こちらから見ればもっとよいと口を挟み、三人で酒器の底を覗き込み始める。
フェリックスは、また何か駆け引きが始まるのかと思ったが、三人とも銀細工の話に夢中になっているだけだった。
そのとき、水路を小舟の形をした皿が流れてきた。干した果実と小さな菓子が載っている。
マルケッルスが小舟を押さえ、フェリックスが菓子を一つ取ると、再び水路へ送り出した。
「なあ、マルケッルス。これも古代ローマの風習なのか?」
「さあ。侯爵閣下に訊けば、詳しく教えてくださるだろうけど」
「けど?」
「話がかなり長くなるぞ」
「……じゃあ、今日はやめておこう」
「賢明だな」
二人は笑い、次の小舟が来るのを待った。
少し離れたところでは、ケンペレン伯がファウスティヌス金枝伯を呼び止めていた。
「金枝伯。来月あたり、私どもの荘園と港へもお越しいただけませんかな。荷の集め方や、港の仕事を御覧いただきたいのです」
「喜んで伺いましょう。ただし、今夜よりさらに料金を下げろと仰せになっては困りますぞ」
「そこまで厚かましくはございませぬ。現場の者たちと、直接話していただければ結構です」
「承知しました。こちらも、その方が仕事を進めやすい」
「当家の趣向を凝らした食事も御用意しますぞ。今夜の梨だけではありませんのでな」
「ほう、それは楽しみです」
侯が振り返った。
「次の会食の相談か。わしも行ってよいかな?」
「もちろんでございます。閣下がお持ちくださる酒も、楽しみにしておりますぞ」
「なんと。招かれるわしに、酒まで出させるか」
「閣下のお口に合うものを当家で選ぶのは、なかなか難しゅうございますので」
ファウスティヌスが笑った。侯も笑いながら、まだ開けるつもりのない酒の蘊蓄を語り始めた。
その近くでは、アロイジウスが肘掛け椅子に落ち着き、侯へ別の用件を持ち出していた。
「ところで閣下。先ほどの救済貨物ですが、到着予定は変わっておりませんかな。診療所の者たちにも、準備をさせねばなりませんので」
「予定どおりと聞いておる。受け渡しについては、辺境司牧院のエリーゼ・ノイマン嬢からも返事が届いておったぞ」
「おお、それはありがたい。あの方は細かなところまでよく気がつかれる。受取側への連絡も、わしの方で進めておきましょう」
エリーゼ・ノイマンという辺境司牧院の担当者は、聖都の中央宇宙港に席を置き、生活物資や救済貨物の受け渡しを担当しているらしい。
フェリックスの隣で、マルケッルスが顔を上げた。
「猊下。ノイマン嬢の仕事ぶりはいかがでしょうか」
「実によく働いてくださる方ですぞ。よくやっておられます」
「そうですか」
マルケッルスはそれだけ答え、菓子の皿へ手を伸ばした。
やがて話題は家族や跡継ぎのことに移った。ファウスティヌスは、家を継ぐ者の縁組には、本人の好みだけでなく、家を頼る人々の暮らしまで関わってくると語っていた。
すると、晩餐で向かいにいた痩せた客が、マルケッルスへ笑いかけた。
「そういえば、マルケッルス銀葉子爵。宮中では、あなたのことがたいそう評判になっているそうですな」
「私のことでございますか?」
「ええ。女官たちや貴族のご令嬢方の間で、これほど見目麗しい若君は滅多にいないと。おや、ご本人はご存じありませんでしたかな?」
マルケッルスは面食らった様子で、どう答えたものか迷った。
「いえ、そのようなお話は……」
「ははは。ご謙遜を。これほどの貴公子を、令嬢方が放っておくはずもありますまい。教国軍でも将来を嘱望されておられる方だ。そろそろ縁談などもお考えになる頃では?」
突然の問いに、マルケッルスは返事に詰まった。曖昧に笑ってやり過ごそうとしたが、痩せた客は答えを待っている。
困った顔でこちらを見たマルケッルスと目が合い、フェリックスはすぐに察して侯へ向き直った。
「閣下。先ほどの銀器ですが、底の細工をもう少し近くで拝見できますか?」
「おお、大尉も気になるか。よかろう、こちらへ来るがよい」
侯は嬉しそうに銀器を取り上げた。フェリックスが受け取って底を灯にかざすと、葡萄の葉の下に細い蔓が幾重にも重なり、角度を変えるたびに違った模様が浮かび上がった。
「これは見事ですね。普段は見えないところに、これほどの細工があるとは」
「そうであろう! ほれ、ここも見るがよい」
侯はすっかり上機嫌になり、銀細工の由来まで語り始めた。ほかの客たちも集まってきて、縁談の話はいつの間にか途切れていた。
