【神聖黄金樹教国 聖都ラディークス 中央宇宙港近くの酒房】
医薬品が無事に侯爵家の保管倉庫へ収まったとの連絡を受け、フェリックスとマルケッルスは酒房へ入った。
教国軍の若い士官もよく使う店らしく、マルケッルスは奥の個室へ迷わず進んだ。
最初の一杯は二人だけで静かに飲んでいたが、どこから聞きつけたのか、ほどなくマルケッルスの同期や友人の教国軍士官たちが顔を出し始めた。
最初に二人だった卓は、いつの間にか七、八人になっていた。
「マルケッルス、婚約おめでとう!」
「してない!」
最初は皆、マルケッルス本人が照れて否定しているのだと思ったらしい。
ところが、聖王陛下まで現れたのに求婚せず、最後には葬送曲まで流れたと聞くうちに、一人の若い士官が急に杯を置いて立ち上がった。
背筋を伸ばし、両踵を揃える。まるで本当に上官へ戦況を報告するような姿勢だった。
「第一聖団司令部へ戦況報告!」
周囲の士官たちは、こういう悪ふざけには慣れているらしい。一斉に顔を上げ、もっともらしく姿勢を正した。
「銀葉子爵マルケッルス・セウェルス・ルキアヌス聖一尉、聖都中央宇宙港において敵と接触!」
「エリーゼは敵じゃない!」
マルケッルスが叫んだが、報告役の士官は取り合わず、そのまま続けた。
「戦況は!」
「侯爵家の介入を受け、包囲完成。聖王陛下まで戦場へ親臨!」
笑い声が上がった。
別の若い士官がフェリックスを指した。
「見よ! さらに敵一名、すでに我が陣内への侵入を確認!」
「誰のことだ?」
「銀河帝国軍大尉、フェリックス・ミッターマイヤー!」
一斉に視線を向けられ、フェリックスは杯を持ったまま眉を上げた。
「俺まで敵なのか?」
「当然です、ミッターマイヤー大尉。現在、我が国と帝国とは交戦中ですので」
「その敵と一緒に酒を飲んでていいのか?」
「敵、我が聖なる酒糧を消費中!」
「図々しい敵だ! 捕虜にして酒代を払わせろ!」
「今日は俺が払えってことか」
今度はフェリックスまで笑った。
マルケッルスは額を押さえていたが、もう止められない。
「銀葉子爵、退路なし!」
「援軍は!?」
一同がフェリックスを見た。フェリックスは少し考えてから答えた。
「……ないな。あれは無理だ」
「フェリックス、お前まで乗るな!」
「最終状況!」
フェリックスは杯を置いた。
「葬送曲が流れた」
一瞬、個室が静かになった。
若い士官たちは一斉に立ち上がり、整列した。右手を左胸から顔の右側へ引き上げ、掌を向けて三指を開く〈聖枝礼〉をマルケッルスへ捧げた。
「「「銀葉子爵、戦死!」」」
一斉に唱和すると、そのまま全員で床へ倒れ込んだ。
フェリックスは堪えきれずに笑った。
そのあとは、同じ話を肴にしてずいぶん酒が進んだ。
いつもなら髪も軍服もほとんど乱さないマルケッルスも、夜が更けるころには襟元を緩め、額へ落ちた前髪をかき上げながら、何度目か分からない抗議をしていた。
それでも酒を運んでくる店員には礼を言い、杯を倒した友人がいれば自分で卓を拭くあたりは、酔っても変わらなかった。
夜が更けてから、一度だけ彼は静かになった。
「俺は、ただ少しでもエリーゼを楽にしてやりたかっただけなんだ」
友人の一人が頷いた。
「分かってるよ。お前はそういう奴だ」
マルケッルスはしばらく杯を眺めていたが、やがて顔を上げた。
「明日、ちゃんと謝る」
それで話は終わった。少なくとも、そのはずだった。
結局、夜中にまた誰かが「戦況報告!」と立ち上がり、マルケッルス自身まで「侯爵家が介入したのはそこじゃない」と訂正を始めた。
フェリックスは最後に時計を見た時刻を、翌朝にはもう覚えていなかった。
***
【翌朝 聖都ラディークス・中央宇宙港 民間貨物区】
貨物取扱事務棟には、荷主や運送会社の担当者が手続の合間に使う小さな待合区画があった。
侯爵家の家令と港の担当者が来るまでのあいだ、マルケッルスはそこの長椅子に腰を下ろし、額に手を当てていた。