フェリックスが銀器を返すと、隣のマルケッルスが小声で言った。
「助かったよ、フェリックス。縁談の話はしたくなかった。ありがとう」
「いいって」
フェリックスが笑うと、マルケッルスもほっとしたように笑い、杯を取った。
***
散会が近づくと、客たちは回廊へ戻り始めた。
マルケッルスが迎えの連絡を確かめに行くと、グレーフェンベルク侯はフェリックスを庭に沿う回廊へ誘った。
玄関の明かりはすぐ先に見えていたが、客たちの声は遠く、柱の外を流れる水の音が聞こえた。
「大尉は、今宵の宴をさぞ馬鹿馬鹿しく思っておったであろうな」
「……いえ」
「遠慮するでない。わしとて、枕の置き方まで家令に注文するのは、少々愚かしいと思うときがあるぞ」
フェリックスは少し迷ってから答えた。
「正直に申し上げれば、最初は少し。帝国の宮廷の宴にも慣れていますが、今夜も皆様のお話にお付き合いして、礼を尽くして帰ればよいと思っていました。まさか、あの席で定期船の寄港先を争い決着をつけ、枢機卿の公証を得た盟約まで四家で取り交わしてしまうとは思いませんでした」
「ほっほっほ。気楽な客もおらねば、わしも困る。皆がわしの懐ばかり当てにして来ては、酒がまずくなるでな」
侯は笑った。フェリックスも笑い、それから尋ねた。
「……閣下は、初めから金枝伯の港への寄港の方向で話をまとめるおつもりだったのでしょうか」
「いや。ケンペレン伯があれほどの金を用意してきたことも、金枝伯がマルケッルス卿を味方につけることも、知らなんだ」
「では、ケンペレン伯に荷役枠を使わせるというお約束も、本気だったのですね」
「無論よ。あそこで約束を翻せば、次からケンペレン伯はわしの言葉を信用すまい。金枝伯とて同じことよ」
フェリックスは頷いた。今夜の交渉は、侯が初めから筋書きを用意していたわけではないらしい。
「最後には四家の事業を、侯爵家が取りまとめることになりました。それに、船会社への二十年間の保証まで、侯が全額お引き受けになった。荷が集まらなければ、失礼ながら侯爵家は相当な金額を支払うことになるのではありませんか?」
「もちろんよ。金枝伯の港に荷が集まる見込みがなければ、わしも引き受けぬ。それくらいは調べておるぞ」
「それでも、ずいぶん大きな危険を負われたと思います」
「大尉、今宵の〈四紋章の盟約〉を見たであろう?」
「はい。アロイジウス猊下が公証され、聖録院に記録を残されたということですよね」
「そうよ。旧帝国以来の名門ケンペレン伯爵家、新たな聖爵位を得て勢いづくファウスティヌスの家。そして、若いながら、いずれ教国軍で重きをなすであろうマルケッルス卿を嫡子に持つルキアヌス銀葉子爵家。その三家が、今宵、当家を中心に盟約を結んだのだ。これからは船会社との交渉も当家が取りまとめ、四家で力を合わせていくことになろうぞ」
侯はそこで、フェリックスを見た。
「さて、ミッターマイヤー大尉。次に別の大きな仕事を始めるとき、あの三家はまず誰に相談するであろう?」
「……閣下でしょうか」
「そうなれば結構。それだけではないぞ。あの侯爵家は約束を守る、困ったときには金も人も出してくれる。そう思ってもらえれば、話を聞いたほかの家からも頼み事が来るようになる。頼りにされる家には、人も仕事も集まるものよ」
「なるほど。信用と影響力、ということでしょうか」
「うむ。今宵の盟約は、聖録院にも公的な記録が残る。四家が何を約束し、誰がどれだけ責任を負ったか、すべての教国貴族の知るところとなる。わしが三家のために大きな銭を出したことも、忘れてはもらえまいな」
侯は愉快そうに笑った。
「保証は二十年だが、四家の付き合いまで二十年で終わるわけではあるまい。わしの家は、あと五百年は続けるつもりでおるのでな」
フェリックスは思わず侯の横顔を見た。
「……五百年先まで、お考えなのですか」
「ほっほっほ! 五百年前の御先祖に負けるわけにはいかぬからの。もっとも、まずは来年の定期船を走らせねばならん。荷が集まらず、わしの金ばかり出ていくようでは、せっかくの盟約も笑い話になってしまうわ」
侯は楽しそうだった。
「もっとも、次の宴の酒まで出させられるとは思わなんだがの。あれはまったく余計よ」
フェリックスが笑うと、侯は今度は彼に尋ねた。
「ところで大尉。卿は、どちらに勝ってほしかった?」
「ケンペレン伯です。初めは」
「初めは、か」