「少しは楽になったか?」
「…頭が割れるようだ」
「飲みすぎたな」
「潰れるまで飲もうと言ったのは、お前だぞ」
フェリックスは返事の代わりに水を飲んだ。
昨夜の後半は、誰が誰に酒を注いでいたのかも定かではない。
ただ、第一聖団の連中が最後まで何度も、
――銀葉子爵、戦死。
と唱和していたことだけは、妙にはっきり憶えていた。
思い出して口元が緩むと、隣から低い声が飛んできた。
「……笑うなよ」
「まだ何も言ってない」
「顔がもう笑ってる」
フェリックスは水をもう一口飲んだ。
侯爵家の家令が迎えに来ると、マルケッルスとフェリックスは打合せ室へ向かった。グレーフェンベルク侯とエリーゼが待っていた。
「マルケッルス卿。昨日はわしも、少々やりすぎたようだの」
「……少々、でございますか」
「ノイマン嬢にも、気の毒なことをしたな」
侯爵家からは、二人が求婚の式を申し込んだという話もすでに訂正されていた。
「それで、薬の荷はどうなった?」
「倉庫で預かっていただいています。あとは、積める便が見つかれば……」
侯が家令に命じ、第三聖団司令ジェイク・カザリスへ通信をつないだ。
『そっちへ向かう便はあるぜ。ただ、もう積荷が決まってる。他の荷主と話をつけてもらわないとな』
示された便名を見て、マルケッルスが顔を上げた。
「その便には、当家も家財を積む予定です。そちらを後便に回して、薬を載せていただけませんか」
エリーゼが彼を見た。
「待たせてしまって、大丈夫なの?」
「ああ。俺の荷だから構わない。家の者には俺から話すよ」
『変更には費用が掛かるぞ』
「私が負担します。それと、昨日お願いした荷の優先扱いも取り下げさせてください」
侯が頷いた。
カザリスが担当者を動かし、ほどなく代替便への積込みが決まった。
荷場へ出ると、紋章の付いた家財箱が保管区画へ戻され、代わりに医薬品の容器が船内へ運び込まれていた。
「これで、送れます」
エリーゼが安堵の息をついた。
マルケッルスも、最後の容器が船内へ収まるまで見届けた。
エリーゼが端末を閉じると、マルケッルスが声をかけた。
「少し、話してもいいか」
「ええ」
二人が通路の端へ寄ったので、フェリックスは少し離れ、荷場を眺めて待った。
「昨日は悪かった。君に相談せずに、勝手に話を広げてしまった」
エリーゼはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「私も、ごめんなさい。私のことを気遣って、いろいろしてくれたのは分かっていたのに、あんな言い方をしてしまって」
「いや、俺が悪かったんだ」
「でも、ああいうのは、もう困るわよ」
「俺も、二度と御免だ」
エリーゼの口元が緩んだ。
「あなた、私より驚いた顔をしていたものね」
「あんな姿で出てくるとは思わなかったからな」
「用意いただいた着替えを断れば失礼に当たると思ったのよ。こんな説明の仕方があるのかしら、とは疑問に思ったけれど」
「俺は聖王陛下までいらしたところで、頭が真っ白になった」
マルケッルスは少し迷ってから、言葉を継いだ。
「……でも、あのときの君は本当に綺麗だった。
エリーゼは一瞬、彼を見つめた。それから、少し照れたように笑った。
「……そういうことは、もう少し普通のときに言ってほしかったわ」
「昨日は、それどころじゃなかったからな」
「そうね。私もよ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
やがてエリーゼが、改めて口を開いた。
「それと、荷物のこと。本当にありがとう、マルケッルス。助かったわ」
「ああ。間に合ってよかった」
「食事の話も、落ち着いたらまた相談しましょう」
マルケッルスは顔を上げた。
「……ああ。なくなったわけじゃなかったんだな」
***
積荷変更の手続を終えたあと、フェリックスたちは空港の共用待合室を通った。