「港の人々が定期船を楽しみにしていると聞けば、応援したくなります。梨も本当においしかった。ですが、金枝伯の港にも働く人々がいるでしょうし、あちらなら周辺からも荷を集められる。途中から、どちらがよいのか分からなくなりました」
侯は頷いた。
「ケンペレン伯には、帰ってからもう一仕事残っておるぞ。船が来ると楽しみにしていた領民たちに、寄港は見送ると説明せねばならん。伯爵家の負担が軽くなる、経済的には『利』がある、と聞かされても、素直に喜べぬ者はおろうな」
「それでも、伯は譲られました」
「うむ。自分の港へ船を呼べるところまで話を進めたうえで、金枝伯に寄港を譲ったのだ。しかも、あそこまでわしの言質を取ってからな」
侯は愉快そうに笑った。
「よく攻めたし、引き際も見事であった。あれで伯の面目が損なわれたなどと、誰が言えようか」
フェリックスは、最後に頭を下げた老伯爵の姿を思い出した。
「……皆様は、ああして長年、家を守ってこられたのですね」
「残った家もあれば、残らなんだ家もある。わしの家が五百年続いたのは、五百年放っておいたからではないぞ」
侯は袖口を直した。
「家名だけで人も船も動かぬ。頼んでも返事が来ぬとなれば、皆よそへ行くであろうな。金枝伯もケンペレン伯も、それを知っておるから、わしの前でも遠慮なく要求してくるのよ」
「それを、閣下はお許しになる」
「もちろん。わしの前で何も言えぬようでは、肝心な話をよそで決められてしまう。あの二人には、面と向かって言ってもらう方がよい」
フェリックスは、もう一つ気になっていたことを尋ねた。
「閣下がそこまで御負担を引き受けられたのは、侯爵家を頼る人々のためでもあるのですか」
「無論よ。明日も当家を頼る者がいてほしい。そのために銭を使う。わしは自分の家を栄えさせたいのだ。慈善家の顔を見せたくて銭を出したわけではないぞ」
侯は平然と答えた。
ふと、フェリックスは先ほどの銀器を思い出した。
「では、あの銀器を皆に見せると仰ったのも、金枝伯のお顔を立てるためだったのですか?」
侯は心外そうな顔をした。
「いや。あれは、単にわしが見せて自慢したかったからよ。何しろ、たいそう高かったのでな。あれほど銭を払ったのだ。皆に見てもらい自慢せねば、割に合わんわい」
侯はそう言って、愉快そうに笑った。
「……そうでしたか」
「何でも駆け引きにするでない。あの葡萄の蔓の細工は、本当に見事なのだぞ」
「はい。拝見して、よく分かりました」
侯は満足そうに頷き、また歩き始めた。玄関が近づき、客を送り出す家令の声が聞こえてくる。
「大尉、また参るがよい。まだ食べてもらっておらぬ料理がある。それに、五百年にわたる当家の引き際の歴史も語っておらん。あれは一晩では到底終わらぬからのう」
「ぜひ、また伺わせてください。ただ、五百年分のお話となると、一度の晩餐では足りそうにありませんね」
フェリックスは、来たときよりも深く一礼した。
***
迎えの支度が整うまで、フェリックスはマルケッルスと並んで庭を眺めていた。
侯はほかの客を送るために離れ、二人のそばには誰もいなかった。夕方には明るかった水盤に、今は小さな灯が映っている。
「……それにしても、ああいう話はどうも苦手だ」
「ああ、縁談の話か。お前、金枝伯相手にはあんなに堂々と値切ってたのに、あの手の話には弱いんだな」
マルケッルスは苦笑した。
「そういえば、さっき話に出ていた辺境司牧院のエリーゼ・ノイマン嬢。お前の昔からの知り合いなのか?」
マルケッルスは照れくさそうに笑った。
「ああ。子供の頃からの幼馴染だ。俺は貴族の家の息子で、あいつは平民だったけど、昔からよく一緒に遊んでいた。家の荘園に古い水門があってさ、二人でよくそこへ遊びに行ったんだ。あるとき、ひどい目に遭ってね」
「何があったんだ?」
「泥に靴を取られた」
「靴?」
「水門の近くがぬかるんでいてさ。足を引き抜いたら、靴だけ泥の中に残ったんだ。俺が片足で立っているのを見て、あいつ、大笑いしてたよ」
フェリックスも笑った。
「そりゃ笑うだろうな」
「ひどい話だろ? でも、エリーゼがあんまり楽しそうに笑うもんだから、俺までおかしくなってさ。二人で大笑いしたよ。結局、片足だけ裸足で家まで帰って、こっぴどく叱られた。今でもよく覚えてる」
マルケッルスは、懐かしそうに笑っていた。
「……なあ、マルケッルス」
「何だ?」
「お前、そのノイマン嬢のことが好きなんだろ?」
マルケッルスは口を開きかけ、そのまま黙った。
「……どうして分かった?」
「好きでもない女から泥にはまって笑われた話を、そんな嬉しそうにする奴がいるかよ!」
「……うむ、そういうものか」
「そういうものだろ!」
二人は声を上げて笑った。
「で、ノイマン嬢本人にはもう好きだと言ったのか?」
「いや、それがまだなんだ」
「なんだよ。大貴族相手にはあれだけ堂々とできるのに、好きな女には奥手なんだな」
「……返す言葉がない」
「準備は得意なんだろ。そっちの方も何とかしろよ」
「仕事とは違う。女心というものは、正直よくわからん。それができれば苦労しないさ」
マルケッルスは苦笑し、それから少し真面目な顔になった。
「それに、今はエリーゼも忙しくてさ。今度、うちの家の診療所で使う物資や生活用品が、聖都の港にたくさん届くんだ。あいつは辺境司牧院の職員としてその受け渡しを担当してる。俺も何か手伝ってやりたいんだけど……」
「考えるまでもないな。手伝ってやれ」
「俺は軍人で、一応〈聖章貴族〉だ。勝手に口を出すと大ごとになって、かえってあいつの迷惑になるかもしれないんだ」
「だったら、本人に聞けばいいだろ」
「エリーゼに?」
「ああ。何か手伝えることはないかって。お前の家の診療所に届く荷物なんだろ? 受け取る側でできることだってあるんじゃないか」
「……そうか」
「必要ないと言われたら、引っ込めばいい。勝手に動くから大ごとになるんだろ?」
マルケッルスはしばらく考えていたが、やがて笑った。
「お前に言われると、ずいぶん簡単な話に聞こえるな」
「そうか? 俺には、金枝伯と交渉する方がよっぽど難しそうだけどな」
マルケッルスも笑った。
「ありがとう、フェリックス。見送りのつもりが、相談に乗ってもらっちゃったな」
「気にするなよ。俺も、来る前は退屈な晩餐会になると思ってたんだ」
「楽しめたか?」
「もちろん。料理もうまかったし、話も面白かった」
「そうだ、聖都の中央宇宙港に興味はないか? 軍港の方はさすがに無理だが、民間港の方は見学を手配できると思う」
「それは面白そうだ。ぜひ頼む」
迎えの係官が回廊の入口に姿を見せた。家令から梨を詰めた小さな箱を受け取り、フェリックスは礼を言った。
ミナに今夜の話をするなら、今度は二十分では到底足りそうになかった。
マルケッルスと握手を交わし、侯爵邸をあとにした。
外へ出ても、庭から流れてくる水音はしばらく聞こえていた。
――「よって、我はその場に臨席する」
次回、『銀葉子爵の求婚』
【設定解説】神聖黄金樹教国の貴族制度について
神聖黄金樹教国の貴族社会を理解するには、旧帝国から受け継がれた世俗貴族と、教国独自の栄誉制度である〈聖爵位〉を区別する必要がある。
ローエングラム朝の成立により、旧ゴールデンバウム朝以来の門閥貴族は、かつての政治的特権と支配的地位を失った。しかし、長い年月をかけて蓄積された財産、人脈、家門の名声までが、一朝にして消滅したわけではない。旧帝国に居場所を失った貴族たちの一部は、後に神聖黄金樹教国の成立に加わり、あるいは教国の支配領域へ移住して新たな社会的地位を築いていった。
教国では、旧来の爵号と並んで新たな栄誉の体系が成立した。
これが〈聖爵位〉である。
聖爵位は五等に分かれ、その序列は次のとおりである。
・第一等 聖樹公爵(せいじゅこうしゃく)
・第二等 聖冠侯爵(せいかんこうしゃく)
・第三等 金枝伯爵(きんしはくしゃく)
・第四等 銀葉子爵(ぎんようししゃく)
・第五等 白綬男爵(はくじゅだんしゃく)
これらの爵号は、教国の信仰の象徴である黄金樹に由来する。
旧帝国で伯爵だった人物が、教国において自動的に金枝伯爵となるわけではなく、叙爵は別個の栄誉として扱われる。
さらに、教国には〈聖名〉という独自の授名制度が存在する。
聖名は単名、二重聖名、三重聖名などに分かれるが、名の数による法的な序列は存在しない。
それにもかかわらず、旧門閥貴族の間では、三重より二重、二重より単名を格上とする非公式な慣行が生まれた。名の由緒や、第一名にいかなる神名・聖者名が置かれたかも、貴族社会における評価の対象となった。
こうした制度の併存によって、教国の上流社会には複雑な序列が形成された。
旧い家名と爵号を誇る者、新たに授けられた聖名や聖爵位を重んじる者、そして双方を使い分ける者が、同じ社交の場に集うことになったのである。