頭上では、黄金樹の光でできた枝が行先別の搭乗区画へ伸び、葉に浮かんだ便名が次々と入れ替わっていた。窓の向こうでは、旅客船が係留設備を離れていく。その下を小さな連絡艇が横切り、接舷を待つ別の船がゆっくり近づいてきた。
待合の一角では、船会社の職員と船長らしい男が話し込んでいた。
「その航路は、今回は御勘弁ください。船員が嫌がっているんです」
「おたくもですか?別の便を探すにしても、今月は断られてばかりでしてね」
「積荷の問題じゃありませんよ。生きて帰れるかどうかの話です」
フェリックスがそちらを見ていると、船会社の職員が気づいて声をかけてきた。
「辺境航路の船が、最近なかなか決まらないんです。中央港はこのとおり賑やかですが、向こうまで行くとなると話が違うようで」
「宇宙海賊ですか?」
「ええ。しかも、妙な連中が出るそうなんですよ」
船長が振り返った。
「あの『提督』たちのことかね」
「提督?」
「戦死したと思われていた旧同盟軍の将官が二人、生きていて海賊をやっているって話ですよ。『グエン・バン・ヒュー』と、『サンドル・アラルコン』とかいう提督らしいです。元気に辺境を荒らしまわっているそうです」
フェリックスは思わず聞き返した。
「……その二人ですか?」
「大尉は御存じで?」
「ええ、士官学校の戦史で名前が出てきました。たしか第八次イゼルローン要塞攻防戦で、二人とも戦死しているはずですが」
「話す人によっても、違うんですよ」
船会社の職員が笑った。
「一隻の海賊船だという人もいれば、いや大艦隊だという人もいる。港を渡るたびに船が増えてるらしくて」
「噂だけなら、ずいぶん景気のいい話だな」
マルケッルスが言った。
「まだありますよ。海賊団の参謀は、なんと帝国の軍務尚書だそうで」
「……軍務尚書?ケスラー元帥のことですか?」
「いえ、パウル・フォン・オーベルシュタイン元帥です。ほら、昔、軍務尚書を務めていたでしょう」
フェリックスは、しばらく相手を見た。
「……オーベルシュタイン元帥も、二十年以上前の先帝陛下の時代に亡くなっているはずですが」
マルケッルスは口元を押さえた。
「俺の知っている戦史でも、三人とも死んでいるはずだぞ」
そこへ、先ほどの船長が口を挟んだ。
「海賊団が〈アケロン連合〉とか名乗ってるって話も聞いたぞ。ずいぶん悪さをして暴れているらしい」
「それは違うんじゃないですかね?私の知り合いは、海賊には荷を盗られたけど、故障した機関を直して助けてもらったと言ってましたよ。グエン・バン・ヒュー提督とアラルコン提督と、あとオーベルシュタイン元帥の三人がいる海賊団に助けられたとか言ってました」
何人かが笑った。船長は続けた。
「だが、別の港では乗員が連れていかれて売られた、とも聞いた。戻ってこない船もたくさんある。あれもグエン・バン・ヒューとかいう元提督の海賊団の一味なのかね」
フェリックスは尋ねた。
「その話は、実際に襲われた船の人から聞いたんですか?」
「いや、俺は別の船長から聞いた。そいつも現場を見たわけじゃない」
「その件なら、ちょうど話を聞いていただける方がいます」
船会社の職員が、通路の向こうを見た。
「港の関係者と海賊対処の打合せをなさっていた、教国軍第四聖団の艦隊司令の方です」
***
灰褐色の軍服を着た男が、数名の担当者とともに別棟から出てきた。まだ若い。港の職員に呼び止められると、足を止めて短く答え、手元の資料を返している。
係官がフェリックスたちの来訪を伝えると、男は二人の方へ歩いてきた。
「第四聖団〈ディス〉艦隊司令、イリヤ・ラザレフ従聖将だ」
「銀河帝国軍大尉、フェリックス・ミッターマイヤーです」
ラザレフの名は、フェリックスも知っていた。ロフォーテン星域会戦で、ギールケ中将の艦隊に正面から猛攻を加えた〈ディス〉の指揮官である。
フェリックスは、目の前の男を改めて見た。あの戦いを指揮した人物が、これほど若いとは思っていなかった。
「大尉の名前は聞いている。帝国皇帝の副官として、ずいぶん活躍しているそうだな」
ラザレフが言った。
「港を見て回っているそうだな」
「はい。貨物の受渡しを見せてもらっていました。ところで、さっき少し変わった海賊の噂を聞いたんです」
「海賊?」
「二十年以上前に死んだはずの旧同盟軍の提督二人が、オーベルシュタイン元帥を参謀にして海賊をやっているそうです」
ラザレフは一度、船会社の職員の方を見た。
「……あの三人組の話か。死んだ提督やら軍務尚書やらが海賊をやっているというのは、ただの与太話だろう」
船長が頭をかいた。
「ですが閣下、実際にその三人組に襲われた船はあるんです」
「ああ。それは疑っていない。実際に遭遇した者から話を聞きたいんだ。連絡先を教えてもらえるか」
船長が調べ始めると、ラザレフはフェリックスたちを待合の奥へ案内した。
「海賊討伐は難航しているのですか?」
フェリックスが尋ねた。
「居場所がつかめん。通報を受けて向かっても、着いたときには逃げたあとだ。商船に紛れられると、怪しいというだけで止めるわけにもいかん」
「〈アケロン連合〉という海賊船団の名前も聞きました。あの三人組と同じ連中なのでしょうか」
「そこは、まだ分からん。ただ、海賊被害の報告には、手口がまるで違うものが混じっている」
「といいますと?」
「金品を奪っても乗員は解放する。故障した船をわざわざ戻ってきて修理していったという話まである。一方で、船ごと姿を消し、乗員の行方も分からなくなった事件もある。降伏した船員を面白半分に殺したとか、人身売買や違法薬物の売買の疑いも出ている」
「ずいぶん違いますね」
マルケッルスが言った。
「ああ。同じ連中の仕業なのか、別の海賊が混じっているのか、それすらはっきりしない。実際に遭遇した者から地道に話を聞いていくしかないな」
フェリックスが頷くと、ラザレフは思い出したように言った。
「そうだ、大尉。今夜は何か予定があるか?」
「いえ。今日の用務が済めば、特には」
「俺の艦隊が、いまちょうど聖都に寄港している。今夜は下士官や兵たちと一緒に飯を食うことになってるんだ。大尉も来ないか?」
「閣下の艦隊の旗艦へ、ですか」
「ああ。ただし、艦橋や作戦区画はもちろん見せん。案内できるのは来客区画と酒保だけだ。保安担当にも話を通しておくが、それでよければ歓迎するぞ」
フェリックスは笑った。
「ぜひ伺いたいです。こちらの軍艦に乗せていただく機会も、そうありませんから」
「よし、決まりだ。今日の用務が終わったら、迎えの車を回す。腹を空かせて来いよ」
「ありがとうございます。楽しみにしています」
ラザレフは満足そうに頷いた。
***
【同日夕刻 聖都ラディークス・帝国連絡用通信室】
帝都との定時通信が始まった。
フェリックスが所在とその日の行動を報告すると、帝都側の担当者が応答し、しばらくして画面が切り替わった。
映ったのは、獅子の泉の〈北辰の間〉だった。
軍議を終えたばかりらしい。
宇宙艦隊司令長官ミッターマイヤー元帥が正面に座り、その周囲には、まだ席を立っていない元帥たちの姿があった。遠隔参加者の通信窓も、いくつか開いたままだった。
『フェリックス。調査は順調に進んでいるか』
「はい。今日も問題ありません。ですが、少し妙な話を聞きました」
『妙な話?』
「こちらでは、二十年以上前に死んだはずの旧自由惑星同盟軍の提督二人が生きていて、海賊をやっているという噂があるそうです。グエン・バン・ヒューと、サンドル・アラルコンという提督です」
画面の向こうで、何人かが顔を見合わせた。
ビッテンフェルトが最初に口を開いた。
『……誰だ、そいつらは?』
ミュラーも記憶を探るような顔をした。
『グエン……?そんな奴、いたか?』
『もう一人の奴の名も、覚えがないな』
ワーレンが言った。
メックリンガーが卓上の端末を引き寄せた。
『記録を見るのが早いだろう』
数秒後、古い戦史記録が開かれた。
『グエン・バン・ヒュー少将。サンドル・アラルコン少将。第八次イゼルローン要塞攻防戦で、敗走する帝国軍を追撃……』
ミッターマイヤーが手元の記録に目を落とした。
『……ああ』
「父上、思い出しましたか?」
『戦闘はな』
ミッターマイヤーは、記録をもう少し読んだ。
『ロイエンタールと俺が増援として到着したとき、突出してきた同盟軍を挟撃した。その部隊を指揮していたのが、この二人だったらしい』
ビッテンフェルトが眉を寄せた。
『「だったらしい」とは、なんだ。卿が戦った相手だろう』
『戦闘は覚えている。だが、指揮官の名は覚えておらん』
ミュラーも端末の記録を見た。
『二人とも、その戦闘で戦死となっていますね』
『勝手に名を騙っている海賊がいるだけではないか』
ワーレンが言った。
「俺もそう思ったんですが、この話にはまだ続きがありまして」
『まだあるのか』
「その海賊団には、『軍務尚書』と呼ばれている参謀がいるそうです」
メックリンガーが軽く眉を上げ、軍務尚書であるケスラーの画面の方を見た。
『ほう。海賊がケスラーの肩書を騙るとは、なかなかの度胸だな』
「……いえ、ケスラー元帥ではありません。先帝陛下の時代に軍務尚書を務めておられた、パウル・フォン・オーベルシュタイン元帥です」
今度は、誰も端末を見なかった。
アイゼナッハが、口へ運びかけていたカップを持つ手を止めた。
『オーベルシュタインだと!?』
ビッテンフェルトの大声が、通信越しに響いた。
メックリンガーが、ゆっくり椅子の背にもたれた。
『……そちらは、記録を引く必要がないな』
『当たり前だ!』
ビッテンフェルトが怒鳴った。
『よりによって、あの男が生きていて、辺境で海賊の参謀をやっているというのか!?』
ミュラーが顔を伏せた。肩がわずかに動いている。
ビッテンフェルトは腕を組んだ。
『だいたい、あの男を参謀に据えるとは、その頭目も物好きな奴だ。俺ならいくら積まれても御免こうむるぞ』
メックリンガーが笑った。
『それほど嫌か?オーベルシュタインが死んで、もう二十年以上になる。故人については、良き思い出ばかりが残るものだというが』
『あの男に良い思い出など一つもないのに、何を残せというのだ!』
ミュラーがとうとう声を立てて笑った。ワーレンも、口元を緩めている。
フェリックスも笑ったが、父たちがオーベルシュタインの話をしているのを、久しぶりに聞いた気がした。
新帝国の成立を学べば、初代軍務尚書の名は何度も出てくる。
父に尋ねても、その能力や功績については教えてくれた。だが、昔の仲間の話をする席で、自分からその名を出すことはめったになかった。
フェリックスがよく覚えているのは、「あのオーベルシュタイン」と言うときの、父の吐き捨てるような声だった。何か悪口を続けるのかと思って待っていても、それで終わってしまう。
ミュラーからは、オーベルシュタイン元帥が犬を飼っていたという話を聞いたことがある。元帥本人が何を好んで食べたのかは誰も知らないのに、その犬が柔らかく煮た鳥肉を好んで食べたことは知っていた。
ビッテンフェルトに尋ねたときだけは、話がなかなか終わらなかった。
画面の向こうでは、メックリンガーが笑いながら何かを言い、ビッテンフェルトがまた言い返していた。父も笑っている。今のところ、故人のために取りなす者はいなかった。
ミッターマイヤーは、フェリックスへ向き直った。
『それで、実際に海賊の被害はどの程度出ているのだ』
「辺境では、海賊を恐れて運航を断る船が増えてきているそうです。先ほど港で、教国軍第四聖団のイリヤ・ラザレフ従聖将と知り合いました。被害に遭った船の証言を集めておられました」
『ラザレフ?たしか、〈ディス〉艦隊の司令だったな』
「はい。今夜は夕食にも誘われています。旗艦が聖都に寄港していて、下士官や兵たちと一緒に食べるそうです。艦橋や作戦区画には入れないが、酒保なら歓迎すると」
ミッターマイヤーは少し意外そうな顔をした。
『そうか。海賊については、何と?』
「金品を奪われただけの船もあれば、乗員ごと帰ってこない船もある。同じ連中の仕業かは、まだ分からないそうです」
ケスラーが口を開いた。
『〈アケロン連合〉という名は、そちらでは出たか?』
「はい、その名も出ました。あの提督と軍務尚書の三人組と同じ一味だと言う人もいましたが、詳しいことはよくわかっていないみたいです」
『実は最近、帝国の支配領域でも〈アケロン連合〉を名乗る海賊団の被害が続いていてな。……散発的な強盗船と片づけられる相手ではない』
フェリックスは画面を見た。ケスラーは卓上の端末へ一度目を落とし、続けた。
『正規軍の軍艦を改装した艦が複数確認されている。集結と分散を繰り返し、こちらがまとまった戦力を向ければ、戦果に執着せず離脱する。教国支配圏へ逃げ込む例も多い』
『海賊を追っているというだけで、教国の支配圏へ艦隊を入れるわけにはいかんからな』
ミッターマイヤーが言った。
『しかも、逃げ方が巧い』
ケスラーは続けた。
『前衛と後衛を交代させ、損傷艦を下げながら追撃を振り切る。複数方向から援護も入る。個々の艦長に経験があるだけでは、ああは動けん』
『正規の参謀教育を受けた者がいるのか』
『ああ、おそらくな。それに加えて、実際に艦隊を指揮した経験を持つ軍人が、船団全体の運用に関わっていると見ている』
ミッターマイヤーは黙った。ビッテンフェルトも、今度は口を挟まなかった。
『三人組の噂と、どこまで重なるかは分からん。だが、相当数の艦を持ち、正規軍に近い動きをする集団が、帝国領でも活動している。それは確認できている』
「ラザレフ従聖将も、通報を受けて向かうころには、別の航路へ移っていると話していました」
『教国側も手を焼いているわけだな』
ワーレンが言った。
『まずは、どの船がどこで襲われたかだ。海賊の名は、噂を聞く相手によって変わりかねん』
ミッターマイヤーが頷いた。
『現地で新しい被害の話を聞いたら、次の通話で知らせろ。民間から聞ける範囲で構わん』
「分かりました」
『それから、フェリックス』
「はい」
『ラザレフとの夕食はよいが、余計な正義感で海賊の正体を一緒に確かめに行こうなどと思うなよ』
「そのつもりはありません」
『本当だな』
「本当です。俺の任務じゃありません。わざわざ教国まで海賊を探しに来ているわけじゃありませんから」
父はまだ何か言いたそうだったが、やがて頷いた。
「では、明日また連絡します」
『ああ』
フェリックスが敬礼すると、画面の向こうでも父が返した。
フェリックスの返事に嘘はなかった。自分から海賊を探しに行くつもりなど、少しもなかったのである。
だが、海賊の方からやって来ることまでは、考えていなかった。
***
【同日 教国領辺境 某宇宙港】
その辺境の港には、正規の商船ばかりでなく、船籍の怪しい艇や密輸船も出入りしていた。
港の外れにある酒場も、そうした船の乗組員や修理工たちが集まる場所だった。客同士、どこで何を積み、どんな商売をしているかについては、あまり詮索しない。
その酒場の扉が開いた。
先頭に立って入ってきたのは、白いものの混じった髪と髭の大男だった。
その後ろを、少し猫背の男が歩いている。
さらに一人、痩せた半白髪の男が続いた。
奥の席では、三人を見て露骨に顔をしかめる者もいた。
店の奥で話していた船員が、声を落とした。
「……おい」
「何だよ」
「あれじゃないか?」
何人かが入口を見た。
「たしかに、グエン・バン・
グエン・バン・
アラルゴンが横目で見た。
「頭ぁ」
「何だ」
グエンは何事もなかったように歩き出した。
ただし、さっきまでより胸が張っていた。
三人が店内を進むにつれて、囁きが後ろから追ってくる。
「……グエン提督、本当に生きてたのか」
「昔、帝国の双璧とやり合ったっていう……」
「ああ。隣は
「じゃあ、あの後ろの痩せたのが」
一人が息を呑んだ。
「軍務尚書……」
グエンの口元が動いた。
後ろから静かな声がした。
「頭目」
「何だよ、軍務尚書」
「先ほどから歩き方が変わっています」
「何だ!」
「いえいえ。何でも」
三人は空いていた卓へ着いた。
グエンが椅子を引いていると、近くにいた若い船員が、ためらいながら声をかけてきた。
「あの……」
グエンは振り向いた。
「何だ」
「グエン提督……ですよね?」
グエンはすぐには答えなかった。
椅子へ腰を下ろし、卓上の酒の一覧を手に取った。それから、ゆっくり相手を見る。
「……今はただの海賊だ」
アラルゴンが額を押さえた。
若い船員の目が輝いた。
「やっぱり!」
「何が『やっぱり』なんですかねぇ……」
グエンは聞こえないふりをした。
「昔のことは、まあ……いろいろあったさ」
「あのミッターマイヤーやロイエンタールとも戦ったのでしょう?」
近くの卓まで静かになった。
グエンは腕を組んだ。
「……戦場ってのはな。長くいりゃ、いろんな奴と出会うもんだ」
何も答えていなかった。
だが聞いていた者たちは、十分な答えを得た顔をした。
「本物だぜ……」
「帝国の双璧を騙して、生きて帰っていたのか。すげえ……」
グエンは酒の一覧へ視線を落とした。
アラルゴンが身を寄せた。
「頭ぁ。軍務尚書に、外では昔の話をするなって言われたでしょう」
「俺は何も話してねえだろうが」
「話してないのに、何で皆さん感動してるんですかねぇ」
「知らん」
向かいの席で、軍務尚書が料金表を見ていた。
「頭目」
「今度は何だ」
「この店の酒価は近隣の相場を三割ほど上回っています。頭目が二杯以上注文なされば、次の寄港地までの食費を再検討する必要があります。どうか一番安い酒を、お選びください」
「……オーベル、いや軍務尚書、お前なあ。今この流れで金の話をするか?」
「評判で代金を支払えるのであれば、問題にはなりません」
グエンは料金表を引き寄せ、しばらく酒の値段を見比べた。
結局、三人とも一番安い酒を注文した。
*
酒が運ばれてくるころには、周囲の客も遠慮がなくなっていた。
「グエン提督、最近はどの辺を根城にしてるんです?」
「そんなもの教える海賊がいるか!」
笑いが起きた。
「やっぱり本職だ」
「当たり前だ!」
グエンは杯をあおった。
別の卓の男が言った。
「でも、最近の海賊は洒落になりませんぜ。船を襲うだけじゃなく、乗員までさらっていくって話です」
「船ごと消えちまったってのも聞いたな」
「それだけじゃありません。降伏した船員を面白半分に殺したとか、寄港地で薬を売りさばいているとか。ほかにも、ここじゃ話したくないような噂がいくらでもある」
「グエン提督の海賊団がやってるって話も――」
「待て」
グエンが言った。
さっきまでより声が低かった。周囲の話が止まった。
「……俺たちが、何をやってるって?」
男は少し身を引いた。
「いや、俺が見たわけじゃない。そういう噂が――」
「俺たちじゃねえ」
「でも、グエン提督の一味だって言ってる奴も――」
「俺たちはそんな外道はやらねえ!」
アラルゴンが顔を上げた。グエンは相手を見た。
「俺たちは荷は取る。金も取る。逃げようとすりゃ脅しもする」
「頭ぁ、そんな堂々と言わなくても……」
「黙ってろ!」
グエンは続けた。
「だがな。人間を売り物にしたり、降参した奴を面白がって殺したりだと?そんなことは絶対にしねえ!薬にも手は出さん!」
酒場は静かだった。
「そんな連中と一緒にされちゃ、たまらねえ!」
男が眉をひそめた。
「……あんたたち、海賊なんだろ?」
「ああ」
「だったら、何が違うんだ」
グエンは鼻を鳴らした。
「海賊にだって流儀ってもんがある」
アラルゴンが横から口を挟んだ。
「一つ、奪いすぎず。二つ、傷つけすぎず。三つ、外道はせず、ですよぉ」
少し間があった。
誰かが言った。
「……それ、胸張って言うことか?」
笑いが起こった。
「うるせえ! こっちだって好きで儲からねえ海賊やってるんじゃねえ!」
「頭ぁ! そこまで言ったら全部台無しですって!」
グエンは不機嫌そうに杯を置いた。
軍務尚書が静かに口を開いた。
「……頭目」
「何だ」
「どうやら、我々が行っていない犯罪まで、我々の名で語られるようになっているようです」
「見りゃ分かる!」
「放置すれば、今後さらに増える可能性があります」
「どうしろってんだ。港ごとに『俺たちは人さらいや人殺しじゃありません。脅して、物を奪うだけです』って看板でも出すのか?」
「それはお勧めしません」
「当たり前だ!」
アラルゴンが杯を持ったまま言った。
「でも頭ぁ、困りましたねぇ。伝説の提督って噂だけなら格好よかったのに」
「誰が格好つけてた!」
「さっきまでずっとつけてたじゃないですかぁ」
「つけてねえ!」
「歩き方まで変わっていました」
軍務尚書が言った。
「お前まで言うな!」
また笑いが起こった。先ほど残酷な海賊の話をしていた男も、少しだけ表情を緩めていた。
そこへ店主が料理を運んできた。
「お待たせしました、グエン提督」
グエンは顔を上げた。
「おう」
アラルゴンが勢いよく振り向いた。
「頭ぁ!」
「何だよ!」
「さっき『提督じゃねえ』って言ったばっかりでしょう!」
「飯が来たんだから返事するだろうが!」
「それとこれとは別なんですかぁ?」
「別だ!」
軍務尚書がグエンを見た。
グエンは口を閉じた。
「……何だよ」
「何も申し上げておりません」
軍務尚書は自分の皿を引き寄せた。
グエンはしばらく睨んでいたが、やがて料理へ手を伸ばした。
店の奥では、まだ誰かがこちらを見ている。
「……やっぱり、ただ者じゃねえな」
その声を聞いたグエンは、今度こそ何も言わなかった。
ただ、杯を持つ手が少しだけ高くなった。
アラルゴンは見なかったことにした。
***
【新帝国暦二十四年・聖暦二十三年四月末 神聖黄金樹教国 聖都ラディークス】
迎えの車が軍用宇宙港の保安ゲートに到着すると、フェリックスは一度降車し、身分と訪問許可の照合を受けた。
携帯端末も所定の手続で預けられ、車に乗り直すと、窓を覆う遮蔽シールドが下ろされた。
車はゲートを抜け、軍港の内部へ進んだ。
外の様子はまったく見えず、フェリックスには車がどの方向へ走っているのかも分からなかった。
しばらくして車が停止し、案内役の士官が扉を開けた。
フェリックスが車を降りると、目の前に巨大な灰色の軍艦がそびえ立っていた。
広大な地上係留区画に停泊した軍艦は、近くで見るといっそう巨大だった。
長大な艦腹には砲門が並び、幾重にも重なる装甲板の継ぎ目が見える。
周囲では整備用の車両が行き交い、作業員たちが昇降設備を使って艦内へ補給品を運び込んでいた。
第四聖団〈ディス〉艦隊の旗艦〈カロン〉だった。
迎えの車に同乗した教国軍士官によれば、〈ディス〉は古代ローマの冥府を司る神、〈カロン〉は死者の魂を冥府へ運ぶ渡し守の名だという。
ロフォーテン星域会戦で、〈ディス〉艦隊はギールケ中将の率いる帝国軍に正面から〈葬列〉という布陣をもって猛攻を加え、ホロウェイ従聖将指揮下の〈レムレス〉艦隊がその退路を閉ざした。
フェリックスは、しばらく車窓からその光景を眺めていた。
車は艦腹に沿って進み、乗員用の昇降設備の前で止まった。
出迎えの士官が一礼し、フェリックスを艦内へ案内すると告げた。
フェリックスは車を降り、頭上にそびえる灰色の船体を見上げた。それから軍服の襟を直し、士官のあとに続いた。
――「平和の中に、俺の居場所はありませんでした。戦争が俺を救ってくれたんです。……大尉、俺はあなたが好きですよ。でも、戦場で会ったら、存分に殺し合いましょう。そのあとは、冥府だかヴァルハラだかで、また一緒に飯を食いましょう」
次回、『戦争に救われた者たち』